馬場湯  (西予市卯之町2-347 廃業)

営業時間:15:00〜21:00 休日は1のつく日

 国道56号線を南下し、宇和町の中心地、卯之町に入ると右手に消防署がある。その斜め後ろにこの銭湯はある。よく見ると国道沿いからも、銭湯としては小さなトタンの煙突がのぞいている。消防署の横の路地に入ると、立派なイチジクの木のあるこの銭湯の裏手に出る。回り込むように進むと、ゆったりとした空間のある入口がある。商店街からは、宇和町小学校の中門の反対側の路地を入る。2台ほどおける駐車場もある。入り口前の黒板に書かれた「本日ゆわきます」を確認して、古いのれんをくぐると、広い脱靴場と立派な高い番台が目に入る。この番台は全体的にどっしりとした造りで、2人座ったり、寝そべることができるほどの番台の広さは他に類を見ない。番台の天井には小さな扇風機がぶら下がっている。床もきれいに磨かれており、天井のファンは心地よい風を送っている。小さい鏡の前には、断熱ポットに入った冷たい水とコップ、うちわも用意してある。ロッカーは右は鶴亀のアルミキー付き、左はIDEALとKINGのキーがついている。浴室への戸は珍しい立派な木製の大きな戸であり、そのガラスもきれいに磨かれている。女更衣室はついたてが大きいほか、頭全体を覆うドライヤーや、赤ん坊用の一段高い畳の空間がある。
 浴室にはいると目立つのは、東京では一般的だが愛媛県でもおそらくここだけの、正面の大きなペンキ絵である。今は少ない立ち枯れの目立つ大正池越しに見た穂高の山々が美しいが、タッチは大胆だ。作者の蔵田氏はここの主人と同い年で還暦を迎えて久しい宇和島闘牛の絵で有名な画家である。南海放送の取材で蔵田氏とも話したが、現地でスケッチし、写真も撮った光景を水性ペイントでモルタルの壁に直接描いたということである。一般に布や板の上に描いたペンキ画は15年くらいで描き直すのが一般的だが、「上高地 1963 kurata」のサインからみると、もう30年以上も前の作品ということになる。湯煙の中で見ると、もやに包まれた雪渓のある本当の山のように見える。私が最初に挑戦した日本アルプスが今考えると無謀ともいえる槍ヶ岳〜奥穂高〜西穂高縦走である。そのときの緊張を久しぶりに思い出した。主人の話ではこの絵を見て上高地へ旅行に行った人もいるという。
 南海放送の取材(H10.6.13)では女湯のペンキ絵も見ることができた。桜の仏花津峠から見た宇和海の島々が生き生きと描かれている。この絵は数年前他の画家によって補修されたとのことであった。

   浴室の右奥には、湯ノ花の入った薬湯がある。太い針金が電極になっている電気風呂でもある。板に書かれた注意書きがあるが、それを見逃してうっかりどぶんと電極近くに入る可能性もあるので注意が必要である。他には、特に目立つようなものはなくすっきりした浴室である。装飾はもちろん、宣伝のようなものさえない。側壁に5つある不ぞろいの鏡にも宣伝はない。
 グランドピアノのような形をした中央の主浴槽には湯が吹き上がり、その湯の温度を測る独特の温度計が設置されている。42〜43℃であった。壁や床はライトグリーンのタイルで、そんなに荒れていない。カランは、宝印のテコ式のピストン形である。シャワーはないが、何の宣伝もない不ぞろいの5つの鏡がある。しきりも珍しくすりガラスが木製のさんに入ったもので、その上の空間がわずかに女湯とつながっている。その上が大きな蒸気抜きになっている。この銭湯の屋号になっている「馬場」というのこの辺の元の地名だったらしい。一度に多くはないが、次々と客がとぎれることなく入ってきていた。
 ここの主人は、松山でタクシーのドライバー、そして教習所の教官をやっていたが、先代の主人である実兄がなくなって脱サラでやっているという。ボイラー室兼倉庫には、近くの製材所からのオガクズから木っ端、束槙、切り株まで積み上げられている。昔は隣接して製材所があって、薄い木っ端が多く手に入ったので専用の木っ端を小さな木ぎれにする機械が活躍していたそうである。娘が2人いるそうだが、跡継ぎには考えていないという。1日中働いているというが、むしろそんな主人や、細やかに気づかって動いている奥さんの様子を見て、少なくとも夫婦の生き方としてはあるべき姿なのかもしれない。しかし、どちらかの車輪がうまく回らなくなったとき、後に期待できないのは残念である。
 町田忍氏も1996年11月3日の保内大学(保内町清水湯)の後にこの銭湯を訪れている。
 後ろに回り込むとレンガ土台の素朴な煙突が見える。隣の建物には太陽熱温水器がずらりと並んでいるので、夏場は効率よく営業しているのだろう。煙突の周りには木々が生い茂っている。イチジクもあるが、ちょっと水っぽい皮のむきにくい品種(なぜ知っているのだろう)である。(H10.10月)