このような歴史から、湯屋を持つのは寺社が多く、公衆浴場は、慈善事業として「施浴」という無料の施し湯として発展していった。私は、平成7年に京都も妙心寺の浴室を見学したことがある。これは明智風呂といって、織田信長を討った明智光秀が入ったのが妙心寺であったが、光秀の死後、菩提を弔うために創建され施浴を施した施設である。いわゆる蒸気風呂の形態をとりつつ、かかり湯もできるしくみで、どっぷり浸かる入浴が身に付いていて、昔の風呂の形態を知らなかった私などは、寺の方の説明を聞きながら奇異な入浴のしかたに驚いた。
江戸時代に入って、今のような民間の銭湯の形式が発達してきた。民間の銭湯は、古くは鎌倉時代から記録が残っているらしい。江戸時代に至っては、銭湯は庶民の重要な社交場となっていった。今の銭湯と違うところは、ほとんどは混浴で、湯そのものが貴重なため、浴槽は小さく、熱気の放出を防ぎ蒸し風呂効果もある右絵上のような石榴(ざくろ)口となっていた。今では開放的な銭湯が多いが、暗くて中がどうなっているか分からないような、石榴風呂というのが残っていたらいっぺんは入ってみたいものである。大洲の「吉野湯」の電気風呂は何となくそれに近い雰囲気がある。西条市の「いがり温泉」のサウナもそんな雰囲気である。右絵下は当時の番台の様子である。江戸時代には、「辻風呂」といっていろんな場所に設置したり、船の入浴施設などの移動式の銭湯もあったという。
湿気の多い日本の風土では、風呂は必需品である。といっても多くの人が密集して生活している都市では、内風呂は贅沢だし無駄も多い。それで、町々に共同の公衆浴場ができてきたと考えられる。関東では、銭湯ができたところに形成されてきた街も多いとも聞く。
また、日本独自の銭湯文化として、2階で茶や酒も出され将棋や碁などを打つ社交場であった。今の道後温泉本館のようなものだろうか。
明治に入り、西洋文化を取り入れ、銭湯は変わっていった。それまでは混浴がメインであった銭湯は、外国人の手前、道徳場問題があるとして禁止となる。違和感を抱かず男女で仲良く風呂に入る文化を持っていた日本の銭湯に対して、西洋の人は理解できず、なんども不道徳な民族であると本国に報告している。今考えれば、不道徳な発想にすぐ結びつける西洋人と、その考えをすり込まれた現代人の歴史を知ることができた。そういうよけいな文化も伝わったが、明治の銭湯の革命はタイルの使用である。タイル張の銭湯は今では当たり前だが、当時は明るくハイカラな変化であったことが想像できる。私の知る文献からは、九谷で浴場用のタイル文化が栄えたように思えるが、当然この安定した需要は、瀬戸や有田などの窯元にも影響を与えたと考えられる。
昭和に入ってカランが導入され、現代の銭湯とほとんど変わらない形式が整ったといえる。その後の銭湯の歴史は、安定期にはいるが、戦後の高度成長に伴って確実に増え続ける内風呂によって少しずつ客数が減っている。その変化に対応して、わき上がる等湯だし口の改良、さまざまなミニサウナの設置、さまざまな浴槽の開発、電気風呂、薬湯、オゾン活性湯などの導入などの変化が見られた。しかし、今確実に銭湯は減ってきている。銭湯経営者からは、多くの銭湯では当時の経営努力が足らなかったという反省を聞く。しかし、この確実な流れを予測し対応していくことは困難なことである。今になって考えると、銭湯は身体を洗う施設より、人の心を和ませるとともに人との交流の場としての要素を徹底的に研究して、トータルに考え直すことができれば良かったのかもしれない。
最後に利用者の立場から考えると、現代ではほとんどの家庭に風呂がつくようになってきている。年輩の人の多くは銭湯の思い出をもっているが、それは苦労した時代の懐かしい記憶である。また、日本古来の文化を見直していこうという風潮がある。しかし、それは特権階級の芸術や建造物や、特殊な技術に対してのことで、身近で日常的な庶民文化に目を向ける人は少ない。
古来の懐かしい文化の風情を残す保内町の清水温泉を町並み保存のシンポジウムで訪れたとき、経営者である中岡さんの奥さんの言った言葉が思い出される。「うちの銭湯は、保内町にいろんな活動で紹介されて、なつかしい、なつかしいといってみんなに喜んでもらえますが、本当は湯に浸かりに来てくれてすがすがしい顔で帰っていってくれるお客さんがありがたい....」。これは銭湯を経営している者のすべての気持ちではないだろうか。
家族や地域のつながりの重要な施設であった銭湯も急速に街から消えている。こうして私たちは自分たちを育てはぐくんでものを、子孫に伝えるゆとりもなく失っていくのであろうか。日本カワウソやトキの絶滅などには大騒ぎしながら、ふと気づいて足もとを見ると、昔遊んだ里山や小川が消えているのに気づいたように....