祈り 

< prologue >

「何、もう店じまい?」
 そう言って俺は木製の扉を閉めると、カウンターの奥で水仕事をしているマスターに声をかけた。マスターは顔を上げることもせず、
「給料日前の週始めはこんなもんだ。それよりお前今何時だと思ってるんだ、高校生がふらふら来る時間じゃないだろうが」
 さらっと言う。
「用が有るって呼び付けたのはそっちじゃないか。忙しい中来てやったんだ、酒くらい出してくれるんだろうな」
「馬鹿言ってんじゃない。こんな時間に未成年を店に入れてるだけで犯罪ものなんだぞ」
「どケチ」
 俺としても別に期待していたわけじゃないが、大きくため息をついてマスターの前の椅子にドカッと腰掛けた。
 冷蔵庫に直そうとしているオレンジジュースが目に入って、
「スクリュードライバー」
 言ってはみたがそのまま冷蔵庫に納めてしまった。
「もしかしてご機嫌斜めか?」
 やっと視線を向けたマスターに頷いてみせると、もう一つため息をついた俺はテーブルに頬杖を突く。
「お前に限ってフラれるなんてことはないだろうから…」
 いや、それは時々有るんだけど、
「すっきり失恋する予定だったのになぁ…あ、じゃあソルティー・ドッグ」
 マスターがグレープフルーツを手にしたのを見てそう言ってみたのだが、俺の言葉にそれもさっさと冷蔵庫の中だ。
「プロポーズされたって言うから、笑っておめでとうって言ったんだ」
「それで?」
「どうして引き止めてくれないのっ。だぜ」
 瞬時にマスターは大爆笑。
 笑い過ぎだよ。
「付き合い始める前からちゃんと彼氏がいたんだ…それも将来を保証されてる高金取りの彼氏が。20代半ばの女が本気で高校生相手にしてどうすんだよ」
「はははっ、さすが天下の橘郁。幼女から老女まで何でも御座れだな」
 勘弁してくれと言わんばかりに俺は手を振ってみせた。
「あ〜ぁ、だから女は嫌いだ…」
 テーブルに突っ伏しながら吐いた俺の言葉に、
「じゃあ試しに男に乗り換えてみるか?」
 ガバッと頭を上げて俺はマスターを睨み返した。
「そのことで言いたいことが有るんだよ」
「男にもててるんだってな」
 そうだ!
 誰のせいだと思ってるんだっ!
 文化祭の時にこのマスターが引き起こした騒動のお陰で、俺はあれから男にまで言い寄られてる。それも、もっさい格闘技系運動部員にばかりだ。自慢するわけじゃないが言い寄られるのは女だけで充分なんだよ、まったく。
 最近俺の周りは勘違いな奴ばかりで、ほとほと困り果てている。
 そういえばケチの付きはじめはこのマスターの一件からだったような気が…
「で、用って何?」
 そう思うと言葉に刺が付いてしまったてしょうがない。
 つっけんどんな俺の言葉に肩を竦ませたマスターは一度控え室に引っ込むと、程なく何やら手に持って出て来た。
「佐伯君に渡しておいてくれないか」
 小さなプラスチックケースに入っているのは…
 あ
 俺は即座に店の端にオブジェで飾られてある女神像に目をやった。
 やっぱり
「メインストーン…」
 が、無い。
 1メートル程の女神像の額で品良く納まっていた翡翠だ。確かこの店のシンボルじゃなかったっけ。
「月刊誌で湫蒼月の作品見てね」
 声に視線をマスターに戻した。
「読んだか?」
「あの暗さは趣味に合わないよ」
 首を振って答えた俺にマスターは軽く笑いながら、赤く染まったグラスをカウンターに差し出した。
「ブラディメアリー?」
「しつこい。ただのトマトジュースだ」
 やっぱり
「塩ちょうだい。…で、湫蒼月が何?」
「宗旨替えしてた」
 意味が分からずグラスの氷をかき混ぜながら視線だけで見上げると、
「読めば解るよ。佐伯君のお陰で私もようやく肩の荷が降りたんだ。感謝の言葉と、それからお父さんにも宜しく伝えておいてもらえるように言っておいて欲しいんだ」
 言い終わると安堵が混じった溜め息をついた。
 それだけあの一件は重みがあったってことか。
 湫蒼月は佐伯の父親のペンネームで結構売れっ子作家なのだ。
 この二人が親子だということは早い内に知ってはいたが、佐伯家の家庭事情が相当複雑だったというのはごく最近偶然知った。
 マスターが珍しく心の内を覗かせたのは心情的に変化が有ったからなんだろうが、はっきりと外見に変化が現れていたのが…











< scene.1 >

「佐伯、帰るぞ」
 生徒用通用門の側で3年生らしき人物と話していた佐伯に俺は声をかけた。
 正確には話していたというよりは引き止められていたに近いだろうか。
 あのマスターがらみの一件以来すっかりそのイメージを変えてしまったのはこの佐伯翠だった。それまではその恵まれた容姿を隠すようなダサい眼鏡をして、どこか俯き加減にしていた佐伯だったが今はこの通りシャンと素顔で正面を向いている。
 佐伯にとってはいいことなんだろうが突然サナギが蝶に化けたのだから最近赤丸付きで人気急上昇なわけなのだ。
 と、ここまで彼のことを説明しておいて何だが俺は佐伯と毎日一緒に帰るような仲じゃない。
 気前良くトマトジュース一杯と宿賃だけでマスターの用件を済ませはしてみたものの、放課後呼び付けた俺の責任で一人で帰る羽目になった佐伯に何かあっては申し訳が無い。
 佐伯の人気は特に男に集中しているのだ
 俺の呼びかけに佐伯が一瞬振り返り、少し申し訳なさそうにその3年生に頭を下げ俺の方へと駆け寄った。
 目の端に映った3年男子の不満げな顔に挨拶代わりでニコッと愛想笑い。もちろん笑い返してはくれない。
 …フラれたのは俺のせいじゃないと理解してくれているだろうか
 どうしても今までの経験からいって、一抹の不安を感じないではいられない。
 俺の場合こういうことに関わると、必ず変に屈折して仕返しを受ける羽目になってしまうから。
 ただでさえ文化祭の後遺症を引きずっているのだ、これ以上関係の無いトラブルは是が非にでも避けたい。
「当然断ったんだろう?」
 佐伯には既にちゃんとした彼氏が居たりもする。
「付合ってる人がいるって言っておいた、後でしつこくされるのはいろんな意味で迷惑だからね」
 意外にぴしゃりと言ってのけた佐伯だが、
「相手の名前は言ってないんだよな?」
 言葉の途中で首を振ると少し表情を落としてしまった。
 まぁ、ふった相手の話なんて俺だってしたくはない。
 あの3年生の目つきが気にはなるが、明日は明日の風が吹くだ。いつまでもこだわるだけ脳細胞の無駄。お互い嫌な話題は早く逸らそすことにしよう。
「佐伯の家って何処だっけ?」
「柘植(つげ)駅のちょっと手前」
 答えた場所はここら辺りじゃ一等地。
「家賃高そうだな」
 言った俺に佐伯は知らないと笑う。
「橘も家近くなんだ?」
「飛ばせば10分弱ってところかな」
「どの辺り?」
「無患子(むくろじ)」
 佐伯の足がピタッと止まった。
「もしかして僕のために遠回りしてくれてる?」
 確かにそうだが距離的には知れてるんだ、そんなことで恩を売るつもりはない。俺は返事をせず立ち止まった佐伯に目で歩くよう促した。
「そう鋭いと森丘は浮気できないだろうな」
 そんなことをするわけが無いとでも言いたげに余裕の笑みを浮かべた佐伯は、悪戯っぽい視線を向けてきた。
「橘は器用にこなしてるよね」
「いいや、こう見えても結構苦労が多くて」
 例の彼女とは揉めに揉めた後、最近ようやく納まりが付いたんだ。
 ため息交じりに深刻げに言って見せると、
「本命、公表すればいいのに」
 くすくすと笑う佐伯を思わず凝視してしまった。
 遊び相手にはこと欠かない俺に、本命がいることを知っているのは臣だけなのだ。
 まじまじと見つめると、佐伯は少し困惑気味に首を傾げながら口を開いた。
「桜の君ってそうなんだろう?」
 思い出した、文化祭の時か
 随分と記憶力がいいじゃないか。
 俺はもうしばらく佐伯の様子をうかがってみる。
 佐伯相手では誤魔化すより口止めする方が堅そうだ、森丘のからかいのネタになるのは諦めるしかないな。
「学園の生徒じゃないからなぁ」
「そうなんだ…? でもちょっと野次馬根性出るな。橘の本命だったらトリプルAクラスの美人なんだろう?」
 俺が首を横へと振ると佐伯は少し考えた後言葉を続ける。
「じゃあ桜みたいな清楚な感じ?」
 勘違いに少し笑った。
「桜の君は形容詞じゃない。桜の木の下で見つけたから…実はその子の名前が判らないんだ」
 最初は大きなゴミかと思ったくらいだ、見つけたと言う表現でもおかしくはない。
 すると佐伯は言葉に相当驚いた様子で、
「もしかして橘の片思いなんてこと…」
「当たり」
 瞳を大きく開けて絶句してしまった。
 住宅街切れ目の県道まで無言のまま歩き続けた俺達は、再び信号で立ち止まることになる。学園の生徒に魔の信号と命名されるだけ有って一度つかまると長いんだ、この信号。
「…何処で会ったの?」
 道路の脇でポツリと呟いた佐伯を振り返ると、好奇心という表情じゃない。
 協力してくれるつもりなんだろうか…
「錦木(にしきぎ)の公園」
 佐伯は少し首を捻っている。
「僕あんまりこの近辺から出ないし錦木にも行ったこと無くって。松前が捜して駄目なんだったら力にはなれそうに無いけど、美都だったらちょっとは顔が利くから…。学園の生徒でいうならどんなタイプ?」
「…俺の近くに似たようなのはいないなぁ」
 あんなに綺麗な瞳をした子を他には知らない。
「白河より美人?」
 俺は笑って首を振った。
 悪いが普段連れて歩いている女は俺の好みじゃあない。
「形容するなら美人じゃなくて可愛いだ。子供みたいにもっと純真で無垢な…偶然舞い降りた天使…」
 何もかも浄化してしまいそうなその瞳で、俺だけに微笑みかけてくれないだろうかと…あの夜本気で願ってしまった。
「まさか橘、ロリコンだったなんてこと無いよね」
 真面目に相談に乗ってくれている佐伯に俺のイメージを正直に伝えると、含み笑いでそう返された。
 やはり他人が聞くと脚色し過ぎに聞こえるか…
 冗談口調では有るが若干変な方向に想像が走っているように見えなくもない。
「佐伯の想像で年齢の下限はいくつだ?」
「ん〜…、せめて中学生には」
「なら大丈夫」
 佐伯の笑いに少し安堵感が混じったのは…一部本気で言ってやがったな。
「童顔には見えたがそこはクリアしてると思う。ついでに…」
 軽く俺を見上げた佐伯。
「どんな女の子を想像しているか知らないが、佐伯が勘違いしている根本的な思い込みを訂正しておいてやるよ」
 俺は佐伯にもう少し傍に寄るよう手招きしてみせた。
 もったいぶるってるわけではなく、これはあまり大きな声で言いたくないからだ。不思議そうに、それでも直ぐ脇まで寄った佐伯の耳元に俺は口を近づける。
「実はそいつ、男なんだ」
 それだけ言って俺は屈めた身体を戻した。佐伯は視線だけで俺を追いながら5回ほど瞬きをした後、
「…え?」
 自分が同性愛に走ってるわりには随分な反応じゃないか
「驚いてるならちゃんと聞こえたんだろう、わざわざ聞き返すな」
 からかったわけじゃなく半ば照れ隠し、俺だって同性愛には戸惑ってるんだ。自分が男に欲情するなんて思ってもみなかった。
「ごめん…、でも」
「衝撃の告白だったか?」
 まだ立ち直りきれないまま頷いて見せる佐伯。さっき図書館で思いっきり男を拒否したのだから、確かに信じ難いかもしれないな。
「多分森丘と同じ心境なんだろうと思うよ」
「美都がなんて?」
 森丘の名前を出すと弾かれたように視線を上げた佐伯を横目に、ようやく変った信号に俺は足を踏み出した。
 事のついでだ、惚れた相手に尽くしまくってる健気な佐伯に一言言っておいてやろう。確か2組の大乱闘事件の少し後だったか、森丘に男同士での行為がどういうものかを尋ねたことが有ったのだ。後学のつもりで聞いた話はほとんどがノロケで…あれは絶対誰かに言いふらしたかったに違いない、俺でもぶっ飛ぶような体位をああだこうだと散々言った後だった。
“翠が何をしても抵抗しないのは俺に負い目を感じてるからなんだ”
 同性だということを何より気にしているのは佐伯の方だと、この時ばかりは真顔で言った。森丘をそっちの世界に引っ張り込んだのは自分の責任だと思っているらしい。
「男を好きになったわけじゃなく、ひとりの人間に惚れたんだって。相手が同じ想いなら求めることは必然なんだってさ」
 佐伯が呆然と俺を見る。
 森丘も分ってるんなら自分の口から言ってやれよ…って思うだけ無駄だろうな。あれだけ過激なセックスしておいて、まだ俺に秘儀を伝授しろなどと訊いてきやがったんだ。もしかして苛めて楽しんでるとか…。
「なぁ佐伯。たまには抵抗しておかないと、その内亀甲模様付けられっ…!!」
 足の指先を踵で思いっきり踏みつけられて、
「おま…っ、今めっっちゃ痛かったぞっ!」
 自転車が無ければ片足で飛び上がってた。
 手加減というものを知らないのかと少し屈み込んだ体勢で佐伯を睨むと、顔を真っ赤にした佐伯に睨み返される。
 そうでした、俺が一言多かった。



 口は災いのもと



 さっきも言ったが人の恋路に関わるだけで大きな反動を受けてしまう俺なのだ。余分な一言のせいかは知らないが、この翌日起こった事件はまさしく俺のジンクスを象徴していた。











< scene.2 >

“今は暖かくても午後からはぐっと冷え込んできます、帰りが遅くなる方は1枚余分に着込んでお出かけ下さい”

 そんな言葉を耳の端で聞きながら俺はいつも通りの装備で家を出る。
 確かに今はそれほど寒くはないし、今日はそれほど帰りも遅くはならないはずだった。







「郁、お前また何やらかしたんだ」
 自転車置き場に着くなり笑顔で呼びかけてきたのは幼稚園からの腐れ縁・松前和臣
 その表情で俺は即座に顔を曇らせてしまう。
 昨日の件で何か起こっていることは明白だろう。
 心当たりが有る俺は黙って話を先へと促した。
「佐伯と噂が立ってるぞ」
 …なんだ、その程度なら
「わざわざ朝から待ってるほどのことじゃないだろう?」
 思ったより事が軽く済みそうで自然と俺の表情は緩む。
 今までも時々有ったことだ。
 多分あの3年生が適当に喋ったんだろうが、それくらいの噂なら七十五日待たなくても三日も有れば直ぐに消えてしまう。
 ところが…
 自転車の鍵を掛け終え顔を上げた俺の前に、臣は人差し指を立て左右に振ってみせた。
「甘いな。時期を良く考えてみろよ、佐伯もお前も同性にモテモテなんだぞ。公道でキスしてたなんて、それこそ男OKだと公表してるような…」
「ちょっと待て」
 確かに俺の考えは甘かったようだ。
「誰が何処で何だって?」
 俺の反応に臣はニヤっと笑みを向けると、
「ねぇねぇさっき聞いたんだけどさぁ、橘君と2組の佐伯君がね、そうそうあの洋風美人の佐伯君。あの魔の信号の側でべったりくっついてキスしてたんだってさー。それもディープキスよディープキス。えーっ、きゃー、うっそぉ、ほんとー」
「…もういい」
 振りまで付けるな。
「いつ聞いた?」
「昨日の夕方」
 含み笑いの臣に俺は軽い舌打ち。
 佐伯に耳打ちした時だ。
 迂闊だったとは思うが偶然見てたにしては随分話が大きくなりすぎてる。一度学校を出た俺達のことが、その日の内に学校に逆戻りしているのにも何かの意図を感じないではいられない。こういう場合大体謀られているのは俺の方。
 笑顔の臣に校舎へと向かいながら、ことの一部始終を説明した。
「それは…ちょっと厄介なことになるかもしれないぞ。噂の出所は今調べてるんだが、やけに広まる勢いが早すぎるのが気になってるんだ」
 複数が絡んでるってことか…
「昨日の3年生は佐伯に訊けば直ぐに分るとしてだ、時期的に考えて誰か思い当たる節はないのか?」
 そう言いながら臣は俺の答えを期待してない。あまりに的が広すぎることはお互い良く分っていることなのだ。
「この噂で誰にどんな弊害が出る?」
 それが分れば自ずと目的も見えてくるはず。目的が判れば犯人も幾らかは絞られる。
「まず佐伯が危ない。噂を勝手に解釈して佐伯に手を出すやつは増えそうだが、それはもう手を打った」
「森丘?」
 頷く臣。さすがに素早い行動力。
「昨日、放課後の内に森丘も噂のこと知ってたんだぜ」
「睨み殺されそうだ」
「わはは、大丈夫大丈夫。顔は引きつってたが本気にはしてないさ。でだな、色々と考えたんだがさり気なく森丘との噂を流すことにした。暴力沙汰には縁が薄そうな郁相手より、森丘の方が手を出し難いだろう。 どうせ本当のことでもあるし、森丘は二つ返事で了解してくれてる。あと他の何人かに警戒させたから佐伯の方は万全だ」
 これで不安の大部分は解消された。
「安心してる場合じゃないぞ」
 いつになく深刻げな言葉に臣を見ると、その笑顔はいつもより若干冷めていた。
「恨まれてるのはお前だという可能性の方が高いんだ。まだ駒が不十分で、この噂でお前に何をしようとしているかが読めてないんだから、ちゃんと警戒しておけよ」
「自分のことは自分で責任持つさ、多少の人数なら経験で何とかできる」
 俺が少々怪我をする程度で済むなら、佐伯が襲われるよりもよっぽどマシだろう。
「とにかく今日は大人しくしておくんだな」
 何を言うか
「騒がしいのは周りだけだ」











< scene.3 >

「昨日は心底驚いたぜ」
 少し目を細めてはいるが、笑い顔で俺の机の上に腰掛けたのは森丘美都。今更いうまでもなく佐伯の彼氏だ。
 今日最初の休み時間、早速教室まで訪ねて来たのだ。
「悪かったよ」
 昨日の件はどうしても俺に非が有る。
 森丘はそんなことを責める気はなさそうだが今日は真面目に謝っておいた。にも係わらず
「おっ、いつになく愁傷じゃないか」
 ………
 佐伯が危険に晒されてるわりにはやけに森丘の機嫌がいい。理由を突き止めてやろうとニヤニヤしている森丘を鋭く観察してみる…。と、項の下の方、シャツの襟でぎりぎり隠れるかどうかの際どい所に黒紫の跡を発見。昨日の放課後は確かそんなものは無かったはずだ。
「からかいに来ただけなら帰れよ」
 大体の見当を付けながらも、のんびりと本題に入るよう軽く催促。
「松前は?」
「意気揚々と原因究明に乗り出してる、急用なら聴いておいてやるぜ」
 森丘は頷いてみせ、
「急用って程じゃないが、翠の了解取ったってそれだけ伝えておいてくれるか?」
 今朝、臣が言ってた森丘との噂のことなんだろう。
 また何か余計なことを喋り出しそうで俺は笑って頷くとそこで話を切ろうとしたのだが、
「どうやって了解取ったか聴きたくないか?」
 どうしても喋りたいらしい。
 俺は呆れて首を振る。
「あんまり無理させるんじゃないぞ」
 言葉に一瞬シラッとしてみせた森丘だが、直ぐにその冴えた瞳を輝かせた。
「橘の話しも全部聞いたぜ」
 一晩中起きてたのならそういう話もしたんだろう。そのことは別に構わないが、それが本でトラブルが起こったんだ。自然と俺の表情も落ちてしまう。
「そう落ち込むなって。翠に泣きながら頼まれたんじゃ、協力しないわけにもいかないしな。全面的にバックアップしてやるよ」
 見当違いした上にどさくさ紛れにまた惚気やがって。
「泣かせたのはお前だろうが!」
 言ってはやりたかったが残念ながら森丘の陽の気に勝てそうにない。 これ以上余計な会話を続けたら、もっと落ち込んでしまいそうだ。
「…期待してるよ」
 大きな溜め息と共に片手を小さく上げて会話を切った。











< scene.4 >

 2時間目終了後
 どこかの誰かさんのお陰で、教室でじっとしていても問題は向こうからやって来る。
「橘っ! お客さん」
 臣が弾む足取りで教室を出て行くのと入れ替わるように、戸口の傍からクラスメートの声。顔を向けるとそこに立っているのは2年の望月可憐だ。その名の通り外見だけは純粋可憐な彼女は俺のファンクラブ2年の支部長だったりする。わざわざ1年生の教室まで訪ねて来た理由は例の件に違いない。
「こんにちは」
 廊下に出た俺は、それでも余裕の笑みでさり気なく挨拶。望月可憐は戸惑うような表情を浮かべながらも、
「男の子と付合ってるって噂、聞いたんだけど本当なの?」
 挨拶も前置きも無く要点だけを突いてきた。回りくどいよりはいいが表情と口調が何ともアンバランスだ。訊いてはおきながら既に心の中では答えを出している。
 俺は静かに笑みを消し、目を細めた。
「それは俺のことを信用してないと解釈していいんですね?」
 俺の表情の変化で顔色を変えた彼女は言葉を言い終わる頃にはすっかり硬直してしまっていた。
「支部長自らがそう思っているのなら、ファンクラブの存在自体が疑わしい。好き嫌い関係無くただの暇潰しで活動してるんだったら俺は認める気はないですからね、直ぐにでも解散していただいて結構ですよ。何でしたら俺から部長に話しに行きましょうか?」
「ちっ、違うの!」
 叫んだ彼女は本気で泣き出しそうになっている。
「私が橘君のこと信じてないわけじゃないの。でも…でも、部長が今度のは本当みたいだって…」
 勘違いな奴はここにも一人
 本気で俺のことが好きだろうがただの暇潰しであろうが、ファンクラブの存在理由なんて俺にとってはどうでもいい話だ。実際俺の関係の無いところでそれなりに楽しんでるようだったから、それはそれでほっておいても問題は無いと思っていた。
 ところがそのファンクラブが高校生には払えないような会費を徴収している。
 先週の金曜日、同級生が顔に痣をつくって俺に泣き付いてきてから初めて知った事実だ。
 一度入ると抜けられず、会費の恩恵を受けるのは限られた人間だけ。
 初めは純粋に開設されたはずのファンクラブはいつの間にか妙な組織に変貌していた。
「だったら徳田さんに、噂は事実無根だったと言えば済む話ですね。もし部長自身が信用しないようなら、さっきの言葉正確に伝えてください」
 会いたくはないがこれで確実に徳田由真が訪ねて来るはずだ。事実関係の裏も取ったし、丁度いい機会でもある。今のうちに彼女には釘を刺しておくか。
 視線を戻した先でまだ脅えきってる望月可憐に笑いかけると、絵に描いたようにその表情を緩めた。
 逆に俺の機嫌は下降の一途を辿ることになってしまうのだが。











< scene.5 >

「大御所お出まし」
 次の休み時間に入って直ぐ、臣が俺の隣の机に腰かけながら小さく呟いた。教室の空気も少し動いたが素知らぬふりで臣と談笑の図を装う。
「橘君、ちょっといいかしら」
 さすがに3年生ともなると堂に入ったものだ、呼びかけたのは俺の席の真ん前。
「どうぞ」
 フェロモン大放出の徳田由真はほんの僅かに眉を上げたが、さすがにうろたえるのはプライドが許さないらしい。
 直ぐににっこりと笑顔を浮かべ、
「望月さんが言っていたことは本当なの?」
「どのことでしょうか?」
 休み時間とは思えないくらい静かな教室。
 クラス全員の耳がダンボなわけだ。
 朝から聞こえよがしに噂を囁かれてる俺にとっては、まとめて否定しておくにはいい演出だろう。
「ここだとあなたか困るんじゃない?」
 わざわざ教室に来るように仕向けたんだ、ここで言ってもらわなければ意味が無い。
「ここで構いませんよ」
 笑顔で返した。彼女は冷めた笑顔で頷いて口を開く。
「1年2組の佐伯翠君って男の子と、公然とキスするお付き合いなんですってね」
 こっちが仕掛けたとはいえ何とも嫌味な言い回しだ。
「徳田さんはそう思ってるようですね」
「否定しないのは事実だってことかしら」
 俺は少し大袈裟気味に首を横へと振って見せ、
「とんでもない、勝手な解釈は困りますよ。返事は望月さんに言伝ましたがお聞きになってませんか?」
「橘君本人からちゃんと説明して貰いたかったの、これでも一応ファンクラブ部長ですからね。皆に事実を説明する必要が私には有るのよ。だって橘君が男の子を好きになった事実があったとしても好きな気持ちは変わらないんだから、こんなことで規律が乱れるのは困るの」
 あんたが困るのは別の理由だろう、解散の一言で飛んで来たくせに。
「じゃあ仕事熱心な部長様に…」
 俺は良く聞けよと言わんばかりに一つ咳払いをしてみせて、
「佐伯との噂は全面否定させていただきます」
 俄かに教室内がざわめいた。
「佐伯翠君が近頃色っぽくなったのが、橘君のせいだって噂は?」
「意外に耳が遅いですね、その噂の相手は別なんですよ」
 徳田由真は顔色を変える。隣の1年2組だけで出てた噂だが、なんでも知っていないと気がすまないタイプだ。
「誰なの?」
 俺は笑顔で首を捻った。
 その内耳に入るさ
「ところで…」
 そして臣の出番
「徳田女史ほどの人が根も葉もない噂をそこまで信じたからには、よっぽど何か理由が有ったとしか考えられなんですが…」
 プライドを傷付けられた徳田由真を持ち上げようとした臣の言葉は、ものの見事に壷に嵌まったようで、彼女は臣に満面の微笑みを返した。徳田女史という呼び名を彼女は特に気に入っている。
「誰からその噂聞きました?」
「3年5組の田中君よ、彼ってゲイで有名なの」
 愛想良く即答した彼女に笑いをどうにか堪えた。
 こうなると彼女は一体誰のファンクラブ部長だか分らないな
 するとどうやらそれだけで把握したらしい臣は、更に何か続けようとした彼女を右手で制する。
「そろそろ休み時間が終わりますから…」
 名残惜しそうにした彼女に臣が笑いかけたことを確認し俺は席を立つ。ホテルのベルボーイのように行く先に手を差し出すと、すっかり上機嫌な彼女は女王様気取りで先を歩き出した。
 戸口まで静かに着いていた俺をクルリと振り返った彼女の笑顔が、
「最近随分羽振りがいいようですね」
 言葉に瞬間冷凍。
「人の名前に便乗してこれ以上調子に乗るようなら容赦しませんよ」
 思いとは裏腹に、満面の笑みを向けると俺はそのまま踵を返した。



 弁解も謝罪も聞くつもりはない、答えは行動で示してくれればいい











< scene.6 >

 昼休みともなると噂の波紋がそれなりに出始めていた。
 不穏な動きがあるのは俺にしつこくモーションをかけてきている運動部の一派。それに加えて意外な反応を見せたのが佐伯のシンパだった。
「佐伯が弄ばれてるんじゃないかと本気な奴等が疑心暗鬼に陥ってる。佐伯を使った狙いはこれだったかもな」
「…可能性はあるが、それだけじゃあ恨むまではいかないだろう」
 俺の言葉に臣は首を振る。
「どこかで煽ってる奴がいるようなんだ。昨日のことで佐伯と郁との仲を疑った田中に、それが真実だと思い込ませた奴がいる」
 昨日の放課後、佐伯に声を掛けていたのは3年5組の田中だった。
 臣は玄米茶を一口、
「その上わざわざ徳田由真に噂を流すよう仕向けてるんだ。ファンクラブの部長が信じたとなると噂は真実味を増すからな」
「だったらさっき呼んだのはまずかったか…」
 俺の呟きに臣はそんなことはないと笑う。
「女史だ何だともて囃されて善悪の区別がつかなくなってるから、対処は早いに越したことは無い」
 それより…、と臣は弁当箱を片付けながら軽く息をつく。
「食べ終わったら増長の所に行ってこいよ」
 有り難くない提案に俺は眉をひそめて箸を止めた。
 増長には入学当初から何故か目の敵にされているのだ、今は特に会いたくない。
「気持ちは分るがほっておくと全館放送で呼び出しかかるぞ。こんな時に学年主任に呼び出されてみろ、せっかく流してる森丘と佐伯との噂が水の泡だ」
 それなら仕方が無いか、痛くも無い腹を探られたくはないが自分で出向くしかないな。
 俺は最後の一口を食べ終えると、早々に弁当箱を仕舞い込み席を立った。











< scene.7 and 8 >

「ん――…」
 6時間目開始ギリギリに出先から帰ってきた臣は、俺の席の傍に唸りながらしゃがみ込んだ。
一之宮どうだった?」
「特には何も。郁の言葉を全面的に信用してたようだから多分一緒にいたのは別の理由だと思う。一之宮は同性愛には妙に敏感だから、その線で何か罠を仕掛けたかと思ったんだが…」
 昼休みわざわざ増長に会いに職員室まで出向くと、どういうわけか生活指導の一之宮まで話を聴きたいと言い出したのだ。ヒステリーのように捲くし立てる増長のストッパーには丁度良かったにしろ生活指導まで出てくるような大袈裟な話じゃないはずだ。
 ただの噂だけで学年主任と生活指導が一々生徒呼び出してたんじゃあ、一日中会議室にこもりっきりで話を聴き続ける羽目になってしまう。
「どうも的が絞り切れないな…」
 未だに俺も臣も敵の目的が掴めずにいた。
「それ程慌てるほどのことじゃなかったんじゃないか?」
 意外だった佐伯シンパは思うほど大きな動きは見せていない。
 一番危険な放課後を俺が素早く帰ることで乗り切ってしまえば今日はそれで済む話だ。時間が経てば条件はこっちの方が良くなっていくのだから、これを何日か繰り返せばことが済むようにも思えてくる。
「そうだといいんだが…どうも何か気になって仕方が無い」
「さては疑心暗鬼が移ったな?」
 いつまでも臣が気に掛けてることの方が俺には気になるが、もうこれ以上は時間も無く答えも出そうにない。
「終礼済んだら速攻で俺は帰るから、一応佐伯の方だけは頼んだぞ」
 臣は苦笑いで頷いた。


 SHR終了後、早々に荷物を片づけ教室を後にしようとした俺を引き止める声。不機嫌丸出しで俺は振り返り、
「急いでるんですけど」
 苛々しながら大神に言う。
 問題を起こしたくないなら早く帰らせてくれ、事情は昼休みに話してあるんだ。
「直ぐ済ますからそう怒るなよ、担任の俺が何も知らないわけにもいかないだろう?」
 まぁまぁと手で宥める素振りの大神に俺はずかずかと歩み寄り、徐に両肩に手を置いて、
「だいちゃんの相手するほど暇じゃないんです」
 耳元で囁いた言葉で慌てて身体を引いた大神に、
「おっ、だいちゃん貞操の危機」
「生徒と教師の禁断のラブロマンス発覚か!?」
「雑誌に投稿していいですかぁ」
 言葉と一緒に周りの何人かが囃し立てた。
「これが噂の真相ですよ、それ以上もそれ以下も有りませんから。分らないなら事情は一之宮先生か増長先生に訊いて下さい。じゃあだいちゃん、ごきげんよう」
 いい年して何、紅くなってんだよ。とは思ったが、からかってる暇はない、戸口で待ってる薄笑いの臣と揃って教室を後にした。











< scene.9 >

 生徒会室へと向かう臣とは下駄箱で別れ靴を履き替えた俺は図書館と第3校舎の間を抜け、グラウンド横も足早に通りすぎる。公道を横切り自転車置き場に向かうため、二つ目の門に差し掛かる手前で再び俺は呼び止められた。
「そんなに急いで何処に行くんだ?」
 声の主を探していると、
「噂の君とのデートかな?」
 降ってくる声に見上げた先には柔道部の副部長。後もう少しだというのに嫌な奴に会ってしまった。
「何か用ですか?」
 大神より遥かに質の悪い相手だ。
「そんなに嫌そうな顔しないでくれよ、佐伯が相手なら俺達も諦めるしかないからな。本当に橘は何でも手に入って羨ましいぜ」
 やけに下手に出てるじゃないか。
「有り難いお言葉ですが、佐伯とは何でも無いですよ」
 諦めてくれるなら佐伯との噂は訂正したくはなかったが、奴の居る場所が悪すぎる。
 公道を挟む二つの学園の敷地を結ぶ歩道橋の上に居るのだ。
 中世ヨーロッパ人は夜毎これくらいの距離で愛の言葉を捧げたのだろうが、相手も気に食わなければ見世物になるつもりも無い。大声張り上げてこれ以上の会話もまっぴら御免だった。
「じゃあさっき佐伯見かけたのは人違いだったかなぁ」
 挨拶もせずに歩き出した俺はその言葉で足を止めた。もう一度見上げると笑うでもなく真面目な顔で相手も俺を見ている。
「…どこで見たんですか?」
 訊いた俺の右側を指差して見せた。その先には体育館と自転車置き場、その向こうにプールが有る。
 帰る前に一度2組に寄っておくべきだった。
 今度は左側へと向き直り、校舎を睨んで見ても佐伯が居るかどうかは分るはずが無い。辺りを見回してから俺は自転車置き場に向かって歩き出した。多分見間違いだとは思うが確認しておいた方がいいだろう。
 校舎に探しに行くよりも、その方が早い。
 まず体育館は素通りした。放課後は結構人がいる場所だ、本当に佐伯が居たとしても体育館なら問題はない。自転車置き場も覗くまでもなく下校の生徒で人がひっきりなしに出入りしていた。俺はそこから第2グラウンドを挟んで建つ木造校舎に向かって歩き出したが、その足も途中で止めた。あの勘のいい佐伯が、のこのこと人気の無い木造校舎に入るとは考え難い。臣も最後まで心配していたことだ、危うきには近寄らずということで…180度方向変換してふと向けた視線の先に水泳部の部室が目に入った。冬季は部員も立ち寄らないはずの扉が開いている。
 外からでも佐伯が居るかどうかくらいは分るだろう
 俺は少し進路を変更してそこに向かった。











< scene.10 >

「珍しいお客さんだな」
 開け放たれた鉄の扉から中を覗き込んでた俺に向かって、奥の方から投げかけられた声には懐かしい響きが有った。
「…飯島か?」
「声だけで分ってもらえるなんて、なんか感激だよ」
 ロッカーの蔭から姿を現したのは飯島芳嗣
 中学時代は結構仲のいい友人だったんだが…
「恨まれてると思ってたから」
 何の含みも無いような言葉に俺が軽く微笑むと飯島は胸をなで下ろして見せる。
 直ぐには言葉が出なかった。
 これをどう解釈するべきだろう…
 恨んでいたのは俺じゃなく飯島の方なのだから。
 高校入学後程無く付いた俺の異名の名付け親はこの飯島。中学卒業と同時に童貞も卒業しようと彼女に迫った飯島に、
“バージン捧げるのは郁様って決めてるの”
 言った女も女だが逆恨みする方もする方だ。悪意を持ってその話を言いふらされたものだからバージンキラーなんて呼び名が定着するのに時間はかからなかった。何人かの女子の間で郁様と呼ばれているのもその噂のせいだ。
 もちろん彼女にモーションかけた記憶なんて無いが、頑なに俺を無視し続けていた飯島とはその後一度も話をしていない。
「やっとふっ切れたのか?」
 言葉に苦笑いの飯島。
 俺のことは恨んでも惚れた女を恨みきれない飯島は、それでも暫くその女を追いかけていた。
「なんかさぁ、お前に裏切られたような気がしてずっと頭にきてたけど、あいつと別れて良く考えるとさ…橘は何も悪くなかったんだよなぁ」
 それに気がついたのなら、この半年も無駄じゃなかったってことだ。
 言ってやりたいことは山程有ったが、今更責めたって仕方が無い。
「直ぐに新しい彼女ができるさ」
 笑った俺に飯島も昔の笑顔で応えた。
「ところで何をしてるんだ、冬場はどこかの屋内プール借りてるんだろ?」
「ワンシーズン丸々ほっておくとすごいことになるんだ、時々掃除に来るのは1年生の仕事。それより橘こそこんな所まで何しに来たんだ?」
「…ちょっと野暮用」
 まだ戸口で立ったまま室内を見回した俺に飯島はふぅんと頷いて歩み寄って来た。
「入れよ。今日は他には誰も来ないし、そこ寒いだろう?」
 引き入れるように俺の腕を掴んで替わりに飯島が外に出る。
「コーヒーくらいはおごってやるよ」
 返事も待たず目の前で閉じられた鉄の扉に、俺はとっさに指を当てて考え込んでしまった。
 むやみやたらと疑いたくはないが…
 プールは体育館の蔭で校舎からは見えない場所だ。おまけに南側に窓の無い体育館からも見えない。部室の中に居ることは状況的には木造校舎に入るのとあまり変わらないのだ。
 俺は当てていた指で扉を押し返して入り口を全開にすると、一通り中と外とを歩いて周辺の配置を把握しておいた。
 夏場は深く考えなかったが、じっくり見てみると新たなる発見。昔ここで近所の子供が溺死したという話は本当のようだ。プールを囲むフェンスは必要以上に高くしてあるし、所々のほつれも厳重に補強してある。 もちろん外部から人が入らないための防護策なんだろうが、侵入し難いということは中からも出難いと言うことになる。飯島は関係ないとしても何かの拍子で閉じ込められてしまっては、かなり分が悪いだろう。さっきうろついてた柔道部副部長が一派を引き連れて来たら飯島が加勢してくれても手を焼きそうだな。
 ……
 さっきあいつに会ったのは偶然だろうか?
 腕時計を見ると飯島が出てから結構時間が経っている。飯島の言葉は全面的に信じてやりたいが…
 と、突然部屋の奥から音が響いた。
 戸口の枠に軽く凭れたまま俺は視線だけを向ける。部屋の一番奥の隅、ロッカーで仕切られた向こうから聞こえるのは水が落ちる音。
 洗しが有ったことは憶えているが、さっきは誰もいなかったはずだ。
 俺は一度外を振り返り、誰も居ないことを確認して数歩中に入った。
「…誰かいるのか?」
 居るはずは無いが声を投げかける。
 奥からは勢い良く水が流れる音しかしない。
 もう一度俺は外を見た後、小さく息をついて部屋の奥へと足を進めた。 音の原因はやはり洗しの蛇口から流れる落ちる水。側に寄って蛇口を捻ってみたが、
 ん?
 抵抗を感じない。つまり水も止まらない。
 急にパッキンでも壊れたせいだろうかと洗面台の下の扉を開けバルブを回すが、こっちは堅くて動かない。右にも左にもまったく回らない。
 錆で固まってるというよりは、まるで何かで接着されてるような…
 ――マズイ
 思うと同時に俺は鞄を手にロッカーの向こうに走り出た。
 そこでばっちり視線が合ったのは重役気取りでパイプ椅子に座っている飯島だ。
「それってさぁ、外のバルブじゃないと止まらないんだ」
 鈍く光る飯島の瞳。
「どうした、座らないのか?」
 机の上に置かれた紙コップに俺は視線だけやって、
「遠慮しとくよ、一服盛られちゃかなわない」
 飯島の嘲笑。
 既に手後れかもしれない。
 俺はぐっと拳を握り締め、それでも全開の扉に向かう。走る気分にはなれなかった。
 無言で扉を出る寸前、突然延び出た障害物。
 掴まれかけた腕をかろうじて除け崩れたバランスを即座に立て直す。
「見惚れるほどの良い運動神経だぜ」
 立ちはだかる蔭に、どうもと笑って俺は大きく3歩後ろに下がった。
 柔道部の副部長だ。
 戸口が蔭で埋め尽くされるのはこいつの巨漢のせいじゃない。
「これはこれはお揃いで…」
 戸口の傍は直ぐに人で埋められ鉄の扉が重く閉まる。
 カシャンと鍵の掛かる音。
 …ざっと見て10人程、か。思っていたより集まってる。
「運動部合同で大掃除でも始めるんですか?」
「いいねぇその生意気な態度、是非とも屈服させてみたいね」
 このサド野郎は確かボクシング部だったか。
「皆さん諦めが悪いんですね」
「噂は嘘なんだろう?」
 柔道部副部長が口の端を上げた。
「やっぱり本当だと言ったら諦めてもらえます?」
 何人かが笑う。
「じゃあ怪我人が出る前に、話し合いで済ませるというのはどうでしょう」
「この人数相手に勝てるつもりでいるのか?」
 確かにちょっと苦しいな
 とは顔には出さず余裕で頷いて見せると、
「そう言う態度が恨まれるんだぜ」
 後ろからの声。
 横目で見るとパイプ椅子に座ったままの飯島が、すっかり優越感に浸っている。
「そういう性格だから捨てられたんだぜ」
 ゴツッ!
 机蹴りやがったな。そうやって怒りの矛先を間違えるから、お前は何も成長しないんだ。俺に恨みが有るなら最初っから直接俺に喧嘩を売れば良かったんだ。
 手の混んだことしやがって。
「佐伯との噂広めたのお前だろう」
 飯島は小さく嗤う。
 協力者は詰め寄る運動部連中だが佐伯シンパの姿が見えない。じりじりと後ずさり部屋の真ん中を過ぎたところで、窓の外の人影に初めて気がついた。
「佐伯取られた腹いせに、お前とヤりたいらしいぜ」
 臣の予想も時には外れる。
 中を覗き込んでいるのは疑心暗鬼の崇拝者じゃなく佐伯に向くと思っていた過激派の方だ。言うまでもなく話し合いの余地はない。
 相手にするしか手段はないか…
「…分った」
 溜め息混じりに降参と両手を挙げた俺は抵抗する意志は無い、と持っていた鞄を床に放り投げた。
「珍しく聞き分けがいいじゃないか」
 飯島が満足そうにニヤリと笑う。
「自慢の顔は傷物にしたくないんだ」
 そんな飯島に諦めたように苦笑いを向け、
「…どうせやるなら俺も楽しみたいんだが、生憎と3P以上は経験が無くってね。全員相手にしてやるから一人づつにしてくれないか?」
 俺の提案に面白そうに眉を上げた飯島に内心溜め息が漏れた。
 こんな単純馬鹿の罠にかかった自分が情けない…
「それくらいの要望は受け入れてもらえるんだろう?」
 飯島が軽く口に笑みを含ませ、同意を求めるよう視線を運動部連中に向けた。
「その分サービスするぜ」
 目を輝かせたのは運動部連中。頷いた飯島に俺は有り難うと笑顔を向ける。
 さて、と…
 運動部連中に視線を移し、俺は口の端に軽く笑みを浮かべた。顎を少し上げながら目を細めブレザーの肩を抜いた時点で鈍感そうな運動部連中でも俺の意図をそれなりに感じ取ったようだ。肘に掛かるブレザーを床に落とすと、それぞれに卑猥な笑いを浮かべ始めた。
 次にあっさりと脱いだセーターはさっき投げた鞄の辺りにふわりと飛ばし、ネクタイに手を掛けたところで飛び掛かろうとした契約破りの連中を一瞥で制する。
「脱がされるのは好きじゃない」
 言ってネクタイを一気に引き抜いた。
 シャツのボタンを外し終えウエストから引き抜きついでに、肌着代わりで着ていたタンクトップを鳩尾までたくしあげると面白いように反応が返ってくる。
 シャツを肘まで脱いだ状態でちらっと流し目を送った先に、たまたま柔道部副部長。
 俺の好みの顔じゃないが、がっしりとした顎のラインが気に入った。
「じゃあ…そろそろ始めましょうか」
 視線を送りながら奴に手招きすると、でへへという表現そのままに近付いて来た。焦らすようにさりげなく一定の距離を保ちながら艶っぽい笑みをのせベルトに手を掛けるとバックルを外す。
 結構気に入ってたベルトだが背に腹は代えられない。
「来いよ」
 ベルトを引き抜くと同時に飛び掛かるかのよう抱き着いてきた奴へと思いっきり腕を振り上げた。
 先端のバックルが快音をたて顎を見事に直撃。
 久し振りだが勘は鈍ってはいない。

 ほんの一瞬、間を置いてストリップ劇場は格闘場と化した。












< scene.11 >

 伊達に場数を踏んできたわけじゃない。
 相手の技量は残念なことに見込んだ通りだった。
 つまり二人でも過剰気味の人数を一人で相手にしているのだから、かなりな悪戦苦闘を強いられている。
 それが分っていたから武器を使ってはみたものの、何せ相手は格闘技系ばかりなのだ。とことん打たれ慣れていて、倒れた順にゾンビのように起き上がってくるとあっては殴っても殴ってもきりがない。
 それでもどうにか部室から出た頃には太陽は大きく西に傾いていた。
 かなりな運動量のお陰で寒さは感じなかったが、振り切ったわけでもない。
 運動部連中が死守するグラウンド側の扉を諦め、どうにか落とせたのはガードが若干手薄だったプールサイドへと続く扉。
 できればこっちに出たくはなかったが…。
 外で待ち受ける佐伯の過激派は振り切る自信は有る、が問題はそこからになる。
 子供を守るための高すぎる柵は俺にとっては大きな障害。
 足で連中を引き離そうにもプールサイドの距離が短かすぎて、柵を上り切る前に引き摺り下ろされる危険性はかなり高い。
 もう一つの逃げ道としてはテント用のポールから薄い塀を経て部室の屋根から公道へと飛び降りるという方法。
 部室の屋根まで上り切れば少しは時間が稼げそうだが、外壁に取り付けられてある忍び返しが問題の種だ。屋根から塀までの幅が飛び越えられるかどうかギリギリな距離で、もし失敗した時は…
 想像したくないな
 究極の選択を選びきれずにとにかくプールサイドの北端まで走った俺は、わらわらと両サイドから集まる人数に柵越えは断念した。残る道は一つだ。
 ポールから屋根に移るまで妨害されないようにギリギリまで引き寄せて…
 一番虚弱そうな人垣を一気に突っ切りプールをほぼ半周した先で、洗顔用の手洗い場を踏み台にポールに軽く駆け上がった。
 その勢いのままポールを渡り切り細い塀に飛び移ろうとしたところで、
 痛っ!!
 右足首に衝撃。まさに絶妙のタイミングだった。
 体勢を立て直す暇も無く塀を踏み外した俺はあえなく落下。
 俺の横に音を立てて落ちた、柄付きのデッキブラシに思わず目を細めてしまった。
 こっちもバックルが壊れるくらい殴りまくった上そこら中、使える物は手当たり次第に武器化したんだ。気持ちは分からなくはないが…
 ………
 さっき着地した時、足首に走った激痛は逃げ切るには致命的だ。肩で大きく息をしながら俺は辺りを見回した。
 散在していた人影が急ぐ必要は無いと見て取りゆっくりと周りを囲み始める。動く壁が厚味を増し後ろは本物の壁だ。天を仰ぐとさっきまで心地よかった北風が異常に冷たく感じられた。
 冷めた汗が急激に体温を下る。
 この人数相手にマワされてはいくら俺でも再起不能だろう。
 上体を壁に凭せかけ大きく息をつく。
 もう逃げ場は無いのだろうか…



 …シメンソカ




 虚ろな感覚のまま諦めかけてふと頭にひらめいた言葉を漢字に置き換える。
 洩らした俺の含み笑いを誰か読み取れただろうか。
 辺りはうっすらと闇に覆われ始めている。
 側のデッキブラシを杖代わりに俺はふらりと立ち上がり、最後の逃げ場になるだろう一辺を見据えた。
 この距離なら足の痛みは気力でもたそう。
「往生際が悪すぎるぜっ!」
 虚勢を張りながら足を踏み出した俺へと叫んだのは飯島だ。
 いつまでも根に持ちやがって
「その言葉そっくりそのまま返してやるよっ!」
 叫ぶなりデッキブラシを振り上げると飯島近辺の輪が崩れたが、実際に投げたのは俺の正面。
 間髪入れずに開いた人垣の間を抜けて、俺は思いっきり飛び込み台を蹴った。



 死ねばお前等一生付きまとってやるからなっ!











< scene.12 >

 ゴボボッ…ゴボッ……、ゴボボボボッ

 生臭い…
 この時期に水に飛び込めばかなり冷たいことくらい分ってはいたが、藻が生えた青臭いような腐ったような匂いはかなり辛いものが有る。口を閉じてたって水圧で鼻から入ってくる水はどうしようもない。
 濁った水に目も開けられないままプールの中央辺りを予測してようやく浮上した俺は、丁度いい辺りに着地したことにほんの少し満足し濡れた髪を掻き上げながら大きく振り返った。
「そんなにヤりたきゃここでヤれよっ!!」
 傍で見てればかなり変態じみた台詞だ。
 呆然とプールサイドを囲んでいた面々の内、それでも何人かが勢いづいて跳び込んで…直ぐに水から這い上がる。
 当然だ、滅茶苦茶冷たいんだ
 髪を掻き上げたまま後頭部に置いた手が小刻みに震えている。
 ここが我慢のしどころだ
 合わない歯の根を必死で食いしばりながら極力平静を装ってみせる。
 プールの中と外での睨み合いが続いたが、最初にその場を去ったのは勢いづいてさっき跳び込んだ奴等だった。
 最初の一人が出れば芋蔓式に続々と人が減る。佐伯の過激派はそれほどの思い入れも無くやったことだ、これ以上無理をしても得るものが無いとやっと悟ったのだろう。
 運動部連中は負傷ながらにしつこく粘っていたが、表情が読み取れないくらい日が落ちてしまうと、ついに諦めて退散し始めた。
 俺は減って行く人影を睨み続け、動き出した最後の一人をじっと視線で追う。
「いいざまだなぁっ!」
 第4コースに立つ見えない顔を見据えた後、俺はゆっくりとプールサイドに向かって歩き出した。浮力のせいか足の痛みは感じない。
「全部お前が悪いんだっ!」
 硬直しきってる身体でプールから上がり、雫を滴らせたまま無理に立ち上がる。
 …足が痛くないのは感覚が麻痺してるんだろう、多分
 ずぶ濡れの身体を引きずって歩き、そのまま側のフェンスに倒れ込むように寄り掛かった。
「何であいつをフったんだっ!」
 まだ第4コースで立ったまま飯島の絶叫。
 俺はきつく身体を抱え込みながらしゃがみ込んでしまった。さっきは辛抱の無い奴等だと思ったが、水の中より外の方が遥かに寒い。
 震えながらも身体に付いたゴミや藻や匂いが妙に気になって、側のシャワーまで這いずった。震える手でバルブを回すとゴゴゴッと音を発て水が噴き出す。
 俺はバルブを全開にした。
 立ち上がることができず刺すように降り注ぐ冷水を一身に受けても頭の中は真っ白にならない。
 いろんな奴の嘲笑が落ちる水の音に混じって頭に響く。
 気が狂ってしまえば楽になるのに…、どうしてこんなに頭だけはしっかりしてるんだ。
 捨ててきた人間ばかりが瞼の奥に浮かび、俺は大きく頭を振った。








 違う!
 聞きたいのはお前達の声じゃない!
 逢いたいのはお前達なんかじゃない!
 こんなものばかり俺に見せるなっ!
 こんな時に限ってどうしてあいつを思い出せないんだ
 出で来いっ…頼むから!
 天使でも悪魔でも構わないから
 嘘でも夢でも幻でも何だっていい、もう一度俺の前に舞い降りろっ!
 どうしてお前にだけ逢えないんだ
 他には何も要らないのに…ただ逢いたいだけなのに…
 ただ、逢いたいだけなんだ…











< scene.13 >

「どうせ郁のことだから全治10日程度で済むくらいに手加減したんだろうが、お前こそマジで死にかけてたんだぜ」
 ベッド横の椅子に軽く腰掛ける臣は久し振りに素顔を見せていた。
 いつものあの笑顔は浮かべていない。
「一人や二人殺したって俺が捻じ曲げてでも正当防衛を立証してやるんだ。あんな状態で相手の怪我の程度なんか考えてやる必要がどこにある、この馬鹿が」
 珍しく過激な暴言を吐くのは、よっぽど心配してくれたんだろうが、手放しで喜べないのは言ってる内容が全て本気だからだ。
 それでもまだ表情が有るだけ随分マシだろう。
 …臣から表情が消えたのは俺が知る限り過去に二度。
 一度目は数人を半年以上の病院送りにしていまい、二度目は相手を俺が死ぬ気で庇って止めた。
 その時真っ向から臣を見据えていて、はっきり分ったことが有る。
 臣は明らかに殺意を抱いていた。
 狂気でも過失でもなく、冷静に分別をつけて…
 多分臣は正気で人が殺せる。
「その優し過ぎる性格何とかしないと、またいつか繰り返すぞ」
 弱く苦笑いを反した俺に溜め息をついた臣。
 あの後俺を発見してくれたのは臣だった。
 体育館の地下にある自転車置き場とプールとは距離的には近く、帰ったはずの俺の自転車を見つけた臣は駆けずり回ることも無く、降り注ぐ水の音を聞きつけたのだ。
 坊主にでもなるつもりだったのかとふざけて臣は言ったが、あの時の驚愕の顔はこの先二度と見られないだろう。
 まぁ金輪際あんな罠にかかるつもりも無いが…
「問題は全て解決したからな」
 言葉に薄く笑顔を向けた。
 臣がそう言うなら二度とあいつ等は手が出せない。
「また俺が力にものをいわせたと思ってるんだろうが、運動部連中に関しては郁の努力の成果だぜ。お前の根性には恐れ入ったそうだ」
 予想外の返答に目で驚いてみせると、
「徳田由真は受験を理由にファンクラブから引退したし、飯島も学校にいたけりゃ大人しくしてるだろう。どうやらこれで安泰な学園生活の復活だな」
 ようやくいつもの笑顔を向けられて、ほっとしながら頷き返したのだが心の中では全く違うことを考えていた。
 ついでに天使も復活しないだろうか、と…
 あの滝のようなシャワーの下、ひたすら祈り続けていた自分を思い出す。
 もし俺の想いが届いたなら



 …夢の中でも逢いに来い











< epilogue >

 その週末
 俺の熱もようやく退き、出なかった声も掠れ気味ではあるが会話はできる程度にまで回復していた。
 まだ痛む足でびっこを引きながらも病み上がりな身体で向かう先は…

“次はぁ〜 にぃしきぎぃ〜 にぃしきぎぃ〜”

 錦木じゃなく、まだその少し先の橡(くぬぎ)だ。
 目的地は滝沢医師の自宅。
 臣に発見された後、凍えきった俺を近くの佐伯のマンションまで自転車で運んでくれたのは森丘だった。
 風呂に入っても震えが止まらず身体を抱え込みながら廊下へと這い出た俺は、用意されていた布団で暫く丸まっていた…いや、布団に転がり込む前に佐伯が泣きながら髪の毛を乾かしてくれたという経緯が有ったのだが、まぁそれはいいか…。
 あまりの具合の悪さで眠ることさえもできずに居ると、有り難いことに医者がわざわざ来てくれたのだ。佐伯の知り合いらしく、解熱剤で熱が退いている間に車で家まで送り届けてもくれた。
 つまりそれが滝沢先生ということだ。
 病床で臥せっている俺の横で申し訳ないだ何だと散々親に騒がれては、体調が万全でなくても早めに御礼に行くしかない。
 無患子駅から普通電車で1駅目が錦木駅。
 先に出る特急電車待ちで、開けっぱなしの電車の扉から俺はホームを眺めていた。ひたすら眠りを貪ったせいでまだ頭はボンヤリしている。
 程なく滑り込んで来た特急電車が止まるまで何となく目で追い続け人の乗降まで見届けた。特急電車発車の音楽を聴きながらさり気なく視線を流して…
 ―――――!
 俺が座席から立ち上がるのと特急電車の扉が閉じたのはほぼ同時。
 それでも俺は足の痛みも忘れて電車から走り出た。
 見つけたんだ…やっと
 もっと近くで…
 そんな俺の想いなど当然知るはずも無く、無情にも電車は動き出してしまう。
 一人で戸口に凭れる視線は真っ直ぐに進行方向を向いていて、その後方に居る俺には向きそうにない。
 それでもさっきまでの憂鬱な気分はすっかり異次元の彼方だ。
 遠ざかる横顔を追いかけながら俺は想いを巡らせた。
 俺の頭の中に残る記憶より少し年齢は上に見えるが、あの瞳の輝きは何も変わっていない。
 その瞳の澄んだ輝は泣きたくなるほどあの日のままだ。
 初めて見る泣き顔以外の表情を頭の中の記憶とは別に深く刻み付け電車が見えなくなっても俺はその方向を見つめ続けていた。

 俺の祈りが通じたのなら、必ずまた会える
 次は絶対笑顔で会える
 だからそのまま
 今のままで…
 どうか何も変わりませんように…
 ………

















作:杜水月
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