また、今ではめっきり少なくなった彫り物を見る機会は銭湯を除いて他にはないと思われる。
鯉や牡丹、唐獅子、弁天、浪子燕青や倶梨迦羅紋紋は、江戸の職人芸として完成された日本の誇る芸術の一つである。公衆浴場によっては「刺青のある方はご遠慮下さい」という注意書きがあるのは事情はわかるが、残念である。しかし、実態は、そこにもしっかり刺青入りの客は時間帯を考えて来ているようだし、特に気にするものではないのかもしれない。
26日は風呂の日と称して、各銭湯ともさまざまなサービスがある。また、老人へのサービスもある。銭湯は自分の代だけであきらめ、「座して死を待つ」的な雰囲気のところが多く見られる。たしかに、廃業の多さからみると斜陽産業とも言えるが、一方多くの温泉浴場や一部の銭湯には客が増え始めている。風呂がないので、銭湯を利用したという時代はほとんど終わりかけているが、棺桶のような交流のないちゃちなうち風呂からの脱却が静かに進んでいるのである。世の流れを大局的に見て、社会の中での公衆浴場の役割を正面から考えて努力すれば、形は大きく変わろうとも社会の中での新しい銭湯の価値が見直されることになると信じている。そのためには、有益な情報の活用が重要である。
東京都の公衆浴場業生活衛生同業組合では1993年より「1010」(HomePage)という雑誌を隔月で刊行し無料で配布していて私も東京に行くと愛読している。その内容はともかく、できれば全国レベルで情報交換できるような雑誌があっても良いと思う。もちろん、紙面での情報は煩雑で、即時性に劣るので、その活用となるとHPやSNSなどの様々なネットが有効である。私も全国の銭湯ファンのメーリングリストに入って情報をやりとりしているがどちらかというと、廃業情報の方が多いのが残念である。
日本は全産業的に若い人材が不足気味だが、難しい時代の銭湯に至っては待ったなしで、若い意欲的な経営者が必要とされている。ところが、銭湯は地価の高い街中にあるのがあたりまえなので、固定資産税や相続税の問題で、なかなか銭湯を継がせることができにくいようになっているとも聞く。また、公衆浴場は公衆衛生上法律的にもさまざまな規制があって、変わった試みができにくいという欠点もある。
その中で、新しい感覚と熱意を持って、新しい銭湯の方向を探っていっている二世、三世の情報を聞くことがある。頼もしい限りだが、私個人は以前の銭湯の雰囲気の方が好きなのである。この矛盾に悩む今日この頃である。