月に願いを 

「おーい、そっちゴミまとまったかーっ?」
「OK!」
 熊手を振りながらの僕の返事に少し向こうから駆け寄って来た学級委員長の船越が、ちり取りを構え終える前に、
「わわわっ!」
 突然吹いた冷たい北風。
「佐伯っ、早く入れてしまえっ」
 言われてゴミの半分を撒き散らしながらも慌ててちり取りにゴミを掻き込むと、船越は即座にそれをビニールのゴミ袋に移した。
「残りは明日に回そう」
 どちらかといえば生真面目な船越もさすがにこの寒さにはかなわないようで、風でまき散ったゴミを適当に足でその辺りに隠してしまうとさっさとゴミ袋を閉じてしまった。
「はい、終わり終わり」
 パンパンと手を叩きながら船越の掃除終了の言葉。


 ここ学園の中庭は1年2組の掃除エリアで、今週は僕たちの班が掃除当番だったりする。春には散ってしまった花びらが結構ゴミになるしその後は虫がドワッと多くなる。夏は暑いし秋は馬鹿ほど枯れ葉が落ちて冬は冬でこの寒さ。
 つまり結構ババな掃除場所なのだ。
「俺なんて席替えの前も中庭掃除やったところなんだぜ、まったくついてないよ」
 ゴミ袋を持ってブツブツとぼやく船越の言葉に、僕は軽く笑うと下駄箱脇の掃除用具入れに熊手を仕舞い込みながら何気無しに視線を窓の外に向ける。と…
 図書館の脇、後ろ姿だけど確かにあれは美都だ。
 あんな所で何してるんだろう?
 深くも考えず僕が窓に沿って覗き込むように様子を見てみると、そこにはもうひとつの人影。
 …美都の前に髪の長い女子生徒が立っていた。
 俯きかげんで静かに微笑むその人は、時々髪を掻き上げて何度か頷きながら何かを美都に語りかけている。
 言葉は聞こえなくても、何をしているのかは分かった。
 何だかすごく…変な気分
 白河以外の女の人と美都が並んでいるところなんて初めて見たような気がする。
「卒業前の駆け込み告白」
 二人から目が離せなくて呆然と外を眺めていた僕の隣から船越の声。
 振り返ると、
「あのリボンの色、3年生だろ? この時期結構多いらしいぜ」
「そうなんだ…」
 船越は二人に視線を置いたまま頷いた。
「けど森丘って一本筋通ったところがあるから、浮気の心配は無さそうだよな」
 今まで半信半疑だったけど言われて確信する。やっぱり船越は気付いてた、僕と美都とのこと。
「一緒に居れば何となくは分かるもんだよ」
 少し答えかねた僕に船越は穏やかな口調でそう付け足してくれた。
「そういうこと、気にはならないんだね」
「みたいだな」
 軽く笑いながらの船越。
「大切にしてもらってるんだろう?」
 言葉に僕は頷いて、
「浮気の心配はね、したこと無いんだけど…」
「けど?」
 そう訊き返した船越から僕は視線を逸らすと、少し目を細めてもう一度美都の後ろ姿を眺めて見た。
「本気な相手がずっと僕だけなんて限らないんだろうな」

 もしかして、あんな風に知らない誰かが僕と取って代わるかもしれないんだって単純なこと。
 今まで考えたことが無かった…


 美都と付き合い始めて約7ヵ月。
 付き合い初めこそ毎日僕のマンションに通っていた美都だけど最近は週の半分くらいで定着していた。
 それ程放任主義でもなさそうな美都の両親にどう説明しているのかははっきり訊いたことはないけれど、実家とこことの二重生活みたいになっているのに美都は良くこなしてると思う。
 こんなに美都はしてくれているのに、やっぱり独りの夜は寂しくて…
 その夜久し振りに僕は夢を見た。
 それは子供の頃毎晩のように見ていた夢で、暗い何にも無い場所で独り置き去りにされる夢。
 夢の中で泣き叫ぶ自分の声で目を覚ます夜が何日も続いた。
 その夢を見なくなった頃には独りの夜に慣れてしまっていたのに、最近僕の周りが賑やかになっていたから、人が去ってしまうって感覚…忘れかけてた。
 僕が望まなくたって離れて行ってしまう人はいる。
 父さんと母さんのように想い合っていてもすれ違うってことがあるのかもしれないんだけど、美都だけは無くしたくない。
 僕のことだけを好きでいてくれる美都のまま、どこかに閉じ込めてしまえれば安心できるのかな…
 なんて馬鹿なことを一晩中考え続けていた僕は、結局殆ど寝むれないまま朝を迎えてしまった。

.......... ☆ .......... ☆ .......... ☆ ..........

「寝不足か?」
 翌朝迎えに来てくれた美都の第一声。
 適当に笑って誤魔化しながら歩き出した僕に、
「俺のいない時に何か悪さでもやってるんじゃないだろうな」
 真面目な顔して一体何を想像しているのやら。
「何もしてないよ、ちょっと寝苦しかっただけ」
 独りが寂しくて眠れなかった
 って正直に言ってみたい気もするけど、美都の場合単純に喜んでくれるだけで済まなくなる。
「じゃあまた毎晩俺が通ってやろうか?」
 ほら、言わなくたってこういうことを言うんだから…
 呆れながら首を横へと振った僕を横目に、
「遠慮するなって。もうすぐ試験だからな、今のうちにヤリ溜めしておくとするか」
 思わず絶句。
 朝からすました顔で何てことを言うんだっ
「あのねぇ」
 僕が足を止めて美都を見上げようとしたその時、突然至近距離から声がした。
「噂通り、仲いいね」
 誰だろうと振り返りかけた僕の腕を美都が掴んで、僕はあっという間に美都の背後に回されてしまう。美都の肩口から覗き込むとやけにニヤけた男子生徒と目が合った。
 ネクタイの色を見るとどうやら2年生のようだ。
 顔は見えないけれど多分美都は相当睨みを利かせているはずで、その上、
「誰に何の用ですか?」
 声のトーンは3段階くらい落ちているというのにこの上級生、あまり堪えていない。
「両方に話があるんだけど、じゃあ前にいる森丘に代表して聞いてもらうとしようか」
 彼は妙に自信たっぷりな笑顔を美都に向けた。
「俺の友達で佐伯と付き合いたいって奴がいてさ、佐伯にはそいつ紹介してやるから森丘は俺と付き合わないか?」
 な…んだよこれ
 言い回しは変だけど、これは紛れも無く美都への告白じゃないか。
 連日の美都への告白にびっくりしたまま、僕は昨日の出来事を思い出して美都のブレザーを強く握り締めてしまう。
 終始笑顔を絶やすことのなかった髪の長い女子生徒。
 美都はあの時何て言ったんだろう。
 この人には何て…
「あんたはアホか」
 ?
 僕の疑問符をよそに、美都は僕を引き摺るように歩き出す。
 ってまさかそれが返事なんてこと、
「よっ、美都」
 振り返ると唖然としたままの上級生。
「話の途中」
「あんな奴とまともに話せるかっ」
「でも」
「ダンボールに入って貰ってくださいじゃねぇんだよ」
 確かにあの言い方はちょっとかな、とは思うけど、
「はっきり断っておかないと後々困るかも」
「だったらどうした。あれ以上話すとアホが移る」
 僕の心配をよそに美都はまったく相手にしていない様子。
 その言動がいかにも美都らしくてほっとしたせいか、
「最近よくモテるね」
 つい口が滑ってしまった。
 言った言葉はもう取り戻せない
 案の定鋭く向けられた美都の問いただすような視線に、僕は溜め息を一つつくと口を開く。
「昨日、図書館の所で3年生の女の子といたの見ちゃって」
 言い終わってもしばらく僕を横目で眺めていた美都がニヤっと口の端を軽く上げた。
「もしかしてそれが寝不足の原因?」
「さぁね」
 僕は視線を逸らしてなるべく平常心を装う。
「そういうの、世間一般じゃ嫉妬って言わなかったか?」
「忘れた」
 美都の含み笑いに嫌な予感はしてたのに、
「翠」
「ん…?」
 耳打ちするように顔を寄せてくる気配。
「なぁ、これさぁ」
 言葉につられて振り向いて…
 !!!!!
 何が起こったのかって、通学途中道の真ん中でのキス。
 慌てて辺りを見回したけど、運良く意外と誰も見ていなかったのか分からなかったのか特に反応はない。
 それでも一言言ってやろうと美都を見ると、子供みたいに嬉しそうな顔して笑うものだから何も言えなくなってしまった。
 美都は知ってるんだろうか。


 そんな顔して笑うから、余計に無くせなくなるってこと

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 北風の吹く中掃除を終えた後、レポート作成用の資料を返しに一人で図書館に向ったのはその日の放課後。
 確か去年の文化祭の後くらいからだったかな
 僕が一人でいるとやたら誰かに声を掛けられる時期があったんだけど、ある事情で学園の有名人、松前が流した美都との噂が定着してきたのか今年に入ってからはそれ程でもなくなっていた。
 図書館に入ると直ぐに自動販売機の前で、その松前と共に学園の名物になっている橘を発見。
 今日は真面目に部活に参加するんだろうか?
 話し掛けようとした僕の気配に橘は振り向くなり、
「おごって欲しかったら3秒以内に選べ」
 言って自販機の前を明け渡たされた。
 で、つい咄嗟にカフェオレのボタンを押してから、無遠慮な自分に気が付いて橘を見上げると笑顔で頷いてくれた。
 付き合ってみればよく分かる、橘の人気は容姿のせいだけじゃない。
 そんな橘が好きになった相手、どんな子か見てみたいな…
「まだ見つからないんだってね」
 ホット・カフェオレ入りの紙コップを僕へと手渡した後、コインの投入口に小銭を入れている橘に尋ねてみると、橘は軽い苦笑いを浮かべながらホットコーヒーのボタンを押した。
 学園一の人気を誇る橘の想い人は名前も住所も分からない男の子。  初めて会ったのは去年の春って言ってたから、かれこれ1年越しの片想いになる。
「森丘も方々で捜してくれてるんだってな」
 紙コップを手に二人して傍の壁に凭れた。
 馬鹿みたいにモテまくってる橘が片想いしてるってことに何だか切実さを感じて協力者を買って出たものの、僕にはあまり人脈が無いから…。 そこで、僕に代わって美都が練習試合なんかに行く先々で訊いてはみてるんだけど、これが中々見付からない。
「それにしてもあいつ。直接俺に外見的特徴も身体的特徴も訊きに来たことが無いんだが、どうやって捜してるのか知ってるか?」
 橘の質問につい笑いそうになった。
 一度だけその男の子捜しの現場に居合わせたことがあったんだけど美都ってば、
「天使知らないか? って訊いてるみたい」
 言葉の途中で吹き出した橘。
「あの顔でか?!」
「そうなんだよ。それも真顔で言うもんだから、訊かれた方がひいちゃって…」
「それ、殆どホラーじゃないか」
 大ウケしながらの橘の言葉に美都には悪いとは思いながらも僕は頷いた。
 だって良く考えればそれが原因で見つからないのかも。
「でも、早く会えればいいね」
 やっと笑いがおさまった橘は、頷きながら僅かにその瞳を曇らせてしまう。
「そのことで何かあったんだ?」
 すると橘は驚いたように僕を見た。首を傾げた僕へと、
「相変わらずスルドいなぁ」
 それは今の質問を肯定したってこと、だよね。
「話を聴くくらいで良かったら…」
 普通の恋愛なら恐れ多くて橘にこんなこと言えないんだけど、同性愛ってことでの悩みなら少しは役に立てるかもしれない。
 だけど紙コップに視線を落としてしばらく黙っていた橘がぽつりと話した内容は、僕が想像していたこととは懸け離れていた。
「3年程前になるかなぁ…この辺りじゃ珍しくドカ雪が降った日があってさ、雪を見るのが珍しかったわけじゃないんだが、真っ白に庭中に積もった雪が朝日で光ってるのがその時に限って凄く綺麗に見えて…。俺、部屋の窓からずっとそれ眺めてたんだよ」
 橘はその光景を思い出すかのよう眩しそうにしてみせた。
「そのうち弟が出て来てはしゃいでそれ踏み荒し始めたのが何故かショックでね…弟がそうしなくても日が昇ってしまえばいずれは消えて無くなる風景なんだが、できるなら綺麗なままでって願わずにはいられなかった。あいつのことも多分同じように見てるんだって考えるとさ…、色々と思うところがあるわけだ」
 分かるか?
 といったふうに語尾を切った橘に僕は黙って頷いた。
“純真無垢な、偶然舞い下りた天使”
 その男の子をそう表現した橘。
 異性相手には相当場数を踏んでる橘が、ままごとみたいな恋愛を想い描いているとは思い難い。
 好きより先のことを望んでしまうことは特別じゃないけれど…、橘が悩んでいるのは聖域を汚してしまうようなことができないからだ。
「会えば今より辛くなるかもしれないね」
 僕の言葉に橘は何も返さないままコーヒーを軽く口に含んで苦そうに眉を顰めた。



 …ただ好きなだけで居続けることは難しい

..........☆..........☆..........☆..........

 美都はあの宣言通りその夜からの数日間毎日マンションに来ていた。
 以前みたいに連日オールナイトなんて無茶はすることがなかったから、毎日来てくれることは嬉しかったんだけど試験1週間前になって美都が来なくなった途端、僕はまたあの夢を見てしまう。
 自分の叫び声で飛び起きたのは今夜で立て続けて3日。
「まいったなぁ…」
 幾ら試験前だからって何日も徹夜するわけにいかないし、寝不足のせいで集中力も落ちてしまって試験勉強も思うようにはかどってない。
 テスト、ボロボロになりそう
 思わず溜め息をついて布団に包まったまま傍の窓にコツンと頭を預けると、カーテンの隙間から差し込んでくる月明かり。
 少しカーテンを開けて曇りガラスを手で拭いた空間から丸い月が顔を覗かせる。
 …美都が僕に告白してくれた夜も、綺麗な月が出てたな
 僕のことを好きだという気持ちは分かってるのに思うように告白してくれなかった美都が、あの夜好きだと言ってくれたのは月が僕の願いを叶えてくれたんだろうか。
 だったらもう一つお願いしたいことがあるんだけど…
 なんだか今夜の月は、やけに蒼白く見えて顔色が悪い気がするから、お願いするのは今度にしよう。

..........☆..........☆..........☆..........

 次の日の夕方
 冷蔵庫の中身がすっかり空になっていたから、駅前のスーパーまで買い出しに行こうとマンションを出て外の寒さに身を竦める。
 学校から帰って直ぐに行っておけば良かった。
 後悔しながら今日は目の前のコンビニで済まそうかと思っているのに足は駅前に向って歩き出してしまう。
 財布と一緒にダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、携帯電話を忘れてきたことに気が付いた。
 まぁいっか、直ぐ戻って来るし
 日の落ちかけた薄暗い住宅街を歩いていると不意に名前を呼ばれて顔を上げる。と、同じクラスの中原が僕の傍へと駆け寄って来た。
 典型的なおかっぱを束ねることも無くいつも少し俯いている彼女。クラスじゃ殆ど目立たない女の子なんだけど…その仕草というか雰囲気がどこか少し前までの僕と似てる。
 通りすがりに声を掛けてくるような親しい相手でもなく不思議に思っていると、中原が僕の腕を縋るように掴むものだから、
「何か…困ってるの?」
 尋ねながら少し先に視線をやる。
 するとその前方にとても彼女と友達だとは思えないような男が二人、イカつい改造車に肘を掛けてこっちを見ていた。
 しつこくナンパでもされてるんだろうか?
 どう見ても話して分かるような相手ではなさそうだし、喧嘩なら負けるに決まってる。情けないけどこういう場合は逃げるが勝ちだ。
「そこの脇道に入ろう」
 言って方向を変えようとした僕の腕を何故か中原は止めて、
「来るのか来ねぇのかはっきりしろよっ!!」
 男の怒鳴り声にびくっとしてみせた中原は、小さな声で何かを呟いた。
 その声が小さ過ぎて問い返した僕へと、
「お願い、一緒に来て…」
 びっくりしたなんてものじゃない。
「何を言ってるんだよ、あんなのと車になんか乗ったら何されるか分からないんだよ」
 だけど中原は泣きそうな顔をしたまま男達の方をちらっと見た後、震えながらも僕の腕から手を放した。
「ごめん…。佐伯君関係ないもんね」
 俯いて男達の方に歩き出してしまい、
「中原っ」
 彼女は振り返らない。
 辺りを見回しても他に人影も無く、彼女を少しの間視線で追い続けていた僕は…
「何だよ、てめぇ」
 中原がその車の後部座席に乗り込む寸前で追いついた僕を睨みながら男の一人が言った。黙って彼女の後に付いて後部座席に乗り込もうとすると、その男にジャケットの襟を掴まれて引きずり出されそうになったんだけど、
「美人のお客さんなら大歓迎だ」
 運転席に座っていた男の声にあっさりと僕は掴まれていたジャケットを離された。


 車の中はとんでもない音量のカーステレオの音と充満する煙草の煙で気分が悪くなりそうで、早く目的地に着くことを祈っていたのに…
「…何だよこれ」
 着いた所はもっと環境が悪かった。
 今のは目の前の光景を眺めながら呆然とした僕の呟きだ。
 何だか倉庫の中なんだけど、カーステなんて問題にならないくらいものすごい音でわけの分からない音楽が鳴り響いていて薄暗い照明の中、所狭しと若い子達が好き勝手なことやってる。
 倉庫中に蔓延する酒と煙草の臭い。
 こんなの外国の映画でしか知らなかった世界…
 いわゆる乱交パーティーの真っ只中。
 車に同乗していた男達は僕達を気遣うこと無く、勝手に奥へと進んで行く。
 中原は一度僕を見てやっぱり少し俯くと先に歩き出した男達を追った。
 車の中がうるさすぎて事情を聞けなかった僕は入り口で相当迷ってたんだけど、中原の後ろ姿を見失う寸前に彼女を追い駆けることにした。
 携帯電話を持ってきてないから、何かが有れば自力で何とかしなければならない。
 途中床に転がってる人を何度か踏みそうになりながら、内心ドキドキものでようやく中原に追いつくとそこは倉庫の一番奥の一角だった。
 安っぽいソファーのつもり。みたいな所に座っていた男女数人が一斉に、
 なんだこいつ
 って目で睨んできて思わず息を呑む。
 どの人もあまり関わりたくないタイプだ。
 と、
「麻紀ちゃんのナイト」
 言葉が出てこない僕の代りににこやかに言ったのは、さっき運転席に座っていた真っ黄色のロン毛男。
「ナイト? って男なのか?!」
「美人だろ?」
 馴れ馴れしく僕の肩に回してきた腕を即座に振り払うと、ふざけた笑いでその黄髪男は肩を竦めた。
「突っ立ってねぇで座んなよ」
 その言葉で周りにいた男に肩を掴まれて、強引に僕と中原はその輪の中に座らされてしまう。正面に座っている金縁サングラスの男が傍のボトルを取ると、それをグラスに並々注ぎ入れ俯いたままの中原に、
「まぁ1杯」
 低い声で言って差し出した。
 ボトルの感じからすると多分何か洋物の蒸留酒。言われるままに中原は少しだけグラスに口を付けて…
 …即座に激しくむせ返る。
 その姿に僕以外の全員が嘲笑った。
「無理すること、無いよ」
 こんなキツそうなお酒、飲めるわけ無い。
 小声で言った言葉に中原は首を振ると再度グラスを手にしてしまう。
「飲まねぇと話しが進まねぇもんなぁ、麻紀ちゃん」
 サングラスの男が煙草の煙を吐きながらククっと笑う。
 からかわれてビクビクしながらも無理に飲もうとする中原には何かよっぽどの事情が有るんだろうけど、この様子じゃ明日の朝になっても飲み終わりそうにない。
 おもむろに僕は彼女の手からグラスを取って正面の男を見た。
「僕が飲みます」
 言葉に男は口の端を上げる。
「その代わり話が終わったら直ぐに帰してくれるって約束してください」
 言ったところでそんな約束を守ってくれる人達だって保証は無い。
 だけど中原の目的を果たしてやらなければ彼女はきっと腰を上げはしないだろう。
 と、僕の背後から伸び出た何かに不意にグラスを奪われて、驚きながら見上げるとさっきの黄髪男がにこやかにグラスを掲げて見せた。
 そして…
「麗しきナイト様にはこれくらいはしていただかないと」
 グラスの洋酒を一気に飲み干した後の言葉。
 顔色一つ変わっていない男の、何か曰く有りげな笑顔から逃げるようテーブルを囲む面々に視線を泳がしてみても誰も助けてはくれそうにない。
 当然ではあるけれど…。
 僕は正面に座るきっとリーダーだろう男のサングラスの奥にある見えない目を見据えたまま少し考えた。
 自信はない、けど今更引けないのも確かだ。
 他にいい方法が思い付かないなら僅かな望みにでも掛けるしかない。
 だって、こんな所1秒だって長くは居たくないから。
 薄笑いを浮かべるサングラスの男に僕が頷いて見せると間髪入れずに手渡されたグラス。
 並々と注がれる液体の波紋が消えて無くなるまでただ黙ってそれを眺めていた僕は、一つ大きく深呼吸した後、一気にグラスの酒を呷った。
 瞬時に口の中だか喉だか、とにかくその辺り全体が燃えるみたいに熱くなって…

 ゴジラが火を噴く時ってこんな気分、かな?











 あ、…れ?
 ここ…どこだっけ?
 重い瞼を薄く開けると天上が歪んだままぐるぐる回ってる。
 やけに身体が熱くてゴワゴワと鬱陶しいジャケットを脱ごうと腕を動かしてみるんだけど、なんか自分の手が自分の手じゃないみたいに上手くいうことをきいてくれない。
 こんな単純作業にモタモタしてる自分がひどく可笑しくなってきて、笑いが込み上げてきた。
「暑いか?」
 誰かの言葉にクスクス笑いながら頷いた僕。
「脱がせてやるよ」
 黄色っぽいものが視界の中に入ってきたんだけど良く解らない。
 簡単にジャケットが脱がされて、それでもまだ熱いなぁなんて思ってると身体が少し重くなった。セーターの中に手が入ってきて、唇に何かあたってて…
 そうか、キスしてるんだ。
 でも誰と?
 なんて決まってる。僕にこんなことするの、美都しかいないじゃないか。
 …いつの間に美都が来たんだろう?
 僕は美都の頭を抱えるよう髪に手を差し入れて少し不思議に思った。
 美都の髪、こんなに長かったっけかな?
 それになんだかいつもより柔らかい気もするんだけど、これって美都のはずだから…
 いつもと違う気がするのは、夢でも見てるんだろうか。
 なら別にいいや
 あんな恐い夢見るより、美都の夢の方がずっとずっといい。
「…よしと」
 呟くと美都がくすくすっと喉元で笑う。
 笑い方も何か美都っぽくないと思いながら、美都を抱き込もうとした瞬間ふっとその存在が消えてしまった。
 …?
 何が起こったんだろうとボンヤリ考えていると、ほんの一瞬何か大きな物音と怒鳴るような声がして、また視界の中に何かが入って来た。
 じっと目を凝らしてみると、そこには美都が居た。
 夢から覚めた感覚が無かったけど、伸ばした僕の腕に応えるように強く抱き締めてくれて、
「良かった…、無事で」
 美都の、声だ。
「中原は俺が連れて帰るから、もう一台車呼んでやるよ」
 誰かのその言葉に美都は頷くと僕を抱いて立ち上がる。
「美都?」
「家、帰ろう」
 咄嗟に僕は美都にしがみ付いていた。
「いやだ」
「嫌って…」
「帰りたくないっ」
 あの部屋には戻りたくない。
「翠」
「美都と居たい」
「俺も一緒に帰るって」
 僕は大きく首を振った。
 だけどやっぱり美都は帰ってしまう。
 また恐い夢、見てしまう。
 あんな夢はもう二度と見たくないから…あの部屋に独りでいるのは寂しくて辛い。
「独りになんか、なりたくない」
 掠れた僕の声は、殆ど鳴咽に近かった。


 海の匂い…、がする
 港の側まで来てたんだ


「落ち着いたか?」
 少し頭を動かした僕へと美都が静かにそう言った。
 あの倉庫を後にすると、少し歩いた先で美都は腰を下ろし僕を抱いたまま僕の我侭に付き合ってくれていた。
「ごめん」
 グラスのお酒を一気に飲み干した時はまだそれなりに正気だと思ってけど、何かの拍子に立ち上がった瞬間目の前と頭の中がぐちゃぐちゃになって…
 …あのままだったら僕は知らない誰かと最後までいってた。
「勝手なことして怒ってない?」
 当然
 といったふうな美都の溜め息。だったけど、
「怒ってはいるが、今回だけは情状酌量してやるよ」
 …よかった
 こんなことしてたら本当に捨てられてしまう。
 僕は美都を抱き締める腕に少し力を入れた。
 だけど情状酌量っていえば、
「中原の事情って何だったんだろう…」
「お前そんなことも知らずに付いて行ったのか?!」
 僕の呟きに美都の呆れた声。
「女の子が危ない目にあってるのに無視できなかったんだよ」
「だからってできもしない無茶をするなっ。はっきり言って中原より翠の方がヤバかったんだ」
「でも」
 言い返そうとして直ぐに止めた。
 美都はすごく心配してくれたんだから…
「…中原、売春まがいの援助交際してたんだよ」
 え?
「どっかのおやじとラブホに入るところを写真に撮られて、金と引き換えにデータ返してもらう約束をしてたのが今日だったわけだ」
 だから泣きそうな顔しながらも言いなりになってたんだ。
「なんでそんなことしたんだろう」
 お金のためとか遊びでそんなことするようには見えないんだけどな。
「親父さんが若い女連れて家出ちまったらしいから、寂しかったんじゃないのか?」
 寂しかった…
 本当にそうだったのなら、やっぱり少し僕と似てるのかもしれない。
「データ、ちゃんと返してもらえたのかな」
「松前が居なかったら無理だったな」
 僕は美都の肩から頭を上げた。
「松前が居たんだ?」
 そういえば美都が助けに来てくれた時、誰かと話してたっけ。
「今日ほど松前の人脈に感謝したことは無かったぞ」
「じゃあ」
 頷く美都。
「運良く学園の生徒が居たんだよ、あの中に。で、連絡が入った松前と一緒にすっ飛んで来たんだ」
 今まで信じられなかったけど、美都が言ってた通り松前って表も裏も網羅してるんだ。
「間に合って良かった」
 静かにそう付け足した美都の肩に僕はもう一度頭を預けた。
 腕を首に回すとパラパラっと触れる美都の髪を掬うよう指を絡ませる。
 短くて、ちょっと固くて強情そうな…美都らしい髪。
 流れに沿っていくと前髪に到着した指先の動きを、漆黒の瞳がゆっくりと追う。
 僕も自分の指先を視線で追っていた。
 前髪の下には意志の強そうな凛とした眉、二重だけど研ぎ澄まされた刃物を思わすような冴えた瞳。少し骨っぽいけどごつごつし過ぎてない日に焼けた頬。
 何かを言いかけた唇の端に僕はそっと唇を重ねた。
 形のいい薄い唇を舌で辿りながら、その中に進もうとする僕の肩を押し戻したのは美都。
「俺の理性のボーダーライン、低いこと知ってるんだろ?」
 茶化すよう笑った美都を真っ直ぐに見つめたまま僕は、
「ここで、したい」
 大きく見開かれた切れ長の瞳に、言ってからすごいセリフだったことに気が付いて俯いてしまう。
 何、言ってるんだろう
「なんか…、まだ興奮してる。のかな」
 だけど美都は直ぐに抱き締めてくれた。
「…いいのか?」
 僕も強く美都を抱き締め返す。
「風邪ひいたって知らねぇぞ」
 乾いた声に、僕は美都の腕の中で頷いた。










 外でするのは初めてで、立ってするのも初体験。
 薄く瞼を開いたまま、喘ぐ度に目の前に広がる白い霧を僕は見るとも無く眺めてた。
 真冬なのに思ったより寒くないのは…やっぱり興奮してるせいかな。
 背中を壁に押し付けるよう凭せ掛けたまま僕の身体は美都が支えてくれているのに、何だかずり落ちそうで必死に美都にしがみ付いて、だけど突き上げられる感覚に何度も身体を仰け反らせてしまう。
 頭を壁に付けたまま見上げた夜空に月。
 今夜の月はすごく綺麗に見えるから、無理を承知でひとつだけお願いしてみよう 。




 叶うなら
 …どうか美都を僕にください

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その後風邪をひいたのは美都の方だった。
 試験前だって分かってたのに原因を作ったのは僕だから何度も謝ったんだけど美都は全然気にしてない様子で、やっぱりテストの手応えも僕よりずっと有るみたい。
「戸締まりしててやるから、日誌書いとけよ」
 美都の言葉に僕はうんと返して机に向った。
 明日が試験最終日って日の放課後。
 日直で最後まで残った僕に美都も付き合ってくれている。
 日誌を書き終えて帰ろうかと荷物を持って振り返ると美都は教室の一番後ろの窓の側に立っていた。
「何?」
 首を傾げた僕を見て軽く微笑んだ美都。
「翠と付き合う前から、俺はずっとここから翠のことを見てたって知ってたか?」
「え…」
 …そんなこと全然
 僕は驚きながら首を振った。
「何を気にしてるんだか知らないが、クラスが分かれたってどこからでも俺が見ててやるんだから…勝手に独りになるんじゃねぇぞ」
 嘘、みたい…
 美都は分かってたんだ、僕のこと。
 何時何処でどうしてなんて、そんなことどうだっていい。
 笑顔で大きく頷いた僕に腕を広げて見せる美都。
 少しだけ走ってその腕に飛び込んで、
「大好き」
 美都は返事の代りにキスをくれた。
 僕が僕でいられれば美都はきっと好きでいてくれる
 だから美都のことを信じてよう
 美都の胸に顔を埋めて、
 それでもやっぱり御利益が有ったのかな
 なんてことを思いながら僕は月にも感謝していた。
 そして

 その日から、ようやく僕はあの夢を見なくなった

















作:杜水月
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