立志 

 それは今から3年前の出来事だ。

 当時国内外で話題になったドキュメンタリー映画の主演俳優・香田千雪がテレビの中で華やかなトークを繰りなしているのを母子二人で眺めるという珍しいひと時を過ごしている最中のことだった。
 ここ小見島家はいわゆる母子家庭。
 母・小見島瑤子と一人息子である小見島雪之の二人で住むには随分と贅沢な賃貸マンションに雪之が生まれて以来ずっと二人きりで住んでいる。
 たった一人の肉親である瑤子は雪之が記憶している限り、いつも多忙な日々を過ごしており、成功者がキラキラと勝ち誇ったよう掲載されているビジネス雑誌を彩る働く女性の見本のような人だった。
 けれど実はそんなキャリアウーマンも家庭的な一面が…なんて上手な生き方ができる性質でもない瑤子。母子で時間を共有している最中でさえ彼女は書類か経済誌、もしくはパソコン画面を睨んでいることが殆ど。
 そのスタイルは昔から変わることの無いもので、雪之も知らず母親にまとわり付くことをしなくなっていた。
 瑤子が身を粉にして働いてくれているからこそ、この生活が成り立っているのだと信じていたからだ。
 そんな二人が特に興味があるわけでも無い朝の芸能情報番組を一緒に観賞するなどという構図は珍しいことこの上ない。
 洒落たガラステーブルの向こうとこちら。
 瑤子がコーヒーカップを手にした時、
「戸籍抄本取ってきた」
 言葉にあら、とでもいいたげに綺麗にかかれた細い眉が上がる。
「何か知りたくなったの?」
 特に抑揚の無い機械的な質問に、
「中学進学用の書類に抄本も添付するよう書いてあったから」
「そう、有り難う。助かったわ」
 淡々とした言葉の応酬。
 雪之は映画の撮影秘話を雄弁に語る香田千雪に視線を置いたまま、
「俺の父さん…って死んだんだっけ?」
「いえ、健在よ」
 瑤子は優雅にコーヒーを一口。
「もらった戸籍抄本の父親欄に名前が載ってた。ってことは母さん結婚してたってこと?」
「いいえ。でも認知はしてくれたからあなたの戸籍に名前が有るの」
 何か読み取れるかと雪之は瑤子を見据えたがコーヒーカップに口を付けたまま彼女は相変わらずの無表情。
「有りそうで、意外に無い名前だと思ったんだけど」
「そうね、私も同姓同名の人は見たことが無いわ」
 そのあっさり過ぎる口調に知らず睨むよう目を細めていた雪之へと、ようやく視線を向けた瑤子は一つため息をつき、
「冗談で言ってるんじゃないわ、雪之もちゃんと確かめたんでしょう?」
 戸籍抄本の記述に嘘が無いことは確か。
「“香田千雪” そこで喋ってる男があなたのお父さんよ」
 促されて再度向けた視線の先で今衝撃の告知を受けた自分の父親なる人物が、自慢の愛妻に微笑みかけている現実を余裕で受け止めるほどの技量を、生憎雪之は持ち合わせてなどいなかった。
 その後続けた瑤子の言葉は全く耳には届かないまま、ただただ呆然とテレビ画面を見つめることしかできずにいた。
 けれど
 わずか12年だがしっかり自分が築きあげてきた人生の土台に大きな亀裂が入っていたことに気づくのにはそれ程時間は掛からなかった。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

「主人公の必殺って、どうすんだっけ?」
 ゲーム画面を眺めながら誰にとも無く声をかける。
 安アパートの狭い部屋に6,7人は居たと記憶していたが、
「……」
 室内には淫らな呟き声が響くだけで誰からの返事も無い。
 小さな液晶画面から視線を外すと鬱陶しげに掛かる長い前髪の隙間から辺りを見回した雪之。
 同じベッドの端っこで半裸で縺れ合っているシキとアケミに軽蔑の眼差しを向けた後、
「んなとこでサカってんじゃねぇよ、馬鹿か」
 悪態をつくとゲームを閉じ、ベッドと壁との間に沈みこんでいる身体を起こす。
 のそりとベッドから這い降りようとした細い足首を不意に浅黒い手が掴み取り、
「ユキノ〜、いっしょにしよーぜ」
 歯並びの悪い口元がニヘラと告げると、待ってましたといわんばかりに顔を上げたのはその他の面々。
 部屋に漂う卑猥な空気。
 ねっとりと嘗め回すような視線に、全身で不快を露にした雪之は、
「ただでさえ成績、ヤバいんだよ」
 途端、
「なぁんだ、突っ込まれる気マンマンじゃん」
 掴んだままの足首にいきなりガブリと歯を立てたシキ。
 痛みより怒りで瞬間目をむいた雪之は容赦無くその後頭部へと蹴りを入れ、それでもヘラヘラ笑いながらベッドの上へと転がった血色の悪い喉元へ素早く手にしたナイフを突き立てる。
「殺すぞ」
「キャハハハッ」
 豊満な胸を揺らしながら甲高い笑い声を上げたのはアケミだ。
「あんたのケツが何ぼのもんよっ」
「ばっかじゃねぇ、いつまでもスカしてんじゃねえぜ」
 お世辞にもまともな連中だとはいえないが、いつも以上に壊れているのは今日シキが持ってきた薬のせい。
 部屋にいる全員が狂気の色で今にも飛び掛ってきそうな錯覚に襲われた雪之は、ジャケット片手に素早く玄関先まで移動して扉を開けた。
 振り返ること無く出て行く寸前その背後から、
「明後日は逃げんなよっ、尾崎さんに話し通ってんだかんな」
 足を止め最後まで聞き終えると、ぞんざいにジャケットへと袖を通し、何も返さずその場を後にした。

 バタン

 立て付けの悪い玄関扉が閉まったと同時にポケットへと手を突っ込みため息をついた雪之。
 自分で望んだこととはいえ…
 ふと視線を感じて階下を見ると、訝しげな視線を向けてる中年女性にひとつ睨みをきかせた後、そそくさと去って行くその後姿に一通りの悪態を投げつけながら髪と同系色の派手なカラーレンズがはめ込まれたサングラスをスッとかけた。
 小さな顔、通った鼻筋、そしてその卒の無い仕草が実は父親譲りなのだということは、今の雪之には決して認めたく無い事実である。





 アパートを後にすると、まだ日の高い住宅街をふて腐れた態で雪之はブラブラと歩いていた。
 親が不在がちな雪之の自宅がいつも溜まり場になっていたのだが、予定が変わって突然帰宅した瑤子に悪行がばれてしまったのだ。
 即刻行使された友人立ち入り禁止令に、行き場を失った雪之へと、
“なぁに気にしない気にしない、他にイイとこあるしよ”
 冷たくあしらった瑤子に対して暴言を吐くわけでなくヘラっとシキが言ったから、単純に代わりの場所があるのだとそう思っていたのだ。
 つまり自宅でやっていたような、酒とタバコに加え、ささやかな官能の世界が混じる程度という解釈。
 ところが、アパート扉の向こうに広がっていたのは全くの異世界、異空間。
 いつ掃除をしたのか…いや、それ以前に窓すら長期間開けられたことの無いような不衛生極まりない室内で、知った顔と知らない顔が怠惰に転がり、ほとんど会話も無いままに無意味な時間を過ごしていた。
 戸口で引き返したくなった衝動を意地で何とか押し留めはしたが、以前誰かに貰ったアーミーナイフを持ち合わせていなければ確実に輪姦されていただろう。
 つるみ始める以前から、シキがどんな目で自分を見ているかくらい知っていたはずなのに…
 ポケットに両手を突っ込んだまま小さな橋のたもと付近で、雪之はようやく顔を上げ今来た道を振り返った。
 来る時にも感じた奇妙な境界線を再確認したかったのだ。
 この橋…というよりは、この薄汚れた小さな川を隔て今来た場所と、今から向かう駅方向とで随分と違った街の様相を呈している。
 はっきり言えば下町と高級住宅街。

“一体あなたはどうしたいのっ!”

 ふと、先日投げつけられた瑤子の言葉を思い出した。
 中学入試時には上位で入学した雪之が、僅か数ヶ月で底辺をさ迷っている事実を三者面談で指摘された時でさえ平静を保っていた瑤子が、部屋での体たらくを見て始めて声を荒げたのだ。
 雪之はそんな瑤子をしばらく斜めから睨んだ後、何も言わずに部屋を後にした。
 …言いたいことは沢山ある
 ただ、何をどう言葉で表現すればいいのか見当が付かない。
 どう説明しても大人の理屈で理路整然と返されるのがオチで、きっとどんなに追い詰められても納得できないであろう自分が想像できたから。
 だが理由が付けられないまでも今までの場所で胡坐をかいているのが嫌で、瑤子へのあてつけに社会模範や良識という境界線からの逸脱を試みた。
 そのまま落ちる所まで落ちればいいと思っていたが、どうしてもああいった状況に馴染めないでいるのも事実だ。
 別に身体を汚したいわけじゃない。
 けれど

 一体自分はどうしたいのか…

 3年前のあの告白で多分それを見失ってしまったから、こんなふうに宙ぶらりんで橋の上に佇むしかないでいる。
 ここを隔ててあっちとこっち。
 踏み越えてしまえば、戻ることは至難の業だ。
 けれど、でも
 今の雪之にとっては、自分の存在すらうとましくて仕方が無い。
 汚したくはないが
 …全部壊してしまいたい

.......... * .......... * .......... * ........... * .......... * ..........

 黙々と橋からしばらく歩き続け、気付くといつの間にか駅前コンコースだ。
 派手なナリではあるがそれ程珍しい格好をしてるわけでもない。けれど人目を引いてしまうのは生まれ持った気質のせい…という自覚は無い雪之。
 立ち止まった雑貨屋の店先に陳列されているアクセサリーを眺めていると、
「何かお探しですか?」
 若い女性店員が必要以上に愛想を振りまいて話しかけてきた。
 別に何も探してやいない
 無愛想に返そうとして思い留まった。
 さほど狭くも無い店に店員は今彼女だけのようだ。
 店内には客が二人でその一人が直ぐにでもレジに向かう気配…
「…すみませ〜ん」
 雪之の読み通り女性店員はそのままレジへと向かった。
 サングラスの奥から視線を店内に向けたまま、無造作にそこのアクセサリーを鷲掴む。
 持ち合わせが無いわけでは無い
 特に欲しかった物でも無い
 理由が有るとすれば、先ほどの腹いせとスリル。そして大人社会に対するあてつけといったところか…。
 さりげなく辺りに気を配るが害を及ぼす距離に人気は無い。
 もう一度女性店員へと視線を戻すと彼女は接客に夢中で、きっとこのまま立ち去れば当分商品が無くなっていることすら気付かないだろう。
 そ知らぬ振りで真左へと顔を向け雪之がそこから一歩踏み出そうとした時、
「刑法第235条、窃盗罪」
 真後ろからの言葉と同時に商品を持ったままの右手首を静かに掴まれた。
 飛び上がるより先に、その手を振り解いて逃げようとしたのだが意外にも握る力が強く、しかも
「防犯カメラに納まりたいか?」
 …つまりこのまま走り去れば犯罪の証拠が残ってしまうということだ。
 どこの誰かは知らないが、かばってくれるというのなら何も無理をする必要はない。
 取り合えず握った手から商品は放してみせて、
「目的は何?」
 振り返ること無くほぼ確実に男であろう声主へと頭をもたげ掛けた。
 万引きの通報をされたならともかく、見知らぬ男に庇われるいわれはない。折りしも軽い誘いに乗っかって襲われかけた後でもある。
「…ホテルに連れ込まれるって騒いじゃおっかなぁ、お兄さん」
 クルリと身体を反転してみせて、眼前に飛び込んできた光景にすっかり雪之は目を丸くしてしまった。
 紺のネクタイ
 白のニット
 紺のブレザー
 …の襟に付けられている校章には“高”の文字。
 と認識するまでには一秒も掛からなかっただろう。
 思わず一歩後ずさり陳列台にぶつかって、
「状況を把握したか?」
 穏やかな声にコクコクと頷くしかない。
 あまりにも落ち着いた声だったから、まさかさほど年も違わない高校生だとは思わなかったのだ。
 雪之が驚愕している間に、あっさり掴まれていた手首は開放されてしまい、窺うよう学生服からもう少し視線を上げると、笑顔の好青年が真っ直ぐに雪之を見ていた。
 温厚そうではあるものの、ただのお人よしに見えないのは、涼やかな目元が知的さを漂わせているからだろうか。
 まぁ学生の顔のつくりはともかくとして、怪しげな格好をしているのは明らかに雪之の方で、変に騒がなくて良かったと内心ほっと息をついていた。
 そんな雪之に揺るぎない視線を置いたまま、切れのいい笑顔で、
「遊び半分のつもりならこの界隈は止めておけ、青少年の非行には徹底して厳しい」
 やはり穏やかな言いように、
「…それって恩を売ってんの?」
 どうにか動揺を押し隠しサングラス越しに上目遣いで睨んで見せる。
 と、
「買える程の何かを持ってるのか?」
「―― っ!」
 思わず手が出ていた。
 があっさりそれをかわされて、
「だから俺の真後ろで防犯カメラが回ってるって言っただろう?」
 呆れた口調だがやはり笑顔。
「あんた一体何?」
 反していらつきながらの雪之へと、
「通りすがりの高校生」
 シレッと返された。
「制服で街中歩いてる時間かよっ」
「私服でもまずい時間だな」
「…何が言いたい?」
 わざとらしく一瞬考えるよう空を見上げた学生は、
「学校はどうした、とでも訊こうかな」
「ムカつく…」
「からサボってんのか?」
「あんたには関係無いっ」
「ああ、確かに」
 言った学生は腕時計へと目をやると、
「こんな所で油売ってる場合じゃないな、昼飯食いっぱぐれそうだ」
 本当に思い出したかのよう突然あたふたと雪之の傍から離れたかと思うと隣接する本屋の前に止めてあった白いマウンテンバイクへと跨った。 そのままの体勢で控えめな光沢のある黒のダウンジャケットの前を止め、ポケットから黒の手袋を取り出して右手にはめる。
 残る一方に左手を入れかけた時、
「おうっ、和臣君」
 本屋の店員の声に笑顔で振り返ったのと手袋をはめ終えたのがほとんど同時で、
「こんな時間にどうした?」
 自転車に跨ったままではあるが少し姿勢を正して見せ、
「そこの体育館でやってる大会に借り出されてたんです」
 中年風の店員は答えに大きく頷くと、
「次期生徒会長さんは何かと忙しいねぇ、暇なおっちゃんとは大違い。まったく羨ましいこった」
 お互いハハハと笑い合い、気をつけてと手を上げた店員に軽く会釈を返した後、雪之の存在など無かったかのよう自転車で走り去るその後姿をただジッとサングラス越しに見送ってしまっていた。
 不思議と怒りは醒めていて、雪之は今の男子学生の情報だけを頭の中で整理する。


 さっきの会話から推測すると、多分現高校1年生の生徒会役員なのだろう。
 そして名前は “カズオミ”
 通学電車の窓から見かける学校宣伝の看板にあるマークと同じ校章はここから1駅向こうの何とか学園の生徒だと示している。


 自分と1学年しか違わない男に見事に翻弄されていた。
 手玉に取られるどころか相手にもされなかったな、と小さく肩をすくめて見せたその背後から、
「どなたかへのプレゼント?」
 再度笑顔の女性店員に話しかけられ、今度は中途半端な笑顔を返してしまったのは既に何か影響されていたのかもしれない。
 荒らしてしまった商品をさりげなく片付けながら、不意に目に止まったのが淡黒色の編み上げレザー2連ブレスレット。
 止め具の真ちゅうが少し古さを感じさせて何となく品がいい。
「これを」







 …願掛けのつもりで買ったのだと気付いたのは、日が暮れてからだった。
 薄暗い自宅のソファーに寝転がり、掴まれた右手首を飾る綺麗に編みこまれた線をボンヤリ指で辿りながら、

 もう一度会いたい

 ただ
 そう思った。

.......... * .......... * .......... * ........... * .......... * ..........

 大きな港の倉庫街。
 良くサスペンスや刑事ドラマで打ち合いをしたり、拉致監禁の場面に使われているそのままの景色が広がっていた。
 シキが運転する原付バイクの荷台からストンとコンクリートの上へと降り立った雪之は白い息を吐きながら何気なく凍て付いた空を見上げた。
 冴えた光を放つ月
 右手のブレスに手を添えて、冷えた手を温めるかのよう胸元へと持って行く。
 …祈れば何かが変わるだろうか
 と、
「雪之っ」
 一瞬そこに漂った厳粛な空気を射破るような鋭い声。
 振り向くといつの間にか倉庫の角まで進んでいたシキが、雪之の右手首を睨むように見つめていた。
 あのアパートへ寄った翌朝からシキはしつこく、このブレスレットに拘っているのだ。
「やっぱ願かけなんだろう?」
 のんびりと追いついた雪之の肩へと腕を回し耳元に、そう囁いたシキを、
「気に入っただけだっ、つっただろう」
 軽くあしらいそのひ弱な腕から逃れ、淡い橙光と大音響の漏れ出る倉庫の中へと先に足を踏み入れた。
 ものの…
 雪之はそこで立ち止まり、あからさまに眉をひそめてしまう。
 アパートでの不衛生極まりない惨状を目の当たりにしたのは一昨日のこと。シキから聞いた予備知識で大体の予想はしていたのだが、
 …こんなことが有っていいのか
 呆然と立ち竦むしかなかった。
 立ち込める奇妙な匂い。
 耳に付く高笑いにあえぎ声。
 方々に散乱している瓶やティッシュ、タバコに衣類をまるで汚物を見るような目つきで辿りながら、嫌でも視界に入るあまりの乱交振りにケダモノだってもう少し秩序があるだろう、と内心雪之は毒づいた。
 押すように背中へと当てられた手を今度は振り払うこと無く、薄ら笑いのシキに誘導され気に食わないながらも雪之は従うしかない。
 ここへ連れて来いと言ったのは他の誰でもなく雪之自身なのだ。
 どうにかこうにか足の踏み場を探しつつ促されるまま奥へ奥へと進んで行くと、多分倉庫の最深部だろう辺りに明らかに他とは隔離された一角があった。
 このパーティを取り仕切る幹部連中の一群だということはひと目で察しがつく。
 ひしめく人影で良くは見えないが、テーブルらしき物を囲っているその輪から2メートルほど手前まで歩み寄った時、いきなり行く手を遮るようどこからとも無く男が現れた。
 大きな巨体にぶつかる寸前でどうにか身体を静止させ見上げると、浅黒いヒゲ面のごつい顔が無言でシキを見下ろしていて、
「シキです、尾崎さんは?」
 けれど男は表情すら返さない。
「前に話した小見島雪之、連れて来ましたって…」
 言い終わる間も無くシキから逸れた男の黒い視線が雪之を捕らえ、よれたスーツのポケットに手を突っ込んだまま奥へと向かって顎をしゃくって見せられた。
 通って良し
 の意味合いなのだと揃って足を踏み出したのだが、シキは腕を掴まれそこで止められてしまう。
「なんで?」
 やはり揃って間抜けに見詰め合っている間に、
「あなたはこっち」
 一々どこから沸いて出るのか、派手な美女が雪之の腕を取りツカツカと歩き出した。
「…あの」
「なぁに?」
 ゆったりとした答えだが、声はかなり威嚇めいていて、
「シキの取り計らいだって」
 それでも臆せず訊ねた雪之。
 けれど美女は振り返りもせずフンと鼻で笑って見せ、
「だからここまで来れたのよ、何か不服?」
 これ以上無駄口を叩くなという圧力を声色で感じ取り、
“まぁそう焦るなって。尾崎さん、気紛れで難しいからさぁ”
 何度も聞かされたシキの言葉を思い出す。
 せっかくシキの属する反社会的グループのトップ。尾崎なる男へと紹介してもらえるチャンスを掴んだというのに、空気の読み違いが命取りにつながりかねない。
「…いえ」
 短くそれだけ返し間近で群がる幹部達に初めて目を向け、
 ゴクン
 と唾を飲み込んだ。
 そこに居た10人近い視線全てが、まるで値踏みをするように雪之の頭のテッペンから足の爪の先までジロジロとねめつけている。
 180度転んだって喜ばしい行為ではない。
 引きつる笑顔を顔面に貼り付け “尾崎” とやらはどの人だろうかと視線をめぐらせてみた、が…。
 雪之の腕を引く美女はそこでも足を止めずに通り過ぎ、辿り着いた壁際で直角に右へと折れた。
 行き止まりかと錯覚するくらいに細く暗い隙間を数歩行った先。山積みされた資材の切れ目でカツンと止まったピンヒールは静かに顔だけその奥へと覗かせた。
 中の誰かと話しているのだと想像は付くが、美女との距離は1メートルも無いにもかかわらず、ひとつの声も漏れてはこない。
 とにかく雑音が多いことは確かで、雪之は知らず右手首を左手で握り締めていた。
 購入してわずか2日だと言うのに、何かにつけブレスレットに触れている自分に気がついて、小さく口の端を上げたのと美女の手が離れたのが同時だった。
 いつの間にか振り返っている美女の視線と、
「どうぞ」
 放った言葉の冷たさに浮かべていた苦笑いを消し頭を下げて通り過ぎるその短時間、美女に間近で睨まれ続け、深呼吸も気合も入れる間も無く雪之は未踏の地へとその一歩を入れることとなってしまった。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

「どうだった?」
 迷路のように入り組んだ資材の山の片隅で意外にも素面で待っていてくれたシキ。
 薄っぺらなシートの上で胡坐をかき透明なビールを差し出しながらの言葉に、曖昧な表情を浮かべて雪之は瓶を受け取った。
 緊張のせいか、やけに渇いた喉を潤そうと一気に中の液体を半分ほどあおった後、
「…よく、分かんなかった」
 鼻先まで伸びている前髪をかき上げ大きくひとつ息をつく。






 囲いの向こうの空間はせいぜい畳1枚分…部屋と呼ぶにもおこがましいくらいの場所で、入るなり正面窓枠にもたれるように立っていた人物に目が行った。
 とはいっても窓から差し込む月光の方が明るくて顔も服装も全く認識できず、
“はじめまして、小見島”
 目を凝らしながらそこまで口にした時、いきなり至近距離から伸び出た手にガシっと雪之は頬を掴まれてしまった。
“お前の相手はこっちだ”
 力任せに顔の向きを変えられて、苦痛に眉をしかめてしまった目の前には金縁のサングラス。
 くっついてしまうのかと思うくらい額を寄せ、
“まぁ、いい線だ。しっかり稼げ”
 ぎゅっと尻を握られたというのに、“あ” も “う” も発する間もなくポンとそこから追い出されてしまった。






 この男が尾崎だったのかも定かではない。
 金縁濃黒のサングラスがトレードマークだとは聞いていたが、窓際の男がそうである可能性だってあるわけだ。が、
「それは無い」
 雪之の懸念をあっさりシキは否定した。
「俺みたいな下っ端が尾崎さんをマネて似たようなサングラスすることはあるけど、幹部連中は絶対にそんなバカはしない」
「じゃあ下っ端があそこに居たとか」
「もっとあり得ないっつうの」
 言ってシキはクククと喉を鳴らすと、
「まぁいちいち気にしないこった。気紛れな尾崎さん怒らせたわけじゃないなら、成功ってことで」
 嬉しそうにパンパンと左隣を叩いて見せた。が、ここに座れという催促に首を横へと振った雪之は、
「帰りたいから送って」
 そう告げた。けれど、
「いつもあの輪の真ん中に尾崎さん座ってんのに居なかったからさぁ、尾崎さんにヤられたらどうしようかってマジ心配してた」
 まるで帰るコールなど無かったかのようにシキは会話を続け、
「雪之はキレイだからな」
 資材の上に置いてあったもう1本の瓶を手に取ってひと口煽る。
 シキに対して特別な感情など微塵も無い雪之だが、正面から褒められて悪い気はしなかったのか、
「もしかしてあの男とエッチする寸前だったから俺追い出されたとか?」
 少し付き合ってやる気になっていた。
「へぇ…あの奥って部屋とかあんの?」
 うんうんと頷いた雪之、
「部屋っていうかすっげぇ狭いトコ。窓からの月が明かり替わりでさ」
「窓があるんだ」
「だからそこに居た誰かの顔が全然分かんなくってさ」
 喋りながらなぜか笑いがこみ上げてくるのを、雪之は抑えられないでいた。
「尾崎さんはいつもサングラスだから明るくたって顔なんか」
「わはっ、違う違う。尾崎さんのサングラスは近くに居たから分かったって。その奥にまだ誰か居たんだよ、月の明かりでさぁ」
「見えなかったんだろ」
「そうそう、見えなかったとも。あはは」
 何が可笑しいんだろうかと思う自分が居るのも確かだが、下から伸び出た細い腕にレザーのブレスごと引かれた勢いで、雪之は抵抗する間もなく灰色のシートの上へと転がり込んでしまった。
 右手で持っていた瓶からトクトクと流れる透明の液体が目に映り、
「ふはははは」
 笑いしか込み上げてこない。
 ひどく気分が高ぶっていて、転がったまま笑いこけている雪之の白い指先をシキがくわえ込んでいるのが分かっていても、
「何なにナニ? シキちゃん、話しようぜ」
「エッチしようぜ」
 説明しがたい状況に陥っていた。
 横向きに倒れこんだ雪之の腰にシキが跨って腰を落とす。
 雪之の指を散々嘗め回し親指の付け根からそのふくらみに沿うように並びの悪い歯を立てられて、
「痛いって、噛むなよ」
 好きでもない男に食われかけているというのに何の抵抗もせず唇だけが勝手に言葉を発していた。
「シキちゃんにハジメテはヤだなぁ」
「…こいつに義理立てしてんのか?」
 上から睨みつけながらこれ見よがしにブレスに噛み付いたシキへと、
「そんなんじゃないけど、また会えたらって思ってさぁ。そしたら」
 甘い吐息交じりで、
「…したいなぁ」
 途端覆いかぶさって唇に吸い付いたシキの身体が物理的に重くて、押しのけようと両肩に手を掛けたが拒絶では無い。
 シキが欲しいわけじゃ無く雪之の身体が貪欲に性を望んでいるのだ。
 1分1秒を追うごとに内側から溢れ出るよう高揚してくる得体の知れない感覚。
「雪之、雪之っ」
 獣のように貪り付かれる痛みが短時間で快感に変化し、うっとりと艶やかな笑みを零している雪之。
 なのに…
 知らず浮かべた涙がツっと目じりから冷たいシートに落ちた時、
「おい」
 雪之の耳が短い声を捕らえた。
 …シキの物では無い。
 それはもう少し離れた位置から発せられていて、
川村紫希、そこをどいてもらえないか」
 驚き半分、怒り半分といったふうにガバっと身体を起こしたシキが振り返る。と、
「小見島雪之と話がしたい。悪いな、コトの最中に」
 全く悪びれた気配の無い穏やかな声だ。
 シキの身体で死角になって男の顔は見えないのだが、その落ち着き払った声の持ち主を瞬時に思い浮かべた雪之は直ぐにそれを打ち消した。
 その人物で、あるはずが無い。
「…なんで松前さんが」
 かなりの動揺を見せているシキの言葉に、どこのマサキだろうかと暢気に思考を廻らせている雪之の視界が急に開けた。
 理由は雪之に乗っかっていたシキが横へと避けたからなのだが、
「……」
 見上げてみても天井からの淡いライトのせいで顔が良く見えない。
 また逆光かよ
 小さく愚痴って、
「何、あんた。マサキって誰?」
 光を避けるよう目を細め、さっき尾崎の後ろに立っていた人物の影に似ているような、似てないようなと思っているとその人影が雪之に向って腰を折り、
「うわっ!」
 いきなり胸倉を掴む。
 予期せぬ力で上体を引き起こされ、更に腰が浮かんばかりに持ち上げられて、ぐぐぐっと雪之自らの体重が首に負担を掛け始め、
「くる、し…。首が」
 訴えても緩まらない力に本能的に宙ぶらりんな両足を床に向って踏ん張った。次いでこの忌々しい腕を取り払おうと正面切って不躾な男を睨みつけ…
「か…」
 目の前に立つ涼しい笑顔に、
「ずおみっ」
 言うが早いか、がっちりと首をホールドするかのよう抱きついてしまう。
「かずおみ、かずおみっ」
 あれから心で唱えていた名前が堰を切ったように口から溢れ出る。
 まるで前世で生き分かれた恋人の名を呼ぶように何度も何度も繰り返す雪之だが、和臣はその意に全く応える気配も無いままに、
「…どれだけ混ぜた?」
「? ナニ? 何の…」
 それ程太くも無い首にガッチリしがみ付いている雪之には、和臣の視線がどこへ向けられているかとかシキが指を3本立てたことなど分かりはしない。
「そんなことより、かずおみ。俺あれからあの店でブレス買ったんだ、もちろんちゃんと金払ってさぁ。なんか知らないけどもう1回かずおみに会いたくて、でこのブレスしてたら本当に2日目に会えたんだ。すげぇよな、神様って居るのか」
「小見島雪之」
 ほって置けば際限無く続きそうな雪之の喋りを静かな呼びかけで和臣が止める。
 だが、
「はいはいはぁいっ! 何ですか、かずおみ。ってあれ? どうして俺の名前知ってんの? ってそうか、かずおみも俺に興味持ってくれてたんだ。で調べたりしたんだ。俺結構誰にでもモテるんだけど男にはまだ許してなくってさ、でもかずおみならハジメテあげても」
「離れろ」
 平坦な口調で再度短く和臣が言葉を止める。
 それでも何かを言いかけた雪之へと、
「今直ぐ俺から離れろ、でないと話はこれで終わりだ」
「何だよ、その言い方は…」
 ぶちぶちと文句を言いながらもようやく雪之が腕を解き、上目遣いで向けた視線をそのまま受けた和臣は、
「手短に言う」
 そう前置きすると、
「俺は今から帰るんだが、一緒に行きたいなら連れ出してやる。 どうする?」
「…何で?」
 とすら言い終わらないうちに、
「俺が訊いてるのは、行くか残るかの返事だけだ」
「行くっ」
 即答した雪之。
 この場から逃れたい気持ちは今は無い。が、ただ和臣について行きたかったのだ。
「ということだから川村紫希、今日のところは諦めろ」
 薄い笑顔を貼り付けたまま、シートの上で未だ状況がつかめずポカンと座り込んでいるシキへそう告げている最中にも、
「かずおみぃ」
 全身でしな垂れかかる雪之を、
「自分で歩け」
 片手でグイと押しやって即座に身体の向きを変え、誰にも視線を向けもせず、転がる物体を物ともせず、スタスタと威厳に満ちた風格で和臣は倉庫を後にした。

.............................................................

「かずおみはっ!」

 この短時間に何度そう問いただしたことだろう…。
 シキの傍を離れた後の和臣は一言も発せず、一度も振り返らず。
 倉庫を出てしまうと傍で待ち構えていた大型バイクの後部席に難なく跨ったかと思うと、月明かりに映える白いジャケットのファスナーを留めフルフェイスのヘルメットをかぶり厚手の手袋をはめ爆音と共にそこから去って行ってしまったのだ。
 やはりあの時のように雪之の存在は無視、である。
 …気に食わないならなぜ構う。
 二度とも勝手に手を差し延べて終始笑顔で期待させるくせに、表情以外は辛らつ極まりない。
 こんな所に置き去りにされたのだと愕然とした雪之だったのだが、和臣に頼まれたのだという見知らぬ男に車へと押し込められ、味も素っ気も無いようなビジネスホテルへと連れ込まれてしまった。
 静まり返っている深夜のホテルの廊下でようやく男の隙をつき走り出すや否や、
「かずおみを出せっ」
 こぶしを振り上げながら目に付いた傍の客室扉へと、そう怒鳴りかけたところを頭から抱え込まれて、とうとう部屋へと引きずり込まれてしまった。
 ポンッとベッドへ突き飛ばすよう押されて、
「何だよっ、俺に指1本でもっ」
「触りたかないよ」
 面倒くさそうにそう言って、狭い通路を遮るよう部屋に設けられている椅子をズズっと引き出し男はそこへと腰掛けた。
 年の頃なら20代半ば。
 雪之とは対照的にすっきりシャープなショートレイヤーの髪は漆黒色でしかもジーンズに薄手のトレーナーという出で立ちならば普通、真面目や清潔感をイメージさせるはずなのだが、外装及び物腰も含めてどこか世慣れた雰囲気だ。
「かずおみはドコだよ!」
 顔の間近で息巻く雪之の態度を横目に、椅子に腰掛けた体勢のまま煩わしげにカタリと冷蔵庫の扉を開いて見せると、
「飲めそうなら水分補給はした方がいい」
 望む答えを返してくれないことにますます腹が立ち、食いつかんばかりに睨んでいる雪之へ、
「飛んでたって正気でない自覚はあるんだろう? クスリの影響で今、君は普通じゃ」
「かずおみはっ」
 ふぅ、と呆れ顔で男はひとつ息をつき、
「家に帰」
「なんでっ」
 言葉を割って問うさまは駄々っ子さながらなのだが、
「試験前だから」
 男はシレッと応対する。
「試験ったって受験生じゃ無いんだろっ」
 やはりことも無げに頷く姿に、
「俺より勉強が大切ってことかよっ!」
 怒鳴ってみても、あっさり2度頷かれてしまった。
 両手をグッと握り締めた雪之は、
「かずおみにも腹立つけど、あんたこそ最悪じゃね?」
「かもな」
 そう告げた後、思いついたように、
「私、塚原と申します。で和臣君に監視役を頼まれた手前、君の意思に係わらず正気に戻る…」
 チラッと部屋の時計に目をやって、
「上手く行けば朝方までは責任を持って」
 言い終わらないうちに、塚原なる男の脇を強引に通り抜けようとした雪之。
 だが、
「ここから戸口には便所以外近付くな」
 睨みあげる表情は、こんな状態でも一瞬怯んでしまうくらいの威圧感だ。
 が、それが分かっていてもイライラ感がどうにも治まらない。
「何なんだよっ、ムカつくっっ」
 くるっと向きを変えテーブルの上に備え付けられているホテルのパンフレットをバンッと叩き飛ばした勢いのままベッドへとダイブする。
「あー、ムカつくムカつくムカつくっ」
 ブツブツ呟きつつベッドでのた打ち回りながらふと、
「クスリ?」
 上半身を上げ塚原に、
「って言った?」
 いつの間にか銜えタバコの塚原は首を一つ縦に振る。
「どこで? 何の?」
 ふーっと煙を吐き出して、
「詳しい話は聞いて無いが…、倉庫の中で飲んだり食べたりしなかったか?」
 問われて直ぐに頷いた雪之。
 シキからビールを差し出された記憶は鮮明だ。
「じゃあそれに混ざってたんだろうな」
 言葉の意味を頭の中で噛み砕いた雪之はゴロンと仰向けベッドへと寝転がり、
「あいつ、そこまでして俺とヤりたかったのかよぉ…ってことは、ひょっとして俺って価値ある少年? かずおみはそのこと知ってんのかな。いっつもどうでも良さげに勝手に帰るけど、シキのこといえば俺の値打ち分かってくれるかなぁ。ねぇ塚原…だっけ? あんた、どう思う?」
 見ると今度は冷蔵庫から取り出したた缶ビールを、グビグビ喉へと流し込む姿に、
「あんたこそ、ホント。どうでも良さげだなぁ」
 そう呟いた雪之にチラッと視線だけを寄こし塚原は口の端を上げた。
 と、今度はその仕草に考えるふう目を細めた雪之は少し間を置き、
「…塚原はかずおみとデキてんの?」
 いや、と短い否定の返事を受け、
「かずおみって恋人は?」
 軽く首を傾げる仕草を勝手にフリーだと解釈して満足げに天井を仰ぐ。
「俺の価値が分かったら絶対恋人になってくれるよな、そしたらどうすんだろう。こうギュッと抱き締めて、キスとか上手っぽい」
 ウットリしていたかと思うと、クルリと身体を起こし、
「かずおみってエッチ、上手?」
 やはり特に抑揚の無い表情で、さあと首を傾げる塚原の返事はおざなりだが、
「そうそう、かずおみってどんな字?」
 雪之の態度に特に気を害した素振りも見せず、テーブルの上にあるメモ用紙にサラサラっと和臣のフルネームを漢字で書いて雪之へと投げて寄こす。
 それを受け取ると、へぇとかふぅんとか呟きながらジッと眺めている雪之は、また何やら一人妄想の世界に入っているようだ。
 そんな様子を横目に塚原は煙草をふかし缶ビールを煽っていた。

 その後雪之は暴れること無く、終始和臣への勝手な妄想で頭の中に花を咲かせながら延々と意味のないことを早朝まで喋り続けたのだ。

......................................................................

 青い空 白い雲 穏やかな日差し…
 空の彼方に小さく小さく見えるシルバーグレイの塊がゆっくりと通り過ぎて行く様を、冷たいコンクリートの上に寝転びながら雪之はジッと眺めていた。


“クスリが抜けた証拠だ。あのハイテンションが癖になって常用するか、これに懲りてああいう場所とは縁を切るかは自分で考えるんだな…、とにかく次は無いぞ”


 あの日、夜通し雪之に付き合ってくれていた塚原は、翌日雪之をマンションの部屋まで送り届け、その別れ際そんな言葉を真顔で告げた。
 恐ろしいほどの抑うつ感に襲われていた雪之は通常よりはるかに重くその言葉を受け止めることとなり、深く沈んだまま浮上すること無く月曜日を迎えどうにか学校には来たものの授業にも出ず一人校舎の屋上で鬱鬱としているのだ。
 と、そこへいきなり、

「なに避けてんだよ」

 降ってきたのはシキの声。
 長い前髪の隙間からうっとうしく視線だけを向けた雪之だが、またもや逆光で表情までは読み取れない。
 けれど、
「電源ぐらい入れとけっ」
 本気で不機嫌らしいことは声色で分かった。
 怒りの原因は塚原に連れられ自宅に戻ってから以降携帯電話の電源をずっと切っていたことだろうが、それ程急用があったとも思えない。
 ならばあの夜、セックスに至る寸前でその場を放棄して帰ってしまったことを根に持ってるのかと、
「だって和臣がせっつくからさぁ…邪魔されんのヤだし、電源切ってそのまま忘れ」
「ありえねぇ」
 バレやしないとついた嘘をなぜかきっぱり否定して傍にしゃがんだシキへと訝しげに向けた雪之の視線は瞬時に困惑色へと変わった。
「な…んだ、その怪我」
 顔面にある幾つかの青痣と小さな絆創膏が物語るのは…
「ポコられた」
 答えに眉間のしわを深くしたその白く整った顔を見据えて、
「おととい尾崎さんから直々呼び出しメールが入って」
 …つまり乱交パーティの翌日を指している。
「直ぐに連れて来いって書いてんのに全然連絡取れねぇし、お前ん家まで行く時間も無かったから俺が一人で行ったら」
 殴られた、ということだ。
「取りあえず最初だし今回だけは見逃してくれるっつってるから…。けど今度の土曜日は何があっても空けとけよ、でなきゃ俺まで殺される」
 嘘や冗談には聞こえないのは、気持ちが滅入っているせいだけではない。
 シキの強張った顔つきと言葉使い、そして生々しい顔面の傷跡に雪之の頭の中はほぼ真っ白で、
「つったってまぁこんなに早く連絡がくるんだから、尾崎さんには気に入られたってことだ」
「…何の、用。だか…言ってた?」
 動揺を押さえつけるようゆっくりと丁寧に言った雪之の質問。
 シキは軽く首を横へと振って見せ、
「でも取りあえずクスリだろうな。尾崎さんとこのバイニンはみぃんなヤク中にさせられる」
 …自分の馬鹿さ加減に眩暈がして思わず雪之は目を閉じた。
 ほんの少し考えていれば全て予測できた成り行きだ。
 あの夜衝撃を受けた乱交パーティにドラッグの初体験。
 それが普通に横行している世界へと無防備に足を踏み入れることの意味をなぜちゃんと考えなかったのかと後悔したって時既に遅しだ。
 自分がいかに世間知らずであったかを理解したところでなす術を知らない。
 手立てが無い。
 逃げ場も無い。
 …どうしていいのか分からない。

“とにかく次は無いぞ”

 塚原の台詞がことさら重く胸に圧し掛かる。
 その言葉通り次はもう誰も助けに来てはくれないのだ。

 シキには悟られない程度の僅かな身体の震えを沈めようと握り締めた両手を胸の前へと持って行き、右手首のブレスレットに微かに左手が触れた。
 薄く目を開け細い指をそこへと添える、と
「相手にされてなかったモンな」
 最初から嘘はばれていたようだ。
「あの人は住む世界が違うんだ。 とっとと諦めてそんなブレス捨てちまえっ」
 そう投げつけられたシキの言葉。だが…
 雪之は再び抜けるような青い空を見上げるとブレスレットを強く握り締めた。

 …万が一より低い可能性

 けれど他には何も方法が思いつかない。

 冷たいコンクリートに貼り付けていた背中をおもむろに剥がすと、シキには目もくれずその場を立ち去り教室へと向った。
 授業中で静まり返っている校舎内の何もかもが、あたかもそこに存在しないかのような勢いで自分の荷物だけを手にすると学校を後にした。
 その後は電車内という例外をの除いて、ただひたすらに走って走って1時間。


 雪之は始めて訪れる学校の前で校舎を睨みながらたたずんでいた。

.............................................................

 雪之の通う学校は大きな街から少しばかり外れた山際に建っている。
 だが山際とはいってもビルや店舗、住宅などもかなり混在しているその中に、学校はここに在るぞ、との存在をしっかりと示して建っているのだ。
 だから最寄り駅の改札を出た後、比較的学校の位置は直ぐに確認できてしまう。
 ところがどっこい、この学校ときたら…。
 街自体の大きさはまぁそこそこの規模ではあるが、広い平地に存在するせいか駅を出たって全くさっぱり場所がつかめない。
 ぐるりと周囲を見渡してみても大きなビルが邪魔をして視界をさえぎっている状態だ。
 仕方なく改札窓口に居た駅員に訊ねてみると説明し慣れているのか、かなり簡潔に目的地までの道のりを教えてくれた。
 駅前を囲い込むようにそびえ立つ商業ビルを兼ねたマンションの間を抜け、最初に見えるコンビニエンスストアの筋をそのまま進めば大きな道路に突き当たる。
 確かに駅員の指示は正しいなと思いつつ、その大きな道路を渡りファミリーレストラン沿いに斜め方向へと足を進めた。
“その先に在ります”
 駅員はそう言ったのだが…
 …
 …
 …
 ずっと道の先に目をやってもマンションや住宅しか目に付かない。
 ここで大丈夫なんだろうかと不安げに細い道を進んで行くと唐突に…。
 本当に唐突にいきなり高いフェンスが現れた。
 なんともドサクサ紛れに立っている学校だ。
 が、とにかく目的地にたどり着いたことにホッと胸をなでおろし小道を抜け切ると、どうやら道を挟んで右と左に学校の敷地は存在しているらしいと把握した。
 右方向に圧迫感を感じ視線を向けると、かなり古びた木造の建築物が目に入る。
 …違うな
 と思いつつ、その古い建物から藤棚。更に前には校舎では無いであろう何か大きな建物に目を移したところで門の前に到達した。
 こっち側には校舎は無い…と左へ顔の向きを変えた途端、ズンッとそこに存在する校舎にようやく気がつた雪之。
「ぅわ…」
 どさくさ紛れのわりには大きな校舎だ。
 閉じられている門の傍まで歩み寄り、グラウンドの向こう側にそびえ立つ校舎をじっと見てみると、雪之の予想に反して生徒たちが活動している気配が漂っている。
 それは決して少ない人数で無く、

 休み時間…?

 思いつつ鉄製の白い門に手を置いてさらに目を凝らしていると、パラパラ出てくる生徒の姿が目に入った。
 もちろん見覚えのある制服だ。
 遠目に生徒達を眺めて見ると、それぞれに形は違うが鞄を持っている…ということは下校しようとしているらしい。
 平日のまだ正午にもなっていないというのに何なんだと眉間を寄せてふと、
“試験前”
 あの晩の塚原の言葉を思い出した。
 だったら、こういうのも有リかなと、下校時刻にどうにか間に合ったことに胸を撫で下ろしながらも、この後どうするか困ってしまったのも事実。
 校舎の規模からしてかなりの生徒が一気に下校してくるのだろう。
 さほど広くはないが道を挟んで門扉が二つ有ることも雪之にとっては不利な条件で、しかも敷地全体を見て回ったわけでも無いから、学校から出られる場所がこの2ヵ所とも限らない。
 というより一般的な学校の造りを考えると正門が別にあるはずだと思える。
 なぜってあまりにも門構えが簡素過ぎるのだ。
 険しい表情でため息をつきカシャンと軽く雪之は門に額を当ててしまった。
 受付を探して呼び出してもらったところで、出てきてもらえ無いかもしれない。
 けれど校内へと乗り込んでも、どこに居るのか見当もつかないまま闇雲に歩き回っている間に帰ってしまう可能性の方が高いだろう。
 だったら生徒会室…の場所すら分からず試験中の活動は控えているってことも考えられる。
 自分の無計画、無謀さにほとほと呆れてしまい、
「う゛〜」
 小さく唸りながら自己嫌悪に陥っている間にもザワザワと人の気配が近付いてきた。
 他校の生徒が門扉に額を付けて中をうかがっていれば当然人目を引くわけだが幸か不幸か皆、横目で視線は寄越すものの雪之が想像していたほど好奇の眼差しを向けられるわけでも無かった。
 雪之の学校ならばきっと人だかりができるだろうなと想像しながら、時折目が合う誰かに声をかけるタイミングを計っていると、
「ここは生徒専用」
 いきなり背後から聞こえたのは、柔らかい女性の声だ。
「学校か図書館に用があるなら正門じゃないとダメよ」
 ほぼ反射的に振り返って見るとそこには、
「それともお目当ての彼女でも探しにきたのかな?」
 …あなたに乗り換えさせてください
 とでもいいたくなるような制服美人が笑顔で立っていた。が、実際この状況でそのセリフが吐ける人間がいればそれはきっとかなりな自信家か大馬鹿者だろう。
 美人女子高生の後ろには数人の男子学生があからさまに雪之へと威嚇の視線を向けて立っているのだ。
 日頃の癖
 とでもいうべきか、他人にこんな視線を向けられると即座に斜に構え鋭くした瞳で臨戦態勢に入ってしまった雪之だが、
「…っと、ひ、人探し」
 自分の置かれている状況を思い出し、
「です」
 こんな所で騒ぎを起こしてる場合ではない。
 気まずく視線をそらすと助けを求めるよう右手首を飾るレザーに軽く手を添えて、
「彼女じゃない…です、けど」
 ボソリとそう付け足した。
 美人女子高生が実際どんな顔をしたかは分からないが、ふぅん。といった雰囲気を感じた雪之がゆるゆると視線を上げると、
「何かお手伝いすることは無い?」
 親しみやすい笑顔。
 一瞬だが雪之が凄んだことも気がついただろうに、こうも寛容にされると虚勢を張る気力もすっかり失せてしまった。
 綺麗な笑顔を眺めたまま軽く息をつき、
「…松前和臣、って人に会いに来たんです」
 見てくれは随分派手だが普通に会話ができない雪之では無い。
「俺がここに来るのは初めてで、多分かずお…。松前さんは1年生だと思うんですけどクラスとか分からなく」
「3組も終わってたけど」
 意味が分からず雪之はキョトンと目を丸くした。と、彼女はクスっと笑い口を開いたのだが、唇をその形のまま考えるふう僅かに間を置いて、
「松前君は1年3組で終学活は終わってたんだけど、真っ直ぐ下校するかどうかは分からないわね」
 先ほどの言葉を雪之にも分かるように言い直し、
「人手は有るから校内を探してあげてもいいんだけど、ここで待ってる方が楽しいかしら?」
 今度は首を傾げてしまった雪之。
 “人手” とは彼女を取り巻くように立っている男子学生数人を指しているのだと想像はつくのだが “楽しい” の意味が分からない。
「…何が」
 戸惑う雪之を見て、やはり意味深に微笑んだ美人女子高生。
「待ち人がいつ出てくるんだろうとか、どこから出てくるんだろうとか、ね。そういうドキドキも待ち伏せの楽しみの一つかなと思うんだけど」
 そうだろうか
 と反論はせず雪之がぎこちない笑顔を浮かべかけた時、何やら辺りの空気が一変した。
 同じことを眼の前の美人女子高生も感じたようで、スッと逸らされた視線だったが意外にも早くそれを戻したなと思っている雪之へと、後ろを見ろといったふう目配せを送って寄こした。
 促されるまま振り返る。
 と、門付近に居る生徒達が一様に同じ方向へと視線を向けていることに気がついて、生徒達の視線の先。校舎方面から門方向へと続く並木道の最終地点辺りを歩く二人連れが目に入る。雪之の位置から若干距離が有るものの疑う余地など無かった。
 再度門を両手で掴み、
「か」
 の一言だけ言ってそこで止めてしまったのは、和臣の隣にいる人物に目が行ったからだ。
 何なんだっ、こいつは
 流行の雑誌モデルや若手イケメン俳優だと紹介されても全く異存の無いような学生が、親しげに和臣と肩を並べているではないか。
 辺りの空気を変えたのは紛れもなくこの学生が原因だ。
 全身から “気に食わない” オーラを発散させ睨みつけてしまった雪之。
 大いに筋違いなのは分かっていても溢れ出る嫉妬心を止めることができず、噛みつかんばかりの形相で門にへばり付いていれば、さすがにその儘ならない気配を感じたのだろう。
 雪之へと視線を向けたのが二人同時だったことがまたシャクに触る。
 さらに凄めた視線を動じるでもなく不思議そうに受けていたイケメン男子学生が、その視線を不意に逸らしたものだから、ついつられてその方向へと雪之も視線を変える。とそこには笑顔の和臣が居て、
「……」
 想定外の事態続きにほぼ硬直状態に陥ってしまった。
 そのままジッとしていると、ゆっくりと肩の高さまで腕を上げた和臣が上下に軽く掌を揺らして見せた。
 和臣の視線は明らかに雪之に向いている。
 手招きしているようにしか見えないのだが…
 有り得ない現実のように思えて、雪之がただ立ち尽くしていると、
「どうしたの?」
 背後からの呼びかけ。
 はっと我に返ったように振り帰れば先ほどの制服美人が、
「松前君、あなたのことを呼んでるんでしょ?」
 その言葉で自分の思い違いでなかったことをようやく確信した。
 彼女へと短い謝辞と笑顔を返しその場を離れようとした間際、
「ねぇ」
 呼び止められて顔を向ける。
「あなた、素の方が絶対にモテるわよ」
 一瞬目を丸くした雪之だが、肯定とも否定とも付かない笑いだけを残すと、勢い良くその場を後にした。


 白いコンクリートをタンっと蹴ると即、その場から駈け出した雪之。
 当然下校している学生達とは一人逆走してしまっているのだが、物珍し気に眺める視線や人波を上手く縫うようにすり抜け、あっという間に和臣の目の前へと辿り着いた…といえば若干の語弊があるだろう。
 目的地へと到着するほんのわずかばかり前。
 和臣の傍から離れた超イケメン男子学生とすれ違う時のみ、親の敵めいた視線を向けつつ歩調を緩めかけたのだが、全く臆すること無くその視線を余裕の笑みで受けたイケメン男子学生から滲み出ていたオーラは、きっと雪之の読み違いではない。

 その容姿風貌からは想像し兼ねるが、かなりの経験者…。
 だから、

「思ったほど馬鹿でもないと見える」

 穏やかな笑顔で本気半分、冗談半分の和臣の言葉をただ無言で受け止めた雪之。
 無謀にもこんな時間に押しかけてきておいて…。
 いや、そんなことはさっきそれなりに反省した。
 相手にしてもらえないのではないかと後悔までしていたものだから、こうすんなり笑顔を向けられるとそれはそれで戸惑ってしまって、今自分がここにいる状況をどう説明すべきか悩んでいる傍で、ふっと軽く息をついた和臣。
「愛の告白に来たのならお断りだが」
 わざとらしく腰に手を当てて、
「…どうなんだ?」


 好きだっ


 と、この間のように形振り構わず抱きついてしまいたいけれど…。
 …結局あれは自分で有って自分では無い。
 本当の自分は簡単に人の懐の中へなど飛び込んでは行けないのだ。
 視線を外せないまま首を横へと振ってみせると、和臣は少し得意げに眉を上げ、
「だったら、尾崎絡みだな?」
 驚くしかない。
 まったく、ホントに、どうしてこうも…まるで全てを見透かしたように知っているんだろう。
 しかも、
「絵に描いたような堕落っぷりだ、誰だって分かるさ」
 そんな心の内まで見透かされる。
 好きになるなという方が無理なんだ…
 と、じっとその涼しい笑顔を眺めたまま納得。
 なのに、
「自分から首突っ込んどいて、手に負えないから助けてください…ってのはどうかと思うんだが」
 結局のところ突き放す。
「かず、おみは…」
 和臣が、
「冷たい」
 考えてることが分からない。
「だから」
 辛い。
「腹、立つ」
 …本当の想いは、口にはできない。
 たとえ、涙が出るほど胸が苦しくても…。


「泣くくらいなら、初めから身の程を弁えろ」
 まるで、どうぞ。とでも言うかのよう静かな静かな叱責の後、コトリと雪之の前のテーブルに置かれたのは湯気の立ちのぼる紙コップだ。
 あんな人気の多い校門脇で不覚にも泣いてしまった雪之。
 それでも動じず澄ました笑顔の和臣に連れて来られたのは校舎内に在る生徒会室だった。
 相変わらず受け入れたいのか突き放したいのかの判別はつかないけれど、飲み物を差し出したあと雪之の斜め向かいへと腰を落ち着けたところをみると話くらいは聞くつもりでいるのだろう。
 目の前の紙コップから漂ってきたのはココアのは香りだ。
 こんな状況でなければココアなど子供の飲み物だと、また難癖の三つも四つも投げつけただろうが、まとわり付くような甘ったるい香りが今は不思議と心地いい。
 その香りをゆっくり体内に浸透するよう大きく息を吸い込むと、少し気持ちに余裕ができた雪之は鼻をすすった後ようやく顔を上げた。
 茶色い長テーブルに肘をつき、多分コーヒーが入っているだろう紙コップを弄ぶよう右手で揺らしている和臣と視線が合う。
「…ごめんなさい」
 怒っているふうではなかったが、つい謝ってしまった。
 開口一番はそれしか無いような気がしたのだ。
 尾崎の件も、愛の告白もさっき否定されてしまっているから、どこから何を話していいのかも分からず、
「えっと。あの…き、今日学校行ったらシキがボコられてて、それが。それ…は俺のせい。で、ホントは俺が尾崎さんに呼び出されてて、バイニンは絶対にヤク中にされるって聞いて…」
 話をまとめることすらできないまま、事実をただ思いつくまま羅列していることに気がついた雪之。
 知らず落ちていた視線を上げると、さっきと変わらず紙コップ片手に頬づえをついている和臣は、口元にだけ薄く笑みを浮かべたまま雪之を見ていた。
 喋り出す気配は無い。
 雪之は一つ深呼吸をして見せて、
「ハクが付くと思ったんだ」
 今度はしっかりとした口調でそう切り出した。
「こんなナリしてるけど実際はそれ程何ってしてたわけじゃ無い。万引きとかカツアゲとか、結局尾崎さんの息がかかったシキの付録って立場で誰にも文句も仕返しもされずにきたんだけど、そんな中途半端なのが嫌だったんだ。どうせ悪くなるならとことんまで行きたいって。でもクスリとかウリとかそんなこともしたくなくて、尾崎さんに会えば何か変われるんじゃないかって、一度や二度会ったってそれが何だって。だってシキとか他の奴もみんな、尾崎さんを怖がってるけどそんな深刻なことになったとはいってないし。だからあんなクスリまみれの酷いパーティやってることも知らなくて」
 話すうち自分の立場が身に沁みて、すっかり意気消沈しながらも、
「クスリ飲んだこととか考えると警察には行きたくない。だから、もう和臣しか頼れる人。思い付かなくて」
 愛だ恋だのという問題では無く、ただの中学生として和臣に助けを求めに来たのだ。
 ということをようやく思い出した。
「勝手なこと言ってるって分かってるけど」
 しかも思い至るのはそれだけでなく、和臣と会うのはこれでたったの3回目だという事実。
 万引きの時も乱交パーティの時も行きがかり上、助けてくれはしたが親しくも無いこんな生意気なガキ。
 自分なら助けたりはしない。
 和臣がさっきから何の言葉も返さないのは、それを証明しているからだ。
 万が一の可能性も無いように思えて、俯いたまま雪之はついに言葉を失ってしまった。
 和臣のあの冷たい笑顔で拒否されるのが怖い。
 本当は来るべきでは無かったとギュッと膝の上で拳を握り締めた時、
「確かに勝手な言い分だとは思うが…」
 さっきと同様静かにそう言った和臣は、
「素直な奴は、嫌いじゃない」

 パタリ
 …と。

 ただそれだけの言葉が嬉しくて、その瞬間また涙がこぼれおちる。
 優しいには程遠くても、初めて受け入れられたのだと思った。
 呆れたような溜息が雪之の耳に届いても、絶望的な闇の中に光を見たような気がした。










 雪之が再度涙を収めてココアをほぼ飲み終える頃には和臣の上級生らしき生徒会役員面々も帰ってしまい、生徒会室も含めその隣に接するここ、打ち合わせ用の部屋には雪之と和臣の二人きりになっていた。
「…ありがとう。もう、大丈夫」
 先程と変わらず斜め前に座る和臣へと声をかけると、広げていた数学の参考書に視線を置いたまま、
「一応断っておくが、俺ができるのは尾崎とつなぎをつけてやることぐらいだぞ」
 それは
「交渉…してくれないってこと?」
 暗がりで一度しか面識は無いが、シキの話も総合すると尾崎はれっきとした社会人だ。
 とてもじゃないが話し合いの場を設けてもらったところで、中学生の雪之などでは、
「極力お互いが譲歩できる範囲でケリをつける、って意味なんだが…。お前が自分から首突っ込んでる以上それなりのリスクは覚悟してもらいたい」
 つまり
「尾崎はな、人の命より金が大事な人間なんだ」
 だから、何?
 参考書に視線を落したままの和臣には、言いたいことが良く分からず雪之が首をかしげたことなど見えるはずも無いのに、
「分かり易く言えば、手切れ金が要るってこと」
 それでも理解しかねている雪之。
「300万程度で話が済むように、なんとか交渉してやる」
 ……
 思考が一瞬止まる。
「…さんびゃく。 マン、円?」
 ようやく言葉の意味を理解して、
「あ…、はははは」
 すると、静かに視線を上げた和臣。
「笑い話に聞こえたか?」
 何の抑揚も無い言いように、涼しい視線を受けていた雪之の瞳が鈍く淀む。





 やはりそういうことなのだ。
 いつもと一緒。
 こなれた笑みで突き放す。
 …雪之が死のうが生きようが、痛くもかゆくも無い。





 今更ながら期待した自分に腹が立ち、
「だって笑うしか無いだろっ!」
 ドン!
 っと雪之は握り締めた拳を長机へと叩きつけた。
「俺、さっきマジで本気で自分のこと話したって分かんなかったのか? 万引きの時も倉庫の時も…今だってそんないかにも助けてくれるみたいなふりしてっ、俺にそんな金なんか有るわけ無いって分かっててっ。大体いつもいつも…っ。 いっつも、どういうつもりなんだよっ! その気なんかこれっぽっちも無いくせに気があるようなことすんじゃねぇ!!」
 興奮しながら言葉を投げつけたせいで軽く息が上がっている。
 まぁ結構な大声でまくし立てたのだから、仕様が無いことではあるのだが…。
 うつむいて肩で何度か呼吸を繰り返し、ふぅ…っと最後にひとつ大きな息を吐き切った雪之。
 傍に置いてあったカバンを掴むと、和臣を見ること無く椅子から立ち上がり、部屋を出るべく一歩を踏み出した時、
「別に冗談で言ったつもりは無かったんだが、その方法では不満だというのならそれはそれで仕方が無い」
 顔を向けると和臣の視線はまた参考書へと向いていたが、何か読み取れやしないかと、その表情を眺めてしまった雪之。
 …ホント、あきらめ悪過ぎ。
 心の中で呟いて、つい自嘲の笑みを浮かべてしまった。
 馬鹿にされても冷たくされても終りにはしたくない。
 だから…
「できないことは、できないじゃん…」
 言葉を返せば会話は続く。
「そんな金、逆さに振ったってこれっぽっちも出てきやしない」
 何の担保も持たない中学生に300万円も貸してくれるような消費者金融など皆無だろう。
 が、
「唯一頼れる相手が居るだろう?」
 言ってわけ知り顔を上げた和臣。だが、それは和臣を指しているわけでは無い、と確信は持てるから、
「いない」
 即答して…情けない気持ちでいっぱいになった。
 この3年間シキのような人間としか付き合ってこなかったから、信頼出来る友人など居ないのだ。
 300万どころか300円だって貸してくれるような友人はいない。
 すると、参考書をパタンと閉じた和臣が、
「大切な一人息子がヤク中になるかどうかの一大事だ。話せば簡単に済まないことを多分彼女なら理解してくれる。300万程度で片が付くなら直ぐに出すと思うんだが」
 シレっと一番頼りたく無い人物を指名してくれた。
 それだけは拒否したいところだが、雪之が訝しげに眉をひそめるだけに止まったのは、和臣の母親に対するいいようだ。
 どう考えてもニュアンスがおかしい…。
 まるで母親を知っているかのような、
「実は小見島瑤子所長には親父の会社が世話になっててね、その絡みで俺も何度か面識があるんだ。ついでに言えば4年前にお前とも一度会ってる」
 開いた口が塞がらないとはこのことだ。
 朝から衝撃的なことが多かったがそれを全部ひっくるめても、今の告白が一番衝撃的だったことは間違い無いだろう。

.............................................................

「大変なことに巻き込んでしまって…」


 続いて謝罪の言葉と共に、自宅応接間で深々と頭を下げたのは雪之の母、瑤子だ。
 和臣が顔を上げてくれと訴える間もなく、その隣で不貞腐れて座っている雪之の後頭部に素早く手をあてがった瑤子は、
「何度言っても足りないくらいだわ。本当にごめんなさい」
 言いながらグググと力任せに雪之の頭を下げさせた。
 親子揃って頭を下げたまま、その下では暗黙の攻防が繰り広げられている空気を読んだ和臣が小さく笑って、
「そうしてると、昔と変わらないんですけどね」
 ゆっくりとした語りかけに二人とも顔を上げた。
 瑤子が困惑気味な表情を浮かべているところを見ると、彼女自身も和臣と雪之との過去の接点は思い浮かばないでいるようだ。
「コシダのベイエリアに在る商業施設。あそこがオープンした時に、ブラジル料理の店で会ってるんですよ。お互いプライベートだったので挨拶程度で別れましたから」
 途中、瑤子がああといったふう頷いて見せ、
「思い出したわ。でも、雪之のことまで覚えてるなんて…」
 4年も前に名前と一緒にちらっと挨拶を交わした程度だから、和臣の説明は忘れている瑤子への気遣いという訳では無く事実を語っている。
 今は派手な身なりをしているが、当時の雪之は育ちのいい知的な風情を漂わす小学生だったというのに、
「俺の特技なんです。一度面識が有る人間は忘れません」
 はぁ
 っと瑤子の口から大きなため息が漏れても仕方が無い。
 雪之と和臣は一つしか歳が違わないのだから、ブラジル料理店で会った時、和臣も小学生だったということになるのだ。
「死別だと思っていた父親が普通に生きて再婚していたくらいで、こんなにも道を踏み外す馬鹿に育てた覚えは無いんだけど」
 不自然なくらい平坦にそう呟くと、テーブルのコーヒーカップを取り、口をつけた。
 元来、歯に衣着せぬ物言いをする瑤子だが “馬鹿” とまではいくら身内でも言い切ることは無い。
 余程腹を立てていることは息子でなくても充分に分かる。
 瑤子をキッと睨みつけた雪之が口を開いたのは、何がしか反論するつもりだったのだろうが、
「……」
 結局は口を閉じ視線を落としてしまった。
 その様子を瑤子は真っ直ぐに見据えたまま、
「そうね。私とまともに向き合って話せるくらいならわざわざ和臣君に来てもらう必要無かったものね」
 カチャンとソーサーにコーヒーカップを戻した瑤子は更に、
「あなた本当に事態の重大さを理解してるの?」
 溜息混じりの、もちろん雪之への問いかけだったが、問われた本人は視線を上げずにジッと俯いていた。
「雪之…」
「取りあえず」
 業を煮やして身を乗り出した瑤子の言葉を遮った和臣。
 何だとばかりに振り返った瑤子へ静かな笑みを向け、
「事は急を要します。本人の理解はこの際後回しにして、話を進めるべきだと思うんですが」
 なるほど、ごもっともな意見。
 本来ならこの場を仕切るべき立場にあるのは自分なのだと思い至った瑤子は気まずく笑みを浮かべながら、
「ごめんなさい。自分で動揺している自覚が無かったわ」
 言ってため息で少し間を置くと、
「まさかこんな形で雪之に香田の危害が及ぶなんて思ってもみなかったから」
 途端、顔を上げた雪之の見開かれた瞳に、
「大丈夫よ、和臣君はあなたの父親のことは知っているから」
 しかし雪之は首を横へと大きく振る。
「なんであいつが」
 次いで目を見開いたのは瑤子の方で、
「…何で、って。あなた」
 それ以上言葉が出ないようだ。
 親子揃ってポカンと見つめ合っている様子を、少し面白げに見つめる和臣。
 余程会話に乏しい日常を送っていたようだが、さっき瑤子が指摘した通り父親絡みの事実と、思春期特有の心理が加わったとしても、雪之がここまで堕ちてしまうほどの馬鹿とは思えない。
 きっかけさえ掴めればきっとあの時のような母子関係に戻れるのだろうと思う。
 いつもの興味本位のお節介心が湧かないでも無いが、
「話せば色々と面倒そうだったので、金額の説明も含めて細かいことは何も話して無いんです」
 この三者対談まで持ち込んだのは、とにかく瑤子と直接話がしたいと強引に自分が押しただけだ、と和臣は告げた。
 親子関係の修復にまで首を突っ込むかどうかは今考えるべきことではない。
 視線を瑤子から雪之へと移し、
「尾崎に払う300万は、正確に言えば手切れ金だけじゃなく口止め料も込みってことだ。今を時めく香田千雪の隠し子って事実をマスコミにリークするか、直接本人を強請るか。いずれにしてもいい金づるを見つけてほくそ笑んでる尾崎と交渉するには、ある程度の土産は必要…」
 ふいに和臣は言葉を止めた。
 雪之は両拳を膝の上で硬く握り締め、俯いたまま視線はジッとテーブルを睨みつけている。
 明らかに自分の殻に閉じこもりました、といった風情だ。
 気を持ち直してくれればと期待半分で説明してはみたが、今話した事は何も頭に入ってい無いだろう。
 再度視線を向けた先にある瑤子の不安げな表情を、ニコリと穏やかな笑みで安心させ、
「すみません。少し二人にしてもらえませんか?」
 今の雪之では母親の前で本心など晒せはしないだろう。
「でも、それだと和臣君に」
「自分の技量や力量くらいちゃんと把握してますから、できないことにまで手を出したりはしません。だから小見島所長はご自分の守るべきものを優先してください。どの道、乗りかかった船でもありますしね」
 小気味よく微笑みかけられて瑤子は意見することを止めた。
 度々とまではいかないが和臣とは何度か面識はある。が、彼の実年齢は幾つなのかと疑いたくなることがままある。
 年を重ねるだとか本人の努力だけではどうにもならない…多分それが和臣の持って生まれた特性なのだ。
 チラリと自分の隣で固まっている息子へと視線をやり、内心小さく息をつく。
 片親で不憫な思いをさせたことも有っただろうが、その何倍もの愛情を注いできたつもりだ。
 瑤子もまた自分の性格はそれなりに理解しているから、表立って溺愛をアピールすることは無かったにしろ雪之もそこは分かっていたはずなのだ。
 だから父親の話もすんなり受け入れてくれると信じていた。
 母子関係のボタンを掛け違えたのは、明らかにあの日の告白からではあったが、怒りの理由を話そうともしない雪之に応えてやる術が無い。
 瑤子と同じく自分の性分を熟知している和臣がこんなふうに手を差し伸べてくれるのなら、有り難くそれに甘えてみるのも親として間違った選択では無いと思う。
 そして、
「じゃあ和臣君…、後は宜しく」
 自分との話し合いに応じさせた和臣に対する雪之の信頼度の大きさに賭けるしかない、とも…。

.......... + .......... + .......... + .......... + ..........

 パタン

 瑤子の後を追うように、静かに応接間の扉が閉まった。
 少し脱力しながら和臣はソファーに沈み込みつつ、課題の一つはクリアしたことを確信する。
 幾らそれなりの経済力があるとはいっても、いきなり請求されるには低い金額だとはいい難く香田千雪の話も含めて、逆に和臣自身が攻撃されてしまう可能性だってあったのだ。
 しょせん瑤子とは父親の仕事がらみでたまに会った。
 という程度のものだから瑤子の自分に対する評価も分からなければ、小見島家の実情など知らないも同然。
 香田千雪の話も父親から聞いてたまたま知っていただけに過ぎない。
 だが、結果として瑤子は和臣に全信頼を置いてくれたし、捻た息子を助けるために惜しみなく金は出してくれるようだ。
 冷静に状況把握もできるし判断力も有る。しかも親としての愛情も多大に注いできたことは、さっきのやり取りからも直ぐに分かるのに…・



 深く背もたれに凭れたまま、小見島母子の現状を頭の中で整理し終えると、まだテーブルを睨みつけている雪之へと視線を向ける。
 膝の上で握り締めた拳の力を抜くこともせず、相変わらず顔すら上げようとしない雪之を更に黙って数分見つめていた和臣。
「―…」
 何かを思いついたかのよう目を細めるとギシっと小さな音をたて、沈み込んでいたソファーから腰を上げた。
 深みのある黒い絨毯を3度踏みしめ、向い側のソファーとテーブルの間…つまり雪之の直ぐ傍に膝を突く。
 そして、ゆっくりと差し伸べた両手でそっと雪之の頬を包み込み…
 ビクリと一瞬身体を震わせた雪之。
 目を見開きながら状況を呑み込んで、
「か、ず…おみ?」
 ようやく向けられた雪之の視線は、思うより近くで和臣の眼差しを捕らえた。
 絶対的な美男子というわけでは無いけれど…。
 綺麗に整えられた眉。
 少し長めのまつ毛。
 そして
 …揺るぎもしないこの黒い瞳が何より好きだ。
 と再認識したその瞬間、
 ふっと和臣が表情を緩めた。
 浮かべた笑顔の穏やかさに、もう一度名前を呼ぼうと口を開いて、






「い゛だだだだだだだっ!」



 その唇からついて出た言葉は濁音だらけだ。
 和臣が添えていた両手の指でいきなり雪之の両頬を引っ張ったのだから、まぁ当然の反応だろう。
「い゛だい゛! い゛だい゛っでばっ!!」
 慌てて自分の頬を抓っている手を掴んで引き剥がそうとしたのだが、見かけによらず馬鹿力の和臣には無駄な抵抗だ。
「ごでんだざい、ごでんだざい…」
 昼間に2度も泣きを見せてしまったことも有ってか、雪之は何のためらいも無くとにかく謝って見せた。
 何がどうなって…
「本当に謝るべきは何なのか分かって言ってるのか?」
 分かりません。
 と、頬の痛みが無ければ即座に答えていただろう。
 若干緩められた力にホッとしたのと相まってポカンとしてしまった雪之に向け、思いっきり大きなため息をつきついでに和臣はようやくその手を雪之から離し、ストンとそのまま絨毯の上へと腰を落として膝を崩した。
「ってぇなぁっ、たく…」
 ジンジンと鈍くしびれる頬をさすりながら小さく愚痴る雪之はそうしながらも視線を向けた先で、テーブルへと無造作に肘をついた和臣が、
「その程度で挫けてて、よく尾崎に会いに行けたもんだ…。少なくとも1週間」
 ゆっくりとした口調で、
「薬とセックスだけの状態に置くってのが尾崎の常とう手段。で、その間に撮った正気じゃ目も当てられない画像と動画を尾崎んとこの幹部が持ってる会員制ゲイ専用のAVサイトに流される。薬を経験してるならどんな状態でヤられるか、いくらかは想像できるだろう? だから、この時点で尾崎の手中から逃げる気力は大抵失せて、後はもういうがままなすがまま。壊れるまで客取らされて、薬も手放せない状態にまで追い込まれて…。尾崎、お前ならいい客が引けるって喜んでたぞ」
 ゴクリと生唾を飲み込んだ音が聞こえたかのようなタイミングで、和臣は見るともなく流していた視線を雪之へと向けた。
「しかもお前の場合は特別なんだ。使い物にならなくなれば、それだけの事実くっつけて情報の買い取り手に売り込んで完了。っていうのが尾崎の計画の全貌だ。それ全部話せば所長、パニック起こして警察に走りそうだったからさっきは伏せた」
 今からでも遅くは無いだろうと言いたげに口元をわななかせている雪之を見据え、
「幸か不幸か現段階では何も起って無いからな。薬漬けにされそうだから守ってくれ、なんて警察なんかに走ったら一人になった途端最悪…」
 和臣は立てた左手の親指を喉元へと当て、静かに真横へと引いて見せた。
「つまり尾崎はそういう人間だ、ってこと。お前は知っておくべきだ。自分がどこに首突っ込んだかも含めてな」
 瞬きも忘れて呆然としている雪之を横目に和臣は立ち上がり、
「上手く誤魔化せるタイプじゃ無いから勘違いされ易いとは思うが、間違いはちゃんと受け入れてしっかり叱ってくれるいい母親じゃないか。これ見よがしに逃げ回ってるんじゃなく、きっちり向きあって話し合え」
 柔らかい声でそう言い置くと少し屈んでソファー横の荷物を手にする。
 今日わざわざ学校にまで押しかけて、和臣に助けを求めたってことはある程度自分の馬鹿さ加減を自覚したということだ。
 ここまで最悪のシナリオを突きつけられれば、さすがの雪之も自己防衛に走るだろうことは簡単に予測できる。
「じゃあ細かいことは所長と話をしておくから」
 やや気を持ち直した面持ちの雪之の瞳がひたすら和臣の動きを追いかけていることに気づき、
「紫希には適当に言ってごまかしとけよ」
 笑顔でポンとその頭をなぜる。
 ずっと口を閉ざしていた雪之だが、その指が長い前髪から離れてしまう瞬間…




















「正気でやってるのか?」














 ややあっての和臣の言葉。
 けれど雪之自身、その問いに答えることはできなかった。
 他人の懐に正気で飛び込んでなど行ける自分では無いはず。
 なのに…
 また冷たく突き放されて傷ついてしまうことは覚悟の上。
 それでも僅かに漂う和臣の香りが
 頬から伝わる体温が
 襟足を静かにかすめる吐息が
 …和臣の全てが恋しくて、突然抱きついたままその腕を離せない。
「ごめん」
 迷惑なことは分かってて、けれど
「和臣」
 好きが止められない。
 こんな状況だというのに、こんな不埒なことを考えている自分はやはり正気では無いのかもしれない…。
 と抱きしめる力を強めてしまったことが悪かったのか、身じろぎをした和臣。
 ついに突き放される。
 と固く目を閉じた雪之の頬に柔らかい何かが触れた。
「…?」
 それが何なのか良く分からず、確認しようと僅かに開いた眼尻に再度それが触れる。
 瞳が写した物の正体が分かったと同時に驚いてパッと腕の力を解き放った途端、
「今のはただのサービスだ。過ぎた期待は持たないように」
 スクっと上体を立て直すと綺麗な流し目混じりにそんな言葉を告げ、鮮やかにその場を後にしてしまう。

 キスされた

 と自覚したのは扉が閉まった後で、唇が触れた左頬と目じりを手で抑えたまま、和臣の言葉を理解するまでただただ茫然とするしかない雪之だった。

.............................................................

 いつも最後は瞬間冷却材を投下されてしまうから、いきなりどうしてこうなったのか雪之には理解不能だ。
 和臣の存在を失うのが嫌で、つい抱きついてしまったけれど…。
 雪之の気持ちを知っていながら、あんなことをした和臣こそ何なんだ。
 心底過ぎた期待を持ってやりたいが、恋愛感情など無かったと感じた雪之の直感は多分正しい。
 ふざけていたわけでは無い、という判別くらいはつく。
 だから。
 だったら尚更疑問は募る。

 なぜ?

 と…。












「殴られたってしょうがないわね」












 声に驚いて視線を上げた先…さっき和臣の座っていた場所には、いつの間にか瑤子が腰を落ち着かせていた。
「聞けば試験中だっていうじゃない。いくら私と顔見知りだったからって、こんな危険で面倒なこと。街でたまたま会ったなんて理由で他人はここまで手を貸してなんてくれないのよ」
 話の経緯が分からず少しの間目をぱちくりさせていた雪之だが、まだ自分が左頬を抑えていることに気がついて、違うと首を横へと振る。
 いっそのこと殴ってくれた方が理解しやすかっただろう。
 頬を覆っていた手を離しつつ、
「…和臣に、キスされた」
 静かにそう告げる。
 素直に事実を語ってしまったのは、あまりにも混乱し過ぎて虚勢を張る気力など無くなってしまったからだ。
 何を否定されても拒絶されても構わないとは思ったが、和臣を罵倒するなら食ってかかろうと心の隅で考えていた。
 ところが、
「そう」
 返ってきたのは特に何の含みもない普通の言葉。
 意外な反応にまじまじと瑤子を見つめる雪之へと、薄い笑みを浮かべながらの瑤子は、
「素敵な王子様のキスで目が覚めたのなら本望じゃない」
 例えそれが頬であっても男にキスをされたのだ。
 雪之が戸惑っていることは不思議では無く、瑤子としては場の雰囲気を和ませる、言わばちょっとしたユーモアのつもりだったのだ。
 が、
「本望…」
 そう呟いた雪之が何やら考え込んでしまう様子に、逆に驚きを呑み込んだ。
 あの表現なら冷めた声で吐き捨てるか、嫌悪の表情を見せるかが普通の反応ではないだろうか。
「……」
 それ以上何も返さない雪之を、少し不穏な面持ちで瑤子は眺めては見たものの。
 今日一日の和臣の動向を改めて思い返してみても、雪之に対して特別な感情を持っているとは考え難い。
 加えて雪之自身にも、そういう嗜癖があるような素振りは見たことが無いけれど。それでもまぁ…と思い直した。
 和臣は機智富かな良くできた男だ。
 強い統率力を持つ男、例えば父親やその代わりに値する同性が身近にいない雪之には多大な影響力が有ったのかもしれない。
 どうも尊敬や憧れ以上の感情を持っている節は有るようだが、その部分は取りあえず棚の上へと乗せてみる。
 先ほどの和臣ではないが、そこを突いている場合では無い。
 それより何より、
「香田のことで少し話をしてもいいかしら?」
 二人っきりで同じテーブルに着くなんて機会は滅多に無いのだ。
 唯一無二である息子の一大事だからこそ今日は強引に仕事を早退してきたが、自らが運営する事務所を私用でそうそう休むわけにはいかない。
 貴重なこの時間を無駄にもしたくはない。
 予想通り表情を硬くした雪之へと、
「…気に食わない話なのは分かってるわ」
 そう言い置いて、
「でもこうなった根本的な原因はそこにあるんじゃない? それに」
 座ったまま身を乗り出した瑤子。
「和臣君を危険な目にはあわせたくはないでしょう?」
「ど、う言う」
「香田が噛んでると思ったからあっさり私も受けたけど、300万ものお金が動くのよ。なのにあれだけ分かってる和臣君が警察って言葉を一度も口にしないのは不自然過ぎる。実は彼もグルでリベートでも入るっていうんなら話は別なんだけど」
「違っ」
 食いつかんばかりの勢いで口を開いた雪之を、即座に優雅な笑顔で制した瑤子は、
「ええ、彼は違う。私も伊達にアセッサーなんて仕事で生計立ててやしないから、それくらいの判断はつくしそんな大金、持ち出さなきゃ話がつかない尾崎って人が尋常じゃ無いってことも分かるの。警察を入れようとしないのはそういうことじゃない?」
 誰かが命を落としかねない
 そこまでの想定をしているかは判別し兼ねるが、瑤子の問いかけに口をつぐんでしまっては、尾崎がスペシャルランクの危険人物だと肯定したと同じこと。
 だと気付いた雪之があからさまに浮かべた不愉快な表情に、
「ねぇ。雪之は和臣君がそんな人との仲介人になってくれることに疑問は感じないの?」
 相変わらず身を乗り出した体勢で静かにそう言った瑤子からは笑みが消えていた。
 正直、そんなことに疑問など微塵も感じたことは無い。
 質問の意図は分からないが、何か和臣絡みの重大なことなのだろうことは理解できるから即答はせず、僅かに首をかしげた雪之は視線を空へと飛ばす。
 和臣と尾崎の関係って…
「友達。だから間に立ってくれるんだ、と思ってるけど」
「仲良く話してるところを見たからそう思う?」
 雪之は更に首を傾げてしまった。
 そんな場面を見た記憶は無い。
 大体尾崎とはあの倉庫で一度しか…とそこで不意に思い出す。尾崎のプライベート空間で月明かりを背にして窓際に立っていたのはきっと和臣だ。
 と判断すればあのタイミングで和臣が現れた理由も説明が付く。
 追いかけてきてくれたんだろうか。
 …心配して?
「見たことはないのね?」
 あまりにも考え込んでいる姿に先に瑤子が答えを出したが、
「二人っきりで一緒に居るところは見たよ」
 半分だけ否定。
「仲良くしてたかは分からないけど。尾崎さんってそうそう誰にでも会うような人じゃ無いから和臣は特別扱いなんだと思う。大体親しくも無いのに和臣が間に立つなんて言わないだろう?」
「特別扱いとお友達は必ずしもイコールでは無いわよ」
 言葉に目を細め、
「はっきり言ってくれた方が分かり易いんだけど」
 きっぱりとした口調の雪之へと、にっこり微笑んだのは瑤子。
「その覚悟があるのならはっきり言うわね。和臣君と尾崎って人は仲がいい…少なくとも友好な関係には無いわ。だって本当に仲がいいのならそんな大金を持ち出さなくても雪之とは関わりがあるから大目に見て欲しいだとか、例え幾らかの責任を負わされたとしても、夕食奢るくらいで話は付くものよ。和臣君の話した内容のどれを取っても、いい友人っていうより損得で割り切ったビジネス感情しか無いように聞こえたんだけど、そういう兆候は無かった?」
「……」
 言葉が出なかった。
“尾崎はな、人の命より金が好きな人間なんだ”
 はっきりそう言い切っていたではないか。
「心当たりが有るのね?」
 ゆっくりと雪之は頷いて見せながら、そんなとんでもない思い違いの原因は何だったろうかとやはり首を捻っていると、
「和臣君があまりにも普通だものね」
 あっさりとその疑問を解消した瑤子は、
「実際彼自身ができないことには手を出さないって言ってくれたから任せることに決めたけど、尾崎って人のビジネスに対する仲介人なら向こうは駆け引きを仕掛けてくるかもしれないでしょう? 金額をもっと引き上げるとか、それ以外の何かを要求するのかもしれない。弱みがあれば付け込まれるし足元も掬われてしまうわ。私や和臣君の名前を持ち出す分にはあなた自身で判断できるでしょうけど、香田の名前でも持ち出されてごらんなさい。今のあなたじゃ冷静に判断できる状況じゃなくなるでしょう? その時、とばっちりを食うのは和臣君なのよ」
 雪之は息をつめた。
 ただの通りすがりだというのに自分を守ろうとしてくれている和臣の負担には、これ以上なりたくない。
 その存在を強く思えば気にせずにはいられない右手のブレスに手を添えた雪之はいつの間にか落ちていた視線をしっかりと瑤子へと向けた。
「…いいよ。父さんの話、聞くから」
 受け止めて見せる、絶対に。


.......... * .......... * .......... * ........... * .......... * ..........

 ――週末、短い冬の日も落ちた頃。


 沈丁花駅東改札横で雪之は目深にニット帽をかぶって俯き加減に立っていた。
 五日振りの和臣との再会と尾崎との交渉の日。
 はやる気持ちが抑え切れず随分と早く待ち合わせ場所へと到着してしまったが、和臣がわざわざ時間厳守を支持してきた理由がこの約30分の間で良く分かった。
 明らかに男だと分かる風貌にも関わらず一々男が誘ってくるのだ。
 いくらこの先は巷で有名なラブホテル街だったとしても、
 …ここってそういうポイントだっただろうか。
 そんな疑念を抱きながら、また人影が近寄ってくる気配に軽く身構えていると、
「待たせたな」
 顔を確認する時間も与えられないまま、いきなり肩を抱き寄せられた。
 声だけで相手は認識できたがその体勢のままスタスタと歩き出され、
「えっ、ちょ…っと。和」
「時間通りって言っただろう。無理矢理ホテルに引っ張り込む輩も居るんだ。が、まぁ」
 ようやく視線を向けられて、
「後は指示通りということで、一応合格点やっとくよ。雪之」
「―― っ!」
 ビックリし過ぎてつい足を止めてしまう。
 いきなり肩を抱いた上に名前の呼び捨てなんて反則だろう。
 相変わらず澄ました笑顔の和臣を、上から下までまじまじと見つめて、今までのどれとも違う出で立ちに惚れ直さずにいられない。
 シングルブレストの細身で中丈のウール地コートと、ピッチリと地肌を覆うハイネックのニットもやはり素材はウールだろうか。
 少し厚手のパンツは生地までは不明だが品良く締まっている。
 エンジニアブーツと小ぶりなレンズを少し厚めに飾るメガネフレームも含め全て黒一色。
 けれど装いの割に砕けて見えるのは、真っ直ぐなはずの毛先に軽くウェーブが掛かっていてボリューム感があるせいだろう。
 大学生が少し背伸びをしたような雰囲気で、普段の和臣を知っていれば一見誰だか分からない…という格好でこいと雪之にも指示は出されていた。
 さっきの合格点はニット帽に薄めのサングラス、グレーのミリタリージャケットとジーンズにスニーカーというどこにでも居そうな、控え目な変装に対する評価だった。
「一応子供の頃の知り合いってことになってるから、名前を呼ばないのも不自然だろ?」
 驚いた原因には直ぐに気付いたようだが、
「馴染まないならずっと雪之って言い続けてやろうか?」
 見惚れてしまったことまでは気付いて無いらしく、紅く染めた頬を誤魔化すよう率先して和臣の背中に手を回して歩き出す。
「遠慮しとく」
 本当は嬉しいけど。
 ここをこうして歩くのが、この街本来の目的であれば、今の魅力的な提案を反故になどしなかった。
 恋人同士さながらで歩きながら、
「お家騒動は解決したんだってな」
 変えられた話題に色気は無い。
「…一応は、ね」
 決してガッカリしたわけではないが、少しの間を読み取られ、
「何だ、オールクリアじゃ無かったのか?」
「そんなことは、無い…けど。急にどうこうってわにもいかないってだけ。だから和臣は安心して」
「俺に気をまわす必要は無い」
「でも」
「忠告。俺は自分のことは自分でする、だから雪之も自分のことだけを考えてろ」
「って、それどういう」
「雪之の今日の目的は、渡すもの渡して尾崎との係わりを断ち切るって約束を取り付けることだけだ。そこだけ自覚して判断しろって意味なんだが」
 “雪之だけ” を妙に強調しているように聞こえて、雪之は再度足を止めると行く手を遮るよう和臣の前に立ち、正面から涼しい笑顔を見据えた。
「本当は何か有るんだろう?」
 瑤子が懸念した何か駆け引きめいたこと。
 けれど、
「さぁ、どうだか」
 うそぶく姿に無意識で和臣のコートの襟を掴んでしまった雪之に、わざとらしく目を見開いた和臣は、
「ここで仲間割れはマズいだろう」
「マズいのは誰だよっ…変なこと、言ってんじゃねぇぞ」
「言ったか?」
「言った。和臣が危険なら、俺行かない。和臣に何か有ったら」
「おいおい、今更何を言い出すんだ。尾崎対策と俺に対する心配は無用だと話ただけだろう。大体雪之に助けてもらおうなんてこれっぽっちも思ってないし、大きなお世話だ」
「和臣っ」
 小さく叫ぶなり、

「うっわ! ホモの痴話喧嘩?!」

 そんな言葉が耳に立つ。
「やぁだぁ。こんなとこで」
 すっかり日も落ちたラブホテル街の真中で若い男二人がネオンを浴びながら至近距離でいがみ合っていれば妥当なご意見だろう。
 けれど、
「片方、絶対未成年。ヤりたい盛りってやつだろう? 三度の飯より何とやら」
 軽薄で無責任な出まかせに声の方向へと怒鳴ろうとした雪之の顔を、両手で挟んでグッとその場に止めたのは和臣。
 キスの距離まで顔を寄せ、
「騒ぎにするな。学校関係者にでもバレたら、後々面倒なことになる。それにそのショルダーに幾ら入ってるのかも思い出せ。無駄にはしたく無いだろう?」
 言葉の内容とはそぐわない、にこやかな囁きに結局雪之は頷くしか無い。
 満足げに目を細めた和臣は、
「とにかく自分を信じてろ」
 そう言い置くと改めて雪之の肩を抱き、俄かに人垣ができようとしていた輪の中心から出ると足早にその場を後にした。


.......... + .......... + .......... + .......... + ..........

「長居をするつもりは、ありませんから」
 部屋に入るなり人目をはばからない熱い抱擁を受けた後、コートのボタンに掛った手を、そう言ってやんわりと退けると部屋の奥へと進むべく足を進めた和臣。
 だが、
「それを決める権利は誰に有る?」
 言われて足を止めた背後から、覆いかぶさるよう和臣の身体に腕を回した男の静かな威圧感漂う言いように、信じられない面持ちで雪之は確信した。
 今まさしく目の前で和臣のコートを脱がせた男は間違い無く尾崎だ。
 …ここはラブホテルの一室。
 それだけでも意味有り気だというのに、今の流れではそのまま二人して傍の特大ベッドに倒れこんでもおかしくないような雰囲気ではないか。
 目をきょろきょろさせながら戸口の傍に立つ男に雪之がボディチェックと携帯電話を没収されている間にも、尾崎はさっき脱がせたコートをバスルームの前に立つ別の男へとポンと投げ和臣の腰を抱き寄せ奥にある深焦茶のモダンソファーへ揃って腰を落とす。
 というより和臣は成り行き上そうせざるを得ないと解釈すべきだろう。
 この場の主導権は明らかに尾崎にあるのだ。
 室内にはさっきコートを受け取った男とボディチェックの男が戸口付近に番人のように居座っていてベッドサイドには、あの夜倉庫で雪之を案内した派手なクールビューティが無表情で立っている。
 多分全員尾崎率いるグループの幹部で、女性であるクールビューティの頭数を差し引いたとしても単純に2人対3人の計算は成り立たない。
 尾崎を含めた3人の男達は見るからに野蛮で屈強な戦士だ。
 駅からここへ来るまでの間に和臣がいいたかったのは、つまりこの状況を予測した上での忠告。
 あれがなければあたかも雪之対尾崎チームのようなこの位置的構図に絶対に出鼻を挫かれただろうが、こうなるともういわれた通り自分を信じるしか他はない。
「呆けてないで、まぁ座れ」
 ドンと大理石調のローテーブルへと両足を乗せ寛いだ様子の尾崎に促され、頭を下げるとそのテーブルを挟んで二人の向かいに置いてあったスツールへと畏まって腰掛けた。
 顔を上げると射抜くような視線を向けている尾崎と目が合う。
 この眼光を見ればやはり海千山千の人間だと思えるのだが、シキ曰くトレードマークとされる金縁サングラスを今はかけてはいず、普通に笑えばその素顔は意外なほど穏やかで甘い。
 けれど、
「で、要件は?」
 何もかも知った顔で一からの問いかけだ。
 お世辞にもいい性格とはいえないだろう。
 どうしようかと尾崎の隣へと視線を流せば、やはりいつもの笑顔で普通にそこに座る和臣。の、唯一視線が雪之から外されていた。
 から、
「…あの。尾崎さんの仕事とか手伝いたいって思ってシキに紹介してもらったんですけど、俺やっぱりヤバいこと無理だと思って。だからせっかくのチャンスを棒に振るようで申しわけないです、けど。すみません、今回のことはなかったことにしてください。本当にすみません」
 深々と頭を下げ自分の言葉で尾崎に謝罪して見せる。
 その姿勢のまま言葉を待ってみたのだが、
「……」
 何も返ってこないことに雪之はゆっくりと頭を上げると尾崎はレザージャケットのポケットから良く見知ったサイズの緑の小箱を取り出した。
 慣れた手つきでパッケージを開けながら、
「なぁ、雪之。お前何でシキなんかとつるんでたんだ? 見てくれも頭のデキも家庭環境も全っ然違うだろう」
 少し変わった煙草を1本抜き取った尾崎の質問。
 怒鳴るなり嘲るなりされると思っていた雪之はやや拍子抜けしながらも考える。正直良くは覚えていないのだが、
「気が付くと周りにシキしかいなくなってて…。シキも俺に構うし、知らないことを教えてくれるからそれも面白かったし、つるんでると時間潰せるし」
「…家に居たって面白くもなんともねぇもんな」
 根本的な原因を尾崎が結論付けた。
「俺んちの親も俺が小さい時から離婚と再婚繰り返しててな。親父の浮気だか連れ子だかでいっつも家ん中グッチャになってんのに、偉そうに子供には父親面して怒鳴りやがるんだ。こっちは我が身を削る思いで辛抱して顔突き合わせてるっていうのに、一方的に親の価値観押し付けられるんじゃ割にあわねぇよなぁ」
 フィルターの無い煙草に火はつけず、ただ弄びながら、
「すっかり成人しちまってはいるが、俺は今でも子供の気持ちって分かるんだぜ。だから親の犠牲で寂しい奴ばっかりが俺んとこに集まってくるって雪之なら分かるだろう?」
 ふいに尾崎は柔らかい視線を雪之へと向けた。
「面白くもねぇ親んとこに辛抱して戻る必要が何である。実は今ちょうど幹部を増やそうかと思ってたとこでな、確かにヤバい仕事も無いとは言えねぇしそれなりのリスクも有るが、その分遣り甲斐は十分感じられるはずだぜ。もちろん手解きはちゃんとしてやるし雪之なら大歓迎だ」
 …妙に喉がカラカラで雪之は生唾を飲みこんだ。
 人間臭い尾崎の一面を見せられた上、全く思いがけない話の展開で信念が揺るぎつつある。
 あの尾崎にここまで望まれてもなお、300万円もの出費を強いてこの話を断るべきなのか? ヤクの売人なんて下っ端じゃ無く、もっと上の地位…。もしかすれば本当に尾崎の幹部として上手く立ち回れるんじゃないのか?
 と、そんな疑問と葛藤している雪之へ、
「何を迷うことが有る? 狡猾で不誠実な大人の犠牲にはもうなりたくは無いだろう。それに俺の傍にいればあの女からも守ってやれる」
 あの、女…?
 と目が口ほどに問うた雪之に、やや沈痛な面持ちの尾崎。揺らしていた煙草を止め、ゆっくりと視線を上げる。
「雪之の親父さんのことを俺に喋ったの…今の嫁さんだ。全く怖ぇよなぁ女の嫉妬って。夫の隠し子の存在なんて抹殺してしまいたいらしい」
 パニック
 に陥った自覚があるくらい瞬時に酷い動悸と冷汗に目まい。
“あなたは香田に望まれて生まれてきた子供よ”
 最終的には瑤子のその言葉で納得したのだが、そんなところから波紋が及んでくるとは夢の夢でも想像不可能。
 こめかみ辺りの血管が切れそうに痙攣を起こしてどうしようもない。
 ひどい耳鳴りがする。
 思考がほぼ停止してしまい、苦痛に顔を歪めながら崩れこむ姿勢で胸を押さえたその瞬間、僅かに感じた何かにかろうじて向けた視線の先。
 雪之の正面には真っ直ぐに雪之を見つめる和臣が居た。
 …和臣
 とすら呼びかける余裕も無い雪之へと、気持ち姿勢を正した和臣の毅然とした笑み。
 それだけのことが呪縛を解く魔法のようで…。

 ああ、そうだ

 自分を見失ってはいけないと瞼を閉じて胸を押さえたまま、数回の深呼吸。
 今日こうやって尾崎に会いに来た目的はすっぱり尾崎と縁を切ること。
 それ以上でもそれ以下でも無い。
 そう言い聞かせ、ゆっくりと体勢を元に戻すと、
「…会ったことも無い父親のことも、その奥さんのことも俺には分からないし関係もありません」
 期せずしてしっかりとそう訴えることができたのは、開き直ったせいかもしれない。
 伏せていた目を開いて顔を上げ、
「この程度のことで直ぐ動揺するくらいなので、やっぱり俺に幹部なんて勤まらないと思います。せっかく誘ってもらったのに、すみません。でも俺やっぱり尾崎さんの手伝いとかできません」
 強い視線で見つめる尾崎へと、額を膝に付け頭を下げて詫びる雪之。
 できることはし尽くした。
 急に空気が変わった気配を感じたと思うや否や、
「使えねぇくそガキだなぁ」
 投げつけられた言葉と煙草。
 テーブルで弾んだ煙草が雪之の髪をかすめたと同時に立ち上がった尾崎。
 ということも実際には気配でしか分からないのだが、押し殺した激怒の口調に絶対殴られると肩をすくめたその時、




「大人げないことは止めましょうよ」




 シン
 とその場をこう着させた和臣の声。
「直接交渉の余地が欲しいと言われたから俺も黙って見てましたが、作り話しにも程が有る。まさか嘘も方便だとか言うつもりじゃありませんよね?」
 作り、話し?
 嘘…ってどれが?
 何が?
「出された条件全部呑んできっちり頭下げてる中学生相手にデタラメ並べ立てた挙句、暴力に訴えるなんて賢い大人のすることじゃない。正直、俺。馬鹿は嫌いなんです」
 頭の中の疑問符も吹っ飛ぶような爆弾発言にギョッとして、思わず顔を上げてしまった雪之の眼の前では、案の定和臣と尾崎が睨みあっていた。
 雪之同様不利な状況を強いられているはずなのに、平気で挑発している和臣が理解できない。
 が、雪之などではとても口をはさめる空気では無く、ただただ成り行きを見守っていようと決心したと同時に、いきなり尾崎が嗤い出した。
 そしてそのままの勢いで、
「賢いガキは言うことが違うねぇ。馬鹿な大人の懐ん中に理屈引っさげて飛び込んで来て、でどうすんだ? それだけ言っといて、まさかタダで済むとは思ってねぇよなぁ」
 するとソファーに座ったままの和臣は不敵にも笑みを返し、
「誰も最初からタダで済ませろとは言って無いじゃないですか。結局雪之は幹部になるという交渉には応じなかった。 だから当初の約束通り慰謝料・口止め料・手間賃・手切れ金。その他もろもろ全部ひっくるめて300で手打ちです。が、今さら何かご不満でも?」
 言い終わっても、穴が開くほど和臣を見据えていた尾崎が、
「ふぅん」
 と、いきなり物騒な笑みを浮かべた視線をそのままに、手を軽く上げたのは後ろにいる幹部への合図。
 背後の誰かが歩み寄る気配に慌てて雪之が振り返ると、
「貰うもん貰わねぇとなぁ。こっちは約束通りの金額で終りにすりゃぁ筋は通る、だろ?」
 途中、否も応もなく幹部に引っ手繰られたショルダーバッグ。そしてその中身はあっと言う間に逆さでぶちまけられ、足元に散乱した雪之の私物の中から迷いもせず銀行名が印刷されている封筒だけを男は拾い上げていた。
 とにかく緊張と混乱の上塗りで “あ” とも “う” とも言葉が出ない間にも、中から取り出された三つの札束をバラバラっと尾崎に確認するよう見せている姿を雪之は茫然と眺めるしかない。
 散らばったままの私物を拾うこともできず、何か意見すべきなのか黙っていればいいのかさえ判断し兼ねて尾崎の反応を待っていると、札束にはさほど興味も無さそうにコキコキと肩を鳴らしドカっとソファーへと座り直してしまった。
 背もたれに両手を大きく広げるよう掛けた尾崎に、自然肩を抱かれたような格好になった和臣は、いつの間にか組んでいた足をユラユラと揺らしている。
「随分と余裕じゃねぇか」
 隣を流し見た尾崎の視線を真っすぐ受けたまま深めた笑みで、
「寛大なるご厚意に痛み入り」
 いかにも仰々しく腰を折って見せ、
「感謝させていただく。 ということで」
 頭を下げたまま組んだ足をほどくと腰を上げる。
 ゆっくりと上体を起こした和臣は、
「さて、帰るか」
 見上げる尾崎のことなどほったらかしで、にこやかに雪之へと歩み寄って来た。
 あまりな傍若無人振りに、
 あっさり帰れるはずが
 と思いはするが床に放置されていた雪之のショルダーを拾い上げる姿が目に入り、慌てて雪之は散乱している私物の傍へとしゃがみ込み、荷物一式を拾い集める。
 途中尾崎を盗み見ると、面白そうに二人の様子を窺っているではないか。
 絶対に何かある
 けれど…
 雪之が渡されたショルダーへ荷物を入れ終えたことを確認した和臣は、
「どうも、お手数をお掛けしました」
 再度尾崎へと一礼。
「あっ、有難うございました」
 次いでペコリと雪之も頭を下げるしかなく、相変わらずニヤリと笑みを浮かべたままソファーにふんぞり返っている尾崎へと背を向け、雪之のショルダーをぶちまけた幹部が差し出すコートを受け取ろうと手を伸ばした和臣の傍へと付いた。



「…?」
 そのコートの下に何か違和感が…と、雪之がその部分へと目を凝らしたのと、和臣が腕を引いたのと、カチャリと静かに金属音が響いたのとが同時。
 だが、それでも力を緩めない和臣の手首。に嵌められたそれごと幹部が逆方向へと思い切り引っ張った勢いでバランスを崩した和臣の左腕を取った瞬間、カチャリと二度目の金属音。
 パサっと落ちたコートのせいで露わになった手錠に、今さらながら驚愕の面持ちで和臣のセーターを掴んでしまった。
「なんで」
 和臣が…。
 報復や制裁が加えられるなら自分でなければならないはずだ。
 即座に背後から二人の間に割って入ろうとした雪之だったが、それを身体で和臣に遮られ、
「何で? 和臣は関係無い。こんなことまでして助けてくれなんて言って無いっ」
 けれど、
「大きなお世話だって言っただろう」
 呆れ口調の後、尾崎の座る方へと顔を向け、
「雪之の件は終わってます。後は俺が残れば済む話ですよね?」
「じょ…っ! 冗談じゃない!!」
 叫ぶなり力任せに和臣の腕を引き、
「話が違うっ! 本当は知ってて…自分が危ないって全部分かって来たんだろっ! なのに俺だけ帰るなんて」
 途中ようやく振り返ってくれた和臣の、飄々としすぎる表情がひどく悲しくて言葉に詰まってうつむいた。
 自分のことなど顧みず雪之だけをかばおうとする和臣の前で、今泣くわけにはいかないと下唇をかみしめた時、
「嫌だってよ」
 笑いを含んだ尾崎の声。
「まぁ。実際、帰りたくても帰れねぇんだけどな」
 言い終わらないうちに和臣が大きく身体を捻り振り払われた手に、そこまで拒絶されるのかと雪之が動揺を隠せないまま顔を上げると、

 ガッ

 間近で鈍い音。
 和臣の曲げた右ひじが、見事に幹部の頬にヒットする光景が音と一致する。
 唖然と口を開ける間にも腹部にひざ蹴りを入れた和臣は、体勢を崩した幹部の服を拘束された両手でつかみ引き倒してしまった。
 男の巨体が目の前で派手に転がり、
「ぅえぇぇ?!」
 いきなりな乱闘に奇声を発した雪之だが、流れの延長のように掴んで引っ張られた自分のショルダーの紐によろめきながらも駈け出した和臣に付いて行く。
 大きなベッドの脇を抜けると戸口までさほどの距離は無い。
 しかもそこには幹部が一人陣取るだけだと思い出し、
 一緒に逃げてくれるんだ
 とダッシュで走ったのだが、なぜか和臣はそこへは向かわず…
 ドン
 っと肩で押し開けた扉向こうへと投げるよう連れ込まれた雪之は、
「かっ」
 扉が閉まると一緒に、
「ずおみぃ…」
 何とも情けない声しか出ない。
 こんな最重要場面で最悪な判断ミス
 だとしか思えない。
 よりにもよってガラス張りのバスルームになぜ入る?
 しかも雪之の知る限りこの手のホテルのバスルームに施錠が付いていたことは無く和臣が背中で扉を抑えている現状がそれを証明している。
 思った通り、ソファーで尾崎が笑い転げてる姿が丸見えで…
「せっかく人が便宜を図ってやってるのに断ってどうする」
 ところがこの状況下でも和臣の口調は落ち着いたもので、ふるふると首を振って拒否して見せた雪之へ、
「取りあえず、シャワーで湯を出せ」
 ため息交じりながらも優しい笑顔で指示を出す。
 意図は分からないまでも、開き直って遊びに心に火がついたわけでも無さそうだから、言われるがまま雪之はシャワーの下まで移動して腕を伸ばすと湯が掛からないようヘッドを壁側へ向けハンドルを目いっぱい捻った。
 勢い良く飛散する湯の粒。
 気持ち良さそうだと現状を忘れて少し眺めながら、ふと立ち上る湯気がさほど広くもないバスルーム内に充満していく光景に思わず後ろを振り返った。
 透明ガラスがあっと言う間にスモーク掛かっている。
「すっ、すごいすごいっ」
 分かり切った現象だが子供のように浮かれ気分で和臣の傍まで戻って来ると、だ。
「…すごい」
 今度は賛嘆の声。
 手錠がなぜだか外されていて…黒ぶち眼鏡も外していたのは湯気でレンズが曇って邪魔になったのだろう。
 和臣が終始余裕でいられるのは経験と自信があるからだ。
 大丈夫
 だと、士気を上げた雪之に、
「本番はこれからだぞ」
 やや引き締まった声色で念を押す和臣。
「喧嘩の経験は?」
 問いかけに、
「無くはないけど…、強くはない」
 シキにくっついて雑魚に軽く攻撃した程度だ。
「なら手段はひとつか、な」
 外した手錠を口元へと当て、そう呟いた和臣は、
「手短に説明する。いいか? さっき俺が伸した男は杉っていってガタイはいいが俊敏さには欠ける。仕掛けて来れば相手するよりすばしっこく逃げ回るのが得策だ。で、戸口の方は元プロボクサーの原田。反りの合わないトレーナーを殴り殺して懲役刑食らった後、出所してからは尾崎にくっついてる。半端じゃなく腕は立つから、間違えてもあそこには近付くな。ナックル嵌めて待ち構えてるぞ」
 バスルームへと直行した最大の理由はこれだったのだろう。
 あの短時間でそんな物まで見ていたのかと、つくづく和臣の冷静な洞察力と判断力に感心するしかない。
 すっかり充満した湯気のせいで、しっとりと濡れた前髪を少し鬱陶しげに片手でかき上げた和臣は、
「だが門番原田は寄って行かなきゃ問題は無いとして、後の二人を俺が何とかしてる間に雪之はベッドの向こうの窓まで走れ。分かり難いがさっきのソファーの後ろにある戸棚めいた引き戸。あの向こうには窓があるはずだから…。ひと目で分かる未成年がラブホテルの窓から叫べば、多分誰かが通報してくれる」
 話に耳を傾けながらもショルダーをしっかりとたすき掛けにし、暑さと気持ち悪さを解消するためジャケットごと袖をまくりあげた雪之は、実は内心首を傾げていた。
 今の策には何か不自然さが残る。
 和臣の指示に間違いは無いのだろうが、最終手段にしては幾分成り行き任せに聞こえないでもない。
 引き戸の向こうに窓があったとしても、それは本当に通りに面しているのだろうか…?
 しかも、
「ベッドの傍に女の人がいるけど」
 無視するには危険だろう、女性といえども尾崎の幹部だ。
 雪之の指摘に思い出したかのよう和臣は頷いて、
「ケバ子はタイトミニな服着てしかもピンヒールブーツだ。何でここに居るんだか知らないが、通りすがりに体当たりでもすれば終わりだろう。出られそうなら窓から逃げるって手も有るな」
 雪之は眉間にしわを寄せ、
「また俺ばっか」
「で、駅前の交番まで走れ」
 ああ、なるほど。
 納得した瞬間、

 バァン!

 っと大きく響いたバスルームを囲うガラス。
 驚いて目をやるとガラス壁の向こうにはいつの間にか人影があった。
「尾崎?」
 振り向くこと無く問いかけた和臣にスモークで確認できない雪之が分からないと首を振ると、
「あの服の色は杉だな。さっきの名誉挽回ってとこだろうが」
 ちらっと斜め後ろを振り返っただけの和臣。
「作戦変更。杉はここで捕獲するから、窓まで走るのはその後に」
「ぅわ!」
 再びバスルーム中に衝撃が走る。
「まさか割れたりってこと」
「強いったってガラスだぞ。壊すつもりで攻撃してるから、あと何回もつかって程度だろうな」
 とそこで和臣はガラス扉から身体を離し、外した手錠を軽く両手首にひっかけると雪之の腕を取り洗面台まで移動。
 そこでくるりと振り返って見せた。
 ちょうど凭れていた形だけ結露がなく、最奥だが真正面のソファーには尾崎がさっきの姿勢のままこちらを見据えている。
 バァン。と止まらないガラス壁への攻撃に、
「どうやら死角を無くしたいらしいな」
 言った和臣もまた真っ直ぐに尾崎を捉えていた。
 和臣の豊富であろう経験を頼りに士気を上げてはみたけれど、やはりこの状況が自分達にとって有利だとは思い難い。
 湯気で湿ったセーターを僅かにつかみ、
「和臣は…怖い。とか、助けて欲しいとかって」
 口をついてしまったが、
 こんな時にする質問じゃない
 言葉を止めてギュッとセーターを握り直した時、
「そう思った瞬間が終わりだ。特にああいう輩はそんな感情を食い物にするからな」
 その視線を鋭くして口の端を上げたのがまるで戦闘の合図だったかのよう、ついにガラスに細かく入るヒビ。
 壁が一気に砕け落ちるかと思いきや、ガラス片は何かに張り付いたようひび割れたまま壁としてはまだ存在している。
 それでも視線を尾崎へ置いたままの和臣は、
「杉対策はさっき言った通りだ。何やら変なもん持ってるから当たらないように上手くこの中で逃げ回れ」
 バスルームの広さを考えれば結構無茶な要求だが、とにかく雪之は頷いた。
 弱味を見せれば敗北だと今教えられたばかりだ。
 バリバリと小さな穴を割り広げられるのを息を詰めて見つめる雪之に、
「杉を拉致ったら一緒に向こうに出て、尾崎は俺がどうにかする。後は予定通りな」
 指示の終わりが安全地帯崩壊の瞬間で、なだれ込む外気の空気に一気に視界が開けた。
 壊れたガラスの間から、ずかずかバスルームへと踏み込んで来た杉を確認すると、雪之を後ろへ押しやった和臣は軽くそこから一歩を踏み出した。
 この杉とやらは先制攻撃に慣れて無いのか読みが常に甘いのか…。
 いきなり踏み込んだ和臣の行動にひどく慌てながら振り回したチェーン様武器。
 それが大振りになることを知っていたかのよう、素早く屈んだ和臣が腹部に肩から体当たり。
 そのまま左へと身体を捻って見せたから、杉は真後ろの壁ではなくドスンと浴槽の縁にまともに全身をぶちつけた。
 動けないまま目だけを瞬かせている杉の顔面に、更に数回パンチを食らわし右手首に外した手錠をかけた和臣。杉の手にしていたチェーンをグルっと両手に巻きつけ力任せにその巨体を洗面台まで引きずって来たものだから、雪之は入れ替わるよう急いでシャワーの方へと場所を変え降って来る湯しぶきを振り払いながらシャワーのハンドルを止めた。
 もう目隠しの必要も無いはずだと、和臣を顧みれば洗面台下の水道管に気を失ったまま杉は手錠ごとつなぎ止められていた。
 これでは名誉挽回どころか確実に幹部から除名されてしまうだろう。
 などと余所事を考えているうちに、備え付けられているタオルで全身を拭きながらの和臣が雪之へと手招き。
 丸見えの室内の様子をうかがいながら和臣の傍まで辿り着いた雪之だがタオルを手渡されたところで、残る三人の敵対的視線を浴びたまま和臣のように平然と身なりを整えることなどできない。
 申し訳程度に水滴を拭っている雪之の頭にいきなりふわりとタオルが掛かったかと思うと、
「こんなナリで外に出たら風邪引くぞ」
 言いながらガシガシと髪を拭いた後、ポンと洗面台めがけてタオルを投げ手櫛で和臣が髪を梳かしつける。
 そして、
「もう一息だから頑張れよ」
 ごく傍で浮かべた強い笑顔がとにかくもう見事なまでの男前。
 無防備な心臓を天使の矢で射抜かれた心境で、ただ返事も忘れてその笑顔に見入っていると、
 ドゴン
 とあらぬ方向からの轟きだ。
 そろってバスルームの外へと振り向けば、尾崎の前であの石のテーブルが吹っ飛んでいた。
 けれどそれより何より雪之の心臓を凍らせたのは、鬼と見紛うような尾崎の形相だ。
 彼の所業を知っていれば甘いマスクに隠されたこれが尾崎の本性だということは直ぐに理解できるのだが、雪之は悪鬼の表情に凍てつきながらも腑に落ちないでいた。
 和臣が馬鹿だと罵った時も、バスルームへと逃げ込んだ時も、杉を拘束した直後でさえここまで激怒を露わにはしなかった尾崎がなぜこのタイミングでこうも心情をむき出しにするのだろうか、と。
 そう考えて極々初歩的な疑問が頭をよぎる。
 それはこの部屋に入った直後にも感じたもので、
「和臣」
 事の成り行きがあまりにも目まぐるしく、すっかり忘れ切っていた疑問だが、
「尾崎さんって和臣のこと…」
「そんなふうに見えるか?」
 少なくとも尾崎が雪之に交渉を仕掛けている間の和臣への態度はそう取られても不思議でも不自然でも無い。
 雪之がコクリと頷くと、
「つまり今しがたテーブルを蹴り上げたのは、雪之に対する嫉妬心。って解釈?」
 あまりの恐ろしさに尾崎から視線を外している雪之とは相反して、探るよう和臣はその視線を外さない。
「だって和臣のこと、触りまくってたじゃん」
 話が一段落するまで黙ってされるがままだったのは、和臣もそれを踏まえてのことではなかったのだろうか。
 少し間を置いて和臣が口を開いたのだが途端、気を取り直したかのよう扉の取っ手をおもむろに掴んだかと思うと、
「本人に確認してみるか」
 世にも恐ろしい言葉を残してガバっとその扉を開いてしまった。


 バスルームを出ると大理石の床には大量のガラス片が散乱してはいるが、ほんの少し向こうに在る浅い堀のような空間にその頭の部分が入り込んでいる大きなベッドまではガラス片の被害はベッドまでには及んでいない。
 そして変わらずそのベッドの向こう側にはクールビューティが澄まして立っていた。
 和臣はケバ子などと称したが彼女の容姿スタイル洋服センスの全てが、正直かなりハイクラスだと雪之は思う。
 指示された窓はその奥の物置のような引き戸の先にあるのだろうが、雪之が部屋に入ってから見ていた限り一番表情が動かなかったのはこのクールビューティだ。
 その気丈さを無視することが得策かは分からないまでも、バスルームから出るなりその右手扉の前で居座る原田の拳に嵌められたナックルを目の当たりにしてしまっては、やはり方法はそれしか無いのだろう。
 尾崎の座るソファーは部屋の奥で、今雪之が立っている位置からは真正面。
 斜め前に立つ和臣は別段構えるふうでも無く、
「いくら身内のホテルだからってここまでやるとマズいでしょう」
 壊されたガラス壁を外から改めて眺めて見せた和臣の言葉。
「それともそれ、改装費にでも回すつもりなんですか?」
 ひっくり返っているローテーブルの傍に落ちているのは、雪之が持参した銀行の袋だ。
 和臣はきっとそこへと視線を置いたはず。
「ひと部屋壊滅させた挙句にやっぱり逃げられました。じゃ、後々困るのは劉君の方ですよ」
 …?
 …りゅう、くん?
 雪之は和臣を見上げたが、疑念は尾崎の小さな笑いで打ち消された。
「原田が怖くて出るに出れねぇくせに。どこまでハッタリかますつもりでいるんだ?」
 考えが読まれていてもなお。ふん、と鼻で笑って見せてた和臣は、
「いいんですか、そんなに俺のことを見くびって? 喧嘩相手の技量を見誤ると痛い目にあいますよ」
 のそり
 とついに尾崎がソファーから立ち上がる。
 軽く顎を上げ、上から目線でふらりと歩み寄りながら、
「らしくねぇよなぁ。賢いガキが何でいちいちふっかける?」
「らしくないのはどっちです。これ以上俺達を拘束したって金目の物なんて出てきやしません。一体何にそこまで執着してるんですか?」
 尾崎は和臣とソファーとの中間辺りで足を止めた。
「…いちいち面倒くせぇ訊き方しやがって」
 吐くように呟くとジャケットのポケットに片手を突っ込んで、
「俺はなぁ、松前和臣を犯りてぇんだよ」
 ……
 言った本人より、言われた本人より…第三者の雪之が一番動揺したのだろう。
 いくら兆候を感じていたとはいえ尾崎がこうも明言してしまうとは予想だにせず。
 更に尾崎が歩み寄って来てるというのに自分に課せられた役目も忘れてパカンと口を開け呆けていると、
「俺を犯ったら金でも孕むとでも」
 戦闘はいつも唐突だ。

 ヒュン

 っと間合いを寄せていた尾崎の左拳が空を切る音についで、和臣がパンと振り払ったのは尾崎の左腕。
 背中を向けてしまった尾崎だが、背後からの反撃より先に放たれていた回し蹴りに和臣は避けるのが精いっぱいだ。
 杉など話にもならない尾崎の機敏さに、慌てて雪之はそこから駈け出した。
 気配で尾崎が振り返ったが、壁際のスタンドライトを手にした和臣に直ぐさま視線を戻してしまう。
 やはり尾崎の最終目的は和臣なのだ。
 悪鬼の餌食にはさせるまいと急いでベッド横を通り過ぎクールビューティの様子を窺いながら窓辺へと足を進めたが、それでも彼女はじっと雪之を見つめるばかりで動く気配すらない。
 美人の眼力はすさまじいが尾崎相手に苦戦を強いられている和臣が目に入り、意を決すると彼女からの視線を真っ向から受けながらも窓辺へとにじり寄った。
 壁伝いにようやく引き戸のつまみへと手をかける。
 ツーっと後ろ手に開いてしまえば、冷やりとした空気と闇の気配が漂った。
 確かにそこには窓が有るにはあったのだが…。
 あまりの静けさと暗さに雪之はクルリと身体を反転させ、鍵を開けると窓を開け放つ。
 予感的中だった。
 端とはいえどラブホテル街。
 直ぐ向こうには同じく別のラブホテルが有るだけで、大通りどころか裏路地すら通っていないのだ。
 人の気配も無ければ地上へと降りるようなルートも無い。
 しかも、
「寒いから閉めて貰える?」
 いつの間にそこに居たのか背後からの言葉と共に後頭部へとあてがわれた物に血の気が引いた。
 目の端にチラリと入ったそれは日本では一般人が持っているはずのない物。
 おもちゃ?
 の可能性は大いにはあるが、この場面でまさか。
 とも思う。
 正確な判断などできる知識は無く、言われるがままゆっくりと窓を閉めた雪之はグイと襟首を掴まれて、
「…和臣ぃ」
 情けなく呼び掛ける以外には、もう手も足も出ない。
 まだ持ちこたえていた和臣だが声に視線を寄こし…
 …大きな大きなため息と共に苦笑いで天を仰ぐと傍の壁へと体重を預けた。
 万事休す
 誰が見たってそう映るだろう姿だ。
 ゆっくり和臣へと歩み寄る尾崎に、
「おっ、尾崎さんっ! だから俺が… っ!」

 パン!!

 いきなりな乾音に瞬時に身をすくめて伏せたのは無意識の自己防衛本能。
 鼻に衝く火薬の匂いと、キーンと高い耳鳴りが消える間も無く再度しっかり頭に突き付けられてしまったのは銃口だ。
 この距離で頭を撃ち抜かれては即死だろうことくらい、今しがた床にめり込んだ銃弾を見れば素人でも分かる。
 ベッドの向こうでは勝利を確信した尾崎が和臣の手にしていたスタンドライトの柄を難なく取りあげ、そのままガラス片の方へと放り投げる姿があり、これから先に何が起こるかが分かっていても怖くて唇すら動かない雪之。
 棚に置かれていた液晶テレビやオーディオセットも無残にそこで廃棄物化している非現実空間とは対照的に、ベッドの上だけが妙に整然としているのが生々しい。
 切らしていた息は治めたようだが、まだ上気したままの頬に触れようとしたのか正面から伸ばされた尾崎の手を振り払った和臣。
 けれど、
「それはそれで楽しみ甲斐があるってもんだ」
 言って振り払われた手を拳に変えての攻撃を、クロスした両腕で受けた和臣の右脇腹に尾崎の加減のない左膝がまともに入り、勢いで傍のベッドへと倒れこんでしまった。
 脇腹を押えたまま顔を羽根布団へとうずめ咳込む。
 痛みで膝を抱え込もうとしたらしい足をおもむろに掴んだ尾崎は、
「行儀が悪ぃなぁ」
 黒のブーツを乱暴に脱がせると当人は土足でベッドへと乗り上げる。
 いや
 予想に反してその瞬間、和臣が素早く反転したかと思うと上半身を起こしつつ膝を引きベッドの上で後ろへとズリ下がって見せた。
 銃を突きつけられたまま身動きが取れない雪之の表情はずっと青ざめたままだが尾崎と向き合う和臣の口元に浮かんでいるのは薄い笑み。
 思わず雪之は目を見張る。
 睨み上げるその瞳がまるで誘っているように見えるのは、浅い堀をぼんやりと照らす赤いダウンライトの効果だろうか…。
 尾崎へ視線を移してみれば黙って目を細めているだけだ。
 そのまま胡散臭げに眺めていたが、更に奥へと身体を下げる仕草を見せた和臣につられるよう尾崎がベッドへと足を掛けると、
「焦らなくても逃げやしません。靴ぐらい脱いだらどうです?」
 薄笑いの言葉にさすがにキレもするだろう。
 ギシリとベッドへ上がり切り堀の上部へと手を掛けると右足で勢いよくその頭部めがけて蹴り付けた。が、素早く取った枕で和臣は顔面を頑なにガード。
 けれど当然力不足でボスっと上半身をそこへ沈めてしまい、即座に立て直そうとしたその腹部を土足で踏みつけた尾崎。
 掛布の沈み具合で加減など微塵もしていないことは明らかだ。
 尾崎の目的を思えば和臣が抵抗を試みるのは当然だろうし、雪之などではあの獰猛な視線の前に晒されただけで、許しを請うどころか泣くことすら敵わないと分かってはいても…それでも和臣の行動は相変わらず理解し辛い。
 キシッ
 っとベッドが音を立てたのは更に尾崎が加重したせいで、小さく咳をした和臣は顔の前からあっさり外した枕と共に両手をそこに投げ出してしまった。
 つまりそれは完全降伏の意思表示。
 正直なところ媚びない和臣の態度にまだ何か手立てがあるのかと期待していたのだが、無遠慮に馬乗りになった尾崎に無抵抗でいるのは手立てなど無かった、ということだ。
 …意味も無く尾崎を挑発してみせた?
 自問して雪之は微かに首を振る。
 有り得ない。
 細くしなやかな身体に覆いかぶさる尾崎の表情は雪之の位置からでは確認できないが、その引き結ばれた唇へと尾崎が食らい付く寸前、和臣の瞳に映し出されたのは絶望の甘受。
 雪之はペタンと座りこんだ。
 挑発はなけなしの防戦だったに違いない。
 内臓まで喰い尽さんばかりの凶暴な尾崎のキスに身動き一つしない和臣を見てはいられず、膝の上で握りしめた震える拳に視線を落とすとパタパタパタと落ちた雫に、初めて雪之は自分が泣いていることに気がついた。
 事の元凶である自分には泣く権利など無いと分かってはいても、そんな理性など既に制御不可能だ。
 情けなくも幼児のようにしゃくりあげ、こんな物を見せられるくらいならいっそ死んだ方がマシ…と、あらぬ方に思考が傾く。
 …そう
 大切な人を簡単に助ける手段があるではないか。
 身体を張るのは和臣ではなく自分でなくてはならないと。
 この位置から頭を打ち抜かれれば楽に逝けそうな気がして…
 迷う理由は無くクールビューティの足首にでも仕掛ければ希望は叶えられるとばかり床に手をついた時、
「…劉君」
 和臣の吐息のような囁き。
 僅かに雪之の決意が殺がれ耳をそばだてていると、
「香田と雪之の話。本当は誰から訊いたんですか?」
 何を今更…。
 尾崎も同じ疑問を抱いたかのようなタイミングでギシリとベッドのスプリングが鳴った。
 妖しく濡れた音の後、大きくついたため息は多分和臣のものだろう。
 止まらないベッドの軋みと衣擦れの音が耳ざわり…。
 と、
「香田の元マネージャー」
 面倒気な言い草。
「ヤク中?」
「もう使えねぇ」
「…なるほど」
 最後は言葉で無かったがそんな気配の後…
 静寂が訪れる。

 …
 …
 …

 ?

 俯いたままの雪之でも感じ取れるほど空気が張りつめている。
 そして、

「ごめんなさい」

 いきなり降ってきたその声がなぜ謝罪なのかは分からないが、雪之は全身をこわばらせて右手首のブレスレットを掴む。
 最後の瞬間は和臣の笑顔を刻んでおきたい…、と。

.............................................................

 かなり長い時間ギュッと目をつぶり歯を食いしばりながら右手首を握りしめていたように思う。
 けれど、

 ……

 待てど暮らせど訪れない最後の瞬間。
 しかもまた部屋の空気が変わった気配に、恐る恐る顔を上げた雪之は訝しげに眉間を寄せた。
 意外にも和臣の着衣にさほど乱れは無いが、伸しかかる尾崎に手足を絡ませているその姿は両者合意の構図に見える。
 なのに尾崎が身じろぎもしない…ことが違和感の正体だ。
 何か関節技にでも掛かったのだろうかと考えて、それならば今、雪之自身が無害でいられることの説明がつかないことに気がついた。
 彼女が雪之の真上で謝罪の言葉を発した意図も分からない。
 土壇場で和臣に見捨てられたのなら仕方が無いにしろ、見上げるなり眉間を撃ち抜かれるのは願い下げたい。
 単に覚悟が鈍っただけかもしれないが…。
 尾崎の首にがっちりと回している腕のせいで和臣の顔は一切見えなくて、無意識に床へとへたり込んでいる腰を上げた時、部屋にカチャリと金属音が響く。
 心拍数が跳ね上がった雪之だが、動いたのは戸口に居た原田だ。
 今さら施錠?
 なわけは無い。
 和臣に次いで雪之が部屋に入った時点で鍵は掛けられた事実を思い起こしている間中、物言いたげにジッとこちらを見据えていた原田が、おもむろに扉を開き部屋から消えた。

 …へ?

 しかも閉まり切らない扉から…
 ???
 そこから入って来たのはなんと塚原。プラス二人の男達で、
「うっひょ〜」
「なんとまぁ」
「よくもここまで」
 室内の惨状に呆れながらの言葉。
 ますます状況が分からなくなって、視線を戻せば尾崎は既にベッドの向こうで立っていた。
 そんな尾崎に視線を置いた塚原は、ニコッと場にそぐわない笑みを向け、
「いやぁ…有給休暇を楽しもうってうろついてたら知ってる顔、見かけたから茶目っ気で後をつけて来ただけさ。だからそう睨まなくっても、ベッドの上の君、歳いくつ? とか無粋なことは訊かないし、風営法に違反してるとかも言わないでおいてやる。ちなみに部屋は手付けずだが利用料は払って出るから、是非。修理代の足しにでも」
「そりゃ、おおきに」
 言い終わる間もなく返した尾崎は無表情且つそつの無い関西弁で、
「今後ともご贔屓にぃ」
 パァンと蹴り上げた小ぶりのオーディオスピーカーを間一髪で避けた塚原には見向きもせず、悠然とソファーへ歩み寄るとほったらかされていた銀行袋を拾い身体ごと視線を上げる。
 見ているのは掛布の上で胡坐をかいて、その短いやり取りを静観していた和臣だ。
 銀行袋を顔の傍に掲げた尾崎は、
「くれぐれも忘れんな。チャラはこの件だけだぜ」
 鋭い眼光でそれだけ告げるとポケットへと手を突っ込み、立ち並ぶ塚原達の間を平然と通り過ぎことも無げに退室。
 ギシリと軋んだスプリングに振り返れば和臣がベッドから床へと足をついたところだった。
「サンキュ」
 短い謝礼の言葉と共に、ポンと笑顔の塚原へと小さな細長い何かを投げて渡す。
 終わったんだ
 と悟った雪之だが和臣の表情はそれほど安堵を浮かべてもいず、その足でバスルームへと直行。
 そこから漏れ出る声で杉の存在を思い出し、次いでゆっくり傍に立つ人物を見上げて見た。
 初めて見るクールビューティの笑顔は何とも豪華で、
「お疲れさま」
 ゆっくりと明確にそう言ったあとパスンとベッドへ腰を落とすと、まだ座りこんだままの雪之など意にも留めずスレンダーな足を目の前で組んだ。
 その気になれば短いスカートの奥は丸見えだが、そうはさせない貫禄がある。
 無理やり視線をそこから剥がした雪之は、
「あの…」
 彼女が味方だったことは疑う余地が無い。
 しかし手にしていた拳銃が…
 シーっ
 っとばかりに軽く雪之の唇に彼女は人差し指を当てて見せ、
 ヒ・ミ・ツ
 唇だけでそう告げる。
 溢れ出る色気と漂う何ともいい香りに、
 プツン
 と糸の切れた操り人形のように倒れ込んだ雪之の身体は、けれど床にぶつかること無く強い力で支えられた。
 当然それは和臣だろうと思ったが、
「中学生相手に容赦無しかよ」
 声は塚原の物だ。
 フワリと抱え上げられそのままベッドへ寝かされる自分は自分で無いかのよう、全身の筋肉がどこもかしこもいうことをきかない。
 肉体的にも精神的にも限界はとうに超えているのに、意識だけはまだ残っていて…
「尾崎が誰かに容赦するところなんて見たことあるの?」
「無いけどなぁ…何もここまで破壊しなくたってと思ってさ」
「それは同感ね。あの性格で無意識無自覚の暴走されちゃ、誰も手に負えないっていうの」
「…んん?  っと、尾崎? が何にボーソーを?」
「あら、和君から聞いてないの? あんな工作員が使うみたいな小型武器まで貸しておいて?」
「念のため、って話だったんだが」
「ふぅん。認めたくないのは和君も、ってことなんだぁ。確かに遠く遠く確信から離れたがってたかしらねぇ」
「さっきから何言ってんだよ」
「ふふっ。尾崎は “松前和臣を犯りたい” って宣言して大暴れしたの。バスルームのガラスは別口だけど根本的な理由は同じ」
「それはほら、単なる嫌がらせってやつだ。尾崎が金以外の何かに執着する訳が無い」
「馬鹿ね、塚っちゃんって」
「……」
「もっとも、尾崎も和君も同じ穴のなんとかだけど…。そこでおねんねのボクちゃんくらいじゃない? ちゃんと事実を受け止めてたのって」
「ふん。目の前に並べたてられた事実を鵜呑みにするしかなかっただけだろう? 何も知らないってのが一番怖い…」
「色々知ってる私が言ってんの。特別な感情が無きゃあんなセックス仕掛けるもんですか、尾崎が前戯を知ってたなんてビックリもいいところ」
「ぁあ゛!!?  あの尾崎が前戯ぃ???  って、あ〜…はははは。なるほど、それで和臣君は険しい顔してバスルームに直行したわけだ」
「できるなら消毒液のシャワーでも浴びたい心境なんじゃないかしら」
 訊いて知って理解すべきことは山ほどあるようだが、雪之はとにかく思考が一切停止中。
 ただ全てのことが分からないまでも、せめて和臣にだけは伝えておきたいことがあって…。
 どうにか意識だけは保っていたが会話を認識できたのはここまで。
 和臣の気配も感じられないまま雪之ついに溶暗してしまった。




.......... + .......... + .......... + .......... + ..........

 あれ以降ほぼ連日の悪夢続きに雪之は完璧な寝不足だ。
 夢の中ででも何もできない自分のふがいなさに泣くばかりで正直、性も根も尽き果てている。
 結局今回もまた家まで送り届けてくれたのは塚原で、車の後部シートで雪之が目覚めた時には塚原以外誰もいなくなっていた。
 和臣が既に一報を入れてくれてはいたらしいが、塚原の勧めもあって瑤子へと電話をかけた後、塚原からことの次第をいくらか説明してもらった。


 まずあの部屋の惨状では今後問題が生じることにならないのかという点について…。
 あのラブホテルは和臣も指摘していたとおり尾崎の身内が所有している物だから、和臣の実力を知っていればそれなりの損害は覚悟の上なはず。
 もともと尾崎の行動はそれが前提だっただろうし、入口に18歳未満利用禁止のプレートを掲げている以上、騒ぎにして痛い腹を探られるようなこともしないのだ。
 中学生が連れ込まれた規約違反のラブホテル。
 などと噂がたてばホテル経営に響いてしまう。
 ただそれでもやはり尾崎サイドのホテルではあったから、呑まされた悪条件のデメリットを補うために塚原を呼んでいたらしい。
 もちろん塚原が知り合いを見つけて付いて来た、なんて説明は全くのデタラメだ。
 更に聞いておきたかったのは今回最も重要なポジションにいたクールビューティについて。
 彼女の存在無くしての成功は無かったはず。
 雪之から見れば最強の女神ではあるが、尾崎がこの裏切りを放置するとも思えない。
 その身を案じてみたのだが、彼女の言い分としては尾崎一派の幹部に抜擢される前から和臣とは親しい間柄にあって、だから別に尾崎を裏切ったわけでは無く不測の事態に陥っただけなのだという。
 そんな言い訳まさか通用するはずが…と誰だって思うだろうが、何でも彼女のバックには日本屈指の反社会団体が付いているんだとか。
 そんな人物にあのタイミングで秘密と言われたからには、塚原に拳銃についての説明を求めることはできないが、その入手ルートくらいは想像がつく。
 しかも平然と雪之の至近距離からぶっ放したことを考えると、そこそこ使いこなしているに違いない。
 ただこの後続いた話で、拳銃をどこかに隠ぺいしてしまった理由も判明した。
 なんと塚原は現職警察官なのだ。
 いくら人助けとはいえ、あんな所やこんな所にしれっと出没できる立場なのかは微妙だが塚原の黙認にも限度はある。
 自己防衛手段として申請義務の無い武器を借りることはできても、さすがに拳銃所持を見逃してくれとは頼めなかったということ。
 それにしたって…
「普通じゃ考えられない」
 雪之はそう言って本題を切り出した。
 塚原もクールビューティも、瑤子だって和臣の広い人脈の一人だろうし尾崎に至ってもまた、
「りゅうくん、って呼んでたけど」
 質問に塚原はああと頷きながら答えてくれた。
 和臣の父親の会社と尾崎の父親の会社とはいわゆる親子関係にあって尾崎が籍を置く父親の会社との絡みで以前から尾崎とも顔見知り…に毛が生えた程度の付き合いが少々有ったらしい。
 尾崎の会社はほとんどが同族で占められていて、知り合った当時小学生だった和臣は多くの尾崎姓の人間を区別するために成り行き上名前で呼んだことが始まり。
 それでもTPOに合わせて呼び方は変化しているらしいから、あの状況でわざわざ “りゅうくん” と呼んだのには、それなりの意味があったのだろう。
 認めたくなくても知ってはいるのだ、尾崎が向ける感情が何かということを。
 そしてその感情は清算しないと尾崎は確約して出て行った。
「和臣が無理やり襲われたりってことになったら俺…」
 と当然の心配を口にすると、塚原は静かな笑顔で首を横へと振り、
「尾崎が今回無茶をしたのはそれができないからだ。人質を取ってでも合意でしたって事実が無いと尾崎の立場が危なくなる。ラブホテルに呼んだのも、行けばそうなるくらいの想像はできたはず、って後付けの言い訳にしたかったんだろう。 親会社の社長の息子を強引に犯しましたなんて業界に知れ渡れば尾崎んとこは会社ひっくるめて一族で路頭に迷う羽目になるからな。一見するとあんな集団の実権握ってて年も上な分、有利に見えるかもしれないが実は尾崎にとって和臣君は雲の上の存在なんだ」
 聞けば聞くほど、和臣は桁違いだと再認識させられるばかり。



 …なのに自分はこんなにも無力でちっぽけだ。













「食事にでも誘ってみる?」
 朝っぱらからリビングのソファーでぼんやりとしている雪之に、テーブルでコーヒーカップ片手に新聞に目を通しながらの瑤子が問いかけた。
 手の中には外したブレスレットがあり、それをただジッと眺める雪之が日増しに憔悴しているのだから、その体調が気にならないはずが無い。
 瑤子が見る限り尾崎の件が片付いたことは事実のようだが、あれ以降雪之はろくに食事も取ってない様子で、事務所から帰宅すると大概家のどこかでこんなふうにぼんやり手の中のブレスレットを眺めているだけなのだ。
 和臣は電話口。雪之を家まで送り届けてくれた塚原なる青年は玄関先で頭を下げてくれたが、息子の危機を救ってくれた人物を恨んだり憎んだりするつもりは毛頭無い。
 精神的ダメージを受ける何かが有ったにしろ、悪いのはその種をまいた雪之なのだ。
 日にち薬、だとは思うが一向に浮上の兆しも見せない雪之の様子を見るに見かねての提案に、
 誰を
 とは言わなかったが、すぐに首を横へと振ってしまった。
 だからやはり原因はその人物でしかない。
 ため息をついた瑤子は畳んだ新聞をテーブルの隅へと置き、
「今の状況を自力で改善できないんだったら病院に行きましょう。このままだと近いうちに倒れてしまうわ」
 言葉に少し考えて見せた雪之は手にしていたブレスレットを握りしめ、また首を横へと振った。
「…雪之」
 ソファーから身を起こし、すくっと立ち上がるとキッチンにあったトーストをトースターにほり込み、
「別に食べられないわけじゃない」
 ボタンを押し下げるとマグカップにコーヒーを注ぎ入れる。
「…和臣にいっぱい迷惑かけたのに俺は何もできなくて。逢いたい…のは事実、だけど。別に和臣は俺を責めたりしてないんだろうって分かるけど…分かるから、ありがとう。ごめんさない、で終わることが嫌っていうか」
 ミルクをいつもより多めに入れ食器棚に凭れつつ、
「いっそのこと馬鹿野郎、って罵って殴ってくれた方が気が楽かもなぁ。とか、どうすれば俺自身罰が当たるんだろう。とか考えてたら時間が勝手に過ぎてるって感じ」
 随分唐突ではあるが雪之が素直に本心を語ってくれるのは喜ばしい。けれど内容的に問題を含んでいると思わざるを得ない。
 発想が妙に自虐的過ぎる。
「それは和臣君が雪之に罰を与えるためにわざわざ助けてくれたんだって解釈すればいいの?」
 ギョッとした雪之は手に持っていたマグカップを落としそうになって、
「ばっ! ちょっ…あちちっ」
 慌てながら、
「なわけ」
「無いわよね」
 特に抑揚の無い声で雪之の言葉尻を取った瑤子。
「あなたが力不足を反省することは悪く無いと思うけど、どうせなら無意味な罰を受ける算段より雪之自身を磨く努力をした方が建設的なんじゃない?」
 見上げた雪之は、
 は?
 といいたげな面持ちだ。
「もうすぐ試験でしょう? 高い学費払ってる分、成績に関係無く進級はさせてくれるけど試験結果は来年度のクラス編成に係わるわ。特にやるべきことが見つからないのなら少し頑張ってみたらどう? そこそこ力が付けば和臣君の高校に転入できる可能性だって有る、かも。しれない」
 “かも” を強調したのは実際のところ転入が可能かどうかは瑤子も分かっていない。
 とにかく何か分かりやすい目標を持たせたくて、ただ思いついただけの意見だが、それでも雪之の目が輝きを取り戻すには効果抜群。
 瑤子は心の内だけでため息をついた。
 和臣へと傾倒し過ぎる我が息子をどう理解してやればいいのか正直困惑している。
 こういう感情も日にち薬で、その内冷めていく想いなのだろうか。

 チィン…!

 っと鳴ったトースターにはっと我に返ると、焼き上がったトーストにジャムを塗りながらの雪之が、
「確かに時間を置いた方が逢いやすいかも…他にやること無いしね」
 妙案といった口調で確実に立ち直った様子の雪之に、さすがに否定的な意見を投げかけることは控えた瑤子。
 大人の分別ができる和臣の良識と、恋愛は一人ではできないのだという事実を自分にしっかり言い聞かせて納得するしか今は術がないだろう。





 そしてこの数日後、事態は思わぬ急展開を見せることになる。

.......... * .......... * .......... * ........... * .......... * ..........

 3年間ろくに机に向向かわなかったツケがすっかり溜まって、かなり大変な学年末試験になってしまったが、結果はともかく有るだけの力は出し切った。
 といった感想だ。
 更に教科書と素直に向き合って自分の実力をも痛感させれられていた…から、試験休み中もきっちり勉強机へと向かっている雪之。
 集中する何かがあれば気も紛れる。







 まじめに学生の本分である勉学に打ち込んでいる雪之の元へ、その一報が入ったのは正午過ぎのことだった。
 2泊の予定で出張中の瑤子からの電話での第一声は、

「香田とのことが漏れたの」

 言葉の意味が直ぐにはピンとこなかった雪之だが、
「そこにマスコミが押しかけるかもしれないから、外泊用の荷物をまとめてて頂戴。そうね、取り敢えず二日分くらい有ればいいわ…あとは私が戻ってから状況を見て考えましょう」
 言ってる傍から電話の向こう側で別の電話の着信音が鳴り響く音に、それ以上詳細を聞くことは断念し通話を切ると、とにかく指示された通り動くことにした。
 クローゼットから簡単に衣類を取り出しながら、何がどうなったのか自分なりに考えてみる。
 人で無しの尾崎が裏切った?
 いや
 それは有り得ない気がした。
 雪之の件に関しては筋を通すと言ったのだ。
 何か事情が変わった可能性も考えられるが、尾崎絡みで雪之の身が危なければ先に和臣が何がしか連絡をくれそうなもの。
 とすれば香田と雪之の情報を尾崎に喋った元マネージャーだとか、もっと他の誰か…雪之の知らない人間なら、もう想像しようも無いが多分その確率の方が高いだろうと雪之はザックリと詰め終えた旅行鞄のファスナーを閉める。
 と同時にまた電話が鳴った。
 相手はやはり瑤子、
「外の様子はどんなふう?」
 荷づくりの確認をし終えての質問にそっと部屋から見える全ての通りを確認したがマスコミはまだここまで辿り着いてはいないようだ。
「じゃあまとめた荷物を持って万年青(おもと)駅まで歩いて行ってちょうだい。別に変装の必要は無いし普通にマンションを出ればいいから。後のことは駅で何とかなるって言ってるわ」
 …誰が?
 とすら訊けないまま通話は切れた。
 とにかく瑤子がバタついているらしいことは分かる。
 抑え目色のダウンジャケットを羽織り、防寒の意味でニット帽をかぶった雪之は鞄を肩へと担ぐと部屋を後にした。
 エレベーターでエントランスまで下り辺りを見回したが静かだ。
 オートロックの扉を開き、もう一度ぐるっと見てもいつもと変わらない景色が広がるばかり。
 寒さで手袋を忘れたことに気が付いて、はーっと息を吹きかけた後ポケットへと手を突っ込んだ。
 取りに戻るのも面倒で…。
 立春などとっくに過ぎたとはいえまだまだ寒さの続く閑静な住宅街を、雪之はぶらぶらと歩いていた。
 未だ実感など湧かないが雪之が香田千雪の息子だということは変えようのない事実。そして、その事実がある以上今回の経緯は分からないまでも当事者以外の人間からも情報は漏れてしまう。
 父親の名前が持ち出されるたびに、他人に利用されたり逃げ隠れするくらいなら、いっそのこと公にすることも悪くないのかもしれない。
 そのことで地位や名誉や信用を失って困るのは自分では無く原因を作った両親にこそあるのだ。
 瑤子は、雪之の出産は香田も望んだことだったとはっきり言ったが、当の香田自身は未来永劫、雪之の元へと会いに来るつもりは無いのだろうし認知して養育費さえ払っていれば親としての義務が果たせるとでも思っているに違いない。
 しょせんその程度の父親なら、雑誌の写真やテレビ映像で雪之の姿を初めて見てガッカリすればいいのだ。
 やはり昔の女に産ませた子供に愛情など抱けないって…。
 そこでピタリと雪之は足を止める。
 瑤子に言われるがままマンションを逃げ出した自分が馬鹿みたいに感じられた。
 自分に不都合など無い。
 マスコミの前で事実を語れば済む話じゃないか…とクルリと踵を返した背中に、
「引き返してどうする」
 声でそのまま、またクルリと戻した雪之は、かなり奇妙な動きを見せたのだろう。
 振り返った先には、駅の柱にもたれたまま和臣が爆笑していた。
 …久々の再会。
 しかも雪之としては相当思い悩むはめになった張本人だというのに、腹を抱えて笑い転げているとはあまりにも緊張感が無さすぎだ、が…。
 雪之は静かに笑みを浮かべるとゆっくりと歩み寄った。
 気の利いた言葉なんかじゃなく、こうやって考える隙も与えないまま、わだかまりを取ってくれる。
 目の前で立ち止まった雪之の視線を、やはり笑顔で受け止めた和臣に、
「やっぱ好きだなぁ。和臣のこと」
 そう告げてもきっと和臣はこのままの笑顔で受け止めてくれるだろう。
 でも…



「やっぱ尾崎さんの仕業だったんだ?」
 言えなかった。
 繰り返し見た夢で自分の無力さを何度も痛感させられたのだ。
 こうしてまた会えた以上のことを望んではいけない。
「そりゃそうだよね。あんだけ部屋破壊して、幹部には裏切られた上、結局和臣にも逃げられたんだもん。何やかやいってもマスコミにリークしてもうひと儲けするくらいの仕か、え…し?」
 唐突に目の前に差し出された電車の切符。
 少しの間そこに印字されているそう高くない運賃を見つめた雪之だったが、問いかけようと口を開くより先に、ごく至近距離でにこっと笑顔を浮かべた和臣にいきなり腕を掴まれて、
「電車だっ、走れっ!!」
 勢いでつい切符を受け取り改札を抜け、ただただ…。
 ただ、ダッシュ!


















 勉強不足の後は運動不足まであだとなる。
 走った距離はさほどでもなかったのに、飛び乗った電車が走り出しても中々呼吸が整わない雪之は座席でゼイゼイと肩を揺らしていた。
 反してその隣では和臣が何事もなかったかのよう、背もたれにのんびりと体重をあずけながら、
「毎日部屋にこもって勉強ばかり、ってのもどうかと思うぞ」
 雪之の現状を知っているのはきっと瑤子が話したからだろう。
「マスコミにリークしたのは尾崎じゃなくて紫希なんだ」
「!!?」
 今更ながらの名前にさすがに驚きを隠せない雪之が荒い呼吸で目だけを丸くすると、苦笑いを浮かべた和臣。
「俺も、そこか。 とは思ったが…」
 少し考えて、
「試験以降部屋から出てないってことは紫希を切ったってことなのか?」
 雪之は小さく頷いて見せる。
 尾崎とは話が付いたからシキとも係わりたくない。電話も困るし家にも来るな。
 …ほぼそのままのセリフで終わらせた。
 尾崎の名前を持ち出せばシキに手の出しようが無いことは分かっていたから。
「まぁあんなことがあった後だ。綺麗さっぱり清算したい気持ちは分かるしそれを責めるつもりはないが、尾崎は尾崎で雪之が抜けた痕跡を早く抹消してしまいたいってのがあって、やっぱり紫希を袖にしたんだ」
 幾分おさまった呼吸で虚しいため息をつき、電車の床へと視線を落とす。
 シキはないがしろにされた上、蚊帳の外へと追いやられてしまった。
「当然分からないこと尽くしで納得がいかないから、コソコソと内部で動いて香田のことを探り出し、ついには可愛さ余って憎さ何とかの暴挙に出たんじゃないかと愛さんと俺は読んでる」
 マナさんとはあのクールビューティのこと。愛と書いてマナと読むのだが、
「杉は捨てられたが愛さんはそのままのポジションで尾崎のところに残ってるんだ。彼女の強力なバックには尾崎も世話になってるから、そう簡単には外せない駒でね。そのお陰で尾崎の知らない内々の情報もそこそこ取れるわけなんだが…」
 雪之が何も言わなくても勝手に疑問を解消した和臣は、
「塚っちゃんからも情報がひとつ。 紫希はマスコミに行ったその日のうちに、薬持って自首したんだって」
「…え?」
 マジマジと見入った雪之に、
「香田の件を突き止めた。までは目をつぶっても、それをマスコミにバラしたとなると尾崎も黙ってないからな。単純に腹いせのつもりでやったんだろうが直ぐにことの重大さに気が付いて、制裁の手が回る前に警察に逃げ込んだ。 まぁそれが得策かどうかは分からないが、紫希は塀の中で一度人生考え直した方がいい。あれだと大人になるより先に廃人になっちまう」
 確かにそうかもしれない。
 シキの薬への依存性がかなり強かったことは知っていた。
 再三再四、シキがそっちの世界へ引きずり込もうとしていたことを思えば、スッパリ切り捨てたことは後悔してないが、それでも今までの生活を清算するきっかけになってくれればと素直にそう思う。
 他人などどうでも良かったあの頃よりは少し周りが見えるようになった。
 それは和臣のお陰だと思うから、
「…ありがとう」
 変なタイミングだとは思いつつ、
「色々とまた動いてくれて…」
 この間の件も含めてやっと言えた。
 もっとも和臣の方はといえば、小気味いいいつもの笑顔を返しただけ。
 それ以上返さないのはきっとその意味を理解したからだ…くらいの判断は付くようになった雪之だが、この笑顔の仮面がいかに曲者であるかを熟知するまでには未だ至らず。

.......... * .......... * .......... * ........... * .......... * ..........

「松前君も是非一緒にお話を…」

 人懐っこい可愛い笑顔でそう言ってくれなければ、雪之はきっと即座にこの場を放棄しただろう。
 提案にかなり不満げな表情を見せ反論を口にしかけた石川なる人物を落ち着いた眼差しひとつで諭したのは香田千雪。
 …そうなのだ。
 何の前触れも無く、いきなりな不意打ちで雪之は今まさに父親と対面したところだった。
 特急電車を降り、徒歩で数分。
 和臣に案内されたのは通勤通学に最適な立地条件であろうデザイナーズマンションで、その1室へと向かう途中和臣の父親の会社名義で借りている部屋に入るのだと説明を受けた。
 マスコミ対策にここでしばらく暮らすことになるのかと思って荷物を身近な部屋の隅へと下ろすや否や、まるで雪之達の後を追って来たかのようなタイミングで部屋のインターフォンが鳴った。
 事情を知っている和臣が程なく部屋へと通した面々が、香田夫妻とそのマネージャーである石川。
 お互いの挨拶も終わらないうちに部外者だと踏んだ和臣をこの石川が部屋から追い出そうとしたのだから、雪之が目を剥いてしまったのもある意味頷ける。
 その仕草に素早く気付いた香田夫人が機転を利かし発したセリフが先ほどの、
“松前君も是非一緒にお話を”
 だったのだ。
 香田の元マネージャーが薬物中毒になった挙句、超機密事項までも喋ていた。
 という事実を考慮すれば、石川が過敏になる理由も分かる。加えて部外者の自覚も当然あるわけだから自身が席を外すことには何ら問題はなかった和臣なのだが、雪之にガッチリと腕を掴まれてしまっては香田夫人の申し出を断るわけにもいなかい。
 了解の意を含めてにこりと返した和臣に彼女が向けた笑みは何か曰くありげではあったが、その辺りは素知らぬ振りを決め込んだ和臣。
 その場に居た全員と共にリビングへと足を踏み入れることとなった。











 テレビに映るトーク番組の画面がそのまま目の前にある。
 生き別れの肉親が居るというよりは、そんな感覚で雪之は目の前のソファーに掛けている父親夫婦を眺めていた。
 威圧的な態度など微塵も感じさせないのに、全身からあふれ出る華やかなエネルギーに気押されている自分に意味もなく内心舌打ちしながらも感傷的に泣くなり怒鳴るなり。ではなく、
 何なんだ
 以外には心にも頭にも一切何も浮かばないでいるのが正直な感想。
 けれど無表情の雪之とは対照的に正面に座る二人は過ぎるほど満面の笑顔で雪之を見つめながら、
「来てくれて、本当に有り難う」
 感謝の言葉と共に、より一層深々と頭を下げたのは千雪だった。
 雪之の言動を見れば父子対面の事実を知らされていなかったことは明らかであったにも係わらず、それでも心底会えて嬉しい…という感情がありありと伝わってしまい、雪之も知らず小さく頭を下げてしまっていた。
 その拍子でしっかりと掴んだままの和臣の腕が目に映り、きっと変に思われてるだろうと思うのだが、今この手は離せない。
 何となく気まずく顔を上げてみるとにっこりと微笑む夫人の美穂と目が合って、
「素敵な彼氏ね」
 奔放過ぎる、いきなりな指摘に、
「ちっ!」
 全身が心臓になったかのような形相の雪之が、
「ちちち」
「…違う?」
 忙しなくコクコクコクと頷くと、
「でも」
 美穂が意味深長な視線を向けた先には、それでも和臣の腕を掴んだままの雪之の手。
 離して見せれば済む物を、
「ままままだまだまだっ」
 馬鹿みたいな音だけを口走ってしまったから、
「つまり、片想い? なんだ」
 浮かべた含み笑いは夫婦揃ってで、直ぐ脇からは呆れたため息がもれた。
 …俺って史上最悪の馬鹿。
 と、大きな後悔に見舞われている雪之だったが、
「好きな物を好きだと主張することは悪いことじゃない」
 穏やかな声にほんの少し間を置いて視線を上げる。
「私と美穂。それから瑤子もずっとそうやって生きてきて、誰も後悔してはいない」
 静かな笑みが深みを増したことで、言葉がその場しのぎの嘘ではないと見てとれた。
 黙って見つめ返した雪之にそのまま視線を置きながらの千雪は、
「私は役者、瑤子は起業。お互い夢に向かって走ってる姿に惹かれ合ってた。だが夢が現実になるにつれ極端に会える時間が少なくなって」
 どちらも夢を捨てられなかった
 と、同じことを瑤子も言った。
「妊娠に気付いたのは別れた後だったらしいが、美穂が私達の結婚を報告したいからと瑤子に会いに行かなかったら、雪之の存在すら未だに私達は知らずにいたんだと思う」
 初めて名前を呼ばれたが、違和感無く受け止めてしまったのは血縁のなせる技なのかもしれない。
 だから雪之が少し目を細め首をかしげて見せたのはそれが原因ではなく、
「私と瑤子ちゃんは学生時代からの友人なの」
 やはり敏い美穂が笑顔で疑問を解消すると、
「多分私達が付き合い始めたことを知って妊娠のこと、瑤子ちゃん黙ってたんだと思う。 あっ、でも妊娠に困ってたとか腹いせに産んでやろうとか、絶対そういうのじゃないのよ。瑤子ちゃん純粋に子供が産めることを喜んでたし幸せそうな顔してたもの、父親がいなくたってちゃんと育てるんだ、ってね。でもホントはね」
 雪之を見ていた瞳を僅かに外し、
「私が子供を産めない身体だって知ってたから、遠慮してくれたの」
 言った笑顔が悲しくて雪之は静かに視線を落とした。
 大嫌いだった大人の分別もこうやって聞けば悪い物じゃない。
 …みんなそれぞれ事情があって、それを呑みこんで生きている。
「だが」
 少し前かがみに身を乗り出した千雪の声にまた視線を戻すと、
「そう何もかもが瑤子の筋書き通りに進むものでもないし、勝手に進ませるつもりには、とてもじゃないがなれなかった。瑤子の覚悟は理解できるが私だって雪之の親なんだ、居ないも同然の扱いになんてできる訳が無いだろう? 係わってくれるなとは言われたが半ば強引に認知して養育費を送りつけた。雪之の親として、私がちゃんと存在していたかったんだ」
 その強い瞳の輝きと真っ直ぐな主張に、疑いを掛ける余地など無かった。
 綺麗事を言っているのでは無い。
「とは言ってもまぁ、瑤子が私達と係わりたがらなかったのには、こういう事態を懸念したって理由も有ったんだ。多分これから誰が喋ったかも分からないようなことを、もっともらしく書き立てられて報道されてしまうだろう。私たち当人は事実を知ってるし何を言われても構わないが雪之はそうじゃない。私の実の子供だからといって世間の娯楽対象になっていい理由にはならないんだ。が」
 千雪はそこでプチっと言葉を止め、少しぬるくなったであろうテーブルのコーヒーカップへと手を伸ばした。
 至極まじめに話に聞き入っていた雪之が少々不振の面持ちでその姿を目で追っていると、
「ごめんなさいね。私たち一方的に話をしちゃって」
 言ったのは美穂だ。
「雪之君に拒否されないうちに説明しておかないと、って焦って勝手に話しちゃったけど大丈夫? 瑤子ちゃんの性格だと今の内容、ほとんど雪之君に伝えてないんじゃない?」
 小さな笑みで雪之は頷いて見せた。
 瑤子は千雪との経緯を説明してくれてはいたが二人の話を聞く限り、それはほんの一握りでしかなかったようだ。
 そんな瑤子の本質をよく理解している辺り、確かに美穂は瑤子と友人関係…いや。美穂の身体のことまで知っていることを考えれば親友と呼べる間柄だったのだろう。
 彼女の穏やかな笑顔を見ながら漠然とそう思ってふと、

“香田と雪之の話し。本当は誰から訊いたんですか?”

 あの時は今更だと感じたその質問の真意に思い至った。
 もし和臣が尾崎からその事実を聞き出してくれていなかったら、雪之は生涯この笑顔を疑い続けなければならなかっただろう。
 さすがに今日のことまで見越していたとは思えないが、それでも…
「学校の先輩なのかしら?」
 雪之がじっと和臣を見つめる姿に目を細めた美穂の質問。
 和臣とそろって視線を向けると答えを待たずに、
「やっぱり同性だと難しい?」
「そそっ、そういうことじゃないんですっ」
 和臣に向けた問いかけだったが答えのは雪之。で、
「…だそうです」
 言った和臣にやはり夫婦でクスクスと笑いつつ、
「松前君が一緒に来てくれるなら雪之も心強いだろうが…。しっかりして見えてもまだ高校生なんだろう?」
 和やかな空気に溶け込むような口調で、ゆったりと千雪がそう言った。
 当然、
「? …一緒に、来る? ってどこ…へ、ですか?」
 訊いた雪之に、
「実は今回の騒動、抑えようと思えば抑えられたんだ。雪之はまだ中学生だからね。事務所に一報が入った後それこそ10数年振りに瑤子と直接話をしたんだが、もう雪之の存在を隠すのは止めようってことで意見が一致した。誰もやましいことはしてないのに強請られたり集られたりするいわれはない、ってね。小池って前マネージャーの一件もその時に初めて聞いて…本当に迷惑をかけて申し訳なかった」
 再度深々と頭を下げた千雪は少し間を置いた後、
「今からする話は今後の進路の選択肢の一つとして聞いてもらいたいんだが…」
 確認するよう隣に座る美穂に視線を向けると彼女は静かに頷いた。
 千雪は雪之を真っ直ぐに見つめると、
「私達と一緒にロスで暮らさないか?」


 過度の動揺を受けると前後不覚になるらしい。

 と、比較的最近自覚した雪之。
 尾崎との時にもそれに陥ったが、思い返せば初めて香田千雪が父親だと聞かされた時にもその状態であったように思う。
 瑤子はあの時に一度、養育費のことも含めていくらかの説明をしてはいたのだ。
 勝手な思い込みと勘違いで随分色んな人に迷惑をかけてしまったが、それでも捻くれた生活がきっかけで和臣と出会えたことは唯一、怪我の功名だったといえるだろう。
 日本に居れば当分落ち着いた生活は望めない。
 どの道学年の変わり目でもあって、だったらいっそ…というのが香田夫妻が現在居住地を置くアメリカ・ロサンゼルスへと雪之を招いた最大の理由。
 それに加えて日本以外の国で生活経験を持つことは雪之にとっても今後大きな財産になるはずだからと、雪之へと後から説明したのは実は和臣だ。
 突然空から降って来たような提案にやはり混乱していた雪之が普段の自分を取り戻したのは香田夫妻が帰る間際だった。
“無理強いをするつもりはないから…。日本でこのままの生活を続けたいならそれはそれで全面的にバックアップする。だからゆっくり考えて答えを出せばいいから”
 しっかりした口調でそう千雪が告げた後、
“今度帰って来た時は一緒にご飯、食べましょうって伝えておいてね。瑤子ちゃんに”
 来た時と同様に可愛らしい笑顔で美穂からそう言付かり雪之も笑顔でハイと頷いて見せると、別れを惜しむ暇もなく機械的にマネージャーの石川がしゃしゃり出てきて、そそくさと二人を連れ出してしまった。
 どうやら年末からロスに滞在中の香田夫妻はこれだけのために極秘で緊急帰国したらしく、この後空港へと向かいロスへととんぼ返りするのだそうだ。
 それを思うと夫妻と対面を果たせたことは雪之たち母子にとってもやはり怪我の功名となったに違いない。
 昔々のわだかまりはもう捨ててしまってもいい頃だ。
 そして…


「一体全体何なんだ…」
 二人が去って程なく、今度は瑤子が部屋へとやって来た。
 ニアミスだったのでは無く瑤子がわざと因縁の四者面談を避けたらしい、出張先からは午前中に戻って来ていた。
 それぞれにとっていきなりな出来事ではあったのだが、やはり事情に疎い雪之には衝撃的な告白続きで、
「騙すつもりはなかったんだけど」
 さすがに母親の前では表情をつくろうことなどできないまま。
 やや疲れ気味ではあるが、
「うん」
 とだけ瑤子へと頷けたのは受け入れることには成功したのだろう。
「学校には香田の事務所から連絡入れてくれたらしいけど、会社にもマスコミが来てるし電話回線がパンクしちゃって大変なの。松前社長は最初から無期限で、とも仰ってくださってるから、お言葉に甘えてしばらくここで居させてもらいましょう」
 提案にやはり小さく頷いた雪之。
 自分を守ろうとしてくれる人間はあちこちに居て、少なくともここに居る限りは和臣と繋がっていられるのだろう。
 もちろん学校が始まれば騒がしくはなるだろうが、日本に残ることもさほど悪い環境ではないようにも感じる、けれど。
 雪之は膝の上に置いている右手を見つめた。
 香田夫妻が帰るまでずっと和臣の腕を掴んだまま離せなかったこの右手の跡は、くっきりと和臣の腕に残ってしまっていた。
 和臣は顔色ひとつ変えること無く静かにそれを受け止めてくれていて、しかも謝る前に軽く笑って流されてしまった。
 …きっと甘えればとことん支えてくれるだろう。
 だがそれは恋愛という意味では無く知人の息子として、もしくは頼りない年下の友人としてでしかない。
 今の雪之と和臣では余りにも格差が有りすぎるのだ。
“買えるほどの何かを持っているのか?”
 商店街でそう言われた頃を思うと和臣との係わりはすっかり変わったが、和臣からの恩を買えるほどの何かを持ってないことは未だになんら変りは無く、和臣がそれを望むほどの何かを見つけない限り、決して自分が和臣の恋愛対象にはなりえない気がした。
 だとしたら…
「…じゃあ、俺はこれで」
 ソファーに身を沈めていた雪之はその声で慌てて顔を上げると、いつの間にかジャケットを手に瑤子へと頭を下げる帰り支度の和臣が目に入る。
「色々と本当に有難う」
 それを受け笑顔で送り出そうとしている瑤子にも驚いて、
「和臣?」
 もう少し
 せめて考えがまとまるまでは傍にいて欲しい。
 と、ありありと表情に浮かべている雪之へ視線を置いて、
「俺はどこにも行かない」
 静かな笑顔のまま、
「逢いたくなればいつでも来ればいいんだ」
 言葉に目が覚めた思いの雪之。
 和臣は逃げも隠れもせず待っていてくれる、雪之がどこへ行こうとも待っていてくれる。
 だから多分この瞬間に心は決まったのだ。
 大きく羽ばたいてみたい、と。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 優しく降り注ぐ穏やかな春の日差し。
 門の直ぐ傍にある花壇の囲いに腰を掛け、丁度見頃の桜の花をじっと眺めていた。

「久し振り」

 掛けられた声に振り向いた雪之は降り注ぐ日差しと同じく穏やかな笑みを浮かべて見せる。
 その視線の先。
 公道を挟んだ校舎側の門から歩み寄って来たのは、澄ました笑顔の和臣だ。
 不良風、大学生風の装いも知っているが、こうやって校舎をバックに制服姿で立っているとやはり普通に高校生なのだと思う。
 立ち上がった雪之へと、
「取り敢えずコーヒーでいいか?」
 何も訊かないうちにそう言ったのは、きっと今日雪之がやって来た理由を察しての言葉だろう。
 頷いた雪之を確認したあと雪之が座っていた花壇の後ろ辺りを指差して、
「適当に座ってろ」
 言い置いた和臣はその場をいったん離れた。
 そのスラリとした後ろ姿をずっと目で追っていた雪之だが体育館らしき建物へと和臣が見えなくなるとようやく歩き出し、指差された周りを少し散策すると一番、人目に付きにくそうな場所にある切り株型スツールに腰かけた。
 …3月も残すところ後わずか。
 部活動に出向いている生徒の気配はあるものの、休暇中の学校はとても静かな場所である。
 しかも手入れの行き届いた園庭と情緒あ溢れる木造校舎に小さな池まであればもう、絶好のデートスポットだ。とどうして誰も気付かないのだろうかと思ったりするが、用も無いのに生徒は学校になどやっては来ないもの。
 わざわざ生徒会執行部に入って休日まで登校している和臣は、基本的に人間好きなのかもしれない…ではなく、好きなのだ。
 人と係わることが。
 きっと和臣は将来とてつもない数の人々に囲まれて生きていくのだろう。
 雪之は優雅に泳ぐ池の鯉を眺めながら小さくため息をつく。
 その膨大な人脈の中で唯一無二の存在だと認めてもらいたいから決めたのだと知っておいて欲しかった。
「今さらマスコミ対策か?」
 いきなり掛けられた言葉に振り返るより早く、目の前へと差し出されたのは湯気の立ち上る紙コップ。
「ありがとう」
 言って受け取る間に隣のスツールへと和臣も腰をかけ、
「中学に入ってからの写真が見事に無かったって所長、嘆いてたぞ」
 呆れたような言い草だ。
 あれからの騒動は本当に大変で、それは未だに継続中ではあるけれど素早く雲隠れした雪之の元までは、まだどのマスコミも辿り着いてはいなかった。
 中学入学前にグレてしまった雪之がカメラの被写体になることを極力避けてきた、というのがその大きな要因。
 瑤子が学校行事に参加できないことが多く、記念写真などではいつも教師と一緒。というう寂しい思いをしてきた反動が出たのかもしれない。
 中学に入ってからというもの、遠足に体育祭に文化祭。
 その他のイベント事も含めことごとく欠席していたから、うっかり誰かのカメラに収まることも無く、気付けば教室で同級生が向けていた携帯電話をへし折るという強襲に出たこともと有るほどのカメラ嫌いになってしまっていた。
 だがその悪行が意外にも今回は吉と出て、
「あの写真で俺って分かるの、親か和臣ぐらいかな」
 世間に知れ渡った雪之の顔は、まだまだ真面目だっ頃のしかも小学生時代の物ばかり。
 その上テレビや雑誌では一応雪之の年齢を配慮して、未成年犯罪者のように目隠しされているのだから、普通に街で買い物をしても誰にもバレたりしないのだ。
 それを思えば、
「万引きの時ってさぁ、俺って分かって助けてくれたんだろ?」
 良く見破れたと感心していた雪之だが、まるで期待を裏切るかのように、和臣からは短い否定の言葉を返されてしまった。
「あれは単純に万引きを止めただけだ。やってる方は遊びのつもりでも店にとってはそれなりの損害になってしまう。俺は好きで馬鹿やってる人間に興味は無いから、正直なところ振り返った雪之の顔見ても知ってる奴…って思った程度であの時は済ませた。あの小見島雪之だと気がついたのは放課後だったな、確か」
「…じゃあ倉庫から連れ出してくれたのも、たまたま?」
 ガッカリ気味に訊いた雪之に、
「そっちはちょっと微妙だな」
 また軽く否定の意を表した和臣。
「あの日は尾崎絡みのトラブルが別にあってな、そっちの調整付けてる時に雪之が顔見せに来たんだ。尾崎の怖さを分かって無いんだろうとも思ってたが、そう何でもかんでも首突っ込んでるほど俺も暇じゃなくってね」
 試験前だと言って帰ってしまったことを思い出す。
「念のため帰りに様子を見に行ったら薬で飛んでやがるしヤル気満々だしで、すっかり馬鹿らしくなって捨てて帰ろうかと思ったら…。泣いたんだ」
 雪之は顔を上げる。
 見つめ返す涼やかな瞳が、それは雪之のことだと肯定していた。
「…」
 全く記憶には残って無くても心底シキとしたくなかっただろう気持ちは今でも分かる。
 自嘲気味にため息をついた雪之に、
「紫希に絡まってヘラヘラ笑ってても、それが雪之の本心だと思ったから一度だけチャンスをやった。動機は不純だったにしろあの場を放棄したのは雪之の意思だしそのチャンスを有効活用したのも雪之自身なんだ。尾崎との件はとっくに終わったことで、それ以外の話は雪之には関係無い。だからあの日のことはいつまでも気に病む必要もなければ、逆に覚えてられる方が迷惑するんだぞ」
 雪之がずっとその話に触れないことを汲んでの言葉。
 気遣いも有るが口調からすると、純粋に忘れて欲しい気持ちもあるようだ。
 コクリと雪乃が頷くと、取り敢えず一区切り。
 といったふう和臣が手にしていた紙コップへと口をつけたから、雪之も両手で紙コップを持つとそっとそこへ唇を寄せる。
 暖かい。
 …よりは高めだがちょうど飲み頃の温度。
 雪之好みは砂糖なしのミルクだけ、ということをなぜか和臣は知っている。
 そんな些細な出来事ひとつ取ってもやっぱり凄いと思うから…。
「見送りには来れないんだって?」
 明日、雪之はアメリカへと発つ。
「遠慮してくれた…って母さんと、それから美穂さんも言ってたけど」
 アメリカで雪之が生活するに当たっての段取りは、両国を飛び回って美穂が全てやってくれた。
 元より親友同士の瑤子と美穂だ。
 再会を果たせば10数年の垣根など一気に吹き飛ばし、気がつけば母親が二人居るような状況に有り難いといえばそうなのだろう。
 親子水入らずで雪之の門出を祝おうという場面に、それこそ水を差すつもりは無いと和臣から辞退したそうだが、
“パスポートさえ用意できるのならチケット余分に取っておくけど? 生活に必要な物は向こうで一式揃えられるし、薬でちょっと寝てる間にでも連れて行っちゃえば結構平気で馴染んじゃうタイプよ”
 などと言った美穂のその提案に瑤子が裏で画策したことが招いた顛末だ。
“お得意様の大切なご子息を誘拐するのは止めてちょうだい”
 当日和臣が空港へは来ないと知って雪之以上にがっかりした美穂に瑤子がピシャリとそう言った。
 まさか提案を本気になどしてないが、雪之の想いを後押しし過ぎるその態度が気に食わないらしい。
 世の中そんなに甘くはない
 雪之にはそう忠告した瑤子。
 けれどあれ以降マンションには一度も顔を出さなかった和臣が、今日なら学校で捕まるはずだと知らせてくれたのもまた瑤子だ。
 複雑な母親の心境がうかがえる。
「あの小見島所長が一人息子をよく手放す気になった、って親父が褒めてたぞ」
 言葉に雪之は苦笑い。
 もちろん瑤子に葛藤はあったのだ、ずっと二人でやってきたから…。
「俺も不安はあるし母さんひとりにするのも…って話もしたんだけど、母さん天邪鬼なとこあるから、心配されると逆に家を出るように勧めてきたりして。まぁだったら俺もそれでいいかって思ってさ。知ってると思うけど結構強いんだよ、母さんって」
 何の抵抗も無くそう言えるのは、ひとつ壁を越えたのだろう。
「父さんと美穂さんも上手く助言してくれたしね」
 都合が付かずあれ以来直接会うことは無かったが、千雪はマメに電話をくれていて気さくに何でも話してくれる。
「そういえば」
 そんな千雪が面白いことを言った。
「父さんがさぁ、俳優になりたいなら面倒見るってさ」
「…何だいきなり。大体いつ俺が俳優志望なんて言ったんだ」
 突飛な話題転換に複雑な笑みで和臣は返す。
「自分の父親捕まえて言うのもなんだけど、あの香田千雪を目の前にして全く気後れしない和臣は肝が据わってるってさ。見た目も悪くないんだし俳優目指したらどうかって…、それに」
 少し考えてみせた雪之。
「尾崎さんとの時、和臣。顔だけは必死でかばってたじゃん。顔に怪我して困る理由ってタレント志望、くらいしか思い浮かばないから」
 途中でグフっと和臣が噴き出した。
「そんな笑いかたって…」
 不満げに言った雪之へと、いやいやいやと笑いながら訂正の仕草を見せられても…。
「…それは生徒会役員が見るからに顔に喧嘩の傷跡つけて学校に居れない、ってだけの意味だ」
 まだ含み笑いの和臣は、
「所長がな、雪之が芸能界に影響されやしないか心配してたんだが、こういう意味だったんだなと思って…普通の発想じゃないぞ、それ」
 などと指摘されたが雪之は特に反論せず。
 意識したつもりはないが、千雪と親しくなってくれればいいと考えたことは否めない。
 影響されているのは芸能界にではなく父親夫婦にだ。
 と、
「だがまぁ」
 静かに続けた和臣。
「安心した」
 笑顔を向けて、
「それくらい柔軟性があれば大丈夫だ。向こうでもやって行ける」
 …泣きそうになった。
 ちゃんと気にかけてくれていたから。
 潤んだ瞳を見られたくなくて、顔を隠すよう身体をかがめ地面へと紙コップを置くと、
「これ」
 体勢を戻しついでに空いた右手をポケットに入れ、
「預かってて欲しいんだけど」
 そこから雪之が取り出したのはあのブレスレットだ。
「和臣にまた会えますようにって思って着けてたけど…これ、思ったより効果絶大だったから」
「それなら」
「だから」
 言葉をさえぎって、
「持ってたら気持ちが頼り過ぎるから今はいらない。俺決めたんだ、和臣に認めてもらえるような男になろうって。和臣に支えてもらうばかりじゃなくて、俺も和臣を支えられるくらい強くなろうって。だから和臣が俺の力が必要だな、って…俺じゃなきゃ頼れないって思えるくらいになった時、返して欲しい」
 未来永劫そんな日は来ないかもしれないが、これからの努力はきっと何かの形で返ってくる。
 そう信じることは無駄では無いはず。
 雪之の決意を悟った和臣が笑顔で頷きながら取ったブレスレットごと手を握り、もう片方の手で掴んだ制服のネクタイを強く引く。
 さすがに驚いたのか、薄く開いた和臣の唇が言葉を紡ぐ前に素早く塞ぎ、

“絶対好きにさせてやる”

 心の中で誓ってみた。













「退学になったってロスには行かないぞ」
 それでも、至って冷静な和臣。
 だが、短いキスの後ヒシと抱きついている雪之を振り払わないでいてくれることが嬉しくて、感じる和臣の呼吸と温度にもっとを望まずにはいられない。
 だからこそ…。
 その温もりを忘れないよう渾身の力で和臣の身体を抱きしめて、
「じゃあ」
 すっくと立ち上がり未練を断ち切るようそこから数歩踏み出して振り返る。
「元気でな」
 頷いて、
「行ってきます」
 鮮やかに告げると、
「おう、行ってこい」
 あの大好きな笑顔でそう返し、和臣は人差し指と中指をクロスした手で軽く敬礼。
 その意味を理解して雪之も指をクロスした手で小粋に投げキッス。
 満面の笑みを残しその場を後にした。
 また返って来るその日まで和臣にも



 Good luck(幸運を!)
































あれはかれこれ4年前。
長期育児休暇後のやる気満々状態で意気込んでいた頃のこと…。

1万ヒット記念の企画として行った、新キャラクター募集に参加いただいた方からのご意見をベースに作成したお話しです。

書くまでもなくですが
“小見島雪之”
が、ご応募いただいたキャラクターです。


フリーらしい松前和臣と繁華街で出会った「はきだめに鶴」状態の中学生、小見島雪之とを…。
と頂戴したリクエスト。
…仕上がるまでに長く掛かりすぎましたね(~_~;)

しかもご希望に添えたのは冒頭のみ、かもしれません。


何やら中途半端に終わったのは、松前和臣が私の中ではまだ、どうするか決まっていないキャラクターのひとりだからです。
なので今の本編の時期より過去の設定で今の学園には直接関係なく更に今、居なくても不思議でない理由が成り立つようお話しをつくりました。
時期としては『月に願いを』から『Angel eyes』までの出来事です。


作品中でも示唆しておりますが小見島雪之はいずれ帰って来ますので、その時には可愛がって頂ければと思います。
松前和臣との今後もどんな形にしろ何れ決着がつくよう方向性を持って考えるつもりです。




さてさて。
連載中にサイト存続の危機もあり完結できないかと思いましたが、どうにかこうにか仕上げることができました。
企画に快くご参加いただきまして本当に有り難うございます。


そして今回もまた最後までお付き合い頂いた方々に深く感謝いたします。

また、次の作品でお会いいたしましょう…。






2010.2.13 杜水月


















作:杜水月
ホーム > 小説 > 某学園シリーズ番外編 > 立志


ご意見・ご感想・ご質問等は 杜水月 まで。
当サイトの無断転載はご遠慮ください。

(c) 1999 Mori Mizuki all