さがしていた忘れもの 

    
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「先生、出席されますよね」
 隣の席からの不意の呼びかけに俺は慌てて頷いてみせると、引き出しの中から判を取り出し…
 そしておもむろに席を立った。
 職員室の隅。
 コピー機の前で立ち止まった俺は回覧のコピーを1枚とり、席に戻ると立ったまま捺印して、さっきから俺の行動を目で追っている大神先生へと回した。
「…日付、忘れると困りますから」
 不思議そうに俺を見上げた彼に軽く笑いかけると、俺はコピーを手に職員室を後にする。
 何か…
 これを見た瞬間俺の中で何かが引っ掛かったのだ
 引っ掛かりはしたものの、それが何かが分からない。
 じっと回覧を眺めながら下校時刻をとっくに過ぎた薄暗い廊下を一人歩いていた。
 なんだろう?
 こんな何てこと無い回覧の一体何がふに落ちなかったのか。
 そして、










 ゼッタイニワスレルンジャナイゾ









 突然浮かんだその言葉に、俺はますます混乱させられる。
 確かに聞いたような記憶が隅っこの方に残っている。
 でも、誰が誰に言った言葉だっただろうか?
 いつどこで聞いた言葉なんだ?
 ただ、とても大切なことだったような…
 そんな気がしてならなかった。

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 年末は誰だって忙しい
 12月は慌ただしく過ぎて行き今年最後の行事、終業式も無事終わった。あの回覧の謎については散々悩んで結局何ひとつ思い出せないまま、俺は忘年会当日を迎えてしまうことになる。
 今年度に入ってから校外での移動はいつも隣のクラス担任、大神先生と一緒だった。
 せっかちな大神先生が時間よりも30分は早く着くように学校を出てくれるお陰で大概宴会会場には一番乗り。当然席も必ず並んで座ることになってしまう。
「あの回覧失礼なこと書いてありましたよねぇ」
 コートを脱いで座布団に座るなり大神先生が話しかけてきた。
「何がですか?」
 悩みの原因を大神先生が知っているのだろうかと思ってみたが、
「問題が無かっただの、滞り無くだのって…先生のクラス大変だったじゃないですか」
 知ってるわけ無いんだよな。
「でも実際にはそれほど大きな事件にはならなかったですからね」
 2学期が始まって直ぐ、俺のクラスで乱闘事件が起きたのだ。保健室に飛び込んできた人数を見て俺の教師生活も危ういかと思ったが、生活指導の一之宮先生のお陰で殆ど御咎めなしで済ませることができた。  犠牲が無かったわけではないが…
「崎田どうでした?」
 崎田とはその事件を引き起こした男子生徒のこと。今は自宅療養中で先月の連休に俺は崎田の実家まで様子を見に行ったのだ。
「随分落ち着いたようには見えましたけど、ご両親の様子じゃ今年度中の復学は無さそうですね」
「じゃあ留年ってことですか?」
 俺は重く頷いた。
「復学させるつもりがあればの話でしょうけど」
 崎田本人の意思なんかより両親の権限の方が尊重されることになりそうだった。
 …それにしても崎田の実家
 座敷牢と変らないような場所に崎田を閉じ込めていた。彼が心を病んでしまったのはあの家庭事情に問題があるんじゃないだろうか…
「それより、大神さんはいいクラスで良かったじゃないですか」
「え? そんなふうに見えます?」
 俺は大きく頷いてみる。
「なんにもしなくても松前と橘が全部まとめてくれるでしょう」
「その分馬鹿にされてるんですよ」
 今年度、大神先生は初めて担任を受け持っていた。松前も橘も高校生にしては過ぎるほど頭が良く回る。二人共成績はトップクラス、学園内での人望も厚そうな生徒達だ。
「だいちゃんなんて、子供みたいな…」
 拗ねたように大神先生が呟いた時、部屋の襖が開く。
「あら、相変わらずお早い」
 顔を出したのは養護教諭の木村先生と1年7組担任の篠原先生。それに少し送れて2年生を受け持つ教師陣が5人ほど入って来ると、その中の一人が荷物を置いたその足でつつと歩み寄って来た。
「お疲れのところご苦労様です。早速ですが会費の方お願いします」
 言い終わらないうちに財布から出した俺の1万円札を素早く取り上げた大神先生は、自分の5千円札を俺に渡すとさっとその1万円札を幹事へと差し出した。
 その動作の何とも素早いこと。
 見た目に寄らず、ちゃっかりしっかりしてるんだ。この先生。
 俺とは正反対
「えっと1年の大神さん、と……えっと。…おー」
「おろの」
 既に俺の向かいに腰を下ろしていた木村先生が横から口を挟む。
「あ、そうそう。すいませんねぇ、なかなか憶えられなくて」
 俺はにっこり微笑んでみせた。
 しょっ中あることだ
 この名字をまともに読める人間はまずいない。
「ホント、何度見ても珍しいわよねぇ。おまけに下の名前まで読めないんだから…学生時分困ったでしょう」
「昔はそれほど不自由には思わなかったんですけどね、担任持つようになってからはちょっと」
 周りの先生方は説明するまでも無く、軽く含み笑いを浮かべた。
 姓名共に読み難い俺に付いたあだ名が“担任”。
 自分のクラスの生徒だけに呼ばれてる内は良かったのだが、いつの間にか全校生徒の担任だ。
「だいちゃんよりいいと思うんですけど」
「あら、そんなの全然普通じゃない。イワオよりましだと思わなきゃ」
 これは1年生を受け持っている科学教師のことで岩石を集めるのが趣味らしい。確かにごつごつした顔つきだろうが、苗字まで付いて岩石岩男と呼ばれている。
 生徒のセンスはなんとも恐ろしい。
「でも、この名前読めた人って居るんですか?」
「掠めたことは一度だけありましたよ」
 ほぼ完璧に近い形で言い当てられたのは、今から…何年前になるだろうか。そのことのせいだけではないが、そいつのことは誰よりも良く憶えている。
 とにかく俺の高校入学式前日のことだった。



























“7.鬼籠野 秀真”

 校舎の壁に張り付けられたクラス分けの長い紙。俺が自分のクラスを確認していると、
「何だ、あの名前…」
 物珍しそうに傍に居た何人かが囁いている。
 新学年を迎えるたびいつも同じ目にあってきた俺だ、周りの言葉を尻目にさっさとその場を立ち去ろうと方向変換した直後、
「おろの…、ほつま。…かなぁ?」
 正面での呟きに俺は真っ直ぐその声の主を凝視してしまった。
 穴が空くほど眺め入ってる俺に、声の主はうろたえるでもなく余裕で微笑んでみせ、
「もしかして本人?」
 指を差すな、とは思ったものの、誰にも言い当てられるはずが無いと確信していた俺は驚き顔のままそいつに頷いた。
「当たってた?」
「一字間違ってる」
 するとそいつは面白そうに眉を上げる。
「正解は?」
「ほずま」
「ほずまかぁ…そうかぁ…」
 わざとらしく悔しそうに呟いて見せて、
「俺、同じクラス。山口っていうんだ」
 今度は俺の後方を指差した。
 振り返ると、

“34.山口 一生”

 思わず笑ってしまった。
「簡単な字だな」
 全部小学1年生レベル
「いっせい? かずみ?」
「かずきっ!!」
 金属味を帯びた突然の呼び声に俺とそいつ、それから周りに居た何人かが振り返った先にはアンティック人形さながらの綺麗な綺麗な少年が血相を変えて駆け寄って来ていた。
 その彼が真っ直ぐに見据えていた相手は俺の正面にいる男で、その上その彼は勢いのまま、
「どこ捜してもいないと思ったら、こんな所で早速浮気しやがってっ!!」
 とんでもない言葉を口走った。
 そしてセリフが言い終わらない内に俺とそいつとの間にこれ見よがしに割って入った西洋人形の彼は、キッと俺を睨み付け、
「一生は僕がずっと前から目ぇ付けてんだからね、後からしゃしゃり出てきて横取りなんてさせないから!」
 目も口も点になった。
 男子校の寮に入ると知った同級生が、気を付けろだ何だと散々心配してくれてはいたけれど…
 こんなに早くそういう人種にお目にかかれるとは、なんて光栄なんだろう。
 って思う奴がどこにいるっ!
 俺が呆然としている間に西洋人形の彼は山口一生の手を引いて、ブリブリ怒りながら歩き出した。
「じゃあ、秀真。また明日な」
 立ち去り際、一度だけ振り返った山口一生の言葉に俺は溜め息をひとつ。
 いきなりあんなのと一緒かぁ…
 彼の外見の第一印象は可も無く不可も無く。
 西洋人形と並んでいても引けをとっていなかったから、容姿は悪く無かったにしてもその時はさして俺の印象には残らなかった。
 名前を言い当てられたこと、それと男に彼氏が居るという事実の方に気を取られていたからだ。
 初対面の人間に名前を呼び捨てられていたことに気が付いたのが夕食を取り終えた後で、その時に反論できなかった腹立ち紛れに、馴れ馴れしくて軽い男という肩書きを付けてやった。
 これは世に言う八つ当たりというやつだ。
























「…鬼籠野さんはそういうの慣れてますよねぇ」
 話題をふられて辺りを見回すと皆の視線が俺に向けられている。気が付くと宴会の最中にひとり別の世界に飛んでしまっていたようで、
「あー…っと、何。……がでしたっけ?」
「やっだぁ、鬼籠野先生ったら生返事してると思ったら聞いてないんだからぁ…」
 やけにテンションの上がっている美術の並木先生が、けらけら笑いながら俺の右上腕を平手で連打。俺はそれを苦笑いで止めて大神先生に助けを求めた。
「篠原先生がクラスの女の子にラブレター貰ったそうですよ」
 慣れてるって生徒に手紙を貰ったことだろうか、それとも同性愛って意味だろうか…
「鬼籠野先生、男子校でしたよね」
 後者の意味だ。
「私は女子校出身なんですけど、そういうことってありましたよねぇ」
 力が有り余っているのか、オードブルの鶏の唐揚げにグサッと箸を刺した並木先生を横目に俺は軽く頷く。
「慣れてはいませんけどね」
 思春期に周りには男しかいないんだ。
 同性だろうがなんだろうが、ふらっとそういう気持ちになることは理解できないわけじゃない。
「そんなこと言って…先生もてたんじゃないですか?」
 木村先生が俺のグラスにビールを注ぎ足しながら、意味深に笑ってみせた。
「3年間寮にいましたからね。何も無かったとは言いませんが、もてると言うほどじゃなかったし…今思うとああいうのって、疑似恋愛に近い気がしますけど」
「疑似恋愛…」
 深刻げに呟いたのは大神先生。
「あーっ、大神先生好きな人いるんだぁ」
 指差しながらの木村先生の突っ込みに真っ赤になって…と言いたいところだが、酒に弱い大神先生は飲み始めから飲み終わりまで顔が紅い。
 それでも慌てて器から春巻きを取りこぼしそうになっていては肯定したも同じ。要領がいいわりには、色恋沙汰にはとんと疎いのだ。
「私知ってるわよー」
 それを知ってて追い討ちをかけた並木先生に前の二人がきゃーきゃー騒ぎ出した。
「それはねぇ…」
 調子に乗って続ける並木先生の口を即座に塞いで、
「飲み過ぎですよ」
 軽く睨んで黙らせた。幾ら酒の席とはいっても、ここで名前を出されては嘘でも何でも大神先生の立場が無い。大神先生は溜め息をひとつつくと席を立ってしまった。
「あ〜ぁ、冗談通じないんだから」
 まったく反省の色の無い並木先生は興ざめといった表情で、おちょこの熱燗をクッと飲み干す。
「鬼籠野センセ」
 徳利を差し出した俺の酌を自然に受け、注がれる日本酒に視線を置いたまま軽い並木先生の口調。
「私、高校の時好きだった先輩が居てね」
 今しがた女子校出身って言ったよな
「別の学校の先輩?」
 首を振る並木先生。
「同じ学校の美術部の先輩。美人でなぁんでもできて誰にでも好かれてて…ただ憧れてただけかもしれないし、さっき先生が言ったみたいに疑似恋愛かもしれないけど、人を好きになるって悪いことじゃないと思うんです」
「…そうですね」
「相手が誰だって、隠すことも無いと思うんです」
「その先輩に告白したんですか?」
「できなかったから余計そう思うのかもしれない…。せめて卒業しても連絡がとれるように努力してれば良かったかなって、最近時々思うのは年を取った証拠なんでしょうかね」
 …話す内容は口調ほど軽いものではなかった。

























「寄る年波には勝てないってことだな」
 朝のSHR中、後ろの席からボソボソ話し掛けてくるのは一生。
 3学期最初の席替えで初めて一生と席が近所になったのだが、授業中だろうが休み時間だろうが何かにつけ背後から一方的に会話を投げつけてくる。
 これはクラス担任がぎっくり腰で休職となったと聞くや否やの言葉だ。
 入学式前日に俺にすればセンセーショナルな出会いをした一生だったがその後暫く…いや、かなり長い間ただのクラスメートという間柄でしかなかった。俺には寮の友人が居たし、一生には例の西洋人形・河村葵が四六時中傍に居たからだ。









「秀真、しっかり食ってるか」
 背後から聞き覚えのある声。
「お前何でこんな所にいんだよ」
 言いながら振り返ると、一生の顔を見るより先に直ぐ視線の上にあったトレーが俺の視界を塞いだ。
「そりゃあこの時間に食堂に居るっつったら、飯食いに来たに決まってんじゃないか」
「誰もそんなことは訊いてない、ってこら。どけろよ」
 見上げた俺の額に乗せられたトレーを下から軽く拳で叩くと、笑い声の後に一生が顔を現した。
「寮に遊びに来てたら、腹減ってきてさ」
「寮費に食費入ってんだぜ」
「お袋さんの回し者?」
「寮生全員のね」
 一生が派手に吹き出した。
 …確か始まりはこの日のこの遣り取りから。
 この後俺達が受験準備で自由登校になるまでの約2年間、ほぼ毎日一生はタダ飯食いをし続け、その度に俺にちょっかいを出してくるのも殆ど日課に近かった。
 そして最後は必ず、
「一生っ!!」
 の一言で締め括られることになる。もちろん河村葵の金切り声だ。
 思い返せば俺にとって一生の存在が不思議な位置をしめ出したのも、この頃だったのかもしれない。2年に進級しクラスが分かれても食堂での馬鹿みたいな遣り取りは続いていたし、一生と話している時間を実は俺自身気に入っていたのだ。それでも一生のプライベートな話は周りの噂でしか知ることはなく、多分一生も俺の私生活のことなんて何一つ知らなかったと思う。
 ただ、いつ頃からだっただろうか、
「お前と山口ってどういう関係?」
 時々そう尋ねられるようになっていた。
 友達以外に何があるんだと答えながらも、問われるたびに迷いを感じていた俺。
 けれどそれを知っていることと理解していることとは別問題で、なぜ迷うのかというところまでは認識できていなかった。
























「正義の味方みたいなものなんですよ」
 僕にしてみれば
 と照れながら言ったのは大神先生だ。さっき席を立ったまま中々戻って来ない彼の様子をうかがいに来ると、トイレ傍の廊下の窓を開けて外を眺めていた。
 酔い覚ましだと笑ってみせて、自分から想い人のことを話し出したのを俺は黙って聞いていた。
「担任なんて初体験だから最初は迷うことばかりで、もうとにかく失敗の連続で…」
「それをフォローしてくれるのが彼だったと?」
 大神先生は首を振り、
「率先して手助けしてくれるのは松前の方ですよ。ただ、一見面倒見が良くて愛想もこの上なく良さそうに見えるんですけどね、松前は時々心臓をえぐるような辛辣な言葉吐くんですよ。そういう時って自覚があるケアレスミスした時がほとんどで、何度泣きそうになったことか…」
 職員室で密かに囁かれている松前の二面性。何をしたわけでもないのに入学当初から教師内では取扱要注意の札が彼には張り付けられていたのだ。
「橘がどうして僕のクラスに来たか知ってます?」
 話の関連性が解らないまま俺は首を傾げてみせる。
 それは少し疑問に思っていたことで、学園のこれまでの傾向からすれば主席入学者は1組だと決まっていた。なのに今年度だけは例外で主席入学の橘はなぜか大神先生の3組。
「松前が僕のクラスに居たからなんだそうです」
「そんな理由で彼、3組になったんですか?」
 大神先生の言葉に少し驚き声の俺。
「それがそんな理由じゃ済まないみたいなんですけど、合格発表の後に松前の中学の教頭先生が来られた時にそう忠告して帰ったそうですよ」
「中学の時に何かとんでもないこと、しでかしたとか?」
 苦笑いで首を振る大神先生。
「かなりトップシークレットみたいでそこまでは僕も聞けなかったんですけど…とにかく、もしもの時の備えに橘を3組に回したらしいんです」
「松前の保険が橘ですか…」
「論より証拠で担任してるとすごく実感が有って。松前の暴言止められるのは橘しかいない。僕は教師ですけど人間ですから、何度も助けてもらってると少し贔屓目に見てしまっても仕方が無いと思いませんか?」
「かなり贔屓目で恋愛感情まで混ざってますよね」
 とは思ってたって言うわけにはいかず、俺は笑顔で頷いた。
 しかし初担任の大神先生のクラスに回すよりは、松前を1組に回す方が理にかなってると思うんだが…
「どうしてわざわざ大神さんのクラスだったんでしょう?」
 極端な話、二人がセットなら俺のクラスでも良かったわけだ。
「どこのクラスにも癖のある生徒はいますから。…先生のクラスだって森丘とか白河とかやけに子供らしくない生徒が居るじゃないですか。妙な組み合わせにして問題でも起きたらって思ったんじゃないですか?」
 確かにあの4人が固まると、教師面目丸潰れって感じになるかな。
「1組にならなかったのは、増永先生が松前を怖がってて橘を嫌ってるんです。最初っから」
 なるほど、納得。
 増永先生は俺も苦手だ。
 今時やけに封建的思想の持ち主で、学年主任になってからは特にその権力を振りかざしていた。生徒は黙って教師に屈服してればいいと思ってるような節がある。橘を嫌っているのは彼が増永先生の意に反する生徒だからだ、相手が教師でもなんでも不条理な命令には理詰めで切り替えしてくる。俺のクラスの森丘に関しても、ことあるごとに文句を言いに来るのは多分同じ理由だろう。
 熱血教師でないにしろ自分のクラスの生徒くらい悪の手からは守ってやりたい。
 過去にこの手の教師にひどい目に合わされたことがあるから、余計そう思うのかも知れないが…
 そういえば一生も俺にとって正義の味方的な要素を持ってたな。
 あ、なぜか鮮明に記憶が蘇ってきた。

























 高校2年の初夏、体育の授業中
「鬼籠野ぉ! 真面目に走らんかぁっ!」
 体育教師の怒鳴り声に俺はいい加減ウンザリしていた、最近体育の授業中は毎回この調子だったから。
 教師の指摘通り本当に手を抜いていたのならここまで腹も立ちはしないだろうが、俺は真面目に授業を受けているんだ。あからさまに手抜きの生徒をほっておいて、怒鳴られるのはいつも俺。
 どういうわけか俺はその教師に目を付けられていた。
 それほど目立つ生徒でもなかった俺には、どうしてそういうことになっているのか良く解らなかった。理由が分かったのは夏休み前、1学期最後の体育の授業があった日のこと。




「これじゃあお前、単位やれんぞ」
 授業終了間際に信じられない言葉を聞いた。
 あまりな出来事に怒りを通り越して呆然としてしまった俺に、
「単位が欲しかったら放課後補習に来るんだな」
 出席簿に何やら書きながら淡々と続ける。
「…お前みたいな生徒のために大事な部活をおざなりにするわけにはいかないら、部活終了後に体育の準備室だ」
 留年という単語で頭の中が一杯になっていた俺は、一言も反論できず去って行く体育教師を見送った。
「なんや、めっちゃ災難やなぁ」
 まだ立ち直りきれない俺に同情の色を浮かべて話し掛けてきたのは、寮の部屋もクラスも同じの久瀬。
「ほんまやったら言い返したるんやけど…」
 俺は苦笑いで首を振った。
 あの先生が相手ではそれは無理だ。
「部活終わってて言うとったから、下手したら飯の時間に間に合わへんのとちゃうんか?」
「遅くなりそうなら」
「部屋に持って帰っといたるわ」
 この時に俺も久瀬も気付くべきだった。
 部活終了後…つまり最終下校時刻終了後に正規の理由で生徒を呼び付けるなんて、常軌に逸した話なのだ。
 常日頃あの教師の傍若無人な態度を見ていたせいか、留年という言葉が正常な思考を妨げたのか。
 とにかく俺は夕方7時近い時間に、生徒が帰ってしまうと殆ど人の寄りつかない校舎から少し離れた体育準備室で、その教師と二人っきりという状況をつくり出してしまった。









「じゃあ、次はここから…」
 緊張覚めやらぬまま時間通りに体育準備室を訪ね一体何をさせられるのかと思っていれば、保健体育の教科書をひたすら写生させられるだけ。こんなことで留年が免れるならまぁいいかと思いながら、さっきから気になっていたのが、
「解らないところが有れば何でも訊けよ」
 こいつが気味悪いくらい優しいことと俺の隣に密着するように座っていること。
 最初は長机の真ん中辺りに座っていた俺だったのだが、太股を擦り付けるように接近され徐々に逃げている内に、気が付くと机の際まで追いやられていた。
「近くで見ると、思っていたより綺麗だな」
 バキッ
 筆圧でシャーペンの芯を折ってしまう。
 普通の人間ならこの辺りでとっくに逃げ帰っているだろう。
 周りの人間はあまり気付いてくれていないが、俺はもともと人よりかなり反応が鈍い。逃げるタイミングを外してしまって、もう何だっていいからこの場から早く逃れたい一身で筆記に集中する。と、不意に何かが項に触れた。
 え?
 びっくりして振り返ろうとしたのと影が覆い被さってきたのが同時で、慌てて影から逃れようとした俺は椅子から転がり落ちてしまう。ガンガンどこかに身体がぶつかっても、痛いと思う余裕なんて無かった。
「授業中お前ばかり見てたんだ」
 もう驚いている暇も無い。
 俺の瞬発力を総動員して駆け出そうとしたのに、立ち上がる前にその大人の体重で容赦無く圧し掛かられ、
「なっ、せんせっ…!」
 殆ど無意識で振りかざした両腕も難なく取り押さえられてしまい、声も塞がれてしまう。
 嫌だっ! なんでこんな奴に!
 侵入してくる舌に必死で歯を食いしばっていると、手で強引に顎を掴まれた。解かれた腕で髪を引っ張ろうが殴ろうが奴はびくともしない。
 口内を巨大ミミズが這い回るような不快感に息ができない。

 助けてっ!

 どんなに心の中で叫んでみたって声にできなければ誰にも届くはずは無く、俺の内だけでその言葉は空しく反響するだけだった。
 シャツのボタンが引きちぎられ、脱がされかけたズボンの上からダイレクトにそこを掴まれて、それでもこの力から逃れることのできない自分の不幸を呪った。
 今まさに受けようとしている人生最大の不幸になす術も無い自分が悔しい。
 恐怖と怒りと後悔が渦巻く中、俺が全身で空しい抵抗をし続けていると、突然大きな物音が部屋に響いた。
 驚いたのは俺よりそいつの方で、
「誰だっ! 勝手に」
 バキッ!
 体育教師の身体がふらっとよろめく。
 今度は本当に人間を殴った音だ。
「お前教師に向って」
「この状況で言うに事欠いてそれかよ」
 耳に飛び込んできたのは、良く聞き覚えのある声。
「か…ずき?」
 震える俺の呼びかけに机の隅からひょっこり顔を出した一生。
 急に緊張が緩んだせいか初めて涙が零れた。
 一生は複雑な表情を浮かべると俺の前に腰を落とし、服を手際良くそれなりに整えて、
「飯、取っててくれてるぜ」
 こんな時に変なセリフ
 それのせいで何だかもっと泣けてきた。
「お前等、ただで済むと思うなよ」
 腕を引かれながら準備室を出る直前に俺達を引き止めた声に、一生は軽く振り返り、
「好きにしろよ。どっちみち、あんたもう終わりだぜ」
 堂に入ったはったりだと思っていたが、夏休みが明ける頃その体育教師の姿は学校には無かった。

*************************

 確かこの辺りに…
 俺は借りてきたペンライトで、並ぶ机の下をひとつひとつ覗き込む。   2年も終わろうとしていた夜の職員室。
 なんでもっと早く気が付かなかったんだろう
 自分の注意力の無さを悲観しながらも、冷たい床を這い回る。
 …どうか何も出ませんように
 小学生の頃近くの林に首吊り死体を嬉しがって見に行った俺は、それから暫く悪夢にうなされ続けた。
 それ以来オカルト系の話は極端に苦手なのだ。
 幽霊は夏にしか出ないものだと自分に言い聞かせて、決死の思いでこんなことをしている俺の願いを裏切って、机の下を覗き込んでいた俺の肩へと、

 ―――…

 固唾を呑んだ。
 気のせいなんかじゃない、確かに何かが俺の肩に触れている。
 人間本当に恐怖に直面すると声なんて出ないのだ。
 振り返るなんてできるはずが無く、硬直しきってる身体に鞭打つ気分で、なんとか逃げようと腕を動かした時…

 クックックックッ

 背後からの笑い声。
 でたっ! でたっ!!
 勢いで2、3歩逃げた俺は手首をぱっと掴まれて、
「ひっ!! ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
 わけも分からずそんな言葉を口走ってしまう。と、
「日頃の態度を悔い改めてるのか?」
 ………
「大体お前は俺に対する態度がなってないんだ」
 またしても、この聞きなれた声。
「が〜ず〜ぎ〜〜」
 恨めし気に顔を上げると一生がそこで不適の笑みを浮かべている。
「びっくりした?」
 掴まれたままの腕を振り払って、
「そう見えたんだろっ」
 立ち上がる。
「怒るなよ、この学校に夜ひとりで来れただけでもいい度胸してると思ってんだぜ」
 俺は無言で一生を見た。
 それ以上は恐ろしくて訊き返せず、直ぐに一生に背中を向けると俺はまた捜索活動に入った。
「お札でも捜してんのか?」
 俺の恐怖心など知るはずも無い一生の言葉に、どうにか話を逸らそうと手紙を捜してるのだと伝える。




 その日の昼休み、4時間目に集めたノートを持って俺は職員室に向っていた。途中で知らない1年生に手紙を渡されたのだが、クラス全員分のノートで両手が塞がれていた俺は、取り敢えずそれを一番上に置くように頼み、その状態で職員室に入る。
 目的地に辿り着く直前、突然椅子を引いた教師にぶつかって、俺は積んであったノート上半分をばら撒いてしまったのだ。
 周りにいた数人の教師が箸を置いてノートを拾い集めてくれているのに緊張してか、最上部に乗っていた物の存在をすっかり忘れてしまっていた。
 夕食を食べ終え風呂に入る直前に、唐突にそのことを思い出し時計を見ると8時半。
 この学校のセキュリティが9時に作動することを知っていた俺は、幸い寮生だった生徒会長に経緯を説明して職員室の鍵の在処を教えてもらった。

 不純異性(同性)交友を行った者は、直ちに厳重な懲罰によってこれを処する。

 ただの手紙だけにしても、揉めことにはしたくなかった。





















「そんなものいちいち気にすることは無いじゃないですか」
 二軒目のカラオケボックスで再びラブレターの話が持ち上る。
「麻疹みたいなもんですよ、卒業すれば教師なんて直ぐに忘れられるんですから」
 3年生のクラスを受け持っている仙道先生の言葉だ。
 教師経験は俺より5、6年は長いが、教え子と結婚した彼の言葉は今一つ説得力に欠ける。
「言っておきますけど、俺は卒業するまでちゃんと待ったんですからね」
 周囲の冷たい視線にそう付け足した。
 そうこうする間に歌い終わった大神先生が席に戻り、
「ねぇ、これ誰が入れたの?」
 次の曲のイントロが始まって仙道先生は慌ててマイクに向った。
「そう言えば、鬼籠野さんの歌って聞いたことが無いような…」
「あまり知らないんですよ」
 いつも引きずられるようにして二次会に付き合うものの、昔から世間の流行にはあまり興味が無かった。テレビはニュースかドキュメンタリー番組くらいしか見ないし、ラジオもほとんど聴かないのだ。
 日頃のうっ憤が溜まっているのか、仙道先生選曲のアップテンポの曲に全員がノリノリで踊り出してしまい、それに乗り切れない俺は一番隅の席から窓の外を眺めた。
 駅を挟んだ向かいのビルに電光掲示されている時計が、22:59から23:00に変わる。
 ――…?
 何か今…





















 先にそれを見つけたのは一生。
 差出人を見て、
「1年の佐渡っつったら…」
「勝手に見るなよ」
「…あー思い出した、バスケ部の軽い奴だ。こんなもんほっときゃ良かったのに」
 俺は一生の手から手紙を奪い取る。
「それ、読むのか?」
「一応はね」
「返事は?」
「何かは言ってやらないと」
「ふぅん…」
「何だよ」
「別にぃ」
 どこと無く軽蔑したような一生の態度にむっとして少し身を乗り出した時、一生の視線が鋭く逸れた。
「一生?」
 何事かと不思議に思い、口を開いた俺へと一生は待てと制止するように手を出して、
「今、何か…」
 人がせっかく話を逸らせたというのにまたそういうことを言いやがる。
 怒り浸透で立ち上がりかけた俺の耳へと、

 コツーン…

 信じられない効果音。
 聞き間違いだと思いたくて耳を澄ませて…、反って逆効果になってしまった。
 明らかに誰かの足音だと確信した俺は驚愕の瞳で一生を見ると、
「夜な夜なさ迷う兵士の霊」
 誰もそんなことを訊いてないのに、
「第二次大戦中、軍人病院だったってさ」
 …最悪
 俺が固まっている間にも、あろうことか足音はゆっくりと近付いて来るのだ。
 そんな俺とは対照的に落ち着き払っている一生は逃げる様子も無い。
「かっ、かっ、かっ…!」
 職員室の前でピタリと止まった足音に堪らず一生に呼びかけようとした俺の声。

 ガラッ!

 っと職員室の扉が開いた瞬間飛び上がりそうになった俺を、一生は傍の机の下へと引っ張り込んだ。
 幽霊相手に隠れたって仕方が無い気もしたがそれはそれ。机の下で小さくなったまま最初は目を閉じ耳を覆い隠していた俺だが、人間心理とは不思議なもので恐いとは思いながらも薄目を開けてつい様子を伺ってしまう。
 少しすると俺の前の床がちらちらと、ほのかに明るくなってきた。
 意外な物を見た気がして何だろうと思っていると、今度は革靴とスラックスの裾が目に入る。昔の軍人が履くにはあまりにも近代的なもので、その足はさっさと俺達の前を通過して行ってしまった。
 どう考えても生きた人間の足だったような…
 後ろにいる一生に振り向きながら尋ねようとした俺の口元にすっと人差し指が立てられてしまったから、仕方なく黙ったまま塞いでいた耳から手を放すと、まだその足音は職員室の中で響いてはいたものの幽霊でないと思うとどっと肩の力が抜けた。
 ホッとしつつゆっくりと息を吐いて、後ろに体重を掛けると首筋に静かにかかる、息…?
 首筋に、息がかかる……だって?
 俺の視線がいきなり至近距離を観察し出し、頭の中が急速に今の状況判断を始めた。
 さっき口元に寄せられた人差し指…を含む一生の右手は俺の右側から軽く俺の左肩に置かれていて、一生の左腕が左側から俺の膝辺りに回されている。膝を抱え込んでる俺の右足の外側少し斜め前に一生の右足、左側は俺の背骨を軸として正反対の図。
 一生の胴体は俺の背中と密着しているのだから、つまり…
 そういう状態にある。
 さっきとは全然別の意味で、急速に早まる心臓。
 職員室の扉が閉められた音に、慌てて机の下から出ようとした俺を引き止めるよう抱き込む一生の両腕。
「もう少し…」
 耳元で囁かれた声に俯いて何も言えないまま、俺はただじっとしていた。
 廊下の足音は遠ざかり辺りに静寂がまた戻る。
 …俺の心臓だけが、爆発しそうだった。








 …夢の途中で起こされた

 そんなどこか現実離れした場所に意識を漂わせたまま寮に戻ったのはそれから30分ほど後。
 ボンヤリしているのを悟られないようできるだけさっきの出来事を頭から追い払いながら、心配顔で待っていてくれた久瀬に一部を説明する。
 すると久瀬は爆笑しながら学校の敷地はただの畑だったと教えてくれた。昔軍人病院だったなんていうのは真っ赤な嘘で、セキュリティが入る9時までは警備員が巡回していると知たうえでの一生の作り話。
 そんなこととは知らずに俺は散々ビビリまくっていたのだから、その事実に怒りまじりに愚痴っていると久瀬が意外な言葉を返した。
「そやけど山口がおらへんかったら、えらいことになっとったんとちゃうんか?」
 理由を尋ねた俺に、
「なんでて来週から学年末テスト始まるやん、俺が警備員やったら絶対テスト問題盗みに来た思うで」
 そうなのだ
 あの時俺が警備員に見つかっていたら、問答無用で停学を食らっていたのは必至だっただろう。
 またもや一生に助けられていた俺だったが、この時の礼だけは言えず終い。
 あの話題を持ち出すことはあのことに触れなければいけない、ということになってしまうから。
 一生が何も言って来ないのならそれだけのことなんだ
 あの時俺が黙って抱き込まれていた理由…
 それに気付いた俺は3年に進級する前の春休み、その答えを自分の中で抹殺してしまう。
 一生は河村葵のものだ。

 …人のものは、いらない





















 少し感傷に浸りかけた俺の目の前では、ひどい状態で踊り狂っている先生達。
 いつものことだから気にはならないが、手持ちぶさたで画面を何気に見つめていて気付いたことがひとつ。
 作詞・作曲・編曲がさっきから全てひとつの名前で統一されている。
 曲の途中で喉が渇いて側に座った大神先生に尋ねてみると、
「知らないんですか!?」
 俺のジントニックを飲みきった後、驚かれてしまった。
「ほら、同じ名前のデザイナーいるじゃないですか。そこからきてるらしいんですけど、彼がプロデュースする曲全部イッセーブランドって呼ばれるくらいすっごい流行ってるんですよ」
「…そうなんだ」
 訊いてはみたがそれ程興味があったわけでもない。
「今度CD持ってきましょうか?」
 俺は首を横へと振った。
 この手の曲は昔からあまり聴かない。とは言ってもライブには一度だけ行った経験があったっけ。
 一生は高校時分どこかのバンドに在籍していて、確か引退ライブだとか言いながら一生自身が直接チケットを俺に届けに来たのだ。
 一回りほど年の離れた異父兄弟を持つ俺は実家での受験勉強を諦め年末ギリギリまで寮に残っていた。
 高校生活最後の冬のこと
 俺は小さく溜め息をつき、ブレザーのポケットに手を入れた。
 左手に何かが触れる





















「わざわざ悪かったな」
 公園に足を踏み入れると、静かに言った一生の言葉に俺は首を振る。
 ライブが終わり誘われるまま打ち上げまで付き合った後、寮まで送ると言って二次会を断ってくれた一生。
 周りにつられて飲み過ぎてしまい、ふらふらになってしまった俺への気遣いだろうと思っていた。
「ちょうど息抜きになって良かったよ」
「嘘、つけ」
 顔を上げると、
「秀真は聴かないジャンルだ」
 一生はなぜかお見通し。
 本当は女の子達の奇声と大音響で、頭の中に詰め込んでいる知識まで吹っ飛びそうだった。
 けれどさっきの返事は嘘でもない。
「模試の結果が悪くてさ、落ち込んでたから」
 今はアルコールのせいで受験なんてどうでもいい気分になってる。
「それにバラードは結構気に入った」
「俺が歌ったやつ?」
「そうそう」
 今日のライブで唯一、一生が歌ったピアノ弾き語りの曲だ。
「放心してるのかと思ったらちゃんと聴いてたんだな」
「見えてたのか?」
 前奏のところで一生と目が合ったような気はしてたけど…
「見える席を用意したんだ」
「…へえ、そうだったんだ。じゃあ近くに河村もいたっ!」
 いきなり後頭部をはたかれ、勢い良く振り返ってふらついた俺の腕を一生が掴む。
「いい加減に、俺と葵をセットにするのは止めてくれないか」
「いつも一緒にいるじゃないか」
「じゃあお前と久瀬はデキてるんだな?」
 ………
 ぶっ
「んなことあるわけ無いだろっ!」
 何を言い出すんだ。
「3年間クラスが同じで寮も同室、どこに居たって秀真の隣には久瀬が居るんだぜ。お前の理屈からすればそういうことになるだろうが」
「それとこれとは」
「どう違うんだ?」
 見ると、まともに睨み返されて答えに詰まる。
 どういう訳か一生は本気で怒っていた。
 けれど、
「ごめん」
 先に謝ったのは一生の方。
 苦笑いを浮かべた一生に側のベンチに座るよう促されて、無言で二人腰を下ろした。
 静かに夜風が吹き抜ける。
 何だろう、俺すごく緊張してる
 前にも確か似たようなことが…
 …そう
 これは…職員室に忍び込んだ夜の帰り道と良く似た情景。
 寮に帰り着くまでお互い無言で歩き続け、途中何度も一生が口を開きかけては止めた。
 別れ際、一生が告げた一言は、
“おやすみ”

 この緊張に耐えられそうに無くて何かを言わなければと思いながらも、うまく頭の中がまとまらない。
 ただ息を詰めたまま隣で座っている一生の存在を全身で感じていた。
 と、
 唐突に身を乗り出した一生。
 立ち上がるのだろうかと視線を向けて…
 …………
 視界が一生で埋め尽くされていた。
 相変わらず鈍い俺の頭が状況を理解する前に抱き締められてしまう。
「余計な話は散々してきたのに」
 耳の極、傍で聞く一生の声。
「肝心な言葉だけがずっと言えなかった」
 突然のことに焦って俺の思考回路はパニクってしまい、
「…好きだ」
 許容限界を超えた。











 俺の中の一生の記憶はここで途切れている。
 この先の記憶がどうにもこうにも思い出せないのだ。
 自主登校となった3学期、俺は一度も一生とは会うことが無く彼が大学受験を蹴ったという噂だけを聞いた。
 卒業式にも姿を見せなかった一生とはそれっきり。
 あの時自分の出した答えにまで記憶が無いのだから、未だそれは俺の中で大きな謎なのだ。

 高校卒業後、忽然と姿を消した一生にしかその謎は解けない。

*************************

「何ですか、それ?」
 俺が広げた用紙を覗き込んでくる篠原先生。
 ポケットから出てきたのは、以前コピーしておいた今日の忘年会の回覧だったのだ。
「クリスマスに忘年会なんて、今年の幹事は気が利きませんよねぇ」
 言われて思い出す。
 クリスマス…だったよなぁ、あのライブって。
 それで今日はやけに一生のことを思い出すのだろうか。
 回覧の日付を眺めていた俺は首を傾げた。
 この数字の並び、どこかで…
 ずっと引っ掛かっていたのはこれのような気がしてきた、けれど考えても考えても思い出せそうで思い出せない。
 かすかに唸りながら回覧から視線を外した目の端に、23の数字が飛び込んできて、
 ……―――
「あー――――っ!!!」
 電光掲示の時計が視野の中に入っていたことは、殆ど奇跡に近かっただろう。
「どうかしました?」
 突然叫んで立ち上がった俺を見上げた篠原先生に、
「ちょ、っと急用を…」
 コートと鞄を手に部屋から出ようとするとブーイングが飛んだ。
「鬼籠野さん、食い逃げする気ですかぁ!」
 そういうことね
 鞄から財布を出して、はたと気が付く。
 忘年会のお釣の五千円札にあと千円札が二枚しか入っていない。
 成績表制作に追われて銀行に行くことを忘れていた。
 仕方なく五千円札を置いて俺は駅へと走る。
 あそこまで電車で1時間…じゃあ無理だが、思い出した以上はじっとはしていられない。




















“ほら、書いて”
 一生がどこかから拾ってきた木の枝を俺は手渡された。
 不思議に思い見上げた俺に、
“今言った日付、西暦からちゃんと書くんだ”
 なぜか泣き顔の俺は、言われるまま砂の上に8年後の日付を書き記した。
“じゃあ、今度はそれを読む”
 何をさせようとしているんだろう…
 もう一度一生を見た。
“書いて、目で見て、耳で聞いておけば忘れないから…それから”
 一生は腕時計に目をやる。
“23時も付け足して。あー違う違う、11じゃお前間違えるだろ? ちゃんと23って書け”
 その数字を俺は計3回砂の上に書き、口頭で5回反復させられた。
“この日のこの時間にここで待ってるから”
 黙って頷いた俺、
“いいな、絶対に忘れるんじゃないぞっ!”






















 すっ、っかり忘れてた。
 今の今まで奇麗さっぱり忘れていた上にこれでは大遅刻じゃないか。
 時間が遅かったため電車の乗り継ぎが悪く、途中4度も乗り換えてようやく目的の駅に着いたのが午前1時。
 とにかく辿り着けたことにほっとしたのも束の間で、改札を出て愕然とした。
 区画整理されてる…
 駅も奇麗になってはいたが、街の様子こそすっかり変わってしまっていたのだ。
 だからって諦める気にはなれず、とにかくそれらしい方向に向って走り直ぐに見つけた地区内の地図を眺めると、悲しいことにその公園自体が無くなっていた。場所的に考えると、どうやら公園のあった辺り一帯には団地が建っているようだ。
 …よりにもよってこんなでっかいもん建てやがって
 団地に辿り着いた俺は、何か痕跡が無いだろうかと真夜中の団地敷地内を走り回った。
 どれくらい走っただろうか。
 何棟目かの団地を過ぎた辺りで先の方にある何かに気が付いた。少しずつ近付くにつれ立ち並ぶそれを確認して懐かしさを憶える。
 六体並んだお地蔵様だ。
 俺の学校の生徒達に、そこは地蔵公園と呼ばれていてデートコースで有名だった。
 軽く辺りを見回すとどうやら当時の痕跡はこれしかないようで、一生が約束通り来るとすればここしかないだろう。
 けれど振り返って辺りを見回しても、見えるのは冷たい団地の壁とそれに沿って並ぶ路上駐車の一群。
 人の動く気配はない。
 俺は大きく溜め息をついた。
 奇跡的に思い出しはしたもののこの寒空の下、2時間以上の遅刻じゃあなぁ…
 それより何より一生が来たかどうかも疑問じゃないか。
 8年も前の口約束なんて、反故にされたって責められやしない。
 これで俺の謎は迷宮入りが決定。
 諦めた俺はお地蔵様に向き直った。
 …やっぱり随分と古びたかなぁ
 実はこのお地蔵様、六体とも表情が全部違う。
 生徒達の間ではそれぞれが何かの願懸けにされていて、殆ど憶えてはいないが一体だけは今でもはっきり分かった。
 右から三番目のお地蔵様は恋愛成就だ。
 真新しい五円玉に紅い紐を付けて、胸のポケットに百日間忍ばせる。ちょうど百日目に誰にも見られず(ここがポイント)お地蔵様に願を懸けると、その想いは叶うのだとか…
 俺はその前にしゃがむと、懐かしさで笑みが零れた。
 お地蔵様の前には紅い紐の付いた五円玉が山積みにされている。
 そこで少しの間感慨にふけっていた俺だが寒くてそう長くはもたず、帰ろうかと腰を上げかけて、はっと俺はその体勢で硬直。
 金が無い
 終電でここまで来たのだから既に電車は止まっているはずで、財布の残高は俺が良く知っている。自宅には余分な金は置いてないし、誰かに連絡するにはあまりにも非常識な時間だろう。
 野宿なんてすれば、朝には凍死体ができてるのは確実で…
 俺ってなんて馬鹿なんだ
 ショックのあまり立ち上がった瞬間よろめいて、ついお地蔵様にしがみついてしまった。
 歩いて帰ると何時間かかるんだろう
「お地蔵さ〜ん」
 金貸して……、ってこれは恋愛成就だっけ
「…一生ぃ」
 本当はずっと会いたかったんだ…




 とその時、


















「人をハゲと間違えるなっ」
 …!
「2時間19分も遅刻しておいて随分な奴だ」
 この背後からの声
「抱き付く相手が間違ってるぞ」
「…・一生?」
「相変わらず鈍いなぁ」
 恐る恐る振り返り、俺は絶句する。
「声も出ないくらい感動してくれるとは…」
「お前、怪しい」
 一生に睨まれたが、それしか言いようが無かった。
 8年前の未完成だった少年は、すっかり大人の男になっていて…、かなり良い感じに出来上がってはいる。が、ただ垢抜け過ぎているのだ。
 昼間に街中を歩くと相当目を引くだろう。
「何でそんな格好してんだよ」
 上から下まで真っ黒だ。
「昔から黒が好きなんだ」
 にしても、
「それって普段着?」
「まさか。打ち合わせが長引いて、終わってそこから直行して来たんだよ」
「夜逃げ屋とか始末屋とかか?」
「失礼なことを言うなっ、ちゃんとした仕事だ」
「なんとか興業とか」
「音楽プロデューサー」
 聞き慣れない職業。
「追々説明してやるよ、取り敢えず車に行こう。凍え死にそうだ」
 言われてみれば俺よりかなり寒そうにしている。
「車にヒーター入れてなかったのか?」
「ご近所に迷惑だろうが」
 付いて行ってみるとお地蔵様からわりと近い場所に一生の車は駐車されていた。
 その高級自動車会社のエンブレムに、
「儲かってるんだなぁ」
 外車なのに右ハンドルだよ。
 物珍しそうに俺が車へと乗り込んでいる間にエンジンを掛けた一生はヒーターのメモリを目一杯まで上げ、ハンドルに頭を置いて俺を見る。
「誰かさんのお陰で余計な苦労をさせられたからね」
 誰か…
 ってこういう場合俺のこと?
「変な言いがかりを付けるなよ」
 すると一生の顔が信じられないものを見たように大きく変わった。
 何かまずいことでも言っただろうか…?
 一生の反応が理解できずにいると、一生の驚愕の表情はゆっくりと探るような目つきになり、
「秀真君、つかぬことをお伺いするが」
 身体を起こした一生は咳払いをひとつ。
「2時間19分36秒も遅刻してきた理由は何だったのかなぁ?」
 忘れてましたとは口が裂けても言えない。
「しょっ、職場の忘年会で…」
 激怒を漂わす一生のオーラについ吃ってしまう。
「会場はどこだ?」
「飯桐駅前」
「何時から?」
「…6時」
「つまり少なくても二次会には参加したと言うことになるわけか」
 逆算するとは何て嫌味な奴だ。
 昔はそんな奴じゃなかったぞっ
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「あぁそうだな、そのせいで俺は柄にも無く堪え忍ぶ高校生活を送ったんだった」
 前へと向き直った一生はパンッとギアチェンジしサイドブレーキを外した。
「今ここに居るってことは、最低でも最後の約束だけは思い出したってことなんだろうが…」
 静かに車は走り出す。
「どこまで忘れてくれてるんだ?」
 8年経っても一生はお見通しなようでとにかく嘘は止めようと思った。
 多分通用しない。
「えー…っと。…好きだ、って言われたのは憶えてる」
「その前は?」
「憶えてる」
「で?」
「で…、…日付を書く直前までの記憶が無いっ、って!!」
 団地を出る直前の急ブレーキに、反動で前につんのめって危うく顔面を打つところだった。
「お前、今わざとっ」
「シートベルト着用の義務ってこういう時のためにあるんだぜ」
 視線だけを俺に向け、
「どうやら身体で憶えさせないと忘れてしまうようだからな」
 腹は立つが言い返せない。
 それでも今度は俺がシートベルトを掛け終えたのを確認してから、一生はアクセルを踏んだ。











 その後の沈黙は俺にはどれ程耐え難かったことか。
 怒らせてしまった原因は消えた過去の記憶の中にあるのだろうとは思うのだが、今の一生から訊きだす根性はない。
 気の利いた世間話すら思い付かず、ひたすら俺が恐縮したまま一生の言葉を待っていると…
「俺さぁ、ガキの頃から好きな物は最後まで食わずに取っておく方だったんだ」
 カーステレオすらかけてくれなかった一生が、高速に入るなりそんなことを話し出した。
 取り敢えずは機嫌が直ったのかと俺はほっとして先を促してみる。
「あの夜からそういうのは止めた」
 まだ蒸し返すつもりなのだろうかと思っていると、
「好きなものは先に食うことにしたんだ」
 やっぱり嗜好の話に戻ってきた。
「いつでも手が出せる状態にあるものを我慢するのは良くないってことだ」
「ふ、ん…?」
 言いたいことが良く分からず間の抜けた返事になってしまう。
「欲しいものは待たずに食うから、食い物に限らず」
 …あ、れ?
 ちょっと待てよ
 もしやこれ…
「前もって宣言してやったんだ、着くまでに心の準備をしておくように」
 って
「どこにっ」
「ホテル」
 げっ!
「ちょっ、冗談!」
「そんな場面じゃない」
「嘘だよな?!」
「本気だ」
 車中で慌てふためいても逃げ場が無い。サイドウィンドからぱっと外を見た俺に、
「高速には信号無いぞ」
 何でこんなことになるんだ…
「一生ぃ」
「泣いても駄目」
 うぅっ
「…そこを何とか」
「忘れた記憶が戻ったら考えてやろう」
 無理だ…






 一生はよほどの強運の持ち主なのか、高速を降りた後一度も信号には引っ掛からず、目的地の駐車場に着いてしまうと有無を言わさず部屋に連れ込まれた。
 もう消えた記憶を探るどころの話ではなく、この後の惨惨たる俺のありさまはとてもじゃないが自分では語れない…
 ………





…ということで、続きは彼が立ち直った頃にでも…

















作:杜水月
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