Rhythm of rain 

 雨、雨、雨…
 どんなに雨が降り続こうが太陽が顔を見せない日々が続こうが、梅雨は既に夏の季語だ。梅の実が熟する頃に続く雨だから“梅の雨”と書くらしい。
 降水確立・不快指数共に毎日80%を超えていても、それはそれで良いではないか。
 幸い二十四の季節を持つ国で生まれ育ったのだ。肌身でそれを感じられるなら贅沢な事だ。

 何だって物事いい方向に考えて行ければ、人生それ程苦しいものではない。
 たとえ現実はそれ程上手く行かなくたって…











「こんにちはっ!」
 店頭の前で傘をたたんだ後、もう何年来かの知り合いのような愛想の良い声が店内に響く。
「はい、どれに致しましょう」
 その声を受けた店員も機嫌良く笑顔を向けて答えたが、客ではないと首を振ってみせると今度は何か閃いたように店の奥に少し下がって、大声で呼びかける。
「桃子ちゃ〜ん、お客さんだよっ」
 慌てて違うと訂正したかったが間に合わず奥の方から女性の声が響き、暖簾の隙間から若い女性が顔を出した。
「えー…っと、どちら様…でしたっけ?」
不思議げに首を傾げられ苦笑いで、
狩野亮祐と言いますが、杉浦将さんいらっしゃいますでしょうか?」
亮祐の言葉にたしなめるよう店員を見た彼女は少し肩を竦ませた。
「ごめんなさい、おばちゃん直ぐに早とちりするんだから。兄の…お友達か何か?」
「いえ、杉浦さんは大木工業所に勤めていた頃の上司なんです。近くまで来たものですから、ご挨拶でもと思って寄らせて頂いたんですが」
嘘も方便。
どうやらこの桃子と言う女性、亮祐の尋ね人の妹のようだが、まさかあなたのお兄さんが好きで、実家まで追い駆けて来ましたとは言えまい。
「今ちょっと外してますけど直ぐに戻って来ると思いますから…。お時間の方は?」
笑顔でそう言った桃子は、頷いた亮祐を奥の事務室に招き入れると、パーティションで仕切られた片隅のソファーに座るよう促した。
「兄の会社の方に訪ねて頂いたの初めてなんですよ。兄は家ではあまり自分の事話さないんで、急に家に戻って来た理由も良く分からなくて。経理の方が任せられるんで皆喜んではいますけど…私としては本当は何かやらかして帰って来たんじゃないかって心配してたんです」
人に警戒心を持たないのか麦茶を出しながら気安く話す桃子へと、その心配には及ばないと亮祐は首を振って見せ彼女を安心させた。
『会社のやり方が気に入らなくなった』
これが彼の本当の退職理由だ。
亮祐が言葉の意味を理解するには1日も要らなかったが、会社幹部の真意を知って呆然としてしまっても会社を辞める事は出来なかった。
当時亮祐が担当していた現場が終わるまでは会わないと釘をさされていた以上、約束は守りたい。組織の一員としての責任も有った。
それでも途中何度か嫌になりかけてその度頭に浮かぶ例の約束に、初めて決して逃げ出すなと亮祐の為に彼が間接的に伝えていてくれた事に気付き、亮祐は嬉しくて本当に泣いた。
彼はそういう人なのだ。
ある夜突然に降って沸いた恋だったが、良い人を好きになったものだとあれからずっと自画自賛の亮祐だった。







「課長はもう止めてもらえないか」
つい癖で本人を前にすると役職を付けて呼んでしまう亮祐。
「じゃあ将さんで良いですか?」
「調子に乗るな」
軽く笑った将に亮祐は内心胸をなで下ろす。
あの後直ぐに帰って来た将は亮祐の姿を見るなり何とも複雑な表情を見せた。将に誘われるまま徒歩3分の距離にある喫茶店に入り、無難な世間話しをしながら30分が経過したが将が笑顔を見せたのは今が初めてだ。
「…少し痩せました?」
頷く将の顔は痩せたと言うよりは、やつれたと言う表現の方が近いだろう。
「色々と忙しくてね」
「経理してるって聞きましたけど」
「経理・営業・物流・開発その他もろもろ」
「それは…大変そうですね」
「しょせん身内ばかりでやってるしがない饅頭屋だ。組織立って動いてなかったからちょっと改良してやろうと思ったら、馬鹿ほど仕事が増えてしまって」
「何でしたら今からでも俺、手伝います。毎日でも通って…そうそう、手っ取り早く就職させてもらえれば一番早そうだ」
「気持ちだけ受け取っとくよ」
「本気で言ってるんですが」
答えに将は呆れて亮祐を見た。
「もう少し後先考えろって言っただろう」
「そんな事考えてたらジジイになります」
「その内大きな失敗するぞ」
「大丈夫ですよ、俺運が良いから」
将は溜め息をつく。1年経っても亮祐は相変わらずだ。
利かん気が強くて減らず口も多いが、将には亮祐が変わらずに居る事が少し嬉しくも有り羨ましくも感じる。
「せっかく来てくれたんだ、2時間ほど待ってもらえるなら近場くらいは案内してやるが」
今日は日曜日。
ただ休日を利用して訪ねて来た、くらいにしか思ってなかった将の言葉に亮祐は首を振る。
将が首を傾げると、
「デートは嬉しいんですが、出来れば夕方から会えませんか? 実は近くのレストラン予約してあるんです」
「…明日仕事なんだろう?」
どうやって帰るつもりで居るのだろう
「これ」
言って亮祐がテーブルに差し出した2枚の名刺を見て、将は目を疑ってしまった。
片方は職場支給の名刺、もう一枚は亮祐個人の名刺なのだが…
「…まさか俺のせいか?」
転職している上、亮祐の居住地はここから1駅しか離れていない。こんな事をさせる為にあの約束を残した訳ではないのだ。
すると亮祐は曖昧に首を振って見せた。
「住む場所は杉浦さんの影響かなり受けてますけど、会社を辞めた理由は杉浦さんには全く関係が有りませんからご心配なく」
そう言われた所で、
「信じられない奴だ」
困惑したままの将に、亮祐はにっこりと笑顔を向けた。
「だから今夜はデートしましょう。再会と再就職と引越し祝いを兼ねて」
笑顔を返すつもりは無さそうだが溜め息交じりに視線を落とした将は、亮祐がそれほど労力を使う事も無くそれを承諾する事になる。
将の様子がどこかおかしい事はこの短時間の会話だけで分かったが、亮祐は今はまだ何もかも訊き出せるような立場ではない。
初めの順序を間違えた分、将にはゆっくり時間をかけて自分の事を理解して欲しかった。努力しても駄目なら諦めると言った亮祐だが、駄目にしようなどとは初めから思ってはいない。繋がってもいない運命の糸でも強引に結び付けるつもりでいるのだから。
結び付けられた側にすれば相当に迷惑…
…しているのなら、将は何度も誘いに出向いたりする必要は無いだろう。


























高級ホテルの最上階
ガラス窓の外は雨
静かなクラッシック音楽
その音楽を妨げない程度の会話
フロアのボーイが随時目の届く場所に立って、客の様子に目を配っている。
来慣れた人間にはボーイなんて感情を持たない接待ロボットくらいにしか見えないのだろうが、小市民にとってはまるで見張られているようで肩が凝って仕方が無い。
将はそれでもそつ無くこなしてはいるが、生活レベルの違いもさる事ながら性格の合わない人間と付き合って行く事は大変だった。
「近頃随分お忙しい様だけど、どなたか別の方と逢ってらっしゃるんじゃありません?」
視線を指先に漂わせながら将を見る事も無く、フォークとナイフを皿の上に揃えて置いた。次いで膝のナプキンで口元を拭き、言葉は続く。
「友人が同じ男性の方と一緒の所を何度も見かけたと言っておりました。まだ私達婚約すらしていませんから、将さんが何処で誰と何をしようが法律的には問題はありません。それに私、今更過去の恋愛遍歴を持ち出してどうこう言うつもりもないんですよ。ただ」
すっと向けられた瞳。
青い視線が冷たく射す。
「そろそろ控えて頂かない事には」
「…そう言う関係ではありませんから」
重く言葉を遮った。
「本当に信用して大丈夫なのかしら」
頷いてしまう事も出来ず、将は深い溜め息とともにいたたまれず瞼を臥せてしまう。
「近い内に父とも会って頂きたいの」
「綾夏さん、結婚の事はもう少し待ってもらえませんか。とても大切な事なんですよ、あなた自信ももっとちゃんと考えた方が良い」
本当に綾夏が自分の事を想っている様には思えないが、
「ご自分の立場を良く理解してらっしゃる?」
彼女が持つ切り札。
「あたなに選ぶ権利は無いのよ」













理屈だけで心の中まで処理できるなら、恋愛の縺れで泣く人間がどれだけ減るだろう。
亮祐の誘いには最初から上手く断る事が出来ない将。
年下だが亮祐は上手く将をリードしている。
あまりにもそれが自然に分かるものだからどうやら本人には自覚が無い様だが、亮祐には将の望む事が見えているようだ。
感じる事が出来るから、亮祐は何もしてはこない。図らずともそれが余計に将をのめり込ませている原因の一つ。
抱かれてしまえば身体だけの関係だと割り切ってしまえるのに…
そんなものが無くても亮祐と一緒に居る事が楽で、つい亮祐との約束を優先してしまい勝ちになっていた。気が付くと頭の中の時間まで優先させてしまっている。
選びたい人と、選ぶべき人
欲しいものと手に入るものとが必ずしも一致しない事が分かっているのなら、こんな関係はどこかで終わらせるべきなのだ。
けれど…
「昼間っから役得」
突然仕事中に訪ねたにも関わらず亮祐に笑顔で迎えられ、連れ出された梅雨の晴れ間の公園で何も言えないまま黙って肩を抱かれてしまう。
「ずっと何か悩んでますね」
公衆の場でこんな事をしていても気にならないくらい将の精神は危なくなっているのに、
「やっぱり、年下じゃ頼りないですか」
首を振る事しか出来ない。
「今度の週末、パーっと遠出しましょう」
亮祐は将が会いに来た理由すら追求しては来ず、ただ支えようとしてくれる。
逢うたびに募る罪悪感。
「…雨って言ってたぞ、たまにはゆっくり家で休んだらどうだ。どうせ雨の日なんて何処に行ったって鬱陶しいだけだろうし」
「どうせって言うのは雨に対して失礼ですよ。雨は雨でそれなりに楽しめるし、俺は杉浦さんと一緒なら何処に居たって楽しさ倍増!」
分かっていても呆れてしまう。
「狩野見てると悩んでるのが馬鹿馬鹿しくなるよ」
「昔の彼女に滋養強壮剤って呼ばれてました…って、高校時代の話しですから気にしないで下さい」
「誰も気にしてないよ」
返答に残念そうにして見せる亮祐。
「そう言わずに気にして下さいよぉ」
「どっちなんだ」
全快までには程遠くても、笑顔を見せた将へと亮祐は静かな視線を向けた。
「そうやって笑ってもらえるなら何時でも何処でも飛んで来ますから、早く元気になって下さい」
将は抱かれた腕を軽く振り解く。
「そんなに煩くされて元気になれるか」
せめて言葉だけでも誤魔化していないと……泣いてしまう





自ら踏み入れた泥沼から抜け出る事も沈んでしまう事も出来ない
嘘で固めてしまった自分を装う事にはもう疲れた
本当に嘘が罪だと言うのなら、誰か裁いてくれないだろうか
…地獄に堕ちてしまえれば、2度と逢わずに済むだろうに

















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雨は降り続く
将には亮祐の言うようには雨を楽しむ気分にはなれなかった。
寝苦しい夜が続くせいで睡眠不足気味なのか、作業が思うようにはかどらず書きかけの書類を破って丸めてごみ箱に投げた…が、入らない。
何もかもが上手く行かない
肩を落とし溜め息をついて腰を重く上げた時、いきなり社長室のドアが開いた。振り向くとものすごい形相の社長と目が合う。
「ちょっと来い!」
どうやら将に対して何か憤慨しているようだが、社長とは言っても血の繋がった兄だ。
別に怒らせたからと言って恐れる相手ではない。
将が部屋に入ると兄のは既に席に着いていた。扉を閉め中に踏み入れた将の傍の机に、師はA4サイズの茶封筒を投げてよこした。
勢いで中から書類が少し顔を覗かせる。
宛名は師宛てになっているが、見ろと言う事なのだろう。
確認のつもりで師に一度視線を移した将は、そこのソファーに腰を下ろし覗かせた書類を取り出した。
一番上に有った写真で差出人を確かめる事は止めた。
良い腕してる
別に驚く事も無く、将の頭の中には単純に写真の評価だけが浮かんだ。
それが捏造でも偽造でもない事は将が良く知っているのだ、全部記憶している場面なのだから。
撮られていた事にはまったく気が付かなかったが、どれもみな際どいアングルで絶好のシャッターチャンス。かなり時間と金を掛けたのだろう。
引き伸ばされた数枚の写真をぱらぱらと捲って、将は最後の書類に目を止めた。
「どう言うつもりだ」
師はどう言う関係かとは訊いて来ない。一番上に乗っていたのは、この間亮祐に公園で肩を抱かれている時の写真。似たような写真が日を変え場所を変え数枚続けば、誰だって普通の関係ではない事くらい察しは付く。
「矢島専務のお嬢さんとは付き合ってるんだろう? 向こうはすっかりその気になってるそうじゃないか、今更遊びでしたじゃ済まない事くらい分かってるんだろうな」
黙ったままの将。
「お前の行動にここの進退懸かってるんだ、下手すりゃこんな小さな饅頭屋、直ぐに潰されてしまうんだぞ。大体、どうしてよりにもよって男なんだ…」
師は頭を抱えてしまったが、何時まで経っても返事をしない将に腹を立て机の上を大きく叩いた。
「おい、聞いてるのかっ!」
聞いてはいない。
将は書類のある一行をじっと眺め入っていた。










その日の夜遅く

「あれ?」
鼻歌交じりに帰って来た亮祐はマンションの部屋の前に立つ将を確認すると、満面の笑顔で駆け寄った。
「呼んでくれたら迎えに行ったのに」
天気は夕方から更に雨足を強めていた。
傘から滴る雫と服の濡れ具合からして、将はどうやら歩いて来たようだ。
「取り敢えず中に…」
「直ぐ済む、ここで良い」
真っ直ぐに亮祐を見る将からは顔の色が消えている。
「風邪ひいたんじゃ」
額に伸ばした手を無表情で振り払われて、
「杉浦さ」
「嘘を、ついてたな」
亮祐も顔色を変えた。
「現場が終わったのは5月だと言ったな。どうして今の会社の入社日が4月1日なんだ?」
「…事情が変わったんです」
「そんな事は関係ない、俺は現場を終わらせないと会わないと言ったよな」
嘘をつくつもりはなかったが、話せば将がこうなるだろう事は予測していた。
「いずれはちゃんと話すつもりで居たんです。杉浦さんの事が心配で…もう少し杉浦さんが落ち着いてからって」
「責任転嫁も事後承諾も一度で沢山だ」
「話しを聞いて下さい」
けれど将はきっぱりと首を振る。
「約束を守ったと思ったから会ってやってた。事情がどうであれお前のした事は契約違反だ、これ以上俺が狩野に会ってやる義理は何も無い。今後一切俺には付きまとわないでくれ」
将の言葉は正当ではあるが、こんな一方的に別れ話しを切り出されたところで亮祐も黙って引き下がる訳には行かない。
「俺には義理で会ってた様には思えませんでしたよ」
「お前の勝手な思い込みだ」
「それは違います」
「俺は最初から迷惑してた」
「それも違います」
この調子では何を言っても否定されてしまうだろう。
「百歩譲ってもし俺の意志で狩野に会っていたとしても、お前が現場を放棄したと言う事実は何も変わらない」
「それはただの表面的な事柄でしかありません」
「表だろうが裏だろうが、それが全てだ」
「それ、杉浦さんの言葉だとは思えないですね。物事には表と裏があるって事を教えてくれたのは杉浦さん自身なんですよ」
そんな事は言われなくても将が良く分かっている。
やはり真意でない理論を通そうとするには亮祐相手では無理があるのだ。
嘘でも嫌いになる事が出来たなら、こんなに苦しまずに済んだのに
「いずれにしてもお前は俺を騙してたんだ。嘘は…」
そこで将は言葉を止めてしまった。
どうしても肝心な所でだけ嘘がつけない。
「…許せませんか?」
続けたのは亮祐。
真っ直ぐに見詰めるその視線から逃げるように将は顔を逸らした。
「お前に俺の何が分かると言うんだ」
「何も分かりませんよ」
亮祐の静かな口調。
「ただひとつ分かっている事は、あなたは俺に本当の事を何も言わないという事」
まさか
「それは裏を返せばあなたが今言った言葉は全て嘘って事になるんです」
将は瞼を閉じ大きく息を吸った。
…嘘まで見抜かれていたなんて
「そこまでしなければならない事情、俺に話してはもらえないでしょうか?」
俯いたままゆっくりと伸ばした指先が亮祐のブレザーの襟を強く握る。
これ以上はもう…
「杉浦さん」
「…辛いんだよ、狩野と逢う事は」
「どうして」
将は首を振る。
「本当に俺の事を想ってくれているのなら、ここで終わりにさせてくれ」
襟から離した手で亮祐の胸元を突くと、ほんの一瞬亮祐がよろめいた隙に将は踵を返し走り去った。

もう二度と、逢わない



















どうして無理にでも引き止めなかったのだろう
一晩中雨の音を聞きながら考え続けていた亮祐だが、それが一番悪かった様に思える。
確かに現場を途中で外れてしまった事は事実だが、会社を辞めた事にはそれ相応の理由があった。将はそれを理解出来る人だからこそ、亮祐は堂々と会いに来れたのだ。
将の為になら幾らでも努力を惜しむつもりは無い亮祐だが、もしも本気で嫌われているのなら諦めるしかないとは思っていた。けれど嫌われていると言うよりはむしろその逆。
亮祐の無茶に言葉で諭しながら少し呆れて見せた後、僅かに慈しむように目を細め…笑顔に変わるその瞬間はっと我に返った様に瞳を逸らしてしまう。
求めてくれているはずなのに、将はどうしてもこの腕の中には飛び込んで来てはくれない。
2人の間に立ちはだかるものが何かが分からず亮祐も身動きが取れなかった。
今夜がそれを訊き出す唯一のチャンスだったのだ。
走り去る将を追い駆ける事は出来たのに、あれ以上追いつめてはいけないような気がしてその場に立ち尽くしてしまった。けれど一人で帰してしまっては将の言葉を受け入れた事になってしまうではないか。
亮祐はまだ諦めてはいないが、こうなると次への取っ掛かりが難しい。
何度も何度も寝返りを打ちながら、珍しく亮祐は後悔と言うものをしていた。
それでもさすがに強運だと自負するだけの事はあるようだ。運はいつまでも亮祐を見放さない。















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「桃子ちゃん?」
翌日の午後、亮祐の会社に桃子が訪ねて来た。会ったのは最初に杉浦饅頭屋を訪ねて以来だが、電話では将との取り次ぎがてらに時々話しをしていた。
「ウサギの目」
桃子の第一声に亮祐は苦笑い。夕べは一睡も出来なかったのだ。
わざわざ何の用だろうかと思ったが、
「そろそろ協力者が必要なんじゃないかと思って」
訊くより先に答えてくれる。
はっきり言った事はないが、桃子は亮祐の将への想いを知っている。どちらかと言わなくても、最初から桃子はやけに亮祐に協力的だ。
「お兄さん、何か言ってた?」
「言わないから来たんじゃない」
それはそうだ。
「どんな風?」
「墓場の一歩手前。おまけに風邪までひいたもんだから、至上最悪の気分だと思うわ。大体あんなに泣くくらいなら、素直になれば良いのに」
亮祐は言葉に呆然と桃子を見る。
「…泣いた?」
将が?
自分の為に?
「夕べ兄さん傘ささずに帰って来たの。泣いてたの知られたくなかったんだろうけど…、風邪ひいたのはそのせいね。どうせ何か御託並べて別れようだとか言ったんでしょう?」
「まぁ、ね」
「で? 別れる気、あるの?」
「まさか」
桃子はにやっと笑う。
「それでは利害関係が一致しましたので、ただ今より狩野さんの協力要請を実行に移します」
亮祐の言動もかなり飛んではいるが、桃子はそれに三重ほど輪が掛かっているようだ。
「桃子ちゃん、あのね」
「お互い幸せになりましょう」
まるで将と亮祐の会話と同じ。
亮祐の立場がいつもと逆転してはいるが…
「兄さんの事情、何も訊いてないんでしょう?」
言っていきなり本題に入ろうとした桃子を亮祐は一端止める。
本当は将の口から事情を訊く事がベストだと思っての事だが、桃子はそんな悠長な事を言っている暇はないと睨み返してきた。
このままでは将は生きながら棺桶に身を納めてある人の所に贈呈されてしまうと、分かるような良く分からないような補足説明をつけて、まず将に今付き合っている女性がいる事から話しをはじめた。
彼女の存在はそれなりに亮祐も気付いてはいたが、結婚を迫られているとなると話しは少し変わってくる。その上、将は彼女の事を愛してはいないらしい。
ならばどうして別れる事が出来ないのか









−事情その1−

杉浦饅頭屋から車で30分ほどの所に大手百貨店がある。将はこの百貨店の新装オープンにともないテナントを募集している事に目を付けた。事業を拡大するには良い機会だろう。社長の師は始めそれ程乗り気ではなかったが、取り敢えず説明会には顔を出した。
将の彼女・矢島綾香にはそこで見初められる事になる。彼女はその大手百貨店専務のご令嬢。
無下に綾夏を拒絶すれば、百貨店進出に大きな影を落とすだろう。

−事情その2−

事業拡大には資本金がいる。今のご時世、銀行はそう安々とは金を貸してはくれない。師が百貨店進出になかなか腰が上がらなかったのはそのせいだ。ところがある日、将と綾夏のデート現場を目撃したものだから、師の態度は手のひらを返したように変わった。
2人が結婚すれば、矢島家が絶好のスポンサーになるのだ。
将達の母親は早い内に他界してしまっていたが、父親はその後一度も再婚をしていない。まだ幼かった3人の子供達を男手ひとつで育てるには大変な苦労があっただろう。
百貨店進出の成功=収益の向上
そろそろ親に楽をさせてやりたいと思うのは、兄弟皆が思っている事だ。

−事情その3−

将は初めから綾夏の事を好きにはなれなかったようだ。一目ぼれと言うのはつまり外見に惹かれたと言う事になるだろう。最初はそれでも良いだろうが、どうやら綾夏は未だ将の事をアクセサリー替わりにしか見ていない様に思える。
その内飽きるだろうと踏んでいたが、他人に拒否される経験をした事が無い綾夏には将の存在は珍しい。
どうしても振り向かないのなら、何をしてでも振り向かせたい。
師に亮祐との写真とデータを送り付けてきたのは綾夏のようなのだ。本人が動かないなら身内に揺さ振りを掛けようと言った所だろうか…
とにかく、綾夏は手段を選ぶような性格ではない。










「でもね」
桃子は溜め息をつく。
「百貨店進出は最初それ程重要なものじゃなかったのよ。今、うちの会社が行き詰まってるって言うのならともかく、贅沢を言わなきゃ十分やっていけるだけの利益はあるの。師兄さんだって好きでもない相手と結婚させるほど無理強いはしてなかったし…」
つまり、事情その4の存在があると主張している。
「それを知る為に狩野さんの意思を確かめたかったの。もし綾夏が不当な手段を使っていたとしたら、私が説得するより狩野さんに説得してもらった方が効果があるから」
「有り難いお言葉」
亮祐が軽く頭を下げると、桃子はけらけら笑った。
「畏まった狩野さんって似合わな〜い」
どこまで彼女の態度を本気にするべきか判断に困るが、まあ、笑いは若い女性の特権だろう。
「だけど、どうしてそこまでして結婚に反対するんだ? お兄さんが男に走るより、お金持ちのお嬢さんと結婚した方が桃子ちゃんにとっては良い事だと思うんだけど」
「そんな事決まってるじゃない」
桃子はぱっと笑顔を消した。
「あの女が嫌いなだけよ」















*************************















RRRR… RRRR…

「はい、杉浦です」
リビングを通り過ぎがてらのベルに、将は受話器を取った。
「…もしもし?」
無言の電話に不振声で尋ねると、
『狩野です』
今度は将が黙ってしまう。
あれ以来2人は会っても無ければ話しもしていない。今日亮祐が電話を掛けたのも、将にではなく桃子に用があったのだ。
いきなり将が出てしまい驚いて言葉に詰まったが、亮祐には声が聞けただけでも嬉しい。
『風邪、大丈夫ですか?』
将は受話器を置けずにいる。
『俺、今忙しくて会いに行けませんけど、まだ諦めてませんから。杉浦さんに認めてもらえるように努力してますから…だから杉浦さん、諦めないで下さい。絶対に俺が何とかします』
もう…終わらせて欲しい
瞼を閉じたままゆっくりと腕を下げる。
何とかなるくらいなら、あんな想いまでして別れたりはしなかった
フックが下りる直前で、
「さっき電話…」
部屋に入って来た桃子は慌てて受話器を取り上げて、
「人の電話勝手に切らないでよっ」
「…桃子にじゃない」
「狩野さんなら私よ」
言葉に将は大きく目を見開く。
「何? 狩野さんが私に電話かけてきちゃ悪いの?」
「どうして…」
「ふった相手が誰と何しようが勝手じゃない、兄さんにとやかく言われる筋合いは無いわ。大事な話しするんだからあっち行ってよ」
まだ呆然としている将を突き飛ばすよう桃子は部屋から追い出してしまい、リビングの扉を閉めた。
「もしもし、ごめんなさい。ちょっと電話の傍離れてたものだから」
『桃子ちゃん、今の言い過ぎ』
「暗い顔してくどくど言われるの嫌なのよ」
亮祐の苦笑い。
「それよりどう?」
『うん。診断書自体は本物だった』
「そう…」
桃子は傍の椅子に腰掛ける。
有言実行型の桃子。亮祐に会いに行ったその日から行動を開始し、何度か将の部屋に忍び込んでいた。
そこで見つけ出したものが産婦人科の診断書。
患者名は綾夏の名前になっており、病名欄に繋留流産と記されていた。
紛れも無くこれが事情その4だ。
綾夏と別れきれないのは将に心当たりがあるからに他ならない。
愛が無くても抱く事は出来る。何度も迫られて据膳を食ったと言えばそういう事になるのだろう。
将の態度に業を煮やした綾夏が、これを振りかざして責任を取れと詰め寄ったと言う事くらいは想像がつくが、桃子にすれば石橋を叩きまくる将がこんな失敗をするとは思い難かった。
「怪しいと思ったんだけどなぁ」
『そんなに気を落とさなくても良いよ。念の為勤めてる看護士さんにこっそり調べてもらったんだけど、カルテが見当たらないってさ』
「じゃあ」
『ご推測通り、内容が偽造されてるって線が濃厚なんだけど』
「物証がねぇ…。ここまで来たら何かもっと決定的な証拠でも無い限り兄さん納得しないわよ」
将はこの週末、綾夏の家族と顔合わせをする約束を取り付けてしまっていた。
「私が行って、医者に探り入れてみようかしら」
『それは止めた方が良い。どうやら彼女、裏で危ない奴と繋がってるみたいだから…外で動くのは俺だけにしとくよ』
「無理しない程度に急いでね」
難しい要求だが
『頑張るよ』






けれど時間は待ってはくれない
…週末は、やはり雨





「綾夏がどんな男を連れてくるかと思ったが、君のような男で安心したよ」
わっはっはと笑う割腹の良い綾夏の父親。
その隣で綾夏の母親が笑顔を浮かべ将の品定めをしている。
何か一つ失敗でもすればこの話しは壊れてしまうだろうに、試されるとつい受けて立ってしまうのは将の性格。いつも以上に肩の凝る店で楽しくも無い相手に清楚で知的を装う将の笑顔は、仮面という意味ではこの母親より上手だ。
母親の自慢話しにそれとなく話題を合わせながらも、時折流れ込んで来る別の景色に知らず意識が向いてしまう。
桃子は朝から居なかった。
亮祐と組んで何か企んでいる事は分かったが、桃子に問い詰めても亮祐の近況を話すくらいでそれ以上は何も言わず終い。
もし何かをしでかすつもりでいたならば、既に事は起きていなければならないのだ。
『絶対に俺が何とかします』
亮祐の言葉を思い出した瞬間将は我に返り、不意に洩れそうになった自嘲の笑みを軽い咳払いで誤魔化した。
何を今更
人にばかり努力させて、自分は何をしていたというんだ。自分一人が不幸な気がして、ただ置かれた状況を悲観していただけだ。
全て身から出た錆、と言う一言に尽きるだろう。
この結婚が誰にとっても良い事でない事は分かってはいるが、せめて綾夏を愛してやる努力くらいはしてやらなくてはならない。
道はもう決めてしまったのだから。
ひたすらそう将は自分に言い聞かせながら食事会を無事乗り切った。ようやくこの場から解放されると思った将だが、
「今から家に来んかね」
綾夏の父親には随分気に入られたようで夕食まで招待されてしまう。
この状態が後何時間か続くかと思うとさすがに仮面を被り続ける自信が無く、用があるとでも言って断ろうかと口を開きかけて綾夏の視線が目に入った。
「…喜んで」
笑顔で頷かざるを得ない。
タクシー乗り場に向う途中、携帯電話を取り出した将は、
……?
首を捻る。
電源を入れたと同時にベルが鳴ったからだ。
「はい」
『兄さん? 良かった、やっと通じた』
桃子の安堵混じりの縋るような声。
「何だ、何処から掛けてる?」
やけに後ろが騒がしい。
『病院』
「病院…って誰か」
『刺されたのっ』
「え?」
『狩野さん刺されたのっ!』
「ど…」
う言う事だ
『お願い、直ぐに来てっ』
何が…どうなってるんだ










きっととんでもない顔色をしていただろう。
「友人が怪我をしたので…」
矢島氏に夕食の招待をそれだけの言葉で断り、綾夏の射すような視線を背に将はその場を後にした。
ただ傍に行かなくてはとその想いだけが気持ちを急かす。
本当に大切な人が誰かなんて最初から分かっていた事だ。
病院に駆けつけると警察の事情聴取を受けていた桃子が、将の顔を見るなり大泣きしてしまった。
桃子と一緒にいる時に刺されたのだと言う。
亮祐が刺されたのは左大腿部。
出血がひどく緊急手術が行われた後、集中治療室に入った所までは分かったがその後の容体が分からない。
程無く亮祐の家族が到着したのだが、母親がまたひどいパニック状態に陥っていて、泣いて謝り続ける桃子の責任で刺されたと信じ込んでしまい、杉浦の人間は一切亮祐に会わせないと豪語してしまった。
本当の事情がどうであれこれ以上母親を興奮させるわけにはいかない。
亮祐の容体が気になりながらも、2人は病院を後にする事になった。











ようやく桃子が重い口を開いたのは、その病院からの帰り道。
「…偽物?」
将が呆然と呟いてしまうのも無理はない。
実は付き合い出して間もない頃、将は一度綾夏に別れ話を切り出した事がある。その時彼女は取り乱す事無く微笑んでみせて、少し考えさせて欲しいと言った。
それから数日後
『あなたの子供だったのよ』
そう言って綾夏はいきなりあの診断書を持ち出したのだ。
将は過去にその手の失敗をした事はない。確かに100%有り得ないとは言いきれないが、あまりのタイミングの良さに直ぐには信じられなかった。
当時綾夏には将以外に何人か男がいた事は知っている。
本当に自分の子供だろうかと疑いはしても、過去形で言われてしまってはもう調べる術が無かった。
桃子が部屋を物色していた事にも驚いたが、あの診断書がまさか偽物だったとは…。
「狩野さんずっとあれが偽物だって証拠掴もうとしてくれてて、何度も主治医に掛け合ってくれたの。お医者さんの方も責任感じてたみたいで、今日会って本当の事話してくれるって言うから…」
桃子はそこで言葉を詰まらせる。
亮祐はひとりで会いに行くと言ったのだが、勝手に付いて行ったのは桃子なのだ。
「待ち合わせ場所の傍で急に男が絡んで来て、大切な用があるからって狩野さん事を荒立たせない様にしてくれてたのに、私が騒いだからあいつらナイフ出して来て…それでもみ合ってるうちに狩野さん刺されて…。私がっ、私が…」
将は桃子の頭を2度ほどぽんぽんと叩いてやる。
「桃子は悪くないよ」
将が責められるはずも無い。
「でも狩野さんがもし…」
「大丈夫。あいつは絶対に死なない」
『俺運が良いですから』
その言葉を一番信じたかったのは将だった。











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「一体お前達は何をやっとるんだっっ!」
怒鳴り声が家中に響く。
「子供を犠牲にしてまで面倒見てもらわにゃならん程、ワシはまだもうろくしとらんっ」
血管が切れんばかりの勢いで怒鳴り付けるのは将の父親。テーブルを挟んだその向かい側で将と桃子が俯いて正座している。
あの事件の翌日、綾夏の母親が縁談の話しは考えさせて欲しいと連絡してきた。
どうやら将が夕食を断った時の態度が原因らしかったが、綾夏が何も言って来ない事が気になっていた。
その理由が分かったのが昨日。
先に逮捕されていた亮祐を刺した犯人の口から、綾夏の名前が出たのだ。
診断書の事を姑息にかぎまわっている亮祐に対する警告だった様だが、元を辿るとそこには将の存在が有る。
こうなるとさすがに父親も黙っている訳にはいかない。
師から聞いたのか、ある程度の事情は知っているらしく、
「ワシは一度もお前に家に戻って来てくれと頼んだ覚えはないんだ、そこまで惚れた女がいるならとっととその女連れて何処へでも行っちまえっ!」
将に好きな人がいるとなれば女性を想像するのは普通の事。
言葉に将は黙ったまま俯いていたが、状況は分かっていてもつい吹き出してしまったのは桃子。
「何が可笑しいっ!!!」
当然父親の怒りを更に煽ってしまい、
「大体、お前は昔っから緊張感が足りんっ。女だてらに何にでも首を突っ込むからこう言う事になるんだ。ほとぼりが冷めるまで暫く家でじっとしてろっ。そもそも将が付いておきながら人様に怪我までさせおって…ワシゃあ死んだ母さんに顔向けが出来んじゃないかっ。きっとあいつも草葉の陰で泣いとるぞ」
わなわなと拳を震わせながら仏壇を仰ぎ見た父親の姿に、将は溜め息をついた。
本当に母親が泣いているとするならばきっと別の理由だ
すると頃合いを見計らって、師が部屋に顔を覗かせる。
「親父、風呂沸いてるから」
しかめっ面のままのっそりと立ち上がった父親を見て、
「桃子、布団」
頷いた桃子は後を追う様に部屋から出て行き、入れ違いに師が将の前へと腰を下ろした。
「久し振りに親父の怒鳴り声聞いたな」
ポケットから出した煙草に、足を崩しながら将が人差し指を立てて見せる。
「お前、吸うのか?」
「たまにね」
師は少し驚きながらも一本煙草を抜き取った後、ケースごと将に差し出した。
そこから引き出すように将も一本煙草を取って、口に軽くくわえる。そばのライターを先に師に差し向け、ついで自分の煙草にも火をつけた。
将の手付きは慣れたものだ。
「お前の考えてる事は、ガキの頃から分からなかったからなぁ」
最初の煙を吐き終えるまでその仕草を眺めていた師の呟きに将は笑う。
「外面だけは良かったからね。誰にでも適当に合わそうと思えば合せられたけど…結婚はやっぱり無理だったな」
「断れなかったのは、俺が囃し立てた責任もあるんだろう?」
「んー…それもあるけど他にも色々有ったんだ。途中までは俺も自分を誤魔化しきれると思ってた部分もあったし…」
「今思うとあの男が来てからだったな、お前の様子が変わってきたの」
少し迷っての師の言葉に、将は灰皿に灰を落としながら考える様首を傾げる。
「あいつ見ててね」
目を細めながら、
「人を好きになるってこう言う事なんだって初めて思った。俺はいつまで経っても綾夏に対して義務感しか抱けなかったし、綾夏は俺に求める事しかしなかった。お互いに相手を理解したいって気持ちがなきゃ何処まで行っても平行線だ。…あいつが居たからそれに気付く事が出来たんだけど、もう綾夏に対する責任が大きくなり過ぎてて身動きが取れなくなってた」
煙草を吸う。
「さっさとどっちかに腹括ってしまえば良かったのに、俺がグズグズしたばっかりに最悪の事態だ」
言葉に頷きながら師が向けた視線の先には、随分と穏やかな将の表情。
確かに最悪の事態といえばそうだろうが、それでもこの結果に師自身はある意味満足していた。
ここ数ヶ月の将の状態を思うと、綾夏との結婚は相当な重荷だったのだろう。
気付こうと思えば気が付けただろうに、社会的立場が先に頭に立ってしまった師は、知らず将を追いつめる一端を担ってしまっていたのだ。
やはりある程度の責任を感じないではいられない。
「…これからどうするつもりなんだ?」
「矢島専務の所には頭下げてくるよ。兄貴には…」
「覚悟はしてる。今更足掻いても仕方がないからな」
有り難うと将は頭を下げる。
「あいつとは?」
本当に師が確認しておきたかったのはこの事。
家族の誰とも似ていないその独特な容姿と雰囲気のせいか、将には学生時代から男との交際の噂は履いて捨てるほどあったのだが…
「色々と片付ける問題が有るからね、今はどうにも出来ない。向こうの親は多分会わせてくれそうに無いし」
「お前はどうしたいと思ってる?」
暫く首を捻った後、
「体裁とか全部抜きにするとすれば…親父が言ったみたいにしたい気持ちが強いかな」
将はゆっくりとそう返した。
師が深い溜め息と共に煙を吐く。
ここまではっきり将が本音を話すという事は、もう決心がついているという事だ。
「気味悪い?」
「…と言うより、理解はしてやれない」
「だろうね」
少し落胆したような将の言いようだったが、男に肉体的欲望を抱く気持ちはどうしても師には理解は出来ない。だが解らないなりにも、あの綾夏が送り付けてきた写真の中の将の表情を悪くはないと思った事は事実。
家族の前ですら自分を装おうとする将が唯一選んだ人間ならば、それを取り上げてしまう事はしたくはない。
「どうせ止めたって無駄なんだろう?」
将の苦笑い。
「お前も色々な問題がある事は分かってるんだろうから…」
師は煙草を揉み消した。
「どうせ最後に泣くのはお前なんだ、好きに生きれば良いさ」














*************************
















そろそろ梅雨も明ける頃だが、最後に降り納めようとしているのかいつまでも空は頑張って雨を降らせている。
「狩野さん元気にされてますよ。まだ松葉杖ですけどしょっ中病院の中歩き回ってるし、力と時間を持て余してるみたい」
訪れる度親切に容体を教えてくれる看護士に将は丁寧に礼を言う。ナースステーションを後にしようと振り返ると、偶然廊下を歩いて来た亮祐の母親と目が合った。
黙ったまま将を見つめる彼女に頭を下げ、エレベーターへと向かう。
と、
「杉浦さんっ!!!」
病棟の中とは思えないような大声で叫んだのは亮祐だ。
良くこの距離で、と言うくらい遠い場所から将を発見した亮祐は松葉杖で精一杯走って来ていたが、将は僅かに目を細めただけでそこを後にする。
亮祐との面会許可はまだ下りてはいない。
2人の正確な関係を知る所となれば将は病院にすら出入りさせては貰えないだろうが、亮祐がこの件に関与している本当の理由は未だに表面化してはいなかった。
黙っていても何れは綾夏の口から漏れるだろうと将は思っていたのだが、何故か綾夏はその事実を伏せたままなのだ。
綾夏のプライドがそうさせたのか、将に対して少しでも愛情があったのか…
今となっては将にもそれはもう知り得ない。

綾夏とは終わった

















外は雨
病院の玄関から足早に駐車場に向う将は、
「待って下さいっ!」
呼びかけに振り返った途端、驚いて即座にアスファルトを蹴った。
この雨の中傘もささずに亮祐が飛び出して来ていたのだ。
「何をしてるんだっ」
傘を出した将に抱き着いた亮祐。
松葉杖が音を発てて地面に倒れた。
「すいません、俺っ…」
亮祐は全身で将を抱き締める。
「謝る事一杯で、どれから謝って良いかっ… て……?」
抱き込んだのは将。
せっかく逢わずに済んで居たと言うのに
「え…っと」
「ごめん、俺が怪我させた」
まだ、逢いたくはなかった
「これは俺が勝手に」
「周りの皆巻き込んで…不幸にして」
きっと
「違いますっ、そんな事は」
「全部俺の責任なのに」
言わずにいられない
「杉浦さ」
「幸せを一人占めしてる」
「…ん?」
将は抱き締める腕に力を入れた。
嘘はもう…
「好きな人、抱き締めてる」
つきたくないから
怪我人を雨の中立たせたまま、抱き締めた腕が離せない。
自制が利かなくて将が肩口に顔を埋めると、
「車」
少し間を置いての亮祐の声。
「杉浦さん車ですよね。車行きましょう、車っ」
何だろうと亮祐を見ると、
「ここじゃあ、キスが出来ませんから」
将は笑う。
幾ら夜だとは言え、病院の玄関脇では人目がある。
今だけは亮祐の方が常識人だ















........................................












「こら」

「…じっと」

「してろ」
雨…
「ってば」
降り続ける雨、と
止まないキス。
車の後部座席に乗り込んで、積んであったタオルで亮祐を拭いてやろうとする将だが、キスを止めない亮祐に思うように作業がはかどらない。
最後には亮祐の顔にタオルを押し当てる。
「風邪ひくだろうが」
けれど亮祐はそれを押し退けて、
「大丈夫。今、病院在住ですから」
深く唇を重ねる。
将は仕方なく作業を諦めると亮祐の背中に腕を回した。
雨の音だけが静かな車内に響いている。
優しすぎる雨音は、2人の耳には届いていない。
長い長い長いキスの後、ようやく息をついた亮祐に、
「…満足?」
囁くような将の声。
「今の所」
答えて将の項に甘えるよう鼻を擦り付ける。
「俺、杉浦さんが怒って来てくれないと思ってたんです。まさかお袋が邪魔してたなんて」
「お母さんが怒るのは当然の事だよ」
「そんな事はありません。俺が色々迷惑掛けてしまって…百貨店進出の事とか、桃子ちゃんまで嫌な思いさせたし…」
言ってる内容は深刻なのに、喋りながらも将の首筋を唇が這う。息が妙な具合に項に掛かって将は亮祐から身体を離しシートに凭れた。亮祐との事は全てが片付いてからと思っていたのだ、こんな事をしていてはあまりに不謹慎。
「百貨店の件は白紙に戻ったよ」
不満顔で腕を伸ばす亮祐を、かろうじて取り押さえながら将は話しを続けた。
「矢島専務も初めは相当怒ってたんだが、綾夏に余罪が色々出て来てね…俺の方も何もしてなかった訳じゃないから、お互い綾夏の件は水に流そうって事になったんだ。百貨店に進出するかどうかも兄貴達と再検討してみる。桃子の事は…っと」
待ちきれない亮祐は抗う将の腕ごと引っ張り寄せて、
「その話し、後どれくらい掛かります?」
将の返事を塞いでしまう。
会話は中断
再び雨音のBGM
………
「…あのなぁ、聞くつもりが無い質問ならするな」
大きく息をついた将は言いながら亮祐を睨んだ。亮祐は前にも同じ手を使った事が有った事を思い出したが、あははと笑って誤魔化してしまう。
「今ので暫くもちます。何もしませんから、話しを続けて下さい」
今更だが亮祐は変わり身が早い。
「…桃子は今謹慎中だ」
「それは可哀相ですよ。今回の件は桃子ちゃんも被害者じゃないですか」
謹慎処分になったのは変な所で笑ったからなのだが、
「たまには反省させた方が良い時もあるよ。さすがに狩野が刺された日は可哀相だとは思ったが、それにしても立ち直りが早すぎる。大体あいつのする事は度が過ぎてるんだ、知らない間に人の部屋に忍び込んでるし…綾夏と別れた後なんてどれだけ押し付けがましく狩野の話しして来た事か」
「じゃあ、もしかして俺の退職理由」
「聞いてる。会議で役員連中に楯突いて、現場外されたんだってな。狩野が品質管理部じゃ宝の持ち腐れだよ。さっさと辞めて正解だ」
「それって随分じゃないですか。俺、どうすれば納得してもらえるか結構悩んでたんですよ」
亮祐の抗議に将は小さく溜め息をついた。
「別れる口実がそれしか無かった。もっと完璧に別れてしまおうと決心してたのに、嘘を見抜かれたと思った瞬間誤魔化せなくなってしまって…。あんな意味深な言葉残されたら誰だって理由を追求したくなるよな。電話の時もさっさと切れば良かったのに…本当にもう何もかもが中途半端で嫌になるよ」
落としていた視線を亮祐に戻すと、にっこりと亮祐は笑顔を向けた。
「じゃあ名誉挽回の為に、さっきの続きをしましょう」
「お前、真面目に聞いてたのか?」
言ってはみたが、
「聞いてましたよ。この状況が一番中途半端だと思うんです」
また亮祐の都合の良い所取りの解釈。
パッパとYシャツのボタンを外しだす手を抑える方が大変で呆れる暇が無い。
「今日は無理だって」
力で叶わないなら、将はどうにか言葉で説得しなければならない。
どう考えてもまだ手放しで受け入れられる身分ではないのだ。
「狩野、良く考えてみろ。その怪我でどうやって最後までするんだ?」
現実問題の提示に取り敢えず亮祐の手が止まった。
確かに左足の自由が利かないとなると、やや難しい気がしないでもない。
亮祐は少し考えてみせ、
「…上に乗ってもらえれば」
ペシッ
と、額を叩かれる。
「何もそこまでして、しなくても良いじゃないか」
「俺はしたいんです」
「俺が嫌なんだっ」
「杉浦さん、好きだとか何とか言って本当は愛なんて無いんじゃないですか?」
恨みがましく拗ねて見せる亮祐。
「どうせ俺なんて年下だし迷惑かけるし怪我してるし…」
「どうして急にいじけるんだ」
「だって、愛が有れば何だって」
「出来ない」
「やっぱり愛が」
「違うって。第一車の中でなんて」
「場所の問題だったんですか?」
亮祐は嬉しそうに瞳を輝かせた。
どうやら騎乗位は嫌ではないらしい。と、亮祐は勝手に決め付けて、
「病室ならベッドが有りますけど」
「尚悪いじゃないか」
こうなれば…
理屈で押し切ろうとする将に苛々して、ガバッと実力行使に出た亮祐だが、
「いっ!!」
押し倒す途中勝手に負傷箇所を前部シートにぶつけて敢え無く撃沈。
「ほら見ろ」
言って呆れながらも将の胸の上に頭を沈めた亮祐の髪に手を置いた。
「そんなにしたいなら、早くその怪我直すんだな」
何やら嘆いている亮祐をよしよしとなだめてやりながら、将は何気なく窓の外に視線を向けた。
いつの間にか雨は小降りになっている。
街明かりが空気中の水滴に反射して、ボンヤリと膨張して見えるのが結構綺麗。
こうしていると雨もそれほど嫌なものではない。
…つまりは何もかも気の持ちようだ
亮祐は以前運が良いと言ったが、運が良いと言うよりは不幸を不幸と思わないのだ。
だから強い。
その強さが逆に運の方を引き寄せているのだろう。
『どうせ最後に泣くのはお前なんだ』
不意に師の言葉を思い出す。
確かに師の言う事は正しいと理性はそう判断するが、先の事は誰にも分からないとも思う。現に1年前に今のこの成り行きを誰が想像出来ただろう。
亮祐は立ちはだかる困難にも負けず、自分で自分の幸せを勝ち取ったのだ。それと同時に一度は捨てたと思った幸せを将も手にしていたのかもしれない。
未来はきっと変えて行ける
そう思える強さを教えてくれた亮祐にいつか必ず応えてやろう。


窓の外は雨
ずっと聞き続けてきた雨の音ももう終わるはず

今年の夏は、アツくなりそうだ



















作:杜水月
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