予期せぬ出来事 

 ズザッ
 ズザザザザッ………
 キッッ!!

 無事到着、っと。
 亮祐は車のエンジンを止めキーを抜くと、一つ大きな溜め息をつきシートに身を預けた。
 現場が引けた後、夜の高速道路を三時間休み無しでぶっ飛ばして来たのだ。いくら若いといえども疲れるのは当然だった。
 少し瞼を閉じ頭の中を空っぽにした後、薄く目を開け何気なく見上げた本社ビルの上から四つ目のフロアに控えめだが明かりが点いている。  亮祐は腕時計に視線を落とした。
 十一時二十三分
 もちろん夜の、だ。
 経理課や総務課が時々遅くまで残業している事は亮祐も知ってはいるが、六階と言えば開発部。部署名はそれとして、この会社の開発部はこんな時間まで残業するような部署ではない。
 首を傾げながらも亮祐は車から降りると、後部座席から簡単な荷物だけを手に持ちロックした。
 深夜のオフィス街
 歩く人影など無いに等しいが、所々ビルには明かりが灯されていた。本社ビルに着くともちろん玄関は閉められており、裏口からビルに入った亮祐は一階の自動販売機の前で足を止め少し考える。
 ポケットの中で握り締めていた小銭をそのままポケットの底に戻し、再度荷物を持つと亮祐所属部署のフロア五階までエレベーターで移動。
 …残りがあればちょっと覗いてやろう
 廊下の一角に設けられている給湯室の冷蔵庫を開くと、軽く口の端を上げた亮祐は中から良く見知ったサイズの缶ビールを二つ取り出しその足で非常階段へ向った。
 特に深い意味など無かった。
 入社四年目にして本社の殆どと顔見知りの亮祐が、ただ単純に話し相手を探しに行こうと思っただけのこと。
 六階に着き廊下に亮祐の足音だけが響く。開発部の扉の前で足を止めノックも無しに扉を開いた。
「お疲れさ…」
 ま、の瞬間フロアの奥の方で亮祐を見つめている人影と目が合い言葉を止める。
 言葉を止めたのは亮祐にとって意外な人物だったからだ。
 彼の名は杉浦と言う。
 二十歳代中途入社にして既に開発部課長の座を射止めている若手幹部最有力候補。異例の大抜擢にもちろん回りは黙っているはずが無く、言い寄る人間も多い様だが、亮祐から見ればどちらかと言えば逆風が強いように思えた。しかしその凛とした風貌と態度のせいか、何ものにも彼は動じてはいない。
 少なくとも亮祐にはそういう印象があった。
 珍しい人が居るもんだ
 そう思いながらも部屋の中の人物へと歩み寄る。すると、
「お疲れなのは狩野の方だろう、今戻ったのか?」
 軽く声を掛けて来たのは杉浦。亮祐はいつものイメージと違う彼の反応に少し驚きながらも、にこっりと微笑み、
「三時間ぶっちぎりですよ」
 Vサイン…・では無く、指を三本立てて見せた。
 目を細めて二度頷いた杉浦の視線が亮祐の手にある缶ビールで止まる。
「それ、餞別?」
 一瞬眉間に皺を寄せた亮祐が視線の位置に気付き、彼の机の上にそれを置いた。
「納会の残りが冷蔵庫に有ったんで…。誰か居るなら寝酒に付き合ってもらおうかと思ったんですけど、お邪魔でしたか?」
 邪魔も何も作業をしていた様には見えず、電話と簡単な筆記用具以外何も無い杉浦の机の上は帰り支度と言うよりも…
 そこで亮祐は気付く。
「あの…もしかして今、餞別って言いました?」
「もしかしなくても、餞別って言ったんだが」
「何処かに移動でもするんですか?」
 何と言っても幹部候補なのだ。営業所副所長とか工場の部長補なんかに昇格するのだろうかと予測しての言葉なのだが、杉浦はあっさりとそれを否定した。
「俺が辞めることはそんなに意外だろうか」
 辞める…?
 って
「会社をですか?」
「それ以外に何が有るんだ」
 それはそうだろうが
「…どうしてまた」
 唖然と返した亮祐の言葉に杉浦は少し機嫌を害したのか、しかめっ面で机の上の缶ビールを取るとおもむろにプルトップを引きビールを喉に流し込んだ。
 辞表を差し出した瞬間の部長からはじまり皆が皆、示し合わせたように同じ反応をするのだ。杉浦にすれば、いちいち退職理由を説明することにいい加減ウンザリしていても仕方がない。
 一方亮祐はトラブルを起こしている現場のせいで、この二ヶ月本社には帰って来れずそんな事情など知るはずも無く…。つまり杉浦がビール片手に、側の鞄を取って席から立ち上がってしまってもその理由が分からない。
 分からないまでも、
「じゃあ今から送別会しましょうよ」
 亮祐は彼を引き止めていた。
 多分これにも深い意味はない。
 新入社員が入社すれば歓迎会がしたいし、退職者が居れば送別会がしたい。人見知りの無い亮祐にとっては、人数も相手もどうだって良い訳だ。
「俺、今日会社に泊まりなんです。もうちょっとビール取って来ますから先に上がっててもらえます?」
 親指で階上を指した亮祐に少し杉浦はあきれてみせた後、
「酒なら俺が調達して来よう」
 意外にも笑顔でそう返し部屋から立ち去って行った。

*************************

 本社ビルの最上階には仮眠室がある。
 仮眠室とは言いながら畳敷きで押し入れには布団一式が揃えられており、冷蔵庫に簡単な食器なんかも設けられている。もちろん誰でもが泊まれはしないが、深夜帰社して明朝一番の会議に出席する亮祐への上司の計らいなのだ。
 杉浦が部屋を出た後六階の戸締まりを済ませた亮祐は、仮眠室へと入ると荷物を隅に置き壁に立てかけてあった折畳式の簡易テーブルを真ん中に広げグラスを用意した。
 一人になるとさすがに疲労を感じ、近くの壁に凭れて瞼を閉じていると程無く廊下に足音が響く。
 部屋に入って来た杉浦がテーブルの側に座るなり、ビニール袋から出しはじめた様々な酒類に亮祐は驚いて身を乗り出してしまった。
「そんな物、何処から持って来たんですか?」
 開封されている物もあるのだから、買ってきたわけでは無いのだろう。
「会議室の秘蔵品」
 杉浦は平然と答えながらさっさと飲みかけのビールを自分のグラスに注いだ。
「上司がわざわざ調達して来てやったんだ、後の事は自分でしなさい」
 言ってグラスに口をやった杉浦を、
「待った、待った!」
 慌てて亮祐は止めて、自分のグラスにもビールを注ぐと軽くそれを持ち上げる。
「杉浦課長の長年の労をねぎらって…・」
「三年しか勤めてない」
「それでは杉浦課長の功績を称えまして」
「何の功績?」
 言われて亮祐は言葉に詰まる。
「じゃあ…課長の前途を祝して」
「結婚式じゃあるまいし」
「いちいち煩いですね、名目は何だって良いんですっ。とにかく」
「我が社最年少の現場主任に乾杯」
 亮祐のグラスにカチンと自分のグラスを当てた杉浦は、一気にビールを飲み干した。
「ズル過ぎる…・」
 睨むように呟いた亮祐の言葉は聞こえなかったのか無視されたのか。
 今にも鼻歌を歌い出しそうなくらい機嫌良さそうにグラスにビールを注ぎ足す杉浦を眺めて、
 どっちでも良いや
 心の中で呟くと亮祐はグラスのビールを飲み干した。


「つまり饅頭屋の跡を継がなきゃいけないと?」
 ビールを飲み尽くし冷酒を味見と称し三本空け、ブランデーに移行したものの氷が無くストレートでそれを口に含んだ杉浦は、眉間にしわを寄せながら首を振る。
 話題は杉浦の退職理由になっていた。
 さっきはその話題で不機嫌になった杉浦だったが、酒のせいで口が軽くなっているのか今度はあっさりと話してくれた。
「跡継ぎは兄貴の方で、俺は家業を手伝うと言っただけ。…まぁ、勘違いされるような言い方はしたんだが」
「それって、退職理由が別にあるってことじゃないですか」
「…そう言う事になるかな」
「どうして嘘ついてまで辞めなくちゃいけなかったんです」
「誤魔化しはしたが、嘘はついてない」
 株式会社杉浦饅頭屋に就職するのは本当のことなのだが、
「じゃあ俺が納得できる訳を言って下さいよ」
 ムキになって詰め寄って来た亮祐から少し身を引く杉浦。
「絡むなら帰るぞ」
「絡んでません」
 変に勢い付いている亮祐に杉浦は溜め息をつき、
「一身上の都合」
「そんな子供騙しが通ると思ってるんですかっ」
 どうやら聞き分けが悪そうだ
「何を怒ってるんだ」
「怒ってもいません、ただ知りたいだけです。あれだけ周りから将来を有望視されてたのにどうして辞めなきゃいけなかったかを。逆境をものともしない課長の態度、俺尊敬してたんですよ」
 思い付きでもお世辞でも無く亮祐は本気でそう思っていた。
 杉浦には仕事は出来るが人間的に何処か冷たい印象を持っていた亮祐。だが、こうやって話してみるとずっと気さくな人物だった。直属の上司なら兄のように慕っていただろう。
「もっと前に知ってれば引き止めたのに…」
 それは無理
 心の中でそう呟いてグラスの中の液体に視線を落とした杉浦が、暫くしてポツリと呟いた。
「会社のやり方が気に入らなくなった」
 肩を落としていた亮祐は視線を上げる。
「どのみち明日…もう今日になるな、とにかく会議に出れば少しは分かるよ。会社のトップ連中が何を考えてるか。将来を有望視されてるのは狩野だってそうだから俺が今、何かを言うと先入観を持たせてしまうだろう。会社に対してどう思うかは自分で判断することだ、これから伸びようとする芽を摘んでしまうような悪趣味は持って無い」
 すると言葉を聞き終えた亮祐の表情が跳ねるようにほころんだ。
「それって、俺の事誉めてくれてます?」
 確か今の今まで真面目な会話をしていたと思っていた杉浦は、軽く眉をひそめながら、
「お前、人の話の何処を聞いてるんだ」
 かなりな呆れ口調。
 それでもコロコロと変わる亮祐の表情が可笑しくて杉浦も笑顔を向ける。と、その瞬間さっきからずっと亮祐の脳裏をかすめていた単語が不意に言葉になった。
「可愛い…」
 亮祐の瞳は真っ直ぐに杉浦を捕らえてはいるが…
「……は?」
 理解不能。
「そう言われたこと無いですか?」
 唐突な話題転換にさすがの杉浦も付いて行けず、少し亮祐を見ると、
「誰が」
 自分に向けられた言葉だとは思い難かった。
「意外に童顔だったんですね、今まで気が付きませんでした」
「誰が?」
 目を細めた杉浦は再度同じ問いを繰り返す。
「笑ってると結構俺のタイプかも」
「だから誰の話を…って、ぅわ …うわっ!?」
 状況が呑み込めない
 などと言うことは無い。
「…………」
 組み伏したまま自分を見下ろしている亮祐を、驚いていたにしても黙って見上げてしまったことがそもそもの間違いだった。いや、後から思えばそもそもの間違いは二人で送別会をしようと、ここまで来たことにあったのだと思ったってどうしようもない。
 後悔は先には立たないのだ
「俺、噂聞いたこと有るんです」
「…誰の」
「さっきからそればっかりですよ」
 含み笑いを浮かべた亮祐に杉浦がムッとした表情を見せると、亮祐は笑いをかみ殺しながら挑発的な言葉を口にする。
「どうして今まで気が付かなかったんだろう、笑ってなくてもそそる仕草見せるんですね」
「男に発情してんじゃない、どけよ」
 身体を押しのけようとした杉浦だが、体格からして既に分が悪い。
「杉浦課長男色説って知りません? 今まで嘘だと思ってましたけど、こうしてるとあながちそうでも無さそうな気がして来ました」
「独り決めするんじゃないっ」
「でも抵抗しないじゃないですか」
「さっきから嫌がってるのが分からないか?」
「全然」
 若干の抵抗は感じないでも無いが、亮祐には本気で逃げようとしているとは思えなかった。
 怒っているような愁いているような複雑な表情で亮祐を見上げている杉浦に、迷いはしたものの今更止める気にはなれずキスがしたくてゆっくりと亮祐は影を落とした。
 と、
 パンッ!
 乾いた音に目を見開いた亮祐だが、視線の先の加害者の方がもっと驚いた目をしていて、おまけに、
「あっ、と…ごめん」
 などと謝られてしまっては理性が切れるのも無理はない。
「…抱かせて下さい」
 思って実行してきたことは有ったが、はっきり言葉にしたことは無かった。亮祐の手は無意識に杉浦のシャツをたくし上げる。
「や…めろ、って」
「止めません」
「狩……っ」
 脇腹から胸に這い上がる指に、杉浦は言いかけた言葉を途中で呑み込んだ。その反応で亮祐は直感する。
 噂は本当なのだ、と。
 だったら…
「抱いたって良いですよね」
 言って深く唇を重ねた。
 返事はどうだって良かった、どっちでも同じことなのだから。
 気が遠くなるような長いキスの後もう一度だけ亮祐は口を開く。
「抱きたい…」
 かすかに動いた杉浦の唇から漏れた言葉は…
 妖しく響く衣擦れの音と甘い吐息の中に、落ちて
 …消えた

*************************

 窓の外から聞こえる鳥のざわめき…
 睡眠時間が短かったわりに、すがすがしく目覚めたのは亮祐。
 壁の時計を見上げると六時にはまだ少し早い時間で、十分寝直す余裕は有ったがそうはせず、亮祐は軽く片肘を突き傍らで静かに寝息をたてている人物を眺めて見た。
 夕べ、どの時点で杉浦に恋愛感情を抱いたのかは良く分からないが、生理的欲求だけで抱きたいと思ったわけでは無いことは確かだった。それが証拠に今、亮祐の心の中は杉浦への愛しさで溢れている。
 ただ…
 ああ言う場合相手も同じ気持ちを抱いてくれているかと言えば、
「強姦魔」
 世の中そんなには甘くないのだ。
 後から目覚めた杉浦のニコリともしない一言に、亮祐は苦笑いを浮かべながらも軽く反論。
「確かに迫ったのは俺ですけど、拒まなかったじゃないですか」
「ちゃんと俺は抵抗したはずだ」
「それは最初の3三十秒くらいです」
「馬鹿言うなっ、三分は抵抗した」
 冗談を言っているのかと亮祐は杉浦を見たが、話しながらも忌々しげに服を着はじめた杉浦はいたって真面目な様だ。
「本気で嫌がってたなら俺だってあそこまでしてません。大体平手食らわせておいて謝るなんて卑怯じゃないですか」
「まともに入ってびっくりしたんだ」
「でもあれで俺、理性が飛んだのに」
「人に責任転嫁する気か?」
 少しは杉浦にも責任が有るとは思ったが、これ以上言い返す事は諦めた。これではいつまで経っても水掛け論だ。
 亮祐は杉浦とこれからのことを話しておきたかった。
「責任の問題はそれとして」
「良くそんなことが言えるな」
 早く話を進めたくて亮祐の気は急いている。
「済んだ事はそれとしましょう」
「お前が言うなっ!」
 飛んで来た空缶を軽くキャッチ。見ると杉浦は相当怒っているようだ。
 もう余計なことは言うまいと決心して
「順序が逆になりましたけど」
 布団の上で居住まいを正した亮祐を、ネクタイを締める手も止めず杉浦は視線だけを向けた。
「俺と付き合っ」
「却下」
 杉浦は即答すると立ち上がる。
「…何処に?」
「帰るんだよ」
「まだ話が済んで無いんですけど」
「俺は忙しいんだ、こんな所で強姦魔とのんびり雑談するほど酔狂じゃない」
 杉浦は鞄を持ちブレザーを肩にかけると、思い付いたように亮祐に振り返った。
「余りの酒は九階会議室の戸棚に返すこと、それから空缶空き瓶はバレない様に処分しておけ」
 戸口で靴を履いている杉浦を亮祐は即座に追いかける。
「課長、実家って何処ですか?」
 怪訝そうに見上げた杉浦に言葉を足した。
「俺、会いに行きます。絶対に追いかけますから」
「迷惑だ」
「夕べは…勢いでああなってしまったことは反省してます。けど、せめて努力ぐらいはさせて下さい。やるだけのことをして、それで振り向いてもらえないならきっぱり諦めますから、お願いします」
「………」
 深々と頭を下げる亮祐に、杉浦は困惑顔で溜め息をついた。
 強姦魔とは言いながら、あれは合意の上での行為だったということを当の本人がちゃんと自覚している。亮祐に恋愛感情を抱いていたわけでは無いが、生理的欲求の処理と言う意味ではそれは杉浦の方に当てはまるだろう。
 残務整理に追われて暫く性行為とはご無沙汰だったのだ。亮祐の勢いに流されてしまったうえに、あまりに良すぎて意識まで無くしていては杉浦の立つ瀬が無い。気が付けば何時の間にか布団の中で熟睡していたようで、目覚めるとオールヌードでいたのも自分ひとりだった。
 今日寮を引き払わなければならない杉浦が忙しいのは事実だが、亮祐の眼前に晒されていることはあまりにも居心地が悪いのだ。
「…好きにすれば良い」
 それでも一部の否は内心認めている以上こう頭を下げられると、少しくらいの同情心は沸いてしまう。
「じゃあ…」
「但し」
 ガバッと頭を上げた亮祐の勢いに水を差すような杉浦の視線。
 同情はしても甘やかしはしない。
「今の現場をちゃんと片付けてからだ」
 瞬時に亮祐は表情を落とした。半年やそこらで終わるような現場では無いのだ。
「それが出来ないなら会いには来るな」
 ぬか喜びさせたように見えるが、これは上司としての責任でもある。
 今亮祐の居る現場は、その内夜逃げする者が出るのではないかと言われるくらい過酷な労働条件を強いられていた。若いながらも現場主任として頑張ってはいるが、何かの拍子に責任を放棄したくなった時、亮祐の逃げ場にはなりたくなかった。理由は何にしろ、逃げ出してしまえば結局傷つくのは亮祐なのだ。
「分かりました」
 亮祐には拒絶されているのだろうとしか思えないが、引き下がる気も無かった。
 限りなくゼロに近い可能性でも無いよりはずっと良い。
「いつになるか分かりませんけど、それまで待っていて下さい」
「待たない」
「課長ぉ…」
 よろけるように亮祐は側の壁に凭れ掛かって見せる。
「人の感情なんて不安定なものに縋るつもりはないんだ。現場が終わる頃に、狩野が今の気持ちで居続けられる保証なんて誰にも出来ないだろう?」
「あっ、俺今課長と意見が合いました」
 そう言いながら、突然立ち直った亮祐。
「今よりもっと好きになってます」
 その自信の源が何処に有るのか不思議に思いながら、杉浦はクルッと亮祐に背を向けた。
 起上り小法師が頭の中に閃いて、笑いそうになったからだ。
 ここで笑ってしまっては、また亮祐のペースに引きずられてしまう。
 下まで送ると付いて来た亮祐をエレベーターの前で制して、
「健康管理だけはきちんとしろよ」
 はいと元気良く返した亮祐に、ほんの少しだけ杉浦は笑顔を見せた。
「素直でよろしい」
 直後に閉まりかけた扉を亮祐は止める。
「名前…課長の下の名前なんて言うんですか?」
「努力するんだろう?」
 教えないということだ。
「実家の住所も…」
「努力の内」
 視線で扉から離れろと促された亮祐だが、杉浦の笑顔が見えなくなる瞬間慌ててエレベーターのボタンを押した。
 再度開いた扉に杉浦が睨み返す間も無く、二歩で亮祐は杉浦を抱き寄せ唇を奪う。
 夕べよりはっきり抵抗した杉浦だが体力の差はお互い承知済みで…
「お前、また…」
 一階でエレベーターの扉が開くまでしっかりとその状態を継続させた亮祐は、唇を離した途端不平を言いかけた杉浦を強く抱き込んだ。
「俺の事忘れないおまじない。これで一年は憶えてます」
 言葉の途中で突き飛ばされて、
「…と思います」
 自信喪失した亮祐の言葉に杉浦は吹き出しそうになるのをかろうじて堪える。
「もし今度が有れば、その直情気質直しとけよ」
 エレベーターから飛び降りた杉浦はそう言い置いてさっさと行ってしまった。すると亮祐もエレベーターを降りてしまったようで、
「課長ーっ!」
 裏口に手を掛けた杉浦に亮祐の呼びかけ。無視して扉を開いた背中にもう一言。
「愛してますっ!」
 バンッッ!!
 勢い良く扉は閉まる。
 深夜の思わぬ拾いものに例えそれが前途多難でも幸運だったと、笑顔で扉を眺め続ける亮祐。
 片や最後まで亮祐に振り回されっぱなしで、まるで不慮の事故にでも遭った気分の杉浦の一夜は、愛の言葉の絶叫で幕を閉じた。








 その二人の行く末を運命の女神はただ黙って様子を伺っているだけ…
 采が振られるのはもう少し先の話になる。





















作:杜水月
ホーム > 小説 > 社会人もの > 予期せぬ出来事


ご意見・ご感想・ご質問等は 杜水月 まで。
当サイトの無断転載はご遠慮ください。

(c) 1999 Mizuki Mori