f

 influence

。.....序.....。


「そりゃぁ、試験どころか地区予選も控えてるってのに何休んでんだっ、とは思ったんだけどな」
「その症状じゃねぇ…」
「いきなり39℃超えて、関節痛とは気の毒に」
「たちの悪い夏風邪にでも引っ掛かったか?」
「それがな」
 少しもったいぶりながら会話の応酬を止めたのは近頃学園では名物の一人となっている森丘美都だ。
 1年生の頃から彼のその物怖じしない容姿風貌のお陰で、そこそこ名の通った生徒の一人ではあったのだが2年に進級し元来校内では有名人の筆頭であった橘郁松前和臣と共に行動していれば人目を引かないわけがない。
 しかも、これまた学園一の美女と誉れ高い白河亜美も一緒なのだ。
 月曜日の1時限目開始前、2年1組の一角でその4人が雑談していたのだが、
「インフルエンザぁっ???!」
 その整った綺麗な二重を見開いてとっぴな声を出したのは亜美。
「…って、7月だぞ。今」
 俄かに信じられないといった口調で呟いたのは郁で、
「だろ? あいつに限って嘘は無いとは思ったんだが、見舞いがてらに電話して訊いたら事実だって言うしな。まぁ薬で熱とかは下がってるらしいけど、出席停止の疾患だから今週はどうにもならないんだとさ」
 それなりにガッカリはしているのだろうが、どうにか高校球児にとっての最大のイベントには支障がないと踏んだのか美都の声色は随分穏やかだ。が、誰気づく間もなく普通の笑顔を微妙に曇らせている和臣が、
「我が校の名ショートは沢村威吹と仲良しなのか?」
 言葉と共にざっと見回した面々の顔がキョトンとしている。
 いきなり何を言い出したのかと、一斉に皆の注目を浴びた和臣は、
「1年5組の沢村って知らないか? 愛想のいいアイドル系の見てくれで入学当初は評判良かったんだが、とっかえひっかえ女を変えるもんだから最近人気も下降気味」
「んなやつ長谷部と関係ないだろう」
 和臣の言葉を奪うようそう言って小さく息をつきながら椅子の背もたれに体重をかけた美都。
「別に“大”が付くほどの親友ってわけじゃないが、実直で努力家な長谷部とそんないい加減そうな1年坊主がどうすると仲良しになるんだ。実は幼馴染みでしたとかそんな口か?」
 和臣は小さく首を横に振り、
「全く一切係わりない」
 目を細めた美都に視線を置いたまま、
「から俺は今驚いてるん」
 ガガッ
 っと音を立てていきなり和臣の座る椅子が動いたのは、多少の距離を物ともせず郁がその長い足で椅子の足を押したからだ。
 早く言えとばかりの郁の視線にニヤリと口の端を上げた和臣は、少し身を乗り出すと、
「この時期に揃って流感ってのはどう思う?」
 わずかな沈黙。
 そして、
「…その節操なし君もインフルエンザ、ってこと?」
 亜美の言葉に頷く和臣。
「正確には沢村の方がちょっと先で、先週末に職員室で話題になってたんだ。ワルさが祟ってそんなモンもらったんだと思ってたんだが、長谷部の感染源が沢村だったとしたら…」
 面白い
 と言っていいのかどうか一様に判断しかねた結果が再度沈黙を生み出してしまい、
「まぁ、感染源が違うってことも大いに有り得るわけだし、同じ学校だからタマタマ運悪くもらってても変ではないんだ」
 気にするな
 とばかりに情報通の和臣が話題を終息に向わせようとしたほど何の接点も見当たらない二人ではあったのだが、
「だったら先に現彼女の方がもらうのが普通じゃないか?」
 邪推したいわけでもないのだろうが郁のそんな意見で、
「今日の天気じゃ練習、軽めに済ますんだろう?」
 再び不敵な笑顔を浮かべてしまった和臣の問い掛け。美都は腕を組み直すと鋭い眼光でジッと和臣を見据えてしまった。
 けれど、
「別に怒るほどのことじゃない。佐伯んちには後から寄れば済むことじゃないか」
 当然怯むはずもなく、
「長谷部が早期復帰することは、我が校始まって以来の地区予選初戦突破にもつながるってことなんだ…っと、そうそう。生徒会からの依頼ということで直接見舞いに行ってみてはどうかな?」
 一体何者なんだと言いたくなるような口調に、呆れ顔を浮かべた美都は肩でひとつ息をつき、
「帰るまでに長谷部ん家の場所、調べといてくれるならな」
 生き生きとした笑顔で了解の意を示した和臣だった。





 とはいっても、この時は誰も深く考えてはいなかった。
“季節外れのインフルエンザ”
 なる話題に何となく皆が乗っかっただけのこと。
 もちろん調査員に大抜擢された美都としても、顔もろくに浮かばない沢村威吹などという生徒のことなどどうでもよくて、頑張り屋のチームメイトが見舞われた不慮の災厄に若干同情心が浮かんだ結果、恋人との逢瀬を後回しにすることにしたわけなのだ。が…

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 土曜日の晩には通じていた長谷部の携帯電話が何度掛けてもつながらず、自宅の場所を即座に調べあげてきた和臣に自宅の電話番号はと訊ねてみると今になって個人情報保護法などという言葉を持ち出され、いちいち和臣と議論を交わす手間と、迷惑でもいきなり長谷部に会いに行くという選択肢から、ほとんど迷わず美都は後者を選んだのだ。
 どれだけ粘ってもしゃべる気のない和臣から情報などとれやしない。
 そして、








「…移らないって保障は無いんだぞ」
 ラフな出で立ちのまま玄関で出迎えてくれた長谷部のそんな言葉に、軽く数回頷いて見せた美都。
 午後から雨脚が強まったというのに、わざわざ制服を濡らしてまで自宅へと見舞いに来てくれたチームメイトを追い返すわけにもいかなかったのだろう。
 困惑顔を消せないまま心持ち押し切られたふう長谷部は自室へと美都を招き入れることになった。
 廊下右手にあった部屋の扉を開けた途端、そこから漏れ出た冷気に瞬間心地よさを感じた美都だったのだが、
「ちょい、寒すぎないか?」
 勧められもしないのに適当に居場所を作って腰を落とした直後の言葉だ。軽く部屋を片付けようとしていた長谷部は一瞬手を止め、
「あぁ、俺がこんなカッコだから…。温度上げるよ」
 手首足首どころか襟首まですっぽり覆ってしまっている灰色のジャージ姿で長谷部が現れたのは、体調のせいだと判断して玄関先では特に気にしなかった美都なのだが、
「暑いんだったら夏物に着替えたらどうなんだ」
 この状況で室温を上げると多分長谷部的には不快な環境が生まれるだろうと踏んでの美都の言葉は決して不自然でも不振でもなかっただろう。
 けれど、
「あー…、うん。いいんだ俺のことは」
 少しよそよそしげに壁に取り付けられているホルダーに収まっているリモコンでピピピッと温度を上げた長谷部。
 次いで部屋の隅から簡易テーブルを出そうとしている姿に、
「いいぞ、気に掛けなくても。病人は大人しく寝てろよ」
 途端呆れ顔で振り返った長谷部は、
「移るっ、つってんのに入って来たのはお前だろう? 俺がスヤスヤ寝てる横でジッと付いてるつもりか?」
 返って具合が悪くなる
 とでも言たげな口ぶりだ。
 が、美都もさして気にはせず勝手に腰を落としたままの体勢で、
「そりゃ悪かったな。不満なら甲斐甲斐しく面倒見てくれる恋人でも呼びつけてみろ」
 やはりこの時も深い意味合いはなかった。
 そんな相手が居るとも思ってなかったからだが、

 ゴンッ!

 っと目を見開いて手に持っていた簡易テーブルをまともに落とした長谷部の、あまりにも分かりやすい表情と反応。
 誰が見たって、あからさまな動揺の図だ。
 何事かと眉間を寄せた美都だが、不意にほとんど忘れかけていた教室での会話を思い出し、
「沢村威吹」
 ……
 こうも単純明快な男だっただろうかと美都が首をひねりたくなるぐらいはっきり、ゴクリと生唾を飲み込んだ長谷部。
 すっかり固まりきっている姿に美都は極力平静な笑みを浮かべようと努めつつ、
「ま…ぁ、長谷部が男と。ってことに関しては意外性はあったが」
 言葉を選ぶなどという気遣いも見せながら、
「同性の恋人って意味では俺としては全く偏見はないから安心しろ」
 長谷部の動揺の意味をそんなふうに解釈した美都。
 だが訪ねて来た時と同様、長谷部の表情が困惑顔に変わったのを見て、
「もちろん言いふらすつもりはないし、好きならそれでいいんじゃないかと…」
 そこで静かに長谷部は首を横へと振った。
 何だと思いつつその顔を見返した美都へと、
「…そんなんじゃ、ないんだ」
 搾り出すような小さな声。
「多分」
 そう呟いたっきり視線を落とした長谷部を眺めつつ美都は内心首を傾げていた。
 明らかな動揺と極力露出の少ない服装。そしてわずかな時間差で感染した季節外れのインフルエンザは、長谷部と沢村との関係を如実に語っているのだと判断した美都だったが、それならば彼が口ごもってしまったのが羞恥や焦りではない理由が分からない。
 その表情から何か読み取れやしないかと、長谷部の伏せた瞳を注意深く観察し、
「恋人…、ってわけじゃないの」
 か。と、言い終る寸前でギョッと目を見開いた美都は思わず、
「ぅお? っと、って…ぅえぇぇ?!」
 反射的に口をついて出た言葉はさっぱり意味を成していない。
 同じ部に所属し日々苦楽を共にしてきているのだから、友人や恋人とはまた違った意味でお互い色々な部分を見知ってはいるけれど…
「そ…んな、態度。っが あるか っ!」
 時折鼻をすすりながらも、美都を睨みつけるそのつぶらな瞳から零れ落ちる涙は止まらない。
 …そうなのだ。
 いきなり、
「何で泣くんだ」
 部の中では比較的小柄で、まだどこか少年らしさを残している風貌であったとしても、高校2年にもなった男が何の脈略もなく泣き出せば誰だって驚くってものだ。
 けれど、
「じょ、っ…情緒不安定なんだ、から仕方ないだろっ」
 涙を右手でぬぐった後、きっぱりそう言い切ったのは開き直ったせいだろう。
 キッと美都を見据えている長谷部を見ながら、何となく手負いの獣を連想した美都は少し考えた後、やや表情を引き締めるとスクっとその場で立ち上がって見せた。
 さほど広くもない部屋で、しかもほとんど距離が離れていなければやはり身長差が物をいう。
 その上、普通にしていても他人が恐れるその切れ長の鋭い眼光のトーンを落として見下ろしたとくれば、いくら親しいチームメイトであっても怯まずにはいられない。
 無意識に足を一歩下げたと同時に自然、ポスンとそこのベッドへと腰を落としてしまった長谷部に向って、
「取り敢えず病人は興奮するな」
 軽く手を腰に当て、そう指摘した美都。
 多分文句を言うがために開かれた長谷部の口だったろうが、
「その体調と精神状態で地区予選、どうするつもりだ」
 現実を突きつけて閉口させると、
「俺らは後があるにしても3年生の気持ちを考えれば逆切れしてる場合でも無いだろう?」
 穏やかにそう告げる。
 真面目で素直な長谷部には納得するしか道はなく…
 ふぅ
 っと小さく息をついた長谷部が視線と肩を落としてしまった姿に、
「無理に話す必要はないが、ひとつだけ質問な」
 何か手助けしてやりたい気持ちはあっても、私的な領域へと美都を招き入れるかどうかは当然長谷部が決めること。
 小さく頷いたことを確認した美都は、
「…情緒不安定の原因は、沢村って奴のせいか?」
 問い掛けにまたコクリと頷いた長谷部。
 それ以上アクションを見せないものだから、ひとつだけと言いつつも美都は次なる質問を思案してしまう。
 部活動を通して見ている限り、いつも精神状態が安定している長谷部をここまでの状態にせしめるほど沢村とは何か深い係わりがあるのだ。
 しかし恋人関係は否定したし、幼馴染みでない情報は持っている。
 単純に友情がらみのいざこざ…だとしても、それならば和臣の情報網に引っかからないのは不自然だ。
 第一…
 と、もう一度美都はマジマジと長谷部を眺め見た。
 うっすらと額が汗ばんでいる姿に、やはりこの服装は体調不良以外の理由があることを物語っていると思えてならないのだ。
 少しの間、あれこれ頭の中で自問自答を繰り返した美都は結局、
「どういう関係なんだ?」
 そのまんまの質問を投げかけていた。
 動かない長谷部の表情にあまりにも直球過ぎただろうかと美都自身、失敗を反省しようと思った矢先、

「セックスフレンド」





 …まるで雑誌に書かれた見出しの意味が分からず、ただ口にしただけなんじゃないかと思うくらい、彼には不釣合いな単語が無機質にその口から発せられた。
 そしてそんな言葉をきっかけに、この物語は始まるのだ。


。.....本.....。


 入学式の頃には降りしきるように舞っていた桜の花びらも、すっかり記憶に消えてしまった4月下旬。
 在校生はそれぞれにクラスが変わり担任が変わり教室が変わり…。
 友達にも若干の変化をもたらされつつ、学園生活2年目を迎えた長谷部暁
 入学当初から在籍していた野球部では昨年度からショートのポジションを獲得し、すっかりレギュラーにはなくてはならない存在だ。
 というのは事実だが学園の野球部は創立以来、夏の全国高校野球大会を含め大きな大会では一度も初戦を勝利で飾ったことがないほどの弱小チームである。
 さっさと夏の大会に敗退し、その後3年生が引退したところで当然、レギュラーの座を奪い合うような部員同士の火花など散ったりしない。
 つまり仮に全国大会へと出場したとするならば、みんなベンチ入りできてしまうくらいの人数しか部員はいないのである。
 とはいっても、もちろん真面目に部活動は行っているが、多分テレビや新聞でお目見えする高校の野球部などに比べると随分気合の入らない練習内容であろう。
 けれどそんな弱小チームであっても、その日の練習内容をきっと誰よりも一生懸命こなしているのがこの長谷部暁だ。
 決して熱血というわけでは無いのだがクラブ内で頑張り屋さんナンバーワンを選んだとしたならば、きっとダントツの1位を獲得するだろう。
 そんな暁がクラブハウス内で何やらひとり困っている様子…。


「あ… れ、入れたと思ったんだけど。…な、ぁ」
 ほぼ練習着へと着替え終わった格好で、暁が腕を組み首を傾げていたところに、
「ちぃ〜っス、っと、なに? 何、悩んでんだ?」
 部室へと入って来たのは同級生の高橋だ。
 ロッカーが囲う真ん中にある小さなテーブルに、ドサッと荷物を放り投げた高橋へとチラッと視線で暁は挨拶を返しつつ、
「うん、ストッキング止めるやつ」
 すべて聞くまでもなかったのか、自分のロッカー扉を開けながら合点がいったふう頷いた高橋の、
「俺、予備持ってたっけか…」
 考えながらの言葉に、
「いや。朝、手に持った記憶はあるんだよ。どうしてカバンに入ってないのか不思議で」
 っとそこで、あ。っといった表情になった暁。
「思い出した。多分自転車のかごん中…だから、ちょっと取ってくるよ。ありがとな」
 おう、と軽く返した高橋を残し、まるで緑の風のように爽やかにその場を暁は後にした。



 カッチャカッチャカッチャ



 右手に野球帽を握りしめ軽快なスパイク音を響かせながらクラブハウスを出ると、帰路に着こうとする学生はすでにまばらだ。
 その実直な性格を見込まれたのか学習委員などという、いわゆる諸教師の雑用を押し付けられがちな委員に任命されてしまい、その活動のせいで部活に出向くのが遅れてしまっていたのが原因。
 下校ラッシュはとっくに過ぎてしまっている。
 第1グラウンドで大方の部員たちがウォーミングアップを終えようとしている姿が目に入り、内心申し訳無く思ったのだろう。
 ケヤキ並木を暁は急いで駆け抜ける。
 そして学園の敷地を二分する公道を横切り、講堂兼体育館の地下に位置する自転車置き場へと足を踏み入れる直前、

 ガッシャー―ンっ……

 自転車置き場から、いきなり聞こえた大きな衝突音に暁はピタッと足を止めた。
 前屈みの体勢でジ〜ッと下りスロープの奥を見入りながら、
 …
 …
 …
 問題なし
 と取ったのかホッとした様子でまた軽快にスパイク音を響かせ地下へと入って行く。
 さほど長くはないスロープを突き当たると、そこから地下室の端までメインストリートがあり、それを挟んで何本か枝道ができている、といった配置の自転車置き場。
 カッシャカッシャカッシャと二つ目の枝道を通り過ぎようとしたところで、倒れた自転車とその傍らで屈みこんでいる男子学生に気がついた。
 それとなく視線を向けながら、

 多分さっきの物音はこの自転車が倒れた音
 真新しい制服は新入生か
 野球部の後輩たちは確かみんな居たはず
 …ということは全く自分とは関係ない

 瞬時にそう判断すると歩調を緩めることなく、もう2本先の筋に有る愛車のもとへと足を進めた。
 隣の自転車がすでになくなっているお陰で難なく愛車の前かごを覗き込むことができた暁は、軽く笑みを浮かべると、
「あった、あった」
 実際に言葉はなかったのだが、まさしくそういった表情でお目当てのストッキングストッパーを取り出した。
 即座にクルリと方向変換して見せたものの…
 一瞬その体勢で少し考えた後、左手に持ち替えていた野球帽をかぶり、ストンと愛車の荷台へと腰を落としてしまった。
 右足を横にある金属ポールへ掛け、おもむろに練習着のズボンの裾をまくり上げて、

 バリバリバリビリっ!

 誰構うふうでなくストッキングストッパーのマジックテープを一気に剥がしきった。
 慣れた手つきでくるっとそれを足に巻きつけズボンの裾をもどす。
 足を替えると再度同じ作業を繰り返しカチャンと荷台から腰を上げた。
 カチャカチャカチャと足をふみ、次いで屈伸3回で締まり具合を確認し満足げに来た道を軽快に引き返す。

 カッチャカッチャカッチャカ…っ

 2本筋を引き返したところで思わず足を止めてしまった暁。
 先ほどとは違い、起き上がっている自転車の傍に立っているのは先ほどの男子学生で、ネクタイの色がやはり新入生だと証明していた。
 しかもじっくり顔を見ても予想通り暁の見知った顔では無い、はずなのだが。
 ジーッと暁を目で追うその視線が非・友好的だと感じるのは気のせいだろうか…?
 と、つい足を止めてしまったのだ。
 自転車置き場で暁は現在この新入生とふたりきり。
 この状況で視線を合わせたまま足を止めてしまったのは失敗だった、などと思ったところで時すでに遅し。
 視線を逸らすわけでもなく、かといって何か話しかける素振りもない新入生に、暁はその後のリアクションに困ってしまい、
「ど…うかしたのか?」
 自分から言葉をかけたのは、それ以外の解決方法が見つからなかったから。
 すると、
「どうかしましたよ」
 相変わらずの冷たい視線が見据えるように変わったことを察知し暁が身構えたのは正解だった。
「入学してひと月も経たないのに思いがけないトラブルで人が困ってるってのに、平気な顔して無視して行くし、何やら大きな物音立ててるし…。しかも俺が睨んでなきゃ今も知らん顔で通り過ぎたでしょう?」
 当たってる
 と思わず視線を逸らしてしまった暁の態度に、
「いいんですか? 上級生がそんなでっ」
 叱責されて、
「良くないな。ごめん、悪かった」
 真っ直ぐに新入生へと視線を戻した暁が素直に謝った直後、ふっと新入生の表情が変わった。
 もちろん正確に何を思って表情を変えたかは分かるはずなど無いが、怒りの度合いがいくらか下がったのは明らか。
「で、困ってる原因は…」
 肩の力を抜いた暁の視線は新入生の横に立てかけられている自転車へと移り、
「あ〜…、これじゃあな」
 ペタンと床にへしゃげている黒いタイヤを見れば、後輪の空気はほぼ残っていないことが一目瞭然。
「登校中に変な物でも踏んだっぽいか…、まぁ今日のところは置いて帰って別の日に車ででも取りに来てもらえば? 変に動かすとホイールまで駄目になるぞ」
 そう暁は提案してみたが、
「一番近くの自転車屋ってどこですか?」
 あえなく却下されたようだ。
 苦笑いを浮かべながら新入生へと向き直り、
「県道沿いにあるけど歩いて15分はかかるぞ。後輪全体ダメにする覚悟が」
「あなたなら、どうします?」
 言葉をさえぎられての質問は説明不足過ぎて、思わず間ぬけた表情になってしまった暁。
 すると初めて新入生が笑みらしい表情を浮かべた。のだが、
「な… にか」
 可笑しかったか?
 自分がどんな表情をしたかなど分かるはずもないのだから、やや不機嫌気味にそう呟いた暁へと、意外にも素直にペコリと小さく頭を下げ表情を改めた新入生は、
「今の状況から考えればその意見はすごく正論だとは思うんです。けど、今置いて帰ることが問題なんじゃなくて、問題は明日の朝なんです」
 言葉の真意を見出そうと新入生を見つめながら、
「…通学手段」
 もう少し考えて、
「通学時間…の、問題?」
 暁の言葉に新入生は小さく頷いた。
 いうまでもないが自転車登校している生徒は、バスより電車より一番便利な通学手段が自転車だからそれを利用しているのだ。
 自転車以外の方法で登校しろと言われれば、暁だっていつもより30分以上早く家を出なくてはならない。
「明日の朝1時間早く起きるより、今2時間かかってでも自転車を直して乗って帰りたい…って」
 ようやく、
“あなたなら、どうします?”
 の意味を理解した暁。
 気持ちは大いに分かってしまう。
 黙って新入生を見つめていた暁の視線が、斜め上に反れてから数秒後、
「ゲンさんとこ、行ってみるか…」
 独り言のような呟き。
 話が続くのか、何か答えるべきなのか様子をうかがっていた新入生だったが、
「…ゲンさん?」
 問いかけでスッと視線を戻した暁は、
「この学校の用務員さん。居るかどうかは分からないけど、まぁ取り敢えず…」
 俺、急いでるんだけどなぁ
 それこそ聞こえないくらいの声でそう付け足すと、カシャカシャカシャとスパイク音を立てながら新入生の自転車の後部辺りへと回りこんだ。
「えっと…」
 少し何か問いたげに見上げた暁の視線に、
「沢村です」
 そう返され、随分察しのいい奴だと感心しつつ頬を緩め、
「サワムラ…くん。俺、後輪持ち上げるから。用務員室知ってるだろう?」
 言うなり、
「“くん”はいりませんよハセベさん」
 あれ?
 と思いかけて暁は直ぐに納得した。
 練習着の背中にはきっちりローマ字で名前が付けられているのだ。
 サワムラなる新入生が暁の苗字を呼んだって、もちろん何の不思議は無いこと。
 けれど、さすがに“さん”はいらない。
 と言えるほど度量は広くない暁であった。

- + - + - + - + - + - + - + - + - + -

「いぃちにぃ さぁんしぃ ごぉろぉく しぃちはぁち
 にぃにっ さぁんしぃ ごぉろぉく しぃちはぁち」
 …藤棚の下でそう言い終えると大きく前に倒していた上体を起こし第1グラウンドの様子を少しうかがった後、今度は講堂兼体育館の方を見やった暁はため息をひとつ。

“もう少し、ここに居ててくださいね”

 そう言い置いて暁の返事も待たずに新入生・沢村威吹がこの場を立ち去ったのが、かれこれ10分前。
 予定外のアクシデントで部活動への参加が大幅に遅れてしまっているのだ。
 用務員であるゲンさんの勧め…というよりほぼ強制的に、監督へ遅れる旨は伝えに行かされたのだが、用が終わったのならさっさと本来自分の居るべき場所へと戻りたい。
 無事、自転車が直った今となっては、もう暁がここにいる意味など無いはず…
 と、
 講堂兼体育館の入り口付近に映った人影が暁を見止めたとたん、ペコリと頭を下げながら駆け寄って来た。
 そして暁の元へとたどり着くなり、
「待たせてばっかりで、ホンっト。すいません」
 少し乱れた呼吸で言ったのはもちろん威吹で、
「これ」
 返事を待たずして暁の胸元辺りに紙コップを差し出してみせた。
「……」
 無言のまま紙コップと威吹の顔とを行き来する暁の視線が3度目に威吹をとらえた時、
「お礼です」
 言葉とともに穏やかに浮かべた笑顔。
 一瞬暁は目を見張り、
「沢村ってモテるだろう?」
 初めて威吹の容姿レベルに気がついた。
 笑った顔が夕べ観た連続ドラマ主演の人気タレントにそっくりなのだ。
 校内に限らず世間の女の子達がそれに気付かないはずはなく、ただ単純に暁が知らなかっただけで実は校内でも結構有名なのかもしれないな。などと一人納得していると、
「そういう長谷部さんだってモテるでしょう?」
 返された言葉にまたもや目を丸くした暁。だが、
「長谷部さんが女だったら絶対俺、今この場で告白してますよ」
「はぁ?」
 全身がクエスチョンマークになってしまった。
「…何 か、それ変じゃないか?」
 けれど、
「そうですか?」
 威吹はシレッとそう返し近くの椅子に手を差し伸べて、
「取りあえず座りましょう」
 笑顔の言葉に、どういうわけか促されるまま暁は肩を並べて腰を下ろしてしまう。
 すっかり座りきってしまってから、こんなことをしている場合じゃない。  と気付いたのと、胸元に再度紙コップを差し出されたのとがほぼ同時で、
「あ…りがとう」
 冷えた紙コップを受け取りながら結局それ以上は言葉が出なかった。
 …なんか、流されてるなぁ
 心の内でため息をついていると、
「学校の用務員さんなんて、って思ってたんですけどゲンさんプロ並みの手際で驚きました」
 威吹が奇麗になった自転車を見ていることに気付き、暁も少し向こうに止めてある自転車を眺めた。
「昔っからバイクいじってたらしいから腕は確かだよ、俺も世話になったことあるし」
 ゲンさんはパンク修理が終わると、工具セットの中から出してきたタオルで自転車本体をもピカピカに磨き上げてくれていた。
「最初っからゲンさんとこ行ってたら早かったんだけど」
 暁の申し訳なさそうなセリフに軽く首を横に振った威吹は、
「…あれだけしゃべられれば俺だって次は考えます」
 笑い混じりの口調。
 振り返った暁は笑顔を向けられホッと胸をなでおろした。
 別に嫌がらせで遠くの自転車屋を紹介したわけでなく、
“ゲンさん=長丁場”
 という法則は一度かかわった人間なら即座に学習するだろう、というくらい話し好きで有名なのだ。
 けれど人情味があって気がいいことでも定評があり、好んでゲンさんのヤンチャ時代の武勇伝を聴きに集まる生徒もいる。
 のだが、一度話しかけると連れやら何から全て巻き添えを食ってしまうのだから、早く部活動に参加したかった暁が敬遠してしまっても仕方がないのだ。
「実はさっきも長谷部さん待たせてるから、ゲンさんにコーヒー渡したらお礼言って直ぐ退散するつもりでいたのにまた捉まって…。なんっていうか、全身から有無を言わせないオーラが漂ってますよね。…っと、もしかして長谷部さんコーヒーの方が良かったですか?」
 言われて自分が手にしている紙コップの存在を思い出し、慌てて首を振りながらガブリとクラッシュアイスごと半分ほど中身を口に入れた。
 年下相手に何焦ってんだか…と思いながらも、ガリガリゴクリと飲む噛むの同時処理を難なくこなした後ふと、
「あ」
 小さく立てた暁の声に威吹がジッと視線を置いた。
「あ〜、いやさぁ。コーヒーで思い出したんだけどサイフォン式のって憧れるよなぁって今急に思った」
 実は夕べ観た沢村似タレント出演のドラマで登場したアイテムでは有ったのだが…
 突然の言葉に軽くあしらわれるかと思っていた暁の意に反し、
「あれで淹れると香りがすごくいいんですよ」
 特に気にする様子も無くそう返した威吹。
「へぇ、飲んだことあるんだ?」
 感心している暁に、
「伯父が喫茶店してるんで…、良かったら今度…」

 カキー−−ンっ!!

 バットの真芯で球をとらえた時独特の乾音だ。
 反射的に立ち上がると第1グラウンド方向へと目を凝らし、空をさ迷いだした暁の視線の照準が直ぐに飛んできた白球に向けられる。
 それから程なく、
 スパー−ン!
 勢いよく球がコンクリートに落下した時には、すでに暁はボールに向って走り出していた。
 紙コップ片手に傍の植え込みをヒラリと飛び越え、第2グラウンド手前でまだ弾んでいたボールを左手でキャッチ。
 そして不安定な体勢を瞬時に立て直し第1グラウンドに向って大きく手を振って見せた。
 一連の動作を黙って見ていた威吹だが、つられるよう第1グラウンドへと視線を向けた先には野球部員がひとり、門の辺りまで駆け寄って来ていた。
 暁が合図を送ったのは、この野球部員に違いないだろう。
 帽子を取って深々と頭を下げた姿と、練習着の汚れ具合から同級生だと気付いた威吹だったが興味なさそうに視線を傍まで戻って来ていた暁へと戻した。
「こめん、いきなり」
 言いながらの暁は藤棚の下には入ったものの椅子に座らず、
「いい音したと思ったら場外だもんなぁ…。誰かに当たらなくて良かったよ」
 笑顔で相づちを打った威吹。
「もっとネットを高くしてもらうように言ってるんだけど予算が下りなくて…ってまぁそうはいっても一番のネックはここまで飛ばせるバッターが殆どいないってことにあるんだろうし。やっぱ強くなきゃ発言権も弱、い…?」
 ふいに間近に出てきた何かに驚いて一歩後ずさりかけた暁だが、それより早く後頭部に威吹の手が回っていた。
 グイっと頭ごと引き寄せられ、
「っ???!」
 声なき声を上げた途端、
 ギュギュギュ
 っと左頬に強く何かがこすり付けられた。というより拭うといった表現が妥当な状態なのだが…。
 ボールと紙コップで両手は塞がっているのに変な角度で頭部を引き寄せられたがため体勢を立て直すこともできず、加えて威吹の顔が異常に近くにあるから視線をどこに置いていいかも分からない。
 だから威吹に顔を拭われている理由など思いつくはずもないまま混乱気味で目を大きく見開いたままでいる暁の耳元へ、
「汚れてましたよ、顔」
 静かな威吹の声が響く。
「さっき自転車修理手伝ってくれてる時に付いたのかもしれませんね」
 手を離すと何事もなかったかのよう告げた威吹はハンカチをポケットにしまいこむ。
 その言いようがあまりにも自然なものだから、つい紙コップに入っていた残りを全て口の中に放り込み暁は動揺をごまかしてしまった。
 自分一人焦ったなんて馬鹿みたいに思えたのだ。
 ギュッと空の紙コップを握りつぶすと、
「俺、そろそろ行くから」
 気まずさからか目を合わすこともせずクルリと向きを変え、
「ごちそうさま。気をつけて帰れよ」
 手を小さく手を上げるとスパイク音とともに暁はその場を後にした。





 年上だというのに、ずっと威吹のペースに呑まれていたという決まり悪さが後を引き、その場を去った時は幾分足取りの重かった暁ではあったが、それでもこの時はまだ、この日の威吹との出会いなどただの高校生活のとあるひとコマでしかなかった。
 今後威吹と係わることがあるとしても偶然校内ですれ違う程度のものだと思っていたから。
 だからその場を立ち去った後、一度も振り返らなかった暁は知らないのだ。
 藤棚の下から公道を横切り途中のゴミ箱に握りつぶした紙コップを放り込むと、そこから一気に加速してバックネットの裏に入ってしまうまで、威吹がその姿をずっとずっと追い続けていたなんてことは…。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

「ちぃ、っス」
 お決まりの挨拶とともに部室の扉を開いた途端、昨日とは打って変わって“おう”とか“よう”とか“うっす”とかとか…、いくつもの声が返ってきた。
 今日はどうにか部室が一番混み合う時間帯に無事やって来ることのできた暁。
 部員と荷物と道具との間を難なく潜りぬけ、ドサリと自分の荷物を足元へ置くとロッカー扉を開けた。
 バッグのファスナーを開き、中から練習着一式を取り出したところで、
「昨日、ゲンさんに捉まってたんだって?」
 背後からのハスキーな声は3年生の横山だ。
 ロッカーに着替えを置きつつ暁は顔だけで振り返り、
「そうなんですよ。忘れ物取りに行ったら1年生の自転車がパンクしてて、何となく成り行きで…」
「あっ、その1年生って沢村のことっスよね」
 戸口の傍で練習着のボタンを留めながら会話に混ざってきた1年生の久松は、昨日場外ホームランのボールを取りに走って来たあの時の野球部員だ。
「入学式の日に3年生に告白されたって奴だろう?」
「そーそー。式に行く直前にズカズカ教室ん中、入って来て “すっごい好みの顔なんだけど” って」
 同じく1年生部員、野田の発言に部室内がどよめいた。
「って誰だよ、その3年女子って」
「先生まで面食らってたから誰も名前までは…」
 舞い上がった空気のまま会話は続き、
「で? どうしたんだ、その沢村って奴」
「ん〜、確か “そうですか” とか何とか言いながら。っとそうそう、入学式があるからって沢村が席を立って、先生も状況に気がついてそのままうやむやになったって感じだったような」
「じゃあそれっきりなのか?」
 質問に1年生ふたりが顔を見合し、
「…付き合ってる、って」
「うんうん、やっぱそう聞いたよな」
 話の主導権はすっかりその1年生たちに移ってしまい、すでに暁の存在は蚊帳の外だ。
 弱小チームだからこそなのかもしれないが、上下関係は保ちながらも部員たちは学年分け隔てなく仲がいい。
 だから特に暁も気にもしないで黙々と着替えを進めていた。
「やっぱ、俺は可愛いほうがいいっスよ」
「まぁ美人でもそこまで気がきつすぎるとちょっとなぁ」
「でもこう、身体の凹凸はかなり魅惑的で…」
 練習着に大方着替え終える頃には、暁の背後の話題はすでに告白した3年女子を含め、好みのタイプで盛り上がってしまっている。
 仲が良いのは結構なのだが、こうなると野球のことなど部員の頭の中からすっ飛んでしまうのだ。
 最初に威吹の話題を振ってきた久松が、いまだズボンすらも着替え終わっていない姿に呆れ顔を浮かべつつ、すっかり着替え終えた暁は自分の道具をそーっと持つと静かに部室から退散した。
 この手の話題が決して嫌いなわけではなく、もちろんお気に入りの女の子くらいはちゃんといるのだが、中学時代から野球に費やす時間が長かったせいか経験不足なことに引け目を感じてしょうがない。
 自分の好みすらきちんと確立できていない現状を、特に後輩たちに見破られてはメンツが立たないってものだ。
 部室の扉を閉め暁がホッとため息をついた時、
「よう」
 声に振り向くとそこに立っていたのは同級生の森丘美都。
 目元がキリリとしているせいか、こうして澄ましていると意味も無くスミマセンと謝りたくなる風貌なのだが、実はこの表情が普通なのだということを1年間の部活動を通して暁はよく知っている。
 また見た目もさることながら上下分け隔てなく、尊大な態度で接するその神経の太さが美都の強さの象徴でもあり、暁には持ち合わせていない一面で、一個の人間としてある意味羨ましくも思ってはいるが、もう少し部活動に身を入れてくれればもっと評価は上がるだろう。
 野球センスは抜群なのに、美都の高校生活における野球の位置づけはそれほど上にはない。
 と、本人が言ったのだから間違いない。
 暁はニコリと笑顔を向けつつ、
「おう」
 そう返すと同時に、部室の中から大きなどよめきが漏れてきた。
 すると、
「また下ネタやってんの?」
 戸口へと向けた美都の視線はそれこそ瞬間冷凍の世界。
 別に硬派といった印象は無く実際かなりもてる男でもあるのだが、意外なほど美都はこの手の話題には乗ってこないうえ、畳み掛けるように話を終結させてしまうのが常である。
 案の定、言葉に頷いた暁を見ると、
「じゃあ、とっととグラウンドに追い出すとするか」
 グラウンドはまだ何も用意されていないのだから直ぐにでも人手が必要だ。
「そうしてもらえると助かる」
 美都は任せとけとでも言うように軽く片眉を上げ荷物を担ぎ直すと、暁の横を通り過ぎかけて…
 唐突に暁の腕を取った。
 反射的に美都を見上げた暁へと、
「南中の監督、異動になったんだって?」
 問いかけに、
「…鳥羽、先生。のこと?」
 少し眉をひそめて答えた暁。
 美都は掴んでいた手を離すと側の手すりに体重をかけ、
「こないだ中学時の後輩に会ってな、南中の監督が変ったって聞いたんだが…」
 聞いてない
 と暁の表情が物語っている。
 鳥羽先生、とは暁が卒業した中学の野球部顧問で、暁は卒業した今でも恩師として慕っている人物だ。
 もちろん、そのことを知った上での美都の言葉なのだろう。
「長谷部が知らないなら、何かの間違いかも」
「いや」
 暁は首を振ると、
「卒業して1年過ぎてるし、中学に行く用もないから…」
 視線を落として少し考えた後、
「鳥羽監督がいなかったってことかな?」
 ああ、と短く肯定した美都は、
「まぁ今年度初の練習試合でいなかったってだけだから、長谷部が知らないなら代理監督ってことも考えられるしな」
 基本的にそういうことをする教師ではないと思っている暁だが、ここで議論したところで確認しようもない。
「時間がある時にでも誰かに連絡してみるよ」
 言葉に美都が視線で頷いて見せたとき、野球部部室扉の向こうから聞こえたのはまたもや大きなどよめき声。
 二人そろって戸口を振り返った後、目を見合せて呆れ顔を浮かべてしまう。
 そしてスクッと背筋を伸ばした美都の、
「では取りあえず、任務遂行ということで」
 暁に向け握りしめた拳がなんとも頼もしい。
「よろしく」
 っと暁も拳を作るとその腕を美都の拳へと当てクルリと向きを変えた。
 さほど長くもない距離だというのに、他部の生徒何人かとすれ違う程のラッシュ時刻。
 折り返し階段を下りカシャンと一歩地面を踏んだところで、暁は視界に入っていた生徒に違和感を感じて視線を向けた。
 下校して行く生徒たちの波とは全く別に二人の生徒…というより、自分の所有物だと誇示するよう男子生徒の腕にしっかり腕を絡ませている女子生徒の図は、一組のカップルと表現すべきだろう。
 例えばどこか静かな公園内の景色の中ならさほど違和感は感じなかったかもしれないが、下校ラッシュのしかも一番人通りの多い場所で男女がくっついていれば誰だって自然、目が行ってしまう。
 それが証拠に暁だけでなく通り過ぎる生徒が皆、その二人を見学しながら通り過ぎているのがよくわかる。
 場所を考えろよな
 などと心の中で愚痴っていると女子生徒に何かを語りかけていた男子生徒が、スッと向けたその顔を見て暁は思わず足を止めてしまう。
 少し顎を上げ長い前髪の隙間から軽く細めた眼でジッと暁を見すえているのは威吹だ。
 全く見ず知らずの他人ではないのだが、まるで昨日自転車置き場での最初の出来事を再現しているかのような態度と、その傍で薄笑いを浮かべながら暁を見る女子生徒の態度がなんとも不愉快で、結局笑顔を送ることも手を振ることさえもできないまま、不自然に視線を逸らすと暁はクラブハウス横にある道具置き場へと足を向けた。
 別に昨日のあれくらいのことで友人になったなどと思っていたわけではないが、お礼だと言って笑顔でスポーツドリンクを買ってきてくれた威吹を知っているだけに、やけにガッカリした気分だ。
 見た目よりずっと礼儀や常識をわきまえている人間だと評価していたというのに…。
 道具置き場へとたどり着くなり、ドサッと荷物を落とすと棚に持たれて大きく一つため息をつく。
 まず自分の道具をバックネット脇に置いてからここに来るつもりだったが、進行方向に威吹達が居たものだからつい針路変更してしまったものの、やはり順序が変わると不便でもある。
 堂々と傍を通ってくればよかったな
 と今更思ったところで戻る気にもなれなず、落胆している暁だったが、それもつかの間のこと…。
 ワイワイガヤガヤっと良く聞き覚えのある声が、と考えるより早くさっき部室で盛り上がっていた野球部員たちが一斉にやって来たのだ。
「あれ? 長谷部は瞬間移動して来たのか?」
 コソっと抜け出したことはバレていない様子に部長である佐藤へと笑顔を返し、傍にあった練習道具の入ったカゴに手をかけて、
「俊敏さが取り柄ですから」
 言ったときには既に沢村のことは頭にはなかった。

 沢村との係わりはこれで終わったな。

 心のどこかでそう処理した暁だったが、またもや予想は裏切られてしまうこととなる。
 それは、
「沢村の彼女、替わってたんですよ。長谷部さん」
 なぜか沢村の話題は暁から…という変な法則ができてしまったが、
「まぁ、モテるタイプだろうな」
 何で俺に…と訊いたところで無意味な気もしたのだろう。
 話の内容自体、特に重要性も無く雑談に近い物だから。
「今度の彼女はモデル風なんスよ。やっぱ3年生でね…」
 言葉を空で聞きながら暁は昨日威吹の隣にいた女子生徒を思い浮かべていた。
 そういえば背は高めでスレンダーだったような…。
 キツイ顔つきだったのは覚えているが美人だっただろうか。とボヤけた記憶で色々と考えていたのだが、今日もまた思いがけず威吹たちカップルを目にしてしまったのは約30分後だ。
 ウォーミングアップを終え何気なく顔を上げた先。
 バックネット近くからはそこそこ距離がある場所だが、生徒通用門付近に威吹たちが居た。
 隣に立っている彼女はスラリとしていてやはりモデル風といえばそうかもしれないが、表情すら確認できないくらいの距離だ。
 美人かどうか明らかではない。が、見せびらかすように威吹の腕に絡み付く姿に、
 自分の好みでは無いな
 と改めて思い直し彼女から視線を外した瞬間、何となく威吹と目が合った、ような気がした。
 けれど、やはり昨日同様特に目立った反応は無く、
「野球と恋人との両立は難しいんじゃないか?」
 振り返ると、
「お前はそういう性格だろ?」
 何を勘違いしたのか美都のそんな言葉で、
「…それって、どういう意味?」
 暁が少し上目づかいで睨んでみせると、ポンっと正面から暁の両肩に手を掛けた美都。
「部活で疲れた心を癒して欲しいなぁ…って、肩に哀愁が」
「なワケあるかっ」
 素早く美都の頬を両手でギューっとつねった時、
「そこー! 何やってんだっ!!」
 監督の怒鳴り声が大きく響いた。
 美都は軽く口の端に笑みを浮かべ暁は肩をすくませながらホームベース方向へと駈けて行く。
 もちろん威吹のことなどもう頭の隅にも残らず、だ。
 普通ならさすがにここで威吹とも切れてしまいそうなものなのだが…。


 翌日見かけたのはグラウンド整備をしている最中だった。
 第1グラウンド東側通路の脇でやはり彼女と立っていたのだが、さすがに3日続けばこれが威吹の日課なのだと考えるのが自然だろう。
 暁に対して何かアクションがあるのならともかく、3日目の今日は近くで目が合ったにもかかわらずキッパリと視線を外されてしまい、
「だからな、お前には無理だっつうの」
 昨日と同じカップルを見ていたとは気づいていないようだが、やはり勘違いしたままの美都に帽子のつばを引っ張られて、
「別にそんなんじゃないんだけどさぁ」
 スルっと帽子から頭を抜いた暁。
 トンボを肩に担ぎ上げると、
「森丘がいちいち意見することもで無いだろう? もし俺に彼女ができたからって練習の手ぇ抜くわけないし」
 スタスタと後ろに付いた暁を美都は振り返ると悪びれるふうも無くパサリと暁の頭に帽子を乗せて、
「今の生活ペースに彼女との時間が追加されるんだぞ。付き合い始めは気も使わなきゃならないし、勉強時間と睡眠時間削って頑張ったとしても、絶対身体壊すのがおちだ」
 真顔での正論に、少しの間美都を見つめてしまった暁。
「…もしかして、俺の身体のこと気にしてくれてんの?」
 ああ、と当然のように頷いた美都。だが、
「長谷部が体調崩してみろ、俺の初戦突破の夢に支障をきたすじゃないか」
 ん?
 と暁は眉間をよせる。
「現状維持でどうにかこうにかの実力なんだ。これ以上レベルを下げてどうすんだ」
「そ、れ、は…」
 担いでいたトンボを両手でしっかり握った暁、
「い、っっっちばんサボってるやつがいうセリフかっ!!」
 ブン
 っとトンボを振った時にはすでに美都は射程圏外。
「さあ、真面目に練習練習っ」
 などと言いながら走り去る背中が笑っている美都へと、
「そうそう、鳥羽先生な」
 チラッと視線をよこしたシャープな横顔に少し表情を正した暁は、
「病気で休んでんだって」
 歩調を緩めた美都に追いつき、
「取りあえず1学期中ってことらしいから、また見舞いにでも行ってこようかと思ってる」
「あの監督も真面目な努力家だから…、たまには休めってことかもな」
 言葉に薄く笑みを浮かべた暁。
“あの監督も”
 ではなく、あの監督がそうであったから暁もそうなのだ。
 休めったって休んでいられるような人ではないだろうから、きっと本やパソコンを傍に置いて1分1秒を惜しんで自己啓発に励んでいることだろう。
“卒業生は、出戻るものじゃない”
 そう言われて暁は母校に足を運ぶことをしなかったから、久々に恩師に会える良いきっかけかもしれないなと、一人見舞いの算段を頭の中でめぐらせたのが金曜日。










 週末…
 野球部の練習は有っても帰宅部の生徒が居るはずもない。
 特に変わりばえのない練習を終え、また新しい1週間が始まる。
 と、











 やはり威吹は居た。
 その次の日も、さらに次の日も。


 ここ


 と場所が特定されているわけではないのだが、必ずグラウンドから見えるどこかに威吹は居るのだ。
 もちろん彼女が傍に居るのも定番だが、相手は時折変わっている。
 その誰をとっても、ことごとく暁の好みでなく “気が強そう” である以外の共通性も見いだせない。
 そんな彼女達の熱い視線と態度を一身に受けながらいつも紳士でクールに応える姿を見るにつけ、これが威吹本来の姿なのだと暁は解釈していた。
 何れにしても、あの出会いから1ヵ月以上経ったとなると威吹とはもう何の関わりも無いに等しいのだが、いつも威吹がグラウンド周辺でデートをすることが日課ならその威吹の姿を探すことも暁の日課となってしまっていた。
 絶対必ず威吹はどこかに居る。
 たった一度の例外もなく威吹は居たのだ、今日の今日まで。
 ところが…

 …居ない?

 クラブハウスを出てグラウンド整備を終えるとランニングが始まり次いでウォーミングアップ。
 キャッチボールの最中よそ見のし過ぎで同級生の高橋にからかわれ、気を引き締めたもののトスバッティングからフリーバッティングの練習へと移った時にはやはり暁は気になって仕方がない。
 今日は威吹か彼女かの都合が悪くてさっさと帰ったのかもしれない、とか学校を休んでいるんだ、とか適当に理由をつければいいものをしつこくこだわってしまったことが、

 ガッ!!

 っと鈍い音と同時にバットを杖に片足飛びで唸ってしまうという結果を招いてしまった。
 それほど打ち難い球でもなかったのに、集中していなかったがために振り遅れ、自打球を膝に当ててしまったのだ。
「大丈夫か?」
 一番近くに居た3年生キャッチャー・板垣の声にどうにか頷いて見せ、
 何やってんだ、馬鹿っ
 と、心中で自分へと叱責し、苦痛に眉をしかめながらも痛いとは漏らさずバッターボックスを離れた。
 しょっ中では無いが、それほど珍しい騒動でもないから他の部員も歩けるなら大丈夫と踏んだのだろう。
 それぞれに呼び掛けはあったものの、暁の傍まで駆け寄って来たのは後輩が一人だけだ。
 ゆっくりとバックネットまで痛む足を引きずって歩き、そこにもたれかかるとズボンの裾を膝までまくりあげ1年生が持って来てくれたコールドスプレーを吹き付ける。
 瞬時に患部が冷やされたお陰で若干痛みが和らいだせいか、ようやくホッと息をつき何気に顔を上げて、
「…あ、いた」
 思わずついて出た言葉に、
「えっ、痛い? …です、よね。当然」
 返したのは傍に居た後輩。
 何なんだと真顔で見返した暁だが、直ぐに言葉の意味を理解して、
「うん…っと、ありがとう。助かった」
 笑顔を浮かべ、
「後、自分でするから」
 後輩が手にしていたテービングを受け取ると持ち場に戻るよう促した。
 バックネットにもたれたまま、ずり落ちるようその場に腰を下ろし膝全体にテーピングを巻きつけながら、
 なんだ、今日はこっちにいたんだ…
 と、妙にすっきりした気分の暁。
 威吹とその彼女はバックネット裏、から少し校舎寄りにある大きな木の裏手辺りに居たのだ。
 階段を椅子代りに座っている彼女とは対照的に、立ち上がっていた威吹とは思いの外近くで目が合いはしたものの睨む、とまではいかないがかなり険しい表情だったことは確か。
 …美人の彼女を連れてるのに、その表情はどうなんだ
 友人なら言ってやるのだが、今となってはただ顔を知っているだけの下級生でしかない。
 なのにグラウンド周辺にいないだけで振り回されてしまっている自分の奇妙な心理状態に気づいてはいるのだが、それに関して暁自身特に深く考えるつもりはなかった。
 すっかりテーピングを巻き終え立ち上がるとさりげなく後ろを振り返る。
 威吹達の姿はもう無い。
 が、いつもこんな物なのだ。
 暁が威吹を見つけるのは毎日一度だけ、そして必ず威吹も暁を見ている。
 多分思い違いでは無いと暁の中ではそう確信していた。
 けれど…
 本当にただそれだけ。
 の、つもりでいたのだが…。






 その日の帰り道






 膝の痛みが中々取れず、どうにかこうにかごまかしながら自転車をこいで、学校と自宅との中間地点までたどり着いた時だった。
 道路脇の押しボタン式信号機の傍でボンヤリ信号が青に変わるのを待っている暁。
 そこへ、
「こんにちは」
 最初は自分に掛けられた言葉だとは思わず、振り向きもしなかったのだが、
「怪我の具合、どうですか?」
 静かに暁の傍に立ちはだかった人影に顔を上げ…
 ピタリと動きが止まってしまう。




 どういうわけか目の前に威吹が立っていたのだった。

- + - + - + - + - + - + - + - + - + -

「あのまま上がって病院にでも行くと思ってたんですけど…」
 暁の表情は見るからに、

 何でこんな所に?

 と語っているはずなのだが、
「荷物、持ちますよ」
 背中にしょっている大きなバッグを暁から奪うように取り上げ、
「青です、行きましょう」
 スタスタと横断歩道を渡り始める威吹。
 状況が呑み込めないまま、つられるように暁は威吹の後を追いかけながら、
「…この辺だったんだ、沢村の家って?」
 言葉に威吹は振り返り、
「違いますよ」
 笑顔で否定。


 だったらどうして…


 訊くまでもなくその理由は話し出してくれると思っていたのに、
「その様子じゃまだ大分、痛むんじゃないですか? どうして直ぐに病院に行かなかったんです」
 ひとつ前の話題に戻ってしまった。
 少し威吹を見つめていた暁は、自転車をこいでいる不自由な自分の膝に流れた視線に気付き、
「うん、まぁ…たまにあるから」
 威吹はどうやら本気で心配してくれているようなのだ。
「前にサラ…膝の皿、割ったことがあって、その時に比べたら今回は痛みとか断然マシ。もっと腫れたし膝、曲げらんなくなってたもん」
 苦虫を噛み潰したよう顔をしかめた威吹は、
「辞めたらどうですか?」
 横断歩道を渡りきる頃には自然と肩を並べ、お互い前を向いたまま、
「何を?」
 訊き返した暁。
「野球」
 やや間を置いて、
「何で?」
「危ないから」
 数メートル進んでからピタリと足を止め、目をぱちくりと見開いてしまった。
「…親でも言わないぞ、そんなこと」
 真顔の威吹を見つめながらの呆然としたつぶやき。
 けれど、
「親とは立場が違います」
 返された言葉の意味を理解しかねて首を傾げてしまった暁に、威吹は何かを含んだよう眉を上げ、
「深く考えないでください」
「…って」
 何なんだ?
 冗談?
 ってことだろうかと困惑の色を深めた暁に、取り立てて弁明するつもりはないのか視線を解いて静かに足を進めてしまった。
 帰宅ラッシュの時間帯。
 歩道と並行して走る幹線道路の車の流れは緩やかだ。
 威吹は奇妙なことを言った気がするのだが深く考えるなと言われれば、考えるのはよそうかと思っている自分がいる。
 黙って前を向いてしまったけれど、一瞬浮かべた穏やかな笑みに何やらほだされてしまったとしか思えない。
 暁のバッグを肩に掛けほんの少しだけ前を歩く威吹の背中を眺めながら、
 …不思議な奴
 そんなことを思いながら、当然のように後を付いて歩いている自分の不思議さには無頓着で無関心。
「っと、俺。こっちだから」
 幹線道路に沿って振り返りもせず前進する威吹に声をかけたのは、それからほどなくのことだった。
 脇道に入る自動販売機の傍で、
「有り難う、助かった」
 ニコリと笑ってバッグを受け取ろうと手を差し出して見せたのだが…。
「……」
 振り返った体勢のまま、威吹はバッグを肩から下ろそうとはしない。
「…だから、俺の家こっち」
 そこまで暁が言った時、
「時間」
 いきなり遮られた言葉。
「あまり早い時間じゃないですけど、無いですか?」
 文法は変だが言葉の意味は分かる。
 が、質問の趣旨が分からない。
 今の今まで出来過ぎるくらい落ち着き払っていた威吹から、ほんのわずかだが焦りのような気配を感じて、
「ええっ、と…。 まだ明るい…けど、7時きてる、けど。 …あ〜っと、ほら。 だから」
 普通に問い掛ければいい物を、つられて焦って結局笑われるはめに。
 ほんの1学年だが、暁は年上でもあるのだ。
 …何も吹き出すことは無いだろう
 と、思わなくも無いのだが、いつもハイレベルな彼女を連れてクールにキメている威吹からは想像もつかないようなそのあどけない仕草に、どちらが本当の彼なのだろうかとつい考えてしまう。
 知らず無言で眺め入っている暁の様子に気づいた威吹が笑いを止め、暁へと視線を向けたものだから不意に道の真ん中で見つめ合ってしまった二人。
 ドキっ
 と動揺してしまった自分に怯んでわずかに上体を引いた暁へと、
「コーヒー」
 穏やかに、
「飲んで行きませんか?」
 威吹は告げた。
「伯父の喫茶店、直ぐそこなんです」
 暁は神経総動員で動揺を抑えこみ、適当に答えかけ…わずかに目を見開いた。
「…もしかしてサイフォン式?」
 即座に見せたその笑顔が答え。
 あの時の会話を憶えていてくれたのだ。
「どうします?」
 だったら、
「行くっ」
 しかないだろう。
 あの日のことを気にかけていたのが自分だけでは無かったことが単純に嬉しくて、はしゃぐように答えた暁に、柔らかい視線で了承の意を示した威吹。
 暁が制服姿であるというハンディ分を上乗せしたとしても、多分見る人のほとんどは年齢差を逆転してしまうに違いない。
 などということは夢にも思っていない暁は、足の痛みも忘れたかのよう嬉々として威吹と並び目的地を目指した。

- + - + - + - + - + - + - + - + - + -

「好きな所に座ってください」
 言葉に、うんと軽く返しカウンター越しに客席側をザっと見渡した暁。
「駅の近くにね、移転したんです。ここじゃ手狭になったみたいで…」
 店を畳んだわけじゃない
 と、そんな意味を酌み取って暁は背を向けたままエアコンの電源を入れた威吹に頷いていた。

 こんな時間に閉じられているシャッター。
 普通なら店の前にあるだろう看板は影も形もなく、不思議に思いつつ裏口からこうして店内に入ると、カウンター席以外の椅子やテーブルは奇麗に隅へと片付けられていたのだ。
「もしかして貸店舗、とかになる場所?」
 びっこを引きながらカウンターから客席側へと出た暁に、首を横へと威吹は振って見せ、
「手狭にはなったけど伯父にしてみればここが一番のお気に入りで、しかも思い入れもあるから手放す気はないみたいです。たまに仲間内のパーティなんかで使ってるみたいだし、ろくに帰って来なくても伯父の住民票はここになってるから」
 言い終わらないうちにカウンター中央辺りの椅子を引いて、
「ケガ人はさっさと座る」
 瞬時に下げられた声色。
 そして細められた視線にストンと即座に腰を落としてから、為すがままな自分につい苦笑いを浮かべてしまった暁だったが、
「言い方、マズかったですね。すみません」
 通常トーンでの言葉に、見上げた時には既に威吹はカウンターの中。
「でも悪意も他意も無いので、気にしないでください」
 珈琲色の小さなエプロンを細く引き締まった腰にパリっと巻き着け冷蔵庫を開けている姿が、シックで落ち着いた店内の装いにすんなり溶け込んでいる。
 どんな格好しても何やっても様になるものだなぁ、と返事も忘れ感心しながら威吹の後ろ姿に眺め入っていると、クルリと振り返りざまに向けられた穏やかな笑み。
 一瞬目を見張り、またドキリとしてしまった感情を即座に呼吸と一緒に呑み込んで、鼻の下を軽くかきながら、
「そ、うやって、さくっと自己主張できるところがモテんのかな」
 笑顔を繰り出すタイミングがまた絶妙だ
 と素直にそこまで頭の中には浮かんだのだが、何やらそのセリフを口にするのは憚られる。
「放課後、毎日グラウンドの辺りで女の子と居るだろ?」
 しゃべるつもりでは無い話題ではあったが、ひとつ前の言葉で少し表情を険しくした威吹に、
「とっかえひ…」
 暁は斜めに逸らした視線を戻し、
「色んなタイプの女の子、連れてるから」
 言い終える頃には結局威吹の視線が逸れていた。
 手に抱えた食材をちょうど暁と向かい合う位置辺りでドサドサっと下ろした威吹は視線を上げないまま栓を上げ、ジャーっとシンクで手を洗い、
「長谷部さんの好みのタイプ」
「ん…?」
 突然何だと威吹を見ると、
「いましたか? 俺が連れてた女の子の中に」
 スッと向けられた威吹の瞳が思うより近い。
 しかも話題とは不釣り合いなくらい真剣さを漂わせていたから、
「…いない。ごめん」
 正直に答えて、フォローの言葉を続けようとしたのだが、
 ニコっ
 っと。
 本当にその描写通りに威吹が間近で笑ったのだ。
 そして、
「気が合いますね、長谷部さん」
「へ?」
「俺も好みじゃ無かったですよ」
 すっかり混乱してしまった暁へ笑顔を残し、調理台の上にあった野菜を手に取るとそれを洗い始めた。
「入学式の日に見ず知らずの女の子に告白されて、取りあえず付き合ってみたけど色々合わないから別れた。その噂を聞きつけて別の子にまた告白されて、でもやっぱり…の繰り返し。タイプがばらつくのもそれが原因なんでしょうね」
 そんな説明をされたところで、理解に困って返事をしかねている暁へ、
「昔からこんなだったから、あまり深く考えたことなかったんですよ。自分の好みって…」
 洗った野菜が水切り用のカゴと、まな板へと振り分けられる。
「でも」
 カシャン
 と扉が開く音。
 それから程なく、
「今日、確信が持てたから」
 威吹の手にはキラリと冴えた光を放つ包丁が握られていた。
「別れてきました」
 ザクリ
 …キャベツを一刀した音が何やら生々しくて、暁はゴクリと生唾を飲み込んでしまった。
 ザクリ
 ザクリ、ザクリ
 何となく生身を切られているような音に居心地が悪くなってきて、
「あ〜…、本っ当は一人になりたかった。とか?」
「だったら声なんか掛けてませんよ」
 顔を上げはしなかったものの、威吹の口端に浮かべた笑みが嘘ではないと物語っていた。
 というより、そもそもそんな懸念を抱くまでもなく帰宅途中の暁に声をかけ、ここへと誘ったのは威吹の方だ。
「…落ち込んだりとか、しないんだ?」
 やや間を置いてようやく暁がそう口にした。
 正直、経験不足の暁には食いつきようの無い話題なのだ。
 話の内容から察するに、威吹にはほっておいても女の子はいくらでも寄ってくるらしい。
 しかもその女の子たちのレベルが高いことは暁自身がよく見知っている。
 中学3年の時、決死の覚悟で生まれて初めて女の子に告白し、どうにか願いを成就させた経験はある暁。
 おぼつかないながらも初めてのキスまではたどり着いたのだが、それ以上の行為などには恐れ多くて踏み込むことなどできず、
“好きな人ができたの”
 付き合い始めて数ヵ月したころ彼女が言ったそんなセリフで終わってしまった初恋。
 もちろんそれなりに落ち込んだし、振った彼女だって少しの間動揺は隠せないでいた。
 別れたその日に平常心でいられるなんて…
 とそこで、

“あまり早い時間じゃないですけど、ないですか?”

 僅かにだが、まごついていた威吹の姿を思い出し、
「…誰かと居た方が気が紛れるとか」
 ブフ
 言葉の途中で吹き出されてしまった。
「……」
 いつも思いがけないところで笑い出す威吹。
 今更怒る気にはなれないのだが、かなり不可思議な面持ちの暁へ、
「そんな真面目な付き合いじゃなかったから」
 作業の手を止め口元を軽く拭うと、
「向こうは俺の顔だけが目当てだったし、俺もまぁ後腐れ無くさせてもらえたから…。でもまぁ最近はちょっとヤケクソ気味だったかな」
 …サラリと何てことを言うんだ
 とは思ったものの、もうこうなったら後腐れ無く云々は無視するしかない。
「ヤケクソって何でまた?」
 付き合う相手は選り取り見取りなうえに、本命まで見つけたのだから暁からすると申し分ない今現在に聞こえるのだが、
「思いがけない人を好きなったから」
 真っ直ぐに見つめられて、
「そ、うなんだ」
 若干うろたえながら返した暁。
 急に真顔になられては、さすがに “誰?” とまでは訊きづらい。
「怪我した時は抱えて病院まで走ろうかと思ったんですよ」
 正面から言葉を受けたものの、
「…?」
 更に数秒間を置いて、
「っと、あ れ。俺? のこと? …え? っと」
 言いながら、もっと考えて、
「実は、これから過保護な彼氏になります…。宣言?」
 答えてから、おバカタレントの珍回答めいていることに本人が気付いたくらいだから、威吹が大きく落胆の色を呈してしまっても仕方が無い。
 …大体自分に恋愛相談をすることが間違ってるんだ
 と心の中で開き直ろうとした暁だが、
「問題はこれだな」
 ため息混じりのそんな言葉で視線を逸らされて、なんだか泣きたい気分になってきた。
 早々に帰った方がお互いのためだろうと、人参の皮をむき始めた威吹を横目に、すんなり彼が納得する口実を考えるべく頬杖をついたその先にあるのはコーヒーサイフォン。
 しばしそれをジッと見つめていた暁は、
「ちょっと、訊きたいんだけど」
 タン
 っと包丁の刃がまな板に当たる音を確認して、
「何で野菜切ってんの?」

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

「月末には組み合わせも決まるということで、各自気を引き締めて練習に励むよう」
「というよりは、まず練習に参加させるべきだろう?」
「って、言うべき張本人がいないんだから意味無いし」
「…先週は真面目に来てたってのに」
「部活動は隔週だと思ってんだな、きっと」
「ははっ、有りうる有りうる」


 有りえない



 と発言した部長の佐藤も含め、部室に居た全員が心の中でだけ突っ込みを入れつつも、外面的には皆そろって空笑いで流してしまった。
「じゃあ今日はこれまで」
 コーチの締めの言葉と短いあいさつの後、各自荷物と共に席を立つ。
 どうやら戸締りはコーチがしてくれるらしくゾロゾロゾロと部員たちは部屋を後にし、自然連なってクラブハウスを後にした。
「なんか食って帰るやつ〜」
 傘を差しながら振り返ったエース・横山の提言に大方の部員は同意の素振りを見せたのだが、
「…っと、悪い。俺ちょっと行くとこあるから」
 小声で傍にいた同級生の阿部に告げたのは暁だ。
 何だ珍しい
 とでも言いたげな目つきで頷いた阿部だったが、
「もしや彼女?」
 言い終わる間もなく、左手をメガホンの如く口元に添えた仕草に、
「違う、男だっ。騒ぐなバカ」
 危機一髪…ながらも何とか騒ぎにならずに済んだことに、ふぅと暁が息をついていると、
「そういえば長谷部さん」
 後方から声がかかる。
 阿部とそろって振り返ると、
「沢村ってば、最近女子大生にハマってるそうですよ」
 久々ながらも、やはり威吹の話題は暁から。という設定は健在なようだ。
「ふぅ…ん」
 と中途半端に返した暁とは対照的に瞳をキラリンと輝かせて、
「が〜、ついに女子高生に飽きたってことかよ」
 話題に食い付いたのは阿部。
「やっぱ美人なのか?」
 ワクワクオーラ全開での興味津々な問いかけに、
「今までの流れからして派手目の美人だと思います、なんせ料理始めるくらいの入れ込みようですから」
 なんとも意外な単語が飛び出した。
「料理? って…何だ?」
 意味が分からずテンション下げ気味の阿部ではあったが、
「図書館の料理本コーナーで、なんか読みふけってるらしいんですよ。しかも一番最近の彼女が先週いきなりフラれたって言いふらしてて、学校内じゃ誰も連れ歩いてないから絶対今度は一人暮らしの女子大生の部屋に入り浸って尽くしてるって」
「…やったことのない料理勉強して?」
 うんうん、と頷いて見せた野田はうっとりとした面持ちで、
「いいっスよねっ、大学生の綺麗なお姉さんの部屋で料理作って待ってるなんてっ」
「で、食事の後は豊満な胸にこうギュ〜っとってか?!」
「いいや、俺としてはまずシャワーして欲しいっスね。 “キレイになるまでいい子で待っててね、チュッ” とか絶対やってんっスよぉ」
 すでに妄想と願望のみで盛り上がっている二人。
「ぅおおおお、そんな彼女がいたら俺だって野球より料理人目指すぜ。絶対!」


「って言ってたぞ」
 カウンター越しにフライパンの上で、ベーコンがカリカリに焼ける様子を目を細めて眺めながらの暁。
 人をうっとりとさせるものは何も性がらみばかりとは限らない。
 小さな店内に広がる芳ばしい脂の香りで夢見心地に誘われたって仕方がないだろう。
「野球部改め三文官能劇団に変更するべきですね。意外性があって、結構流行るかもしんない」
 意外なのは驚くでもなく、だからといって特に気を悪くするそぶりも見せない威吹の方で、
「…それは噂が事実ってこと?」
 コンロの火を止め、まだジュージュー音を立てているフライパンを持ったまま暁の前に移動して来た威吹は、
「図書館で料理の本見てたのは事実ですけど…。好き勝手噂されるのは別に今始まったことじゃないから」
 まな板の上に用意してあったパンの上にベーコンを敷く。
「まぁ、外に彼女が居るって思われてる方がかえって有り難い」
 モテる男は言うことが違うよな、なんて関心していた暁だが、ふと調理台から視線を上げて、
「ってことは本命は学園内の誰かなんだ?」
 言葉で威吹も視線を向けた。
 少しの間その姿勢のまま暁を見つめていた威吹だが、
「そうですよ」
 あっさり肯定すると、最後の食パンを乗せてしまい、包丁を手に表情を改めた。
 これを切るのか。
 というくらい沢山の具材がサンドされているのだが切らなければ、これを食べるのか。といった状況でもある。
 つられて見入っている暁の目の前で、
 サク
 サク
 サク
 っとその一群が奇麗に切り分けられて、思わず拍手を送りたくなったが、つい思い止まってしまった。
 こんなことで喜んでしまう自分と、慣れた手つきで料理を仕上げていく威吹。
 一緒に居ると年上であるプレッシャーを感じないではいられない。
 と、思うのも実は束の間で、
「うまい〜っ!!」
 食べ物のなせる技なのか、本来それほどプライドを気にしない暁の性格のせいなのか直ぐに地が出てしまうのだ。
 先週ここで初めて威吹の料理をごちそうになった時もそうだったが、暁の “うまい” のひとことで威吹は本当に心底嬉しそうな笑顔を見せてくれる。
 それがまた暁の嬉しさを倍増させて、初めて食するアメリカンクラブハウスサンドを頬張りながら笑顔を向けると、一瞬威吹は目を見開いて…何やらぎこちなく視線を逸らしつつ咳ばらい。
「どうかしたか?」
 と訊きたいところだが口の中がいっぱいでモゴモゴしている暁の顔…いや正確にはその口元に目を止めた威吹。
 じっとそこを見つめたまま静かに伸び出た指先の行方を、暁が逃げるでもなく追ってしまっているのは、ある意味習慣づけられたといっていいのかもしれない。
 二人が出会ったあの一件。
 つまり自転車パンク騒動の片が付いた後、暁の顔に付いた油汚れを威吹が当然のごとくギュギュっとハンカチで拭ったのが始まり。で、しばらくのブランクはあったものの、先週久々の再会では暁の怪我を気遣うあまり、ことあるごとに手を取り腕を取り。
 うっかり腰かけていた高い椅子からずり落ちた時など、ほとんど抱きかかえるように暁を助けてくれたのだ。
 かなりビックリはしたが親切にしてくれている威吹を押しのけるのも申し訳無くて好意に甘えてしまった結果、今現在肩が触れ合う距離で座っていることも多少のスキンシップも気にならなくなってしまっている。
 だから、伸び出た人差し指が暁の口元についたソースを拭い取った行為までは、
 あっサンキュ
 程度の気持ちで受け止めたのだが、
「……」
 その指のソースをペロリと舐めたとなると、さすがに暁の許容範囲を超えるってものだ。
「…日本人には向かないぞ、それ」
 やや呆然とした暁の言葉に片眉を上げ、
「まるで俺が異国の人間みたいに聞こえますけど?」
 威吹の問いかけ。
「帰国子女じゃないのか?」
「? 何でまたそんなこと…。そもそも俺、日本から出たこと無いですよ」
 見合す二人はお互いに怪訝な顔つきだ。
 その原因を作った気がした暁は、
「え…っと」
 考えながら、
「でもいつもすごく気がきいて親切だし、こんなの作ってくれるし」
 連れていた彼女のエスコートの仕方などは、自然に身についたようにしか思えなかった。そして一番気になっているスキンシップについてはあえて伏せた暁の思惑を知ってか知らずか、
「誰にでもこんなことするほど俺、お人好しじゃないですよ。アメリカンクラブハウスサンドは単純に長谷部さんが知らなかっただけで、そんなに珍しい料理でも無いし…、大体こないだ作ったのは焼きそばだったじゃないですか」
 …確かに外国で覚えてきたとは思い難い。
 ということは、
「つまり」
「両親とも日本生まれの日本育ち。俺は生粋の日本人です」
 ふん…
 っと納得しかけたのだが、
「だったら」
「コーヒー淹れましょうか」
 なぜ?
 疑念は残る。が、椅子から立ち上がりカウンターの中へと入って行く威吹にしつこく食い下がるほどの質問なのかどうか悩みどころでもあった。











 カリカリカリカリ…









 カリカリカリカリ…









 カリカリカリカリ…













「恩師の先生、どうでした?」
 コーヒー豆を挽きながらの威吹の問いかけ。
 奇麗に片付いたカウンターに頬杖を付いて、漂い始めた芳しい香りと豆が砕かれる音に気持ちよく耳を傾けていた暁は声の主へと視線を向けた。
 先日美都との会話に登場した暁の恩師の見舞いへと週末に行く予定だ、と怪我をしたあの日に話したのはさりげない会話のほんのひとコマだったはず。
「うん、まぁ」
 本当は恩師を見知っている美都に報告しておこうと思っていた話なのだが、雨を理由に美都は週明け二日続きで部活を休んでいる。
 …つまりミーティング中、話題になっていた不在人物は美都のこと。
「自宅で家族とのんびりしてた、かな」
 知らない人間の話題など面白くも無いだろうと無難に答えた暁。
「じゃあ現場復帰も近そうで…、良かったですね」
「…う、ん」
 微妙に返事が濁ったのは、わだかまりが有ったせいなのだが、それを威吹はキッチリ見逃さず聞き流さず、
「何か、気になることでも?」
「……ん〜、っていうか」
 暁はふわりとアルコールランプに灯された火に視線を移し、フラスコを温めるそのやわらかい炎を眺めながら、
「先生が意外なほど家庭的だったのがなんか…。まぁ自宅に行ったんだからそれが普通なのかもしれないけど、切磋琢磨って印象の先生だから職場復帰の時期とか関係無く、自分の部屋でもっと色んな準備してるんじゃないかって」
 考えるよう目を細め、
「少なくても俺が中学の時は家庭と仕事はキッチリ分けてて…、だから妻がどうとか子供がどうとか話されてちょっと困った、っていうかさ。…で、まぁ見舞いだから、それとなく病名とかいつまで休むのかとか訊いてはみたんだけど、なんかはぐらかされた感じで…」
 定まらない視線と、結論を選びかねている暁の、
「言わなかったのだとしたら、何でかな。ってさ」
 漠然とした不安。
「気弱になってるだけ…、ならいいですね」
 威吹を見上げた暁へと、
「その先生のこと、良く知らないのが残念ですけど…」
 コーヒーを淹れる手を休めることは無いまでも、本当に残念そうな言葉に何となく威吹の優しさを見た気がして暁は頬を緩めた。
 残念だと言ったのは、きっと情報不足で上手く暁の不安を取り除ける言葉が見当たらないからだろう。
 そんな威吹の心遣いで不思議と心配な気持ちもいくらか解消されていて、
「…ありがとう」
 静かに微笑みながら言った時、ちょうど部屋いっぱいに琥珀の香りが広がった。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

 ざわめく声。
 雑多な足音。
 何てこと無い平日の、しかも夕刻も過ぎてしまった大型ショッピングモール内。
 こんな時間に混み合うのはせいぜい階下の食料品売り場ぐらいだと思っていたのだが…。
 広い吹き抜けからザっと見渡しただけでもモール全体にそこそこの人間が行き来している。




 ウィンドショッピングなんてものは苦手な暁だ。
 買うつもりがなければメンズ服売り場に来たところで、流行の最先端をチェックする気にもなれず、先ほど購入したスポーツ用品が入った袋を手にエスカレータホール辺りまでゆっくり歩いて来たところで足を止めた。
 漂ってきたのはコーヒーの香りだ。
 それを味わうようひとつ大きく深呼吸した暁は傍の手すりに肘を掛け階下を見下ろした。
 …確か1階にコーヒー専門店があったっけ
 連鎖的に威吹を思い出し、
 今何やってるんだろう
 などと考えてみる。
 傍のエスカレーターホールに吊り下げられている大きなアナログ時計を見上げると時刻は7時36分。
“模試、終わったとこだから気合入んなくて”
 余裕の表情で、
“長谷部さんが来てくれるなんら休もっかなぁ”
 なんて言葉に、真顔でサボらないよう促したのは暁だった。
 ちゃんとそれを守ってくれているのなら、今頃威吹は塾で勉学に勤しんでいるはず。
 週に2回も威吹の作る夕食をご馳走になっておいて、しかも同学年だと想定したならば多分…いや確実に学力は劣るであろう暁がそんなことを言える立場では無かった。かな、と一人気まずく頭をかいてエスカレーターホールの向こう側へと視線を向けると、枕木のような色合いで統一された店舗の前に掲げられたハンバーグステーキの大きな写真が目に入った。
 ツヤと照りのある肉塊から立ち上る湯気と染み出る肉汁。
 そして今すぐ食べてくださいとばかりの惹句に、時間的な要因も加わってかなり食欲をそそられてしまった暁。
“何かリクエストがあれば言ってくださいね”
 今、そう尋ねられたら即、


 ハンバーグ


 と答えてしまうだろう。
 誰にってもちろん母親…ではなく威吹だ。
 しかもそのセリフは暁の期待的妄想ではなく現実の出来事であったりもする。
 まぁ実際そう尋ねられたのは一昨日のかなり満腹状態の時で、特に何も思い付かず、無理に考えを出してまでリクエストするほど厚かましい性格でも無く、適当に頷いてその話題は終わってしまったのだ。が、ちなみにそれはアメリカンクラブ何がしを食べた日では無い。
 あれから幾分月日は経過している。
 だからご馳走になった週2回は焼きそばとアメリカン何がしの2回でも無く、本当にあれ以降の火曜日と金曜日。暁は威吹の手料理を食べさせてもらっているのだ。
 なぜそんなことになっているかといえば、帰り際いつも威吹が次の約束を取り付けるから。
 最初はもちろん遠慮していたのだが、
“来れない理由は何ですか?”
 …スパンとストレートに問い詰められて逃げようがなかった。
 加えて共働きで多忙な暁の母親が、食事を勧めてくれるなら有り難いと遠慮どころか喜んでいるくらいだから、その後も暁は断る術がないままだ。
 というと威吹の好意を迷惑がっているようだが、決してそういうわけではなく、むしろ…。


 と、ジーンズの後ろポケットで唐突に振動した携帯電話から流れ出る静かなギターの音色。
 ちょうど今頃の時間帯、海岸線を走る車の中で聴けばかなりいい心地にさせられそうな旋律だが、生憎ここはざわついたショッピングモール内。少し残念な面持ちで携帯電話をポケットから取り出し小さなため息をついたのはそれが原因では無く、
「…はい」
『っと、あれ? 外? です…か?』
 かなり意外なのだろうことは声色からも分かる。
 短く肯定した暁へと、
『話、違うじゃないですか。何で寄り道なんか』
「真っ直ぐ帰ったよ。それより、沢村こそなんで塾サボってんだ」
 まさしく威吹のことを考えていた最中、本人から掛ってきた電話ではあったのだが、素直に喜べる時間では無かったのだ。
 なのに逆に自分が責められては割に合わないと反撃に出はしたものの、
『あっ、やっぱ疑われてた。長谷部さん、俺サボってませんよ』
「…え? でも」
『真面目に課題に取り組んで、早めに終わらせてもらったんです』
 そうだったのか、と表情を和らげ素直に謝ろうと口を開いた暁だが、
『って知らせておこうと思って』
 つい言葉を詰まらせた。
『もしやサボってるかも、って思われてるのヤだし』
 確かにそうだ。
 親しい相手に悪く誤解されるのは喜ばしいことではない。
 威吹の気持ちは理解不能というわけでは決して無いのだが…。


“月がすごく綺麗ですよ”
“帰り道、雨に降られませんでしたか?”
“今ネットで見つけた曲、長谷部さん多分好きなんじゃないかなぁ”


 直ぐに思い付くだけでもこれだけある。
 何がかって、威吹が暁へと電話をかけてきた理由がだ。
 理解しがたいのは、わざわざ電話をよこすほどの用なのか。
 ということ。
『で、俺を塾にけしかけといて長谷部さんはどこで何してるんでしょう?』
 いつも疑問には思うものの、
『後ろの雰囲気からすると帰りに皆でってわけじゃ無いですよね?』
「うん、違う」
 話題がそこへと向かないのだ。
『練習着でグラウンドに出てたのは見ましたから…。俺ならともかく長谷部さんが途中で抜け出したとは考えられないし、でも怪我とか事故にしては落ち着き過ぎてるからこれも却下』
 相変わらずの観察力と洞察力だと感心しつつも、すっかり推理に没頭している威吹がどんな答えを出すのか興味があって、静かに言葉に耳を傾けている暁。
『つまり時間的に帰ってから即行出かけたってことだから…』
 あともう少しで結論が出ると思った矢先、

「ごめ〜ん、さとちゃん。ちょっと迷いすぎちゃ…っ、て?」

 暁が歩いて来た方向にあるメンズ服売り場から少し焦った表情で駆け寄って来た若い女性は、携帯電話を左耳に当てながら振り返った暁を見て、瞬時に足を止めると意味深に浮かべた笑顔と一緒に小指を立てて見せた。
 その解釈は、さも不愉快だといったふう目を細めて親指を立てて返した暁だったが、彼女の眉をしかめる様子に、立てた自分の指を見たまま首を捻ってしまった。
 …この表現は正しいのか?
 すると、
『カ ノ、ジョ…?』
 受話器から漏れたのは深海から響いてきたような低〜い声。
 気分を害したらしいことは気付きはしたものの、それぞれのチグハグ具合に思わず暁は笑ってしまう。
『…俺、笑い話はしてませんよ。誰、今の?』
 当然ながら、さらに不機嫌めいてしまった威吹の声に、笑いは直ぐに納め、
「母さん急に残業になってさ、晩飯どうしようかって」
『今のは誰なんですか?』
 詳しく説明してる余裕など無いようだ。
「姉ちゃん。彼氏の誕生日プレゼント買いたいからって…で、ついでに晩飯も外で食べようってことになったんだ」
『ふぅん』
「って、疑うなよ」
 そうムキになって誤解を解かなくても…、と暁自身思わなくはないのだが、
『疑ってなんかいませんけど』
 角々しい言いように、
「ほ、っ本当に突然だったし」
 一生懸命弁明せずにはいられない。
「沢村は塾が有っただろう? それを休ませてまで飯作って欲しいなんて」
『言えばいいのに』
 思わぬ発言に再び暁は言葉に詰まった。
「……」
 直ぐに答えが見つけられず、アイボリーの床へとわずかに視線を落とす。
 笑って受け流すなり、さりげなく否定するなりどうにでもなるはずなのに、なぜ窮地に立たされたような気分になるのか自分でも分からず、電話だというのに黙り込んでしまった暁の耳へと、
『で、お姉さまとは何を食べるんですか?』
 何事も無かったかのような軽い威吹の問いかけ。
『俺を差し置いてんですから、さぞかしいい物を食べる予定なんでしょうね』
 視線を上げた暁はやはり正面でデンっと構えているジューシーな肉塊に目を向け、
「ハンバーグ」
 うっ、っと一瞬唸るような声が聞こえたかと思うと、
『なんだ、しょぼい』
「だって写真がすっげぇ美味そう」
 小さな笑い混じりに、
『写真が美味そうって日本語が変。だからそんな変なハンバーグより今度、俺が作るスペシャルでヘルシーなやつのが絶対美味いですよ』
 その理屈も変だろう
 と言ってやろうと思ったのだが、
『だから今後よそでの外食は控えるように』
「…うん」
 輪をかけて理に適わなくなったというのに、うっかり肯定してしまっていた。
『ついでに、急な予定変更の時はメールとか留守録でもいいですから連絡ください」
「うん。ごめん、悪かった」
 やけに素直に謝っている自分が不思議。
『じゃあお姉さまに申し訳無いので、続きはまた夜にでも』
「う、ん?」
 …夜?
『お姉さまによろしく〜』
 一方的な要求三昧で通話は切れた。
 よろしくしたくとも姉はすでに別の店へと姿を消してしまって行方知れずになっている。
 ピッ
 と通話を切った携帯電話を手に持ったまま、手すりに肘を掛け直し頬杖をつく。
 知らずこぼれたため息。



 何となく暁は気付いてしまった。
 威吹の妙な言動と真っ直ぐ向き合おうとしないのは、自分の方なのだと。
 止めなければどこまでも近付いてくる威吹に、その理由を訊けばきっと答えを出すはずだ。
 が…
 知らなくていいのだと思う。
 問わなければさっきみたいに威吹の方から話題を逸らしてくれるから、今はこれでいい。
 黙っていればボヤンとぬるま湯に浸かっているような関係のまま、うやむやに曖昧に時を過ごしていけるんじゃないか。
 なんて…
 けれどそんな甘い考えが後々仇になってしまうわけなのだが、それが分かっていたとしても多分暁は何もできなかっただろう。


 …まさか男に恋愛感情など抱くわけがない


 と、信じて疑がう余地などないと思っていたから。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

「あいつこないだも本借りてたけど、すんげぇペースで読み漁ってるぞ」


 6月も下旬に入った頃の、とある昼休み。
 読書好きのクラスメートに付き合う形で暁は学園内にある図書館に来ていた。
 それはもう、一学校法人の所有物としてはとても立派な図書館なのだが、有難味の分からない暁は授業の一環として利用する以外そうそう立ち入ることも無い。
 学園の施設ではあるが一般の図書館同様、閲覧スペースでの私語は慎まなくてはならず特に用のない暁は、連れ立って来たもう一人の友人と共に図書館1階にあるエントランスホールに向かっていた。
「本当に作家になれそうだよな」
「正直うらやましい…、将来の目標がある奴はさ」
 暁は小さく二度頷いた。
 野球部に在籍しているからといって別に卒業したのちも野球をし続けようなどと思っているわけじゃない。
 高校生活も2年目に入ったというのにはっきりした将来の目標も無いまま、とりあえずどこか入れる大学に進学すればいいかな。くらいのものだ。

“自信が持てないのなら、持てるようになるまで一生懸命努力すればいいじゃないか”

 幼少の頃から大人しく引っ込み思案だった暁。
 当時の友人に強引に誘われ入部した野球部でのささいなエラーを先輩に責められ立ち直れなくなっていた時の恩師の言葉だった。
 それから黙々と練習に励むようになり、結果を出し周りにも認められるようになって、飛躍的に性格も前向きになったことをよく覚えている。
 だから特に野球に限っては手を抜かずひたむきに努力をするのだが、結局それだけでは人生やってはいけないのだ。
 …周りが時々刻々と進んで行っている以上、現状維持イコール取り残される。と意味は同じ。


 俺も目標持たないと…


 小さくため息をもらして顔を上げると、エントランスホールの奥。ガラス張りの窓際辺りでスラリとした足を組み、気さくな笑顔で座っている威吹が目に入った。
 気の合う仲間と雑談中、といった感じだ。
 放課後デートは何度も目撃していたが今はその姿を見ることは無く、こういうシュチュエーションで威吹を見たのは初めてだ。
 角度が悪くてよくは見えないが威吹の向い側に座っているのは多分、今年主席入学した生徒。
 他の生徒に見覚えはないなとザっと見回して、最後は威吹の直ぐ隣に座る女子生徒に目が行ってしまった。
 肩より少し上で奇麗に切りそろえられた真っ黒いストレートの髪が知的な品格を醸し出していて、格別美人ではなくても “私を見て” なんていう押しつけがましい自己主張など無く、穏やかで控えめな雰囲気がいい。
 威吹が今まで連れていた女の子たちとは全然違うタイプ…、いや違うのは威吹もそうだ。
 暁の知っている威吹とは違う。


 …こんな世界に属してたんだ


 と、
「長谷部〜、こっち空いてるぞ〜」
 いつの間にかエントランスの中央付近に立っている友人の声に、暁だけではなく威吹も視線をよこしてしまった。
 なんかタイミングが…と、思った瞬間静かに威吹は無反応で視線を逸らす。
 別に喧嘩をしたわけじゃない。
“長谷部さんとのこと、あれこれ邪推されたくないから学校では他人のふりでいましょう”
 性別などお構いなしで誰かと話をするだけでも直ぐに面白がって噂を立てられてしまうんだそうだ。
 それを知ってて理解して納得しているはずなのに、今に限って傷ついてしまった自分がいる。



 …大きな勘違い、かもしれない



 とっかえひっかえだとか年上の彼女だとか言われても平気だったというに、暁とのことだけを隠したがる特別な意味って、ただ単に役不足だから?
 ちょっと声を掛けられてひょこひょこ乗っかったりしちゃ、いけなかったのか?
 よく考えてみたら有り得ない。
 顔もスタイルも成績も良くて料理もそつなくこなしてしまう威吹が、わざわざ自分を選ぶなんてことが…。
 一生懸命頑張ってはいるけれど、人並み以上に誇れるものなんて自分には何も無い。
 しかも男じゃないか



 グヮングヮングヮン
 と頭の中で鳴り響く音が消せないまま、とにかく友人が手招きする方へと足を向け、何とか作り笑顔で空いている白いラウンジソファーへと腰を落とそうとした時だった。
「長谷部」
 呼び止められて振り返ると、直ぐ後ろに中学3年の時に同級だった村井が立っていた。
 進学してからはクラスが分かれてしまいほとんど会話をすることも無かった相手だから、呼び止められたことに少し驚きはしたものの、
「おっ、久し振り」
 頭の中の色々な雑念を振り払って普通に返したのだが…。
 なぜか村井の表情が優れない。
「? どうした?」
「…まだ連絡きてない?」
 意味が分からず何のことだと首を振って見せた暁へと、
「鳥羽先生、亡くなったって」




 世の通説通り、悪いことってものは重なるものなのだ…


 中学時代野球部の顧問だった
 鳥羽先生が亡くなった。
 だから明日行けなくなった。
 ごめん、また連絡する。


 ベッドの上でうつ伏せに寝っ転がっている暁。
 さんざん悩んで修正に修正を重ねた末、最終的にはごく短く味気無い文章を威吹へと送信し、そのまま枕へと突っ伏した。
 案の定、直ぐに携帯からあの静かで心地よい着信音が流れてきたのだが、瞬間ピクリと指を震わせたきり暁は微動だにしない。
 今日の昼休みに受けた二つのショックがごちゃごちゃになって頭の中の整理がつかないのだ。
 今の不安定な精神状態で威吹とは話をしたくなかった。

 …きっと、おかしなことを言ってしまう

 その晩何度か威吹から携帯電話へとコンタクトはあったが、結局電話には出ずメールにも目を通さなかった。
 中学野球部のOB連絡網伝いに鳥羽教諭の通夜と葬儀の連絡も受けてはいたが、暁はそれも出ないと告げた。
 決して投げ遣りになったわけでは無く、部活動を休んでまでそれに参列することをきっと恩師は望まないと思ったから。
 これをきっかけに、しばらくは野球に専念しよう。
 野球以外の面倒なことは頭から排除してしまえばいい。


 だから
 威吹とのことをあれこれ考えるのも、もうよそう。
 威吹がやたらと自分に構うのは、餌付いてしまったペットを無下に突き放せない。程度の理由に違いないのだから。
 過ぎるほど自分のことを知りたがるだとか物理的な距離が近いだとか、大した用でもないのに電話を掛けてくるだとか、そんなのは威吹にとっては他愛の無いことで、深読みしすぎて振り回された自分が馬鹿だったのだ。
 つまり、威吹と自分とがあまりに不釣り合いだという現実を突き付けられ、恩師の死のショックと負けずとも劣らないほどに今こんなにも落ち込んでいるのは自分の馬鹿さ加減にであって、威吹のことを実はどうとか何とかなんてことじゃない。
 絶対にそんな想い、有るはずがない。
 そんな当たり前のことをクドクドと自分に言い聞かせなくたって、何でもそつなくこなしてしまう威吹が、すぐに新しい何かを見つけて楽しく暮らしていく姿に陰ながらエールを送れるに決まってる。


 全然自分は大丈夫。


 だと理性はそう判断するのに、思うように動かないのが人の心。
 理に反する何かが胸の奥底で少しづつ鬱積していることに、本当は暁自身気付き始めていたのかもしれない…。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

 脱・威吹を決心してから4日目の今日。


「長谷部君て威吹君と知り合いだったの?」
 と、あまりにも威吹とは無関係そうなクラスメートにそう問いかけられ  “いぶきくん” が直ぐさま、あの威吹とつながらずキョトンと目の前に立つ女子生徒を見つめてしまった暁。
 先日の一件から図書館を含め威吹と出会いそうな場所に出向くことを控えている暁は、級友の誘いを断り昼食後のひと時を一人教室の窓際の席で外を眺めて過ごしていた。
 今の言葉はそこへフラリと寄って来た女子生徒の質問だ。
 早く答えなさいよ、とでも言いたげな愛想無い冷たい視線をじっと見つめたまま、
「…いぶき、くん?」
 小さくつぶやいている最中に誰の名前だったのかを思い出す。
「ああ、沢村ね」
 威吹君と呼んではいるが少なくとも4日前までは、威吹の口から彼女の存在をほのめかすような言葉や気配はなく、暁自身ともろくに話をしたことの無い相手だ。
 あまりの共通点の無さに、どう答えるべきか少し悩みつつ、
「前に一度、沢村の自転車修理に付き合った程度の知り合いだけど…なんで?」
 椅子に座ったまま極力平静を装いながらの問い返し。
 学校内では全くつながりが無いはずの自分と威吹とを関連付けてきたのだから、知らぬ存ぜぬでは逆に怪しまれる気がした暁の応対は正解だった。
「ん〜」
 急に品を作り出した彼女は、
「塾で長谷部君のこと訊かれたから…。その程度の付き合いなら実はナンパだったのかなぁ」
 色気を振りまいたところで、威吹の元彼女たちのレベルには到底及ばず、
 …それは無い
 と思ったものの言ってしまうわけにもいかない。
「江口って塾行ってたんだ…。で俺のこと何て訊いてきた?」
 縁を切ったって当然気にはなるのだ。
 適当に世間話しを混ぜるという技法を駆使して探りを入れてみたのだが、
「女子高生に飽きたって聞いたけど私なんかでいいのかなぁ」
 暁のことなどどうでもいいようだ。
「威吹君って結構遊んでるっぽいから、本当はタイプじゃないんだけど」
 だったら筋違いの妄想を抱くなよ。
 と、やや機嫌を下降させた暁へと、
「1年生だと人気トップ3には入るしね、付き合ったら自慢できるし」
 …つまり中身はどうでもいいのか?
「何ていっても男前だし」
 両手で髪の毛をいじりながら、ウダウダくねくねと喋る姿に、
「あいつは顔だけじゃないっ」
 喉元まで出かかった言葉をグっと呑み込んだ反動で、本格的に不機嫌の様相。
「…好きにすりゃいいじゃん」
 遊ばれて捨てられてしまえ
 彼女の言い分を本気で受け取ったわけでは無いのに、やけに攻撃的な言葉が頭に浮かんでしまい、気まずさを自嘲の笑みでごまかしつつ外へと向けた視線の先には…
「なぁによ、長谷部君って意外に冷たい…って、あれ? 威吹君??」
 中庭からジッと威吹がこちらを見ているではないか。
 開け放たれた窓から身を乗り出して、
「キャーっ! 威吹くんっ、いっぶっきく〜ん!」
 オクターブ声色を上げて手を振って見せたのは江口だが、威吹はまったく無反応でじっと視線を向けているのは多分暁にだろう。
 短いメールを送ったっきり放置されているのだ。
 当然言いたいことはあるだろうが校内では他人の振りをするのだと言ったのは威吹の方で、しかも中庭と3階。
 傍に江口が居ることも含めて考えれば直ぐにその場を離れるはずだと、黙って威吹を見続けていた暁に向け、威吹が大げさなジェスチャーで左腕を上げると親指と小指を立てた手を頬の辺りへと持って行った。
 世間で良く目にする、
「…電話?」
 っと言いながら江口が暁を振り返る。と身を潜めるよう暁は席に納まっていて、
「長谷部君、に?」
「な、わけ無いじゃん。自転車修理に付き合っただけだって言っただろっ。江口を見てたわけじゃ無いなら他の誰かに用があったってことだ」
 妙に暁の口調が早口なのは焦ってる証拠だが、江口もそこまで気が付くことは無く、
「だよねぇ〜。私だって気付かなかったのかも知れないし」
 どうでもいい存在だからだよ。
 と、今更ながらに感情に棘がある。
 心臓のバクバクも去ることながら、江口に対する怒りに似た苛立ちも治まらない。
 それに加えて無視して隠れたりしてしまった自分のことに腹を立てられたんじゃないだろうかという不安にさいなまれ、机の上で顔を覆ったまま周りの全てを遮断して暁は一人打ちひしがれていた。


 もうこれで終わりなんだ、と。

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

 間もなく…番ホームに列車が入ります。
 線路の内側まで下がってお待ちください。




 ここに着いてからこのアナウンスを何度聞いただろう。
 駅ホームの片隅にあるベンチに座ったまま瞳を閉じ俯いて暁はじっとしていた。
 恩師、鳥羽教諭の訃報を聞いてから1週間後。
 つまり今日なのだが、発達した低気圧の影響で天気が大荒れとなり、部活動は体育館の隅で軽く済ませただけで終了となった。
 初七日だと遺族も忙しいだろうかとも思ったが、今日を逃すと弔問の機会ががたたてれしまいそうで、暁は一旦帰宅したその足で恩師の家へと向かったのだ。


“あの後、長谷部君のこと気にかけてたんですよ”


 最後までいつも通り穏やかに過ごしたかったから、余命わずかであることを告げられなかったと静かに恩師の奥さんが語ってくれた。


“わざわざ時間を割いて会いに来てくれて嬉しかったって…”


 しっかり頑張ってね。
 などと遺族に励まされては遺影の前で泣くに泣けず帰路に就き電車には乗ったものの、込み上げる感情が抑え切れなくなって途中下車してしまった。
 折しも帰宅ラッシュの時間帯でもあり、人ごみを避けるようホームの最端に設置されているベンチにどうにか腰をかけ、次に何かアクションを起こすと絶対に泣いてしまう自覚があったから、暁はここで途方に暮れているのだ。
 朝から散々降りしきるこの雨のように所構わず泣いてしまえれば少しは心の負担も軽くなるだろうが、こんな所で一人無闇に泣なけるほど奔放な性格では無く、とにかく何とかこの大きな悲しみをやり過ごせないかと眼を閉じたままどれくらい経っただろう。
 傍に立つ誰かの気配がさっきから離れて行かないことに気が付いた。
 自分がこんな状態なのを棚に上げるようだが、電車や人を待っているようでもなく、でもだったら何の目的でわざわざここに立っているんだろうかと俯いたまま閉じていた瞼を少し開いてチラッと様子をうかがった。
 黒のシューズに程よく色落ちしたジーンズの裾。
 靴のサイズと立ち方でなんとなく男だな、と推測してわずかに顔を上げるやいなや、
「やっぱ長谷部さんだ」
 知ってる声だと思った瞬間、目の前の景色が一変した。
 顔を上げるより早く、正面に腰を落とし至近距離から顔を覗き込んできたのは威吹だ。
 何の心構えもないままにギョッとしたのが悪かった。
 もともと暁は限界を超えていたから、
「こんなところで何、を…っ?!!」
 いきなりボロボロボロっと大粒の涙をこぼされれば、さすがの威吹だって驚きもするだろう。
 眼前で言葉を失ってしまった威吹から視線を外し、ギュッと唇を噛んで左手で涙をぬぐうが止まるはずもない。
 とても声を出せる状態ではなくズズっと鼻をすすり、口から震える息を吐き出した時、ふわりと肩に何かがかかった。
 何事かと目を開けると当時に、
「場所、変えましょう」
 肩から担ぎあげるよう強い力で引っ張られ、バランスを崩した暁はドンと威吹に抱きついてしまった。
 うわっ、っと焦って離れようとした暁の肩はガッチリと拘束に近い状態で引き寄せられて、
「そのままで大丈夫」
 そう言って威吹は歩き出す。
「俺にくっついてれば長谷部さんの顔見えないから」
 申し出は有り難いが、それでは威吹のリスクが高すぎる。
 どう見たって男が男の肩を抱いているのだ。
 慌てて断ろうと口を開けば同時に涙腺まで開いて泣きに拍車をかけてしまったから、仕方なく差し障りのない力で威吹の背中を押しのけるよう手を当てた。
 が、何事も無かったかのようスタスタと歩は止まらない。
 だったら自分が止まれば自然離れられるだろうと歩調を鈍くすると、
「止まらない、気にしない、絶対悪くはしなから」
 ほんの少し間を置いて、
「俺のこと、信じて」
 一片の迷いも無い言いように、ただ素直に頼もしいと感じてしまった。
 暁は大きくひとつ息を吸う。
 ついさっき押し退けようとしたその右手でぎゅっとシャツを掴んだことが合図だと威吹には伝わったようで、ぱっとお互い全身の緊張が解けた途端二人の歩みがスムーズになる。
 そして、その後の威吹はすごかった。
 駅の改札を抜けタクシーに乗り目的地へとたどり着くまで、暁を抱いていることを何の不自然も無いようにちゃんと取り繕ってしまったのだ。
“体調が悪い”
 なんてどこにでもあるような言い訳ではあったが、駅員もタクシー乗務員もすんなり信じたってことは空気で分かった。
 タクシーを降りる頃には暁もずいぶん落着きを取り戻していたのだが、威吹が自分のためについてくれた “体調を崩した友人” なる嘘に最後まで付き合って、ようやく顔を上げることができたのが威吹の自宅…の離れ座敷。


 そうなのだ。
 威吹の自宅は都会の真ん中、から少し離れた古い家並みの中で静かに佇まっている馬鹿デカイ旧家だった。


「もっと楽にしてください」
 少し困ったふう威吹が言ったのは、離れにトレーが差し入れられて直ぐのこと。
 母屋の大きさを思えば家政婦が居たって全然不思議では無さそうだが、そんなものはテレビや漫画や小説の中で見かけるだけの話であって、まさか威吹が日常的にそんな空間に馴染んでいたとは思いもしなかった。
 広々とした部屋の所々に飾られた格調高い壺や掛け軸に、チラチラと目を向ける暁。
 本当の値打ちなど分かる知識は持ち合わせてはいないが、きっと相当高価な物に違いない。
 どうしてもっと凡人向けの部屋に通してくれなかったんだと訴えたいがこの屋敷内にそんな部屋が存在するのかどうかも疑問だ。
 というより、そもそもそんな注文を出せるほど大それた客でも無いのだから、仕方なく大それた客用に設けられているのであろう漆塗り高級座敷机の傍に置かれた分厚い高級座布団の隅っこで暁は居住まいを正していた。
 ちゃんと座布団の中央に座ってしまえないのは、大雨の中を移動したせいでズボンの裾が濡れてしまっているからだ。
 離れの入り口…とはいっても暁の家の玄関よりは遥かに広いのだが、そこで一通り拭かせてもらってもすっきり乾き切ったわけでも無く、濡れたズボンで座布団を汚してしまってはと遠慮しているのだが、
「着替え、持って来させましょうか?」
 目敏くそれに気付いた威吹に指摘され、慌ててブンブンと必要以上に手と顔を振ってしまった。
「だから、畏まらなくてもいいんですって」
 ため息混じりに言った威吹は暁の前。ではなく真隣の畳の上へと無造作に腰を下ろすと机の隅に置かれたトレーごと引き寄せて、
「どうぞ」
 暁の前に湯気の立ちのぼるコーヒーカップとしっとりとしたチーズケーキの乗ったケーキプレートを置いてくれる。
 相変わらず恐縮したままの暁は軽く頭を下げて見せ、
「ごめん、急に…」
 けれど威吹は特に何も返さず琥珀色で満たされたカップだけ取り上げると、トレーを机向こうの端へと押しのけた。
 その動作全てがいつになく粗雑で、
 あれ?
 っと思った時にはもうすでに手遅れ。
 乱暴気味に机の縁へ左肘を付き、斜め下からの角度で睨むよう視線を向けられた暁は今すぐ暇を申し出たくなったが、それでは目の前に並べられている品々に申し訳がない。
「食べたら直ぐ帰る。から」
 一体何が原因だったのかさっぱり分からないのだが、とにかく怒らせてしまったならと慌ててそう告げる。
 と…
「言うべきことは、それじゃ無いでしょうっ」
 突然荒げられた語気にビクッと身をすくませコーヒーカップへと伸ばしかけていた手をそのままに、威吹へと視線を向けた。
「あんなメール寄こしたっきり電話には出ないし、学校じゃ無視するし」
 確かにそれらは身に覚えのある事実で、威吹の言い分はもっともだ。 その上この期に及んでそそくさと帰ろうとしたのだから、責めらても仕方のない立場。だと思うのだが意外にも真っ直ぐに見据える威吹の瞳から感じられるのは怒りでは無く、
「心配…、してたんですよ」
 静かにゆっくりと告げられて、ふと憑き物が落ちたよう暁の緊張が解けた。
 細く長い息を吐き、伸ばしたままの手を机の縁へと置く。
 …そう
 労わる気持ちは嘘じゃない。
 他意が有ろうと無かろうと、威吹がいつだって暁を大切に扱ってくれていたのは紛れもない事実だ。
 その優しさに好意を持ってしまうのは人として当然のこと。
 だから
 それはもう受け入れてしまおう…
「あ りがと…。って言うか、ごめん。って言うか」
 下を向き何をどう話すべきか少し考えた暁は、
「実は鳥羽先生の家に行ってて」
 取りあえず今日の事情を説明すべきだと思った。
「その帰りだったんだ。…俺一度も先生んとこ顔出してなかったから」
 理由を問われるかと思って視線を上げてみたが威吹が動く気配や喋り出すようすは無い。
 また視線を落とした暁は、
「ちょうど初七日だったせいか親戚とかも来てたのに、奥さんすごく喜んでくれて中に通してくれて…。でもあんまりこういうのって俺、慣れてないから。玄関に忌中って貼ってあるのも気になったけど、家中に線香の匂いがしててなんか、怖かったな」
 俯いたまま話を続ける。
「前にも通してもらったことがある部屋なのに色んなことが違ってて、何…っていうのかなあれ。花とか線香とか乗ってる、そう。祭壇? が正面にあって位牌の傍で先生が小さな箱に入ってて…写真も飾ってあって」
 思い出すよう目を細め、
「家中の空気が重いのに写真の中の先生だけが笑ってるのがすごく不自然だって思ってるうちに」
 諦めのよう小さく息をつく。
「先生死んだんだなぁって」
 初めて実感した
「…辛いけど家族の人の前でなんか泣けなくて。どうにか家まで頑張ろうって思ったんだけど、電車の中で色々思い出したらもうダメで、乗ってられなくなった」
 ようやく顔を上げた暁は、
「情けないとこ見せちゃって…」
 威吹へと苦笑い。
「正直俺は助かったけど、沢村には迷惑かけた…。ごめん」
 理由はどうであれ公共の場で号泣していたのだ。
 威吹は優しいから単純に暁のことを心配してくれての行動だっただろうが、年下の男にすがって泣いてしまった自分のことを男としての立場から評価するとマイナスレベルまで落ち込んでしまう…、と思うと知らずため息が漏れた。
「明日、変な噂が立ってなきゃいいんだけど」
 あの時は威吹の言葉を信じるしか道はなく、威吹のリスクについてはいったん頭から消し去ったのだが…。
 きっちり隠してもらったお陰で暁の顔は見られてないだろうが、人ごみを上手く縫うように歩いていた威吹のことは私服であったとしても分かる人間には分かってしまうはずだ。
 けれど暁の懸念を知ってか知らずか、
「平気です、慣れてますから」
 サラリと言った威吹。
 前にもそれらしいことを聞いた記憶はあるのだが、
「図書館で料理本見てただけで今度は女子大生って言われただろう?」
「三文野球部劇団のやつですよね」
 不安顔で訊ねた暁とは対照的に、まるで他人事のように思い出したと威吹は頷いている。
「道端で耳打ちしたらキスしてた、とかに変わったりするんだぞ」
 軽く眉を上げながら、
「へぇ…、それは初耳だけど」
 興味深々といったふう、
「ちなみに相手は?」
「沢村との噂じゃないよ」
 身を乗り出してきた威吹をたしなめるよう軽く暁は睨み返す。
 ことの重大さを分かって無いのだろうかと、厳しい視線をそのままに、
「よく考えてもみろよ。夏服とはいっても俺、制服だし。現実にあんな状態でタクシーに乗り込んだとなると、うちの生徒に見られてたらどんな尾ひれが付いて噂が広まるか」
 すると意味深に暁へ視線を向けた威吹は、
「男をホテルに連れ込んだ、とか?」
 ここまで警告しているのに、
「楽しみですね」
 ニコッと笑えるその神経が理解できず、
「言ってる場合じゃ無いだろ? それじゃ沢村が困るだろうって」
「俺は困ったりしませんし、長谷部さんが大丈夫ならそれでいいじゃないですか」
 どうしてそんなに落ち着いていられるのかも分からない。
「…女に飽きてついに男。とか言われたらさすがに構うだろう?」
「別に構いません」
 構えよ
「どんな相手と噂されるか」
「それはちょっと面白いかも」
 面白くも無い
「年上の男に料理作って尽くしてるって」
「そこは事実に含まれるから」
 えっ?
 と一瞬思ったもののなぜか必死に言い募っている暁には意味まで噛み砕く余裕はない。
「どうしてあんなのがいいんだとか」
「人の好みは千差万別…、なぁんて」
 シレっとした威吹の態度に、
「嫌なんだよっ、そんな噂を聞かされるのがっ!」
 とうとう暁のイライラが最高潮に達してしまった。
 ザーっと降りしきる雨の音が突然部屋中に充満したのかと錯覚するくらい、いきなり訪れた沈黙。
 変な話だが、言い放った自分の言葉で自分の気持ちを自覚したという状況だから威吹の様子まで気遣かえるはずも無い。
 顔を逸らしたまま知らず握りしめていた手を机から離し口元をぬぐうよう押し当てた後、膝へと下ろしつつ軽く息を吐き暁は全身の力を抜く。
「もっと自分を大事にしろよ」
 悪意混じりのろくでもない噂を聞かされるのはもう沢山で、
「沢村は、そんなんじゃないだろう?」
 言ってしまえば、もう虚勢を張る気力もなくなった。
「こないだ、クラスのどうでもいい女子が好き勝手に沢村のこと言ってるの聞いててすごく腹が立って…。だから嫌なんだ、俺のせいで沢村が節操無しの馬鹿みたいに言われるの。すごく好きなのに庇うことも守ることも…俺はいつも何もしてやれない」
 多分告白した自覚は無かったのだろう。
「だからもし変な噂が立ったら言ってくれればいい。連れてたのは俺で、そんなんじゃ無いって。それで何か言われても俺もちゃんと否定するから」
 俯いたまま自分の話すべきことに夢中になっていた暁は気付かなかった。
「言わない」
 静かに呟いた威吹がどれほど近くに居て、
「長谷部さんの」
 愛しむような眼差しを向けているかなんて…。
「そんな噂」
 知らなかった。
「立たせたり」
 声が、
 …しない


 唇を伝うなんて


 明るい部屋で目を開けているというのに、あまりに突然でしかも至近距離での出来事に暁の思考が追い付かない。
 暁が呆然とキスを受け入れている隙に、軽く開いた唇の隙間にスルリと舌を忍ばせて無防備なその舌先へとちょんと触れる。
 と、ピクンと身体を震わせてようやく状況を悟った暁が、慌てて身体を引こうとしたが逃げる間もなく思い切り身体ごと引き寄せられて、抱き締められた。
「ぅえっ?! ちょ、何? ナニ??」
 どうしてこんなことになったんだと慌てふためいている暁へと、
「思いっきり告白しておいて、それは無いでしょう」
 呆れ声で指摘され、
「こっ、告白っっ?!」
 数分前の自分の言葉を思い出し、
 うが〜〜!!!
 っと威吹の腕の中で悶えるしかない。
 話の流れとはいえ、とんでもないことを口走ってしまった。
 とにかく否定しなければと、
「ちがっ ちがっ」
 それは違う、と言いかけた時、
「1週間」
 遮るように威吹が言った。
「一人で色々考えて考えて」
 戸惑う視線は真っ直ぐに至近距離から捕らえられ、
「今度会ったら絶対逃がさないって…決心した」
 その全ての怯えも不安も消し去るような瞳の色に、
「会えなくても、会いに行くつもりでいた」
 暁は目が離せなくなってしまう。
「鳥羽先生のことを利用したとか便乗したと思うかもしれないけど、ある時突然 “死” ってやつがやってくるかもしれないって思ったら…」
 真面目な面持ちで静かに語りかけられて、暁は抵抗を止めた。
 ジッとその深い黒を見つめていると、
「明日生きてる確証なんてどこにも無いなって…。なのに何も伝えるべきことを伝えてない自分にすごく腹が立った」
 あまりにも一面が黒く染まってしまったから暁は目を閉じてしまう。


「このままじゃ、死んでも死にきれない…」


 微かに触れただけの二度目のキス
「貰っても、いい?」
 耳元でのささやきに、腕の中で小さく首を横へと振って見せたのは、ささやかなる反発。
 超えられるはずなどないと思っていたのに…
「でも、貰う。から」



 いとも簡単に壁を超えてしまったのは、やはり威吹が好きだったんだと自分の気持ち全てを受け入れてしまった今…




 …もう、迷うことは何も無い

.......... ☆ .......... ☆ .......... ☆ ..........

 とにもかくにも素直で実直な暁。
 気持ちを認めてしまえば驚くほど受け入れも早い。
 しかも好きな相手の要求は一も二も無く受け入れたい甘やかし願望のある奥手な未経験者だから、威吹のいいように色を乗せてしまって…。
 意外にも自己制御不能状態に陥ってしまったのは、経験豊富な威吹の方だった。










 成り行きに任せに、そのままあの場所で初めての行為へとなだれ込むのが自然ではあったが、さすがに客間を汚すわけにはいかないと、離れに設けられている寝室へと移動した二人。
 バチンとスイッチが入る音に次いで部屋中が明るく照らし出される。
 否応無しに一番大きな家具へと視線が行ってしまい、僅かに尻込みしかけた暁だったが、当然そこは勝手知ったる我が家の威吹。
 ズカズカと綺麗に整えられたベッドまで歩み寄ると先にそこへと腰を落とし、その勢いでつないでいた手を強く引いたものだから、緊張する間も無く暁はベッドへと倒れこんでしまった。
 ここへきて性急に強引に侵略されるのかと焦ったが、意外にもベッドのスプリング具合と沈み込む羽根布団の肌触りと柔らかさが心地良く、ついうっとりと漏らしてしまった笑み。
 …すごくここ、気持ちいい
 と…
 ベッドが僅かに揺れ、髪に指が触れた。
 額にサラリと威吹の長い前髪がかかる。
 薄く開いている瞳が映し出すのは威吹の抜けるような黒い瞳だけ。
 …不思議と怖さは湧いてこなかった


 これで、いいんだ。きっと…


 誰よりも近くで感じたい
 ずっとずっとこの腕に捕らえられたい
 この瞳に見つめられていたい
 だから、
「全部、見たい」
 と囁かれ電灯の明かりを消すことを諦めた暁。
「隠すな」
 と言われればギュッと目を閉じシーツを掴みながらも、威吹の眼前にあられもない姿をさらしてしまい、
「もっと声が聞きたい」
 甘い声での要望に口を塞ごうとしたその手は行き場をなくし、空をさ迷わせている途中そっと威吹に手を差し伸べられホッとしたのも束の間。  猛った威吹自身にその手をあてがわれ、とっさに漏らした信じられないくらいに艶がかった自分の声。
 相手が威吹でなければ絶対に耐えられない。
 けれど
 それでも欲しいと思えるほどに、こんなにも威吹が好きなのだと何度も自覚させられて…。
 あまりの恥ずかしさに自然と涙が浮かんではくるが、どんな無茶な要求でも絶対服従に徹してしまうその健気さが、


 相手は初めてなんだから、優しくゆっくりと時間をかけて丁寧に…


 なんて威吹の理性を遠い彼方へ吹き飛ばしてしまう破目になってしまった。
 日に焼けた健康色の肌に、まるで自分の物だと誇示するよう至る所に付けられた標し。
 煌々と電燈が灯る部屋で、程良く引き締まった暁の両足は大きく開いて掲げられたまま激しく腰を打ちつけられて、もう人間らしさは戻らないんじゃないかと思うくらいに威吹の雄を全身で感じていた。
 …惹かれたのは多分優しさよりも強さだろう。
 何度イったか分からないほど貪り尽くされて、暁の意識はすでに朦朧としているというのに、



「ごめん、俺。止まんない…」



 最後の記憶は、切羽詰まった威吹の掠れた声だった。

.......... ☆ .......... ☆ .......... ☆ ..........

「随分調子悪そうだけど、本当に大丈夫かい?」
 威吹の家に着いた時は “振り” だけだった暁の体調の悪さが、帰る今になって現実のものとなってしまっている。
「… 、…。―−…」
 車庫から車を出す直前、確認するかのよう後ろを振り返って心配してくれるダンディな威吹パパに申し訳なくて、一応返事を試みた暁だが一切認識できる声としては発音できなかった。
 さも気の毒そうな表情を浮かべてくれた威吹パパへと深々と頭を下げた暁の姿に、何ともバツが悪そうな視線を向けた威吹は、
「いいから早く出してって」
 今日中には送り届けますから…。
 暁が意識を取り戻してすぐ自宅に電話をかけさせられ、何度も謝罪の言葉を繰り返しながらも丸っきり嘘でもない事情を説明した後、交わした暁の母親との約束を守りたいのだろう。
 ワンボックスカーの2列目シートを無視して3列目シート奥へと暁を押し込めると威吹がすぐ隣へと腰を下ろした。
 とはいってもバックミラーで見る限り、ふたりの距離は遠からず近からず…。
 友人として不自然な距離では無いのだが威吹はその後黙ったまま、ずっと降りしきる雨を眺めているようだ。
 手を繋いでいなければ少しそっけない感がしなくもない。
 が、奈何せん暁の体調もかなり悪く、それどころではなかった。
 ほんの少し前に繰り広げられた熱を思い出させるような温かい威吹の手に指をからませたまま、暁は瞼を閉じて誰にも気取られないよう何とか身体の疼きに耐えていたから。
 実はこの座るという体勢が何より身体には応えるのだと情事の後に悟ったのだが、ベッドの上でそれこそ甲斐甲斐しく事後処理をしてくれた威吹にそれを訴える気にはなれず…。
 そもそも疼いているのはほぼある1ヵ所に集中しているのだと知られるもの何やら気恥ずかしい。
 自分でも見たことの無い場所を威吹に晒され弄られ舐め……。
 が〜〜っ!!!
 っと一人紅くなって暁は思考を変えた。
 やはり痛みに集中でもしていなければ沸き起こる記憶に耐えられそうにない。
 などと考えつつも疲れてもいたのだろう。
 知らずトウトしてからしばらく後、


 パラパラッパラ〜っ♪


 ずいぶん軽快に鳴り響いた音にハッとして目を開ける。と、


『目的地に到着しました』


 言ったのはカーナビの声。
 相変わらずのどしゃ降りだが、見知った風景だというのはすぐに分かった。
 暁が気付いたのとほぼ同時にピクリと握った手に力を込めた威吹の反応が、その後妙に鈍いのは多分寝ぼけてでもいるんだろうと思っていたのだが、シートから立ち上がって踏み出す直前フラッとよろめく姿に、
「…っ」
 声無き声で呼んでみせると頷きながら笑顔を向けてくれた。
 その潤んだ瞳が何とも色っぽくて、少し照れながら微笑み返した暁と揃ってマンション前に停車した車から降りようとしたのは威吹にとっては当然の行為だっただろうが…。
 開け放たれたスライドドアから足を踏み出しそうとする威吹を軽く制し、暁はそのまま横をするりと通り抜けた。
 何をやってるんだとばかりに目を細めた威吹へと、笑みを乗せた唇を動かし、
“だいじょうぶ”
 と告げた暁。
 もちろん1分1秒でも長く傍に居たいというのが本音だが、足がふらついたのはきっと威吹も疲れが出たのだと解釈した。
 たとえ車中ではあってもこの土砂降りの中、威吹パパを待たせるのも申し訳が無い。
 日付は間もなく変わろうとしているのだ。
 本当は歩くことも困難ではあったが距離的にはもう知れている。一度家に帰っているから荷物というほどの物も無く、
「玄関まで送る」
 と言って引きそうにない威吹をどうにかしてもらおうと、威吹パパへと視線を向けてみた。
 とても言葉で説得できる状態ではない。
 すると有り難いことに聡い威吹パパが意を酌み取ったよう渋い笑みを返し、
「時間が時間だ、長谷部君のお家の方にもご迷惑になるから」
 威吹を説得してくれた。
 が、それでもやはり粘ろうとした威吹の肩口辺りを引っ張り、ぐいと運転席から見えない向きへと誘導した暁は、掠めるようにその唇へと唇を合わせ、間近で漆黒の瞳を捕らえたままそれこそ声を絞り出す。
「……」
 直ぐに反応が無いことにちゃんと分かっただろうかと若干不安に思った矢先、ニコリと頷く姿に暁も笑顔を返す。
 告げたのは短い愛の言葉。
 それでどうにか納得した威吹は別れ際、
「電話するから」
 次の約束を言い置いてカシャンと扉は閉じられた。
 名残惜しいが暁が去らなければ、きっとあの気のいい威吹パパも車を発進させないだろう。
 運転席に向かって頭を下げ、スモークガラスでうっすらとしか見えない威吹へと手を振って暁はマンションへと足を向けた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「で?」
 30秒…いや、1分は辛抱強く次の言葉を待っただろう。が、
「で?」
 ベッドの上に腰をかけたまま前屈みで、不満気味に同じ音を返されればもちろん話はこれで終結したことを意味している。
 けれどしかし、これではまるで、
「普通に彼氏ができただけの話に聞こえるんだが…?」
 胡坐をかいて膝を台に頬杖をつきジッと暁を見据えてみたが、静かに見返してくる姿に悪いおふざけとも思い難い。
 第一暁はそんなことをする性格では無いし、あんなにもいいタイミングでポロリと涙を流せるような演技派でも無いのだ。
 つまり、
「…その後何か有ったのか?」
 そういうことになるだろう。
 けれど予想外に、暁は小さく首を横へと振りながら、
「何も無い」
「だったら別に」
「それっきり電話もメールも無い」
 言葉を止めた美都から視線を外し、
「その晩は遅かったから仕方ないとして、次の日は放課後にでもチラッと姿を見せるかなって思ってたけど、全然会えなかった」
 ため息混じりに暁は息をつぐ。
「さっきも言ったけど、どうでもいいことでもしょっちゅう携帯に連絡くれてて、俺が連絡を絶ってた1週間でさえ毎日電話もメールもしてきてんだ。なのに、あの日を境に全く何も無くなった」
 ようやくことの重大性を理解した美都。
 しかも黙ってしまったことが、それはマズイと言ったも同然で案の定その反応に落胆の色を濃くした暁は、
「結局そういうことだったのかな…って思うだろう?」
 問われても美都はなおも沈黙していた。
 暁が気の毒で返事に窮していたわけで無く、その結論には何か…どこか違和感を感じるのだ。
 マズイと思ったのは事実だが暁が思っているのとはマズさが本質的に違う気がして、
「…取りあえず」
 ゆっくりとした動作で真後ろの壁へと体重を預けると、
「エアコンの温度下げるか、服を着替えるかどっちかで暑さをしのげ」
 まずは気分転換
 といったところだろうか。
 じっとりと顔中に汗を滲ませてこんな内容の話をされては、回る思考も淀みそうだ。
 一方暁の方も特に気分を害することなく素直に頷いて、迷わずエアコンの温度を下げベッドに掛けてあったタオルで僅かな露出部分を拭いたあと、ジャージのファスナーを緩めもせず器用に首筋と上半身の汗を拭き取って行く。
 その様子を何気なく観察していた美都は、
「長谷部って、キスマーク付けたこと有るか?」
 ふと思いついた疑問を投げかけてみた。
 普通にしてればいいものを、途端頬を真っ赤に染めアワアワなってしまった暁のその反応そのものが、ひたすら刻印されました、と口ほどに語っているのだとは気付いてなさそうだからこの際そこには触れないでおいて、
「いや…、変な意味じゃないことも無いんだが」
 妙な言葉で話をつなぐ。
「それって “こいつは俺のもんだ” って標だと思わないか?」
 少なくとも俺はそうだ。
 とまで言えば話がややこしくなりそうで、それもこの際伏せておく。
「どうでもいい相手に4日も消えないような痕つけまくるかなぁ、って思うんだよ」
 そういう癖だという可能性も有りはするが、それにしてもここまで隠さなければならないほど方々に痕を残すとなると、それはそれで結構大変な作業なのだ。
 まだタオルごとジャージの中に手を突っ込んだまま、困った表情で答えかねている暁へ、
「話を聞いた限りだと押してたのは沢村の方じゃないか」
「だからそれは、そういうのが目的」
「にしては準備期間が長すぎる」
 言葉を遮った美都。
「最初に飯食わしてもらってから1ヵ月は経ってるんだろ? 狙った獲物にそんなに時間をかけてる人間に、とっかえひっかえなんて噂が出たりするものかなぁ」
「…俺の外にも」
「同時進行できる奴の噂だったら、あれもこれもだろう。とっかえひっかえって言われてるからには期間はどうであれちゃんと切ってから次に」
 何やら情けない表情になってしまった暁に気付いて、
「って言われてたのは少し前までで」
 出した例えが悪かったなと美都は軽く反省。
 話の流れとはいえ、自分を抱いた男のそんな異性お付き合い傾向を分析されて嬉しいはずが無い。
「ここ最近は学校外の年上の女で定着してるって聞いたんだが」
 言いつつ表情を改めた美都へ頷いてみせた暁だが、その話題は野球部員達と居た時に出たはずだと考えて、そういえば威吹の話題が出る時は美都が不在の時ばかりだったことを思い出す。
 わざと避けたというよりは、経験者の余裕で冷たく会話に水を差されることを本能的に察知した結果だろう。
 さほど最近の噂ではなかったが、
「それって長谷部のことじゃないのか?」
 言葉にほんの少し間をおいて、
「ぁあ?」
 それは正しくないだろうとばかりに眉間にしわを寄せた暁。
「何でいきなりそうなるんだよ」
 あの日の会話を思い出し、
「噂は否定してたけど…校内に本命は居るって言ったから俺じゃ無いに決まってるだろ」
 普通、本人にそんなことは言わないはずだ。
 暁もいきさつを全て話したわけでは無いから、あの日の細かい会話までは美都も知らない。
「それは本命の名前を聞いたってことか?」
 短く否定した暁へ、
「だったら有り得なくは無いだろう? その噂って先月の終わり頃に出た噂だって聞いたんだが、長谷部が沢村と会うようになった時期と重なるじゃないか」
 これはインフルエンザの会話の後、下校までに和臣が集めてきた情報だ。
 端から暁と威吹の関係を真に受けてなかった美都は今頃になって和臣の話を頭の中で整理していた。
“付き合い出して2日しか経ってない彼女をろくな理由も無しに振ったこと、図書館で料理の本を読み漁ってたこと、次の彼女のお披露目をしないこと。多分この事実に、振られた女の妬みとモテない男のやっかみが混じってそんな噂になったんだろう。沢村がそれを訂正しないのは、噂話しに慣れてることと…”
「それが本当だと思ってくれてるほうが都合がいい事情が有るんだよ」
 あの和臣の情報網にも掛からないくらい上手く立ち回った程だから、
「邪魔されたくなかったんじゃないのか? 長谷部とのことを」
 強面と歯に衣着せぬ横柄な態度で名の通ってる美都だからこそ恋人を含めての噂は、それほど害の無い程度で納まってはいるが、軟派なイメージが付いてしまっている威吹の場合、周囲を含めての噂話がそんな可愛いものでは済まないことを本人は十二分に承知しているのだ。
「…でも」
 美都の話は理解できる。
 が、暁の表情は相変わらず優れない。
「だったら連絡が無い理由はどうなんだ?」
「何か事情が」
 けれど言葉をもぎ取るようにかぶりを振った暁。
 いつの間にかジャージから出した手をぎゅっと握りしめて膝の上に置いたまま、
「そんな事情は俺だって考えた。あれからずっと途方もないくらい考えて…でも、携帯の番号もメアドも家の場所だって知ってるのに何日もほっておかれる事情なんて思い付かない。森丘の言ってることも分かるし俺だってそう思いたい…っていうか思ってた。それこそ俺を好きなんじゃないかって勘違いするくらい良くしてくれてたから、だから求められたことは嘘じゃないって。俺も威吹のこと、好きになってもいいんだって思ったからそうなったんだ。でなきゃ簡単に許したりしない。後悔もしたくない。だけど…」
 深呼吸のようひとつ大きく息をつき、静かに真っ直ぐに美都を見据えると、
「何も無くなって気が付いた。俺、威吹に好きだとも付き合って欲しいとも一度も言われて無いってことに。それってうっかり言い忘れるようなことじゃないだろう?」
 心痛な面持ちでの言葉をそれでも正面から受け止めている美都へと、
「つまりそれが全てなんだよ」
 最後に漏れたのは諦めに似たため息。
 もう泣くような気配は見せないが、さすがの美都もこれ以上、可能性を持たせることには気が引けた。
 暁の勘違いであって欲しいと思う気持ちが、自然と美都の思考をプラス方向へと導いてしまっているのかも知れない。
 …結局は本人に確認しなければ分からないのだ。
 できることなら今直ぐ威吹をここへと引っ張ってきて白黒ハッキリ付けさせてやりたい気はするのだが、この手の話は第三者が絡むと面倒なことになり兼ねない。
 こんなことならもう少し和臣から威吹についての情報を聞いておけば説得するなり慰めるなりできただろう。せめて季節外れの流感なんかにかかってなければことは直ぐにでも解決するんじゃないかと考えてふと、
「インフルエンザ」
 小さく美都は呟いた。
 すっかり忘れていたがふたりの関係を示唆したきっかけはこれだ。
 案の定、目だけで “それが何だ” と問いかけた暁へと、
「沢村もインフルエンザで休んでるんだってさ」
 特に抑揚も無く美都は告げた。
 言い終わる前に訝しげに首をかしげた暁は、
「…いつ、から?」
「先週末って聞いてる。木曜日に普通にしてたなら金曜日から休んでんじゃないかな」
 答えに少し視線を落とし何か考え込んでしまった。
 あれっきり何の連絡も取れてないなら暁は今その事実を聞いたのだろう。が、高熱のあまり電話ができなかったことが原因、と説得するにはやや動機としては希薄だ。
 後から発病した暁ですらここまで回復しているのだから。
“セックスフレンド”
 などと言った時にはあまりにも暁とかけ離れた発言で、不安定な精神状態がそう言わせたのかとも思ったが、新たな情報にまだこんなにも関心を示してしまう辺り、あながちその気持ちは嘘でも無いのだろうと暁を見ながら美都は小さく嘆息してしまった。
 例え威吹に遊ばれただけなのだとしても暁は本気になってしまっているから、実際のところはどうであれ求められれば拒めない、という自覚が有るのだろう。
 事実を確認するにしろ自然消滅するにしろ、結局は本人が気持ちの整理をつけるしか術は無い。
 さっきの口振りだと本人もそのことに気付いているはずだ。
 そしてどっち付かずなこの状態が一番辛いだろうことも美都は理解している。が…


 暁の立場を考えると、今は待つしかない…か


 美都は壁に掛けてある時計を見上げた。
「…で、学校にはいつから?」
 ハッとして美都へと視線を向けた暁は、まだ思考をあれこれ巡らせていたようだ。
「明日から来れそうか?」
 極力平静を試みての質問に、
「あ゛〜…明日病院に行って確認してみるけど、明後日には行けると思う。ちょっと身体は鈍ってるけど筋トレは始めてるから部活にも行くよ」
 そう普通に返した暁へと笑顔で美都は頷いた。
 話題が威吹関連でなければそこそこ普通でいられるようだから、もう少し暁に付き合ってもやりたいが待たせたままの我が恋人のことも気にはなる。
「悪かったな、長々と」
 腰を上げ鞄と荷物をまとめて担いだ美都に、
「…来てくれてありがとう」
 短く告げた暁の表情が、訪ねて来た時よりは心持ちすっきりしたように見えるのは気のせいではないだろう。
 ふん
 と鼻を鳴らして見せた美都は、
「持つべきものはいい友達、だろ?」
 偉そうに手を腰に当て、
「ついでにその友情を壊したくないなら携帯の電源、入れておけ」
 さすがに驚いた表情の暁は、
「なんで」
「経験者だからな」
 返ってきた答えにすっかり目を丸くしてしまった。
 疑心暗鬼になってる時は色んなことから逃げたくなった、ことも有ったかなと美都は振り返る。
 事実がどうであろうとも乗り越えられれば人は強くなれるのだ。
 頑張り屋のチームメイトが挫けてしまうこと無く、ひと回り成長してくれることを祈るしかない。


 パタン


 扉を閉めると散々降った雨はようやくひと段落したのか雲の切れ間からは太陽の光が差し込んでいた。
 それほど強くは無いにしろ、いきなりの陽ざしに少し目を細め、
「おっ」
 眩しさで手をかざした先には珍しく切れ間の無い綺麗な虹。
 今閉ざされたばかりの扉を開けて暁に教えてやろうかと思ったが、そんなことは恋人の役目だと思い直しポケットから携帯電話を取り出した。
 恋人のマンションからだと方向はどっちに見えるんだろうかと考えながら三つ目のボタンを押した時、はじめて美都はそのグサリグサリと差すような視線に気が付いた。
 虹とは反対方向。
 つまり美都がこれから向かうエレベーターホール側を見やると、3軒ほど先に立つ一人の青年。
 私服だが年恰好からすれば美都と似たくらいだろう。
 ジーンズに白のTシャツ、そして白のパーカーを軽く羽織っただけなのだが意外なくらいセンス良く見える。
 長めの前髪の間からじっと美都を見据える瞳がかなり敵対的で、普段なら即座に応戦してしまうところなのだが、その顔立ちには何となく見覚えが有った。
 きっとニッコリと愛想笑いでも浮かべてくれれば、テレビで見かける若手人気タレントに見間違うかもしれない。
 ということは…
 相変わらず威嚇の表情で真っ直ぐにこちらへと向かって来る青年に、美都も静かな視線を向けながらどうしたものかと考える。
 今日初めてその存在を知ったくらいだからもちろん面識など無いが、多分きっとほぼ間違い無くこの青年こそが “沢村威吹” だろう。
 この状況で何ではあるが威吹が敵対心をむき出しにしている理由を勝手に想像した美都は、実は讃辞を送りたい気分になってしまっていて威嚇し返す気にはなれないのだ。
 だがしかし美都から声をかけるのも変な話で、大きな荷物を担ぎ直すと閉じた携帯電話ごとポケットに手を突っ込んで歩き出した。
 スタスタスタ
 と睨み合ったままお互い歩調を緩めなかったから、ほどなく二人はすれ違い、
 なんだ結局睨んだだけか…
 と思った矢先、
「……」
 小声での言葉が聞き取れず、
「あ?」
 ほぼ真横で振り返りそう訊き返した美都。
 少し低い位置ではあるが肩越しからまだ睨んだままの威吹が、
「移ってたら」
 声をひそめて、
「殺しますよ」




 …なんだ




 と言えば喧嘩が始まりそうだから表情は変えず、声にも出さなかった美都。
 告白の一つもできない癖に偉そうに
 とも思ったが、やはり言えば喧嘩になってしまうだろう。
 大体そんなに惚れてるのなら
「だったら泣かしてんじゃねぇよ」
 途端パッと表情を変えたなら伝わったはず。
 暁がどれだけ待ちわびているのかが。
 慌てて暁の部屋方向へと視線を向けた威吹だが、また直ぐに視線を戻し美都へと何か言いかけた仕草に、目配せで早く行けとだけ合図してやった。
 頭を下げるのもそこそこに駈け出した威吹の後ろ姿を眺めながら、こっそりと美都は呆れたため息をひとつ。
 それこそ、なんだ…の心境だ。
 得てしてモテる男は恋愛下手なんだろうかと思ったりもする。
 ごく近くにそんな友人が居るものだから殊更強くそう思う。
 なんて性格別恋愛傾向を分析しているうちに、威吹は扉の向こうへと消えてしまい残されたのは綺麗な虹と美都だけ。
 ポケットで握りしめていた携帯電話を取り出しかけて…電話するより会いに行こうと美都もすぐさま踵を返すと走り出す。
 大切な大好きな恋人に何をどこから話そうか
 一晩かけて新しいカップルをネタに盛り上がるのも悪くない。
 …ついでにクドクドと言われる小言覚悟で、久々に見えるところにキスマークを。
 なんて不埒なことも考えていた。








。.....終.....。










 パタン


 とゆっくり閉じた扉を玄関の壁に肩でもたれたままボンヤリと眺めている暁。
 威吹との関係を話してしまったことを後悔はしていないが、なんとなく脱力してしまっていた。
 一人になると威吹のことを考えないではいられないから、本当のところもう少し話し相手になって欲しかったのだが、それを美都に頼むのも何やら筋違いな気がして…。
 そしてもっと本音をいえばもちろん威吹が傍に居てくれればそれに越したことは無いのだが、それはもう叶いそうにない。
 と判断した方が気持ちが楽。
 …下手な期待など持たない方がいい。
 さっき美都に経緯を話しながら、結局自力で気持の整理をつけるしかないのだとも悟ったから。
 納得して抱かれたのだからああなったことは後悔したくない。と、そう美都に言った気持はもちろん嘘では無い。
 そして
 いや、だから尚更そこまで好きになった自分の気持ちを今は止めることはできないから、身体だけの関係でもつながっていられるならと思う。
 なのに暁から連絡しないのは、なけなしのプライド。
 年下の男に抱かれた男の意地だ。
 だから携帯電話の電源を切っていることに気が付いていながら美都がそこを指摘しなかったのは、それを理解してのことだろう。
 言わずとも分かってくれたことは有り難いと思いつつ、今考えると美都の対応も幾分ふに落ちない気がしないことも無い。
 普通友人のカミングアウトにはもっと動揺すべきじゃなかろうか?
 自分が意外にもあっさりはまっておいて何ではあるが、同性愛に溺れる友人にできれば諦めるよう説得するのが筋だろう。
 …思い返せば最初から同性愛に理解があるようにも言っていた、か?
 ふむ
 と少し視線を斜め方向へと移動させた暁。
 面白おかしく脚色されてはいないが、美都にもその手の噂は存在している。
 相手はやたらと綺麗な同級生の男子生徒だ。
 その生徒と校内で一緒に居るところは時々見かけるが、二人きりではなく何人かと束になっている時の方が断然多い。
 その束の中で格別その二人が親密に見えたことも無い。
 かなり目を惹く集団だから何でも言われてしまうんだな。とカウンター越しに話した時、
“それって事実でしょ?”
 威吹は不機嫌気味にそう言った。
 美都の話題を持ち出すと決まって威吹の機嫌が悪くなってしまうから、自然美都の話は避けるようになってしまっていた。から、なぜそう思うのかまでは暁には分からない。
 美都を敬遠したがる理由もよく分からない。
 で、やはりため息…。
 思考を逸らしてみたところで結局は威吹に戻ってしまうのだ。
 もう重症以外の何物でもない。
 と、


 ピーンポーン


 呼び鈴が鳴り響いた。
 さっき美都を送り出したまま施錠はかけていないから、暁はそのままの体勢で、
「開いてるぞ」
 言いながら忘れ物でもしたのかと戸口へと視線を戻した。
 ほどなくガチャリと開いた扉から顔をのぞかせたのが、


「!!  ――…」


 驚きのあまりそこで固まったまま暁は言葉が出ない。
 あ、とも。う、とも言う間も無く2歩で目の前に立ちはだかった威吹に思いきり抱きしめられた。
 一気にインフルエンザがぶり返したのかと錯覚するくらい、自分の体温が上がったことを実感。
 軽い眩暈に思わず目を閉じていた。
 直に感じる威吹の呼吸、体温、匂い。
 あれから数日しか経ってないというのに、威吹の存在がひどく懐かしくて切なくて…
 形振りかまわず抱きしめ返したかったが、実際には威吹のパーカーを弱く握りしめることしかできない。
 全てを預けてしまうことが怖い。
 すると、
「ごめん」
 言われて泣きそうになった。
 謝らなければならないようなことって、
「俺」
 威吹の腕の中でかぶりを振る。


 聞きたくない
 心がきしむ
 まだ、終わりになんてしたくない


「…暁」
「いい」
「え?」
「言わなくていい」
 来てくれたならもうそれだけで…
 威吹は言葉を返さない代わりに、ひと際強く抱き寄せてその短い髪へと顔をうずめた。
 ただ黙ったまま玄関先でそうしていた二人だったが、
「中、…入っていい?」
 何か思い直した様子の威吹の問いかけに、コクリと暁が頷いたことを確認すると、その身体を抱きしめたまま少し伸びをしてカチャリと鍵は閉められた。
 次いで靴を脱ぎ肩を抱いていた腕を暁の腰へと移動させた威吹は、迷うこと無く暁を暁の部屋へとエスコート。
 玄関から一番傍にある開け放たれた扉から冷気が漂っていれば、まぁ威吹でなくてもそこに入ればいいのだと大方の予想はつくだろう。
 部屋へと一歩足を踏み入れた威吹が即座にベッドへと直行するものと覚悟していた暁だが、威吹はそこで足を止め6畳間をじっくりと見まわしている。
 物珍しくて観察しているというよりは何かを探るかのよう…特にベッドの辺りを集中的に調べているような仕草があまりにも不振めいていて、
「どうか…したのか?」
 見上げて問いかけた暁。
 声に振り向いた威吹はその瞳を間近で受け止めて、ふと笑みを漏らした。
「…何」
「それ、暁が初めて俺に言った言葉だったな。って思って」
 え?
 とその表情が語ったが威吹は視線を解くと後ろ手で部屋の扉を閉め、そこから更にベッドまで暁と共に移動すると暁だけをそこに座らせた。
 そして当の威吹はというと暁の前に向き合う位置で膝を突く。
 今度は威吹が若干見上げる形で暁の顔を覗きこめば、その瞳には不安の色が浮かんでいた。
 威吹の行動の意味が逐一分からないのだろう。
 それは仕方が無い…と威吹は思う。
 不安にさせた責任は全て自分にあるのだから…




 暁の両手を取り、威吹は一度大きく深呼吸。
 逸らすこと無くずっと威吹を見つめ続けている暁の瞳に視線を置いて、
「好きだ」
 静かにそう告げた。
「ずっと好きだった」
 静止画像のように呼吸すらも止めてしまった暁へと、
「…愛してる」
 強くその手を握り締め、
「俺の傍にいて欲しい。俺だけのために居て欲しい。絶対…大切にするから」
 だから
「俺と付き合って。暁のこと全部」
 一呼吸間を置いて、
「俺にください」





 …こんなことが本当に有り得るのかと思った





 パタリ
 硬直して微動だにしない瞳から涙だけがこぼれ落ちる。
 と暁の指へと落ちた雫を威吹がそっと唇で吸い取った。
 次いで顎の先。頬。瞳の淵。
 瞼を閉じた途端、ポロポロポロっと溢れ出した涙ごと、
「ごめん」
 威吹は暁を抱きしめる。
「言えなくて」
 顔を肩にうずめたまま暁は首を横へと振った。
 もう、充分…だと伝えたくて、ゆっくりと腕を威吹の背中へと回す。
 差し出されたこの手を取ることが許されるなら、
「返事を」
 今更そんなこと…
 だけど大切なこと。
「…は、い」
 心ごと身体ごと。
 強く、強く抱きしめていた。

- + - + - + - + - + - + - + - + - + - + -

 6畳の部屋にベッドと本棚と学習机、にそこそこ物が散乱していればそれほど広く空間が余っているとはいえないだろう。が…
 きっと誰かが中の様子をこっそりのぞき見たならば、この部屋そこまで狭くありませんよ。と言ってしまいたくなるくらい、二人は密着して座っていた。
 …お互いが一日千秋の想いでこの4日間を過ごしていたのだと思えば、それもまぁ致し方無い。
 別に誰に迷惑をかけるわけでなし…



「痕、まだ残ってんだ…」
 ひとしきりのキスの後、ジジジと胸元までジャージのファスナーを下ろしながらの言葉。
 露わになった首筋へと後方から威吹は唇を落とす。
「病院でかなり気まずかったけど」
 喉の奥での笑い声がくすぐったくて、暁は肩をすくめつつ、
「ほどほどに、って言われたぞ」
「…以後気をつけます」
 と言ったその唇がまた耳の傍に吸いついて、
「こらこらこら」
 その場所はどんな服でも隠しきれない。
 このジャージ姿もそろそろ家族に不信の目を向けられているのだ。
「インフル、かなりキツかっただろ?」
 ウエスト辺りに回されている威吹の両腕にギュッと力が込められる。
 肩口にうずめている威吹の頭に頬を寄せながら、暁が苦笑いで頷いて見せると上目遣いの威吹と目が合った。
 軽く胡坐をかいて座る威吹のちょうど股の間に暁が膝を立てて座っているという構図。だから密着具合は最適ではあるが顔が見え辛いのが難点だなと、きっとお互い同じ感想を抱いているのだろう。
 ウエストにガッチリと回している威吹の腕に重ねている暁の手をそっと取り、
「メール打とうと思ったんだ」
 指を1本1本辿るように撫ぜながらの威吹。
「あの日の帰りに…」
 暁もその指で威吹の指を追いかけてみた。
「親父が助手席に座れって言うから、そこでメール打ってたんだけどな。妙な寒気はあるし、携帯持つ手がさ。震えるんだよ」
 じゃれ合っているその指先に暁は視線を向ける。と、直ぐに後ろから無理な角度で威吹が唇を重ねてきた。
 …よそ見をするなと言いたいのだろう。
 そして、
「俺あの日、暴走してただろ? あんなにエッチがいいと思ったの初めてだったから」
 にっこりと満面の笑顔で言われたって、にっこり頬笑み返せるわけがない。
 至近距離でのいきなりなセリフに真っ赤になってしまったものの、あまりにも極上の笑みを浮かべたりするものだから威吹から暁は視線を外せない。
 う゛〜
 っと下唇を噛む仕草に、
「そういう顔するから暴走したんだ」
 可愛くて仕方がない
 とばかりに、やはり唇を寄せてしまった威吹。だったが、なすがままその身をゆだねている暁の口腔へと舌を侵入させかけて…思い止まったよう唇を離した。
 これでは話が進まない。
「ちょっとヤり過ぎたなって思ってたから、体調が良くないのもそのせいかと思ってて…」
 寒気や手の震え、などという症状を自覚していながらのその判断だ。
 よほど調子が悪かったに違いない。
「信号待ちしてる時に俺の様子がおかしいことに先に気づいたのが親父でさ。その原因が熱だと分かった途端、携帯取り上げられてそのまま病院に直行」
 つまり連絡が無かったのは、
「…携帯、取り上げられてたままってこと?」
 苦笑まじりに、いやいやと威吹は首を横へと振る。
「携帯は病院から戻って直ぐに返してもらったんだ。事件…っていうか、問題はその後に起こって」
 小さなため息が暁の喉元をかすめた。
「ああなった後だっただろ? 絶対暁にインフル移したと思ったから車降りて慌ててメール打ってたんだ。そしたらな」
 忌々しげに目を細めた威吹、
「逆側から回ってきた親父とぶつかって、はずみで落ちた携帯をつい蹴っちまった…だけで済めばまだ救いようがあったんだけど、その携帯が傍の排水溝にドボンと嵌ったんだ。当然拾いに行ったんだけど格子の蓋は硬くて直ぐには開かないし、俺の体調のこともあってそれ以上は親父に止められて…」
 …絶対再起不能だな。
 と暁も苦笑い。
「しかもインフルが親父にも移ってて、こんな危険なウィルスを持ち歩くなって熱が下がっても家からは出してもらえないし、ここの番号も調べたけど登録されてなかった」
 それは知らなかったな
 と思いながらも事実を聞いてしまえば連絡一つ無いだけで、あれほど落ち込んでしまっていた自分が馬鹿バカしくて…。
 威吹の気持ちを疑ったことも含め、とにかく申し訳なくて、
「…ごめん」
 すると威吹は少し首をかしげ、
「番号登録してないのは暁のせいじゃないだろう? そう何でもかんでも謝るものじゃない」
 勘違いな発言…と、
「でもまぁ」
 思いついたよう今度は口元に軽い笑みをのせ、
「そういう素直なとこ、好きになったんだけど」
 ちょっとした告白をしてくれた。
「多分最初に会った時に好きになったんだ」
 …いやそれは、ちょっとした告白では無いぞと、驚いて目を丸くした暁へ、驚くのはまだ早いとばかりに悪戯っぽく威吹は眉を上げて見せる。
「…実はあの時、八つ当たりされてたなんて考えたことも無いだろう?」
 今度はどんな告白をしてくれるんだろうかと、期待交じりにうんうんと頷く暁。
 確か最初の印象は故障した自転車の傍に不機嫌な新入生がいた…という程度しか覚えていないのだが、
「そんなにパンクに腹を立ててたのか?」
 相変わらずの少し間抜けた発言に威吹は薄く笑った後、
「腹を立ててたのは自転車じゃなくて、あの時の彼女に振られた理由が訳の分からないことだったからなんだ」
 へえ、といった表情で、
「…振られるんだ、威吹でも」
 いくらでも女の子が寄ってくるってことを確か本人が言っていた記憶がある。
 そんな暁の言葉など、さして気にする様子も無く、
「俺の顔しかいらない女ばっかだから、俺の人格が見えると鬱陶しくなるんだろうな。特にあん時の女はわけ分かんなくて “あなたリョウちゃんじゃないっ” って言われて」
「リョウ、ちゃん…?」
 って誰だ?
 と口ほどに暁のその表情が言ったのだろう。
「俺に似てるっていうタレントがドラマでやってる役の名前だってさ」
「……」
 暁は言葉が出ない。
「な? 普通そういう反応するだろ? 俺も、は? っとか思ってたらすんげぇ怒り出して、散々有ること無いこと言いまくられたんだ。で、あんまりな理不尽さにムカついて自転車、蹴ったらあんなことになって、ますます頭にきてるところに暁がのんきな顔してやって来た」
 それは確かにタイミングが悪かった。
 が、もちろんそれは暁の責任などでは無い。
「別に上級生だからってわざわざ関係の無い奴の面倒なんて見る必要ないのに俺が因縁つけた時、やっぱり暁謝っただろ?」
 …そうだっけ?
 とばかりに苦笑いを浮かべると、
「…謝ったんだ。ごく自然に」
 恋におちる瞬間が有るのだとしたら、きっとああいう時を言うのだろうと威吹は思う。
「それでもあの時はまだ暁が女だったらな、って程度で済むと思ってたのに次の日クラブハウスんとこで森丘さんと仲良くしてるの見てすげぇ腹立って、彼女が変わっても誰抱いてても暁のことしか考えられなくなってきて…で、あの怪我が決定的だったな」
 じっと威吹へと視線を置いている暁へ、
「コーヒーの淹れ方を覚えようと思ったのも料理の勉強したのも、全部暁に振り向いてもらいたかったからできたことだ。何度か仕掛けてたことも気付いて無いんだろう?」
 問いかけに曖昧に首を振って見せた暁。
 思い当たることが無いわけでもない、がけれどその時は…
「俺が恋愛対象になってない、って分かってた。けど触っても抱き寄せても嫌がらないし逃げないから、脈は有るのかなぁとも思ってて」
 きっとそうだったのだろう。
 いつも帰り際に約束を取り付けてくれることが嬉しかった。
「…だからそれこそ毎日、あれこれ試行錯誤と努力して。あの日やっと手に入れたって思ったのに…。詰めでしくじったよなぁ」
 ため息混じりの悔しそうな言いように、暁は眉を上げ、
「何がどう」
「好き、って言葉が無かったから他の男の前で泣いたりしたんだろ?」
 い゛っ!
 どうしてそれを
「さっきそこで森丘さんに会ったんだ。もう本当に…全く立つ瀬が無い」
 ヒシと抱きしめられて何となく分かった。
 なぜ、威吹が美都のことを殊更に敬遠したがったのか。
 嫉妬…してくれているのだ、きっと。
 そんな威吹を見ていると、最初から好きだったって言葉が本当のなのだと素直に思える。
 肩口に顔をうずめている威吹の髪を梳くように暁が指を差しいれると、あの抜けるような漆黒の瞳が間近で揺れた。
 その瞳を見つめたまま、
「…好き」
 小さく呟いて暁はそっと唇を合わせた。
 連絡の途切れた4日間を除けば、しっかりと威吹の愛情は伝わっていたから…。
 立つ瀬が無いなんてことはない。
 逆に、
「いいのかな、俺で…」
 こんなに愛されていいのかと思う。
 甘いキスの名残を含んだ言いように、威吹は柔らかく微笑んで、
「当然」



 …やはりもう
 キスが止まらない

.......... * .......... * .......... * .......... * .......... * ..........

「橡(くぬぎ)の辺りにお家が?」
「お父様は会社を三つも?」
「車も3台?」
「行く行くはお兄様と共同で?」
「まぁ♪」
「まぁ♪♪」
「まぁ♪♪♪」


 …この色めきようは何なんだ


 と、食卓の向かいに座る母親と姉がキャイキャイはしゃぐ姿に、呆れ顔でモソモソと白菜を噛んでいる暁。
 白菜とはいっても比較的味付けの濃いすき焼きを食べているというのに、あまり味を感じないのはこの妙な現状のせいだろう。
 ようやく心身共に固い絆で結ばれた二人はあの後、時間も忘れて空白の4日間を埋めるようラブラブといちゃついていた。
 そう
 文字通り時間を忘れきっていたものだから、気付かぬ間に日が暮れていて、暁の姉が帰宅した物音にお互い焦ったなんてものじゃない。
 けれど、身体だけが目的では無いことを証明したいと言って、セックス抜きでいちゃついていたことが幸いし、すぐさま身づくろいを整わせた威吹が帰るべく暁の部屋から顔をのぞかせた途端そこに居た姉のテンションが跳ね上がってしまった。
“夕ご飯、食べて帰るわよねっ”
 などと姉は長居を強要し、帰りが遅いはずの母親が特上の肉を持ってほどなく帰宅し、食卓に着く頃には父親までもがシレっと帰って来てしまった。
 つまり長谷部一家と共に威吹は夕食をとっているという状況だ。
 が、いくら好きな相手の家族だからって結婚の挨拶をしに来たわけでは無いのだ。
 家族総出のお付き合いなんて威吹には煩わしいだけだろうと思っていた暁の予想を裏切って、あの人気タレント似の笑顔を惜しげもなく振りまきながらの威吹は上手く女性陣を扱っている。
 威吹の自宅が高級住宅街にあると分かると、まるで身上調査かのように浴びせられる無遠慮な質問にもニコニコと答えている最中、
“暁先輩にはホントお世話になってます”
 なんて言われた時には、もう何やらよく分からない汗が浮かんできたりして、暁にとってはかなり居心地の悪い空間だ。
 しかもその冷や汗を拭う仕草に気づいた母親が、
「だから、さとちゃん。そんなに暑いなら着替えてきなさいって言ってるでしょう? もう熱は下がってるんだから」
 着替えられなくした元凶の前でそんなことを言ったりするのだ。
「何着てようと俺の勝手だろっ」
 っと反論しながらさりげなく威吹を見やると、余所ごとのよう笑顔で鍋をつついていた。
 助けてくれる気は無いようだ。
 このままでは威吹が帰るまでに何を言い出されるか分かったものじゃなく、逆に威吹の質問にも言ってはいけないことまで喋られてしまうかもしれない。
 意外なほどミーハーで面食いな母姉を諭してくれるのは、こうなれば頼もしき我が家の大黒柱しかいないとばかりに父親に話題を振ろうとすると、
「お父さん、グラスが空じゃないですか」
 なんて威吹の言葉に嬉しそうにグラスを差し出している父親。
 自分の家族も家族なら、威吹も何もそこまで愛想良くしなくても。と眉間のしわを濃くした矢先、
「ところで今度の週末なんですけど」
 ご機嫌な暁の父親へと相変わらずの笑顔で、
「両親も兄も留守にするので、暁先輩。お借りしてもいいですか?」
 …留守にお借り?
 つまりお泊り…?
 ってことは、と暁が考え付く前に、
「ああ、どうぞどうぞ。こんなんで良ければいつでも使ってね」
 あまりのあっさりとした返答。
 驚いた暁は、
「え? …だって父さん」
 長谷部家では外食には寛容なのだが外泊にはかなり閉鎖的…だったから結構友達付き合いでは苦労させられることも多かった。
 反射的に異議申し立てをしようと言葉を続けかけた暁の足をテーブルの下で威吹が軽く蹴る。
 見ると “黙ってろ” と視線が語っていた。
 …それも、そうだ
 何もムキになって外泊許可に文句を付けなくても、と考えて…その意味するところに思い至り、
「いい加減に着替えてきなさいって」
 と家族に口を揃えて指摘されるほど暁は真っ赤になってしまっていた。




 傍には家族と一緒になって笑っている威吹。
 ささやかな幸福感に浸りながらも、この先どこまで行けるのかまでは考えていない。
 というより想像もつかない。
 ただこんなふうに家族までも巻き込んで、長谷部家の家訓にまで影響を及ぼすくらいに暁とのことを威吹が願ってくれているうちは、ずっとずっと一緒にいられればいいと思う。


 …威吹にもそうやって感化していけるような存在でいられればと、そうであり続けたいと秘かに心に誓った暁だった。
















おわり












取りあえず仕上がったことにバンザイっ!!

調べた方もおられるかもしれませんが、
タイトルの“influence”は
influenza(インフルエンザ)の語源となる言葉で、
影響とか感化とか、そんな意味合いです。

ちゃちゃっと仕上げるつもりが、10ヵ月もかかってしまって…。
モチベーションが上がってるうちに頑張って仕上げました。

どなたかに気に入っていただければ、とても嬉しいです。
そしてそして
最後までお付き合いいただきありがとうございました。





2008.6.11 杜水月













作:杜水月
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