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高学年 道徳 「田内千鶴子の生き方から学ぶ」
藤ア富実子(TOSS南国港free−way)
*第1回TOSS四国セミナー2007.12.26 授業ライセンスC表受検の授業案です。
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1.授業のねらい
・孤児たちのために生涯を捧げ尽くした田内千鶴子の生き方を通して、愛の支えによって人は生きることができることを理解する。
・ 郷土出身であり、日韓親善の架け橋となった田内千鶴子に誇りを持ち、人の役に立つ生き方のすばらしさを感じとる。
2.指導観
1910年、日本と韓国の合併で、朝鮮総督府が設置された。田内千鶴子は、1919年、朝鮮総督府勤務韓国木浦(モッポ)勤務の父のもとに高知から出航する。
その生誕地には、「愛のふるさと」と刻まれた記念碑が建っている。遠く海を隔てた異国で、大きな時代の波に翻弄されながら孤児に身を捧げつくした彼女は、日韓親善の露払い役でもあった。
田内千鶴子の生き方は、子どもたちの心をしっかりと捉えるものだと思う。郷土出身の女性の生き方を伝え、「人の役に立つ生き方のすばらしさ」に気づいてもらいたい。
3.授業の流れ
@日本と韓国のつながりを考える
A結婚後の生活
B守られた命
C夫亡き後の人生、田内千鶴子の遺したもの
4.授業の展開
発問1.韓国といえば?
・ ヨン様
・ キムチ
説明1.日本と韓国は、韓流というように、今は随分友好関係が出来ていますが、戦前・戦後と友好な関係とは言えませんでした。韓国が日本に併合されていた頃、韓国へ渡り、「木浦の母」と今でも慕われている高知で生まれた女性がいます。田内千鶴子という人です。
説明2.千鶴子さんが、お父さんの勤務地である韓国に行ったのは、7歳。そのころの木浦は、米と綿花を積み出す港としてにぎわっていました。その中で千鶴子さんは育ち、二十歳の時、高校の音楽教師になります。そして、共生園という施設で歌を教え、孤児を育てるユン・チホさんの手助けをするようになります。そして結婚。
発問2.しかし、千鶴子さんは、夫に日本に帰るように説得される事になります。何があったのでしょう。
・ 韓国にいることが出来ないようなこと
・ けんか
説明3.日本が太平洋戦争に負け、朝鮮が独立。反日感情が高まり、迫害されるようになったのです。千鶴子さんは、母と二人の子どもを連れて、高知へ帰りました。しかし、三人目の子どもがお腹の中にいたのです。出産を終えた千鶴子さんは、夫や孤児たちのことが心配で密かに船に乗り込み、子どもたちを連れて再び木浦に渡りました。
発問3.しかし、戻ってきた千鶴子さんを、村人が「日本人をぶっ殺せ!」と襲ってきたのです。千鶴子さんの命を救ってくれたのは、誰だったでしょう。
・ 夫
・ 子どもたち
説明4.施設の子どもたちが千鶴子さんを囲み、壁のように立ちはだかって守ったのです。
このとき千鶴子さんは「子どもたちのために一生を捧げよう」と決心します。
説明5.やがて、朝鮮戦争で人民裁判にかけられた時、以前おそってきた村人たちが、千鶴子さんを「ユン・ハクチャは我々の仲間だ!」「無罪だ!」と言って助けてくれたのでした。
説明6.しかし、夫が行方不明になってしまいます。
朝鮮戦争の間、500人にもなった孤児たちを、千鶴子さんは、懸命に育てました。
発問4.韓国の孤児たちに尽くす千鶴子さんに韓国政府が贈ったものがあります。何でしょう。
・お金
説明 7.文化勲章を千鶴子さんに贈りました。日本人で初めての受賞でした。反対の声もある中、パクチョンヒ大統領は、
「彼女は、同じ民族の人ではない。私たちが気が狂って南北で戦争をしている間、同じ民族でもない私たちの子どもを守って育ててくれた人類愛の人なんだ。」
と堂々と田内千鶴子の名で贈りました。
説明8.「もらうべきは夫、苦労は子どもたちがしました。」
と語る千鶴子さんは、
「韓国が日本となかよくしたいと願っている心を日本に伝えなければ。」
と思います。
発問5.そして、翌年、日本へ渡ります。日本でどうしたのでしょう。
説明9.東京オリンピックの年、政財界の人や総理大臣に韓国人の心を伝えます。岸本元総理大臣には「もしも、日本と韓国の間にまさつが起こったら、あなたが真ん中にたって、仲良しの橋をかけなければならない、大事な人だ。」と励まされたそうです。
説明10.そして、翌年、日本と韓国は国交正常化。
しかし、千鶴子さんは、このころから体調が悪くなります。「技術の進んだ日本で手術を!」という息子さんに、「そんなお金があったら、子どもの教育費に使いたい。」と言ったそうです。
発問6.この写真は何でしょう。
・行列
説明11.千鶴子さんのお葬式です。55歳で亡くなり、韓国全土から3万人が参列し、初の木浦市民葬が行われました。
「この日モッポは泣いた」と新聞に報じられました。
説明12.高知市、若松町の「田内千鶴子生誕の地」と書かれた記念碑には、周囲に千鶴子さんが韓国で育てた3000人の孤児を意味した小石が散りばめられています。1997年の序幕式には、共生園の子どもたちによる水仙花合唱団が、美しい声を響かせました。高知で生まれた千鶴子さん。「愛がある限り私たちの明日はだいじょうぶ」と語り続けています。
指示1.授業の感想を書きましょう。
参考図書
「愛の黙示録/尹鶴子の生涯」朝鮮通信使
「木浦のオモニ 田内千鶴子」産経 日本人の足跡
「日本人の力」(滑川道夫編・小峰書店)
「田内千鶴子記念碑」「木浦共生園」
「20世紀のすてきな女性たち」岩崎書店
「木浦の愛」(田内千鶴子愛の会編)高知新聞社