優駿2 
-the first step toward fortune- 

 クリスマスカラーといえば赤と緑が相場だと思っていたが…
「あー、だからそう言う意味じゃなくて」
 こういった色の取り合わせも意外に悪くない。
「そんなんじゃないって」
 白いツリーに青の装飾
「そう言いながらそっちだって側に男が居るじゃないですか」
 金の天使が微かに空調の風に揺れている。
「さっきから低い声が聞こえて来てるんですよ」
 それにしても、相も変わらずクリスマスイブは巷にはカップル目白押しで
「本命だとかそう言う問題じゃなくて」
 こんな日は部屋で寂しく過ごすのと、
「俺だけ悪者扱いは合点がいきませんね」
 男同士で過ごすのとどっちが情けないんだろう。なんて考えるまでもなく、
「要するに、どっちもどっちってことですよ」
 …つまりそう言うことだ。


「何?」
 俺の頭の中とまったく関係の無い会話が偶然一致してつい浮かべてしまった笑みに、それ程不思議そうでもなく向かいの席から話し掛けられた。
「いえ、こんな所で僕と飯食ってる場合じゃなさそうだと思って」
 テーブルの脇に避けられた携帯電話に目をやりながら、俺は適当な言葉で誤魔化してみる。とはいっても内容は殆ど本音だ。
 さっきからこっちの会話がままならないくらい、彼の携帯電話は鳴りっぱなし。
 それもどうやら全て女性からのようだった。
「俺だって好き好んでこんな所に居るわけじゃないんだが、聖なる夜に残業してる清水の後ろ姿に哀愁を感じてね」
 ちらっと俺の顔色を窺う素振りを見せながら、
「なんて言うと本気にしそうだから…」
 にっこりと笑顔を向けた。
 この俺の真向かいに座っている男性。
 実は俺が今勤めている会社社長の長男で、1ヵ月程前から俺の上司なのだ。
 聞くところによると去年の春頃から、あちらこちらの部署を短期間で転々としているのだとか。それまでは別の会社に勤めていたそうだがこうやって戻って来たということは、そろそろ本格的に代替りの準備に入ったということになるんだろうな。
 彼は自他共に認める我が社の次期社長だ。
 その次代を担う彼が上機嫌で語る俺の接待理由なのだが、
「デトロイト支社の叔父貴が急きょ帰って来ることになってね、男2人の食事もなんだからついでに清水を誘ったんだ」
 言葉に俺はぎょっとしてしまった。
 デトロイト支社の叔父といえば、確か現社長の弟じゃないか。
「まぁ、ついでな訳だから気兼ねなく好きに飲んで食べてくれ。金に糸目は付けないからね、どうせ叔父貴に奢らせるから」
 なんてウィンクをされたってこっちは素直に受け入れられるわけがない。
 冗談じゃないぞ
 俺の部署に配属されたその日から妙に目を懸けられているような気はしていたが、次期社長…正確には部長補と2人で食事しているのだって気兼ねしているというのに、この上社長の弟と同席なんて…。
 出世欲のある人間なら又と無いチャンスなのだろうが、去年婚約を破談にされてからそんな気力は更々無い。
 しかし、さっさと退席させてもらおうと口を開きかけた俺の目的は、ピロピロと鳴る電子音のクリスマスソングの妨害に合ってしまった。
 さすがに申し訳なく思ったのか俺に軽く拝みながら携帯電話を取った彼に笑顔で首を振って見せ、小さいため息をつきながら背もたれに深く凭れると視線を窓の外に漂わせる。
 帰ると言ったところで認めてもらえそうもない
 見るでもなく眼下のイルミネーションをボンヤリと目で辿り、無意識に指がテーブルの上の小箱に触れて…
 …さっきの1本が最後だったことに気付く。
 暇つぶしに買ってくるか
 そう心の中で呟くと席を立ちかけた俺の目の前に、滑らせるよう投げてよこされた新しい煙草のケース。
 視線を上げると、どうぞと仕草で返されて俺は軽く頭を下げた。
 初めて見る銘柄に少し物珍しげにパッケージを開封した直後、俺の手が無意識に止まってしまう。
 ――この香り

“職場で吸うのは気が引けてね“

 あの夜、優駿が吸っていた煙草だ
 偶然――以外の何物でもないだろうが…
 俺の記憶が一気に数ヵ月前の夜までさかのぼる。
 今年の春先、優駿と出会ったのはこの店の前だった。
 たった一夜きりの行きずりの恋だったというのに、俺は未だ彼を忘れられずにいる。
 ギャンブルには縁の無かった俺が、ただ馬を観るためだけに競馬場に通っているのは、その名の通り優駿にはサラブレッドを思わす気品が漂っていたから。
 俺は懐かしむようケースから煙草を1本取り出すと口にくわえ火を付ける。
 瞳を閉じ深く煙を吸い込むと、静かに香りが身体中に蔓延して…

“媚薬効果が少し”

 …本当にトリップしそう

 薄く瞼を開き煙を吐きながらウィンドウを眺めると、そこに優駿の幻影が映る。
 まだそんなに飲んでないんだが…。
 マジでヤバイなぁ
 なんて思いながら俺は次第に大きく鮮明になってくる幻影を見つめ続けていた。
 マッチ売りの少女は今の今まで絶対不幸な少女だと思っていたが、思っていたより幸せだったのかもしれない。
 ほんの束の間の幻でも、精神的にはこんなにも満たされる。
 空ろにそんなことを考えている俺の向かいの席では、ようやく会話の終わる気配。
 いつまでも幻影を追っているわけにもいかず、名残惜しいがウィンドウに映る優駿の姿は、
 ピッ!
 その携帯電話の電子音でかき消され…
「遅かったじゃないか」
 無い。
 どころか、
「こんな日にスムーズに車が流れると思ってるのか?」
 まさか
 勢い良く振り返った俺はテーブルの側に立つ人影に視線を上げた。
「帰国そうそう呼び付けやがって」
 不満たっぷりにそう続けたのは正真正銘、現物の優駿。
 思いもかけなかった再会に呆然と見上げたままの俺へと、ゆっくり視線を移した優駿のその薄い端整な唇から出た最初の言葉は、
「はじめまして」
 能面のような笑顔を向けられて、俺は貝になってしまった。
 けれどそんな俺には構いもせず、さっさと視線を逸らした優駿は部長補の隣の席に腰を下ろしてしまう。そして近くのボーイに軽く手招きすると、メニューを開き特に迷うでもなく何かをオーダーしてみせて改めて深く椅子に座り直した。
 俺がはっきりと優駿を凝視しているにも関わらず、その視線は俺には向かない。
 別人、なんてことは有り得ない。
 憶えて…
 無いのだろうか。
「あまりに若いおじさんで驚いただろう?」
 ひたすら優駿を見つめたままの俺に軽くそう話し掛けてきた部長補の声で我に返り、
「え?」
 若い、って
「あー…」
 そういえば叔父貴って言ってたっけ
「ええ、まぁ」
 確かにもっと年上の人が来るものだと思ってた。
「爺さんスケベだからな、婆さんが死んだ後の再婚相手が娘ほど歳の離れた女性でね。その人の連れ子がこのおじさんな訳だ」
「じゃあ」
「そう、俺達全然似てないだろう? 戸籍上でだけ優駿と俺はおじさんと甥っ子」
「老け込むから、おじさんを連呼しないでくれないか。まったく同じ歳だというのに…」
 冗談めかした優駿の反論に俺の笑顔は引きつったまま固まってしまいそうだ。
 頼むからその愛想笑い、止めてもらいたい
 完全に俺を初対面扱いする優駿の態度に再会の喜びなんてとこかに吹っ飛んでしまっていた。
 …実のところ優駿には一夜限りの恋の相手なんて掃いて捨てるほど居て俺のことなんて記憶の隅にも留まっていないとか。
 けれどあの優しさが嘘だったとは…
 なんて思う俺が馬鹿なのだろうか。
 あの時本気で愛してもらえたと思っていたはただの自惚れ…?
 優駿に無視されなければならない理由を考えれば考える程気分は滅入ってしまい、表向きには和気あいあいと続けられる会話に、空返事でしばらくはその場をしのいでいたが…
 こんな無意味な会話を聞いていたってどうなるわけでもない
 これ以上此処に居たって辛くなるだけだから、
「…僕」
 帰ります。
 そう続けようとした言葉は再度、いい加減聞き飽きたクリスマスソングの妨害を受けることとなった。
 苦虫を噛み潰したような気分で側の煙草に手を伸ばして火を点ける。
 感じる優駿の視線に心の中で早く会話が終わることを祈っていたというのに通話を切った途端、
「俺、帰るよ」
 言ったのは部長補。
 次いでさっさと席を立った部長補は俺に軽く視線を向け、
「じゃあ後、叔父貴のお守り頼んだよ。結構溜め込んでるみたいだから遠慮無く奢ってもらうように」
 なんて言われても…
 携帯電話をポケットにストンと仕舞い込んだ彼は、テーブルから立ち去り間際軽く振り返って見せ、
「じゃあ、おふたりさん。Merry X'mas!」
 ふざけたウィンクをひとつ残して去って行ってしまった。
 立ち去る後ろ姿を、少し目を細めはしたもののただ黙って見送っている優駿。
 何がメリークリスマスだ
 優駿と待ち合わせをしていたのは部長補だったのに、この状況を俺にどうしろというんだ。
 俺達のことを何も知らないにしろ、ついでの俺には荷が重すぎるじゃないか。
 こんな他人行儀の優駿との会話なんて続けられない。
 何か帰る口実を…
「クリスマスだというのに思いっきりオリエンタルな匂いさせてるけど」
 口元に持って行った煙草をくわえたまま俺が視線を移すと、テーブルに頬杖を付きながら優駿が静かに俺を見ていた。
「名前のわりにはセンスが悪い」
 あ…
「まさかあれから癖になったとか?」
 柔かく向けられた優駿の本物の笑顔。
 ただそれだけのことなのに
「元気そうで何より」
 続けられた言葉に泣いてしまいそうになって、思わず俯いてしまった。
 優駿は憶えていてくれた
「ちょっと事情があってね、あいつの前では初対面のフリするしかなかったんだ」
 俯いたままの俺へと
「せっかくの再会なんだ、機嫌直してもらえないかな」

 …もうとっくに直ってるよ


 去年のイブは酷い過ごし方をした。
 菜穂子と別れたショックが大きくて、ひとりでわけが分からなくなるまで飲んでいた。
 好きな人と一緒に居る
 という意味では今年は理想的なイブを過ごしているのだろうが、さっきから続けられている俺達の会話はただの同僚…いや、上司と部下の会話だ。
 一度寝たからといって優駿は俺の恋人なわけじゃないのだ、別に俺を喜ばせなければならない義務は無い。
 会話を続けるうちに楽しいのか悲しいのかが解らなくなってきて…。
 優駿の本心を知りたいけれど上手く駆け引きができるほど俺は器用ではなく、告白する隙も優駿は与えてはくれない。
 …それでも俺はこの後、真っ直ぐには帰りたくなかった。
 優駿はただの食事会で終わらせるつもりでも

 俺から誘えば、優駿は応じてくれるだろうか…

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

 ひとつ、ふたつ…
「あっ…っ」
 ……みっ…つ
「…そこ」
「嫌?」
 僅かに頷きながら…。
 よっつ
「ふぅん」
「も…! ダメ、だ…っ て」
 僅かばかりの抵抗はさっきから
「そう…」
 なんて言葉で躱され続ける。
 中途半端に脱ぎかけた服、中途半端な広さの車の後部座席。
 時折差し込むヘッドライトに何度も声を潜めた。
「ひろ…と、し… っ」
「限界?」
「んっ」
 腰を強く進められて背中に回した腕に無意識に力が入る。
「…一緒に」
 喘ぎながら頷いて、空ろに開いた瞳に汗ばんだ優駿の喉元が至近距離で映し出される。
 あ… ここ、にも
「イクよ」
 なんて…言わなくていい。優駿のタイミング、大体分かる…から。
 ほら、もう
「あっ…、ん ん、っ」
 うめく呼吸が重なって
「…はっ…、……っ。ぅっ… くっ …!」
 体中が
 優駿で満たされて…
 次いでぐったりと、けれど全体重を掛けないよう静かに優駿が肩口に顔を埋めた。


「これ…、幾つ目だったかな」
 俺は額を優駿の項に摩り付けながらボンヤリと呟いた。程なく息を整えた優駿の問い返しに、
「ほくろ」
 答えた直後、
「それは婉曲に不服だったと申し立てられてるんだろうか…」
 ずっしりと体重を掛けられて、大きく息を吐きながら俺は首を振る。
 髪の先から足の爪の先まで全て記憶に刻み付けたかったから、暗がりの中優駿の姿を追い続けていた。
 それがほくろを数えていた理由…のほんの一部分。
 他に気を取られていたのは優駿の方、俺は鏡のように優駿の心を移しただけだ。
 …優しさは、感じられる。
 だけど愛情が有ったのか無かったのか…
 好きだとも、愛してるとも今夜の優駿は言ってはくれない。
 狭いエレベーターの中、周囲の人間に悟られないように優駿の袖口を掴んだのは俺。そっと重ねられた手に導かれるままセックスになだれ込んでしまったけれど…。
 迷いながら抱いたのは、俺に対する同情心?
 それとも絶対にいるだろう恋人への呵責の思い?
 せめて煙草を1本吸う程度の余韻を味わう気分にもなれないのか、
「酒も抜けたようだから」
 服を整え終え、送ると扉に手を掛け優駿は先に車を降りた。
 彼が大人の関係だけを望んでいるのだとしたらプライベートに触れることも、俺が本気で告白することすら煩わしい行為になってしまうだろう。
 だけど遊びだけのつもりなら、もっと上手く騙して欲しかった
 ネクタイを結び終えた俺がジャケットに袖を通しコートと鞄を手に車から 降りたのは、優駿が運転席に乗り込んだのと殆ど同時だった。
「香佑志」
 助手席には乗らずそのまま車を後にした俺は優駿の声を背中で受ける。
 これ以上一緒にいると綺麗に別れられなくなりそうで、足を止めない俺の背後でバンッと扉の閉じられる音。
「香佑志っ!」
 さっきより強い口調の優駿の呼び掛けに、俺はピタッと足を止めた。
 後3分…。
 いや、その半分くらいだけなら頑張れる、だろう。
 精一杯の笑顔で振返り、
「ひとりで帰るよ」
 真っ直ぐに俺を見る優駿の顔が僅かに曇ったせいで、責められているような気になって、
「女じゃないんだ。遅くなったって襲われる心配は無いから」
 何故か言いわけをしている俺。
「電車もまだ走ってる時間だから…」
 優駿が2、3歩踏み出した足に、
「今夜はっ」
 驚いて顎をしゃくって叫んでしまった。
 受け入れるつもりが無いなら、
「…ありがとう」
 もう優しくなんてしなくていい。
 最後に気取った笑顔を向けようと、一瞬気を緩めた瞬間…
 ………
 はっとして俺は唇を噛み締め優駿から視線を逸らした。
 泣…くな、馬鹿
 後一言。
 最後の言葉を告げたいのに…
 けれど口を開くと涙が先に溢れ出て俺はそのまま踵を返すとエレベーターに向って足を進めた。
 もう、限界
 背後から近付く足音に逃げるよう俺は走り出す。
 これ以上話すと余計なことまで喋ってしまう
 菜穂子の時のような、あんな終わり方は二度と御免だ
 優駿のことが好きで、忘れられなくて、会いたくて、会いたくて…なんてセリフ。
 こんなに好きにさせといて、なんてセリフ。
 だから責任をとってくれなんて…、思い付くだけでも情けない。
 そんなことを考えている間にも足音は至近距離まで接近し、俺が全力疾走したというのに程なく捕らえられ、抱き込まれ
「ごめん」
 その一言で鳴咽まで洩らすなんて本当に…
 惨めで目も当てられやしない。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

 薄暗い部屋の中をチカチカと彩るのはテレビ画面からの強い光。
 画面の中で繰り広げられる何かを観るというよりは、ただ虚ろに眺めていた。
 カランと氷の崩れる音に軽くこめかみに当てていたグラスへと視線を移すと、中の液体は既に殆ど色を無くしている。
 優駿はそれを一口で飲み干した後氷を幾つか足すと、テーブル上のボトルに手を伸ばしブランデーをグラスの半分まで注ぎ足した。
 このペースでいけば後1時間もすればボトル1本空いてしまうだろうが、きっと今夜はいくら飲んでも酔えはしないだろう。
 あの店で香佑志の姿を認めた時に何故そのまま引き返さなかったのか
 そう考えて自嘲の笑みを浮かべた。
 今更自問自答するような問題ではない事を十分認識している。
 香佑志を前にすると今まで優駿が培ってきた常識や理性というものは何ひとつ役に立たちはしないのだ。
 見つめるだけの恋でよかったはずなのに…
 春先にあの店の前で出会ったのは偶然。
 だが、突然腕の中に飛び込んで来た香佑志に心が揺れた。
 …全てが欲しい
 情欲に流される自分を抑え切れなくて、黙って付いて来た香佑志に逃げる隙を何度か与えてはみたものの、最後まで拒むこと無く彼は優駿を受け入れてしまった。
 自分ひとりが思い切れば済むと思っていたのに…。
 今夜香佑志をあんなふうに泣かせてしまうくらいなら全て打ち明けてしまえば良かったのだろうか
 幾ら思考を巡らせても答えは一向に見つからない。
 深い溜め息をついてグラスの液体を口に含んだ時、

 トントントン

 部屋の扉を叩く音。
 優駿が視線だけを向けると、返事も待たずに開いた扉から注し込む光に目を細めた。
 夜更けの来訪者は機嫌良く優駿に向けた笑顔を、
「事後報告を訊きに来たんだが…」
 言いながら曇らせてしまう。
 無言でグラスの酒を呷った優駿の前、テーブルに乗っている物を押し退けそこに陣取ったのは優駿の戸籍上の甥っ子・千早勝徳だ。
「上手くやっていれば嘘をついていた件は大目に見てやろうと思っていたのに…。人のお膳立てを無視して、自棄酒を飲んだくれてる事情を話せ、事情を」
 勝徳は優駿の想いを知っている。
 妙にお節介好きなこの甥っ子に春先の出来事を話せば、きっと香佑志をデトロイト支社に転属させるだろうと予測した優駿はあの夜のことは何ひとつ告げてはいなかった。
 今夜の香佑志との再会はもちろん偶然ではなかったが、結果的には伏せていたことが仇になってしまったのだ。
 しかし優駿は勝徳を責める立場には無く…、だからといって追及されたところで事細かに説明する気分にはとてもじゃないがなれない。
「期待させて悪いが、店を出た後ホテルのロビーで別れて終わりだ」
 シラを切り通すつもりの優駿の目の前に勝徳は傍に有ったボトルを掴むとこれ見よがしに振って見せ、
「そんな話が通用すると思ってるのか? これは俺の取って置きのカミュなんだ、代償として俺には事情を訊く権利がある」
「今度買って返せばいいんだろう?」
「無理だな、限定品なんだ」
「同等品で勘弁しろよ」
「嘘つきの言うことは信用しない」
「何時誰が嘘をついたと言うんだ」
「減点1」
 優駿は何を言ってるんだといった目つきで勝徳を睨む。
「お前は見事に無視してたが、清水の顔を見て一目で分かったんだぞ。お前達、普通の関係じゃないだろう?」
「社内報に書くネタが尽きたのか?」
「答弁は簡潔且つ明瞭に述べるように」
 冗談で済ますつもりは無いらしく、静かだがキッパリとした口調の勝徳に、
「確かに初対面じゃなかったことは認めるが、特別な関係は何も無い」
 無難にやり過ごそうとする優駿。
 だが、
「減点2」
 その言葉で再度怪訝な表情を浮かべ勝徳を見てしまう。
「さっきから何なんだ、その減点って」
「お前の嘘に対する減点」
 高い酒でも買わされる
 程度にしか判断せず、溜め息混じりに軽く口の端を上げた優駿だったが、
「清水の査定に響くぞ」
 表情を固めてしまった。
「職権乱用」
「使える物は何でも使う」
「これは俺の問題で勝徳には関係無いことだろう」
「減点3。お前と清水と会社の問題だ」
「会社?」
 頷きながらの勝徳は優駿からグラスを奪い取り一気に中の液体を飲み干した。
「金の卵も孵らなければ腐って終わりだからな」
 舌鼓を打った後そう言って空いたグラスになみなみとカミュを注ぎ足す勝徳から視線を外した優駿は、
「分かるように説明しろよ」
 重い腰を上げ側のサイドボードからグラスをひとつ手に取った。
 次期社長という権力を振りかざされては付き合わざるを得ないだろう。
「1ヵ月程だが俺は清水の上司をやってるからね」
 足を組みボトルの口を差し出す勝徳に優駿はグラスを向ける。
「あいつの力量はある程度判断したつもりだ」
「それが金の卵だというのなら申し分無いじゃないか」
 勢い良く注がれる茶色の液体がグラスの半分を占めたところで、
「俺が係わる問題じゃない」
 カチンと優駿はグラスを持ち上げた。
「卵は孵らなければ意味が無いと言ってるだろう。清水は就業態度も真面目で、仕事のセンスも悪くない。人付き合いもそれなりにそつ無くこなしてるんだが、ただひとつ足りないのは積極性…。どうもあいつには覇気が感じられないんだ」
 言葉に優駿は少しグラスを揺らしながら中の液体を黙って眺めた。
 意欲をなくしてしまった原因は以前から知っている。
 婚約者に会うために時折本社に訪れていた香佑志に惹かれたのだから…。
「殻を自分で割る力が無いようでは、素質は有っても将来性は見込めない。会社にとって役に立つ人材を見つけ出すのは難しいんだ、せっかくの逸材だというのに一度や二度の失恋で人生を棒に振ってもらっては困る」
「…だからって俺との関連性がどこにあるというんだ」
 立ったままストレートでカミュを口にする優駿を、視線で座れと促す勝徳。
「清水がお前に惚れてることくらい分かってるんだろう? あいつには自信を取り戻すための何かが必要なんだ。優駿だから任せられると思ってお膳立てをしたっていうのに、どうして清水と上手く行かなかったか俺が納得できる理由を説明しろ。それができないなら年明け早々清水をどこかの僻地に飛ばすぞ」
 冗談と本気の区別が付かない優駿ではない。
 この常に前向きな甥っ子を納得させる自信は無かったが、とにかく話さないことにはこの場は納まらないだろう。
 こんな理由で香佑志の人生を大無しにするわけにも行かない。
 仕方なく優駿は香佑志との一部始終を話すことになってしまった。


「いい歳して馬鹿なことやってるなぁ」
 相当呆れたといった口調で勝徳が呟いたのは彼が今グラスに注ぎ足している液体が既に問題のカミュではなく、更にその手にしているボトルも殆ど空に近くなった頃だった。
 話せばそう言われることくらいは分かってはいたが、惰性で点けっぱなされていたテレビから“同様”といった意味合いの台詞が耳に入りソファーに凭れながら優駿は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「会社を辞めて家を出る決心をした所までは、お前もついに自我に目覚めたかと安心していたというのに…」
 海外を拠点に独立したいと申し出た優駿の言葉に、彼を出し渋った祖父を説得したのは勝徳だった。
「恋愛なんてタイミングなんだ、清水が失恋して落ち込んでいる時期にたまたま出くわしたことが縁だとは思えないのか?」
 そう思うことが出来たなら、あの朝ひとり黙って去りはしなかっただろう。
 香佑志が失恋から立ち直れず、何より人恋しい時だと分かっていて誘ったのだ。
 どう言いわけをしても弱みに付け込んだという事実は変わらない。
 小さく首を振った優駿へと、
「後ろ向きには頑固な奴だ。自棄酒飲んでつまらない理屈を捏ねてるくらいなら素直に清水を選んでやれよ、あいつはずっと優駿のことを待ってたんだから」
「…好きだから選べない」
 くぐもった声でボソッと呟いたのは優駿。
「え?」
「俺の今の状況を考えてみろよ。住所不定の無職な上、同性愛だぞ。一体香佑志のために何を約束してやればいいんだ、付いて来いとも待っていてくれとも言えるわけがないじゃないか」
 責任感に満ちた優駿らしい言葉だが、それでも勝徳は苛立ちを感じずにはいられない。
「それは告白してからふたりで考えるべきことで、始める前から壊すことばかり考える必要はないだろう。何も知らない清水の気持ちはどうなるんだ」
「…どの道もう終わった」
 結局優駿は香佑志に何ひとつ弁明できず終いだったのだ。
「何も始まってないじゃないか」
「このまま恨まれた方が楽でいい」
 呟いてソファーに突っ伏してしまった優駿を足で蹴りながら、
「こら、当事者が投げ遣りになるなよ」
 勝徳の言葉にはため息が混ざる。
 もう随分と長い付き合いになるが、優駿がこういう酒の飲み方をするところを見たのは始めてだった。どれくらい彼が落ち込んでいるかは想像が付く。
 勝徳がこのふたりをどうにかしてやりたいと思うのは、金の卵云々の話しも嘘ではないが実は優駿のためだという気持ちの方が大きい。
 今までの人生の中で覇気など見せたことが無かったのは優駿の方なのだから。
 その優駿に初対面の人間をホテルに連れ込むなどという芸当をさせた香佑志なら、この先色々な意味で優駿の支えになりはしないだろうか。
 況してや香佑志も優駿を必要としているのなら、これは願っても無いことだろう。
 冬の遅い朝も白み出そうとしていては、これ以上優駿と会話を続けることは無駄な努力だ。
 どうせ狸寝入りだろうが身動きひとつしなくなった優駿を尻目に、テーブルから腰を上げた勝徳の頭の中には、既に別の戦略が出来あがっていた。

 こっちの山が動かないなら、もう一方を動かすまでだ

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

「新年明けましておめでとう」
 演壇に立つ社長の言葉で我が社の1年がまた始まった。
 朝礼前、無意識にしろ優駿の姿を捜してしまった自分が未練がましくて…
 この休みの間に心の整理を付けるつもりが未だこんな状態で、年始早々自己嫌悪に陥りながら俺は社長の話しを上の空で聞いていた。
 社訓を全員で読み終え解散になった途端、俺を呼び止める声。
 振り返ろうとした俺はいきなり腕を掴まれて、
「部長、特許事務所行って来ます。運転手に清水連れて行きますから」
 相手の返事も待たずに部屋から俺を連れ出したのは部長補。
 イブの後、直ぐに出張に出た部長補と会うのはあの夜以来だ。何となく気まずさを感じながらも、あれよあれよと言う間に俺達は駐車場まで辿り着いてしまった。
 キーを受け取る前にエンジンが掛かった彼の自家用車に一瞬疑問を感じたが営業車は年始周りで全て先約があるのだろうと俺は判断する。
 迷わず運転席側に足を進めた俺だったのだが、
「あっちあっち」
 せかせかと部長補が指したのは助手席側だった。
 俺は運転手に連れて来られたはずで…
「あの」
「時間が無いんだ、早く乗れっ」
 口を開いた途端怒鳴り口調で急き立てられ、慌てて鞄とコートを後部座席に放り込み助手席に身を納める。
 特許事務所にそんなに急ぎの用事が有っただろうか?
 思っている間に車は刑事ドラマのようなホイールスピンの急発車を見せ、俺はしっかりとシートベルトを握り締めてしまった。
「大切な預かり物だ、無傷で届けてやるから安心しろ」
 チラッと横目で俺を見た後の、奇妙な部長補の言葉に首を傾げてしまう。
「…小澤弁理士に荷物でも?」
「お前のことだよ」
 などと意味深な笑みを浮かべられても…俺が何だというのだろう。
「どうやら人事異動の回覧を読んでいないと見える」
 人事異動の回覧といえば、配置転換・新入社員・退職者などが書かれているわけだから、
「僕が移動にでも」
「優駿、先月付けで退職したんだ」
 え?
 とは思ったけれど俺にはもう…
「関係ないとか言うなよ、今らか優駿の所に連れて行ってやるから」
 愕然とした俺は言葉を無くしてしまう。
 そんなことを勝手に
「念のため言っておくが、お前達のことはあいつが率先して喋ったわけじゃないからな」
 俺の顔色が変わったことを別の意味で解釈した部長補はそう付け足したが、
「会いません」
 イブの夜、あの後どんな別れ方をしたか。
 優駿に抱き込まれてしまった俺は感情の持って行き場が無くて、散々泣きながら優駿の胸叩きまくって、最後はエレベーターが到着したと同時に優駿を突き飛ばして逃げたのだ。
 嗚咽で暴言が出なかったことだけがせめてもの救いだったというのに…
「嫌いになったわけじゃないんだろう?」
 暫くしての部長補の問い掛け。
 言葉を返さない俺に、
「だったら会いませんじゃなく、会えませんが正解なんじゃないのか?」
 沈黙は肯定の意。
 きつい視線を感じたが、それでも俺は頷くことができなかった。
 こんな形で無理に仲介されたところで、優駿にその気が無ければどうしようもない。
 恋愛はひとりじゃできないんだ
 重く淀んだ沈黙に全くそぐわないスピーカーからの明るい会話が気にいらないのか、
「諦めがいいのも場合によりけりだぞ」
 部長補はFMラジオのチャンネルを替え始める。
 別にムード作りをされても優駿に会う決心が付くわけでもなく、ラジオの会話なんてどうでもいいと思っていた俺だが、幾つ目かのチャンネルに合わされた途端流れ出た音楽に反射的に気を取られてしまった。
 それに気付いた部長補はそこで手を止める。
「好きなのか?」
 …というよりは

Don't smoke in bed

 甘い女性ボーカルがそう今歌い終えたところ。
 優駿と過ごした時間は多くはないが、その全ては俺の頭の中で昨日のことのように再現できる。
 誰も好きで諦めが良くなったわけじゃない。
 ただ菜穂子と別れた時の傷が大きくて、誰かと深く係わることに臆病になってしまった。
 心に残る傷跡は決して他人に見えることは無く、その傷の深さを言葉で理解してもらうのはとても難しい。

「私を探さないで」
 …?
 声で部長補に顔を向ける。
「誰かいい人見つけるわ…って勝手に恋人に出て行かれて、残った男はどうするんだろうな」
 突然何を言い出したのか良く分らなかったがあまり無言が続くのもどうかと思い、
「場合によるんじゃないですか」
 適当に言葉を返すと部長補は少し眉を上げ、意外と言った表情を見せた。
「さっきの曲の歌詞、知らないのか?」
 残念ながら英語の歌詞がまともに理解出来る程語学力に長けてはいない。
 小さく俺が頷くと、
「目覚めると傍に居るはずの人間が居なくなってるって状況、残された人間は悔しいと思うんだが」
 あの日…
 柔かい朝の日差しの中で優駿の姿を探した自分を思い出し、
「何の話を」
「歌の話だ。短い手紙と指輪を置いて男が寝てる間に女は居なくなる。最後に彼女が残す台詞が」
 話を続けろと言わんばかりの口調に、
「…ベッドで煙草は良くないわ」
 唯一知っている部分を言葉にすると満足げな部長補。
 話題が逸れた?
「どう思う」
 歌詞の話だと思いながらも自分と重ねずにはいられない。
 何か一言書き置きでもあれば、ここまで引きずることは無かっただろうか…
 多分答えは否だ。けど、
「最後の気遣いだと思いますが」
 このふたりには何か歴史が有るはず。
「俺にはただの独り善がりに感じる」
「それまでの経緯が分りませんから」
「俺にだって分らないさ」
「は?」
「歌の中じゃあ、そこまで説明してない」
 言葉に俺は困惑してしまった。
「話が良く…」
「黙って置いて行かれて腹が立たなかったのか?」
 わざと話を混同させる部長補に、俺はまただんまりを決め込もうとしたが、
「場合によるってことは事情が分かれば会いに行く気になるかもしれないんだな?」
「なりません」
 黙っている場合じゃない。
「話に矛盾が生じてる」
「歌とまぜこぜじゃないですか」
「臨機応変に対応しないか」
「そんなに都合良く」
「諦め切れないならもう少し食い下がれ」
「諦めるも何も」
 俺達は何ひとつ
「始めることすらさせてもらえなかった」
 続けられた言葉に結局は閉口。
 部長補は少し俺の横顔を眺めると、
「目が口ほどにものを言ってる」
 どこを見て運転してるんだ
「…前方不注意ですよ」
「清水も少しは前を見た方がいいぞ」
 また話を混乱させる
「ほっておいて下さい」
「本当にそれで納得できるのか?」
 できる訳が無い
 と言ってしまえない自分が腹立たしくて無言で視線を窓の外に向けると、ちょうど少し先に見えた標識で部長補の目的地が分かった。
「優駿のお袋さんが再婚した当時、俺んちからの風当たりが結構強くてね。子供ながらに自分の立場を良く理解してたんだろうな、優駿はずっと辛抱のしどうしで…。会社を辞めたのは何ひとつ我侭を言えない生活にいい加減嫌気が差したんだろうが、どこかあいつは詰めが甘いと言うか不器用と言うか」
 何もかもに目敏い部長補が優駿の身の上話を始めたのは、優駿が今空港に居る理由を説明するためだったのだが、
「好きだから選べなかったと言ったんだぞ」
 ……
 好き?
 って俺を? 優駿が?
 一瞬信用しかけて軽く首を振った。
 まさかそんな馬鹿げたことが有るはずが無い。
 そう何度も同じ手に
「選ばなかったんです」
「違う、選べなかっただ。あいつが清水に取った態度は確かに俺に言わせれば酷く何方付かずだと思うよ。だが会社を辞めることが決まっていて先が何も見えてない状態の優駿が、清水を選ぶことができなかった事情を察してやってくれないか。本気で惚れてるから自分の我侭の犠牲にはさせたくなかったんだ」
「そんな作り話」
「俺に何のメリットがあって清水を騙す必要が有る」
 それはそうだろうが
「ここまでしてもらう理由も」
「いつまでも捻くれてるんじゃないっ」
 突然上司の口調でピシャリと言い返された。
「イブの夜、誘ったのは誰なんだ。好きな相手に勘違いされたまま言い訳ひとつできなかった優駿の気持ちを考えてもみろ、傷付いたのは自分だけだと思うなよ。愛だ何だと言わなくても感じることはできただろう、だから好きになったんじゃないのか? 言葉が少し足りないくらいが何だと言うんだ。時間をやるから本当はどうしたいのかちゃんと頭の中を整理してみろ、まったく揃いも揃って手の掛かる」
 腹立たしげにポケットから出した煙草をくわえると部長補はそこで話を切ってしまった。
 次いで赤く灯された煙草の先を俺はジッと眺めてみる。
 何の得にもならないだろうに、何故か彼は必死で俺と優駿の仲を取り持とうとしてくれていた。
 見た目より人がいい部長補の言葉を素直に解釈して行くと…
 そう
 …確かに俺は言葉に拘り過ぎていた。
 あの夜、優駿に出会えたことで菜穂子への想いは吹っ切れたが結局俺はそこに立ち止まったままで…寂しさを紛らわすための競馬場通い。
 この場に埋没して朽ち果ててしまう覚悟があるなら、イブの夜優駿を誘ったりはしなかっただろう。
 ずっと優駿に会える偶然を待ち望み、無期限で愛してもらえることまで期待してた。
 だからイブの夜、優駿の態度は裏切りだと感じたんだ。
 ここまで言われなければ優駿の真意に気付けないほど俺は猜疑心に凝り固まってしまい、自分可愛さの余り彼の人間性まで無視していた。
 優駿がごめんと言ったあの後の言葉を聞く余裕が俺に少しでも有ったなら…


 知らず傷付けてしまったのは俺の方だったのかもしれない


「ごほん」
 と部長補は咳払いをひとつ。
「タイムリミット」
 顎で指された先には空港のメインターミナル。
 部長補に視線を戻すと、
「あんな煮え切らない奴の顔は金輪際見たくもない。あいつのことを考えただけで吐き気がしそうで会って話せば暫く悪夢にうなされそうだと言うのならこのまま積んで帰ってやる」
 俺は込み上げる笑いをどうにか止めた。
 優駿相手にそんなことを思う人間は居ないだろう
「出発ゲートの前で待たせてあるから。いいな、国際線だぞ」
 言ってメインターミナルの前で車を止められたが、一瞬その足を踏み出すことに躊躇った俺。すると
「手放しで容認できる関係でないことは俺にも良く判ってる」
 素早くシートベルトの留め具が外されて、
「克服すべき問題も山積みだろうが」
 部長補が身を乗り出し、開かれた扉から軽く押された弾みで俺は外に飛び出してしまった。
「始めないことには結果は出ないんだ」
 振り返った俺の目の前で、
「上司の命令」
 力強い部長補の笑顔。
「行って来い」
「はいっ!」
 答えると大きく頭を下げ、態勢を戻した勢いで俺はターミナルビルへと駈け込んだ。








 ――広い空港内
 鳴り響くのは出発便のアナウンス

 走りながら国際線乗り場を捜すが掲示板を追うのが面倒で…
「すいません、国際線は?」
 その辺の空港関係者に息を切らせながら尋ねると、指し示された方向に短い礼だけを残し俺は走る。
 部長補のあの口振りでは俺が行くということを優駿は知らないだろう。
 会っても、もうどうにもならないかもしれない。
 だけど、このチャンスを逃すと今度こそ本当に優駿には会えなくなってしまうから。結果はきっと後から付いて来る…、と信じてみよう。
 忙しなく動く人の間からようやく出発ゲートが見え隠れし、ゲートの傍に立つ背広姿のスマートな人影の視線が丁度今腕時計に落ちた。
 歩調を緩め呼吸を整えながら俺は真っ直ぐに優駿だけを見つめる。
 時計から外した優駿の視線は辺りの人影を少し追った後、天井を見上げて…軽いため息をひとつ。
 多分無意識にポケットに手を持って行ったのは煙草を捜しているようで…、何か自嘲めいた笑みを浮かべると再度視線が人の波を追う。
 流れる視線が一瞬俺を掠めて通り過ぎ…表情が少し変わった。
 優駿の反応に俺は足を止める。
 ターンで戻って来た優駿の視線。
 スローモーションのようにゆっくりと見開かれた瞳に風が、止まった
 それはこの空間だけにかけられたストップモーション
 そして優駿は

 カシャーン…

 と何か重い錠前が開いたような音だと感じたのは、優駿がそれだけ見事に破顔したから。
 逸れた視線に振り返ると少し離れたところで倒れている子供と、それを助け起こしている母親の風景が目に入った。
 さっきの音は子供が転んだ拍子に手にしていた玩具が床に落ちた音だ。
 母親が子供の服を叩きながら、玩具を拾い上げ子供に手渡したのを確認し、視線を戻そうとしたその時、
「…ああやって、傍についててやれないから」
 静かな静かな声。
「もう会うべきじゃないと思ってた」
 俺は親子に視線を置いたまま、
「全部聞いて」
「あのさ」
 ため息混じりに優駿の言葉を遮った。
「優駿に会う前、一生こいつとって決めた女が居たんだ。でも土壇場でフられて…その時、本当に辛くて…。ここん所に」
 胸の辺りを拳でこんこんと小突いて見せながら、
「ぶっとい杭が打ち込まれたみたいに痛くて。俺、もう誰も好きになんかならないって…」
 また同じことを繰り返すかもしれない
「だけど」
 弾みでも、踏み出した足に後悔なんかしたくない
「優駿見た瞬間、来て良かったと思った」
 駆け行く子供の背中から視線を外す。
「出会えて良かったと思った」
 俺は顔を上げると真っ直ぐ優駿に視線を置いて、
「好きになって、良かったと思った」
 不思議なほど自然に言葉がすべり出た。
 それは、
 ハリウッドスター顔負けのいい表情をしている
 何てことを本気で思えるくらい爽やかで心地いい気分だった。
 自分の気持ちに素直でいれるなら、こうやって俺はいつも笑っていられる。ってことを思い出せた今、できるなら誰かに…優駿に受け止めてもらいたい。
 すると暫く黙って俺を見つめていた優駿が、
Ditto
 きまり悪そうにボソッと口にした言葉は俺には聞き取り不可能。
「何て…?」
 問い返してみたものの、
「次に会う時のお楽しみ」
 言葉と共に綺麗な笑顔を向けられて追求することは止めた。
 優駿が初めて次を約束してくれたから
「連絡先…」
 とまで言った時、鳴り響くアナウンスに弾かれたように視線を上げた優駿。
「時間?」
 優駿は頷いて
「残念だけど」
 仕方がない。
「落ち着いたらこっちから連絡するから」
 歩きながら素早くメモに書いた携帯番号を手渡され、ゲート傍で俺よりも名残惜しそうな優駿に決心が鈍りそうになる。
 引き止めてしまいたくなる右手をどうにか押さえると、笑顔でその手を顔の傍まで挙げた。
 やっと手にした自由を俺のために諦めて欲しくはない。
「じゃあ」
「元気で」
 短い言葉だけで歩き出そうとした優駿だが、不意にその足を止めると俺に向き直り、
「コートは?」
 言われて初めて気が付いた。
 コートどころか鞄も車の後部座席に放り込んだままだったのだ。素早くポケットに手を当てると財布が有ることを確認して取り敢えずほっとした。
 すると優駿が手にしていた自分のコートをパサッと広げ、
「これ」
 大袈裟に俺の肩に掛けたのは、外からの視界を遮るためだったと分かったのは2秒後。
 ほんの一瞬重ねられた唇に照れるより驚きの方が大きくて、
「大胆」
 呟やいた俺へと、
「売約済み」
 優駿は魅惑的なウィンクをくれた。
 そしてクルっと翻り躊躇うことなく今度こそ本当にゲートイン。
 もう競馬場通いは終わりだ
 遠ざかる優駿の背中を見つめながらそんなことを考えて、その姿が見えなくなると俺も踵を返した。
 優駿が夢に向って走り出すように俺も優駿に向って走り出せばいい。
 きっと近いうちに本当の優駿に会えるだろうから…





 広く大きなガラス窓から光が降り注ぐ中
 俺は深呼吸をひとつ
 そして行き交う人の波に、大きく一歩を踏み出した。
















作:杜水月
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