36.9℃の憂鬱 

 例えば、ある朝ふと目が覚めて、ちょっとした頭痛であったり倦怠感であったり…とにかく体調がいつもと違うことに気がついたとしよう。
 仕事がどうしようもなく混んでいる時なら気が付かないふりをして部屋を出るだろう。けれど仕事が一段落していたり、ついでに雨なんか降っている日だったとしたら熱でもあるんじゃないだろうかと取りあえず救急箱から体温計を持ち出してみる。
 そして平熱ならそのままいつもの日常が始まり、38度を超えているなら即刻ベッドに逆戻り。ところが一番やっかいなのが… 

 36.9℃

 その数字を眺めたまま僕は重く長いため息をついてしまった。
 平熱とはいい難いけど微熱には一歩及ばず。今日なら僕がいなくても仕事にさして支障はないことは分かっていても、熱があるから休むと言ってしまえばそれは嘘になってしまう。
 カチンと体温計のケースに蓋をした僕はそれをそのままテーブルに置くと、少し間をおいてようやく重い腰を上げた。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

黒木さん、これ置いておきますね」
 声に振り返る間も無く机の上に置かれた丸い物体。
 僕はそれにチラッとだけ視線を向けた後、直ぐ傍に立つ人物を見上げた。
「関口チーフからの差し入れです、遠慮無くどうぞ」
 言葉に口を開きかけた僕へ、
「というよりノルマです、山ほど持ってきたんです。断れませんから」
 きっぱりと胸を張ってそう言い切ったのは白のブラウス紺のベストに紺のタイトスカートといった比較的無難な制服女子社員・山岡美鈴
 2年も部署を共にしていれば僕の行動パターンもバレバレなようで、
「そんな可愛い目でうるうるしたってダメですよ。 食べるなり、あげるなり、持って帰るなり…自分で処理してくださいね〜」
 そこで僕は少しムッとしてしまう。
 なぜだか彼女は僕に対してこういった比喩を使うことが多いのだ。
 曲がりなりにも成人した一端の男としては嬉しいはずがない。
「…うるうる、してないけど」
 俄かに反撃に出てはみたものの、
「怒った顔も可愛いんだから仕方ないですよ、では」
 全く応える様子もなくスタスタと去って行く後姿に、
「なぁにが、可愛いだ」
 ため息混じりにつぶやいて…机の上のドーナツに改めて視線を置いてみる。
 朝から体調がすっきりしないせいか食欲が全然無いというのに、薄いナプキンの上には2個もドーナツが乗っかっていて、
 どこからどう見たってボリューム有るよなぁ
 そんなことを思いながら何気なく向けた視線の先。
 窓にかかるブラインドの隙間から太陽の光が差し込んでいることに気が付いた。
 雨…いつの間に止んだんだ?
 僕は少しその日差しを眺めた後、傍のドーナツをひとつ手に持つと静かに席を立った。


「あ、れ?」
 重い鉄の扉を押し開いた瞬間思わず突いて出た間抜けた声。
 非常階段の踊り場の手すりに両肘をかけたまま、
「おっと、いつもと逆パターン」
 軽く笑顔で振り返ったのが渡辺直樹と言う男子社員だ。
 彼とは部署は別でもフロアは同じ。
 僕の背中を見る位置に席が有るから、フロアで振り返る立場に居るのは僕になる。
 それほど親しいわけでも無いけど良く見知った顔に僕も笑みを返しながら、
「さっき次長が探してたけど、こんな所でサボってて大じょっ…!」
 っとそこまで言ったところでいきなり腕を掴まれて、まだ戸口で立ったままの僕は踊り場に引っ張り出されてしまった。
「なっ、なに? 一体」
 けれど渡辺は慌てる僕にはお構い無しで、扉が閉まり切るまで用心深く廊下を覗きこんだ後、
「まさか尾けられてないよな」
 なんの話かと僕が首をかしげると、
「次長だよ次長。朝っぱらから煩いのなんのって」
 役職がついているわけでは無いけれど、渡辺が部署内で重要な位置を占めているのは同じフロアに居れば分かるってものだ。
「やっかいな仕事でも回されて」
「なわけ無いだろう、仕事なら何だって受けて立つさ」
 言いながら上から軽く睨まれて、
「…ごめん」
 そうだよな
 渡辺はそんな奴じゃない。
 すると、
「謝るほどのことでも無い」
 今度は眉を上げながらの小気味好い笑顔に、ついジッと眺め入ってしまった。
 言いたいことはしっかり言って締めるところはちゃんと締める。
 なのに全然嫌味では無く、よく見ると顔のつくりだって充分男前の部類だよな。
 背も高い上にスーツがピシッと決まっているのは体格も申し分ないってことだ。
 …どうせ男に生まれるなら、こういうふうになりたかった
 なんて思いつつ、ため息をついている最中、
「黒木」
 呼びかけられてもう一度視線を上げた僕へと、
「もしかして俺に惚れてる?」
 …?
 一瞬言葉の意味不明。首をかしげたまま更に3秒間を置いて、
「え゛っ?!」
 大げさに一歩後ずさった僕を見ながら渡辺がブハっと派手に噴出してしまった。
「な…んなんだよ」
 せっかく最上級の評価をした後だっていうのに、これだとただの挙動不審者じゃないか。
 腹立ち紛れにクルっと踵を返した背後から、
「悪い、ごめん、言い直すよ。熱があるんじゃないかと思って」
 熱?
 その言葉で思い出した、朝から調子が悪かったことを。
「目が潤んでて熱っぽいぞ」
 さっきも似たようなことを言われたよな。
 僕はもう一度渡辺を振り返ると、
「出掛けに36度9分あったからもしかして」
 上がってきたかもしれない
 予定ではそこまで言うつもりだったのに、志半ばでまたもや腕を掴まれた僕は、1分後にはフロアに戻ってしまっていた。
 高いキャビネットに囲われた打ち合わせスペースに雑然と置かれている椅子のひとつにトンと押すように座らされたまま、大きなキャビネットの真ん中の引き出しをまさぐっている渡辺の姿を、僕はただ目で追っている。
「人間の体温ってのは大体午後に向けて上がってくるんだ」
 振り向いた後、渡された体温計を素直に受け取ろうと手を出して、
「……」
 2人してそこで動きを止めてしまった。
 そうだった!
 ドーナツだよ、ドーナツ!
 こんな物を右手に持ったまま、僕は何をウロウロしてるんだっ。
 思い返せば大体これのせいで可愛いだの言われたわけで、
「もしや、こっそり捨てるつもりだったのか?」
 あらぬ汚名までかけられてしまう羽目になる。
 即座に首を振りながら、
「そんなわけ無いだろう」
 と言ってしまったら…言葉を続けるしか、ないよな。
 なら何なんだ、と言わんばかりに僕を見下ろしている渡辺から視線を外すと、
「…猫、にさ」
 傍のテーブルに薄いナプキンを敷きドーナツを置きながら、
「ほら、非常階段の脇の塀で日向ぼっこしてる野良猫が居るだろう?」
「薄茶色のブチ?」
 僕はうんうんと2回頷いて見せた。
「食べないかなぁ、って思ってさ」
「ドーナツを?」
 再度頷いた僕へ、
「猫が?」
 訊ねる声が笑ってる。
「いや、でもさ。朝から食欲無いしクドそうだし、ひとつは何とか努力しようと思ったん」
 言ってる途中、ふいに伸び出た渡辺の手が、
「だけど2個はさすがに持って帰っても…?」
 いきなり僕のネクタイに掛かったかと思うや否や、グググと引き抜かれてしまって、しかも第1ボタンを外し終えた右手は次のボタンに掛かろうとしている。
「って何っ!?」
 あまりの手際良さに今更ながら慌てて、渡辺の右手首を掴んだ瞬間目の前に突如現れたのは電子体温計。
 目をパチクリと見開いた僕へと、
「その奇案は天然なのか熱のせいなのか証明してみようかと思うんだが」
 開かれたシャツの隙間から素早く体温計を滑り込まれて、
「後者ならドーナツごと家まで送ってやるよ」
 言ってることより、やってることより、何より渡辺の僕へと向ける悪戯っぽい笑みが異常に至近距離に有ることがとにかく気になって…。
 ジワリと変な汗が出てきたのは、多分熱のせい…なんだろう。


「しっかり掴まってないと落ちるぞっ」
 赤信号で止まった瞬間、渡辺が僕に向けて発した言葉は会社を出てからこれで3度目だ。
 あの後体温計が示したのは39に近い数字で、
“…お前、鈍感にも程があるぞ”
 渡辺の言葉と自分の体調の現実にショックを受け、机へと突っ伏してしまいそうになった僕の姿に、
“落ち込むな、俺がついてるから”
 少し奇妙な励ましの言葉を投げかけた渡辺。
 そしてその言葉の意味が今の状態、ってことなのだ。
 ついてくれる相手がなぜ渡辺でなければならないのか、という初歩的な疑問はともかくとして、確かにこの体調でひとりで帰らされるのはちょっとキツい。
 僕のマンションはタクシーを使うにはあまりにも距離が近過ぎるのだ。
 けれどまだまだ明るい時間帯。雑居ビルや大型小売店が立ち並ぶ往来の多い主要道路沿いを、スーツを着たサラリーマンがママチャリにふたり乗り。などという図は絶対に目立つ。
 と思っているのは僕だけなのだろうか。
「遠慮するな、凭れたってちゃんと運転できるから」
 決して遠慮してるわけでは無いんだけれど…
 と熱のせいか荷台にまたがったままひとつため息をついた瞬間、
 グンっ!
 っと勢い付いて飛び出した自転車に振り落とされそうになって、慌てて渡辺の腰辺りにしがみついてしまった。
「そうそう、そういうコトっ!」
 かなりな往来があるというのに大きな声でそう告げると更に渡辺は軽快に自転車を加速させながら、
「黒木、保険証持ってるか?」
 …ってもしや病院に行こうとしてくれてるんだろうか?
 渡辺の背中から少し頭を起こしつつ、
「いいよ、仕事があるんだろう?」
 そう言いかけた僕の言葉は一言も発せられないまま、頭を渡辺の後ろ手でグッとまた背中へと押し付けられた。
「保険証。有るの、無いの?」
 今度は少し怒ったような口調で訊ねられ、背中で大きく僕は頷いてみせる。
「持ってるってこと?」
 再度頷いた僕の頭をなぜるようポンポンと叩いた渡辺。
 随分子ども扱いされてるなぁとは感じたものの、渡辺の広い背中の感覚が意外なほど心地よくて…。
 いいよな、別に。体調不良なんだから
 誰にとも無く心の中でそんな言い訳をしながら、すっかり渡辺へと体重を預けてしまった僕は、渡辺の背中に頬をつけたままボンヤリと通り過ぎる景色を眺めていた。
 塵埃・雑然・喧騒…この街にはそんな印象しかなかったはずなのに。
 行き交う車のメタルカラー
 並ぶショーウィンドウの華やかさ
 遠くから、近くから入り混ざる賑やかな音
 少し傾いた日差しが鮮やかに照らし出す雨上がりの街の風景が、今日はやけに躍動的で輝いて見えるのはなぜだろう。
 雑多な街の中を颯爽と走り抜ける自転車の荷台で、僕は心地のいい異空間に居る気分になっていた。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

 …それにしても
「プリン、ゼリー、アイス、果物。どれなら食べる気になりそうだ?」
「ごめん」
 全然食欲が無い
 とばかりにテーブルにグッタリと突っ伏しながら答えた僕の直ぐ脇に膝を突いた渡辺。
「何か食わないと薬が飲めないだろう、胃に負担がかかるって知ってるのか? これなら、って物があったらもう1度買い出しに行ってきてやるから言ってみ」
 こんなに面倒見のいい人間が居ていいものなのだろうか。
 病院に行った後、いったん僕を部屋まで送り届けてくれて、買い出しに行ってくれて…。
「このスウェット、パジャマ代わりか?」
 活動的な渡辺とは対照的に動く気力なんかは微塵も無くて、スーツのままじっとテーブルに顔を伏せたままの僕からブレザーを手早く脱がせると、僕のネクタイに手をかけたのは今日2度目だ。
「で? 何なら食べられるんだ?」
 さっきも思ったことだけど、渡辺はネクタイを解くのが上手い。
 ついでにYシャツのボタンを外す手際も、だ。
 このレベルになるともう妙技といっても過言じゃ無いと関心…してる場合じゃない!
 すっかりボタンを外し終えYシャツを肩半分抜かれかけたものだから、
「いっ! 渡辺。いいって」
「遠慮するな、便利な立地条件なお陰でコンビニが近くに三つ」
 じゃなくて、
「着替えくらい自分でするっ」
 言いながら唐突に身体を起こしたタイミングがかなり悪かった。
「てっ、ったっ!」
「ぅわっ!」
 僕のYシャツを脱がそうとしていた渡辺もろとも体勢を崩し、どんっと二人して床に倒れこんでしまい…
「……」
「……」
 胸元をあらわにしたまま、まるで僕が押し倒されたような構図で、ただ黙って見詰め合っているこの状況は何なんだ。
 そう思いながらも、真上から向けられる渡辺の視線から逃れることができずにいる僕こそ何なんだ、と思う。
 …どうしよう
 訳も無い不安に襲われ始めたその時、ふと表情を緩めた渡辺が視線を解いて身体を起こすと、
「悪い、体調悪いのに…」
 少しバツが悪そうに背中を向け立ち上がる。
「後、一人で大丈夫か?」
 大丈夫
 だとそう思う心とは裏腹に僕の口は動かない。
 そして向けられた背中に瞬間ショックを受けた自分に、
「…アイスなら、何とか」
 そんなことを言ってる自分に、
「バニラ、チョコレート、ストロベリーが有るんだが俺のお勧めはなんてったってイチゴ味」
 振り向きざま、悪戯っぽく微笑まれてほっとしている自分にかなり戸惑ってしまい、頷いたまま俯いてしまった。


 目覚めると部屋中すっかり闇。
 咽喉の乾きに気づきつつも、ベッドから抜け出す気力を奮い立たせるのに時間がかかりそうだと、緩慢に寝返りを打つとベッドの宮に置かれている何かが目に入った。
 まとわりつく髪を無造作にかきあげながら身体を起こすと、そこにはミネラルウォーターとスポーツドリンクのペットボトルにグラスがひとつ添えられて…更にその傍には体温計。
 置いてくれたのは渡辺以外には考えられないけれど、寝る前にこんな物があった記憶が無い。
 …変だな
 とは思いながらも咽喉の渇きを潤す方が先決で、ベッドの上へと座り直しスポーツドリンクに手を伸ばす。そして蓋を開けると一気に半分飲み干して、少し頭が覚醒してきた。
 体温計を脇に挟み、目覚まし時計で時刻を確認する。
 9時前
 ってことは5時間ほど思いっ切り熟睡していたことになるか。
 もう一度少し伸びすぎた前髪をかきあげつつモソモソとベッドから抜け出すと、取り合えず電気を点けテーブルへと何気なく視線を向けて、
 ???
 ある1点を凝視したまま僕は動きを止めた。
 ネイビーブルーの小さなテーブルの上に置かれているのは紛れも無くこの部屋の鍵。
 そう確信した僕は慌てて通路兼キッチンの電気も点けてその先にある玄関扉を見やり、そのままそこに座り込んでしまった。
 きっちり施錠されてる状況が呑み込めない。
 渡辺はどこから出て行った?
 っと、

 ピピッ ピピッ ピピッ

 突然鳴った電子音に飛び上がりそうになって、脇から滑り落ちそうになった体温計を慌ててスウェット上から押さえるとドキドキしたままとにかく抜き取った。

 38.2℃

 会社に居た時よりは下がってはいるけど、やたらと痛い注射と渡辺に説得されアイスを食べた後に飲んだ薬の効果はまだ存分には発揮できていないようだ。
 もう何年も熱なんて出したことが無かったから、これから上がるのか下がるのかも想像できないな…っと、そうか。僕が思う以上に心神耗弱が激しいのかもしれない。
 渡辺が部屋を出た後、実は僕が鍵を掛けたんだ。
 全く記憶に無くても、きっとそうに違い無い。
 自分にいい聞かせながらテーブルの傍まで這って行くと肘を掛けてため息をひとつ。
 頬杖をついてもうひとつため息。
 …変な1日だ
 改めてそう思いながら駄目押しのため息がこぼれてしまった。
 特別親しいわけでも無かったというのに、面倒見の良過ぎる渡辺の好意に言われるがまますっかり甘え切ってしまった自分に自己嫌悪を感じずにはいられない。
 きっと渡辺は、頼りない情けない仕様がない男だと思っただろう。
 帰り際の記憶が無いのがまだ救いで、大体朝の36.9℃が一番悪いんじゃなかろうかと僕の思考が責任転嫁へと移りかけたその時、またもや突然の物音にギクっとさせられた。
 瞬時に音の方向を振り向くと、
 カチャン
 っと軽く鍵が開く。
 そして静かに扉から姿を現したのが、
「…えっ?」
 どうして渡辺が…?
「ただいま」
 放心してしまった僕に向かって軽く笑み。
「具合、どう?」
 靴を脱いでスタスタと僕の傍までやって来ると、
「あ゛〜、まだ8度2分も有るのか。夕飯…は、まだだな。じゃ一緒に食うか?」
 って
「鍵」
「柿? は時期はずれ」
 聞き違いに首を振ると、
「牡蠣の方ならそれこそお前」
「違う、鍵っ。この部屋のキーだよ!」
 必死で訂正したというのに渡辺はいたって冷静に頷きながら、
「それくらい声が出るなら、このまま熱は上がってこないかなぁ」
 言葉に口を開きかけた僕の唇に軽く掌を当てた渡辺は、
「部屋を出てから飲み物を用意してなかったことに気がついて、引き返そうと振り向いたところに合鍵屋の看板が有ったんだ、からまぁ。何となく…」
 何となくってそんな理由で、
「晩飯はおかゆ、雑炊、うどん…どれがいい?」
 あてがわれた手を払い退けることも、言葉のひとつも出せないのは、きっとこの至近距離での笑顔のせいだ。
 …手放しで
「雑炊」
 甘えたくなる。
「了解しました」
 唇から離れた手が僕の頭を軽くなぜる。
 そして僕の傍から立ち上がった渡辺の背中を視線で追いながら、
 やはり今日は変な日だ…
 とつくづくと感じていた、のだけれど。


 この “変” は明日から日常化してしまうことになってしまうのだ。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

「明日から金曜日まで出張だから」
 缶ビールのプルトップを引きながらの渡辺の言葉を、テレビに視線を置いたまま僕はふぅんと返し、
「また関口チーフと打ち合わせ?」
 自分のビールをひと口咽喉に流し込む。
「電話だけじゃ要領がつかみ難いみたいでさ」
「でも、こっちも渡辺が留守の間、大変そうだよ」
「だろうなぁ」
 のんびりとファーにもたれた渡辺を僕は少し呆れながら横目で見やる。
「他人事みたいに…」
 缶ビールの飲み口に唇をつけたまま渡辺も視線だけを僕に向け、
「ったって次長命令なんだから仕方が無いだろう?」
 軽く片眉を上げると、
「俺が気に病む問題でも無い」
 そこまで言ってグビグビっとビールを呷る。
 まぁ、それはそうだ。
「それだけ渡辺がやり手ってことかな」
 言いながら僕もソファーへと体重を預け、
「次長並みに部署を仕切ってるし、人付き合いとか、人使うのとか上手いと思うよ」
 テレビの画面に視線を戻し、
「大学時代適当にやってた僕と違って、大きなサークルで部長してたって実績が多分そのまんま活かされてるんだよ」
 喋ってる途中画面に映し出されたのは渡辺ご贔屓のアーティスト。
 僕は言葉を止めてゆっくりとビールを喉に流し込んだ。



 …あの熱騒動の日以来渡辺はそのままここに居付いてしまったのだ。
 あまりにも渡辺が普通に生活し始めたものだから、追い出すきっかけが見当たらないまま2ヵ月が過ぎようとしている。
 玄関から入るなりの廊下兼台所を通り抜けると8畳ほどのリビングと小さな寝室がひとつ、というこの部屋に僕一人ならまだしも男二人が住むとなるとかなり手狭になってしまうのは当然のことだ。そして小さなテーブルを囲っての食事にしろ、今みたいな食後のリラックスタイムにしろ、とにかく渡辺との距離が過ぎるほど近いことに、今更ながら何故渡辺は不自然さを感じないのだろうかと思う。
 こうやってソファーにふたり並ぶとテーブルのビーフジャーキーひとつ取るだけで肩が触れ合ってしまうというのが現状で…



「何?」
 指で軽くつまんだビーフジャーキーをふたつに裂いたところでふと気が付いた渡辺の視線。
「…サークルの話、って俺話したことあったっけ?」
 かなり訝しげな顔をしながらの質問に、
「したんだろう?」
 そんな情報を僕に入れてくれるような人間なんて他にはなぁ…と考えながらも、
「ほら、そんなことよりこのインタビュー楽しみにしてたのに」
 それがために点けていた番組なのだ。
 これくらいの渡辺情報がどこから入ったかなんて、
「あ」
 そうだ
 渡辺の昔情報を流してくれる人間を一人思い出した。
「って何だよ」
 僕はテレビへと向けた視線を再び渡辺に戻し、
「だからインタビュー」
「そんなもんいいから、今の “あ” は何なんだ」
 そんなことでムキになってる渡辺が妙で僕は言葉を止めてしまった。
 すると、
「俺に言えないようなやましいことでもあるのか?」
 やましい?
 って今の何が?
「まさか俺の知らないところで」
「…渡辺」
 話を遮るような呼びかけで、続きを言い掛けたまま言葉を止めた渡辺に、
「浮気の詮索されてるみたいだ」
 途端一瞬大きく目を見開いた渡辺が慌てて視線を泳がせ、
「あ゛〜」
 気まずそうに苦笑い。
「ははっ、確かにそうだな。うん、確かに」
 まるで自分に言い聞かせるかのよう、そう呟いている渡辺。
 僕は心の中でだけ深いため息をついた。
 距離の近さは物理的なことだけでなくこんな日常会話の中でさえ、ひしひしと感じずにはいられない。
 大体ごく自然に “浮気の詮索” などと言う発想をしてしまった僕も僕だけど、肯定している渡辺も渡辺だ。
 …変だよ、絶対何かが変。
「嫌か?」
 思考を勝手に飛ばしていたものだから、
「って言うか変…」
 ん?
 頭の中で考えていた言葉がそのまま口から出てしまう。
「…・・」
「…・・」
 一瞬止まった会話はまるで僕が不明瞭な言葉を投げかけたせいだと証明しているようで、
「ごめん、聞いてなかった。さっき何て?」
 素直に謝って渡辺に視線を向けると、ほんのわずかに渡辺が表情を変えてみせた。
 その表情が何とも読みにくく軽く首を傾げると、口元に小さく笑みを浮かべた渡辺が、
「嫌か、って訊いたんだ」
 静かに会話をつなぐ。
「一緒に生活してる奴の事、色々知りたい…知っていたいって思うのは迷惑か?」
 低めに響く穏やかな声色が耳に心地いい、って感じた自分に動揺して直ぐに返事ができなくなってしまった。

 これがもし深夜という時間帯でなければ
 小さな部屋でふたりきりでなければ
 ソファーで肩を並べて見詰め合っていなければ
 …流れるようにピアノの音が聞こえてさえこなければ
 僕が何と答えようとも大した意味なんか持たないはずだ。





 なんでこんな雰囲気になってるんだろう…





 そして
「黒木」
 囁くような渡辺の呼びかけは、まるで恋人に語りかけるように甘い。
 …どうしよう
 流されてしまいそうだ
 でも、駄目だ
 今は駄目なんだと、必死で僕の理性が僕の内に叫んでる。
 言葉の続きを聞く前に…
 視線を外さなければ
「俺」
 途端、

 ジャジャジャガ ジャジャジャガ ジャジャジャガ ジャジャっ!

 いきなり、けたたましく鳴り響いたのは渡辺の携帯電話だ。
 瞬時にふたりしてパッと距離を開け、
「が〜〜っ」
 唸ったのは渡辺。
「ったく、新城の奴」
 苦々しくそう吐き捨てるとそこから腰を上げ棚から取った薄い電話を握り締め玄関口へと向かう渡辺の背中を僕は複雑な気持ちで見送った。
 たった今、僕と渡辺の間に流れた空気は多分僕の読み違いでは無いだろう。
 もし携帯電話が鳴らなかったら
 と想像して重く瞼を閉じた。
 今ある共同生活への問題点を、いい加減に認識すべきだ。

 …間違いがあってからでは取り返しがつかない事になってしまう

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

「最終手段は強制退去させる、ってことになるだろうな」
 言葉に僕は、塀の上でのんびり寝ている猫を睨みながら唸ってしまった。
「もともと実家から転がり込んできたんだ。追い出しても帰る場所があるんだから、それほど黒木が気に病むことでも無いだろう?」
 それは
「まぁ、そうですけど…」
 渡辺を追い出せない理由は、住む場所とかそういうことで無く、
「気を悪くしますよね」
 彼に付随してきたものが結構多いってことも原因のひとつ。
 今こうやって相談している業務の新城さんを筆頭に、渡辺と暮らすようになってから、社内での人脈がかなり増えたのは紛れもない事実なのだ。
「そりゃあ、正当な理由が無きゃごねるだろうが」
 その場の空気に流されて、ただならない関係に陥ってしまっては、渡辺を介したほとんどの人脈が切れてしまうのは必至。
 もちろん渡辺にも多大な迷惑を掛けてしまうだろう…って、これは全部自分に対してのいい訳。
「何か不都合でも有ったのか?」
 大いなる不都合が生じつつある
 という状況をそのまま新城さんに告げるわけにもいかず、
「お互いそれなりの年ですから、彼女とかできた時に困るんじゃないかと思って」
 非常階段の手すりに軽く体重をあずけながらの、今度は新城さん向けのいい訳だ。
 すんなり納得してもらえると思ったにもかかわらず、
「それは黒木に彼女ができそうだってこと?」
 意に反して質問を投げかけられた。
 短い否定の言葉を返した僕へ、
「だったら慌てなくてもいいじゃないか、と俺なら反論するな」
 僕は黙って新城さんを見上げた。
 いかにも渡辺が言いそうな答え。
 けれど一般的な同居の流れを考えるとそんなことをとやかく言う前に、
「…新城さんは変だとは思わなかったんですか、いきなり渡辺と僕が同居し始めたこと」
 根本的な問題があるだろう。
 何故、この年になって男同士で暮らさなければならないのか…
 と、新城さんは軽く口の端を上げ、
「だが最初にその“変”を受け入れたのは黒木自身だろう?」
「そ」
 れはそうだ。
 あの悪ガキじみた強気な笑みに、ついつい引きずられてしまった結果がこれ。
 正直、変だとは思いつつも嫌だと思ったことが無かったから…、成り行きに任せていたら自分でも思ってもいない状況に追い詰められていた。
「つまり今になって“変”に気づいたから追い出したいってことなのか?」
 質問に僕は首を横に振り、
「最初から変だということは分かってましたから」
 渡辺が合鍵を作って部屋に帰って来た時点で…、いや違う。
 自転車で送ってもらっていた時にはすでに何かが始まっていた気がする。
 そもそも事の発端は、打ち合わせスペースで体温計を見せられた。よりもまだもう少し前の…多分、
「…ここから」
 この非常階段の踊り場で渡辺が振り返ったあの時から
「何かが変わった」
「36.9度の憂鬱」
 言葉で新城さんに視線を戻した。
 手すりに軽く肘を突き僕の視線を受けた新城さんは穏やかな笑顔で、
「たった0.1度のウソがつけなくて無理して仕事してた黒木が可愛いってさ」
 あの日の話?
 …にしても可愛いって
「だ、れが」
 真っ直ぐに僕を見据えながら、
「35度しか無くても高熱で起き上がれません、ってウソがつける俺からするとただの優柔不断にしか見えないんだが」
 僕の質問には答えずシレっとそんな言葉を吐かれてしまう。
「評価も好みも人それぞれだからな…っと、そんな落ち込んだ顔することは無いだろう?」
 渡辺と同等…いや、多分それ以上に才知にたける人物からの評価が低けりゃ誰だっていい顔でいられるわけが
「四六時中、黒木と一緒に居たいと思ってる人間だって居るじゃないか」
 つい首を傾げてしまう。
 僕と一緒に居たい?
 って
「…それは、渡辺のことを言ってるんですか?」
「最初からずっと渡辺の話をしてただろうが」
 でも、
「一緒に居たいとかそういうのが変なんじゃないかって僕は」
「だからその変は最初から分かってたって自分で言っただろう」
 ???
 なんか頭が混乱してきた。
「上手く言えないんですけど、あの。僕の言う“変”と新城さんの言ってる“変”にはズレがあるように思うんですが」
 そこでいきなり新城さんは笑顔を消し、
「問題はそのズレが何なのかってことなんじゃないのか? 同居し始めた時点でひとつラインは超えてしまってるんだ、子供騙しのいい訳で事が済むなんて思ってたら余計にこじれてしまうぞ」

 追い出すつもりなら覚悟しろよ

 声なき声が僕の心に響いた気がした。


 最初は追い出したって問題ないような口ぶりだったというのに、真顔で睨みながらの最後のセリフはほとんど脅迫だった。

 …でもなぁ

 本当は、流されてしまいたくないから相談したんだ。
 新城さんの言葉を借りるなら今の僕の気持ちこそまさしく、36.9度の憂鬱って言葉がピッタリ当てはまるだろう。
 進む勇気も無いくせに戻る決断もできないでいる。
 優柔不断は百も承知で…だけど、足掻いているのは今ならきっとまだ間に合うから。
 この想いは、今ならまだ封印してしまえる


 昼休みも終わり席へと戻った僕は浮かない気分のままパソコンの画面をボンヤリ見つめていた。脳みそも運動量もほとんど不要なメールチェックという単純作業で気を紛らわそうと思っていたのに、
「…っわ! またこんな物をっ」
 僕は慌ててメールソフトのウィンドウを縮小すると、チラッと辺りを見回した。
 パソコンに届けられた新城さんからの社内メールに添付されていたのは渡辺の写真。
 近頃常習化しつつある行為だった。




“こいつとちゃんと向き合うことが肝心
 今日出張から帰って来るんだろう?
 そろそろハッキリさせるべきだ
 俺としては結構お勧めだと思うんだが…(。-_-。)ポッ”




 相談する相手を間違えたんだろうか。
 しかもこの最後の絵文字、
「何で照れてんだ」
 気持ちを落ち着かせメールごと削除しようと改めてマウスに手を掛けた時、
「黒木君、ちょっとちょっと」
 顔を上げると課長が手招きをしている。
 カチンと1度マウスをクリックし終えた僕は即座に席を立ち課長席へと向かうと、
「これこれ」
 課長は手にしている用紙を指差して見せ、
「OEM決まったから」
「前、に…言ってた分ですね。3機種とも全部ですか?」
 用紙に目を通しながらの僕の言葉に課長は短く肯定の返事。
「黒木君。今、急ぎの仕事持ってたっけ?」
「…再来週提出の申請書類があるくらいですが」
 混んでるって程では無い。と告げる前に、
「だったら先にこっち仕上げてもらおうかな、山岡君使ってくれたらいいから。段取りはいけるね」
「はい」
 と返し、課長から用紙を受け取り作業配分を考えながら席にたどり着く間際、初めて僕の椅子に腰掛ける他人の存在に気がついた。
「っと、悪い。話し中だったから勝手に使ってるよ」
 僕の気配を察してか、振り返ることなくパソコンのキーボードを叩きながら言ったのはシステム課の広川主任だ。
「まぁたLANの調子が悪くってね。部長と相性悪いのかなぁ」
 この部署内でプリンターと直接繋がっているのは僕のパソコンだけ。他のパソコンは特に問題は無いというのに、部長からの通信だけ頻繁にエラーが出てしまう。
 けれど、どこからどう見てもアナログ人間の部長が必死で現代社会についてきてるのだから、取り合えずメールとプリントアウトができるようになっただけでも賞賛を送るべきだろう。
「部長も一生懸命頑張ってますから」
 部長とは対照的な超デジタル人間、広川主任にフォローをいれておくと不意に主任が僕に目を向けた。
 わずかに僕は眉をひそめてしまう。
 まとわり付くような嫌な視線だ。
「何、か…?」
 と、
「黒木君って彼女いない歴何年?」
 かなり唐突でプライベートな質問に今度ははっきりと顔全体で不信感を表した。
「何なんですかいきなり」
「そのルックスだし、ちょっと大人しいところを除けば性格も特に差しさわりが無い。なのにどうしてフリーなのかと思って」
「どうしてフリーだと決め付けるんですか?」
 そんな私的な話をするような付き合いでは…
「社内で有名だよ、渡辺と住んでるの」
 うっ
 そ…う、だったのか?
 絶句してしまった僕へ、
「普通彼女がいりゃあ、男と住んだりしないよなぁ」
 返す言葉が無い。
「それとも何か別の理由で住んでたりして」
 かなり意味深な目つきでそう問いかけられた時、
「黒木さ〜ん♪」
 拍子抜けするような明るい声。
「お仕事しましょう♪♪」
 いつの間にか満面の笑顔で直ぐ傍に立っていたのは山岡美鈴だ。
「…なんだか嬉しそうだね」
「黒木さんとお仕事できますから♪♪♪」
 言葉に僕は空笑い。と、
「鈍い男だ」
 振り返った先には、何やら胡散臭そうな広川主任の笑顔があった。










 RR RR RR RR …

 単調で短いコールを繰り返すのは内線の呼び出し音。
 以前渡辺が僕に体温計を差し出したあの打ち合わせスペースで山岡さんとの打ち合わせを終え、キャビネットの切れ間から出てきた直後のことだった。
 僕は傍に立つ山岡さんへと視線向ける。
 電話の近くに居たのは彼女だが、彼女が両手に抱えているのは山のような図面フォルダーの束。僕が受話器を取るのは必然と言うものだろう。
 山岡さんを笑顔で見送って、
「はい、技術部です」
『おおっ、その声は黒木っち?』
 この呼び方は経理の久保田さんだ。
「ええ、お疲れ様です」
『ホンットお疲れだよぉ。黒木っちが出るってことはそこのオヤジ軍団、みんな留守なんだ?』
「…残念ながら」
 彼の苦渋の顔が頭に浮かんで、つい苦笑いを浮かべてしまう。
 このフロア最西の一角を陣取っているこのスペースは、社内の古参者ばかりが占めていて若手社員のほとんどは近づきたがらない。
 決して窓際って訳では無いけれど、部長に負けず劣らず癖のあるアナログ人間ばかりだからだ。

“大体何年会社員やってんだっ! 消耗品の金銭請求くらい、いい加減まともにしろよぉ。毎回毎回計算合わないし字は読めないし”

 一緒に飲みに行くと必ず一度はそう愚痴る久保田さん…も実は渡辺絡みで親しくなったひとり。
『参ったなぁ。これ、今日中に上に回さなきゃいけないんだけど…阪井さん、ってどこ行ったか分かる?』
「ちょっと待ってくださいよ」
 そう言い置くと、僕はフロアの壁側真ん中にある予定表兼連絡用のホワイトボードに目をやって、ため息をひとつ。
 …何も書いて無い
 まぁ、いつものことでもあるかな。
 僕は振り返った姿勢のまま、
「近藤課長! すみません、阪井さんって今日現場ですか?」
「いやいや屋上だっ、屋上。上でパイプの改良やってる」
 呼びかけに顔を上げたのは課長で答えたのは次長。
 つられるようにキーボードを打つ手を休めた部長の3人に向かって僕は軽く頭を下げて見せ、
「屋上だそうです。良かったですね、社内にいて」
 言ったやいなや受話器の向こうから安堵の声が響いた。
 僕も額面通りほっとして、
「あ〜」
 ふと思いつく。
「っと、久保田さん。僕書庫に用があるんで、ついでに寄ってきましょうか?」
 書庫はこのビルの最上階に在るのだからつまりその上は屋上になる。
『えっ、本当に? 助かるなぁ。実は忙しくて手が離せないんだ、経理に寄ってもらうように伝えてくれるだけでいいから。今度飲みに行く時は黒木っちの分だけはおごらせてもらうよ』
 渡辺抜きでは飲みに行かないぞ、って聞こえてしまうのは僕の思考が捻くれてるってことだろうか。
「…有難うございます」
 共同生活を解消すると、こういう誘いも無くなってしまいそうで…って別に久保田さんとふたりっきりで飲みに行きたいわけでも無いんだけど。
『黒木っちとふたりが嫌だって意味じゃ無いからね』
 わずかな間を読み取られて、
「いえ、別に」
 焦った僕へと、
『渡辺の写真、上手く撮れてただろう?』
「は?」
 うまくとれる?
 写真?
 渡辺の…って、もしや!
 そこではっとした僕はまだパソコンをいじってる広川主任に慌てて視線を向けた。
 課長に呼ばれてクリックしたのは“削除”でも“閉じる”でも無い何やら別のアイコンだったはず。
 あのメールを開いたまま、メールソフトは稼動中のままで、
“社内で有名だよ、渡辺と住んでるの”
 見られた?
“それとも何か他の理由で住んでたりして”
 可能性が高いかも、だ。
 新城さん、メールになんて書いてたっけか…
 …と、視線を感じたのか広川主任がふいにパソコン画面から顔を上げた。僕と目が合っても少しの間無表情だったその瞳が、意味ありげにスッと細められ浮かべたのは薄い笑み。
 なんか、マズイ
『……っち、お〜い! 聞こえてるかぁぁ!』
「ぇあ? っと。ああ、すみませんっ」
 ほったらかしの久保田さんに慌てて声を返すと、
『メール、まだ見て無かったのかなぁ?』
「…いえ見ましたよ、新城さんと共謀してたんですね。社内メールで遊ぶのは止めて頂けると有り難いんですが」
『あっ、ひどいなぁ。俺たちは至極マジメに応援してるんだよ』
 応援って…
「言ってることも、やってることも僕には意味不明です」
『相変わらず鈍いねぇ、黒木っちは』
 笑いながらの言葉に、なんとなくムカッときた。
 広川主任は既にパソコン画面と睨めっこをしてるが、あの笑みに裏が無いとも思えない。
「おふたりのアドレス、着信拒否にしますよ」
 実害をこうむるのは僕なんだ、もっと早くに策を講じておけば
『いいよぉ。 そんなことしたら、今度は社長のパソコンから送信するからね〜』
 〜〜〜っ!
 声も出せないまま思わず受話器を持つ手に力が入る。
 この二人なら絶対するに違いない。
 僕には役職では呼ばせてくれないがふたりとも我が社のうら若き新鋭係長だ。
「…すみません」
 勝ち目は無い、と諦めて受話器からの高笑いを敗北感いっぱいの気分で聞いていると、
『はははっ、まぁ気にすること無いからさ』
 気にするべきは僕なんだろうか。
『阪井さんの件、よろしくね〜』
 短い返事を言い置くと、僕はようやく受話器を置いた。
 おふざけの過ぎる係長二人は僕の手には負えないし、今度は部長のパソコンを覗き込んでる広川主任に言うべき言葉も見当たらない。
 つまり、今直ぐ手を打つ策は何も無く…。
 だったら
 僕は軽く息を吸い、
「課長、屋上と書庫に行ってきます」
 いつもの日常を、と気を取り直してフロアを出た約20分後。
 とんでもなく非日常的な現実に僕は直面することになる。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■

 もともとは会長の小遣い稼ぎで運営する、何やってるのか分からないような会社がこのビルの最上階を陣取っていた。
 けれどいつの間にかその会社は消えてしまっていて、ガランと空いたフロアの一室が書庫に充てられている。
 とはいっても正式に札を掲げるような扱いの部屋ではなく、中は雑然とした何でもありの物置状態で、当面の間…という会社の姿勢がありありと見て取れる部屋だ。
 囲い込むように並べられた高い棚の陰になって室内は昼間でも薄暗くフロア全体がいわば余っているスペースなのだから人もあまりやって来ない。
 稀に
“秘密の情事に使われてる”
 なんて噂も聞いたりしたけれど、僕にとってはどうでもいいことだった。
 このフロアの過去も未来も現状も…

 …もっと気に掛けておけば良かった

 ここがいかに危険な無法地帯であるかってことを。








「好きだ」
 愛の告白は、もっと明るい人気の多い場所で聞きたかった…って方がおかしいけれど、
「だからこういう欲求も理解できるだろう?」
 勝手な理屈の強要に怒り心頭だ。
 がそれより恐怖の方が勝ってる、という心の動揺を悟られまいと、どうにか笑顔を作るつもりで頬を緩めてみた。ものの、
「そう怯えられると、支配してみたくなるなぁ」
 やはり失敗に終わったようだ。
 ついさっき無秩序な棚をかき分け古い資料を捜索中いきなり後ろから抱きつかれ、力の差をまざまざと見せ付けられた。
 とっさにどうにかその腕からは逃れ出て…けれどこの状況で笑えるほどに根性は座ってはいない。
 全身に剥き出しの欲望を巻きつけ、ゆっくり詰め寄る広川主任に、
「お、ち着いて…場所。を変えて、はなっ・・話を・・しましょう」
 後ずさりながら伝える声が震えてる。
 主任はニヤッと口の端を上げて見せ、
「俺はいたって冷静だよ、まぁ話をするってのも悪くはないが」

 バンっ!

 っと勢い良く僕の前に積みあがっているダンボールに左手を着いたかと思うや否や、
「ぅっわ、っ!!」
 瞬時に手首を掴まれ反射的に引いた身体が後ろの棚に派手にぶつかった。
 身をかがめながら肩をすくめてしまったのは、棚から落ちてくる色々な物と広川主任から身を守るための防衛本能。
「場所を変えるってのは却下だな」
 続けた言葉が終わる間もなく、掴まれた腕ごと力任せに床へと引き倒され、
「!! っう…」
 肩に走った激痛に呻いてる場合じゃない。
 すぐさま駆け出そうと起こしかけた腹部に、
「ぐぅ、っ――!」
 響いたのは信じられないような強烈な衝撃。
 “何?” と “痛い!”
 が瞬時に頭中全体で反響し、床の上をのたうち回りたい衝動をかろうじて理性が抑えた。
 内臓から逆流してくる何かに咳き込んでいる僕の頭上から、
「悪いねぇ、焦って力加減間違えちゃったよ」
 しかめた額に脂汗が滲む。
「そういう顔がまたそそるんだよ、黒木くん」
 含み笑いを空で聞き薄く開けた視界に入ったのは広川主任の革靴。
 蹴られたんだ
 と分かった瞬間、
「あれも馬鹿だよなぁ。一緒に住んでるなら、さっさと食っときゃ諦めたのに」
 嘘、だと思った。
「こういうことは先にヤっちまったもんが勝ち」
 僕を好きだと言ったのは大嘘だっ。
 こんな理不尽なやり方、渡辺なら絶対に…
 と、そこで初めて自覚した。
 こんな状況下で、
 ああ、そうか
 なんて人ごとのように頭にひらめいたのだ。

 自分がどれだけ大切にされてたかってこと…
 そして

 震える息をどうにか整え、腹を抱えるよう抑え立ち上がりきれずにいる僕の上へと跨って立っている主任をキっと仰ぎ見る。
 嘲笑しているその目をしっかり見据え、
「絶対、させないっ」
 宣誓するかのように言い放った。

 この想いは封印しない

 けれどそんな僕の思いなど、この男は微塵も感じ取れないらしく、
 はぁ?
 っと嗤う眼前の人でなしめがけて傍に落ちていたファイルの束を投げつけた。
 が所詮軽い紙の束。
 主任の胸の辺りでパンと振り払われ息を詰めたその時、
 バサバサバサ
 っとファイルが壊れて舞い散る用紙でお互いの視界が塞がれた。

 チャンスっ!

 内心叫ぶと、這うように起き上がった僕の胸元目掛けて伸び出た腕を力いっぱい払いのけ、振り上げられた主任の片足…とは違う方。つまり軸足へと渾身の力でタックル。
「うおっ!」
 声と共に、そびえ立つ塊がバランスを崩したのは手応えで分かった、んだけど。
 ―――っ!
 主任が僕の上に落ちてきた。

 マズい、イタい、オモいっ!

 とにかくそこから抜け出しようやく立ち上がったのに、またもやどこかを掴まれた。
「この野郎」
 地鳴りのような低い主任の声に本気で戦慄が走る。
 けれど立ち止まるわけにはいかない。
 無理に足を進めようとして掴まれたのがシャツの裾だと分かった途端つんのめってまた転んだ拍子に今度はごつごつした塊に太ももを思いっきりぶち付けた。
 もう散々だ
 けど、守らなければ
 と本能が訴えるから。
 また圧し掛かろうとする主任の影に、僕は指先に触れた長い何かを手に掴む。
 理性なんかはゼロに等しかったのかもしれない。
 だから

 この手にした物が何なのかとか
 相手が死ぬかもしれない可能性なんてこと
 全く考えていなかった。





 部屋に鈍い音が響く。
 ズサリと沈み込むような重い音を聞いたのが最後だった。
 僕は一切振り返らず戸口まで走ると、部屋を出る直前右手に持っていた物をそこに放り投げ、ついに書庫を飛び出した。
 勢いのまま非常階段へと走り、開けた扉から踊り場へ。
 照りつける日差しにほんの一瞬怯んだものの、後はまるで転げ落ちるよう下る。
 はぁはぁ、と切れる息が苦痛だと感じた瞬間、踊り場を回るタイミングをわずかに外し、鉄の手すりにガシャンとぶつかってようやく僕は止まる事ができたのだ。
「痛ったぁ…」
 今更ながらにそんな言葉を呟いて、ズルズルとそこにしゃがみかけた僕の耳に、
「黒木?」
 よく知ってるその声が、ひどく懐かしく胸に響いて、
 渡辺だ
 と思った途端、パッと思考が真っ白になった。
「何を慌ててるんだ、大丈…」
 渡辺の言葉は音としてしか入ってこず、
「ど、う…しよう」
 堰を切ったように書庫を出る直前の光景が鮮明に脳裏へと広がった。
 合わなくなった歯の根を押さえ込むよう口元を手で押さえかけ、目の当たりにした自分の右手に驚愕してしまう。
「どうしよう、どうしよう、どうしようっ」
 殴りつけた何かを通じて手に伝わった鈍い感触。
「…死んだ、かも」
 異常な震えが止められない。
「主任…が死ん、だら」
 どうしよう
 どうしよう
「そんなつもりじゃ」
 無かったんだ
 どうしたら
「僕は」
 どう…

 ……
 ……
 ……

 思考が、止まった
 そして

 ……
 ……
 ……

 …震えも止まる




 間近で聞こえる胸の鼓動に聞き入るよう耳を澄ませたまま、
「わ…たなべ?」
 もっと強く抱きしめられた。














 カン カン カン カン ……

 かなりな頭上から降ってくる足音に僕はようやく我に返った。
 いくら取り乱していたとはいえ…
「ご、…めん」
 言動全てが支離滅裂。
 抱き締められて癒されてる場合じゃない。
 渡辺を押しやるつもりで、少し身をよじるとその肩へと手を掛けた。
 書庫から必死で逃げて来てしまったけれど、僕が今すべきことは主任の安否確認と救急車の手配だ。
 とにかく何か手を打たないとと思い、それなりに力を入れて渡辺の肩を押しているというのにビクともせず、
「渡辺、もう大丈夫だから」
 言っても何故か抱き込む腕を解いてくれない。
 珍しく聞き分けてくれない渡辺に、
「僕は、人に怪我」
 で済んだとは思えないけど
「させてしまったんだ。最悪…」
 血の海で倒れている主任を想像してしまい、詰まった言葉をつなげようとした時、
「最悪? あぁ確かにマジ最悪。胸クソ悪い、死んでりゃいいんだ死んでりゃあ。人のモンに何てことしやがった」
 ブツブツと耳元での低い呟き。
 僕自身にも余裕があるとはお世辞にもいえない状態ではあるけれど…
「…渡辺?」
 誰に向かって言ってるんだ?
 しかも人格が変わってしまったかのような物言いで
 と、
「おい」
 いきなり頭上からの声。
 驚いて飛び上がりかけ…やはり渡辺の腕から逃れられない。どころかギュウギュウ胸に押さえ込まれて息がっ、
「死んでたか?」
「…精神的にはそうかもな」
 上方へと訊ねたのは渡辺で、答えた声は新城さんの物だ。
「で、黒木の怪我はどうなんだ?」
 ? 怪我?
「ちゃんと見てないが…、痛まないのか?」
 耳元へと優しく呼びかけられて、
「苦しい…から、ちょっと腕」
 とにかく訴えると、ようやく拘束から開放されてほっ、と…してていいのだろうか?
 視線を泳がせると、間近にいる渡辺は普通に心配げな視線を向けてくれている。さっき声が降ってきた方向を見上げた先で、新城さんが片手を腰に当てながら呆れ顔を浮かべていた。
 僕の口が何かを発音する前に、
「取り合えず一旦帰るのが得策だな。久保田から車のキー預かってるから送って行ってやるよ」
 言いながら軽やかに新城さんは僕達の傍を通り過ぎがてら、そこに置き去りにされていた渡辺の大きな鞄を持ち上げた。
 力こそ緩めてくれたものの一向に僕の肩から腕を離さない渡辺が、そのままの体勢で新城さんの後を追うつもりだと気づいてようやく、
「待ってくださいっ」
 なんとか呼び止めた。
「無事だったなんてありえない」
 何故だか分からないが新城さんは書庫で主任の様子を確認してきたのだ。
「思いっきり殴ったんですよ。多分首から上のどこかにまともに当たってる。どう考えたって、こんな暢気に済むような事態じゃなかっ」
「怪我は、してたよ」
 穏やかに言葉を遮りつつ新城さんが振り返ったのは、僕より少し低い位置からで、
「鉄パイプなら大事だったろうな」
 僕は目を見張る。
 …違ってた?
「戸口の傍に塩ビのパイプが転がってたが、たぶん凶器はあれだろう? 覚えてな…くてもしょうがないか。まぁ硬さはあっても軽いから、中が空洞ってのも幸いしたんだろう。顔は当分腫れるだろうが、あの程度の鼻血じゃ生死には係わらないな」
 そ、うか
 塩ビの…
 主任、生きてたんだ
 そんな今年を考えてるうちに全身の力が抜けて行く感覚。
 マズいな
 と思っていたらグッと渡辺が腕に力を入れて支えてくれた。
 やはり、僕はこの手に頼るしかないようだ。
「じゃあ行くか」
 新城さんの声に、やっと浮かべた笑顔で頷いてみせると、渡辺が嬉しそうにクシャッと僕の髪を撫ぜてくれた。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

 マンションの前で二人して新城さんを見送ると滞りなく部屋へと帰り着き、真っ先に向かった脱衣場にある洗面台の前で絶句。
 僕の心配はしてくれても誰も主任の容態を気にしなかった理由が始めて分かった。

「とにかく怪我を見せてくれ」

 普通の状況なら、そう申し出てくれた渡辺にこうも強くは抵抗しないだろう。渡辺が僕に対して何事も過保護なのは承知済みでもあるから。
 でも、
「い…いから、後でちゃんと見てもらうって」
 血まみれ埃まみれ解れだらけで、もうゴミにしかならないシャツの前をきっちりと抑えたまま洗面台へと追い詰められても、今に限っては渡辺の好意に甘えるわけには行かない。
「後も今も同じだろう?」
 …違うだろう、状況が
 非常階段から僕を離そうとしない渡辺はここ脱衣場でもその行為を継続中で、つまり僕は肩を抱かれたまま服を脱がされかけているのだ。
廃棄物と化すのはシャツだけでなくスラックスもそうだから、黙って従っていたらきっと全裸でバスルームへと連れ込まれるに違いない。
 で、全身ジャボジャボ洗われるのだ。
 渡辺へと抱く僕の感情がただの同僚・友達以下なら何の問題も無いのだろうけれど…
「渡辺、自分でする。大丈夫だから外で待ってて。って」
 言ってる傍からあの器用な脱がしっぷりでシャツは既にゴミ化して、渡辺の手がベルトのバックルへと掛かったところでもう僕は強硬手段に出るしかなかった。
 カチャカチャと音を立ててる腕からパッと離した僕の両手で、そのまま渡辺のシャツの襟元を掴んで引き寄せる。
 顔を上げ、射程距離内に入った薄い唇へ自分の唇を重ねた。というよりぶつけた、という表現が正しかったのかもしれない。
 一瞬前歯に痛みを感じたから…。
 我ながら下手くそ
 なんて冷静に行為の評価をしつつ見開かれた瞳を見据えると、やっと渡辺が僕を見てくれた。
 説得するなら今しかない、
「僕は一人で大丈夫だから。…こんなふうに脱がされたり、見られたりはしたくない」
 真面目にそのまま気持ちを言葉にした。
 動きを止めたままの渡辺。
「……」
 至近距離で見詰め合ったまま僕が二の句を継げないのは反応が返ってこないからだ。
 つきさっきまでの焦りを含んだ熱を収めてくれたのは良かったけれど、
「あ〜」
 こう端的に静止されると不安になってしまう。
 僕が勝手に暴走してしまったんだろうか…
 ぎこちなく僕の方から視線を逸らし、
「とにかく、外で…待ってて」
 ポツリと告げ渡辺の傍からすり抜けようとした時、
「…ひとつだけ」
 静かな声に僕は少し間を置いて視線を戻した。
 声同様、落ち着いた表情で真っ直ぐに僕を見つめている渡辺の、
「俺は一度結婚に失敗してる」
 言葉に小首を傾げたのはほとんど無意識で…
 それは、何だ?
「離婚後は彼女とは会ってもないし未練も無い。が、黒木は知っておくべきだ」
 …僕の中で、渡辺の言っている言葉が上手く噛み砕けないまま、
「その事実も込みで考えて欲しい」
 部屋で待ってるから
 終始表情を変えずにそこまで言い切った渡辺が、脱衣場から出て行く姿をただジッと見送って、閉ざされた白い扉を更に数分見つめた後、僕はおもむろに服を脱いでしまうとバスルームへと入った。
 シャワーのコックを全開にする。
 適温になる直前で湯気を立てながら降りしきる湯しぶきの中へと頭を突っ込んだ。
 心地良さを感じた直後、身体のあちこちに走った痛みに顔をしかめつつ、
「イタタタっ」
 呟くようひとり小さく唸ってしまう。
 その位置のままシャンプーを掌に取り頭を勢い良く洗うと、瞬時にバスルーム中に充満した爽やかな香りに少し気持ちが落ち着いた。
 とはいっても、如何せんシャワーの真下に居るのだから、泡を立ててるんだか流してるんだか分からない状態で、とにかく泡と共に埃も落ちただろうと判断すると、いつもの癖でコンディショナーも頭にかけた。
 けれどやはりシャンプー同様直ぐに流れ落ちてしまい効果があったのかどうか、だ。
 まだ立ち位置を変えないまま髪をザッと掻きあげ、ゆっくりと視線で自分の裸体を観察して…大きく息をついた。
 血と埃が消えた身体は傷と痣だらけ。
 小さな擦過傷と打撲は無視するとして、左太股にある一見小さな傷口からの血がまだ止まってない。 ってことは見た目より深いのかもしれない。
 ズキズキ痛む背中にも何か怪我をしてるってことだ。
 他に目立った物といえば鳩尾辺りの赤黒い痣か。多分蹴られた時の物だろう、明日か明後日にはもっと気味悪い色になりそうだな。
 見れば見るほど、この身体を何かで擦る気にはなれず、さっきのシャンプーの泡で身体の洗浄は済ませたことにしておこう。

 キュッ

 っと再びシャワーコックを捻り降り注ぐ湯を止めた。
 手で軽く顔と髪の毛の水滴を払いながら脱衣場へと戻りバスタオルを頭から引っ被って、着替えが無いことに気がついた。
 当然といえば当然だ。
 部屋に帰って来るなりここに引っ張り込まれたんだから…
 ……
 ……
 …思考の逃避
 してたよな
 僕は今、確実に

 トントントン

 自覚した途端、待ち構えていたようノックと共に扉が開いて、慌てて傍にあったもう一枚のバスタオルを腰にグルッと巻きつけた。
 大丈夫、湯気のお陰で見られて無い。
 そんな動揺を知ってか知らずかスッと視線を僕へと向けた渡辺は、
「い、ま出たところでまだ」
 聞く耳持たずの風情でそのまま僕の腕を掴むと2歩で脱衣場を出てしまった。
 更に数歩進めばソファーがあって、座らされたなと思っているうちにガシガシ頭を拭かれ、パッとそのバスタオルを剥ぎ取られてしまう。
 ボサボサな前髪の隙間から目の前に居る渡辺を見上げると、何故か少し困った風に視線を泳がせたけれど、されるがままの成すがままで半裸の身体を晒していては逃げる気力は失せていた。
 まな板の鯉ならぬ、名医の前の死に掛け患者気分で、
「よろしくお願いします」
 神妙に頭を下げると、濡れた僕の髪をクシャッと撫ぜながら渡辺は左隣に腰掛けた。肩に置かれた手が僕の身体を押しやりつつ渡辺は逆方向へと少し上体を反らせ、
「やっぱり、この傷が大きいな」
 思った通り背中に傷があったんだ。
 多分切り傷だろうと予測して、
「…どれくらい?」
「う〜ん、10センチ・・ちょいかな。でも深さはそれ程でも無いか」
 言ってる間に僕の肩から手が離れた。それでも背中を向けたままでいる僕の肩先から、
「消毒するから沁みるぞ」
 うん、と頷いて構えてはみたけれど…
「…っ」
 冷えた痛みに小さく呻く。と、静かにそこに掛かる渡辺の息を感じた。
「ちょっとはマシ?」
 手は休めないままにそう訊ねられ、今度は黙って頷くと背後でホッとしたような気配…が遠のいた直後にペタンと張られたのは多分大振りの絆創膏だろう。
 ひとつ息をつき体勢を元に戻す間際、
「雑魚は一気に片付けるからもう少しジッとしてろよ」
 それは小さな傷を指しているんだろうなと僕の思考が回る速さで、渡辺は身体のあちらこちらに治療を施してくれている。
「…いつも、ごめん」
 同じ年だというのに、してもらうばかりで情け無い。
「自分のこと…」
「今日の件は不可抗力な不慮の事故だ」
 僕の右肘に小さな絆創膏を貼りながらそう言った渡辺は、
「39度の熱に気づいてやったこと以外、黒木に謝罪されるようなことは無い。逆に勝手に転がり込んでる俺の方が迷惑掛けてる存在なんじゃないか?」
 今は僕の前で膝を付いて治療に専念している渡辺を、凝視してしまった。
 合鍵を作って普通にここへと帰ってきて以来、同居の核心に迫った発言はこれが始めてだったから…。
 脱衣場で話してくれた渡辺の過去も含めて、訊いておくべき時なんだと思った。
「…渡辺。が、ここに転がり込んできた理由は何?」
 問い掛けに手を止め、静かに向けられた渡辺の視線はかなり近い位置にある。
 漆黒の瞳が僅かに緩んだのを確認した時、
「黒木が好きだから」
 瞼を閉じてしまったのは条件反射だ。
 瞬間小さな音を立て重なった渡辺の唇は、キスだと自覚した時にはもうそこには無かった。
 けれど遠く離れたわけでもなく、
「知ってただろう?」
 また重なる。
 今度は確実に触れていて、悪戯な舌先が意思を持って僕へと侵入し始めたところで身体を引いた。
 渡辺も深追いしては来ない。
 抵抗したいわけじゃなく、
「慣れてるね」
 もっと話をしたかった。
「バツイチだから」
 意外にもトーンダウンした声で、ようやく渡辺の瞳を捕らえた僕へと、
「気になるか?」
 どう、なんだろう…。
「隠してたわけじゃないが話すきっかけも無かったんだ。 …でも言わないと騙してるようでもあってどうしようか困ってた。知っててもらわないと先に進む気にもなれなかったから…」
 何となく気持ちは分からないでも無いけれど、悩んでくれたわりには、
「変なタイミングで言ったよね。何だか訳が分からなくなった」
 混乱の上塗りで思考の逃避に走ったんだ。
 と、
「変なタイミングでキスなんかするからだ」
 小気味好く上がった片眉に物言いたげに緩められた目元。
 そう
 この悪ガキじみた笑顔を向けられ頬なんか赤らめてしまったらもう完敗だろう。
 性別や過去なんか気にならないくらい、ここでこうしている渡辺が好きなんだと思う。
「順序は逆だが、あれが返事だと思っていいか?」
 …その理屈なら、ついさっきも僕は答えを出している。
 とは口にしなかったけど、小さく頷いた僕を見て全身を笑みでほころばした渡辺が、すっぽり頭から抱き締めてくれた。
 迷わずその背に腕を回し肩口に顔を埋め…
 自分が人の温もりに飢えていたことに改めて気がつた。
 仕事に忙殺され忘れていた感覚だ。
 骨格も肉付きも明らかに同性だと分かるのに、意外とあっさり受け入れてしまったのは2ヵ月間の同居生活が幸いしたのかもしれない。
 今日のトラブルも結果的に前へと進むきっかけになったのだと思えば、ふたりに降りかかる全ての出来事が上手く回っている証拠だ…と渡辺も思っていたはず。
 だからこの後、
「会社に戻らないとな…」
 言ってこれ以上踏み込む事を思いとどまったのは、社会人として良識ある判断だっただろう。
 焦る必要性は全く感じていなかったから。




 …振り返れば最後に残った太股の治療時に感じた、かなりきわどい雰囲気を誤魔化すべきじゃなかったように思う。
 腰に巻かれたバスタオル一枚の壁を越えきらなかったのは、この数日後に巻き起こるある出来事を暗示していたのかもしれない…





























作:杜水月
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書き始めと書き終わりの期間が予定外に長くなってしまいました。
意味深な終わり方になってますが、これは当初の予定通りです。
決してまとめ切れずに続編へとずれ込んだわけではありません。

書くまでも無い事ですが社会人の恋愛です。
ので
続編ではちゃんと最後まで行かせます。
そして久々にH指数特5クラスで攻めるつもりですので
お好きな方はもうしばらくお待ちください。
苦手な方はごめんなさい。




随分と長い期間お待たせしましたが、
完読していただき大変有難うございましたm(__)m
少しでも楽しんでいただけたならとても嬉しく思います...


2007.1.11 杜水月

作:杜水月
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