愛しのフレディ 

1.チェリー

 講堂の窓から垣間見える桜の花が見頃だったのは学園の入学式の頃だった。
 真新しい制服に身を包んだ新入生達が厳粛な空気の中、それぞれにそれなりに大人しく舞台に立ち並ぶコーラス部員達の歌声を聞いている…とはいっても聞き入っている生徒がどれくらい居るかなんてことはどうでもいい話で、滞り無く式が進行すれば誰も文句は言いはしない。
 それでも立前として、せめて頭くらいは前方に向けておくのが普通だろう。
 ところがさっきから、目だけではなく頭ごときょろきょろと忙しなく動かしている新入生が約1名。
 落ち着きの無い生徒だ
 なんてことは一目で分かるのだが、コーラス部員の校歌斉唱が2番目に差し掛かった頃、ふいにその頭の動きが止まった。
 その生徒の視線を辿ってみると、どうやら新入生達とは別列に座っている上級生数人の列に向いているようだ。
 目を凝らして何かをじっと見つめながら…


 1番舞台側に座っているのはさっき壇上で何やら喋っていた人。
 そうだ、確か生徒会長と言っていたから、この上級生達は生徒会の役員…とすると、生徒会長の隣に座っているのは副会長だろうか?
 小首を傾げ少し憂いを帯びた表情で一点を見つめるその姿は、以前どこかの美術館で観た絵画の中の人物のような気品を漂わせている。
 最初はその視線が自分に向いていると思ったが、笑顔で手を挙げてみても反応は無し。
 じゃあ一体誰を…と辺りを見回しても、どこに視線が向いているのかは、はっきりしない。しかし自分より目を引くような人物も見当たらない。
 だったら、やはり彼は自分のことを見ているのだ…ということにしよう。
 偶然にも非常に好きなタイプだし。
 名前はなんていうのかな?
 副会長なら3年生だろうか。
 もしそうならば二つ年上になるけれどそんなことは気にしない。
 彼は男で自分も男だけどそんなことも気にならない。
 生まれた日に血液型、好きな色、好きな音楽にあれやこれや、どれもそれも…。
 色んなこと、知りたい

 だからあの人に会いに行こう
 明日、会いに行こう…












 で、張り切って会いに来たらば、
「お断り」
 高校生活2日目の朝一番に彼は失恋してしまった。
 しかし入学して間も無く初対面の同性相手に、しかも公衆の面前で告白できるような人間はそんなことで挫けたりはしないのだ。
「断るならそれなりの理由を教えてくださいっ!」
 鼻を膨らまし唾を飛ばしながら熱血をアピールしてみたが、
「受け入れる理由がさっぱり見当たらない」
 あっさり言われてつい納得してしまいそうになった自分をどうにかもう一度奮い立たせる。
「さっきも言いましたけど、昨日僕のことを見てましたっ」
「俺の記憶には残ってないんだが…」
 小首を傾げる仕草に、
「ほらっ、そうやって僕を見てたんですっ」
「…本当に俺は憶えてないんだ。勘違いさせたならあやま」
「謝らなくていいですっ。だから僕とっ」
「断る」
 ちょうど会話が2順目に入りかけたところで予鈴が鳴った。
 呆れ顔の生徒会役員全員の波に押され、勘違いの新入生は生徒会室から不本意ながら退室してしまい、
「早く教室に戻れっ」
 書記の厳しい口調で仕方無くその場は退散して行くしかなかった。
「放課後またやって来るに5百円」
 桜吹雪きの舞い散る中、第1校舎へと去り行く後ろ姿を見送っていた生徒会長の発言に、
「賭けになりませんよ」
 薄笑いで答えた副会長補佐。そして周囲の殆どがうんうんと頷いたが副会長だけは笑うに笑えなかった。
 渡り廊下を薄紅に染め行く桜の花びらとは対照的に、彼は誰にも気付かれないよう僅かに顔の色を落とす。
 告白を無下に拒絶した理由は、年下だとか同性だとか性格などといった問題ではない。


 唐突だが桜といえば、かの有名な遠山の金さんの背中を飾る彫り物も桜。
 奉行になる以前の金さんが放蕩時代に彫った物だというらしいが、彼が放蕩していたのにはそれなりの訳がある。
 …人にはそれぞれの想いがあり事情というものがあるのだ。

 今は誰とも恋をしたくない

 彼がそう考えていたからといって、それを触れて回る必要などはどこにも無いだろう。


2.Confusion

 どんより曇った空の下、すっかり青葉に覆われた桜の木は目に映ったのか映らなかったのか…。
 第3校舎1階最東端に位置する生徒会室。に隣接するミーティングルームのカーテンを、生徒会副会長補佐と言う長ったらしい役名を持つ松前和臣が引いたのは今から小1時間ほど前だった。
 定員約10名の室内はほぼ満席。
 ホワイトボードの前には生徒会会長の東條敦也、彼の右隣に同副会長・瀬田睦。そしてそこから席をひとつ空け、白河亜美森丘美都佐伯翠小西優也橘郁とテーブルを囲んで座っており、戸口に一番近い位置に和臣が居た。
 先月起った優也の強姦未遂事件についての話し合いが行われているのだが、さすがにこの季節、閉め切った狭い室内でこれだけの人数が集まれば空気も淀むというものだ。
 そのためだけでは無いだろうが、会話もどうやら滞り気味。




「…やっぱりそう思うか」
 低く唸りながらの東條の言葉に亜美は頷いて見せ、机上の指輪を手にすると自分の左手薬指にストンとはめ込み、
「この指輪。私だとこんなふうにちょっと遊ぶんだけど」
 クルクルと薬指で回した後あっさり抜いた指輪を今度はひとつ隣に座る翠の左手薬指に入れ直す。と、それは第2間接辺りで少し窮屈気味に止まってしまった。
「男の子にしては佐伯君ってかなり細身だと思うのよね。ピンキー…小指専用の指輪をピンキーリングっていうんだけど、それにしてはデザインがゴツ過ぎる気がしない?」
 論より証拠。
 その言葉通り翠が指輪を小指にはめ変えるとサイズは少し余ったが、確かに亜美が言うようにこれでは小指専用コルセット状態だ。
 あの事件での唯一の手掛かり、20金で凝った装飾を施したデザインリングの中央に燦然と耀いているピジョンブラッドのルビーの指輪。
 この指輪からできる限りの情報を引き出そうとしているのだが、さっきからどう視点を変えてみても、犯人が意外な人物像へと辿り着いてしまう。
 亜美が何を訴えたかったかというと…
「女がねぇ」
 そうなのだ。
 あの日、優也のクラスに来るはずだった教師へと、でたらめな電話を掛けてきた人物は女性の声だったという。その教師の子供が通う幼稚園の保育士だと名乗ったそうだが、呼び出し電話だけに女性が荷担していた程度なら誰もここまで疑問視はしないだろう。
 しかし強姦現場に一緒に居たとなると首を捻らないではいられない。
「女が観て楽しいものか?」
 和臣の質問に亜美は即座に首を振った。
「こういうのって性別じゃなくって趣味の問題。対象が女の子なら本物の強姦現場をナマで見たい人って居る?」
 亜美の切り返しに頷く人間など、この中にはいない。
「それにしたって同性愛者の男ならともかく、女がそういう物を観て興奮するとは考えにくいなぁ」
「確かに特殊といえば特殊だが」
「彼女だけに関しては別に目的があるとすれば…」
 少しの沈黙の後、
「恨み」
 答えた郁の表情が少し曇る。
 その誰よりも恵まれた容姿・頭脳・運動神経を持って生まれたばかりに人一倍モテまくる反面、人からの恨みもまた買い易い。
 もしや自分のとばっちりで、と憂えた郁に、
「恨みを買ったとしたのなら與の方だろう。でないと時間的に辻褄が合わない」
 同じく曇り顔での東條。
 この事件の最初の犠牲者は東條と瀬田の幼馴染み、三上與という少年だった。彼の籍は既に学園には無く、事件が発覚して以来彼はずっと入院したままだ。
 三上の名前が出た途端、ついに切れてしまった会話を繋ごうと、
「じゃあひとつ仮定を立ててみるとしようか」
 重いながらも口を開いたのは瀬田。
「あの当時何らかの理由で與はある女性に恨みを買った。彼女は與に対して復讐を考える」
「そういう現場に立ち合える、良くいえば気丈夫な性格。時価40万円相当の指輪を平気で身に付け、埃まみれの床に置き去りにできるような人間だから」
「…派手で傲慢、指輪は貰い物で」
「常時男をはべらすタイプ」
 他意は無くても室内に居る数人の視線を受けた亜美は、悪戯っぽい笑みを浮かべると隣に座る美都の肩にしな垂れかかった。
「ねぇん、あのルビーの指輪落っことしちゃったのぉ、ごめんなさぁい。でもぉ今度はぁ、落としても直ぐに見つけられるくらい大っきなダイヤがいいわぁ。…なんて感じかしら」
 突如、色気虫へと化した亜美の目線と口調に、不謹慎だと思いながらもつい身を乗り出して喜んでしまった優也を軽く視線でたしなめたのは郁。
 すると…、
「あれはどう見たって恋人同士というよりは親子か兄弟の風景だ」
 成り行きだったがまだ肩にぶら下がったままの亜美に、ぼそっと美都が呟いた。
「橘君が妙にもたついてるから…」
「ははっ、優也相手じゃなぁ。あいつ、あんなことがあったのにまだ良く分ってないんだぜ。大体あの状態で床に引きずり倒されて、お医者さんごっこで済むわけが無いって」
 もちろん小声での会話だということはお分かりだろうが、では何故ここでお医者さんごっこなのか。
 確かに優也があの事件時に味わった恐怖は相当なものだった。強姦の意味もさすがに理解してはいるが、正確に把握しているのは男女間での行為だけなのだ。
 無知というのは恐ろしいもので、
“僕を襲ってどうするつもりだったんだろう”
 なんて質問を優也は真顔で郁にしてしまった。
 唖然とした郁はさりげなく受け流すタイミングを外してしまい、だからといって真実を全て告げる気分にはなれず…。
 三上與が実際どれだけのことをされたのかは…動画の一件も含め、優也にはその殆どを伏せてある。だから適当に誤魔化そうと郁がのらりくらりと話した内容を、優也は“お医者さんごっこのような物”と解釈してしまった。
「まぁ事件が解決してしまうまでは下手に恐怖心を煽りたくないんだろうが…。そういえばさっきお前が強姦現場って言った時、優也が妙な顔してたぞ。橘が必死で隠してるんだ、もう少し協力」
 しかしニヤっと笑みを浮かべた亜美を見て、美都は続く言葉を呑み込んでしまう。
 どうやら意図的な発言だったようだ。
「今はね、優也君の頭の中がこうパズルみたいになってて、パーツが上手く組み合わさってないだけ。橘君のことが好きだって気付いた時みたいに、きっと何かの拍子で一気にパズルができあがるわよ」
「だからって急かしてどうする」
 しかし亜美は違うと首を振った。
「優也君が分かってないのは、仕上がるはずのパズルを誰かが故意に邪魔してるから」
「…あ? 誰かって」
「あの橘君がお医者さんごっこなんて、随分と間の抜けた勘違いさせたと思わない?」
 どうも亜美の真意が分かり辛い。
 何が言いたいんだと尋ねた美都から身体を離し、机に頬杖を付いた亜美は軽く郁を睨んで見せ、
「頭のいい人間はズルイってこと」
 突然の普通音量での発言は進行中の会話を妨げてしまった。
 美都を除いた全員の視線を一身に受けながらの亜美は両手をパッと広げ、
「ごめんなさい、一人言が大き過ぎました。気にせず話を進めて下さーい」
 おどけた笑顔でその場を和ませる。
 その言葉と仕草で何事も無かったかのよう話し合いは再会されたのだが、郁だけはしばらく亜美から視線を離さなかった。
 つまり誰への当て付けだったのかは充分理解したようだ。


3.WILD RUSH

 生徒会室の扉から数歩進めば、右手には階上へと続く階段。そして第1校舎とを繋ぐ渡り廊下がある。この一角を無視し更に西へと直進すると放送室・職員室となるのだが、うっかりすると階段の踊り場脇のトイレにまで脅かされそうなくらい地味に存在しているのが印刷室だった。
 その前で足を止め何やら揉めている男子生徒が二人。




「頼むからこれ以上纏わり付かないでくれないか、今月は特に忙しいんだ」
 怒り口調で言った彼のネクタイ模様の色は青。
「じゃあ暇になったら付き合ってくれるって約束してください」
 まったく動じていないもう一人のネクタイ模様は黄。
「だから俺は付き合うつもりは無いって言ってるだろう。何度言えば分かるんだ」
 青は3年生の色で、
「何度聞いたって分かりませんっ」
 黄色は1年生。
 聞き分けの無い反論にめまいを感じたよう首を振ったのは、さっきまで生徒会室に居た瀬田。…とすると、この思い込みの激しい生徒は春先、瀬田にフられた1年坊主だったりする。
 性懲りもなく、あれから毎日生徒会室に通い詰め、
“その存在自体が喧しい”
 と生徒会室の風紀を担当している津島はとうの昔にサジを投げてしまっている始末。
 本当にどうしようもないストーカー少年なら東條なり和臣なりが既に対処しているのだろうが、はっきり言葉では拒絶しているにも係わらず瀬田の態度がどこか曖昧なのだ。
「お願いですっ。絶対に邪魔はしませんから、傍に居させてくださいっ!」
 今この瞬間が邪魔なんだと思いながらも、こんふうに泣き付かれると結局、瀬田は引導を渡し切れない。
 重い溜め息が瀬田の口から洩れた時…、
「けーいじゅっ」
 弾んだ声に二人が振り返った先には、そこそこ男前だがやけに軽そうな少年と霞がかった背の高いスラリとした少年が並んで立っていた。
 こんにちは、ときちんと頭を下げた二人に瀬田が無難な笑顔を返して見せたのは、顔馴染といえばそういうことになるからだろう。
 実はこの二人に瀬田の追っかけ少年が加わって、
 いつも元気な成澤桂樹。女たらしの栗生晴彦。浮世離れの本屋敷内裏
 などと呼ばれる今年の新入生内では有名人トリオなのだ。
「ここで逢ったが百年目、たまには一緒に帰ろぉぜ」
 授業時間中はつるんでいても放課後はそれぞれ別行動のこの3人。しかし帰る先は3人同じ学園の寮である。
「変な日本語で、ラブラブ2ショットの邪魔すんなよ」
「邪魔してたのは桂樹なんだろう。あんまりシツコイと嫌われるんだぜ、男は引き際が肝心。ですよねっ、瀬田さん」
 恋愛のエキスパート然とした栗生の態度は少し鼻に付かないでもないが、成澤を連れ帰ってもらえるならこの際相手が誰だろうと拘ってもいられない。
 瀬田が笑顔で頷くと、
「あっ、瀬田さん。こんなタラシの言うことを真に受けてちゃ駄目ですよ」
「何だとコラ、それが友達に対して言う台詞かっ。タラシでも何でも現実にそうなんだから仕方が無いさ。なっ、ダイリだってそう思うだろう?」
 にこにこと栗生の言葉を受けた本屋敷はにこにこ顔のまま数秒間を置いて、
「継続は力なり」
 ………
 他3人は、しばし無言。
 この眠気を誘う柔かい物言いは、確かにどこか浮世離れしているようだ。が、
「…や、やっぱダイリは違うよな」
 一応味方だろうと踏んだ成澤はボンヤリしている場合では無いと素早く立ち直り、
「それに引き換え晴彦のその態度。お前女しか興味が無いとか言いながら、実は瀬田さん狙いなんじゃ」
「そぉこまで俺をコケにするんなら取っちゃおっかなー」
 軽く流した栗生の視線は瀬田に睨み返されて、
「なんて言うのは冗談だけど、最近男でもいいかと思ってんだ。この学校、男子のレベルすっげぇ高いだろう。橘さんとかに迫られたら、俺バックヴァージン捧げちゃうかも」
 と、その言葉で成澤は突然ふふっと含み笑い。
「僕さっき橘さんに触っちゃったもんねー」
「えっ、嘘。どこで?!」
「生徒会室。いい男ナンバーワンのご利益もらおうと思って、で良く見たら豪華メンバー勢ぞろい」
「もしかして小西さんとか佐伯さんとか?」
「めちゃ可愛かった」
「白河さんとか森丘さんとか?」
「美人だし、かっちょ良かったぜ」
「え゛〜。俺も一緒に行けば良かったぁ、ダイリとダベってたなんて何て無駄な時間を過ごしてしまったんだぁ…」
 打ちひしがれる栗生を眺めながら、今一番無駄な時間を過ごしているのは自分だろうといつ尽きるとも無い会話の切れ間を捜していた瀬田だったのだが、
「だけど小西さんが元気なら良かったじゃん。やっぱり噂はデマだったんだ」
 ――あの事件時。
 自習だった7組はともかくとしても、1組は生徒3人が授業そっちのけで教室を飛び出したのだ。何事も無かったという方が不自然極まりなく…、しかしもちろんその辺りのフォローは和臣がしっかりと手を回していた。
 噂とは和臣が流した作り話だろうとは思いながら、少し本屋敷の言いようが気になってさりげなく問い返すと…
「大きな声で言えないんですけどね、なんか小西さんのヤバい動画が有るっ…!」
 成澤の続く言葉を瀬田は思わず手を出して遮ってしまった。
 辺りを素早く見回して、
「悪い。ちょっとその話」
 もう少し詳しく聴かせてもらえるか?
 と続くはずだった台詞を志し半ばで瀬田は断念する…いや、せざるを得なかった。
 唇を塞いだ瀬田の手を両手で上から抑え付け、成澤がモゴモゴむせびながら感涙しているからだ。
 失敗したなと思っても自ら差し出した手を無下に引っ込めるわけにも行かず、
「あー…、離してもらいたいんだが」
「い゛〜や゛〜て゛〜す゛〜〜ぅ゛」
 困惑顔で逸らした瀬田の視線がたまたま栗生と合った。と、
「旦那ぁ、つくづく罪なお人ですゼ」
 なぜか江戸っ子口調の彼だった。


4.銃爪

 第2グラウンドの北東部、約4分の1を占めているのは学園の体育館兼講堂。
 その地下には自転車置き場が設けられている。
 下校時間を外れ殆ど人気が無くなってしまった自転車置き場から、少女がひとり足早に立ち去って行った。鞄だけを持って下校して行ったところを見ると自転車置き場本来の目的以外で入っていたということだろうか。
 自転車通学でなければ卒業まで立ち寄りたくないな、と思わせるくらい、学園の自転車置き場は陰気でジメジメした場所なのだから…。


 カシャカシャガッシャンっ!


 傍の壁に手をつきながら不安定な体勢で鍵穴に差し込んだ鍵が上手く開かないのは若干苛立っていたせいかもしれない。
 こんな場所で待ち伏せされていたことが原因…ではなく、多分その前から郁は機嫌が悪かった。
“頭のいい人間はズルイってこと”
 …亜美の言葉が何度も脳裏をリピートするのはその一言が堪えている証拠だ。
 一度身体を起こすと気持ちを静めるためか、シミだらけの天上を見上げたその時、
「さっきの、今年の1年生ナンバーワンだぜ」
 話し掛けてきたのは男の声。
 女子生徒が退場した後には自分一人しかいないと思っていた郁だったが、いつの間にかもう一人入り込んでいたらしい。
「嘘でも付き合って損は無い相手じゃないか」
 声の主を振り返るや否や視線を辺りに泳がせた郁に、
「安心しろよ、俺一人だから」
 苦笑いでそう言ったのはアームレスリング同好会の矢野亨
 半袖シャツから剥き出しにされている腕の筋肉はあまりに隆々と自己主張が激しくて、見たくなくても自然と目がいってしまい、
「慰謝料の請求ですか?」
 言いながらの郁は矢野を見据えたまま壁を背にすると、はっきり威嚇の表情を向けた。
 優也とは随分趣が違うが郁も以前集団暴行の被害に遭いかけたことがある。矢野はその時加害者側にいた人間の一人で、腕に残る傷痕は紛れも無く郁が付けたもの。
 しかしそれは充分正当防衛に値するもので、
「謝まりませんよ」
 続けた言葉に左手で傷を覆い隠した矢野は相変わらずの苦笑いで頷くと、
「集団暴行なんて卑劣極まりない行為」
 ダンッ!
 黙れという意思表示なのか、強く後ろの壁を蹴り付けた音で矢野は口を閉ざしてしまう。
 問答無用の面持ちで、ジッと見据えたままの郁に、
「い、今更だよな」
 矢野は慌ててそう言葉を足した。
「謝って済む問題じゃないことは分かってる。それでもちゃんと謝っておきたかったんだ」
 それが今まで叶わなかった理由は、二度と郁の視界に入るなと強く和臣に釘をさされているから。にも係わらず、こうやって隙を見て接触を図るあたり、惚れた一念としか言いようが無いだろう。
「俺だけじゃなく他の連中もそう思ってるんだ。最初は本当にあそこまでするつもりも無かった…、橘は女にしか興味が無いとも思ってたから」
 矢野の言葉はそこで切れたが、忌々しげにそっぽを向いてしまう郁。
 何が導火線になったのかは百も承知している。
 言うまでも無く原因は去年の文化祭で起こった郁とその知人男性とのキス事件なのだ。
 もちろん二人の間には恋愛感情のかけらも無く、キスも未遂で終わったのだが、密かに郁へ想いを寄せていた男子生徒には大いに刺激になったよう。郁が男子生徒に付き纏われるようになったのはこの頃からで、
「佐伯との噂がどれだけ俺達の劣等感を煽ったか分からないだろう」
「…劣等感?」
 意外な発言に少し怒りを納めた郁が問い返すと、
「男にしておくには勿体無いくらいの美貌を誇る佐伯ならOKで、成績も見てくれも何を取っても人並みな俺達の存在は見事に無視。だったらせめて力でものをいわせてしまえ、ってね」
「随分と勝手な言い分ですね」
 腕を組みながら軽く睨んだ郁に、
「悪事に理屈なんか無いんだぜ。有るのはただのエゴだけさ」
 きっぱりと矢野は言い切った。
 胸を張って言うようなことでは無いだろうが、まぜか郁はそれ以上感情を荒げるでもなくしばらく腕を組んだ姿勢のまま矢野を眺め、
「レイプに走る人間っていうのは皆そういった考え方をしてるんでしょうか?」
 静かな声で尋ねて見せると首を捻りながらの矢野は、
「さぁ…。だが、飯島はお前とヤるのが目的でもなかったし理由は別だったじゃないか」
 答えに郁はまた黙り込んだ。
 どうしても“恨み”という言葉が付いて回る。
 東條が言った通り郁への恨みが主だと考えるのは、三上與の事件との絡みを考えれば無理がある。が、あの事件から2年も時は過ぎているのだ。
 三上與と優也との外見的特徴が似通っているという理由とは別に、事件への引き金となった要因が何かあったとも考えられる。
 強姦現場に居たという女性にしたって三上與への恨みだけが目的ならなぜ今回の犯行にも荷担する必要があったのか。単純に性癖の問題かもしれないが、もし優也に対して好意的感情を抱くことができたなら、今回の犯行に加わっていなかった可能性だって…とすれば優也に対しても何がしか恨みがあったということになるのだろうか。
 指輪から想定できる人物像から考えると生徒である可能性は低いにしても、あんな派手な指輪を身に付ける教師というは和臣ですら未だに絞り込めないのだ。
 だがそれを考え出すと他のメンバー自体2年前と今回とでは、それぞれ別の思い入れがあってもおかしくは無いだろう。
 矢野が言ったように目的は同じでも、理由は個々で異なって当然…
 …と、そこでしばらく振りに矢野の存在を思い出した郁が視線を向けると、
「美人が3日で飽きるというのは嘘だな」
 どうやら郁が思案中じっと眺め入っていたようだ。
「人間の顔に見飽きるのなら無人島にでも行くべきですね」
 また変な気でも起こされないうちにと、さっさと帰り支度を始めた郁に、
「なぁ、今俺が言った中尾の話、聞いてくれてたか?」
「は?」
 全く聞いていなかった郁がもう一度視線を向けると、
「3年の生物を受け持ってる中尾だよ。さっき飯島のことで思い出したんだが、お前中尾にも恨まれてるって知ってるか?」
 郁は眉間にしわを寄せる。
 話した記憶も会った記憶も、顔すら思い浮かばない相手なのだが、
「お詫びのつもりで忠告しておいてやるよ。あいつ、お前にとんでもない逆恨みをしてるんだぜ」


5.学園のKomachi Angel?

 体育館の西。
 公道に面した藤棚下にあるテーブルを挟んで美少女が二人、向かい合わせで座っている。そこから少し離れた場所で所在無さげに立っている数人の男子生徒に視線を移し、
「相変わらず、引き連れてるわねぇ」
 長い緑の黒髪を後頭部でひとつに束ねた少女が呆れ気味にそうこぼした。
「好きで引き連れてるわけでも無いんだけど」
「昼間は昼間でいい男に囲まれてるし…、あの中の誰とも付き合ってないんでしょう?」
 頷いた亜美の髪に藤の花びらがひとひら、ハラハラと舞い落ちた。
「菜乃ちゃんなら誰が好み?」
 その花びらを手にとって尋ねた相手は亜美の小学生からの友人。とはいっても一度たりともクラスを同じくしたことは無い。
 幼馴染みというわけでもない。
 時々校舎ですれ違う、朝礼で振り向けば近くに居た…といった些細な出会いの積み重ねで、いつの間にか気の合う友人になっていた。
 お手て繋いで仲好し小好しとはかけ離れた友人関係だが、即かず離れずのいい関係だったりする。そんな二人がこんな時間にこんな場所で雑談を交わしているのは生徒会室に立ち寄っていた亜美と、道場へ行くために顧問を待っている菜乃とが生徒用通用門で偶然出くわせたからだ。
 藤の花びらを掌からふっと飛ばした亜美へと、
「こういう場合、橘君っていうと無難なんだけど」
 答えながらも花びらの行方を視線だけで追っている彼女のフルネームは綾部菜乃
 学園の薙刀部所属、全国大会3位の腕前を持つ優秀な部員。というより薙刀部は彼女のためだけに存在している。
「森丘君なんかも最近人当たり良くなってるし、松前君もいい味出してるのよねぇ。どれも甲乙付け難い…」
 顎に指を当て考え込んでいる清楚な横顔に投げ掛けられた、
「後の二人も中々のものなのよ」
 との言葉に一瞬意味を理解し兼ねた菜乃だったが、直ぐにうんうんと笑顔を見せると、
「でもあの二人は何だか別枠なんじゃない? 私これでも一応は守って欲しい願望を持ってるんだけど」
「ふふっ、人を見掛けで判断しちゃだぁめ。佐伯君はああ見えて結構やる時はやるのよ。悪漢にはこうビシッ! っとね」
 言葉と共に亜美のストレートが空を切る。
「ふーん、なんか想像できない…。じゃあクリクリおめめの小西君は?」
「優也君は、そうねぇ。すっごく疲れて家に帰ると、“お帰りなさーい” ってあの笑顔で迎えてもらって、“ただいまー” ってこうぎゅ〜っとすると一日の疲れも」
「亜美ちゃん」
 呼び掛けに視線だけを向け、
「主旨がずれてない?」
「あ、分かった?」
 おどけ調子で舌を出した亜美に、くすっと笑いながらの菜乃。
「だけどそれ分かるわぁ。小西君って一家に一台って感じよね、居るだけで有り難い気がする」
「うん。時々子供っぽ過ぎてイライラするけど、だけど悔しいくらい綺麗なの。…だから」
 無意識に逸れた亜美の視線の先には、自転車置き場から出て来た郁の姿があった。
 亜美が大きく手を上げると、それに気付いた郁は表情を緩め、何となく勢いで小さく手を挙げてしまった菜乃にも軽く笑顔を向ける。
「また明日っ」
 満面の笑顔で叫んだ亜美に、軽く敬礼を返した郁はそのままヒラリと自転車に跨り公道へと消えて行った。
 意見の食い違いがあったとしても、いつまでもお互い根に持ちはしない。
「ああ見ると、やっぱり橘君は捨て難いわね。久し振りにいいものを見せてもらった気分」
 …とそこでパンッと手を打った菜乃に亜美が視線を戻すと、
「ねぇ。今年のインターハイ会場、結構近くなの。亜美ちゃんあの綺麗どころ達連れて応援に来ない?」
 嬉々とした語調に亜美は軽く眉を上げた。
 過去に一度たりとも試合観戦に誘われたことなど無かったからだが、
「私が万年3位だってことは知ってるわよね」
 頷く亜美。
「無事準決勝まで勝ち進めたら、綺麗どころ達に敵を応援してもらえないかしら」
「…菜乃ちゃんじゃなくて?」
「うん。私の読みだと、上位に勝ち進んでくるのは女子校出身者ばかりになるはずなのよね」
 と、そこで亜美も意図を察したのかクスッと笑みを洩らした。
「何やら男子の声援がすると思って目を向けると麗しき面々が立ち並んでて…5人も居れば一人ぐらい好みが居ると思わない? で、こうクラクラってなった隙に、私がパシーンって」
「男嫌いだったら?」
「それは亜美ちゃんがカバーするのよ」
 秘儀“目くらましの術”
 などと付け加えた菜乃の言葉に、しばらく笑い続けた亜美は、
「菜乃ちゃん、卑怯なこと考えてるのね」
「別に反則じゃないもの。ようは勝てばいいってこと」
 菜乃の性格は良く知っている。
 本気でそんなことを考えてはいない。
 なんてことは充分承知しながら、ふと亜美は表情を変えた。
 それに気付いた菜乃の呼び掛けに、
「たまには悪くなってもいいのにね」
「…何の話?」
 問い掛けに、なんでもないと亜美は笑顔で小さく肩を竦め、
「全員は無理だと思うけど、暇な二人だけは手配しておくとしましょう」


6.We will rock you

「フレディ、マー…キュリー?」
 優也の言葉にうんと頷いた翠。
 生徒会室でのミーティングの後、皆それぞれに散らばって行ったのだが、この二人は放課後も行動を共にすることが多い。
 亜美曰くの暇な二人とはいうまでも無く彼らのことだ。
「今年の新入生にイギリス人の生徒が居るらしくって…で、入学式の時に瀬田さんが誰かに似てるってずっと見てた相手がそのイギリス人の生徒で、さっきの成澤桂樹がその彼の近くに居たんだってさ」
 ミーティングが済んだ後、瀬田を待ち伏せしていた成澤とは二人とも対面済み。
 生徒会室を出る前に翠は和臣から簡単にではあるが、ことのあらましを聞いていた。
「ふ〜ん、それで勘違いされたのか…。だけどそのフレディ何とかって、どこの誰?」
「僕も詳しくは知らないんだけど、クイーンってバンドの元ボーカルなんだって」
「元?」
「うん、なんか亡くなったそうだよ」
 優也は少し考えた後、
「レンタル屋さんに行けば昔のライブの何か置いてあるかな?」
「なんで?」
「だって瀬田さんが考え込むくらい似てたんだろう? どんな顔か興味あるんだけど」
 よっぽど見甲斐がある容姿なんだろうと期待を膨らませている優也の姿に、
「じゃあ今から借りに行ってみる?」
 レンタルショップは翠のマンションから極、近い位置に存在している。
 即座に頷きかけた優也だが、
「あ、駄目だっ。最近あの辺り先生が張ってるんだよ」
 学園最寄り駅傍にはそこそこの繁華街が広がっているため、風紀上規則として担任教師の許可が無ければ制服着用の生徒は寄り道厳禁なのだ。
「じゃあ、優也は部屋で待っててよ。僕、着替えてレンタル屋さんまで行って来るから」
 優也の帰りが遅くならないよう取り敢えず時間を確認すべく鞄から携帯電話を取り出した翠に、
「翠くん、いつも腕時計してないね」
 まぁ3ヵ月も一緒に居れば優也がその程度の疑問を感じた所で別に不思議でもなく、隠すようなことでもない。
「色々と付けたり飾ったりするのが好きじゃなくて」
 …なるほどなるほど。
 言われてみれば再び鞄へとしまい込もうとしている携帯電話のカバーも極めてシンプルなデザインの物で、そもそも翠が住むマンションの部屋自体やけに簡素なのだ。
 自分の好みについて深く考えたことも無かった翠だが、
「だから、よっくんなんだね」
 思いも掛けない一言にドキッとして視線を上げると優也は綺麗な笑顔を向けていた。
 あることをあるがままでしか受け入れることしかできない優也だからこそ、誰よりも真実を見抜く目を持っている。人間のあらゆる負の感情に付きまとわれる郁には初めて優也に出会った夜、本当にそこで天使を見たのかもしれない。
 その郁が何よりも愛して止まないという澄んだ瞳を見つめたまま、そうだねと小さく翠は頷いて、
「だから橘には優也なんだよ」
 思いはしたが口にはしなかった。
 一番大切な答えは自分で見つけるからこそ意味があるのだから。




 とそんな会話を交わしている間に二人は翠のマンションへと辿り付き、部屋に入った優也はリビングの隅に鞄を置くとラグの上に座り込みながら何気なく傍にあったテレビ番組表を広げたのだが…。
 おもむろに三度自分の腕時計で時間を確認した後、スクっと立ち上がると、
「翠くん」
 着替えに自室に篭った翠に呼び掛ける。
「えっ、何? 開けていいよ」
 けれど優也は扉の側で立ったまま、
「翠くんちってBS入ってたよね」
「うん」
「…今、やってるんだけど」
 少しの沈黙の後、扉を開けた翠が何の話かと問い返すと、
「ほら、BSでクイーンのライブやってる」
 テレビ番組表を指差しながら優也は腕時計を見せ、
「今だよね」
 そんな上手い話、あるはずが…と思いながら番組表を覗き込んだ翠はしばらく無言で
“クイーン・ライヴ”
 の活字を凝視してしまうこととなる。


 世の中には何とも都合のいい偶然があるものだ


7.Problem

 開け放たれた窓から吹きこむ風が静かにカーテンを揺らす。
 無人になったはずの生徒会ミーティングルームには、再び人影があった。



「動画にそれらしい人物は…」
 和臣の問い掛けに資料の束に目を通していた東條は、否定を意味する重い溜め息をつきながら手を止めた。
「それより小西をあんふうにしておいて大丈夫なのか? 言っちゃ悪いが佐伯では頼りにならないぞ」
 犯人捜しも重要だが当面は優也をきっちり保護することが先決だろう。
 それに専念し過ぎたばかりに優也に何かあっては本も子もなくなってしまうのだが、それくらいのことは和臣だって先刻承知で、
「そのことも含めてもう一度確認してもらいたいことがあるんです。何度も見たくは無いでしょうが…」
 これはもちろん三上與のレイプ動画を指している。
 東條の気持ちを考えれば和臣自身で確認したいところなのだが、この動画を情報源として提出するつもりが東條には無いのだ。
 瀬田にすら見させていないと言う物を無理矢理見せろとせっつくわけにも行かない。けれどあの動画は犯人が映っている唯一の手掛かり足がかりでもあり…、
「場所の特定はできないでしょうか?」
 どんなに心苦しくても東條から聞き出すより他に手段が無い。
「…前にも言ったが、相当修正が入ってるんだ。あの動画からは何も」
 どうやら三上與を脅迫するためだけに作られた物のようで、彼以外の映像の殆どは年齢も人相も身体的特徴もほぼ判別不能だったそうだ。がしかし和臣は首を振り、
「考えてみたんですよ。俺ならどういう方法を取るだろうかって」
 組んだ指を机に置くと深く背もたれにもたれた。
「由岐に存在を明かしていないだとか、優也のクラスを自習にさせたとかっていうのは確かに手の込んだやり口で、佐伯が思い切って俺達の教室まで呼びに来なければ、奴等の目的は達成されてたはずなんですが…」
 和臣が逸らした視線の先で、カーテンが大きく揺れる。
「俺ならもっと確実な方法で狙います」
 先を促すよう和臣を見た東條。
「優也は今、会社員の姉と二人暮し。けれどその姉が仕事を終えて帰って来るまでの間は殆ど優也は家にひとりで居る。なんてことは岡本の子供さんが通う幼稚園を探り出すより簡単に分かる事実なんです。優也はあんな性格だから宅配だとか水道局とかって言えば疑いもせず部屋の扉を開けますよ」
「狙うなら自宅?」
「とまで言わなくても、学校内なんて人の多い場所はまず避けますね。拉致することだけが目的なら話はちょっと変わりますが、あんな薬まで手に入るくらいなら、睡眠薬ででも意識を無くしてから校外へ連れ出した方が確実だったはずです。優也の周辺はある程度俺達が警戒していることも知っておきながら、校内で実行しようとした理由があるような気がして」
「考え過ぎなんじゃないのか? 與があっさり堕ちたものだから傲ってた部分があったんだろう。橘を挑発してきたことを考えると半ばゲーム感覚でやってるのかもしれない」
「ええ、それも考えたんですが、どうもそれだけでは俺自身の納得が行かないんです。…奴等は何かに拘ってる」
 どうやら答えを出しているような和臣の口振りだ。
 分かっているのならさっさと言えとばかりに、
「結論は何だ」
 そう問いただした東條だった。が、
「学校フェチ」
 瞬時に顔中疑問符を貼りつけてしまった。
「…どうしても想像の域は越えませんが、例の動画の現場が学園内のどこかなら、かなり確信が持てるんです。なぜか奴等は学園内でヤリたがる」
 東條はすっかり表情を曇らせてしまうと、
「その見解は俺の理解の域を越えてるぞ」
 すると和臣は静かな笑顔を浮かべながら、
「理解できる相手なら、こんな下劣なマネはしてませんよ。絶対」


8.誰より好きなのに

「なんかね、すっごいパワフルなんだ」
 カサカサっと渇いた衣擦れの音。
『ふーん、で?』
 郁の声を聞きながら優也は再度寝返りを打つ。
「うん。明日ね、翠くんと二人で休み時間に見に行くんだけど郁くんも一緒に来ないかなぁ、って」
『いいや、遠慮しとくよ。ちょっと覗くだけなんだろう?』
「そうなんだけど…興味無いのかぁ。でも学園のフレディ・マーキュリーだよ、こうヒゲとか生えててさ」
『優也、生徒手帳を読んだことは無いのか?』
「無いよ」
 即答に郁は軽く笑いながら、
『まぁ眠れない夜にはお勧めだから、羊を数える代わりに一度読んで見るんだな』
「それは面白く無いってことだね」
 優也の答えに一瞬、間を置いて、
『どうした。今夜はやけに冴えてるな』
 大丈夫かとでもいいたげに声色を変えた郁に、拗ねたよう優也は少しだけ不満げに眉間を寄せ、
「心配しなくても冴えてるのは半分だけだよ」
『…半分?』
「なんで生徒手帳の話になったか分からないもん」
『マジ、冴え過ぎ。…何か悪い物でも食ったんじゃ』
「郁く〜ん」
 優也の訴えるような呼び掛けに郁の笑い声。そして、
『ォほんっ、失礼。髭は禁止って書いてあるんだよ、生徒手帳に』
「へー…。そういえばヒゲの生徒って見たこと無いね。だけどじゃあヒゲの無いフレディくんなんだ」
『それで瀬田さんも直ぐに分からなかったって言ってたな』
 あれ? と受話器を片手に首を捻った優也。
「郁くん知ってたんだ、追っかけくんのこと」
『多少はね。でなきゃ頭叩いただけで済まないって』
 ミーティング終了後、部屋から出てきた集団の中に郁を見止めた成澤は、初対面にもかかわらずいきなり抱き付いたのだ。
 あの後成澤が、郁に触ったと言った説明は実はかなりな過小表現だった。
「そうだよね。僕ビックリしちゃった…」
 っとそこで、突然優也は言い淀む。
『…どうした?』
 本当の心配声に変わった郁に、うんと返事をしてみせて、
「今思い出したんだけど…。今日さ、生徒会室でつぐちゃんが強姦って言った時、なんか変な感じがしたんだけど」
『誰だっていい気分はしなかったさ』
「…じゃなくて。うーん、と…そういうことって女の子だけの話じゃなかったのかなって」
『どういうことが?』
「だから…、つまり」
 直ぐに分かってもらえるつもりでいたのだが郁に問い返されてしまい、また寝返りを打ちながら言いあぐねる優也に、
『優也、今どこで喋ってるんだ?』
「ベッドの上」
『じゃあ、半分夢の中ってことだな。どうりて妙に冴えてるわけだ』
「ちゃんと起きてるよ」
『うっそ』
 の返答で、
「嘘じゃないよ」
 ムキになって優也はペッドから起きあがってしまった。が、
『…嘘は俺』
「?」
『また白河に責められそうだ』
「つぐちゃん? と、何か揉めたの?」
『いや、一方的に俺が悪いだけ』
 意味が分からず、何がと問い掛けた優也の言葉と、
『優也』
 郁の声とが同時で、お互いに言葉を止める。
 少しの沈黙の後、
『ごめんな』
 ポツリとした郁の呟き。
 なぜかベッドの上で正座をしている優也は、いつになく物憂げな郁の声の雰囲気に言葉が上手く繋げないまま更に沈黙してしまい、
『そろそろ休憩時間終わりなんだ』
 その言葉で短い夜の挨拶を交わして通話は切れた。
 握り締めた受話器を優也はジッと見つめたまま傾げた首がしばらく元には戻らない。
 その姿を郁が見ることができたなら、一体どんな顔をしただろう。


9.Delilah

(ほら、見て見て。佐伯さんと小西さんよ)
(やっぱ近くで見ると違うよなー)
(うんうん。女の私でも惚れ惚れしちゃうわぁ)
(同じものさしで計ることが間違ってるって)
(なんですって)
(言ってる場合じゃない。早く追えっ)
(でも何しに来たんだろう)
(誰かお目当ての人がいるとか)
(えっ?! まさか1年生に?)
(嘘! 誰だれ。一体誰に…ヒソヒソヒソ)
(お前ちょっと、ボソボソボソ)
(俺が先に、ガサガサガサ)










「…ねぇ優也」
 隣を歩く優也に小さな声で翠が囁き掛ける。
「なんか僕達目立ってない?」
 好奇の視線に晒されて、居心地が悪そうに無言で頷いた優也。
「フレディ君の教室、もう直ぐなんだけど…」
 なんて会話も聞き取られてしまいそうなくらいな距離で、かなりな群集が二人を付けて来ているのだ。












(おい、今誰君って言ったんだ?)
(お前がうるさいから聞こえなかっただろうが)
(“ふ”、何とかって聞こえたわよ)
(4…、いや5組に向ってんのか?)
(5組で“ふ”の付く奴…)
(ふ? ふ? ふ?)
(お前、息吹きかけんなよ…って、吹田! 吹田、5組だぜ)
(え゛〜っ!!!!)
(なんであんな、おてもやんがっ)












「ぷっ!」
 周囲の会話に思わず笑ってしまった翠。
「…笑っちゃ駄目だよ」
 珍しく優也がそう諭したのは、もう既に5組の前まで辿り着いてしまっているから。
 翠も笑っている場合でないことは良く分かっているのだが…
「笑い出したら止まらないんだよねぇ」
 辛うじて声だけは押し殺したものの肩を震わせて笑い続けている翠を横目に、結局揃ってそそくさと5組の前も素通りしてしまった。
 よっぽど“おてもやん”が翠の笑いのツボに嵌ったようだが、足を止めることができなかったのは翠が笑い続けていたためだけではない。
 それぞれの恋人、郁や美都のように正面切って目立つことには慣れてはいないのだ。
 第1校舎の3階をただ西から東へと通り過ぎただけの二人は、1階の踊り場まで降りて来ると顔を見合わせ、
「困ったね」
「うん、困ったよ」
 何度挑戦しても結果は同じだろうことくらい優也にでも想像はつく。
 とそこへ、
「こんな所で何やってるの?」
 亜美の声で振り向くと、
「チャールズ・ハンターソンはどうだった?」
 次いで投げ掛けられた和臣の言葉に、優也と翠は揃って顔に疑問符を張り付けて、
「誰、それ?」
 尋ねたのは優也。
「学園のフレディ・マーキュリーに会いに行ってたんだろう?」
 そこで翠がポンっと手を打った。
「あっそうか。フレディ君の本名だよ。へぇ、チャールズっていうんだね」
 なるほどといったふうな翠の傍でふぅんと調子を合わせて頷いている美都の姿に、
「白々しい奴だなぁ。お前は知ってたじゃないか」
 言いながらの和臣は薄笑いを浮かべている。
 もちろん自分以外の男の情報は、翠にこれっぽっちも入れたく無いという心理が働いたからだろう。
「でも黙って会いに行かせただけ随分譲歩した方だと思うわ」
「おっ、白河知らなかったのか? 俺は海よりも広い心の持ち主なんだぜ」
 ふふんと腕を組んで威張って見せる美都を横目に、
「本当に黙って許してくれたのか?」
 そう翠に耳打ちしたのは郁。
 すると翠は手と首を振って、
「まさかっ。訳の分からないことをグズグズ言ってさぁ、夕べ寝たの2時だよ。耳が疲れちゃった」
「耳?」
 聞き返した郁に翠は親指と小指を立てた手を頬の辺りに持って行き、“電話中”のポーズ。
 どうやら夕べ美都は真っ直ぐ自宅に帰ったようだ。
「実際には水溜りより狭い心の持ち主なんだな」
 なるほどと頷きながらの郁の言葉に翠がくすくす笑って、
「そう言う橘の方こそ、優也が他の男の子に興味持ってるのに全然平気なわけ?」
「裏山の狸を見に行くのと似たような次元じゃないか。そんなこと一々」
「…橘って変なこと言うね」
「何が」
「裏山に狸が出るような環境はこの辺に無いよ」
 中々鋭い翠の指摘。
 ふむ、と少し考え込もうとした郁だったが、
「こいつのじぃさん松茸山持ってるんだ。裏山の狸は松茸山の住人…いや、狸のこと」
 いつの間に耳を傾けていたのか口を挟んだのは和臣で、
「臣くん、タヌキに会ったんだ?」
 優也が松茸より狸に興味を示した辺り、郁の例えは的を射たということだろう。
「野生の狸が見たいなら、今度連れて行ってもらえば? 橘君の田舎なんでしょう、そこ」
 言葉で郁を見つめた優也に、
「きっと大きなお家でね、夜中に何をやってたって分からないわよ」
 などとドサクサ紛れに、またまた亜美の大胆発言。
 しかし優也は、
「去年の打ち上げ花火が余ってるんだけど」
 田舎の夜は花火だと思い込んでしまった様子。
「そんなことしたら、お祖父さん家が燃えちゃう」
「…でも広いって」
「基本的には家の中ですることなんだもの。ねっ」
 チグハグな二人の会話に知らない素振りを決め込むつもりでいた郁だったが、押しの強い亜美に話題を振られて困惑気味に苦笑い。
 ジッと見つめたまま答えを待っている優也に郁が口を開きかけた時、3時間目開始のチャイムが鳴り響く。
 慌てて優也と翠は手を振って教室へと戻って行き、何やら鼻歌を口ずさみながら振り返った亜美は、郁に意味不明な笑顔を向けた。


10.見逃してくれよ

「斬新奇抜な発想だ」
 声に分厚い書物を片手で開いたままの和臣は顔だけを上げた。
 優也と翠に通常ならば会うはずの無い場所で出会ったのは、4人が図書館に向っていたからだ。1組の3時限目はレポート作成のための図書館での文献探し。だが、
「旧約聖書から今後の憲法第9条の在り方と方向性を見出すとはさすがさすが」
 声の主は口元に軽く笑みを浮かべている…ということはつまり、和臣は課題とは程遠い文献を手にしていたのだ。
「お前にとって大切な資料を探してやってるんだから、これくらいは見逃してくれ」
 しかし、
「例のことなら授業中はマズイだろう」
 言いながら声を潜めたのは郁。
 優也事件で犯人のひとりが名乗った“セラフィム”についての資料集めだと踏んだから。
 すると、いかにも不本意とばかりに目を細めた和臣は、
「一体、俺と何年付き合ってるんだ」
 言って開いたままのページの或る部分を指差して見せた。
 小さく肩を竦めながら傍の本棚に肘を付き、指先の文字を見止めた郁は視線を直ぐに和臣へと戻す。
「さっき白河が優也を見送りながら歌ってた曲。どこかで聞いたことがあると思ったら…」
「この女の歌?」
「というより、この名前が悪女の代名詞ってところかな。いつまでもお前がもたついてるから腹が立つんだろう」
 言葉に郁は溜め息をひとつ。
「急かされたって受け入れ態勢ができてなければどうしようもない」
 落ちた視線に、ふぅんと和臣は手にしていた本を閉じ、
「それは優也のことか、それとも…」
 郁の胸の辺りに本の背をトンと当てる。
 それをそのまま手に取った郁は、
「俺だって迷うことくらいあるさ」
 棚の隙間を本で埋めた。
 悩める友人の端正な横顔を眺めたままの和臣がいつもの笑顔で口を開いたのは、気の利いた言葉でも掛けてやるのかと思いきや、
「まぁ、せいぜい悩んでしっかり青春するんだな」
 などとあっさり突き放してしまい、視線を上げた郁を背にさっさと歩き出してしまった。
 さも意外といった表情で和臣の後姿を眺めている郁へと、
「この件に関して俺は中立なんだ」
 言いながら付いて来いとばかりに軽く左手で手招き。
「珍しいことがあるもんだ。何にでも口を挟みたがるくせに」
 これは直ぐに追い付いた郁の言葉。
「優也は俺の郁を取ったんだから、これ以上はどちらにも味方はしない」
 …と、郁が挙手のように小さく顔の横に掌を持って行き、
「質問。俺はいつから臣の所有物になったんでしょうか?」
 真面目腐った問い掛けに和臣はふふっと含み笑い。
「それはあの運命の夜からだ」
「運命の、夜…?」
 考えるよう郁は顎に手を当てて、
「そんな夜があったっけか」
 真剣に眉間にしわを寄せる仕草。
「なんだ、憶えてないとは薄情な。一緒にラブホテルまで行った仲だというのに」
 との言葉で、ニヤっと郁は口の端を上げた。
「また随分と古い話を」
「俺にとっては印象深い出来事だったんだぜ。今でもこう目を閉じると昨日のことのように思い浮かぶ」
 いかにも“うっとり”を装いながら瞼を閉じた和臣に、
「それはホテルのオヤジの顔がだろ?」
 言った郁の声は既に笑っていて…
「すげー顔して飛び出して来たもんなぁ、あのオヤジ」
「そりゃあ中坊がのこのこラブホに入って来たんだから驚きもするだろう」
「あれはやっぱ制服着てたのがマズかったか」
「男同士も駄目らしいぞ」
「それでも社会見学だって説明すれば良かったなと後から随分反省したんだが」
「だったら昼間に行くべきだったな」
「言われてみれば昼間は安いし」
「空いてるから好きな部屋が選べるって利点も」
「よしっ、じゃあ決まりだな」
 振り向いた郁に、
「この週末、それを実証しに行こう」
「…社会見学で通るかどうかを?」
「男同士で入室可能かどうかをだ」
「俺と臣とで?」
 うんうんと笑顔で頷いた和臣は、
「結果を論文にまとめて学会に提出しようかと思って」
 途端、郁の呆れ顔。
「実は暇だって言いたいのか?」
「忙し過ぎて頭の中が優也なんだ」
 さすがにこの冗談では笑わない郁。だが、
「只今より、例の件についての定時報告を行います」
 言って和臣がその辺りの書籍に手を伸ばしたのは、事実和臣の頭の中の一部は優也関連の事柄で占められていたからだ。
「優也の動画の件、どうもただのデマじゃ無さそうだぞ」
 目一杯声量を絞っての和臣。
 話題の転換に郁も傍の文献を手に課題に集中してますのフリ。
 動画の件とは昨日瀬田が成澤達から仕入れた情報のことだが、あの後、直ぐに話を聞いた和臣は既にそれプラスαの情報を入手している。
 興味深い点はその動画の内容が、あの時の真実の出来事とかなり一致していることだ。和臣がことのあらましを説明したこちらサイドの人間をあくまで信頼するという大前提をおくならば、この噂の出所は犯人以外には考えられない。
 何故なら噂の中には当事者にしか知り得ない情報が含まれているのだから。
「噂が流れているのは寮生の、しかも1年生内だけっていってたな」
「ああ。ただ引っ掛かるのは、瀬田さんの犯人像と随分食い違うってことだ。このままあっさり噂の出所が見つかってみろ、かなり間抜けた奴だぞ」
 すると郁は顔を上げ、
「それ程意外なことでもないさ。臣が念を押したにも係わらず昨日の矢野みたいな掟破りはどこにでもいるってことなんじゃないか?」
「…成る程ね」
 取り敢えずは納得しながらも何か考えるよう、ジッと開いたページに視線を置いたままの和臣に、
「だとすると、理由を考えたくなるだろう?」
 尋ねられるまでも無く和臣は頭の中で情報を整理していた。
 矢野の掟破りはただ郁に対する恋慕の情がさせたこと。
 じゃあこの噂を流した犯人の目的は…
「カネ、って可能性大かもな」
 噂が噂でしかないのはこの動画を見た人物が誰もいないからだ。
 しかし存在するかどうかも分からない動画にかなりのプレミアがついているのは事実で、それは優也が陰でどれ程の人気を誇っているかを何よりも物語っていた。
 小さく唸った郁に、
「あれから1ヵ月以上経ってるっていうのに現物が存在しないんだ。噂になってる動画自体は架空の物と思って間違い無いだろう。気分は悪いが、ある意味こっちにとっては好都合。かなり無警戒な馬鹿だから直ぐに犯人は割れると思う。何を思って荒稼ぎするつもりになったのか正確な理由はそいつから訊き出せばいいってことだ」
 そういった意味では和臣の裁量を誰よりも知っている郁。
 何の不安も無く二度頷いて、
「…ところで、さっき話が逸れたんだが」
 白いページから視線を向けた和臣に、
「本当はどうして中立なんだ?」
 わざと誤魔化したといえばそうなのかもしれない。
 分かりません、知りません、できません
 といった類の言葉を本気で口にしたくない性格の和臣。郁相手に話題を逸らすのはやはり至難の業だったなと内心反省しながらも、
「俺は答えを持ってないから辞退しますってことだ」
 相変わらずの笑顔でそう言った後、
「それに本気で相談するつもりなら身近にもっと適任者がいるだろう…、ほら」
 チョンチョンと人差し指を向けた先、本棚に寄り掛かって資料採取を装いながら居眠っているのは美都だ。
 一瞬返事に詰まったが、
「確かに…心強い味方ではある、かな」
 言葉は嘘でないにしろ、決して電話相談だけは避けようと固く心に誓う郁だった。


11.SPY

「森丘ぁ、呼んでるぞ〜」
 などと言われる前から美都は一群全員の視線を浴びていた。
 一度逸らした視線を、美都がもう一度周囲に居る部員達に戻して、
「ここの全員に呼び掛けてるじゃないか。第一俺の知り合いじゃ無いぞ」
 けれど数人は首を振って見せ、
「あの手の人間がお前以外の誰に用事があるというんだ」
 高橋の言葉に残りの数人は頷いている。
 生徒用通用門の前で下校寸前の野球部集団が何を揉めているのか。
 彼等が控えめに向ける視線の先には、黒いスモークを張った真っ黒の高級外車が1台止まっている。その唯一開けられた運転席の窓からいかにも玄人じみた黒装束の男が一人、黒のサングラスを掛けたま間違い無くこの一群に向けて手を振りながら呼び掛けているのだ。
 あまりの怪しさに係わり合い志願者は誰一人居ず、その他の部員全員に選出された美都は、
「お前等、人相で選ぶなっ」
 かなりな怒り口調。だが、
「何となく同類項じゃないか」
「きっと勧誘だぜ、勧誘」
「勧誘…?」
「にぃちゃん、いい目付きしてるねぇ」
「ウチの組、来ない?」
 美都が睨んだところで野球部員達は馴れっこだ。
「勝手なことを…」
 言ってる傍から車のボディをゴンゴン叩きながら、怪しげな男の急かす声。
「ほら、早く行かないと撃ち殺されるぞ」
「永久就職口が見つかって良かったじゃん」
「鉄砲玉にされたら、香典くらい持って行ってやるから」
 などと本当に好き勝手なことを言いながら集団の外に押し出されてしまった美都はキッと全員に睨みを利かせた後、それでも一応シャンと胸を張って車の方へと向った。
 相手が誰でも低姿勢に出るということができない美都の、
「何でしょう」
 ニコリともせず愛想の無い言いよう。
 本当にヤクザの勧誘ならば、即、組事務所へ直行だったろう。
 しかし黒い男は口元に笑みを浮かべ、
「お疲れのところ悪かったね」
 美都の不機嫌を自分の責任だと素直に謝って見せ、次いで穏やかな口調で、
「ちょっと訊きたいんだが…」
 とくればまず組事務所勧誘の線は削除だ。
「この学校に鬼籠野秀真って教師が居るだろう?」
 どうやら、ただの人探しのようだが、
「…おろの?」
 ほずま。
 なんて珍しい名前なら記憶に残っているはず。
 別の学年の教師だろうかと首を捻る美都の姿に、
「担任って言った方が分かりやすい?」
 との言葉で美都は僅かに苦笑い。
 前年度まで自分のクラス担任だった人物の名前だ。
 そういえばそんな名前だったかな、と全く反省の色も無く美都が二、三度頷いて見せると、
「まだ中に居るかな?」
 言って黒い男は校舎の方を指差した。
 クラブハウスから直接ここへと向ったのだから、そんなことが分かるはずも無い。
 美都は即座に首を振りかけて…
 さりげなくサングラスを外した男の容姿に俄かな好奇心。
「…失礼ですが」
 情報通の和臣と日中行動を共にしていれば自然と学園内の情報量も増えるというもので、
“最近、担任に同じ男からの電話がかなり頻繁に掛かってくるそうだ”
 そんな話を思い出したのだ。
 その時は何気に聞いていた話だったが、確か電話主の名前を…
「山口」
 心の内で美都は小さくガッツポーズ。
「って言うんだが…。あっ、こんなナリしてるけど、全然怪しくないから安心して」
 向ける笑顔がまた世慣れているではないか。
 あの、やたらめったら地味な元担任教師と、自称“全然怪しくない”らしい山口なる人物との繋がりはかなり気になる。
「まだ居るかどうかは分かりませんけど…、何でしたら呼んで来ましょうか?」
 邪まな理由でいつに無く親切になっている美都の言葉に黒い男は首を振り、
「抜き打ちの素行調査だから呼んで来られるのはマズイんだ」
「…探偵か何か」
「にしては目立ってると思わないか?」
 確かにおっしゃる通り。
 うーん、と伸びをした腕を頭の上で組んで、
「あいつとは高校時代の同級生でね。いきなり行って驚かせたいから、内緒で待ち伏せしてるってわけ。これで納得?」
 美都を見上げた黒い男が、
「素行調査って言ったのは冗談だから忘れてくれ」
 更にそう付け足したのは、美都が無表情のままだったことを勝手に怒っていると誤解したからだ。
 忘れろと言われたところで興味は尽きない美都だが、見ず知らずの人間にあれこれ詮索を入れるのはこの辺りが限界だろう。
「…分かりました、じゃあちょっと様子だけ見てきます」
 笑顔で頷いた黒い男に背を向け、遠巻きに様子を窺っていた野球部員達に帰れ帰れと手で追い払って見せた美都。
 弾むような足取りで門に入ると野球部集団で死角になっていたのか、帰り支度の和臣とバッタリそこで出くわせた。
 和臣がかなり怪訝な表情をしていることには気が付いたが、取り敢えず用件を先に済ませたい。いいところで出会ったとばかり、喜び顔の美都は、
「なぁ、職員室寄ってきたか?」
 質問に黙って頷く和臣。
「担任、まだ居た?」
 すると途端に和臣にいつもの笑顔が戻る。
「あの車の男が呼んでるのか?」
 今度は美都が、ああと返し、
「後で説明するよ」
 浮かべた笑顔を肯定と読んでそのまま再度黒い車へと走って行った。
 腕を組んだまま和臣が仁王立ちで待つこと1分30秒。
 黒の高級外車が正門方面へと続く角を曲がる頃には、美都は置き去りにしていた荷物を拾い上げていた。
「おい、聞いてくれ。今の奴」
「例の電話の山口だろ?」
 良く分かったとばかりに和臣を見た美都に、
「お前、あれがただの山口じゃないって気が付いてないだろう」
 続けた和臣は何とも悔しそう。
「ただじゃない山口ってなんだよ」
 すると、ふふんと鼻で笑った和臣は、
「聞いて驚け。あれはあの山口一生だぞ」
 ん? っと瞬時に美都は全身クエスチョンマーク。
 数秒その態勢で固まった後、
「山口…、一生。ってあの?」
 大きく頷く和臣に、
「まさか、あの有名な?」
 またもや大きく和臣は二度頷いて見せた。
 呆然としかけた美都だったが、その寸前表情を止め、
「なんでお前、山口一生の顔を知ってるんだよ。テレビにも雑誌にも出たことは無いはずだぞ」
 当然の質問だが、
「…ラジオ局に勤めてる知り合いが居てさ。前に一度、局まで遊びに行ったことがあるんだ。ほら、山口一生ってひとつレギュラー番組持ってるだろう。たまたまあの放送日で、こっそり教えてもらったんだが…。もったいないなぁ、あっさり帰しちまうなんて」
 言葉の途中で一度手に持った荷物を美都が落としてしまったのは、驚きのあまりだとしか思っていなかった和臣に、
「…あっさり帰って無いはず」
 言うが早いか美都は既に車が去った方向へと走り出していた。
 もちろん直ぐに鞄を放り出した和臣も後を追う。と、曲がり角で立ち止まっていた美都に直ぐに追いついた。
 角から揃って覗き見ると、美都の予想通り正門の直ぐ傍でピタリと黒い高級外車は停車されている。
 まだ目的が達成されていない様子に、
「…さて、どうすっかな」
 美都が顎に指を当てながらそう呟いたのは、ここからではあまりに距離がありすぎるからだ。つい先ほど会話を交わした美都が近づけば、多分相手が警戒するだろう。
 しかし、
「どうするもこうするも森丘はここで待ってろよ。俺が偵察してくるから」
 言って当然の如く脇を通り過ぎようとした和臣のネクタイを美都はガシっと掴み取り、
「お前、それじゃあ美味しいとこ取りじゃないか」
「それは仕方が無いだろう? そっちは面が割れてるんだ」
「ちょっとは俺にも協力しろよ」
「言ってる間に担任が出てきたらどうするんだ」
「こんな楽しいことを人任せにできるかっ」
 なんて会話の最中、和臣のネクタイ攻防戦という地味な小競り合いを繰り広げている二人の耳に、何やら遠巻きな奇声が飛び込んだ。
 揃って振り返ると女子剣道部の数人がキャイキャイと熱い視線を送っていたのだ。
 彼女達の肩に掛かっている大きな荷物の存在に思わず顔を見合わせた瞬間、ニヤっと笑みを浮かべた二人、
「天は俺達の見方だな」
 言ったのは美都だった。


12.ここではない、どこかへ

「それは随分目立ったんだろうね」
「まぁ、要は向こうから見えなきゃ良かったんだ」
「美都がどんなカッコしてたか想像しただけで笑えるよ」
 と、後ろから軽く首筋に歯を立てられて肩を竦めた翠。
「っ、で結局どうなったの?」
「んー…、限りなく黒に近いグレーって感じだな」
 言いながらも白い肌に浮く滴を舐め取るよう器用に舌を這わせながら、
「会話までははっきり聞き取れなかったから」
「でもいい雰囲気だったんだろう?」
 翠の頬に唇を付けたまま首を振った。
「むしろその逆。つまりな…」
 湯の中で悪戯な美都の右手が翠の内腿を軽く撫ぜると、慌てて翠はその右手首を掴んで身体を捩る。
 バスタブの湯が大きく跳ねる中、
「なんか妙に抵抗してないか?」
 けれど翠は美都を睨み付け、
「どういう思考回路をしてるんだよ。つまりの続きがそういうことなわけ?」
 すると美都は肩口でウンウン頷いて、
「嫌よ嫌よも何とやらってやつだよ」
 今度はしっかりと翠を抱き締める。
 翠がごね出す前にその唇を深く塞いでしまい、さっきの続きを始めようとしたのだが…。
「どうして嫌がるんだ」
 やはり翠は美都の侵略を受け付けない。
 ここでの行為は初めてでは無く、例に洩れず翠は美都を拒むことはしない。はずなのに、先程からやんわりと抵抗され続けては美都の無け無しの我慢など直ぐに限界がやってきてしまうのだ。
 美都の鋭い視線を感じ、
「この間気が付いたんだよ」
 翠は申し訳なさそうに小さくそう呟いた。
 何がと視線だけで問い返した美都に、
「ここの声、外に丸聞こえなんだ」
 これにはさすがに美都も驚いた様子。
「長いこと住んでたのにちっとも気が付かなかったんだけど、一番エレベーター側の部屋に最近小さな子供の居る家族が越してきたみたいで」
 美都の脳裏に幼少時代の入浴シーンが思い浮かんだ。
 父と遊びながら、兄達とはしゃぎながら、喧嘩しながら…とにかく騒がしい風呂場の様子。
 すると昔を懐かしむ間も無く、チャプンと湯船から手を出した翠は天上の一角を指差して見せ、
「多分ね、通気孔から洩れてるんだと思う。子供たちの歌声が結構はっきり聞こえてたから…。だから」
 とまで言った翠をもう一度抱き込んだ美都は、くぐもった唸り声を洩らしてしまった。
「やっぱり、マズイと思うだろう?」
 確認のため翠はそう尋ねてみたが、そのまま美都の動作が止まってしまったことが肯定を意味している。
「…どう考えても、勿体無いよなぁ」
 風呂場での行為が阻まれたことだと思った翠だが、
「あの淫らな声を他人に聞かせるのは」
 そんな言葉でこれ見よがしに瞳を覗き込まれては、幾ら全てを知り尽くした仲でもまともに正視できるはずも無く…。
 俯いてしまった翠に軽く口付けた美都は、
「そういうところが、またそそるんだ」
 スポンっと鎖を掴んでバスタブの栓を抜く。
「結構大胆なくせに」
 大きな音と共にバスタブから湯が勢い良く流れ出し、
「全然スれないんだよなぁ」
 角度を変えてもう一度キス。
「この責任…」
 翠の右手を持つと、
「どこで取ってくれるのかな?」
 導かれた細い指が触れたモノ。
 甘えるよう美都の胸に顔を埋めた翠は小さく呟いた。
「どこででも…」
「ん?」
「…いいんだよ。ここじゃなければ、どこだって」


13.まちぶせ

 雑踏のざわめきの中、狭い改札口を俯き加減に通り過ぎる。
 広いロータリーに淀む生ぬるい風。
 車のクラクション。
 排気ガスの臭い。
 いつの頃からかDの音が半音ずれた信号機の電子音を聞きながら、短い横断歩道を渡り切ると若干道幅が狭くなる。
 そこで初めて顔を上げると自己主張の激しいコンビニエンスストアが目に入り、開け放たれたドアから小さなビニール袋を下げた会社員が足早に駅方向へと去って行き…。
 それはどこにでもある朝の風景だった。
 あの日と変わったのは、音痴になった信号機と寂れた仕立屋が派手なコンビニエンスストアに変わったことくらいだろうか…
 と、思わずふさぎ込もうとした気持ちを振り切るつもりで空を見上げてみたが、どんよりと重苦しい雲までがあの日と良く似ていて…。
 いっそ降るなら降ってしまえ
 忌々しげに空から視線を外し、県道に掛かる大きな横断歩道を渡り切る。
 こんな時間だというのにファミリーレストランでのんびりと新聞を広げている中年男性の人影に、彼の職業を推察しかけて止めた。
 どんなに考えたって答えなんて永遠に分かるはずがないのだから…
 まるで何かから逃げるかのよう少し足を速めると県道から道は斜めに逸れ、その細道を抜け切る間際ようやく学園の敷地を囲むネットが姿を現した。徐々に緩めながらの足取りは、生徒用通用門の間際でついにはピタリと止まってしまう。
 門の傍。
 小さな植え込みの囲いにチョコンと座る人影は、何の脈略も無くクルッと振り返って見せ、





“おはよう”






 …笑顔に大きく息を呑む。







“ここで待ってれば会えると思って”










 ……
「…瀬田さん?」
 何度目かの呼び掛けでようやく我に返った瀬田。
 植え込みから腰を上げ、不思議そうに見つめたままの優也に瀬田はどうにか笑顔を返した。
「早いですね、生徒会室ですか?」
「俺のことより小西は何をしてるんだ、こんな所で」
 頷きながらの問い返し。
 体育館やグラウンドから、にわかに元気な雑音が響いている。
 部活動の生徒ならもっと早くに登校しているし、一般の生徒が登校するにはかなり早目な時間帯なのだ。
 瀬田は本日、生徒会室の鍵当番。
 だから彼が他の生徒より一足早く登校して来たことには納得が行くのだが…。
 すると優也は嬉しそうに微笑んで、
「待ち伏せしてるんです」
「…誰を?」
「昨日教室まで行ったんですけど、何だかやけに目立っちゃって会えなかったから」
 質問とはズレた答えだが、優也と翠が昨日1年生の教室まで行ったがために起こった騒動は追っかけ少年・成澤が喧しく喋ってくれていたので、瀬田は直ぐに話の内容を掴んだ。
「愛し恋しのフレディ君?」
 はいっ、っと元気良く返事を返した優也に瀬田は少し呆れた顔を向け、
「こういう場合、愛し恋しは否定するものだよ」
「そうなんですか?」
 あっけらかんとした優也の答えに腰に手を当て溜め息をひとつ。
「…このこと、橘は」
 知っているのか?
 なんて、尋ねるまでもないことに気が付き瀬田は一度言葉を切った後、
「今の時期、勝手にひとりでウロウロするっていうのは感心できないな」
 郁が知っていれば、まさかこんなことをさせるわけが無い。
「取り敢えず生徒会室に一緒に行こう」
 自分自身が狙われているという自覚が足りないのではなかろうかと諭し口調で言った瀬田に、優也は黄門様の印籠のようポケットから携帯電話を取り出して見せると、
「これで皆に僕の居場所が分かるから、大丈夫なんです」
「って…、さすがに校内のどこに居るかまでは把握できないだろう?」
 うっ、っと言葉に詰まった優也に、
「そもそもこんな時間の小西の行動を誰が追跡してると」
 完全に単独行動をしていると踏んだ瀬田の言葉に、
「もちろんっ」
 拳を握り締めながら言葉を遮った優也。
「もちろんもちろん翠くんと一緒に待ち伏せるする約束だったんです。さすがに僕一人でこんなことしちゃいけないことくらいは分かります。でも、朝マンションに寄ったら、翠くんまだ寝てて…なんか、僕が起こしちゃったみたいで…。でも、置いて行くのもどうかと思ってそこで待ってようかと思ったんだけどよっくんも一緒に居て…。あ、よっくんが追い返したんでもなくって、翠くんにもよっくんにも引き止められたんですけど…えっと。…なんって言うか。なんとなく…、その」
 言いあぐねる優也の姿に瀬田は薄い笑顔を戻した。
 どうやら出迎えた二人の様子は優也でも遠慮したくなるような風情だったようだ。
 困っている優也の頭を、
「分かった分かった」
 ポンポンと二度撫でるように瀬田が叩いたその時、
「あー―――っ!!!」
 突然の大声に振り向いたのは優也だけ。
「瀬田さん、瀬田さんっ、瀬田さんっ!」
 全力疾走で猛突進して来たのは、言うまでもなく成澤。で、ヒラリと彼をかわした瀬田は、
「朝からうるさい」
 速攻で方向変換した成澤の密着を鞄で阻止しながらの言葉。
「瀬田さん、冷たいっ。僕にだけ冷た過ぎますっ!」
「お前が暑苦しいから、これくらいが丁度いいんだ。嫌ならさっさと諦めてくれ」
「うっ、諦めません。僕、冷たい瀬田さんも好きなんです」
 もう溜め息も出ない様子の瀬田は、どうにか鞄に食い付いている成澤を引き剥がし、キョトンと二人の会話を眺めている優也を視線だけで歩くよう促した。
 傍に置いてあった鞄を持つと素直に瀬田に付いて歩き出しはしたものの、花壇の植え込みを振り返りながら優也が見せたかなり名残惜しそうな表情に、
「フレディのことはこいつに何とかさせるから」
 小さく耳打ちする瀬田の姿にさえブーイングを飛ばす成澤。
 当然彼は生徒会室での早朝ランデブーをもくろんでこんな時間に登校して来たわけだが、もちろんそんなことに気が付かない瀬田ではない。
“喧しいが、良識の範囲”
 そう明言した東條。
 意外にも成澤に対しての評価はそれ程悪くは無いのだ。
 良識人だという意味では瀬田もある部分認めないわけでもないにしろ、何せこの若さでこの勢い。
 体格的にはさして変わらないが、何かの拍子で取り返しの付かないことにでもなってしまっては、泣くに泣けないないだろう。
 わざわざ飛んで火に入ることも無い
「小西」
 まだ後ろ髪を引かれるのか足取りの重い優也を、瀬田がいつになく強引に同伴させようとするのは、よっぽど生徒会室での二人きりだけは避けたかったということだ。


14.A・RA・SHI

 梅雨に入ったのか入ろうとしているのか。
 まぁ、とにかく明るい日差しなんてものとは久しくご無沙汰してる近頃の昼休み。

 そー―ぉれっ!

 女の子達の熱い掛け声が体育館に響くと同時に、快音を放ったバレーボールが緩やかな弧を描き敵コートに飛んで行く。
 そのボールを見る限り、本当に穏やかで綺麗なだけの何の変哲も無いサーブに見えるのだが…

 ボムッ!

 正面で高橋が正確に受けたはずのボールは、コートとはまったく違った方向へと飛んで行ってしまった。
 追い掛けた生徒3人の疾走も虚しくボールは床に大きくバウンド。
 っと同時にギャラリーの黄色い歓声が体育館中に充満した。
 1週間前の観客数はたったの3名しかいなかったというのに…。
 特に宣伝マンがいたわけではない。にも係わらず猛烈な勢いで観客数が増えたのは、コートを駆け回るレギュラー陣に郁や美都。時には和臣が参戦している豪華な顔ぶれだからだ。
 もちろんそれを当初から観戦している3人を目的としている人物もかなり混じってはいるのだが…。
「見てるだけだと分からないけど、なにかミスを誘うサーブなのかしら…」
 ギャラリーよりもコートにかなり近い位置に座る亜美の言葉に、その隣りで膝を抱えている翠が笑みを浮かべ、
「次のサーブ見てれば分かるよ」
 指差した先にはサービスエースで3ポイント連取した郁が、再度手にしたバレーボールをポムポムと床に打ちつけていた。
「何を見ればいいの?」
 額の汗を拭いながらコートのラインより大きく数歩後ろに下がった郁を目で追っている亜美の質問に、
「ボールの模様」
 翠は郁が弓形に振りかぶったフォームから視線を外さずに答えた。
 再度ギャラリーの掛け声と共に敵コートへ飛んで行くボールを翠は指差したまま、
「ほら、ボールに回転が掛かってないだろう?」
 なるほど言われてみれば、バレーボールの模様は殆ど動いてないように見える。
「美都が言うにはね、わざと回転させてないんだって」
 ふぅんと頷いた亜美。
「そうすると…」
 渋谷のレシーブがまた妙な方向へと飛んで行ってしまった。
「ああなるんだって」
 翠が話の内容を完結している間、全力疾走していた美都が4度目の正直。
 辛うじてそれを拾いはしたが、ネット際の富樫はそのボールを敵コートに返すだけで精一杯。
「さすが橘君。業師だわぁ」
「ははっ、サーブにも性格が出るんだよね」
 感心している亜美の横で笑いながら答えた翠。するとその更に横で両足を伸ばしていた優也が、
「分かる分かる、よっくんはマグナム級の弾丸サーブだもんね。僕あんなサーブ絶対受けたくないよ」
 体育館の壁際ギリギリまで下がり、その長身で容赦無く打ちつける美都のサーブは、優也でなくても受けたくは無いだろう。
 ちなみに今月は多忙な生徒会活動で不在がちな和臣のサーブは、奇妙な回転が掛かった魔球だったりする。
「ところで、優也君。今日こそフレディ君には会えたの?」
 髪を掻き上げながら覗き込むよう問い掛けてきた亜美に、
「うん、それがねぇ…」
 落胆したような優也の声。そして真ん中に座る翠はクスッと笑うと俯いてしまった。
「朝、校門で待ち伏せしてたら瀬田さんと会って、あの追っかけ1年生くんのツテで会えるように頼んでもらったんだけど」
「確か成澤少年と同じクラスだったわよね」
 優也はコートの郁に視線を向けると、うんと頷いて見せ、
「昨日の放課後、部活の最中に骨を折ったんだって」
「…ってフレディ君が?!」
「そうなんだよ、ぽっきり折れて当分欠席。待ち切れそうにないからお見舞いに行こうかなって思ったんだけど」
 優也のあまりに残念そうな言いように亜美は呆れ顔を向けた。とその横で、またクスクス笑い出した翠が顔を上げ、
「さすがの橘も、それだけは止めてくれってさ」
 郁の放任主義にも限度はある。
 いつの間にかラリーが始まっているコートの熱気に気を取られ、試合に熱中してしまった優也の大きな瞳に映っているのは郁だけ。
 そんな姿に目を細めた亜美の、
「思い悩むことが趣味なのかしら」
 ぼそっとした呟きに振り返った翠は亜美の視線の先を追い…。
 更にその気配に気付かない優也の視線の先に居る郁を認めると、意味を理解したのか苦笑いで亜美に視線を返した。
「佐伯君だって、森丘君だったからこそでしょう?」
 曖昧に首を傾げながらの翠。
「…僕は知ってたから」
 覚悟もできていたし、抵抗無く全てを受け入れることができた。がしかし、
「何も知らない人間にはショックだと思うよ」
 すると亜美は首を振った。
「別に襲えだとか、無理強いしろと言ってるんじゃないのよ。ただ、自然に成るべくモノに逆らってるから、つい口出ししてるだけ」
 その言葉で不意に翠の脳裏をよぎったのは、
“相手が同じ想いなら求めることは必然なんだ”
 誰の言葉だったかと悩んだ一瞬後に、思わず翠は笑っていた。
 怪訝な顔で眺める亜美に、
「ごめん。…ちょっと思い出し笑い」
 美都の代弁者だったにしろ、それを言ったのは紛れも無く郁自身だったから。
 ややともするとスーパー高校生にしか見えない郁が、優也への想いを持て余し振り回されている姿はある意味共感できるのだ。
「白河の言ってることは分かるんだけど、橘だって普通の高校生なんだし…、時には凡人らしいところもある方が」
 しかし続けようとした翠の言葉は、今までにも増して大きく発っせされた歓声により中断を余儀無くされてしまう。
 何事かと驚いて翠が振り返った瞬間、炸裂した郁のバックアタックが見事にラリーの決着をつけた。
 悲鳴に近い奇声は暫くの間、嵐のごとく体育館中をこだまし続け…、
「佐伯君」
 呆然としている翠の背中に、
「全然説得力無かったわよ」
 畳み掛けたのは、やはり笑顔の亜美だった。


15.Secret of my heart

「え? うん。…うん、そんなに飲み過ぎてなかったけど…、うん。俺のことよりそっちこそ時間に……あっ、そう。ふぅん。それなら別に…ってゴメン、ちょっと待って」
 受話器を離し見上げてみたが、机の脇に立つ生徒は腕を後ろで組んだまま、ただ笑顔を向けるだけ。だが、ここに立っているということは自分に用向きがあるのだろうと、もう一度受話器を持ち直した秀真、
「ちょっと急用…だからまた。違う違う、俺仕事中だって。あ゛ーだからもうっ! いい加減にっ!」
 と遠巻きに座っている教師数人の視線を受け、気まずく声を落とすと、
「とにかく、じゃあ」
 それだけ言い残し、受話器を置いた。
 いつものことだが電話主の勝手ないい分に腹を立てながら机に頬杖をつく。深く大きな溜め息の途中で、ふと電話を切らなければならなくなった理由を思い出し、慌てて振り返るとやはり生徒は笑顔を浮かべたままさっきと同じ姿勢で立っていた。
「あー…っと、ごめん。何か用、だよな?」
 苦笑いでの問い掛けに肯定するかのよう軽く眉を上げた後、コンと秀真の目の前に問題集を広げた生徒は和臣だ。
 秀真の傍に腰を落とし、問23の後に続く文章を辿りながら、
「この場合yはこうなりますよね」
 問題を読み終わった頃を見計らうようなタイミングで、同じページに挟んであった小さなメモ用紙の数式を和臣は指差した。
「で、そうするとxがこうなって、ここが凾となるのまでは分かるんですが…」
 語尾を流した和臣に秀真は軽く頷き、少し身を乗り出すと机の角にあるペン立てに指を伸ばし、もう一度座り直す。
「ここまで解けたら後は、ほら。このxが0になるのは分かるよな。だからyの式がこう…ここに書いてもいいか?」
 確認しようと今度は同じ目の高さにいる和臣へ秀真が視線を移すと、
「駄目です」
 笑顔の言葉に秀真はほんの一瞬和臣を凝視した。が、深くも考えず今度はペン立ての横にあるメモ用紙に手を伸ばすため腰を浮かした秀真の腕を、和臣が阻止するように掴み取り、
「実はこれ岸谷が最初に持ってきた問題なんですよね」
 言って秀真ごと立ち上がる。
「すいませんけど、あいつ。会計の仕事で生徒会室離れられないんで向こうで一緒に説明してもらえませんか?」
 秀真はまじまじと和臣を見つめてしまった。
 どう考えても随分と回りくどい誘い方ではなかろうか。
 すると、
「あっそうかそうか、すいません。俺、電話の邪魔したんですよね。じゃあ今度時間のある時にでも…」
 和臣が向ける、いかにも申し訳なさそうな表情に、
「いや別に大した用件じゃなかったから」
 わざわざ広げられた問題集を閉じ、筆記用具とを重ね率先して歩き出した秀真。
 もちろん私用電話の件を自主的に反省しての行動だが、和臣が薄く口の端に浮かべた笑みは気の毒にも前方にいる秀真には見えなかった。
 スタスタスタと何人かの教師の後ろを通り過ぎ静かに扉を開くと、廊下の窓から見えるのは今にも大粒の雨が降り出しそうな真っ黒い雲。遠くで雷まで鳴り出しては往来する人数など関係無く、廊下にも陰気さが漂う。
 湿気を帯びきった空気のせいか、どことなく気だるそうに歩く教師や生徒を横目に、
「最初から直接生徒会室に呼んでもらえれば良かったのに」
 職員室を出ると直ぐ横に並んだ和臣に世間話し程度のつもりで投げ掛けた言葉だったのだが、
「俺も余計な手間は省きたかったんですけど、どうしても勉強のために呼び出したという演出が必要だったんで」
「…演出?」
 理由を尋ね返した秀真ににっこり笑って見せた和臣の、その笑顔がなぜか無気味に見えるのはこの天気のせいだろうとひとり納得する秀真。 しかし、
「担任って男子校出身でしたよね」
 意味不明な言葉の後は、秀真の質問など無視したまま出身校の話題に移ったのだから直ぐに出る答えも出やしない。
 一体なんだと向けた視線も、
「そういうことに理解ってあります?」
 続いた質問に答えるよりは、別の疑問が先に思い浮かんでしまった。
 和臣とそれ程親しく会話を交わしたことは無いが、こういう強引な会話運びをする生徒だっただろうかと首を捻っている間にも、
「この“間”は、肯定ってことですよね」
 誘うような薄笑みに、つい引きずられて首を縦に振り、顔を上げ切る間際に初めて自分が何を肯定したか認識してももう遅い。
 生徒のペースに撒き込まれてはいけないと秀真が態勢を立て直す間も無く、
「あ、何か警戒してませんか?」
 口調こそ茶化すかのような妙に軽いものだったが、どうも和臣が顔に張りつけている笑顔。いつもと違って見える原因は、天気のせいだけでは無いようだとようやく秀真も気が付いた。
「なぁ松前」
「はい?」
 などととぼけた声の和臣は、
「何か隠してないか?」
 言葉にふふふとまた笑顔。
「誰にだって秘め事のひとつやふたつはあるものですよ。担任だって…ねぇ」
「って何だよ」
 すると和臣は左手を胸に当て思案顔を向けながら、
「こう、思い当たるフシがあるでしょう」
 しかし生徒に指摘されるような悪事に心当たりなんかはない。
 とは言い切れない現状が近ごろあるのだが、あれはあれで、これはこれ。
 そうだ、何も恐れることなんか…
「俺、マスコミに知り合いが居るんですよ」
 バラしてもいいんですか?
 とまでは言わなかったが、声無き声が脳裏に響き愕然と足を止め掛けた。けれどしかし、
 そんなはずは無い
 とどうにか持ち直して見せ、
「…それが、どうしたんだ」
 辛うじて笑顔を保ちながら誤魔化し切ろうと試みた台詞も、
「中々お似合いでしたよ。昨日の黒い、ね」
「―――…」
 言うまでも無く既に秀真は絶句状態。
 すっかり顔色を変えてしまい今度こそ、その場に立ち止まってしまう寸前、
 ダンっ!
 と目の前に付かれた和臣の腕にギョッと身を竦ませてしまった。
 真っ直ぐに視線を射抜かれたまま硬直している秀真の手から、問題集ごと筆記用具が滑り落ち、
 カツーン…
 湿気を含んだ鈍いシャープペンシルの音が廊下から消えた頃、
「着きましたよ」
 しばし言葉の意味が理解できずに、目をパチクリと見開いたままの秀真。
「ようこそ、生徒会室へ」
 と、またいつもの口調でいつもの笑顔を浮かべた和臣から慌しく視線を逸らした先には、
“生徒会室”
 の札が掲げられていた。
 和臣が手を付いたのは生徒会室入り口近くの扉枠。
 ガラガラっと開かれた部屋の中では、所狭しと作業する生徒会役員達の姿があり…。
 良く考えなくても、和臣はこんな所で馬鹿をするような生徒ではないではないか。
 安堵の表情を浮かべた秀真に、さっさと拾い上げた落とし物一式をポンと掌に乗せた和臣は、
「物は相談なんですが、ひとつ口添えしていただきたいことがありまして」
 何の話かと夢から覚めた面持ちで振り返った秀真に、
「学園のしけた校歌を、ポップに作り直してくださいって、ね。偉大なる恋人さんに」


16.Junior Sweet

 カキー―ンッ
 コキー―ンッ
 と第3校舎の南側に広がる学園のメイングラウンド、に鳴り響く金属バットの快音。

 それをバックネットにかぶり付きながら見学している女性がひとり。
 細いジーンズにTシャツ姿は明らかに外部の人間で、しかも大人しく見ているのかと思いきや、
「こらぁー―――っ! どこに目ぇ付けてんのよっ、下手クソっ!! そんな役に立たない目なんか売っちまえーっ!!!」
 などと闇金の取り立てまがいの野次を飛ばしているあたり、やけに勇ましい性格のようだ。
 弱小野球部と呼ばれるだけあって素人目にも下手だと分かるチームなのだから、グラウンドを駈けまわる高校球児達もノックをしているコーチまでもが何となく肩身が狭い。
 誰か彼女を黙らせてはくれないだろうかと思っていたところへ、
「さっきは心臓売っちまえって言ってましたよねぇ」
 投げ掛けられた言葉に勢い良く振り返った彼女だが、
「だっ!」
 その濁音だけ発してバックネットにへばり付いてしまった。
 声の主が想像以上の至近距離に立っていたからだ。
「どうせなら移植って言った方が、まだ罪が軽いと思いますけど」
 言いながら不敵の笑みを浮かべる彼に、うろたえてはいけないと思いながら…けれど直ぐに二の句が継げない原因は見上げた自分の視線で気が付いた。
 彼女の記憶の中の彼は、見上げる視線の高さではなかったはず。
 …大きくなったわねぇ
 と今の暴言は見逃してやろうと口を開きかけた時、
「いつみさん、どうしたんですか。こんなに小さくなって」
 さも驚いたかのように笑顔を真顔に変え、失礼な言葉を吐いたのは美都。
「身長が縮んだって高校生には戻れませんよ。第一うちの野球部、女子はマネージャー以外入部できないんですから。性転換…」
 とまで言って何か思い付いたように一度言葉を切った後、
「せっかく小さくなったのに残念でしたね」
 直ぐにそう続けながらいかにも気の毒そうに頷いて見せた。
「ちっ、小さくなんかなってないわよっ。よっちゃんが勝手にデカくなったんでしょ! この間まで鼻水垂らしてたくせに。ほんっと、信じらんない」
 ようやく立ち直った彼女。名前を宮平いつみという。
 美都の両親が働く商店街、魚屋の看板娘だ。
 昔は美都が年下なのをいいことに、好き放題こき使って苛めていたのだが、
「鼻水垂らしてたのは、いつみさんの方ですよ。もうそんなことも忘れたんですか? 魚宮のおやじさんがあいつは馬鹿だ馬鹿だって言ってたけどこれ程酷かったとは…」
 本来なら既にいつみの平手が飛んでいる頃。
 けれどつい彼女が俯いてしまったのは、外見だけでなく美都は内面も成長していたから。
 勢い付いて“よっちゃん”なんて呼んでしまったいつみだが、美都の方はきちんといつみのことを“さん”付けで呼んでいる。
「…なんか拍子抜けだ」
 言い返しを期待していたのか美都のそんな言葉に視線を戻すと、そこには昔遊んだ頃と同じ懐かしい笑みがあり、
「いつまでも子供じゃないわよ」
 いつみは自分自身にそう言い聞かせていた。
「ところでよっちゃん。ピッチャーのくせに練習に遅れて来るなんて、たるんでるんじゃないの?」
 少しの沈黙の後、今度こそ会話の主導権を握ろうと手近な弱点をついてみても、
「俺、ピッチャーじゃありませんよ」
 言葉にいつみは目をまん丸にしてしまう。
「だって中学時代…」
 確かにその頃、美都のポジションはピッチャーだった。
「あんな面倒なことやってられないし…、まぁ体力は他にも温存しておかないと」
「他、…って?」
 不思議顔のいつみに美都はただ笑いながら、
「で、本当は何しに来たんですか?」
 いきなりな話題転換。
 しかし残念ながら美都の近況を知らないいつみでは、話題転換の理由までは気が付けなかった。
 調理実習用の魚を届けに来たのだと説明し、最後くらいは年上らしい言葉で締めくくろうと、
「さっ、そろそろ戻んなきゃ。最近お店に来てないみたいだけど、たまには親孝行しなさいよ」
 じゃあね。
 軽く手を振りながら歩き出そうとしたいつみ。だが、その頭にパサッと被せられた何かに驚いて再度美都を振り返ってしまう。
「弱小野球部、見学記念品」
 静かな声でそれだけしか言わないことが、多分憶えていてくれた証拠だろう。
 幼い頃から高校球児に憧れ、その歳を越えるまでユニフォームを着ることに恋焦がれていたから…。
「ボロいとか、汗臭いとか言いっこ無しですよ」
 感無量で直ぐに言葉が出なかったいつみに向けられたこの言葉は、美都の照れ隠しだったのかもしれない。
 勝手に大人になって行く少年に敬意の念を抱きながら、被せられた帽子の庇を深く深く下げ、
「ありがとね」
 なんて初めて素直に言った言葉は、グラウンドから美都を呼ぶ声と重なってしまい、はたして届いたのかどうか。

 こんないい男になるのなら、魚を捌くより先にもっと積極的にアタックしておくべきだったわ

 っと、今更思ったところで後の祭だった。


17.決戦は夏休み

「はぁ…」
 台所の隅に腰を落とし、冷蔵庫の扉を開けたまま秀真は重い溜め息をつく。
 突然の一生の来訪で夕べ食べ損ねた一昨日の貰い物を今夜食べるべきかで思案し始めたのだが、直ぐに思考は別の問題へと移ってしまった。
 しかし放課後、突如として降りかかった出来事を考えると、それも仕方がないことだろう。
 学園内で起こった同性に対する集団暴行事件の話は寝耳に水もいいところだ。更にその一派の中に教師が含まれている可能性があるというのだから秀真はただただ驚愕するばかり。
“是非ともご協力お願いします”
 などと生徒会長自ら頭を下げてもらわなくても、そのつもりになってはいたが、そんな不届きな教師は一体誰だろうと思った矢先に、
“それを先生に探っていただきたいんです”
 和臣の言葉には正直、耳を疑った。
 確かにできる限りの協力はするが、そんな大役を仰せ付かるには秀真では荷が勝ちすぎる。
 すると瞬時に秀真の心中を読み取ったかのよう、
“それほど大袈裟な話じゃなく、ただ職員室内での噂だとか動向の怪しい職員をチェックしてもらえればいいだけですから”
 だったら何も脅迫まがいの手段を使ってまで秀真に依頼するようなことでもないように思えるのだが、実はこの事件の内容を知っている数人の教師達が全てベテラン敏腕教師ばかりというところに大きな問題があった。
 腕利き教師が何人揃ったにしても、彼らの前では例え無礼講の飲み会だって羽目を外したりする馬鹿はいない。
 ゴシップまがいの噂話を入手するにはもっと若い年齢層で協力者を…と思いながらも、現段階では全く敵味方の見分けがつかず、密かに手頃な人材を物色中に丁度昨日の山口一生の登場となったのだ。
 もちろん美都同様、和臣にしてもこの二人の正確な関係を把握していたわけではないが、軽く揺さ振りをかけただけで勝手に秀真が自滅してしまった。
 疑惑が確信に変わってしまえば後は和臣の思う壺。
 事あるごとに一生との関係をちらつかされて、一度たりとも首を横に振ることができないまま打ち合わせは終了してしまい、正直者の秀真はこうやって冷蔵庫の中を虚ろに眺めながら重い荷物をしょい込んで溜め息をついているわけだ。
 誰かに話せば少しは気が晴れるだろうか…
 結局何も取らずにパタンと扉を閉め、けれどその態勢で秀真はそこにうずくまっていた。
 “誰か”と入れ替わる固有名詞はひとつしか思い浮かばない。
 きっと電話を掛ければ理由が何であれ一生は悩みを受けとめてくれるだろう。なんてことは百も承知しているが…。
 どうしようかとしばらく瞼を伏せていた秀真。更に数分そうした後ようやく意を決したのか、重い腰を上げ居間に置かれた携帯電話の前までやって来るとそれを手に取ったまま、また溜め息をひとつ。
 冷蔵庫に次いで今度は携帯電話を睨み付け、考えているのはさっきとは別のこと。
 …ただの電話ひとつでいつからこんなに迷うようになったのだろう
 8年振りの再会の夜、一生の前でひどく情けない姿を晒してしまい若干の気まずさを感じた時期はあったのだが、その後は友達以上恋人未満の関係を上手く保っていた…つもりになっていただけかもしれない。
 そんなどっちつかずの関係なんてとっくの昔に崩れていて、必死ですがりついている意地という支えを無くした後の自分がどうなってしまうのか。
 躊躇うのはその答えに直面する勇気が未だに持てないからだ。
 一生への想いを完全否定したあの頃のまま何一つ成長していない自分自身に嫌気が差して、忌々しげに携帯電話を机の上へと戻した瞬間、


 RRRRR…


 図ったように鳴り出した固定電話の呼び出し音。
 あまりのタイミングに振り返ったまま呆然と電話機を見つめ、これ以上待つ人間はいないだろうと思えるくらい繰り返されたベルがプツっと切れた。
 恐る恐る受話器に耳を当てた秀真は、
「…もしもし」
 と、
『あっ、出た出た』
 少し声が遠のいて
『ほら、ちゃんと居るって』
 途端、脱力感にみまわれ傍の壁に寄り掛かりはしたものの、受話器から洩れ出たのは良く知っている声ではあるのだ。
 ほっと息をつき電話主を無視したまま向こう側で繰り広げられる賑やかな会話が納まるまでの間に秀真も静かな深呼吸で立ち直りを試みる。すると程なく、
『さて、俺はどっちでしょう?』
 秀真は声に薄く笑みを乗せ、
「ハルカ」
 言った表情は既に良き兄の顔。
『おっ! すげぇ! さっすが兄ちゃん、百発百中』
「当然だろう? 何年、お前達の兄貴をやってると思ってるんだ」
『あはははっ。まぁね…って、ちょっと待ってて。タダシに代わるから』
 その直後に電話口へと登場した少年と最初に電話を掛けてきた少年はいうまでもなく秀真の弟達なのだが、母親の再婚相手との間にできた子供だから正確には血の繋がりは半分だ。
 しかも秀真とは13歳の年齢差で、おまけに彼らは一卵性双生児である。
 性格こそ、それぞれが個性を発揮させてはいるが、顔貌・体型・体格…そして声までもがまさしく瓜二つ。
 黙って並んでいれば、まず他人様では見分けは付くまい。
『でさぁ、双子だってこと言い忘れてて…。彼女、俺の部屋を出た後直ぐに階段でハルカと出くわしたもんだから、もうぶっ飛んじゃって』
『そうそう。化け物見ましたって顔で階段から転げ落ちそうになったのを俺が庇ってやろうと思ったら、よけいにギャーギャー騒ぎ出して』
 なんて双子ならではの失敗談を気が付けば3者通話で聞く羽目になっていた。
 それでも、うんうんと上手く相槌を入れながらの秀真だが、最初に弟達が電話を掛けてくる時の用向きはいつも決まって…
『夏は帰って来るんでしょう?』
 …帰省の催促。
 少し間を置いて、まだ予定が分からないと返した秀真に、
『あなた去年のお正月から帰ってないのよ。ほっておけば電話すらしてこないし…、お父さんだって会いたがってるんだから、たまには顔くらい見せなさい』
 叱るような語調での母親の言葉。
 高校入学を機に家を出て以降、秀真は殆ど実家には寄り付かなくなっていた。
 母親の再婚に賛成したことは本心だったし、義父も優しいいい人だと思う。
 家族の誰かと折り合いが悪いわけでもないのだが、実家から足が遠のく理由付けをあえてするなら、
 家の中に自分の居場所が見つからなかった
 ということだろうか。
 どんな努力をしてみたところで、帰省するたびに受ける疎外感は決して消え去ることは無い。
「また予定が決まったら連絡するから。うん、じゃあ義父さんにも宜しく言っといて。…うん。じゃあ、お休み」
 受話器を握り締めたまま、指で静かにフックを押す。


 ツー――…


 っと微かな電子音がやけに冷たく耳に響き、


 電話…してみようか

 なんて時々意地を張ることに疲れてしまう瞬間があって…。
 傍のテーブルに置いた携帯電話を手に取ると、手慣れた操作で見慣れた名前を表示した途端思いもしない方向から騒がしく金属音が鳴った。
 ガシャンっ!
 と勢い良く開けられた扉が10センチ幅で止まってしまうのは毎度毎度のこと。
「お前、俺が来るのにどうしてチェーンを掛けるんだっ」
 目を見開いたまま、その瞳が玄関に釘付けになっている秀真に気が付いて、
「早く開けろっ!」
 相変わらずの勝手な文句三昧な一生に視線を置いたまま、秀真は手探りで中断した操作を続けた。
 僅かな時間差を置き、玄関先で響いた綺麗な電子和音にひどく驚いたのは一生の方。
 彼の胸元から流れ出たのは秀真専用の着信音だったから。
 秀真が電話を握り直すと程なく、
『いつの間にこんな便利なインターフォンを付けたんだ』
 パタンと閉じられた玄関ドア。
「戸口で騒ぐ近所迷惑な客が来るから、困り果てた末の打開策」
『ふぅん。骨身を削って会いに来てやってる俺に、そういうことを言うわけだ』
 ドンッ!
 っと軽く戸口を蹴る音に、
「ごめん」
 小さく返した秀真のたった一言で、
『悪いと思うなら、さっさと開けろ』
 言うや否や通話を切ってしまった。
 けれど態度ほど語調は悪くはなく、電話を置いた秀真は玄関へと向かいチェーンを外す。
 扉を開き一生を迎え入れた、その態勢のまま、
「…か、ずき」
 大きく腕の中へと包み込まれてしまい、少し遅れでパタンと閉まった扉の音に瞼を閉じた秀真は迷わず一生へと体重を預てしまう。
 そして何も言わない一生の胸に、ただ黙って身を任せていた。
 ――秀真の心の大部分を占めているのは安堵感
 けれど一生が次に起こすであろう行動に対しての緊張感と不安感は心の片隅から消せはせず、更にそこに軽い懐想感が混じるのは…。
「何?」
 微かに洩らした笑い声に一生の問い掛け。
「うん。前にもこんなことがあったなぁ、って」
 それは高校時代…。
 夜の職員室で起こった秀真にすれば未だ忘れがたい出来事。
“もう少し…”
 暗闇の中で秀真を抱き込んだまま、それだけしか言わなかったあの頃の一生は今と同じ気持ちだったのだろうか。
 すると、
「…このままどこかに連れ去りたい」
 抱き締めた腕に力を加えた一生の言葉は決して口説き文句ではなく、
「時間制限があるところまで似なくてもいいようなもんだが…」
 つまり何の話をしているのかは分かったということ。
 あの夜、直ぐに一生が秀真を離したのは学校のセキュリティが掛かるまでのタイムリミットが迫っていたから。で、それを憶えているということは一生にとっても印象深い出来事だったってことになりはするけれど…。
 そこで見上げると眼の前には一生の渋っ面。
 また何かトラブルでも起こして職場放棄でもして来たのでは、と表情を曇らせた秀真の頬を優しく撫ぜ、
「そういつも揉めことばかり起こしてられるかって。実は移動の途中で寄っただけなんだ。悲しいことに下でマネージャーが待ち構えてる」
 聞くや否や驚いてパッと一生から離れた秀真は、
「じゃあ早くっ」
 と、その唇に一生は人差し指を当てて見せ、
「色気の無い奴だなぁ。少しは余韻を楽しませろよ」
「だって人を待たせっぱなし」
 言いながら、その手を掴み取った秀真に向かって、
「仕事と俺とどっちが大切なんだ。くらいの台詞言ったって罰は当たらんぞ」
 掴まれた腕を軽く払い除け、呆れた口調の一生。だが、
「それが簡単に言えるくらいなら…」
 秀真はそう呟いたっきり俯いてしまった。
 いつもなら軽いジョークで終わらせてしまえる言葉だというのに、
「ごめん。今日、ちょっと色々あって」
 嘘でもそんな言葉を吐いてしまえば心の箍が見るも無残に崩れ落ちてしまうかもしれない。
 それでも大丈夫だと一生はこうやっていつも手を差し伸べてくれているのに、どうしてその手を上手く取ることができないのか…。
「…なぁ秀真」
 黙って秀真を眺めていた一生がゆっくりと溜め息をつき腕を組む。
「俺は同じ轍を何度も踏むつもりは無いんだ」
 何も返さない秀真に、
「だからいつまでも今の状態を続けるつもりも無い」
 それでも秀真は俯くだけで…
「答えを欲しがってるが本当は誰なのか良く分かってるんだろう?」
 昔から秀真の気持ちはお見通しな一生は、
「夏休み」
 見上げた秀真の視線と合う。
 不安の色を浮かべる瞳を真っ直ぐに見つめ返したまま、
「1週間俺に合わせろ。何が何でも…仕事辞めてでも俺に付き合え、いいな」
 鋭く刺すような最後の言葉で呪文が解けたかのよう何かを言いかけた秀真の唇を今度は唇でしばらく塞いだ後、
「ちゃんと身体洗って待ってろよ」
 さっきまでの遣り取りが嘘みたいな笑顔でそう言い置くと、軽く片手を上げた一生は颯爽と部屋を後にしてしまった。
 軽快に階段を駆け下りる靴音が消え去る前に部屋に鳴り響いたのは一生専用の着信音。
 慌てる必要は無いだろう…
 きっと今、聴き損ねた秀真の“今日の出来事”を一生はオールナイトで聴くつもりで掛けてきたに違いない。
 玄関扉の鍵を閉め、チェーンを掛け終えた秀真は、

 母さん、やっぱりこの夏も帰れそうに無いよ

 ゆっくりと携帯電話を握りしめ、心の中で母親への短い謝罪の言葉を呟いてみた。


18.雨の憂鬱

 講堂の窓ガラスを激しく打ちつける雨。
 列の最後部から見るでもなくそれを眺めていた美都は、
「何が嬉しくて週に二度も朝礼やるんだか…」
 ぼやきながら視線を移す。
 なるほど、美都の意見もある意味頷けるかもしれない。
 この学園では月、火、水曜日はそれぞれ各学年のみで学年朝礼、週末は全校朝礼が毎週行われているのだ。
 基本的にはグラウンドで行われる朝礼。雨が降れば講堂へと場所を変えるだけで、中止になるということはまず無い。
 いつもなら無理矢理作ったような連絡事項や、どうでも良さそうな話しを教師達が何やらグズグズ喋るわけだが今日は少し趣が違うよう。
「インターハイの応援に誘われたって聞いてるか?」
 壇上で表彰状を受け取る薙刀部のホープ、綾部菜乃の姿で思い出したのか美都は隣に立つ郁に話し掛けた。
 ――男子生徒がクラスの約8割を占める1組。
 ほぼ半数ずつで男女が混在する他のクラスと違い、このクラスだけは2列に並ぶと半分から後ろは男子ばかりになってしまう。
 その最後部を陣取る二人は、いつものことだが前にも倣わず、集団とはやや孤立した位置に立っていた。
 つまりプライベートな話をしたって誰に聞かれる心配は無いのだ。
「遊び相手ができて喜んでたよ。最近忙しくて構ってやれないから、俺も助かる」
 美都の言葉に控え目に頷いた郁はそう答えたが、
「俺には不自然な忙しさに見えるんだが」
 軽い流し目を無言で受け止めた郁に、
「まぁ俺だって似たようなところで躓いたから偉そうなことは言えないんだが」
 美都は続けながらも目を細め少し記憶を回想する。
 …二人が付き合い始めてかれこれ1年。
 今思えばあの当時、お互いまだ恋愛に慣れてなくて、言いたいことや思っていることの半分も伝えることができず、募る想いばかりが空回りする毎日だった。
 周囲に居た大人達の多大なる協力を得ながらにしろ不器用は不器用者同士どうにかなりはしたが、郁と優也の場合一線を越え切れない理由は美都達とはまったく異なものだろう。
 恋愛に対する精神レベル、というか認識レベルが天と地ほどの差があるのだから、
「うっかり押し倒した後の反応が予測できないんだよなぁ。優也の場合は」
 それでも大丈夫だと亜美は確信しているようだが、美都にすればそこまで楽観視することはできなかった。
 もしも拒まれでもしたら…
 と懸念するあまり、忙しさにかまけて優也と二人きりになることを郁は避けているのだと思っていたのだが、
「なぁ森丘」
 小さくそう投げ掛けた郁に床を眺めながら短い言葉を返す美都。
 郁も落とした視線を上げることなく、
「俺は別に拒絶されることが怖くて距離を置いてるわけじゃないんだ」
 床に印されたコートのラインを足でなぞっている。
「佐伯は…、いい具合に変わったな」
 視線を向けた美都に、
「そういう関係になると掌反したように変わった人間を俺は何人も見てきた。いかにも純真ですってタイプに限って嫉妬心に猜疑心、それに独占欲が混じるともう手が付けられなくなって…。たとえ優也がどう変わろうと全部受け入れてやろうとは思うんだが」
「できるなら今のままでいさせたい?」
 ただジッと黄色のラインを眺めている郁の横顔へと、
「やっぱりお前、思い悩むことが趣味なんじゃないか?」
 言いながら美都は軽く口の端を上げた。
「嫉妬に狂う優也の姿を想像したって、なんか小さいのが一生懸命ワイワイしてるだけで、いまいち迫力に欠けるって」
「お前人事だと思ってるだろう」
「いいや。大真面目だぜ」
「じゃあ佐伯がそうなった時も平気で笑ってられるのか?」
「にっこり笑って抱き締めて、誤解を解いてハイ終わり」
「一度修羅場を体験してから言ってもらいたいもんだ」
「ふん。経験ばっか豊富で何の学習もできない奴に言われたか無いな」
 振り向いた郁の鋭い視線を軽くかわした美都は、
「白河が本当は何が言いたかったのか今分かったよ」
 7クラス向こう。その最前列に並ぶ優也の姿を探しながら、
「何だかだ言いながら一番優也を信用してないのは橘自身じゃないか」
 驚いたよう美都を凝視してしまった郁。
「どういう…」
「あいつはそんなふうに屈折する人間じゃない」
 結局確認不可能だったのか泳がせた視線を美都はそのまま窓の外に飛ばし、
「…って信じてやったらどうだ」
 穏やかな口調で雨を見つめる美都だけは既に答えを知っている。
「実際優也が真実に直面した時にどう出るかは分からないが…。天気みたいにさ、雨は降る時には降るし止む時には止むんだ。どうしようもないことに気を揉むだけ疲れるだけだろう?」
 郁は静かに雨へと視線を向けた。
「何もかも本気で受け止めてやるつもりでいるなら、成り行きを傍観するくらいの余裕で大きく構えててやれよ」
 言葉で瞳を細めた郁だが、まるでそれは雨粒を数えるかのような仕草にも見え…。
 聞き流すつもりならそれはそれで仕方が無いと、好い加減壇上に意識を戻しかけた美都に向け郁は重い溜め息を返し、
「…鬱陶しい雨だな」
 ただ小さくそう呟いた。


19.I'll be there

「すっごい声援…」
「えっ?! 何っ?」
「声がねっ! 凄いって言ったんだよっ!」
 叫んだ優也に翠がただ頷いただけで言葉を返さなかったのは、既に会話を諦めたからだろう。優也と二人、肩を並べて座っているというのに叫ばなければ会話ができない体育館。
 昼休みのバレーボール大会、今日は特に白熱しているようだが…
「ドリームチームだもんね」
 若干歓声が落ち着いた頃、ようやく亜美がそう口を開いた。
 いつもなら力加減が偏らないようチーム編成をしているはずが、今日は美都も郁も…そして和臣までもが同じチーム。それに加えて生徒会長の東條に総務の野添。で、
「瀬田さ〜ん、見ててくださいよ〜っ!!!」
 と大きく手を振ったサーバーの視線で亜美、翠、優也の三人が振り返ると無表情の瀬田が直ぐ後ろに立っていた。
「隣り、いいか?」
 成澤がサーブ姿勢に入ったことを確認した瀬田はそう言って、頷いた優也の隣りに腰を落とす。
 コートを見つめる瀬田の横顔を眺めながらの優也、
「瀬田さんは副会長なのに入らなくていいんですか?」
「俺、身体弱いから…」
 えっ、と驚いた優也ににっこりと振り向いた瀬田は、
「嘘だよ。試合に出るよりギャラリー見てる方が面白そうだからね。その代わり成澤が結構いい戦力になってるだろう?」
 なるほどと頷いたのは三人揃ってだった。
「この調子だと勝てそうですね」
 翠の言葉に、
「勝ってもらわないことには後々面倒なことになるんだ」
 負けると何が面倒なのかというと、実はこの試合。
 生徒会と男子バレーボール部との戦いなのだ。
 今月生徒会が忙しかった最大の理由は生徒総会があったから。
 そのメインになっていたのが新役員の選出と、各クラブの予算編成。
 次期生徒会長となる和臣が、弱小クラブから思いっきり予算を削ったしわ寄せ部活のひとつが男子バレーボール部だった。
 即座に生徒会室へと怒鳴り込んで来たバレー部主将・井上慶一郎と揉めた末、
“用は、いかに男子バレーボール部が弱いかが証明できれば納得していただけるわけですね?”
 機関銃の如く、切れ間無く怒鳴り散らしていた井上が一瞬口を噤んだ隙に、
“生徒会チームに現役バレー部が勝てれば予算のことは考えてみましょう。ただし、所詮生徒会役員なんて身体を動かすことに慣れてない連中ばかりですから二人ばかり助っ人を頼むことは了承していただきたいと…”
 落ち着いて考えれば和臣が助っ人二人と言った時点で、誰を指しているかなど分かりそうな物なのに、弱小弱小と言われて頭に血が上っていたのか井上は、
“そんなもの、指一本で捻り潰してやるっ!”
 などと豪語してしまったのだ。
 それでも試合が始まるまでは素人集団だと多寡を括っていた井上は、今まさに後悔の真っ只中。
「これに負けると、次は野球部が控えてるからね」
「そうなると森丘君は敵ってことかしら」
「さぁ、美都は負けず嫌いだから…」
 翠は差支えがあると思ってか後の言葉を濁すつもりだったが、じっと隣りから続きを待っている様子の優也に、
「勝てるチームに入りたがるんじゃないかな」
「裏切り者のデビルマンになるのね」
「…だけど、そんなことしていいの?」
「生徒会としては有り難いが」
「じゃあ覆面でもして参加させれば?」
 亜美の妙な提案に複雑な表情を浮かべた翠。
「だめだめ。よっくん態度が悪いから、きっと直ぐばれちゃうよ」
 と優也が続けた言葉は、悲しいことに翠が喉まで出かかった言葉とピタリと一致していた。
 苦笑いを浮かべた翠は、コートの美都へと視線を向ける。
 泣く子も黙ると言われるあの鋭い眼光で睨み付けられては、ネット向こうのバレー部員達は生きた心地がしないだろう。
 本人曰く、愛想が無いのは人見知りなのだと説明するがどこまで本気で言っているのかは怪しいものだ。が、去年の今頃から比べれば、その表情はずっと軟化していて…。
 瀬田の受け売りだが確かに試合観戦者を眺めているのも結構面白いもので、興味を持って見渡せば、美都のファンが少なくないことは直ぐに分かる。
 自分の恋人を他人に認めて貰えることは嬉しく思う反面、彼は自分のものなのだと思いっきり周囲に誇示できない関係が時々悲しかったり悔しかったり…、だったら女の子に生まれていればなんて、もっとどうしようもないことを考えたり悩んだりしながら、それでもここまではどうにかやってこれた。
 それは美都がためらうこと無く引っ張ってくれているから。
 ただ一生懸命、好きでいさせてくれるから…。
「佐伯君」
 …と不意の呼び掛けに翠が意識を戻すと、バレーボールをタンタンと床に打ちつけている美都と目が合った。
「さっきからずっと見てたのに気が付かなかったの?」
 気まずく頷いた翠の視線は美都に向いたまま。
 何かを言いたげに翠へと笑みを向けた美都が、サービスラインよりずっと下がって行く後姿を翠はまだ見つめていた。
 試合はついに生徒会チームがマッチポイントを迎えている。
「何かするつもりなのかしら…」
 亜美の呟きに翠はつい先日交わした美都との会話を思い出していた。
 ただのドライブサーブには飽きたとこぼした美都に、
“ジャンピングサーブってあったよね”
 もしやさっきの笑顔はそういうことなのだろうかと翠は美都に注目する。
 その他大勢のギャラリー達も掛け声のタイミングを逃すまいと美都に注目していて、更にコート内の選手達も美都の一球に迎え撃つため固唾を飲みながら構えていた。
 …つまり、隣りのコートで何人かの1年生が同じくバレーボールに興じていることなど誰一人として気が付いてはいない。
 美都が大きくバレーボールを放り投げるほんの僅か前、コロコロコロと控え目に隣りのコートからボールが転がってきたことにも気付く人間は誰一人いない。
 はずだったのだが…。
 瞳が大きいと視野も広い…なんてことは無いだろうが、視界の中に突然入って来た異物に気付いた優也。何の気無しに転がって来たボールへと視線を向ける。
「スミマセーン」
 なんて言葉が優也に届くはずは無かったが、控え目に姿を現した人物を認めて、
「あ゛ー――――――っ!!!!!」
 優也が叫びながら立ち上がったのが、美都が空中でバレーボールを打つほんの一瞬前。
 突然の大声にすっぱ抜けた美都のサーブが真っ直ぐに飛んで行った先には、同じく突然の大声に振り向いた1年生男子生徒が居て…、



 バッ、コー――ン…



 っと美都初披露のジャンピングサーブをまともに顔面で受けてしまったのが、
「フレディ〜〜〜っ!!!」
 だった。

- + - + - + - + - + - + - + - + - + - + -

「ちょっとぉ、なんなのよ。この人数」
 パタパタパタと養護教諭が保健室に入って来た第一声。
「あら、あなた達が居るってことはまた何か事件なの?」
 これは養護教諭が美都と翠を認めた直後の言葉。揃って首を振った二人から笑顔で視線を逸らすと、
「怪我をしたのは…」
 保健室来室者の台帳を手に取って、
「1年5組。の、フレディ・マーキュリー…?」
 養護教諭はグルっともう一度保健室内を見回した。
 ベッドに横たわる男子生徒に目が止まった瞬間、彼女はどうにか笑いを堪えるのが精一杯だったようだ。
「誰だよ、あんな名前書いたの」
「僕」
「あのなぁ優也。台帳には本名を書かなきゃ駄目だろう。フレディはあいつのあだな。ニックネーム。分かったか?」
 それも違う気がするが、
「だって、チャールズなんとかより似合ってるんだもん。絶対あの顔はフレディ・マーキュリー」
「似合うとかどうとかの問題じゃなく…」
 とそこでパンパンと手を叩く音。
「たっくさん、彼のことを心配してくれてるのは分かるんだけど、ここは病人が集まる部屋だから関係の無い人は帰ってくれないかしら」
「全員関係者なんですけど」
 隅の方で様子を窺っていた東條の言葉に、
「だったらあなたの権限でなんとかして頂戴。一人の怪我人に付き添いが廊下まで溢れかえってる理由は、後でレポートにでもまとめて提出してっ」
 とにかくこの場はなんとかしろという、養護教諭の気持ちがひしひしと伝わる一言だった。


20.終章(エピローグ)〜…

 雷が鳴り響き大雨が降る大荒れの天気。
 どんよりと暗い放課後の生徒会室だが、中に居る生徒の顔はみんな明るかった。
 試合は途中で中断されてしまったが、先程訪ねて来たバレー部首将・井上があっさりと負けを認めたのだ。
 完敗だなんだと笑いながら応接セットの椅子でドカッと足を組んだ彼は目の前に座る東條に、
「ものは相談なんだが、もうひとつお前の権限でなんとかして欲しいんだよ」
 何だと問い返すと、
「橘だよ。あいつ、なんとかウチの部に入部させてくれないか。あれだけの素質があれば次の大会までには充分エースになれるって」
 そんなことを言われても、生徒会長にそこまでの権限は無い。
「橘のことは幼馴染みに頼んだ方が早いんじゃないかと…」
 つい向けた視線の先に居た和臣は相変わらずの笑顔で、
「ああ見えてあいつは結構冷たいですから。ここはルーキーのお手並み拝見ということで」
 更に流された視線の最終地点には成澤少年が立っていた。
 彼は瀬田の追っかけが昂じて新生徒会役員にまでなってしまっていたのだ。
「…それをすると何かいいことありますか?」
 餌が無いと動く気力が無いかのような発言に、
「成功報酬は睦とのデート1回」
 あっさり東條が言い放った餌。頑張りますっと飛び付く成澤を無視したまま瀬田は東條を睨んでみせたが、
「大丈夫ですよ。まず有り得ませんから」
 傍で耳打ちしたのは和臣だった。
 それぞれの性格を熟知した和臣の言葉に間違いは無いだろうが、頭の中の計算とはまったく違ったことが起こるのが世の常。
 だから結構世間は面白い…
 などと思う和臣の期待に応えるかのような出来事が今夜起こったりするのだ。

*************************

「ただいまぁ」
 っと暗い部屋に投げ掛けたところで誰からも返答は無い。
 パチンパチンと部屋の電気を順に点け、リビングまで明るくすると一度自分の部屋に入った優也。
 鞄をその辺りに放り投げ、制服を脱ぎ捨てるとTシャツと綿パン姿になりもう一度部屋を出る。
 台所の冷蔵庫から麦茶を取りグラスに注ぎ入れながら、ボトルごとリビングのソファーに深く腰掛けた。
 テレビのリモコンを手に電源を入れる。
 ブォン
 とこもった電子音と共にカラフルに彩られた画面を眺め、ほくほくと1日の出来事を振り返ってみたが、今日の収穫はなんといっても待望のフレディくんに会えたことだろう。
 骨折から復帰直後に美都のジャンピングサーブを顔面に受けるなどという度重なる不幸に見舞われた彼だが、怪我の具合は大したことは無かったらしい。
 よかったよかったとは思いながらも、フレディくんに会うという目標を達成した今、また新たなるお目当てが欲しくなるのが人情。
 各局の番組を全てチェックしてみたが興味をそそる番組はやってはおらず、何か面白いことが無いだろうかと好奇心を胸にリビングの中に泳がせていた視線がテーブルの下に置かれている袋で止まった。
 なんだろうとよく見るとレンタルショップの袋だ。
 この家には自分と姉しか住んでいないのだから、もちろんこれを借りてきたのは姉しか考えられないのだが…。
 袋から中身を取り出すと、聞いた事の無いタイトルが明記されていた。
 うーん…と、しばらくそれを眺めていた優也は、結局暇に感けてデッキにディスクを入れてしまった。
 この選択が明日からの自分の運命を左右するとも知らずに。






 約10分後、お茶を飲むことなどすっかり忘れ呆然とその映像を見入ってしまった優也は、見終わった後もしばらく呆然としていたのだが、それからのお話は…








次作へと続くのです。















作:杜水月
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