逃げ水 

 照り付ける夏の日差しも、流れる蝉の鳴き声もすぐ側にあって…けれどそれは薄いベールの向こうの世界
 心地良く吹き付ける冷風
 時折感じる軽い振動
 静かに流れるピアノの調べと
 囁くような優しい…
 …歌声






 ……
「…あ?」
「何て声出してんだよ、着いたぞ」
 不機嫌な声に、瞼を擦りながら緩慢に顔を上げた秀真は、
「助手席で寝るとは不届きな奴だ」
 まだ眠気眼で一生を見る。
「…寝ていいって言ったじゃないか」
 ボンヤリとした頭でも取り敢えずそう言い返した時には、既に一生は車を降りていた。
 伸びをしながら次いで車を降りた秀真は、ゆっくりと辺りを見回してみる。
 立ち並ぶ木立の中、周りの景色に溶け込むような2階建ての大きな木造建築。そこは自然以外は何も無い、世間とは少し懸け離れた空間を作り出していた。
 夏でなくても一生が仕事に利用しているのも納得できる。
「いい所だろ?」
 言葉に振り返った秀真は笑顔で頷いて見せた。















 ここは一生の別荘
 超過密スケジュールの中どうにか1週間の休みを取った一生は、強制的に休みを合わせさせた秀真を無理矢理ここに連れて来たのだった。どうしてそこまでする必要があったのかを説明するには、去年のクリスマス…いや、そこから更に8年前まで話をさかのぼらなくてはならない。
 高校生活最後のクリスマスの夜。決死の覚悟で秀真に想いを告げた一生だが、なぜか話が妙な方向へと進んでしまい最終的には秀真に8年間待たされる羽目になってしまった。ついでに将来の進路まで変えなければならなくなった一生が、ようやく8年振りに愛しい愛しい想い人に会いに行ってみれば…
 それを言い出した本人は、すっかりそのことを忘れきっているではないか。
 腹が立ったどころの話ではない。
 頭にきまくった一生は、この際とにかく強引にでもモノにしてしまおうとホテルまでは連れ込んだ。が、しかし…
 ベッドに押し倒し、力任せに唇を合わせ、シャツを引き裂く勢いで脱がせている最中にふと耳に入った秀真の嗚咽に手を止めてしまった。軽く身体を起こしてみると…ぽろぽろと涙をこぼして止めてくれと懇願する秀真に、結局は何もできなかったのだ。
 …俺も甘いな
 などと思っている一生だが、全く何もできなかったかと言えば若干の語弊があるだろう。
 襲われかけて酷い姿で号泣している秀真に、謝るどころかこの8年間の出来事を何もかも…とてもじゃないが人に言えないような話まで全て喋らせた挙げ句、一方的に私物化宣言している。もちろん秀真も黙ってはいないが、忘れた記憶を楯に取られると結局は一生の言い成りになるしかないのだ。
 しかし何やかやと言いながら、一生が身体に触れることには抵抗しなくなっているしキスまでは容認済み。秀真も何も知らずにいた高校時代のままではない、ということになるのだろう。
 で、話を戻すとして、なぜ一生が強引に秀真をここに連れて来たかというと理由は唯ひとつ。
 そろそろ二人の関係を確実なものにさせたかったのだ。
 これ以上悪戯に時を過ごすことは、あまりにも時間の無駄ではないか。





















 荷物を車から降ろし終え、一生は2階の部屋に秀真を案内する。
 時々管理業者に空気の入れ替えはしてもらっているから、いつ来ても室内は快適な状態が保たれているのだ。
 部屋に入るなり窓の外の景色に気付いた秀真は、荷物をその辺に置くと直ぐに窓を開け放ちベランダに出た。
「あそこって泳げるのか?」
 指差した先には明るい太陽の下、長い砂浜が続いている。
 砂浜があるなら尋ねるまでもない質問だろうが、こんなに天気のいい昼下がりなのに誰も居ないのだ。
「水着持ってこいって言っただろう」
 言いながら一生が肩に手を回すと、不思議顔で見上げる秀真に、
「この辺りは別荘しかないから、泳ぎに来るのもそこの連中しか居ないみたいだぜ。年寄りが多いんだか何なんだか知らないが、去年は海水浴してる奴殆ど見なかったなぁ」
 一生がここを購入したのは去年の春先。
 高校卒業式を待たずに渡英した一生が日本に帰って来たのは2年前になる。イギリスで早い内にその才能が実を結んだ一生だが、これからドカンと儲けようかという時にわざわざ帰国し活動拠点を日本に置いたのは秀真が居たからだ。
 既に業界内では名を知られていた一生が帰国後最初にプロデュースした歌手が馬鹿当たりし、そこからとんとん拍子に今の地位を確立することになった。
 音楽業界では“Issey”という名で通っているが、それ以外の活動は本名を使っている。なのに秀真がそれに気付かなかったのは、彼が世情にとんと疎いことと一生が容姿を公表していなかったから。
「まぁ、海は逃げないから海水浴は明日以降にするとしてだ、俺はちょっと寝る」
 ここに来る途中何度か運転を代われと言われた秀真だが、とてもじゃないがあんな高級車を恐ろしくて運転なんてする気になれず、何とか言い逃れて最後まで一生ひとりに運転させたのだった。
「夕飯の支度、何ならしておくけど」
 言った秀真に、
「業者に頼んであるからそれは1週間心配は要らないが…、暇なら一緒に寝るか?」
 悪戯っぽい視線を向ける。
 またそういうことを、と思って睨み返そうとすると、
「さっき散々寝てたから無理だな」
 あっさり肩から腕を放すとベランダから出て行った。
 見送る秀真は肩透かし。
 一生は強引だが押してばかりいるわけではない。時々すっと引いてみせると、秀真は必ず追いかけようとするのだ。
 取り残されると手持ち無沙汰になってしまい、直ぐに部屋へと戻った秀真だがベッドの上で横になっている一生に少し首を捻った。
「ここって一生の部屋だったのか?」
 ベッドの上から頷いてみせる一生。
「俺の部屋は?」
「もちろん、ここ」
「…ここ?」
 確認しようと秀真が部屋を見回してもベッドはひとつしかない。
 困惑顔で一生に視線を戻した秀真へと、
「何を困ってるんだ、恋人同士が一緒に寝るのは当然じゃないか」
 平然とした言いようだ。
 冗談じゃないとばかりに秀真はむっとして、
「他の部屋は?」
「無い」
「嘘つけ、沢山あったぞ」
「無いのは布団」
 言いながら一生は背を向けて布団を被ってしまった。
「こら、一生っ!」
「おやすみ」
 あっという間に交渉決裂。
 ベッドの上の固まりを忌々しく眺めながら秀真は溜め息をついた。
 前々から思ってはいたが、この傍若無人な態度は前年度自分のクラスに居た森丘美都に良く似てるではないか。決して悪い生徒ではなかったが、一度決めると引きやしない。同じクラスに居た佐伯翠との特別な関係は、さすがに受け持っていただけあって気付いてはいたが…
 佐伯もきっと苦労させられているに違いない
 自分を慰めるよう頷きながら、秀真は部屋の扉を開けて、
 いいや、年食ってる分こっちの方がずっと面倒に決まってる
 などと考えながら力任せに扉を閉めると、辺りを散策しに出て行った。

*************************

「ちゃんと食わないと大きくなれないぞ」
 側のテーブルからガガガッと椅子を引いてきた一生は、秀真の斜め前に腰を下ろす。
「お前いつまでタダ飯食い続ける気だよ」
 寮の食堂での遣り取りもすっかり慣れっこになってしまっていた秀真はもごもごとそう言いながら箸を止める様子も無い。
「食費は鯉で済まそうかと思ってさ」
「コイ?」
 本日のメニューすき焼きどんぶりを殆ど食べ終わった秀真が顔を上げると、一生はうんうんと頷いてみせた。
「プリンス池の鯉、あれ俺の親父が持ってきたんだ」
 一生の父親は学院の理事をしている。プリンス池というのは学院の中庭にある人工池の名前だ。
 秀真は言葉に少し考えてみせた後、
「あ〜、あの中庭の馬鹿鯉かぁ」
 笑って納得。
「馬鹿鯉?」
「今俺のクラスで密かに流行ってるんだ、中庭の鯉釣り。俺時々見に行くんだけどさ、糸に餌くくり付けた簡単な仕掛けで良く釣れるんだよ。それも同じ鯉が何度も釣れるんだ、馬鹿だし食い意地張ってるところなんかお前そっくり」
 わははと大ウケしている秀真を最初は軽く睨んでいた一生だが、直ぐにその瞳を輝かせるとテーブルに頬杖を突き、含みのある視線を秀真に送った。
「…何?」
 それに気付いた秀真が訝しげに尋ねると、
「中庭でコイが釣れるって言ったな?」
 確認するかのような言葉に不思議そうに秀真は頷く。
「学院の中庭で恋が釣れるんだな?」
「さっきからそう言ってるじゃないか」
「そっかぁ、それは知らなかったなぁ」
 言いながら何度か頷く一生に、
「密かな流行なんだから言いふらすなよ」
「そんな気は無いが…俺も挑戦しようかなと」
「自分ちの鯉釣りに?」
「まだ俺のものじゃないんだ」
「まだって、前はだろ?」
「いぃや、前から俺のものじゃない」
「お前んちの親父さんが寄付したんじゃないのか?」
「鯉はな」
 秀真は首を傾げる。
「…鯉はなって」
 会話のズレには気付けた秀真が心配になってテーブルの他の三人に視線を向けると、なぜか三人とも俯いている口元が笑っているのだ。
「中庭の…、鯉の話。してたよなぁ」
 視線を戻した秀真へと、
「中庭の恋の話」
 頷きながら笑顔で一生は軽く身を乗り出す。
「で、餌は何がいい? なんかのチケットとか、着るもんとか…どっか小洒落たレストランとかでもいけるか?」
 言葉にとうとう秀真は眉間にしわを寄せてしまった。
「何を言ってるんだ、鯉がそんなもんどうすんだよ。鯉の餌って言ったらパン屑とかうどんとか」
 一生の丼に視線を向けて、
「麩とか…」
「馬鹿だなぁお前」
 そう言われてもさっぱり訳が分からない。
「一生っ!!」
 秀真が混乱している間に少し離れたテーブルから河村葵の金切り声が響き、一生は溜め息をついて立ち上がった。
「なぁ」
 立ち去り際の秀真の声に、一生は自分の丼から麩をひとつ秀真の丼に移して、
「リクエストの餌なんだから、ちゃんと食えよ」
 それでもやはり最後まで理解してもらえないようだった。

........................................

「麩がそんなに面白いか?」
 2日目の晩餐は中華料理。
 スープの中の麩をレンゲで掬い上げ、ふと昔話を思い出した一生は知らず笑っていた。言葉と共に自分に視線を向けている秀真に気が付くとその口元にレンゲを差し出してみる。
「何だよ」
 言いはしたが、この体勢で求められていることは誰にだって分かる。
 いきなり何なんだとは思いながら目の前のレンゲと一生を何度か視線が往復して、嬉しそうに笑っている一生に仕方なく秀真は口を開けた。
「前は糸を付けるのを忘れてたからなぁ」
 秀真が最後まで呑み込んでしまうを確認し終えた一生は、上機嫌でまた料理を食べ出した。
 あの時に理解できていないなら、秀真はあの遣り取りを覚えてないだろう。
 言葉の意味をしつこく尋ね返され、笑って何度か躱した後、
「餌だよ餌」
 もっと秀真を混乱させた。





















 餌が功を奏したなんてことは無いだろうが、1週間あれば何とかなるだろうと思っていた一生の予想は良い意味で裏切られることになる。
 その日は意外に早く訪れたのだ。
























 3日目の晩。
 ベッドの中で何度も寝返りを打つ秀真。
 昨日も一昨日も一生は秀真が寝入るまで起きていた。
 今夜もそうしていたのだがベッドに入ってから、かなり時間が経つというのに、もぞもぞ動く秀真はどうにも眠れない様子だ。
「中途半端に寝過ぎたからな」
 何度目かの寝返りで目が合った秀真にそう呟くと小さく笑って頷き返した。
 眠れないのは昼間海ではしゃぎ過ぎ、部屋に戻ってから夕食の宅配業者に起こされるまで二人して爆睡してしまったことが原因だろう。
 意味の無い会話を少し交わした後ふっと会話が途切れた時、どちらが何を仕組んだわけでもなくそういう雰囲気になっていた。
 黙って見つめる秀真の髪を静かに掻きあげた一生の指が耳の後ろから顎のラインに沿って唇に辿り着く。触れるか触れないかの微妙なタッチで口元を流れる指に、されるがままに瞼を閉じていた秀真が何かを言いたげに薄く瞼を開けて一生に視線を返した。
 一生が僅かに目配せを送る。
 戸惑いながらも薄く唇を開きゆっくりと指をくわえ込もうとする仕草がひどくエロティックで、魅入られないよう一生は軽い深呼吸を繰り返した。
 指先が誘うように舌に触れてくるのに、次の動きを起こそうとしない一生に焦れたのか、濡れた瞳で見上げた秀真に一生は自分の唇を指して見せた。
「…キス」
 困惑する秀真。
 さっきの行為も随分大胆だったと思っているのに、一生はそれ以上を要求してくる。
 その覚悟まですべて見抜かれているんだろうか…
 …だったら
 もう、引き返すことはできない。
 視線を逸らした秀真がゆっくりと身体を起こし静かに息を吐く姿を、黙って視線で追っていた一生の瞳の上に静かに手が覆い被さる。
 息がかかる。
 優しく唇が触れた。
「今度こそ…待たないからな」
 短いキスの後、秀真を抱き込んだ一生がそう告げた。












 蒼く細い月明かりが差し込む部屋
 開け放たれた窓から響く波の律動
 影の動きと重なるベッドの軋み
 追う瞳、探る指先
 逃げる欲望を追いつめて、捕らえて、求めて、ねだる
 不規則に吹き込んでくる風が
 上り詰めようとする感情を幾度と無く現実に引き戻してしまう
 …夢に一番近い現実
 至福の微笑を浮かべた口元
 それが全てあるがままの姿なら
 もっと早くに、こうなるべきだった

 本当に待っていたのは誰だったのだろう…

*************************

 37.6℃

 体温計の数字を見て一生は溜め息をつき、
「…やっぱり」
 その仕草で秀真の落胆の声。
 昼前に目覚めた二人。
 先に秀真の体調に気が付いたのは一生の方だった。
 おはようのキスで察知した一生の、
「熱、あるんじゃないのか?」
 言葉の後、直ぐに持ってきた体温計がそれを今証明したところ。
 心はそれを受け入れたはずなのに、身体の方が付いてこなかったということだろう。どうしようもないことだが、せっかくの朝に水を差したようで秀真が傍らに座る一生を申し分けなさそうに見上げると、
「そんな顔するんじゃない」
 髪を梳くように撫ぜながらの一生は、
「薬呑んで今日はゆっくり寝てればいい」
 笑顔でそう告げた。
 休暇はあと半分残っているのだ。
 その全てを抱き合って過ごしてみたい気はしていたが、目的を既に達成した一生には精神的に余裕が有った。
 何も今更慌てることは無いだろう、と。
 オフ中の仕事は一切受け付けないとマネージャー以下その他もろもろに伝えていた一生だが、別荘の電話のベルが鳴り響いたのはそれから小1時間程過ぎた頃。
 わざわざ携帯電話の電源を切っていたにもかかわらずここまで追いかけられて、夕べのことが無ければ怒鳴り散らして電話線を引き千切っていただろうが、何せ今日は一生にとってこれまでの人生の中でもっとも心が寛大な日だったのだろう。
 確かに緊急と言えば緊急の要件でもあり、先方が近くまで出向いて来ることと、話し合いはきっちり1時間で済ませるという約束で電話を切った。
 電話の音で目を覚ましていた秀真に2,3時間で戻ると告げ、軽く済ます予定が少々長引いてしまったキスを残して別荘を後にする。
 秀真がもう一眠りしている間に戻って来れるはず。
 一生は何の心配もしていなかったのだが、とかく事件というものはこういう時に起こったりするわけだ。



























 遠ざかる一生の車のエンジン音が聞こえなくなり、広い部屋の中でひとり夏の風を感じながらまた眠りに落ちた秀真だったが、再び何かの音で目が覚める。
「…・・」
 体調のせいでなかなか頭がその音を認識してはくれないが、ひつこく急き立てるそれにようやく玄関の呼び鈴の音だと分かった。
 本当は無視したかったが、一生が業者に何か頼んでいるのだろうかとやっとの思いで身体を起こし、うるさく響くベルの音を聞きながら重い身体を引きずるように玄関へと向った。
 まずはインターフォンを先に取るのが順序だろうが、産まれてこの方そんな物に縁が無い生活を送ってきた秀真はつい玄関扉を開けてしまう。 もちろんこの規模の建物になると玄関より先に門というものが有り、人が立っていたのも前方の門の外。
 その人影は姿を現した秀真に向って大きなゼスチャーを見せながら、何やらキーキー叫んでいるようだ。
 …秀真の脳裏をよぎる過去の或る人物。
 嫌な予感にこのまま見なかったことにしたかったが玄関の扉を開けてしまっては無視するわけにも行かず炎天下の中、門の前まで歩み寄ると…
「あんた誰っ!」
 言うより早く門の間から伸び出た手に、引きずり出さんばかりの勢いでシャツを掴まれ、秀真はよろけて門に身体を打ち付けてしまう。
「こんなとこで何してんだよっ!」
 彼の金切り声が頭にキンキン響いて、本来なら両方秀真が言うべきセリフなのだろうが先を越されてしまい、
「一生はっ!」
 その一言が決め手だっただろう。
 容姿ではなくその態度が良く似ているのだ。
 高校時代当然の如く一生の横に居座り続けたあの河村葵に。
 普通の体調ならこうまで過去に捕らわれることも無かったはず。
 思考が上手く回らない秀真は、つい身を引かなければならない気にさせられて、言われるがまま彼を別荘の中に入れてしまった。
 しかし部屋の中だからといって体調が戻るわけでもなく、最悪のコンディションで黙って彼の話を聞いていれば、彼は一生の愛人だと信じて疑わない。だから、
「あんた、遊ばれたんだよ」
 最終的にはそういう結論に至るのだ。
 秀真もそれを鵜呑みにするつもりはなかったが、一生が戻るまで待てと告げても、彼にしてみれば浮気相手の主張など聞く耳を持ってはいない。
 体調のせいで緩慢にならざるを得ない秀真の所作が落ち着き払っているように見えるせいか、その内彼が感極まって、
「目障りなんだから、出て行けよっ!」
 などと大声で泣き喚かれて当たり散らされては秀真もいい加減ウンザリしてきた。
 彼と二人、これ以上こうしていることはあまりに耐え難く、
「…分かった」
 小さくそれだけ告げると、秀真は荷物をまとめに2階へと上がった。

























 林の中の小道。
 降ってくる蝉の鳴き声はうるさかったが、さっきの喚き声よりはずっとまし。けれど精神的な安息は手に入れてはみたものの、身体的にはかなり無理が有った。
 通常の倍の時間をかけ林道から抜けると、視界に広がる一面の海。
 昨日二人ではしゃぎ回ってたのが嘘みたいだ
 やっぱりまた、諦めなければいけないんだろうか…
 こんなことになるんだったら来るんじゃなかった
 抱かれたりするんじゃなかった
 泣いてしまいたくて座り込みそうになりながらも頭を振ってどうにか持ち直す。
 林道とはT字にぶつかる海沿いの道まで辿り着くと、右に向うか左に向うかで少し思案してしまった。来る時完全に助手席で寝入ってた秀真には、どっちから来たかが分からないのだ。
 道はどこかに続いているだろう
 なんて勝手な論理で右を選んだ秀真の選択は間違いだった。

























「お前…」
 約束通りかっきり1時間で仕事を打ち切った一生が、2時間振りで秀真との再開に喜びいさんで別荘に戻って来てみるとリビングで座っていたのはまったく予想外の人物。
「お帰りなさ〜い」
 言って抱き着こうとした少年を凍りつくような視線だけで止めた。
 荷物をその辺りに投げ捨て階上に向おうとした一生は、
「居ないよ」
 その一言で顔色を変える。
「邪魔だから帰らせ」
 パンッ
「…か、ずき?」
 頬を抑えて驚愕の瞳で見返されても、今は受け入れてやる余裕が無い。
「いつの話だ?」
「い、1時間位…前」
「タクシーは?」
 首を横に振ったことを確認すると、無表情で側に有ったメモ用紙に一生は何かを書きながら、
「2階の一番奥の部屋、エアコン最強にして医者呼んでおいてくれ、これ番号だ」
 指示してメモを渡すと即、車へと向った。
 林を抜けた海岸線は一本道。
 秀真が歩いて帰るつもりでいたならどこかですれ違っているはずなのだ。
 あの体調でこの炎天下の中、1時間以上歩き回ることは自殺行為。林のどこかで日差しをしのいでいればいいが、海岸線に出てしまえばこの日の高い時間に日陰は望めない。
 何せ人気の少ない別荘地。
 道を間違えて行き倒れてしまっても直ぐには見つけ出しては貰えないだろう。
 逆方向に進んでしまえば最終的には行き止まりになる。

 どこへも続かない道も有るのだ
























 なんて暑いんだ…
 歩いても歩いても海しか見えないアスファルトの道が続く。
 帽子、被ってたってこれじゃああまり意味がない
 上から照り付ける日差しもキツいがその暑さに輪をかけるのがアスファルトからの照り返しだった。喉は渇くし体力にも限界がきていることは分かっていても、休むに休めない。
 理由は日陰が見あたらないことともうひとつ。
 さっきから秀真の前方、少し先の路面が濡れているように見えるから。
 山手から湧き水が出ているのか、大波が道路に被ったのだろうと思いつつ、どうせ休むなら濡れてる路面の方が涼しいだろうと歩き続けているのだが、直ぐ側にあるはずの目的の場所にはさっきから全然辿り着けない。
 おかしいなぁ…
 殆ど思考回路の停止した頭がそれだけを頼りに歩けと信号を送っていたが、とうとう体力の限界。
 秀真は道路の脇に座り込んでしまう。
 それでも容赦無く照り付ける太陽に、このまま自分の身体まで蒸発して消滅してしまいそうだった。
 深深と帽子を被りジッとアスファルトを眺めていた秀真の口元にふっと浮かんだのは自嘲の笑み。
 …消滅できるなら、それもいいかもしれない
 さっきの彼の言う通り一生に遊ばれたってことだ。きっと8年も待たせたからその仕返しをされたんだろう。でも、ずっと好きだったのは本当だから、最後に抱いて貰えて良かったと思うことにしよう。ヒットメーカーの一生の曲聞くたびに、抱かれたことを思い出して、捨てられたこと思い出すなんて堪えられないだろうし…。だから誰のことも絶対怨まない、妬まない、憎まないから自縛霊にはなりませんように。



 死んでまでこんな想い、引き摺りたくなんかない…






















 本人には随分長い時間に感じられたが、実際には座り込んでしまってから程無く。
 どっぷり鬱気分に浸ってこの世に別れを告げながら路面を眺めていた秀真の耳に、微かにエンジン音が響いてきた。
 へぇ。最近のお迎えは車で来るんだったんだ。どこかで電車にでも乗り換えて、三途の川にはライトアップした橋とか架かってるのかなぁ…あはは
 などと頭の中では既に棺桶に入っているつもりで居たのだから、思い浮かぶこともろくなものじゃなく、ついでにちょっとキレている。
「秀真っ!」
 叫び声と共に一生が駆け寄っても、秀真には何が起こっているのか認識できない様子。しかしそんなことにはお構いなしで車に運ぼうと抱きかかえながら顔を覗き込んだ一生は、
「いてて」
 弱りきっていると思っていた秀真の抗う拳を顎に食らってしまった。
「俺だって。分からないのか?」
 こんなに衰弱しているにもかかわらず抵抗される理由が分からない。
「ほっといてくれよっ、このまま溶けて無くなるんだから」
 その言葉でさっき何かを言われて余計なことを考えていることは想像が付いたが、泣きながら嫌だと首を振られても連れ帰らないことには秀真は本当に死んでしまう。
「…頼むから言うことをきいてくれ」
 そう告げて今度こそしっかり抱きかかえるとどうにか車に乗せた。
 衣服を緩め額に冷やしたタオルをあててやる。むずかる秀真にスポーツ飲料を無理矢理飲ませ、やっとの思いで車は発進したのだった。
「変だなぁ…」
 途中で車から逃げ出さないよう、助手席に積んでいた秀真がぼそっと言葉を漏らした。
 先を急ぎながらも横目で秀真の様子を伺うと空ろな瞳で前方に視線を置いている。
「濡れてるみたいに見えるのに…」
 少し正気に戻ったように思えて、
「逃げ水」
 一生は短い言葉を返した。

 まるで、お前みたいだよ

*************************

 傾きかけた夏の日差し
 うるさく鳴いているだろう蝉の鳴き声は聞こえない
 快適温度に調整された室内で軽く瞼を閉じたまま
 静かに流れるピアノの調べを聴く
 そして囁くような優しい歌声

 ……を聴いていたのは、最近のことじゃない。














 秀真はピアノの向こうに座る一生へと視線を向けた。
 直ぐに秀真の視線には気付いた一生だが、それでも指を止めることはしなかった。
「これ…」
 呟くような秀真の声。
 ピアノの音にかき消され実際には届かなかった言葉だが、一生は笑顔で頷いて見せる。
 秀真の反応を見れば言いたいことは直ぐに分かった。
「憶えてくれてたんだ?」
 もう8年以上も経ってしまったが、あのライブの時に唯一、一生が歌った曲だった。
 本当はこの曲だけを聴かせたくて秀真をライブに呼んだのだ。
 今でも公の場で歌うことはしない一生だが、この想いだけは自分で伝えたかった。
「もう一度歌ってやりたいんだが、何せ歌ったのがあの時だけだったから…歌詞が今一つあやふやなんだ」
 少し照れたように笑う一生に秀真は首を振った。
 もちろん秀真も歌詞まで覚えてはいないが、曲だけあればあの時を回想するには充分に足りる。確か一生は放心していたと表現したが、あれは放心ではなく聴き入っていたのだ。
 本音を言えば辛かった。
 秀真はそれを自分への想いではなく、自分の想いとして受け止めてしまったから。
 手を伸ばせば届く距離に居るのに誰よりも遠い存在
 本当に離れてしまうことが恐くて想いが告げられず
 けれどそのことが想いを余計に募らせてしまう
 どうしても振り切れない想い
 どうしても諦め切れなかった
 逢いたくて、愛しくて、抱きしめたくて
 自分で自分に嘘をつき続けることへの限界
 だから秀真がずっと探し続けていたものは一生への答えではなく、
「教えて欲しい」
 別荘の1階、完全防音が施された部屋。
 ピアノの音が止んでしまうと外からの日差しと静寂だけが残る。
「俺の前から居なくなった理由」
 一生はピアノの前から立ち上がりゆっくりとした歩調で歩み寄ると、
「その前にひとつだけ」
 秀真の前で腰を落とした。
 丸一日眠っていたお陰で秀真の熱も下がり、少しやつれては見えるが昨日の後遺症もどうやら残ってはいないようだ。
「秀真の気持ちが知りたい」
「俺の…気持ち?」
 言葉には今更という含みが有る。
 一生に抱かれたという事実だけでは答えにならないのだろうか、…と。
「昨日秀真に逃げられて自信が無くなった。言葉は想いの断片にしか過ぎず…ってことは良く解ってるんだが、それでも言葉にしないと伝わらないことの方が多い」
 黙っていても想いが通じるのなら、こんなに長い年月を待つ必要など無かったのだから。
「どうしても言葉が欲しい時もあるんだよ」
 真っ直ぐに向けられた一生の視線を秀真は迷う事無く受け止める。
 …昔からその答えはずっと知っていた。
 それを受け入れる勇気があったかどうかの問題だった。
「職員室に忍び込んだ夜…俺、あの後自分の気持ちに気が付いた時、唖然として呆然として、それから愕然となった。あまりにも問題が多すぎて俺の中では対処できなかったから、だから無かったことにしてしまおうと思ったんだ。 けど、ライブで一生の歌聴いてそれが失敗だったって分かった。自分の気持ちを改めて認識させられた後の告白に拒めるはずなんて無いのに、なぜか一生は居なくなってしまった」
 溜め息とともに秀真は窓の外を、見るとも無しに眺める。
「少しでも告白された後の記憶が残ってれば、適当にそれを脚色して想い出に変えられたんだろうけど…見事に記憶が飛んでるものだから脚色しようが無くて」
 伝えられなかった想いは後を引く。
 そう言ったのは誰だっただろう
「まだ俺の中で終わってないことは解ってた」
「その割には派手に拒んでくれたじゃないか」
 秀真は苦笑いを浮かべた。
 今思えば去年のクリスマスの夜、強引な一生に恐怖を感じていたにしても、いい歳してあそこまで大泣きする必要はなかったように思える。
 が、それはそれとして、
「俺は未だに事情を把握していないんだ。8年振りに会えたと思ったらお前は機嫌損ねるし…大体あんなふうに連れ込まれてハイそうですかってデキるかよ」
「まぁ、ね」
 強引に秀真の性歴を訊き出した一生は、女は人並みにさばいていても男との経験が無いことをあの夜に知った。無意識にしろ秀真がバージンでいてくれたことは有り難かったが、逆にセックスを強要できなくなってしまったのだ。
「だが、お陰で俺は半年以上の禁欲生活だ」
「それはお互い様」
 意外な返事に一生が驚いてみせると、秀真は口元に少し笑みを浮かべて俯いた。
「…昨日行き倒れになった時、ちょっと死ぬこと覚悟してた。人って極限になると本当の自分が見えてくるもんでさぁ」
「溶けて無くなるとか言ってたが」
「あれは本気で言ったんだ。一生に捨てられるくらいなら、死んだ方がましだって思った。どうしようもないくらい好きだから」
 伸ばした腕が一生の首に絡み付く。
「ずっと好きだった。ただ好きなだけでいいと思ってたのに、抱かれてしまうと一生の全部、欲しくなってた。無くしてしまうくらいなら俺の方が消えてなくなりたい…って思うくらい好き、大好き」
「秀真」
「ホント、自分でも笑えるくらいすっごい好きなんだ。けど、どうすれば…何回言えば伝わるんだろう」
「いいよ、もう」
「…けど」
 言い足りなさそうな秀真の唇を甘く深く塞いでしまう。

 やっぱり言葉じゃ追いつかない

*************************

「どうしてこの会話の流れで、泣く必要が有るんだよ」
 大粒の涙をこぼしながら鳴咽交じりに、それでも一生の言葉に秀真は反抗的な視線を向ける。
「俺のことはどうでもいいだろっ。それより、ちゃんと質問に答えろよっ」
 一生の劇的な告白の後、暫く黙っていた秀真は突然一生を突き飛ばした。
 驚く間もなく河村葵がどうとかこうとか喚き出した秀真を少し呆然と眺めていた一生だが、直ぐに立ち直ってみせてこの件は軽くクリアした。
 最初から一生と葵の関係は一方的な葵の片思いの度が過ぎていただけのこと。秀真がどんな因縁を付けようが、一生は全てに納得のいく説明ができる。
 秀真が泣き出したのはその会話の途中で、特に何かが悲しかっわけではなく、ただ感極まって泣いていたのだ。

 ――アルコールはその時の気分を増長させてしまう。

 ということを悟るにはこの時の一生ではまだ若すぎて、秀真の言動が普通でないことは分っても、この後まさか秀真がアルコールによる一過性の記憶障害を起すなんてことは夢にも思わなかった。
 一方、秀真は秀真で心の箍が中途半端に外れたらしく、僅かに残る理性のせいで素直に一生の告白を受け入れることができない。
 河村葵の件を難無くクリアされて次なる難題を吹っかけていた。
 男同士でどうするつもりなのだと、今度は結構深刻な議題を提示されては一生も直ぐには答えられない。
「やり方は一応知識としてはあるぞ」
 これもまたアルコールのせいで頭の回転がいつに無く良く回る秀真には、残念ながらこんなことでは誤魔化されてはくれなかった。
「そんないい加減な気持ちで告白されて答えられるかよ」
 本気の言葉を無下にあしらわれ、一生は怒りの表情を向けたが、
「学院の生徒同士で卒業してからも上手く付き合ってるなんて話、お前聞いたこと有るか?」
 少し秀真を見つめた後、首を横に振った。
「学校っていう枠の中に居るから同性でも不自然に感じなくなってるけど社会に出たらきっと違うんだよ。学院内みたいにオープンで居られるわけ無いんだ。皆に後ろ指さされて、石ぶつけられたりして」
 根本的に秀真は発想が暗い。
「親とか捨ててまで俺のこと選べるのか?」
 そもそも高校生やそこらでそこまで考える必要は無いとは思うが、この夜の秀真の言葉は妙に説得力が有った。
 親の会社を継ぐつもりでいた一生にはかなり考えさせられる言葉だったのだ。
 超一流とまでは行かなくても、一部上場企業のトップに立つ人間が男と添い遂げるなどということが果たして可能なのだろうか。
 今日明日の問題でなくても何れ必ず直面してしまう問題だ。
 終わってしまうことが分かっていて無理に秀真を引き込んで、どうする?
 辛い想いをさせるだけなら始めない方がいい。
 けれど今ここで終わらせてしまえるくらいだったら、端から告白なんてしなかった。
 なら…それならば、自分の道を変えてしまおうか。
「もし、それができれば俺のこと、受け入れられる?」
 言葉に大きく目を見開いたまま暫く一生を眺めていた秀真だが、首を振ってまた泣き出してしまった。
「だから泣くようなことは言ってないって…」
 溜め息交じりに一生は秀真を抱き寄せる。
「何かいい方法考えるから、少し待っててくれないか」
 けれど腕の中で首を振る秀真。
「それどういう意味だ?」
「考えるだけなら…誰だって、……できる」
 鳴咽交じりだか何やら妙なことを言い出した。
「…は?」
「もしとか、こうしたいとかってそんな言葉並べられたって何の解決にもならないじゃないか」
「おっ…」
 一生が絶句するのも無理はない、形にして来いという要求なのだ。
「それって1年、2年の話じゃ無くなるんだぞっ」
 秀真は頷いてみせる。
「お前、何年計画のつもりで言ってるんだ」
「…年」
「なんだって?」
「10年」
「……」
5秒、間を置いて
「じゅうねん?!!!」
 思わず叫びながら秀真の肩を掴んで突き放してしまった。
「何を根拠に…」
「嫌ならいい」
 いつの間にか秀真の目が据わっているではないか。
 それに呑まれてしまったことが悪かったというよりは、酔っ払い相手にまともな会話をした一生の運が悪かった。
「5年にまけろ」
「まけない」
「三十路がくるんだぞっ」
「10年」
「じゃあ間を取って7年」
「駄目、10年」
「努力するのは俺なんだ、少しくらい妥協しろよ」
 一瞬首を捻った秀真は、
「8年」

 理不尽さを感じながらも一生は条件を受け入れてしまった。

























 何度思い返しても納得のできない話の展開ではある。結局秀真の返事すら聞いていなかったのだ。
 それでも音楽で食べていくつもりなど無かった一生が、ここまでやってこれたのはこの約束があったからに他ならない。秀真への想い云々も然ることながら、どこか意地にもなっていた。
 もともと才能があったこの道を偶然選んだことは、現時点では正解だっただろう。業界内では同性愛者は珍しい存在でもなく、神様のように崇め奉られている今の一生に私生活をどうこう言うような人間はいない。

*************************

 休暇最後の夜、夕食を取り終えた二人はデートがてらに夜道を海岸に向って歩いていた。
 林道の途中で傍の茂みから何かが逃げ去る物音。
 自然の多い場所なのだ。
 動物が人の気配に驚いて逃げたのだろうが、驚いてしまったのは動物だけじゃなく…、
「その怖がり、治んないんだな」
 一生は秀真の肩を抱いたままククっと笑い出した。
 高校卒業後ずっと一人暮らしをしている秀真。
 職業柄夜の校舎を歩き回ることも多く、昔ほど無闇やたらと恐がったりはしないが、それでもやはりこういった状況は有り難くはない。
「いつまで笑ってんだよ」
 言って秀真が睨んで見せると、一生は高校1年の合宿研修の話を始めた。
「クラス全員で肝試しした時。俺と葵はお前より先に出発してたんだけどさ、途中で葵が腹が痛いって言い出して傍に有ったお堂の裏で休んでたんだ。それ程仕掛けのあった肝試しじゃなかったから来るやつ来るやつ結構平然と通り過ぎてたのに、変な歌声が聞こえてきたなと思ったらお前と久瀬だった」
 久瀬とは3年間寮の部屋もクラスも秀真と同じだった生徒なのだが、彼も実はかなりな恐がりで歌でも歌って気を紛らわせてないと二人揃ってとてもじゃないが前に進めなかったのだ。
「声聞いてりゃビビッてるのが直ぐ分かったんだが、そういう時に限って側で鳥かなんかが鳴いたもんだから、お前等すっげえ声出して騒ぎまくって…くっ、久瀬はさ、暴走してどっか行っちまうしお前は何かに蹴つまずいてひっくり返ってるし…」
 状況を思い出している一生は笑って話が進まない。
 爆笑している一生を忌々しく思いながらも、言われてみれば何となくは憶えていた。
 懐中電灯を持ったまま久瀬がいなくなってしまい、それでもどうにか立ち上がろうとして足を挫いていることに気が付いた。恐いし痛いし情けないしでヘロヘロな姿になっていただろう。傍で見てたなら相当笑えたに違いない。
「馬鹿な奴だと思ってたんだろ」
「いや…」
 一生はどうにか笑いを治めた。
「葵が直ぐに人に甘える性格してたからかな、あの状況で一人立ち上がろうとしてる秀真のこと…健気だと思って見てた」
「普通は助けに来るんだよ」
「俺が出ようとした時に久瀬が戻って来たから」
「どうだか」
「信じろって。あれ以降俺がお前のピンチ、何度助けてやったと思ってるんだ。偶然何度もそういう場面に遭遇するわけないだろうが」
 言葉に驚いて一生を凝視する秀真。
「危なっかしくて目が離せなくなってた。久瀬の存在には嫉妬してたが、それでもまだ久瀬と一緒にいてくれた方が安心で…お前がひとりになると必ず問題が起きるんだ」
 一生はずっと秀真のことを見守り続けていたのだ。
 幾ら気付けなかったとはいえ…
「ごめん」
 呟きに一生は溜め息をひとつ。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ」
 外灯が無い為に良く分からなかったが、いつの間にか海岸線まで辿り着いていた二人。
「職員室に忍び込んだ夜、セキュリティの時間さえなければあの時に抱いてた」
 暗闇で砂浜と同化しているアスファルトを眺めながら一生は言葉を続ける。
「ずっと近くにいたのに捕まえられなかった秀真が、俺の腕の中で黙ってそうしてくれてることが答えだと思ったのに、言葉で伝えることができなくて…結局はまた逃げられた」

「…逃げ水」

 秀真が炎天下の中で追い続けていたものは蜃気楼。
 あたかもそこにあるかような幻は、決して捕まえることはできない。
「しょーも無いことは憶えてやがる」
 茶化し口調の一生の言葉に小突いてやろうと伸ばした秀真の腕を、捕らえてそのまま抱き締める。
 これが幻でないのなら
「消えてしまうなよ」
 腕の中で頷いた秀真。
「絶対に…」
 …逃げない

 心も身体も、確かにここに存在しているのだから

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「終わってみれば1週間なんて短いもんだ」
「…」
「来年もまた連れて来てやるから」
「……」
「いい加減に機嫌直せよ」
「………」
「その内慣れるから…って、おいっ! 事故る事故るっ!」
 走行中に助手席から半ば本気で首を絞められては、さすがの一生も慌てないではいられない。
「無茶しやがる」
 それでも別段怒ったふうでもない一生だったが、憮然としたまま秀真は直ぐに視線を逸らした。
 いくら好きな相手のしたことでも許せる範囲というものがある。
 夕べのことは明らかに秀真の許容範囲を超えていた。























 何度も繰り返される口付け。
 軽く、淡く……次第に深く…
 素肌を滑る指先は背骨に沿って幾度か往復してみせて、綿パンの下…の下着の中に侵入し始める。
「…道路の真ん中」
 キスの合間に軽く抵抗してみせたが、
「じゃあ、端で」
 論点が食い違っていた。
 本気で抗っても駄目で、
「どうしてそう変な所ばっかりでしたがるんだよっ」
 常識人、秀真の抗議は当然だろう。
 前日の告白の後もそうだった。
 あのままあの部屋でセックスになだれ込みそうになってしまい、夜まで待てと言ったのに聞いてはくれず、せめてベッドでと訴えてはみたが無駄だった。
 夕方だとはいえまだ日差しの入り込んでいる部屋での性行為に堪えられず、どうにか隙を見て逃げ出した秀真だが2階廊下のキッチンの前で掴まってしまい結局そこで最後までいってしまった。
「年中発情できるのは人間だけなんだぜ」
「だから何なんだ」
「フルに活用しないとな」
 勝手なことをと思いながらもバックを指で弄られて大きく息を呑んでしまう。
「やっぱり」
 一生の含み笑い。
「お前は身体に憶えさせる方が早い」

















 キッチンの時はそれでもまだ許せたがアスファルトの上で押し倒され、終わってみれば方々傷だらけ。二度と抱かれてやるかと息巻いて別荘へと戻ったが、ベッドの上でまた襲われたのだ。
「人の身体をなんだと思ってるんだ」
 軽い振動でも傷が疼いて、つい愚痴ってしまった秀真だが、
「暫く会えない」
 言葉で弾かれたように一生に視線を向ける。
「次の仕事、海外でなんだ」
「じゃあ…」
 頷く一生。
「いつから?」
「今夜」
「そう…か」
 一生と付き合って行く以上、覚悟が必要だろう。
 逢いたい時に逢えなくても、住む世界が違っていても…
「どうしても事故にさせたいわけだ」
 肩口に顔を埋めた秀真を片手で抱き寄せ一生が苦笑いを浮かべた。
 精一杯のボディランゲージ…
 秀真は嘘でも我侭が言えない。
「毎日電話する」
「うん」
「煩いくらいかけてやるから」
「うん…」
「浮気するんじゃないぞ」
「そっちこそ」
「そう思うなら…」
 肩から頬に移った指に秀真は軽くキス。
「電話で相手しろよ」
 本当にさせられるかもしれないが、
「…うん」
 一生は笑って二度ほど髪を撫ぜる。
「その内」
 そこで言葉を切ってしまうと秀真が不思議そうに見上げたが、一生が笑顔を向けると訊き返すことはしなかった。












 予感…
 していたのかもしれない
 秀真がこの時訊き返さなかったのは、もう少し時間が欲しかったのだろう
 人間誰しも欲しいものを全て手に入れることは不可能
 できるだけ多くの時間を一生と共有したいと願うなら、秀真には捨てなければならないものが沢山有った
 結婚を急っつく親戚達、教師という職業、偏見を持つ人間達…
 ただ気持ちは既に決まっていたから
“俺の所に来いよ”
 一生が続く言葉を伝えた時、迷うこと無く秀真はその言葉を受け入れることになる

 それは…

 それ程遠い未来ではない


















作:杜水月
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