やや明るめのダウンライト。
深みのあるダークレッドの絨毯に施されている東南アジア系の大きな柄の刺繍。
広く奥行きの有るロビー内には微かに華やかな音楽が流れ…いや、漏れると言う表現の方が正しいだろうか。
この全身を包むかのよう沈み込むソファーの弾力といい、地方の施設にしては随分と立派な造りのホールだ。
ふぅ、っと吹いたタバコの煙を追った視線が幾分離れた場所に座る女性と合ったのはこれで何度目だったろう。
俺が軽く笑顔を向けると、愛想笑いで逸らした瞳が、
この人は一体何をしているのかしら
と、明らかにそう語っていた。
別に彼女にどう思われようが俺にとっては痛くも痒くもない話だ。
彼女と今後どこかで再会する確立は何パーセント?
なんてくだらない事を考えてなきゃ、段々間が持たなくなって来ている自分が居る。
目の前にある、あの重厚な扉を開く時が徐々に迫って来ているから。
タバコをくわえ瞼を閉じると俺は高ぶる神経を落ち着かせようと深く深く…、深く息を吸い込んだ。
「げーっ! 何だよ、このふざけた帽子!!!」
きっかけはこの悲鳴に似たボヤキ声。
それは年始早々の同期会、遅れて到着した俺が予約の店に入るなり耳に飛び込んで来た言葉だった。
店員に予約席を確認し見知った顔ぶれを囲う衝立に肘を付いた俺は、新年の挨拶より先に同僚をたしなめようと口を開いたのだが、
「随分とおめでたい帽子を被ってるじゃないか」
さっきの大声の主である同期入社、丸山の頭にはやたらと派手な色合いの三角帽子が乗っかっていたのだ。
中に座る同期の面々は一斉に俺…、そして丸山の頭上へと視線が移り、
「ひっでぇと思わないか? 幾ら橋本の土産だからってこんなウケ狙いの土産、どこで使えって言うんだよ」
さらに文句を続けながら三角帽子と共に、とほほとうな垂れる姿はまさしくその帽子の主にピッタリではなかろうか。
「さっ、これで全員揃ったわね。もう一度乾杯と行きましょう、松谷君早く座って」
などとテキパキと指図するトラブルの張本人橋本は丸山の落胆など気にも留めずで、俺は軽い苦笑いを浮かべながらも荷物を足元の掘りに入れ込むと彼女の隣に腰を落とした。
「取り合えず生中で良い?」
総務課に配属された足立の声に頷いた俺を確認した橋本は、
「松谷君にもお土産が」
がさごそと鞄を探り始める。
その白い手を何気なく眺めながら、
「もしかしてスペイン?」
俺の言葉で作業の手を止めると同時に顔を上げた彼女は目を丸くしていた。
「どうして?」
よく分ったわね、と感嘆の表情の彼女へと少し得意げな笑顔を向けた俺だが、
「そりゃぁ、三角帽子って言えば…」
その瞬間、
“ファリャ、好きなんだ?”
唐突に思い出した懐かしい人の言葉。
中学生の頃、ひとりCDショップでお目当ての品を手に取って内容を確認していた最中の出来事だ。
“今度のコンクールの自由曲、ファリャで顧問に掛け合ってみようか?”
そうだなぁ
と呟きながら思うより華奢な細い指をあごに当て、
“吹奏楽向きなら三角帽子のフィナーレか…、それとも”
“うちのレベルじゃ無理ですよ”
いきなり思いも掛けない場所で思いも掛けない人に声を掛けられたものだから、二級も上の先輩だと言うのに挨拶はし損ねた上に言葉までさえぎり、尚且つ
“すいません、連れが待ってるんで”
嘘までついてそそくさとその場を後にした。
先輩とまともに話したのはこれっきりだ、会話すら成立しなかったけれど…。
好きだった
と言う言葉が妥当かどうかも分らない。
だが憧れよりも、もう少し特殊な感情で俺が先輩を見ていた事は確かで、何かの拍子に自分の初恋は何時だったろうかと考えた時に思い浮かぶのは必ず彼、…とそう。
先輩は“彼”で、俺は“俺”だ。
これ以降も俺の恋愛対象になるのはいつも決まって男ばかり。人に相談出来るような事でもなく、俺は異常なんだろうかと悶々と悩んだ時期もあったが、今はそういう自分ともそれなりに上手く付き合っている。
なんて、自慢するような事でも無いな。
そんな事より…
…先輩
今はどうしてるんだろう。
まだ音楽を続けているんだろうか。
家庭環境が大きく変わった事もあって、卒業後俺はクラブの誰とも連絡を取ってはいなかった。
それから数時間後
俺はボンヤリと銜えタバコで自宅のパソコンの前に座っていた。
アルコールで殆ど溶けてしまった脳みその極僅かに残った理性がゆっくりと、だが確実にキーボードを押す。
画面に映し出された文字をしばらく眺めた後、リターン。
何かを期待していたわけじゃない
ただ、懐かしさとそれから…何だろう。上手く表現で出来ないが消息を知りたいと思った。
タバコの灰を落とす暇も無く画面が切り替わる。
検索結果は、
一件だ。
見出しには “イベント情報” とだけ。
詳細に目をやると、確かに先輩と同一の名前が表示されていた。が、こんな断片的な文章だけでは良く分らない。
タイトルをクリックした途端切り替わった眩いばかりの色彩に思わず目を細めてしまう。
ショッキングピンクの背景なんて、ひっでぇ趣味
などと心の中で悪態を付きながら不愉快な画面に目を通す。
なるほど…
その大見出しで背景色の意味はそれなりに理解はしたが、肝心の探し物はどこだろうと幾分画面を下げた所で、
「ぅおっ! ちちちっ!」
銜えタバコの灰が手の甲に降って来たのだ。
慌てて灰を振り払いながらタバコを傍の灰皿へと押し付けた時だった。
その文字が目の端に映ったのは…。
ゲスト:沢口怜(オーボエ)
数秒間の静寂の後、キシッと椅子が音を立てたのは俺が身を乗り出したからだ。
隈なくそのページを読み切ってしまうと今度は深く椅子に凭れ込んだ俺は、もう一度その文字を睨み付けながら考える。
…どう、なんだろう
開催地の場所的には不自然な場所じゃない。がしかし当時とは楽器が違う、けれど。
だけど…。
少しその気になりかけはしたものの、
いや、わざわざ足を運んで確認しなければならない程、執着していた人でもないんだ。このまま赤の他人なんだと自己完結してしまえば良い
否定してしまえば今度はまた画面に表示されている日程が再度目に入り、
コンサートの日程は平日だが仕事を早めに切り上げてしまえば終演までには間に合う時刻
などと前向きに検討している自分が居る。
俺は両手で顔を覆いながら机の上に肘を突き、
「う゛〜」
低く唸ってみたところでウニ頭では出る答えも出やしない。
今夜はとにかく、もう寝よう
きっと今、俺が出来る最良の選択肢を選び画面を閉じようとした間際、ふとその手を止めたのはコンサートの演目中にあった一行を思い出したからだった。
D.ファリャ作曲:バレエ音楽『恋は魔術師』より“火祭りの踊り”
とある未亡人が新たなる恋に走ろうとするのを前夫の亡霊が邪魔をすると言う内容の話だが、困り果てた未亡人と新しい恋人の二人が救いの手を求めたのはジプシーの占い師。
この曲はそのジプシーが魔法を掛ける場面で使われる曲だ。
俺は傍にあったレポート用紙の隅にコンサートホールの場所・日付・時間をすばやく書き写すとパソコンの電源を落とし、そのままベッドに滑り込む。
閃いたのは何時の頃からか試すようになったチープな運試し。
…もし、このオーボエ奏者が先輩なら俺のこれからの人生は良い方向へと転がって行く
なんて本気で俺の人生を占うわけじゃないけれど、俺の叶わなかった夢を昔好きだった人が叶えたんだと言う事実で俺は上手く魔法に掛かれそうな気がした。
もし違った時はそれはそれ、ウニ頭の責任にすれば済む事だ。
結構入ってんじゃん
タイミングを計ってホールの重い扉の中に入った印象は、そんなどうでも良い事だった。
演目の間の短い時間にその辺りの空席に腰を落ち着かすつもりでいたのだが、ざっと見渡した限りスルリと入り込めるような余地が無い。
客席のライトは落とされたままで足元の誘導灯を頼りに席を探すのも心許無く思えた俺は、この際…と思い切ると扉口から座席の方には下らずそのまま壁沿いに足を進め、適当な場所で立ち止まる。
そして舞台へと体ごと向きを変えた。
最後部だが舞台の真正面だ。
それほど大きなホールじゃない。この距離なら多分…
っと、いい具合に指揮者の腕が動き出し弦楽器のおどろおどろしいトレモロ。
そして程なく指揮者が向けたタクトの先に居た人物に瞳を凝らして、
あははは
さすがに声にこそ出しはしなかったものの無表情で舞台へと向き直った俺の表情は明らかにそう軟化しただろう。
本人かどうかなんて疑う余地など無かった。
双子の兄弟でも居ない限りあれは先輩以外の何者でもない。
懐かしさが込み上げるよりも先にあまりにも先輩が在りし日のままだった事に笑いが出たのだ。本当に不思議なくらい先輩は変わっていない。
華奢ではあったが全体的にもっと大人っぽいイメージを持っていたんだが…。
十年余りの年月で俺はこんなにも変わってしまったと言うのに、過ぎ去る歳月など物ともしない程、きっと先輩は真っ直ぐに夢を追ってここまで歩いて来たんだ。
他人の恵まれた環境を妬むほど俺も子供ではなく、そもそもそんな感情を抱く気分にさえさせないくらいに先輩はそこで輝いていた。
その後どれくらい曲を聴いたかは憶えていない。
当時は恐れ多くて眺める事さえままならなかった欲求を満たすかのよう俺はコンサートの幕が閉まり切るまでほとんど無心で先輩だけを見つめていた。
そして
宴が終わってしまえば先を争うように出口へと向かう観客。その足並みの邪魔にならないことを良い事に、俺はまだ余韻を楽しんでいたくてその場にのんびりと佇んでいた。
…やっぱ良いよなぁ。この空間と、この空気。
だが本当は舞台袖の天井を見上げるのが一番好きなんだ。
薄暗くて無機質な高い空間はまるで小宇宙のようで、広く大きな無限の可能性を信じさせてくれた。
っとそこで苦笑い。
今の自分はと言えば初恋の人に明日の運を任せる程度のしがないサラリーマンと言う現実を思い出してしまったから。
せっかくの良い気分を台無しにしてしまいたくなくて、人影もまばらになったホールを後にしようとほんの少し視線をずらした時だった。
あ…、れ?
視野に入った何かが気になって確認しようと顔を上げると…
ホール中央の広い通路を足早に歩く正装の男がひとり、なんて遠回しな表現は止めよう。
さっきまで壇上に居た先輩が、どう言う訳かそんな場所を歩いているのだ。しかも思い違いかも知れないが笑顔で俺の方に向かっている…様な気がする。
ヤバイ
そう思った時には既に俺は戸口に向かって歩き出していた。
一体何がどうヤバイのか分らないがとにかく逃げよう。逃げ切ってから先輩がそこに居た理由とヤバクなった訳を考えよう。
「待って!」
聞こえない。
「戸口の傍の人、待ってって」
俺に向かって言ってない。
「グレーのスーツの」
そんな奴、他にも居た。
「松谷慎也っ!」
……………
ホールから出る寸前の足も、重い扉の取っ手に掛かっていた手も、焦って早くなっていた呼吸も、そしてバクバク鳴ってる心臓までもが止まるかと思った。
どうして俺のフルネーム…
an unexpected piece of luck…思いもかけない幸運
先輩と二人肩を並べ、閑散としたホールを眺めながら高校時代教科書で見かけたそんな言葉が脳裏をよぎった。
当時俺の生活環境が不測の事態の連続だったから印象に残っているんだろうか。
それとも何年か振りにでも賭けに勝ったと言う事実が俺の思考をプラス方向へと導いてくれているんだろうか…、と
「…ごめん」
ポツリとした謝罪の言葉。次いで、
「ちょっと強引過ぎた」
隣を振り返ると細い指を組みながらの先輩は、俯き加減でジッと前のシートを睨んでいた。
名前を呼ばれ硬直してしまった俺の腕をおもむろに掴んだ先輩に否も応も無く引き摺られるようここに座らされたんだが、それが迷惑だと思っているわけじゃない。
もしや俺の沈黙の意味を誤解したんだろうかと首を振ろうとした時、
「最後の曲を演奏し終わった後に松谷が客席に居る事に気が付いて、舞台裏の挨拶も何もかもそこそこに慌てて飛び出して来たらまだそこに居てくれたから、嬉しくなって声を掛けようとした途端」
「すいません」
逃げ出してしまったのは明らかに俺の過失。
素直に頭を下げた所までは良かったんだが続く言葉が出て来ない。
まさか覚えてくれてるなんて思いもしなくて…
…どうしてそんな言葉まで口に出す事を躊躇われるのか。
よしんば好きでした、と口が滑ってしまった所でお互い笑って流せる年齢なんだ。
何も怖がる事は、無い。
よし。
「いきなりな事で現実逃避してしまいました」
頭を上げつつやっと正面切って先輩に視線を向けた俺。だが、至近距離での優しい笑顔につい今しがたした決心がもろくも崩壊寸前。別に特別な関係があったわけじゃなく、しかもただ憧れていただけだと言うのに初恋の人と言うものは恐ろしく威力があるようだ。
体温が二度は絶対に上昇してるだろう感覚にまたしても俺は、謝罪の言葉と共に頭を下げてしまってからハッと度重なる失敗に気が付いた。
どうやって頭を上げよう…
先輩の顔を見ると、また焦ってどうなるかわかったものじゃない。だからってひたすらあらぬ方を向くのも妙な話で、何か適当に先輩の視線を逸らす話題があれば…、って。
え?
不意に俺の髪に触れられた指の感触。
そして、
「前髪だけでも少し撫で付けた方が良いんじゃないかな。背が高いから人と話す時なんかも俯きがちになるだろう? さっきから謝るたびに顔が隠れてしまって…男前が台無しだよ」
…ビックリし過ぎて。
それまでのドキドキに加え先輩に触れられてると言う緊張プラス褒め言葉。興奮も極限を超えると逆に平常心に戻ってしまうんだって事が今分かった。
「じゃあこの際バシッと切りましょうか。中学時代みたいに」
静かに先輩の手を取って顔を上げながら、憑物が落ちた。じゃなく、
「どっちの方が好みですか?」
なんて憑物がくっ付いたかのようにスラスラときわどい言葉まで喋ってしまう。
突然の俺の変貌振りに驚いたのか、一瞬目を大きく見開いた先輩だがそれに怯む様子も無く、
「今の松谷にはその髪型で十分だと思う。僕の好みはさっき言った通りだし」
「じゃあ帰りに整髪料を買いに寄るとします」
「なんならお勧めのメーカー、ピックアップしようか?」
「お言葉に甘えて」
ノリでポケットから俺が差し出した小さな紙は、たまたまそこに入っていただけの物なのだが、大抵の社会人ならひと目でそれが何かは分るはず。例えそれが真っ白な裏側であったとしても。
クスっと笑いながら先輩は確認するかのように、一度俺に視線を向けた後、
「…ふぅん、こう言う仕事してるんだ」
表書きを眺めて呟いた。
別段今の仕事に不満が有る訳でもないが、
「しがないサラリーマンです」
プロの音楽家相手にはこれが妥当な答えだろう。ところが、
「仕事、面白く無い?」
上目遣いのまじめな問い掛け。
俺は言葉に詰まってしまった。
軽く流して欲しかったんだが…
もちろんそんな心の声なんかは表情にはおくびにも出したつもりは無かったのに、
「あー…っ、と。ごめん。今の、世間話って言うか、取り立ててどうこうって意味は無かったんだよね。ちょっと深読みしちゃって」
少しバツが悪そうに椅子に座り直した先輩は、
「さっきも松谷の事、呼び止めて腕を掴んでから、もしかして都合が悪かったんじゃないかって思ったんだ。なんて言うか、ちゃんと社会人してるつもりなんだけどずっと学生時代から音楽しかしてこなかったからこう言う世界しか知らなくて、片端って言うと言葉が何だけど時々。…うん、そう。時々人との会話にズレが生じたりして」
小さく軽い咳払いの後、
「友達に笑われたりする」
かなり言葉を選びながら弁解を試みていたようだが、どうやら自責の念がこめられていたのか最後は落胆してしまったようだ。
重いため息までついている先輩には申し訳なく思いながらも自然と笑みがこぼれてしまう俺。
だって
それは如何にここまで真っ直ぐに歩いて来たかの証明じゃないか。
「先輩」
ゆっくりと顔を上げた先輩へと、
「そう言うのは片端じゃなくエキスパートって言うんですよ。ちゃんとそれで飯だって食えるんだから下手の横好きとも訳が違う。本人の努力と才能と、それから」
恵まれた環境。
そうするつもりは無かったが続く言葉を思わず呑み込んでいた。
突然途切れた言葉に何か問い掛けて来るだろうかと思っていたが、先輩は穏やかな笑みを浮かべながら静かに視線を外すと一呼吸間を置いて、
「…好きだったんだ」
斜め下方向へと視線を向けたままの先輩には俺が小首をかしげた事など分らなかっただろうが、
「松谷の音楽」
…俺、の
「音楽?」
問い掛けに先輩は二、三度頷いた。
「松谷の出す音だとか音楽センスだとか…、それこそ中学の吹奏楽部なんて下手の横好き集団だって言うのにその中で松谷のレベルだけが一線を越えてた。本当はあの頃から松谷とはこんな風にゆっくりと話してみたいと思ってて、だけど学年が違う分係わる機会が全然無くて、でも高校では何とかって…。音楽を続けるつもりなら同じ高校に入って来るって信じてた。二年間ずっと待ってた」
そんな風に特別な存在として見ていてもらっていたなんて…。
愛の告白に匹敵するかのような言葉の羅列に俺が呆然としている間に息を継いだ先輩は、
「だから残念で…」
諦めに似た語調で分った。
俺の事情を知ってるって事。
――父親の経営する会社の倒産、多額の借金、両親の離婚、一家離散。
近頃じゃ珍しい話じゃないにしろ、まさか自分の身に降り掛かるとは思いもしなかった。
音楽はその時にきっぱり捨てたのだ。
とても続けられる経済状況でも精神状態でもなかったから…。
さっき言葉に詰まったのは正直な所、まだどこかで割り切れない自分が居るからだろう。だけどもうそんな事にこだわる事も無いと本気でそう思える。
他人を羨む気持ちは誰にだってあるんだ。
ただそれは明らかに嫉妬とは別のものだから、
「先輩、俺…」
っとその時、
「何をやってるんだ、こんな所で」
いきなり降って来た低い声。
見上げると細長いいかにも神経質そうな男が一人、かなり不機嫌な形相でそこに立っていた。
いつからそこでそうしていたのか…、間近で立っていたにもかかわらず俺もそうだが先輩もその男の存在には全く気が付いていなかった様だ。
「中々出て来ないから楽屋に行ってみたら、楽器も何もかもほったらかしじゃないか、まさか打ち上げすっぽかすつもりなんじゃ」
「ちゃんと出ますっ」
ビシッと言い切った先輩。だがそのまま視線を逸らすとため息混じりに瞼を伏せた後、もう一度その男へと向き直り、
「すみません、少し遅れるかもしれませんが打ち上げには必ず顔を出しますから」
先輩がそう言った途端、男の射るような視線が俺へと向いた。
直感
…それ以外説明のつけようが無いが、冷たく向けられた鋭い眼差しの奥に秘められている彼の先輩への想いがはっきりと俺には分った。
先輩がその想いに気付いているかどうかはともかく、今の態度からすると彼の事を快く思っていない事は確かだろう。
だったら俺が悪役になる事くらい容易な事だ。
「俺が無理に引き止めたんです」
そう言うつもりで軽くシートから身を乗り出して口だけは開いたのだが俺の言葉が出るより先に、まるでそれを制するかのよう静かに先輩は立ち上がると、
「古い…、中学時代の」
ほんの一呼吸間をおいて、
「友人なんです」
言葉に俺はまじまじと先輩を見上げていた。
…その説明は、
「とても大切な友人なんです」
正しくない。
そう思いながらも既に俺が口を挟める雰囲気ではなく、男も何をどう感じたかは分らないがジッと先輩を睨んだまま微動だにせず。それに加えて先輩もそこで言葉を止めてしまったら、後に残るものは…。
沈黙、と言う事になる。
かなり気まずい状態ではあったのだがあっさりとその均衡を破ってしまったのが、小さな奇声と共にパタパタパタと駆け寄って来た三人の若い女の子達だった。
「あのぉ。お話し中、申し訳ないんですけどぉ…」
セリフの謙虚さのわりには既にシート一筋隔てた先輩の前にちゃっかり陣取りながら、
「少しだけ構いませんか?」
俺は思わず笑いをかみ殺した。
それでは言葉と態度の順序が逆だろう。
少々不躾だがタイミング的には悪くは無かった。と思ったのは先輩も同様だったのか、笑顔で用件を尋ねる先輩へと小さな紙包みがひとつ手渡され、
「ありがとう」
拒む事無くそれを受け取った先輩。
求められた握手にも快諾したが差し出された筆記用具にだけは触れる事無くやんわりと手で遮って見せた。
三人の中で一番背の高い赤いコートの女の子が、頬を同じ色に染め、
「今日のソロ、すごく良かったです。次の公演もまた観に来ます、これからも頑張って下さい」
一息にそう伝え終えるとペコリと頭を下げ再び奇声を上げながら、喜び勇んであっと言う間に通路を駆け抜けて行った。
まるで小型台風だ。
こう言うパワーって言うのは何処から来るんだろうかと羨ましく思いながら彼女達がホールから消え去る後姿を見送っていると、
「恋は魔術師」
言葉で向き直る。
すると先輩も俺へと視線を戻す。
「今のってさ、ジプシーの占い師が良い女に化けて亡夫の霊をたぶらかすって場面に似てない?」
俺は眉間にしわを寄せながら、
「…そう、ですか?」
どこがどんな風に。とまでは言わなかったが、きっと顔全体が口ほどにものを言っていたんだろう、
「鬱陶しいのが居なくなったって所がね」
先輩がそう付け足したんだから。
どうでもいい男の存在などすっかり忘れきっていた自分の都合の良い記憶力に感謝しながら、
「じゃあ邪魔者も居なくなった所で、二人でヨロシクするとしましょうか」
手を差し出したのは本当にただの洒落のつもりだったのだが、
「ご所望ならば何処へでも」
綺麗な笑顔で白く細い手を重ねられてしまっては心臓に悪すぎる。
そのまま引き寄せて抱き締めてしまいたくなった衝動を断ち切るよう手を離した俺は、
「…そろそろ」
機械的に荷物を持って立ち上がってしまった。
昔、好きだったと言う過去形が現在進行形に変わりつつある事に気が付いたから。
「あっ、と。そう…だね。ごめん、長話に付き合わせてしまって」
先に通路に出た俺は先輩の言葉に首を振り、
「俺の方こそ嬉しかったです。わざわざ声を掛けて頂いて有り難うございました」
正面で向き直って見せると小さく頭を下げた。
「それじゃあ」
失礼します。
と踵を返す寸前、
「ひとつ訊いて良いかな?」
言われて足を止めた俺に、
「今日、ここに来てくれたのって偶然?」
…答えに詰まった。
少し足元の赤い絨毯を見つめた後、そうです。と肯定。
まるっきり嘘でもないが真っ直ぐに向けられた視線から逃れるように俺はまた視線を落とす。
「だったらもう会う事も無いって事になるのかな」
多分そうなるだろう。
恋愛対象外として付き合いを始めることは俺にとって苦痛以外の何物でもない。
見るでもなく先輩の胸元に視線を置いたまま、
「俺、名刺渡しましたよね。何かあったら」
「いらないから返すよ」
いきなり目の前に付き返された名刺。
考えてみれば年上の先輩から連絡を催促しているような俺の言葉に憤慨しても当然だ。
いっそ嫌われてしまった方が諦めがつくだろうと弁解するつもりも無く顔を上げると、そこにあったのは先輩の笑顔。
困惑…するよなぁ、普通。
「あの…」
「ついでにこのチョコレートも付けてあげよう」
ずい、と黒とゴールドの包みも出されて思わず身体を引いた俺だがどちらも未だ手には取っていない。
どう言うつもりなんだ?
と…
「僕は生まれてこの方チョコレートと言うものを食べた事が無いんだ、いわゆる食べず嫌いってやつでね」
コートを掛けている俺の腕の上へと名刺と包みを置いてみせ、
「そんな僕が過去に一度だけチョコレートを買った事があるんだよ」
空になった手を腰に当てた先輩。
「中学生活最後の年の二月十四日、僕はそのチョコレートを一日中持ち歩いてた。それを絶対に渡せないと分ってたけど万が一って事があるかもしれないと思って…」
小首をかしげてため息をつくと、
「だけどやっぱりそれは渡せないまま、今も実家の僕の机の引き出しに入ってるんだ」
先輩が何の為にそんな話をし始めたのか分らず黙って先輩を見据えたままの俺に、あのねと人差し指を立てて見せ、
「今日、松谷がここに来る事が分っていたら、僕はあの日渡し損ねたチョコレートと新しいのとの両方を用意して待ってたよ」
相変わらず笑顔過ぎる先輩の言いたい事がよく分りません。
「名刺なんて持ってたらうっかり会いに行きそうだから返しとく」
ますます混乱してきたぞ。
渡し損ねたチョコレートと返品された名刺とのつながりが…
「理解不能って顔してるからはっきり言っておくけど、僕はあの当時松谷の事が好きだったんだ」
その一言で頭の中が真っ白になった。
「あの時は何も言えなくて、何も出来なくて…。だから舞台から松谷が居るって分った時、絶対に逃がしちゃいけないって思った。元気でやってるって事だけでも確かめておきたかった」
ほとんど放心状態の俺だったが、
「今の告白はついで、って言うか僕の中で自己完結するためのものだから…。軽く聞き流してくれれば良い」
ぼんやりしている場合じゃない事に気が付いた。
「じゃあ、元気で…」
ポンポン、と笑顔のまま俺の二の腕を叩いて先輩が立ち去ろうとする間際、固まっていた俺の体内に精気がドッと流れ込み、
「待って下さい」
言うが早いか、俺は先輩の手をしっかりと握り締めていた。
持っていた荷物は一切合財、絨毯の上だがそんな事はどうだってかまやしない。
驚いて振り返った先輩へと、
「好きでした」
いや、違う。
「好きです。俺、先輩の事が。ここで…、このままで終わりにしたくありません」
俄かには信じがたいのか先輩の顔にはまだ笑みが戻っては来ず、
「…気をつかう必要なんて」
弱気な言葉に俺は首を振る。
「今度会う時は渡し損ねたチョコレート、持って来て下さい。俺、全部食ってみせますから」
ジッと俺を見たままの先輩は、
「それってかなり勇気有る発言だって分ってる?」
「今更性別がどうこうなんて…」
「じゃなくてね。あのチョコレート、賞味期限切れまくってるよ。僕は別の意味であまり開封したくないんだよ」
絶句する俺の姿にようやく先輩は、
「どうする?」
悪戯っぽく口の端を上げた。
「意地が悪いですね」
「全部僕に告白させたくせに」
…それに関しては返す言葉が無い。
「すみません」
まさか先輩が好きで居てくれたなんて思いもしなかった。
素直に謝った俺の事を優しく笑顔で許してくれた先輩は、
「本当はこれから直ぐにでも空白の月日を埋めたい気分なんだけど」
残念そうにホールの時計を指差した。
“ちゃんと出ますっ”
って断言してたもんなぁ。事情を知ってるだけに無理強いは出来ない。
「まだまだ、これから幾らでも会えますから」
ここはひとつ、年下でも寛容な精神の持ち主だと言う所をアピールしておくとしよう。
ただし、
「早めに切り上げて帰るよう心掛けて下さい。それから携帯電話の番号教えておいて下さい、適当な時間にチェックさせてもらいます」
主導権を握るにはとにかく先手必勝。
「何もそこまでしなくても」
「悪い虫が付かないための防護策ですから」
少し呆れ気味にでも既に携帯電話を構えている俺へとゆっくり番号を告げる先輩。
成れた手つきで素早く数字を打ち込みながら、ふと俺がここまで強気な態度に出た事があっただろうかと考える。
記憶に残る限りでは、皆無だ。
人生の何をとってもずっと相手の出方待ち、受身で居た俺が始めて攻めてみたいと思った。
先輩の告白はそれ程俺にとっては効果絶大で、それならば上手く魔法に掛かってしまおうと今、硬く決心する。
「恋は魔術師」
呟きに軽く視線を上げた先輩へと俺は笑顔を向けながら、
「行ってらっしゃい」
携帯電話を振ってあっさり見送った本当の意味を先輩が知るのはもう少し後の事。
呆れるくらいに電話を掛けてやろう。
朝も昼も夜も…いや四六時中俺の事が頭から離れなくなるくらいに…
撒き散らした荷物を拾い集めながら俺は最後にもう一度だけ強く心の中で念じてみる。
この恋だけは絶対に終わらせない
…と。
作:杜水月
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