――文化祭当日
白いシルクのシャツ・黒い細身のスラックスに棒タイ。このいでたちにウェット系整髪料でそれぞれ軽く髪を撫で付ければ…何となく教室の中はホストクラブのようだ。
教室とはいっても自分達の教室ではなく、ここは第2校舎1階に並ぶ特別教室。喫茶店をやるからにはどうしても調理器具が必要だということで、調理実習室と続きになっている教室で喫茶店"悩める子羊"は営業されるのだ。表向きには禁止されているアルバイトで、接客マニュアルを培っているクラスメートが簡単に応対を指示してくれている。
…何となく緊張
僕には接客の経験なんて無いに等しいから。
圭吾さんに紹介して貰ったバイトは部屋にこもりっきりの書類整理だったし、易者のバイトだって相手にしたのは美都だけだったんだ。
いよいよ開店間際になって僕が緊張を解そうと大きく深呼吸していると白河が横目で微笑み掛けてきた。服装は同じだけど、彼女の今日の髪型は中国人風。意外と洋服でも違和感が無い。
美人にはどんな格好させても似合うんだ、きっと…。
で、僕が緊張している時に肝心の美都は何をしているかというと、朝のHRが終わった途端教室を出て行ったきりだった。なんでも部活絡みの催し物が有るらしく、一応校内を一緒に回る予定にはしているけれど、いつ戻って来ることやら。
…なんて心配は実はその後しばらくどこかに行ってしまうことになる。
誰がどんな宣伝の仕方をしたかは知らないけど、開店直後から常に満席状態。
接待が不慣れな僕でもしばらくするとそれなりに形にはなってくるもので、結構のり気で笑顔を振り撒いたりしていると、
「お名前を」
なんて声を掛けられてしまって…。
苦笑いでかわしたのがさっきの人で何回目だっけ。
どっちみち眼鏡を復活させれば今日の僕だって分らなくなるんだろうけど、美都を説得するのは大変だろうな。そのせいで僕はあれからまだ新しい眼鏡を買いにすら行けてないんだから…、とまぁその問題は後から考えるとして、とにかく今はこの仕事に専念しなくちゃ。
休憩は交代で取る予定になっていたんだけれど、お昼時を迎えて午前中に輪を掛けた忙しさじゃ本当に休憩なんて取れるんだろうか。
「何、あの客」
昼食時も少し過ぎ若干混雑が落ち着き始めた頃、オーダーを通しに奥に戻って来た女子二人が訝しげに1点を見ている。
何だろうと視線をたどってみると白河がオーダーを取りに行っているテーブルのようだ。
「さっきから、亜美捕まえて離さないのよ」
「あれって2年の本庄さんでしょう、タチ悪〜い。何か下っ端のチンピラみたいじゃん」
なるほど
いやらしい笑みを浮かべてペラペラと白河に話し掛けているその口がずっと止まらない。彼女も美都と似たもの同士で思ったことは直ぐ態度に出てしまうのだ。
自慢の微笑がすっかり消えてしまってるってことは…
キレる前に何とかしてやりたい。
彼女には以前助けられていることだし。
「ちょっと行ってくるよ」
急いでオーダーを通すと僕は問題のテーブルへと足を向ける。
「白河、あっちのテーブル。呼んでるよ」
笑顔で素早く耳打ちすると、白河はほっとしたように僕に視線を送ってきた。本庄とやらを見ることもせずテーブルから離れようとした白河を、
「ちょっと待てよ、注文まだ取ってないだろうが」
本庄は腕を掴んで引き止めた。
「オーダーでしたら、僕が伺いますので」
掴んでいる腕から本庄に視線を移し言葉で割って入った僕に、彼は顎を上げて見下すような視線を向ける。
確かにタチの悪いチンピラそのものだ。
崎田のような漠然とした狂気こそ漂わせていないものの、この視線も不愉快極まりない。
「お決まりでないなら、また後程オーダー取りに来させていただきますが」
殴られるのは二度とゴメンだと内心警戒しながらも、どうにか精一杯の笑顔でそれだけ言ってみせた。
少しの間僕を睨んでいた本庄は、何か思い付いたようにその眉と口の端を上げる。
「お前もしかして、佐伯翠?」
瞬時にむっとしてしまった。
初対面の人間にお前呼ばわりされ、おまけにフルネームの呼び捨てだ。いくら上級生でも礼儀というものが有るだろうに。
するとその態度を肯定と取ったようで、本庄は白河から手を放した途端にゲラゲラ笑いだした。
「おい、こいつだよ。崎田狂わせた張本人」
向かいに座っていた彼の同級生は好奇と嘲りの眼差しを僕に向ける。 僕は本庄を見据えてしまった。
どうしてこいつがそんなことを知ってるんだ?
黙ったまま僕が眉を顰めてしまっている間に、
「何をご存知か知りませんけど、勝手な憶測で変なこと言うのやめてもらえませんか?」
開放されてもまだテーブルから離れていなかった白河が不機嫌を露に本庄の言葉に反論した。するとその反応がまた可笑しかったのか本庄は更に嫌味な笑みを浮かべると、
「あいつの寮の部屋に行ってみれば面白い物が見られるぜ、何なら亜美ちゃん一緒に行こうか?」
言って、すかさず白河の手を握る。と勢い良くその手を振り払った白河がついにキレて口を開いたその時…
「後輩いじめはその辺にしておきませんか?」
声に全員が驚いて振り返ると、例のコンビ松前和臣と橘郁が僕達の直ぐ傍に立っていた。
「二人共、俺達の友人なんですけどね」
相変わらず笑顔を貼り付けたままの松前は悠然と言ってのけ、その横で橘が面白そうに様子をうかがっている。相手が後輩であるにもかかわらず、本庄がうろたえたのが明らかに分った。
本当に松前ってそっち方面でも顔利くんだ。
「なっ、何だ。松前の友達だったのか。別にいじめていたわけじゃないさ、なぁ」
それでもどうにか先輩の威厳を保とうとしながら、せわしなく同級生に同意を求めてみせる。本庄の視線は松前と同級生を行ったり来たり。
「ちょっと寄ったら有名人が揃ってたからな、ふざけてただけだって」
ははは
と、空笑いの本庄に松前は表情ひとつ変えずに真っ直ぐ視線を置いたまま、
「そうでしたか?」
普通に返したその言葉は威圧感を抱かせるには充分だったよう。
本庄の笑いが硬直すること約3秒 ―――
そして呪縛が解けた本庄は急にオタオタとしながら結局何も注文せずに出て行ってしまった。
覚えてろよの捨て台詞があればちょっとは笑えたのに…
「ありがとう、助かったわ」
柔らかい声に戸口から視線を戻すと、二人はそのままそのテーブルに腰を下ろしていた。
「美人も何かと大変だ」
何事も無かったかのように白河と…、次いで松前は僕にも視線を向けた。
「傷、治って良かったな」
笑顔を湛えたままの松前の言葉に、
「色々と有り難う」
つられて笑顔でお礼を返した。どうやら生活指導に素早く手を回してくれたのは松前だったらしい。
「どういたしまして。っと、俺ホットコーヒーね」
松前は背もたれに伸びをしながら体重を預けると突然白河にオーダーを頼み、その視線を正面に座る橘へと向ける。
テーブルに頬杖を突いたまま頷いた橘を確認して白河は笑顔でテーブルを後にした。
僕も次いでその場を離れようと一歩踏み出したところで、
「それってコンタクト?」
まるで引き止めるかのようなタイミングだった。
振り向いて目が合った橘の問いに僕が首を横へと振ってみせると、
「勿体無いな、綺麗な顔してるのに」
何の含みも無く、不思議そうに呟いた。
「まぁ眼鏡が有ったほうが森丘にとっては都合がいいってことかな」
美都には反対されてるけど、ここでわざわざ否定することも無いか。と思いながら松前の言葉に橘が同調しているところを見ると…、つまり橘も僕と美都との関係を知ってるわけか。
「だが、これだけ裸眼をアピールしてれば既に手後れってものだろう?」
「小西と人気、二分するかもしれないぞ」
おどけた口調の橘に、はははと笑いながらの松前の言葉。
小西とは共学にも関わらず、やたら男子にもてるという噂の"小西優也"のこと。
それは無いよと言いかけて、
「小西って?」
橘のセリフに僕は言葉を呑み込んだ。
情報通の松前とつるんでいるというのに、そんな有名人を知らないなんて…。
けれど、
「言ったところでどうせ興味無しだろ。説明するだけ言葉と時間の無駄だ、無駄」
呆れるでもなく松前は笑顔で淡々とした言い様だ。
「寄って来る人間だけで充分持て余してるんだ、わざわざ余分な人脈を作るほど暇じゃないんでね」
にこやかに言ってのける橘は美都と対照的なその甘いマスクで女子生徒にモテまくっている。そういえばバージンキラーなんて噂も聞いたこと有ったかな。
きっと百戦錬磨を誇る恋の強者なんだろう。
「じゃあ郁様崇拝者のためにも、早いところ"桜の君"を見つけ出してやるかな」
その瞬間、松前へと鋭い視線を向けた橘に、
「これは失礼、つい口が…」
などとわざとらしく口元に手を当てながら、それでもやっぱり笑顔の松前。
何だかすっかり会話が見えなくなってしまった。
そろそろ席を離れるべきだろうと半歩後ろに下がった時、
「三好 俊って知ってるか?」
僕に向けられた何とも唐突な質問。
しばらく松前を見つめて首を傾げてしまう。
みよし しゅん…?
「聞いたこと、無いと思うけど…誰?」
どの話題から出てきたんだろう。
考えている最中じっと僕を見つめていた松前は、そうかと短く言ったきり僕の質問には答えてくれなかった。
「本庄のさっきの言葉、気にする必要無いぞ。崎田の年内復帰も無さそうだし……まぁ、それ以外でも何か困ったことがあったらいつでも相談に来いよ」
松前はよろず引き受け屋のようなセリフを言って笑う。本庄との一件を思うと美都とは別の意味でこれほど強い味方はいないだろう。
さっきの質問の意味は良く解らないけど、まあいいや。崎田の話は船越にも教えてやろう、きっと安心するだろう。
なんて思いながら今度こそ会話は終わったのだと判断して、
「ごゆっくりどうぞ」
何かと忙しい二人には不釣り合いな言葉だろうけど、マニュアル通り僕はそう告げるとテーブルを離れた。
ところが…
コーヒーを飲み終えると直ぐにでも退室するだろうと思っていた予想に反して、僕の言葉通り結構長い間二人はそこで腰を落ち着けていた。
しかもそのせいで二人を取り巻く女の子達も席を立たないものだから、お客さんの回転が悪いったら無い。お陰で少しは楽できるんだけど…。
傍の壁にもたれてほっと一息ついた時、
「松前っ!」
誰かが勢い良く教室に飛び込んで来た。
「お前この忙しい時に…」
息を切らせている人物を見止めて松前は立ち上がると何食わぬ顔で出て行ってしまった。
そう言えば松前は生徒会役員だったはずだから、確かにこんな所でサボってる場合じゃないぞ。
なのに悪びれもしない松前の態度に少し呆れながらその背中を見送って、何気なく残った橘のテーブルに視線を移すと、なんと既に女の子が橘の隣に座ってる。
橘が愛想笑いで軽くあしらってるってことは…、言い寄って来たのは彼女の方かな。
「好きでも無い相手に言い寄られてもねぇ」
客足が止まって手が空いた白河の言葉。
「同類相憐れむってね」
「その言葉そのまま返すわ」
「僕はそれ程モテないよ」
「あら、そうかしら? 男女問わずだった気がするけど」
「見てたんだ?」
さすが、白河の観察力は侮れない。僕が驚いてみせると彼女はフフッと笑う。
「意外な人にその気が有って楽しませてもらったわ。ところで、橘君には悪いけどこれを機に休憩に行こうってことになったんだけど、佐伯君どうする?」
「美都が来るまで待つから、後でいいよ」
いつ来るか分らないけど、勝手に抜けたら後で何されるか解ったものじゃない。
僕の答えに白河は了解と笑顔を向けて、
「じゃあ、お先に」
手を振りながら奥へと引っ込んだ。
僕はまたホールの方へ向き直る。と今度は意外にも橘の向かいには男の人が座っていた。
年の頃なら40歳位だろうか。
確か橘のお父さんは獣医師のはずだから、お父さんにしてはちょっとイメージが違う。そもそも顔の作りからしても橘とは似てないし。元は野生的な顔つきなんだろうけど、年齢が醸し出す雰囲気が粗野っぽさをまったく感じさせない。日々動物と格闘しているとそうはいかないだろう。品はあるけどなんとなく世慣れた感じがするし、職業は強いていうならそうだな。営業マン…というよりは夜の接客業、に近い感じかな。
なんて僕が何気なくその人物を観察していると、不意に目が合った。 ニコッと微笑みかけられて曖昧に笑ってみると、その仕草に気付いて振り返った橘が僕に手招きをする。
呼ばれて初めてオーダーがまだだったことに気がついた僕は慌ててテーブルに向かうと、
「ごめん、ボンヤリしてた」
レシートに手を伸ばし、
「コーヒー二つね」
「えっ、二つ?」
聞き返しながら橘のカップに目をやって納得。
すっかり乾いてる。
「オーダー通したら、ちょっと来て貰えるか?」
何だろうと思いながらも取り敢えず僕は頷いてみせて、空のカップを手に一度下がるとまた橘のテーブルに戻った。
橘が引いた隣の椅子に、
「何?」
促されるまま迷いもせず僕は腰を下ろす。
どうせ暇なんだから少しの間は見逃してもらおう。
「森丘は?」
「部活の方に行ってる、そろそろ来ると思うんだけど…」
言いながら僕が向かいに座る男性に視線を向けると、彼はさっきのようにもう一度僕に微笑んで挨拶と共にテーブルに名刺を差し出した。
僕はその綺麗な名刺を手に取り、まじまじと内容を見つめてしまう。
ショットバー…何て読むんだろう。バーキーパーなんて肩書きも初めて目にする職業で、
「一応、自前の店なんだ。20歳過ぎたら遊びにおいで」
言葉に顔を上げ、無難な笑顔で頷いた。
本当に水商売だったんだ、どうりて垢抜けてるはずだよ。とそこまで考えて、
「みよし、しゅん?」
振り返ると橘は頷いた。
「臣が言ってた人だ、実は俺の知り合いだったんだよ」
「どういうこと?」
「理由は知らないがマスターは佐伯のことを捜してたんだ」
僕を…捜してた?
「でもさっき」
近付く人の気配で言葉を切る。コーヒーを置いて、テーブルからクラスメートが立ち去るのを確認し、僕は言葉を続けた。
「何も言ってくれなかったよね」
松前がその名前を出した時、橘は全く知らん顔してたのに。
「見ず知らずの人間に自分が捜されてるなんて、気持ちのいい話じゃないだろう?」
「それはそうだけど」
「佐伯に厄介ごと増やすと、もれなく恐いお兄さんが着いてくるからね」
橘の意味深な視線、もちろん美都のことだ。僕は一瞬言葉を詰まらせたものの、
「橘は僕に三好さんを会わすためにここで待ってたんだろ? それなら言っておいてくれても良かったんじゃないかな」
怯まず言ってみる。
うざったい女の子達が居るにもかかわらず橘が長居してたのはそのせいだ、多分松前も。
「会わそうと思ってたわけじゃないさ」
「じゃあ待ち合わせしていた相手が偶然僕を捜してたって言うの?」
「待ち合わせしていたわけでも無いんだが…」
そんな不自然な話がある訳が無い。
橘達が悪人じゃないことを知ってはいるけど、理由が有るならはっきり言ってもらいたい。何だか嵌められたような気分だ。
「それならこの状況で、ここに居座ってる理由は何て言うんだよ。教室中橘のファンだらけなんだよ」
「そうだなぁ」
橘は溜め息をつくと腕を組んだ。
それは明らかに言い訳を考えてますといわんばかりの動作で、
「実はファンの集いだったっていうのはどうかな?」
「全然面白くない」
真顔の僕に橘は苦笑いでカップを手にした。すると、
「予測してたってことだよ」
黙って僕たちの会話を聞いていた三好さんがコーヒーを啜りながら静かにそう口を挟んだ。
「佐伯あきらって生徒がこの学校に居ないかと数日前に訊いていたからね。 郁君達は否定も肯定もしなかったが、その時に文化祭の日付も確認したからもしやと思ったんだろう。 私は仕事柄朝が駄目だから、大体来る時間帯も推測できたということだ。 君を捜している理由を言わないことが気になって取り敢えず君の身を案じて待ち伏せしてたんだろう」
じゃあ橘はわざわざ僕のために待っててくれたってこと?
「これだけ綺麗な子だから何か悪さでもするとでも思われたかな」
橘は組んでいるその長い足を少し揺らしながら、テーブルに頬杖を突き、
「悪い噂は数知れず…」
からかうように呟くと、軽く三好さんを睨んでいた。
ここに居た理由をばらされた仕返しだろうか?
大人相手にさすがは橘、と感心しつつ三好さんに視線を向けると…。
すっと橘を見る瞳を細めたのは束の間。その青い視線に艶をのせて、
「こういう噂は知ってたか?」
言葉と共に大きく身を乗り出し橘の唇にその唇を急接近。
「おわっ!」
さすがの橘も驚いたようでとっさに上体を引き、同時にテーブルに突いていた左手で三好さんの口を覆った。
相当僕も驚いてはいたんだけど、周りの悲鳴が呆然とはさせてはくれず…。だって橘の後頭部にはしっかりと三好さんの手が回されていたのだから橘は殆どその位置から動けなかったのだ。
つまり掌だけでかろうじてキスを免れたものの、角度によればしたように見えた…だろう、充分に。
「ファン撲滅キャンペーン実施中♪」
ストンと座り直すとギャラリーをまったく無視した三好さんの言葉に、橘はかなり不機嫌な表情を見せた。三好さんが勝ち誇ったように薄笑いを浮かべたってことは…。
…ただからかっただけか。
だって、そういう仲には全然見えなくて。
静かに睨み合ってる二人の間に割って入る度胸は無いから、まだかなり浮き足立ってる女の子達を目だけで観察していると戸口に美都の姿。 ほっとして僕が手を振ると美都も笑顔で返し、少し辺りを気にしながらテーブルまで歩み寄って来る。
さすがに異様な気配に気がついたようで、
「何かこのテーブル、変な視線を感じるぞ」
たどり着くなりの美都の言葉。
既に席を立っていた橘の席に美都が座り、当然のことながら三好さんの横に橘が座ると再び奇声が沸き起こる。
美都が何だといわんばかりに周りに視線を泳がしている姿を横目に橘は小さく咳払いをすると、
「早く用件を済ませよう」
言って三好さんに会話を促した。美都が何の話かと小さく耳打ちしたけれど、僕は笑顔で首を振った。
僕にもまだ判らない。
「佐伯、あきら君だね?」
周りが落ち着きを取り戻し始めた頃、改めて僕にそう問い掛けた三好さんの表情は、いつの間にかすっかり真顔に戻っていた。
僕はゆっくりと頷いてその問いを肯定した後、さり気なくさっきの名刺を美都の前に滑らせた。
そんなあからさまに人を睨むものじゃないって…
美都の鋭い視線に全く動じる様子も無く三好さんは軽く身を乗り出し、組んだ腕をテーブルに置いた。
「実は佐伯あきらという人物宛てにある物を預かっているんだ。ただ、それはとても大切な物でね、渡してしまってから勘違いでした、では済ませられない物なんだよ。だから詳しい話をする前に、まずは君が私の捜している佐伯あきら君かどうか確認させてもらえないかな」
僕は小さく頷いた。
「君のお父さんの名前教えて貰えないだろうか?」
…第1問目でいきなり返事に詰まる。
僕が三好さんを見たまま黙っていると、
「佐伯宗一という名前?」
彼自身が答えを出した。
正解ではあるけれど答えていいものかどうか…。
実は、僕の父さんは世間で結構名を馳せている小説家なのだ。ペンネームを使っている上、本名は疎か私生活は一切公表していない。つまり結婚歴が有ることも、子供がいることもだ。可能性としては低いけど父さん絡みならうっかりと返事をすることはできない。どんな波紋が起こるか分らないから。
とはいってもいつまでも沈黙を続けるわけにもいかず、事情を知っている美都に助けを求めようと見上げたその時、
「誰からの預かり物?」
橘が絶妙のタイミングで、まさしく僕にとっては妥当な質問を投げかけてくれた。
助け船だとしか思えないその言葉に僕の事情を知っているのかと橘を眺めてみたけれど、橘は腕を組み軽く視線を落としたままでその表情は読めない。
「それを託けた人は私が昔居たアパートの隣の部屋に住んでいた人でね、生憎佐伯宗一という人物に面識はないが彼女のことは良く知っているつもりだよ」
彼女って…
「みどりという名前の女性、聞いたことは?」
僕は三好さんの言葉に大きく目を見開いてしまった。
母さんの名前だ。
三好さんは僕の様子をうかがってはいるけれど返事を求めてるようには見えない。それは言葉より態度で僕が三好さんの捜している佐伯翠だと肯定してしまっていたからだろう。
どうしよう…こんな突然に。
心の隅でこんなことが有り得るかも、と想定していたものの覚悟としては全然できていないも同じだったのだ。
どう対応していいかまったく分らないまま僕も三好さんをじっと眺めていた…んだと思う。僕の視線は確かにそっちを向いていたのだから。
と、
「ここは…騒がしいな」
いつの間にか軽い放心状態に陥っていた僕は、これが誰の言葉かも分らないまま顔を上げた。
すると横に空間ができていることに気付いて…
慌てて席を立っていた美都のシャツの裾を掴んでみせると美都は心配するなと微笑み返す。
「ちょっと出よう、休憩まだなんだろ?」
向いの二人も既に席を立っていて、程なくテーブルを離れた。美都の言葉は三好さんの話を聴けと言っているようなものだ。
三好さんを信用したということなのだろうか。
確かに悪い感じの人じゃないけど…
「あっ」
僕も立ち上がってから自分が仕事中だということを思い出し、
「でも白河が帰って来ないと」
言った途端、美都の目配せ。視線の先には白河の姿があった。
彼女は僕に向かって左手の人差し指を立て、開いた右手と並べて出して見せた。休憩時間は15分だ。
大きく頷いた僕は美都と連れ立って橘達を追うように廊下へと出る。
戸口の傍に凭れて立っていた橘は美都に二言三言何やら囁き掛けると、振り返ることなく立ち去った。
ちゃんと人のテリトリーをわきまえてくれているのだ。
気の毒にも女の子達を引き連れながら橘が階段の踊り場へと消えて行く後姿を見送ると、美都はそれとは逆方向に歩き出し三好さんも特に何を言うでもなく美都の後に付いた。歩きながらも迷いは消えるはずが無いけれど、美都を信用してるから…決して悪いようにはならないと、何度も自分に言い聞かせた。
そして…
第2校舎を北側に抜けた所は第1校舎の裏。
今日静かな所ってここぐらいしかないかな。
校舎に沿って並んでいる花壇淵の適当な場所に三人揃って腰を下ろす。
ふぅ、っと小さく息をついた三好さんは顔を上げ、
「彼が居る分には問題は無いのかな、えっと森岡君って言ったっけ?」
僕が頷いたことを確認した三好さんは心持ち美都に身体を向ける。
「郁君さっき何て言ってたんだ?」
途端、少し苦笑いを浮かべた美都は、
「気に食わないことがあれば俺の分も殴っておいてくれって言ってましたけど、何か怒らせたんですか?」
言葉に三好さんは笑う。
「私を不審者扱いするからだ、あれくらいのことでもしないと全くあいつは堪えないからな」
美都には何のことか分らないだろうけど、あれくらいのこととはあれのことだ。
ふざけてたのだと思っていたけど、先に気分を損ねていたのは三好さんの方だったんだ。
亀の甲より年の劫…橘より何枚も上手だよ。
それにしても、あの時の橘の驚きようときたら…
僕はつい笑ってしまった。
さっきは笑う余裕なんて無かったから美都の視線を感じても急に笑いは止められない。どうしようかと視線を泳がせていると、
「…笑うと本当に良く似てる」
不意に入った本題に僕の笑いはピタッと止まる。
「お母さんの名前なんだね?」
少し細められた三好さんの目は何かを懐かしんでいるようだ。僕を通して見ている誰かは…
「実はね、確認するまでも無く君を見た時に直ぐ分ったんだよ。君が彼女の子供だってことが」
「そんなに…似てますか?」
僕の問いかけに三好さんは笑って頷いて、
「街中ですれ違ってもそうだと分るくらいにね」
そう答えた。
「お母さんのこと、憶えてない?」
「ほとんど、写真も残ってませんから」
「お父さん再婚は?」
いいえと僕は首を振る。
「そうか…、私が君にお母さんの話をすることには、ご家族や親戚の方々に問題は無い?」
やや深刻気味な三好さんの声。
「それは、どういう意味でしょう?」
「写真も残していないということは、君に事実を知らせたくないということじゃないのかな。君のお父さんが事実を隠そうとしているなら勝手に私が話すわけにはいかないだろう?」
「母が居なくなったのは父の方に原因が有ったということですか?」
「私の知る限りそれはないだろうね」
「だったら問題無いと思います。父が母の何かを残さないのは別の理由ですから」
それは母さんを恨んでいるからだ。
実の息子ですら疎んじるくらいに…。
時々何かのきっかけで父さんに拒絶された事実を思い知らされる。
僕は溜め息混じりに瞼を閉じた。
するとその時、
「預かり物というのは何なんですか?」
今度は美都のフォロー
そうだった、三好さんはそれのために僕を捜していたのだ。
母さんは今更僕に何を渡そうとしているんだろう。
答えを促すよう視線を向けた僕へと三好さんは申し訳なさそうな視線を返した。
「悪いんだけど今は答えられないんだ。私は彼女からそれを預かった責任でとにかく君を捜し出した、当時彼女がそれを望んでいたからだ。けれど君を捜し出すことに私はあまりにも時間を掛けすぎてしまった。今彼女が居ればどうするかは、この段階では私には判断しかねるんだよ」
今彼女が居れば?
「それを託ったのはいつのことなんですか?」
美都の言葉。
「…もう10年になるかな」
母さんが家を出てからあまり経っていない頃だ。
まさか三好さんが母さんの駆け落ち相手なんてこと…
「みどりさんとはどういう関係だったんでしょう?」
単刀直入な美都の質問に、三好さんは目つきを鋭くし、
「どうしてそういう質問が出るのかな?」
「随分親しかったんじゃないかと思ったものですから」
誤魔化しの無い美都の言葉に、三好さんは少し苦笑いを浮かべながら、
「彼女にとってはただの隣人だったよ。もっとも…私の方はもう少し別の想いが有ったけどね」
驚いた僕へと三好さんは静かに微笑んでみせる。
「特別な関係なんて無かったから、その点では安心してくれればいい。彼女が私にそれを託したのは、他に頼る人が居なかったからなんだ」
ってことは、
「母は…一人で住んでたんですか?」
三好さんは指を組んだまま膝に肘を突いた。
「お母さんが出て行った理由は聞いてる?」
「男の人と逃げたって…」
三好さんはじっと僕を見たままで、
「父にはそれだけしか聞かされてません」
そう僕が付け足すと、小さく頷いて溜め息をついた三好さん。
少しの間考えるように視線を落とした後、
「色々と話すべきことも考えていたんだが、どうも事態が私の予測していたものと違って見えてきた。中途半端なところで話を切るようで本当に申し訳ないが、君がそれだけしか知らないのなら今ここでこれ以上の話をすることはできない。お父さんとよく話し合って、それでもお母さんの話が聴きたいと思ったら連絡くれないかな。それに私にも考え直す必要がありそうだから…、少し時間を貰いたい」
この申し出は僕にとっても有り難たかった。
母さんの話を聴くには僕にも猶予が欲しかったから。
今は美都の支えが有るからこそで覚悟なんてまだ全然できてない。
頷いた僕を見て三好さんはジャケットの内ポケットからペンを取り出すと、
「自宅の連絡先書いとくよ、さっきの名刺を」
手を差し出されて僕はポケットを探る。
あ、れ?
そういえばさっき美都に差し出したっきりどうしたっけ?
「美都、持ってない?」
僕の言葉で思い出したように美都がシャツの胸ポケットから名刺を取り出した。美都がそれを三好さんに差し出してみたんだけれど…
「もりおか…、よしと?」
三好さんは差し出された名刺を受け取ることも忘れ、美都を見たまま呆然と呟いた。
不思議に思って美都を見ると美都も訝しげにしている。
「俺が何か…」
「あ、ごめん。…君、もりおかって木が3つの森に簡単な方のオカって字を書くのかな?」
「そうですが」
「美しい都でヨシトって読む?」
まだどこか信じられないといった様子の三好さんに、
「知ってるんですか?!」
驚いて言ったのは僕。
「ご両親は沈丁花商店街で商売されていたね?」
だけど僕の動揺に反して、その問いに美都はそれほど驚いたふうでもなかった。
「今でもそうですけど…あの辺りに住んでるんですか?」
さすがは商売人の息子だ。
昔はよく手伝わされたと言っていたから、一方的に美都を知っている人は結構居るのかもしれない。
「布川祥子」
三好さんは美都の問いには答えず、美都を見ながらそんな名前を呟いた。特に反応の無い美都に三好さんはさっきより遥かに深い溜め息をついてみせ、
「もし佐伯君が私の話を聞くとなると、当然君も一緒に来るんだろうね」
尋ねるまでも無い質問だった。
沈黙の肯定をした僕達に肩まで落としてしまった三好さんは重い口調で続けた。
「…だったら森丘君のご両親に今の人のことを訊いておいてくれないか、多分忘れていない筈だから。たとえ君が忘れていても…」
最後の言葉はまるで言うつもりが無かったかのように語尾が流れてしまった。
もちろんそれを聞き逃さなかった美都は曰く有りげなその言葉に、
「俺が?」
と即座に問い返してみたけれど…
三好さんは曖昧な笑みを浮かべると美都の手からするりと抜き取った名刺に素早く数字を連ねて返した。
「今ぐらいの時間なら連絡取れるようにしておくけど、もしもの時は留守録に名前だけ入れといてくれれば後から掛け直すから」
名刺を僕が受け取ると三好さんは腰を上げ、ついで僕と美都も立ち上がる。
「返事を急く必要はないから、充分に考えてみるんだね」
僕と…それから美都にも視線を向けて、三好さんは理解し難い笑顔で背中を向けた。
去って行くしっかりとした背中を二人して黙って見送ったのは、引き止めたところで何も事態は変わらないと分かっていたから。
その日美都は"布川祥子"なる人物の話をするために文化祭終了後真っ直ぐ家へと帰り、僕は一人で夜を迎えることになる。
本当はこんな時こそ一緒に居て欲しいんだけど、帰るなとは僕には言えない。
だってそれが本来あるべき姿なんだから…。
適当に夕飯を済ませてしまいお風呂に入った後、僕はベッドに横になっていた。与えられている課題は真実を聴くか否かを選択すること。
三好さんの持っている答えはまったく想像もつかないけれど、パンドラの箱のように好奇心だけで開けてしまってはひどい目に遭うかもしれない。
ぼんやりと天井を見上げながら、頭の中で少し内容を整理してみたけれど…。
一人で考えても埒があかないし、やっぱり伸弘さんには報告しておきたくて寝返りをうつと受話器に手を伸ばした。間違っても父さんに連絡を取る気になんてならない、どうせけんもほろろに電話を切られるに決まってるから。
『聴きに行ってみたらどうだろう』
僕の話を一通り聴いた後伸弘さんは言う。
『信頼できそうな人なんだろう?』
「…多分ね」
伸弘さんは小さく笑うと、
『まぁ、初対面で人間性全てを把握することは無理だろうけど、いくら親しい隣人に頼まれたからといって特別な関係でもないのに、10年間見ず知らずの人間を捜し続けるなんてちょっとできる芸当じゃないと思うよ。それによっぽど信用ならない人ならその…橘くんだっけ?』
「うん」
『その子だって、もっと前に何か言ってくれてたんじゃないかな?』
僕は返事をしなかった。
橘が美都にまで三好さんのことを伏せていた本当の理由は、崎田の件が有ったからだと思う。
美都が僕の所に連日泊っていたことを崎田が知っていたのは、彼が学校を出てからも僕のことを付け回していたから。美都がそれにかなり気を使っていたことを橘達は知っていて、だから言えなかったんだ。
崎田のことを美都に警告したのは松前だったのだから。
『それでもやっぱりその人のことを信用できないのなら、僕も着いて行こうか?』
沈黙を違う意味で理解した伸弘さんの申し出を、少し考えてから断った。
実際僕が躊躇っているのは三好さん云々の話でもないのだ。
「父さんはどこまで知ってると思う?」
伸弘さんは少し唸った。
『そうだなぁ…。みどりさんはただ男と逃げただけ、と言う認識しか無かったように思えたけど。理由も相手も行先にも全く心当たりが無いまま今に至るんじゃないかな』
伸弘さんは父さんの昔の恋人。
父さんと別れた後も僕のことを心配してしょっ中連絡をしてくれた。
もし父さんに捨てられた後伸弘さんが救ってくれなかったら、今の僕は絶対にない。ある意味伸弘さんは僕の育ての親だ。
『本当はみどりさんに止むに負えない事情が有って、家を出たって可能性もあるのかもしれないし』
母さんの事情なんて…
「考えたこと無かった」
『まぁ、小さい頃から駆け落ちって聞かされてたんだから仕方ないだろうけど…。だけどみどりさんが家を出た後で翠くんに伝えようとした何かなら、彼女に宗一さんより好きな人ができたって事実があったとしても知っておくべきじゃないかな。僕は子供を産んだことは無いから絶対とは言えないけど、愛した男への想いと実の子供への想いはまた違ったものが有ると思うよ』
出産経験なんてなくたって伸弘さんは僕に充分愛情を注いでくれている。
それは恋愛感情とは全然違うものだから、
「…例えばどんな?」
伸弘さんは答えを知っているんじゃないかと思ったんだけど…
『だからそれを確かめに行ってごらんって』
小さく笑われてしまった。
『機が熟したとは言い切れないけど、今聴いておかないと一生知ることはできないかもしれないんだよ。それにもし、それが翠くんにとって辛い事実であっても支えてくれる人が沢山いるじゃないか。僕も居るし圭吾も居る。それに…』
美都
『支えられてる自覚が有るなら迷うことは無いんじゃないかな』
美都は…聴くべきだと思っているはず、口には出さなかったけど。
皆がそう思うのは僕の眼鏡を快く思っていないから。
あたかも捨てられたことを引きずっているように見えるからだろう。
美都と付き合い出して眼鏡を外す機会が増えてから、本当はそんな物無い方が遥かにいいってことは解ってた。
コンプレックス引きずって硝子1枚で世間と隔ててる気になってる自分にはウンザリしている。
本気で僕自信がそう思っているのなら、確かに迷うことは無いのかもしれない。
皆に頼らなければいけないかもしれないけど、受け止めてみようか。
…真実というものを
「今度の土曜日に決まったんだ」
シャワーの後夕食を済ませソファーで美都に凭れたまま、やっと決心がついたことを告白した。
文化祭から3日も経っている。
「今日連絡したのか?」
訊いた美都を見上げると、見るとは無しに点けていたテレビに視線を向けていた。
「1時に自宅に来て欲しいって…。美都、部活休めそうかな?」
「どうしたって休むさ」
言いながら向けられた視線に僕が笑うと優しく肩を抱き込まれる。
「何か僕のせいでよく休ませてるね」
「あれはどうせ趣味でやってるようなもんだし、それに俺だって確認したいことがあるんだ」
布川祥子のことだった。
三好さんの言っていた通り、その女性のことは美都のご両親と一番上のお兄さんが憶えていたらしい。
一時期よく美都のご両親のお店に買い物に来ていたそうだけど随分前に引っ越して行ったとか。
その名前を出した途端、何故だかそれぞれに妙な反応をしたそうだけど、それ以上のことは憶えてないで済まされたという。だから母さんとどう繋がるかは今のところ全くの謎。
「あれからは何も思い出さないんだ?」
美都が頷いたのを感じた。
どうやら美都はその女性の記憶がほんの僅かに残っていたようで…というよりは、最近夢のように記憶に出てくる女性がその人ではないかと思っているらしい。
「あれが現実のことならきっといい思い出だったんだろうけど…。人間っていい思い出も忘れられるんだな」
美都の溜め息が静かに耳を掠める。
幼い頃、ほのかに芽生えたその想いを恋と呼べるなら、布川祥子は美都の初恋の人だ。
「仕方が無いよ、母親の記憶だって忘れるんだから」
子供の頃の記憶なんてそんなものなんだ。
「けどさ」
言って美都は僕の頬にキス。
「顔は覚えてないが、美人だったことは間違いないな」
「どうして?」
耳元にかかる美都の短い前髪がくすぐったくて肩を竦めると、
「知らなかったのか? 俺は面食いなんだぜ」
返事の代わりに僕は美都の喉元に唇を寄せた。
「まぁ橘はタイプじゃないけどな」
ゆっくりと僕を押し倒しながらの美都の言葉に僕は笑ってしまう。
「どこで聞いてきたんだよ」
一応橘の名誉のために、あのキス未遂事件は美都には黙っていた。 美都も特には聞いてこなかったし、そもそも橘が三好さんの報復を受ける羽目になったのは僕のせいでもあるのだから。
実際あれだけ教室では派手に騒がれたけど室内に居たのは殆ど橘のファンだったうえ、あの後橘は実に上手くフォローしたと見えて表立ってはまったく噂にはならなかったのに…。
「耽美派吉野」
なるほどね。
美形の裏に吉野有り。そういえば裏方で教室に居たような。
「でもあれは耽美の部類に入るのかな、いい男同士だったけどなんか不釣合いだったと思うよ」
言った途端、美都に深く口付けられる。
崎田の事件以降色々と続いて身体を重ねるのは久し振りだった。僕も求めるように舌を絡ませ、長い長いキスの後やっと離れた唇から大きく深く息をする。と、
「どっちも攻めだからだろ」
……?
一瞬何の言葉か分らない。
さっきの続きだと僕の思考が確認した頃には、美都の手は僕のシャツの中に滑り込んでいて、もうどうでも良くなってしまった。僕も性急に美都のシャツに手をかけると、それに応えるようにキスの雨が降り注ぐ。美都の素肌に腕を回して僕は強く抱きついた。
美都が…欲しい
堰を切ったように流れ出す欲情はもう止めることはできない。
多分、誘っていたのは僕の方…。
…うっとりと瞼を閉じその欲望のまま自分の意志で意識を飛ばした。
今は美都だけでいい
忘却の彼方にある過去のことも不確かな未来のことも、全部忘れさせて欲しいから…
燦燦と太陽の光りが降り注ぐ土曜日
天気は良くても僕の気持ちはすっきりというわけにはいかない。
決心をしたからといって不安は消えてはくれないのだ。
ここまで来たことを後悔はしていないけれど、どうしても僕の足取りは重くなる。
目的地に近づくにつれ増える僕の溜め息。
そしてその都度向けられる美都の柔らかい視線に、重く僕が見上げると静かに微笑みだけを返してくれる。
言葉では宥めることができないと分っているのだろうか…。
鉛の枷が付いているような足取りでも、とうとうマンションに辿り着き美都と二人玄関をくぐると三好さんは笑顔で迎え入れてくれた。
室内はといえば…
広いワンルーム内をモノトーン調の内装や家具達がゆったりとした空間を作りだしている。何だろう…何故か少し不思議な空間に見えるんだけど、決して不愉快じゃない。
三好さんは僕達をソファーへと案内してくれた後、カウンター式のキッチンに入った。
「飲む物、何がいい?」
三好さんの言葉に二人で顔を見合わせて、
「何が有るんですか?」
尋ねたのは美都。
「一通りは揃ってるけど…酒は駄目だよ」
笑いながらの三好さんの言葉に僕達は黙って頷いた。
後から橘に聞いた話だけど三好さんはどんな理由があろうとも未成年にお酒は出してくれないらしい。結構堅い人なのだ。
程なく美都がアイスコーヒーを、僕はオレンジジュースを頼んだあと手持ちぶさたでもう一度室内を見回してみる。決して物は少ない方じゃないけれど、あまり高さのある家具が無いことと、色調とか配置もいいんだろうな。とても広く感じる。
それも虚無でない広さだ。
「ジェイドってさ…」
声で僕は美都に視線を移した。
「三好さんの店の名前な。あれ翡翠って意味らしいぞ」
「…本当に?」
美都は頷いた。
「橘は参考までにと言ってたが、偶然にしてはできすぎてないか?」
意識的にその名前を使ったとしたら三好さんは本気で母さんを好きだったんだろうか…。僕の名前は母さんのみどりから付けたのだと随分前に聞いた。
「日曜日の方がゆっくりしてもらえるんだけど、明日は予定が入ってしまってたから」
話ながら三好さんがトレイ片手に床に片膝を突いて、低いテーブルにコースターを並べグラスを順に置く。トレイをさり気なく除けて僕達の向かいに腰を下ろすと、どうぞと手で促してみせるまで全てが洗練された動作だ。
ちゃんとした店でもこんなに堂に入った振る舞いは、そうそうお目にかかれない。
驚嘆している僕に三好さんは優しい笑みを向け、
「あきらって字は、ひらがな?」
「…いえ」
続けようとした僕の言葉を軽く制した。
「翡翠のみどりって字かな」
頷いた僕に満足そうな表情。
「森丘君とは随分仲良さそうだけど、いつから付き合ってるの?」
「…高校からです」
何となく気まずさを感じてしまった。
友達以上の関係だと含んでいるようなニュアンスだったから。
答えに三好さんはただ頷いて一度美都に向けた視線を、そのままテーブルに落とした。
「本当はね、君達に来て欲しい気持ちが半分、来なければいいと思う気持ちが半分だったんだ。何も知らない君達には真実がかなり酷な内容だと思えるから、そのことで今の生活を脅かしたくはないんだ」
僕は息を呑んだ。
覚悟はしてきたつもりだけれど、そんな前置きをされると怖さが募ってしまう。
今の生活を脅かすほどのことって…。
「ただ森丘君の存在に私は何か見えない糸を見たような気がしたんだ。運命や宿命って言葉はあまり使いたくないんだけどね」
淡い笑みを浮かべると、
「彼女がそう望んだのだと思うことにした。きっと私は真実を話すべきなんだ…と、そう判断した。だから私の知っている事実を聴いて貰いたい」
と、それは…
肯定でも命令でもなく願望。
真摯に向けられるその瞳に僕は胸の中の疑問や不安を打ち消した。 どこか緊迫したような切実な想いが充分に伝わってくるから。
首を横に振るなんてことはできない。
しばらく黙って僕は視線を落とす。
…そして最後の決心
「話してください」
僕の言葉に頷いた三好さんは、テーブルのグラスに手を伸ばし喉を潤す。カランカランと冴えた氷の音が静かに部屋に響いた。
「今から、…10年前のことだ」
組んだ指に視線を向けゆっくりと昔語りは始まった。
私は当時沈丁花駅近くの古いアパートで独りで住んでいた。その頃私は3年間連れ添った妻と別れた後で、後悔は無かったものの何か空しさを感じながら日々を過ごしていたんだ。世捨て人気取りで、いい年してたのに会社も辞めた。だからって悟りを開くつもりもないのだから毎日怠惰でいい加減な生活をしてたよ。
そんな私の隣の部屋には少し年上の男が住んでいてね、あまり顔を会わすことは無かったんだが何せ安普請なアパートだったから、人のことはいえないがろくな奴じゃないことは察しがついた。手当たり次第に女を食い物にしているような最低な奴だったよ。ところがある日、そんな男と一緒に住み出した女性がいたんだ。たで食う虫も好き好き、とはいうが大した女じゃないだろうと勝手に私は想像してた。別に会いたいとも思わなかったし彼女とは生活のサイクルが違っていたから一度も顔を合わすこと無く半月程が過ぎて行った。
あの年も今年のようにやけに大雨が続く梅雨だったな。
私の気持ちもすっかり天気に引きずられていて、些細なことにもひどく苛々していた。
“何がそんなに気に食わないの?”
玄関の前で点かないライター相手に腹を立てた勢いのまま私は声のする方に顔を向けた。彼女を見たのはその時が初めてだったよ。
そして私はそこで呆然とする、彼女が想像してた女とあまりにもかけ離れていたからだ。
“あら、ちょっとはマシな顔ができるんじゃない。仏頂面よりまぬけ面の方がまだ救いようがあるわよ”
私は彼女を知らなかったが彼女はどこかで私を見かけてたんだろう。 無遠慮だが綺麗な笑顔で言った彼女のその言葉で、私は初めて気がついた。自分が長い間笑って無かったことに。
それから時々彼女とは話す機会が有って、その内私は偶然じゃなく意図的に行動を彼女の時間帯に合わすようになっていた。彼女に会うことが楽しみになっていたから…。
もちろん自分の気持ちには気付いてはいたが告白することはできなかった。それはその男が居たからじゃなく彼女の心意が全く掴めなかったからだ。
私には彼女が何を考え何を見ていたのかが全く分らなかった。
そうこうしながらも3ヵ月程が過ぎ、辺りが秋めき出した頃。
生計は彼女の収入だけで立てていたようだが彼女はかなりの器量良しだ。そのうえ気立てもいいとくれば稼ぎは悪くなかっただろう。にもかかわらず彼女の生活は荒むばかりで…。
薄い壁1枚隔てた向こうから聞こえてくる会話の酷さはエスカレートする一方だったがなぜか男と手を切るつもりも無いようだった。そのうち顔がやつれ出し、時折情緒不安定気味な行動を見せるようになる。
彼女の体調の変化があまりにも急激で病的だったから、私も何度と無く病院に行くように促しはしてみたんだが彼女は弱い笑顔で首を振ることしかしない。
…何か彼女は諦めきっていた。
「悪い病気にでもかかってたんですか?」
心痛な面持ちで一度話を切りグラスに手を伸ばした三好さんへと僕は問い掛けてみる。
「…言いようによってはそうなるかな」
少し考えた後の答え。
妙な言い回しが引っ掛かった。
「それは、どんな?」
言い難そうにする三好さんの態度で、今まで考えてもみなかったある仮説をたてざるを得ない。
すると、
「薬物中毒だ」
不治の病だとかを想像していた僕には直ぐに判断がつかず、
「薬物…?」
聞き慣れない言葉に首を傾げて呟いてしまった。
そんな僕へと真っ直ぐに視線を置いたまま三好さんの口から出た言葉は、
「覚醒剤」
―――…。
僕は何か言おうとして口を開いたものの言葉としては何も出てこなかった。
もちろん単語は知ってはいる。けど、その本質としては僕の中では未知の物で、唯一分ることは社会的には相当敬遠されているものだってことくらい。
「隣の男は薬の売人をしてたんだ。私がその事実をもっと早くに知っていて、薬物中毒の症状に少しでも知識があれば引きずってでも病院に… …いや、連れて逃げてた」
「本人は逃げようとは思わなかったんでしょうか?」
美都の問いに三好さんは首を横に振る。
「逃げられるくらいならとっくにそうしてたさ、私だってあんな状態の彼女をほっておきたくはなかったんだ。だけど彼女にはそれができなかった」
「…できなかった?」
「君たち親子が居たからだ」
僕と、父さん?
「それはどういう…」
「私はその後もしばらく彼女の事情は知らなかったんだが、ある時彼女が話してくれた。本当は結婚をしていて子供も居るということを。同棲していた男は彼女が結婚する前に付き合っていた男で、本人の意志に関係なく彼女は連れ戻されたんだよ」
「だけど子供じゃあるまいし」
幾らでも逃げることはできたはず。
「子供じゃないから、そうするしかなかったんだ。自分だけの問題でどうにかなるのなら、初めから君たちの側を離れることはしてなかったさ」
…僕達は、捨てられたわけじゃないってこと?
「男の後ろには暴力団が付いていたから幾らでも脅しようは有ったんだろう。彼女は自分が傷付くより、大切な人を傷付けられることに耐えられなかったんだ。…言いたいことは解るね?」
それは僕と父さんを守るため…?
それが…母さんの事情?
その後
季節が秋から冬に移る頃には、すっかり彼女から笑顔は消えていた。 ただひとつだけの例外を除いて。
アパートの近くに公園が有ってね、彼女は良くそこに立ち寄ってたんだ。もともと子供が好きだったんだろうが、中でも一人だけ特に可愛がっていた男の子がいた。男の子の方も随分彼女のことを気に入ってたんだろうね、一緒にいると本当の親子のようにも見えてたよ。体調崩してからもその子に逢う時は化粧して嬉しそうに出かけて行ってた。
彼女にとって手に届く心の拠り所はもうそれしかなかったように思う。
私が夜の仕事に就いたのはさっきも言ったが彼女に生活を合わせたからだ。漠然と今の仕事を本職にしようかと思い始めていたある昼下がり、誰かが玄関の呼び鈴を鳴らした。寝ていた私は何度も鳴らされるベルに半ば怒りを覚えながらも扉を開ける。と、そこには小さな箱とワインを抱えて彼女が立ってたんだ。久し振りに私に向けられた笑顔だった。 当然私は快く彼女を部屋へと迎え入れる。彼女のその澄んだ微笑の意味も、初めて私の部屋を訪れた理由も何一つ私は考えもしなかった。
“今日は息子の誕生日なの”
敷きっぱなしの布団も気にせず彼女は勝手に腰を下ろすと、そう言ってワインのコルクを抜いた。私が彼女に結婚歴があることを知ったのはこの時だ。さほど驚かなかったのは多分公園での光景を見ていたからだったんだろう。
あの子供ぐらいの歳かと訊くと彼女は笑顔で頷いた。
“父親に似て人見知りの激しい子だから、一緒にいてれば絶対友達にさせるのに”
彼女が持っていた小箱にはショートケーキが入っていた。無理矢理付けてもらったというローソクを立てて火を灯すと、長い間彼女はそれを黙って眺めてみせて、
“私の分も幸せになれますように…”
呟くと火を吹き消す。
殆ど聴き取れないくらいの声だったが、彼女は確かにそう言ったはずだ。
その日、彼女が部屋に居たのは3時間程。
私にとってはとても意味の有る時間だった。
将来店でも持とうかと私が言った時に彼女がふざけて言った店の名前がジェイドだ。二人とも冗談のつもりでしかなかったが、開店祝いには是非招待させて欲しいと言った私の言葉に彼女は答えてはくれなかった。
“そろそろ出勤時間じゃない?”
言って彼女は立ち上がり、私はひとつの包みを託る。品のいいハンカチの包みを開こうとした私の手を彼女は制して、
“明日まで待って。そうね…明日の今頃まで”
理由を尋ねてみると、
“浦島太郎みたいにおじいちゃんになっちゃうから”
透き通るくらい綺麗な綺麗な笑顔だった。
“じゃあ、仕事頑張ってね。色々有り難う”
私はその言葉に含まれた本当の意味に気付けなかった自分を呪ったよ、馬鹿正直にその包みを開けなかったことにも…。今でもそのことは悔やんでも悔やみ切れない。
その日彼女の言動全てが、彼女の決意を暗示していたというのに…
三好さんは重く瞼を閉じた。
僕の吐く息が震えている。
美都も身じろぎもせず、何も言わない。
「翌日、また昼過ぎに玄関の呼び鈴が鳴った。私は彼女かと思い扉を開けると、戸口の前には例の男の子が立っていた。その子には私も何度か面識が有ったんだ。男の子は昨日彼女と別れの挨拶をしたんだが、何か渡したいものが有ったらしく部屋まで尋ねて来たのだと言う」
“お姉さん寝てるんだけど…寒いのにパジャマも着てないし揺すっても起きなくて、それになんだかすごく冷たいんだ”
大きな深呼吸と共に僕は瞳を閉じた。
「話だけで血の気が引いたのは後にも先にもこの時だけだ。事態は見るまでもなく明らかだった。私は部屋に入る前に、その小さな手の平から透き通るガラス玉を受け取りその子を家に帰した。男の子は彼女が死んでいたことに気が付いていなかったから」
“その子というのは…”
美都の乾いた声が微かに震えている。
「彼女はその子をよっちゃんと呼んでた。祥子お姉さん…、って憶えてないか。布川祥子は彼女がそこで使っていた名前だったんだ。実は私が彼女の本名を知ったのはそれから後のこと。警察に通報したのは私で、事情聴取でも警察には一切子供の名前を出さなかった。その子のことは気にはなったが彼女の死因が事故か自殺かで少し揉めていてね、私が警察と職場との往復になってしまったから直ぐには対処しようが無かった。結局は4,5日後に森丘と名乗るその子の父親が私の所に訪ねて来たんだ。息子の親しかった女性は引っ越したことにしておいて欲しいと…あの日のことも、できれば彼女のことも忘れさせたいと言っていた。君がこのことを何も憶えていないのは、ご両親が意図的に伏せたからだよ」
隣で深くソファーに沈み込む音がしたけど、目で確認することはできない。
涙ばかりが溢れてきて、言うべき言葉がまったく見つからない。
声が漏れそうで握り締めた拳を強く口に当てた。必死で堪える鳴咽のせいでひどく喉が熱い。
静かに立ち上がった三好さんは一度その場を離れた後そっと僕の前に腰を落とし、差し出してくれたタオルにぽたぽたと涙を零し顔を上げることのできない僕に、
「預かったものはテーブルに置いておくから…」
言って抱きしめてくれた。
「彼女の想いを受け止めてあげて欲しい。…あの人の想いを救ってやってくれ」
そして私の想いも
一瞬僕を抱く腕に力を込めると、その腕を離した。
三好さんの気配が無くなりソファーの上でタオルを握り締め膝を抱えてしまった僕の肩に回される美都の腕。
僕は美都に縋り付いた
次々に込み上げてくる感情は今までのどの悲しみよりも重くて深い。
涙だけでは流しきれないその想いは口からも零れ出して…意味にならない言葉を吐くように喋り続ける僕に美都は時々返事をくれる。
僕を抱き込んだまま、ずっとそうしていてくれた。
美都がもしここに居てくれなかったら、僕は僕の感情に押し潰されて死んでいたかもしれない…。
誰のグラスだろうか。
多分最後の氷の重なりがカシャンと音を立てて崩れ落ちた。
エアコンの風の音が静かに流れている。
「神様は信じてないが…」
やっと泣き止んだ僕に優しく美都が話し出した。
「三好さんが運命とか宿命とかって言った意味分るよ。今思うとあの人を思い出せたのは翠が居たからだと思う」
「つらく…ない?」
口を開くと直ぐに涙声になって、僕は大きく鼻を啜った。
「僕と…一緒にいる、と……、やなこと…思い出す…かも……」
途中何度もしゃくりあげてやっとそれだけ伝えることができた。
美都に宥めるように背中を摩られると、また感情が込み上げてくる。
「俺には何一つ嫌な思い出は残ってないよ。言ったじゃないか、いい思い出だったって。俺と翠を引き合わせてくれたのは多分お母さんのお陰だ、感謝こそすれ恨む理由はどこにもない。……だから俺のためになら泣くな」
今ばっかりは美都の言うことでもきけない。
美都の言葉にまたしばらく泣き続けた後、ようやく美都の腕の中で顔だけ上げてボンヤリした視線をテーブルに向けた。
そこにはモスグリーンの布の包みが置かれている。
僕は美都から腕を離し膝を下ろすと恐る恐るそれに手を伸ばした。子供が親の存在を確かめるかのように、僕はそれを手にするとまた直ぐ美都の胸に縋り付く。
誰かの体温を感じていないと恐かったのかもしれない。
近くで見ると金や明彩色の糸が地味に織り込まれている品の良い綺麗なハンカチだった。
上から一角毎に開いてみると、中には白い封筒が2通。
10年も経っているのに、さほど古さを感じさせないのは…三好さんが丁寧に保存してくれていたんだろう。
上の封筒にはひらがなで僕の名前が書かれてあった。
しっかりとした文字はそのまま母さんの性格を物語っているようだ。そして重ねられていた後ろの封筒には父さんの名前。両方裏には何も書かれていない。
僕は父さん宛ての封筒をハンカチと共に脇に置き、残った封筒の封を切る。といっても綴じ目は軽く着いていただけだったから、指を差しいれただけで簡単に開いてしまった。
中から便箋を取り出すと、ほんの僅かに何か香りが漂ったような気がした。
三つに折りたたまれている便箋を開く。
文字に目を落とす前に確認するかのよう一度美都を見て、そして瞼を閉じると大きく深呼吸をした。
11月30日 午前6時12分
あなたを産んでちょうど6年
そばに いてあげられなくてごめんなさい
もうずっと一緒にいられなくてごめんなさい
あなたのために もう何も残してあげられなくてごめんなさい
何もあなたに与えることはできなかったけど
ただひとつだけ 命だけはあたなに与えることができたから
あなたのお父さんを愛したこと
そしてあなたを産んだことだけが私の誇りだから
だから 産まれてきたことだけは どうか後悔しないでください
なにものにも負けないでください
強く生きてください
生きて 幸せになって
それだけが私の願いだから
さようなら
ごめんなさい
それから 私たちのところに産まれてきてくれてありがとう
本当にありがとう
翠へ
母 みどり
その日僕は一生分泣いたような気がする。
三好さんはその後部屋には戻っては来ず電話だけが掛かってきた。
僕の状態をある程度予想していたらしく泊まっていけばいいと勧めてくれはしたけれど、いくらなんでもそこまで甘えるわけにはと思い僕達はタクシーで家まで帰った。とてもじゃないけど僕が電車で帰れるような状態じゃなかったから。
というのは後から美都に聞いた話。
つまり手紙を読んでから翌日目を覚ますまでの僕の記憶は、すっぽり抜け落ちていた。
目を覚ましたといっても腫れた瞼が重くて気分的には薄目しか開けてないような感覚だ。あまり寝ていなかったのか眠りが浅かったのか、とにかく頭がボンヤリしている。
全身もだるい。
泣くことってこんなにも体力を使うんだ…。
窓の外から微かに電車の滑る音が聞こえる。だけど部屋の中はまだ薄暗い。
夜明け前だろうか…
静かに耳を掠める美都の寝息が心地いい…から起こしたくなくて、僕はじっとしたまま三好さんの話をゆっくり思い起こしてみる。
今はまだ受け止めるだけで精一杯だけど、ちゃんと考えることができるのは事実を僕の中で受け入れ始めてるってこと。自分の中で何かが変わり始めているような気がする。
それは多分散々泣いたおかげと母さんに捨てられたというコンプレックスが消えていたからかもしれない。
だって母さんはずっと僕を愛してくれていたんだから…
三好さんには何れまた会うことになるだろう。
お礼も言えないままだし、まだ訊いておきたいこともあったから。
伸弘さんと圭吾さんにも電話なんかじゃなく直接会って報告したい。
そして後一人、会わなければならない人がいる。
「どちらの佐伯様でしょう」
機械的で何の抑揚もない態度に、
「だからそれ以上は言えないんですってば」
覚悟していたとはいえむっとしながらの答え。
さっきから何度このセリフを言ったことか。
僕が今居る所は初めて訪れるマンションの玄関先。
三好さんのマンションも高級そうだったけど、ここはその上に超が付くクラスだ。
会話の相手はマンションの管理人、というと貧乏臭いか。
さすがに著名人が住むだけのことはあって警備も厳重だ。正体不明の人物にはインターフォンすら押させてくれない。
向こうで応対に出ているのはどうやら父さんの今の恋人だろうけど、このままでは埒が明きそうに無い。
僕は一度玄関先から出ると携帯電話を取り出しボタンを押した。
『…はい』
答えたのは若そうだけど僕より年上だろう男の人の声。
「湫先生ご在宅でしょうか?」
「お名前を」
やや間を置いて尋ね返されて、
「先ほど玄関先に訪問させていただいた者です」
返答が…
…ない。
電話の沈黙って間が持たない。
「えっと…先生の身内の者なんですが」
『どのようなご関係のお身内でしょう?』
かなり不機嫌な声。
ってことは、やっぱり新しい恋人か何かと疑われてる。
「あー…。世間に伏せてあるプライベートな身内なんですけど」
『………』
随分言葉を選んだつもりだったんだけど、言い方を間違ったかも…。
「あの、ほんの一瞬でいいですから代わっていただけませんか、せめて名前を伝えてもらえるだけでも…」
『ですからハッキリした関係を説明していただかないことには、むやみに取り次ぐわけにはいかないんです』
「そこを何とか、僕帰りの電車賃持って来てないんです」
ついに泣き落とし。
下手な言い訳すると、反って父さんに怪しまれてしまうから。
知ったことじゃないと突き返されないことだけを願っていると、どうやらそこまで薄情ではないようだった。少し待てと言った後、流れてきた保留音を3周り聞いたところで音楽が途切れ、
『…どうぞということです』
僕はお礼を言って通話を切る。
もう一度玄関に引き返すと相変わらずの無表情で警備員が玄関を開けてくれた。
まったく、自分の父親に会うのになんて時間がかかるんだ。
なんて愚痴交じりに小さな溜め息をこぼしながらもホテルの内装のようなシックで煌びやかな装飾のエレベータに乗ると、それでもやっぱり緊張してしまう。
最後に父さんに会ったのいつだっけ。
そう、確か中学1年の夏だ…。僕の預けられていた家が土砂災害に遭った時、見舞いに来てくれたんだ。
父さんは一緒にいることは拒絶したけれど僕のことをどこかで気には掛けてくれていた。
結局父さんのことを嫌いにならずにすんだのは、時折垣間見える些細な言動から親心が伝わっていたからかもしれない。
ドアの前に立って呼び鈴を押すと直ぐに扉が開く。出迎えたのは意外にも体育会系の男の人だった。
僕を見て室内へは通してくれたけど、どうも不機嫌に輪を掛けてしまったよう。
まぁ深く考えても仕方がない。
僕は案内されるがまま玄関ホールを抜けて広いリビングに入る。
と広いばかりでそこには誰もいず、更に奥の扉の前まで進むとその男性が扉をノック。
やや有ってからの返事で僕だけがその部屋に通された。
…本に埋もれた書斎
その向こうで僕を見止めた父さんは凝然としている。
素顔で会うのはそれこそ数年か振りで、父さんは嫌悪というよりは困惑顔で視線を逸らしてしまった。仕事中だったのかラップトップのパソコンを閉じることはしない、けど指は止めてくれていた…口も動きそうにないんだけど。
作り笑顔で仕事机の直ぐ側まで寄って、
「元気そうだね」
僕はこの3年間で随分変わっただろうけど父さんは外見的にはあまり変わってはいなかった。
「…何か急ぎの用か?」
挨拶すら返してはくれず視線を逸らしたまま表情を変えない。
中身も変わってないようだった。
僕は溜め息をつくと母さんからの手紙を鞄から出し机の上に差し出してみる。
きっとそれが一番手っ取り早いだろうから。
すると思った通り一目で誰の文字かは分ったらしい父さんの険しい表情での無言の問い掛けに、
「とにかく読んで…。詳しい話はその後にするから」
僕は返事を待たず父さんへと背を向け、本に埋もれたソファーの間に僅かな隙間を見つけるとそのままそこに腰を下ろした。
父さんが便箋を出す気配を感じて無造作に積み上げられている本の山に僕は意識を向ける。
“湫 蒼月ってあれ、佐伯宗一のような気がするんだよ”
三好さんが僕を捜し出せたきっかけはこの言葉だったそうだ。
僕は昨日再度三好さんのマンションを訪れていた。
どうやら母さんは三好さんにも手紙を残していて、その手紙で分ったことは母さんが家を出た時に住んでいた住所と佐伯宗一というそこに居るはずの父さんの名前だけだった。その頃僕達親子は既に引っ越した後で転居先が全く分らず三好さんの方も手掛かりはそこで途切れてしまったそうだ。
興信所に頼んでも費用がかかりすぎるし…当時は今ほど羽振りが良くなかったから、半ば諦めたまま数年が過ぎた。3年前にやっとの思いで独立して店を持ち佐伯宗一の噂を耳にしたのはそれから暫くしてから。
さっきの言葉は店に来たお客さんが話していた会話だ。
不確かな情報だったけれど調べてみるだけの価値はあると思ったらしく、ついに僕まで辿り着いたそうだ。どうやって調べたかは最後まで教えてはくれなかったけど。
母さんは手紙と一緒にお金を同封してあって、既に身寄りの無くなっていた母さんの遺骨を古屋(母さんの旧姓)方のお墓に入れてくれたのも三好さんだった。その内お墓参りには行かなければと思いながら、この日の話で僕には疑問が一つ残った。
既に離婚してはいたけれど警察は母さんの遺体の引き取り手が無かったために、佐伯の家に連絡を入れたと言ったそうだ。
だったら父さんがそのことを知らないのはなぜだろう。
どう考えても母さんの死を知っていたようには思えない。
「…翠」
久し振りに父さんに名前で呼ばれ、少し感動しながら僕は声の主を振り返る。
父さんの目は真っ直ぐに僕を捕えていた。
そしてその表情はしっかりとしている。
「この手紙はどこで?」
静かな口調。僕はもう暫く父さんを見た後答える。
「母さんが死んだ時、隣に住んでいた人に。三好俊という人で、その手紙を渡すために僕のことを捜し出してくれたんだ」
そうかと父さんの小さな呟き。
「遺体は綺麗にして貰えたんだろうか」
僕はぎこちなく首を傾げた。やはり考え付くことが僕とは少し違う。
「そこまでは聞かなかったけど…だけど薬物の過剰摂取で死んだそうだから、よほど酷いってことは無かったんだと思うよ」
いくら子供だったとはいえ、美都は死んでいることに気が付かなかったくらいなのだから悲惨な状態ではなかったんだろう。
「薬のこと、訊かないんだね」
驚いた様子も無く頷いた父さんに僕が問い掛けてみた、。
母さんは何もかも手紙に書いていたのだろうか。
「自分の意志で始めたわけじゃない。麻薬なんて物は扱い方次第で投与されている本人の自覚が無いまま中毒にできるんだ。地獄の一歩手前に居るつもりでどうにか持ち堪えていた神経が、実はそこが奈落の底だと気がついて」
パチンっ
父さんがラップトップのパソコンを閉じた音。
「全ての望みが断たれてしまっても仕方が無い。 奈落で唯一見たものは、縦横無尽に張り巡らされた蜘蛛の糸」
これは湫蒼月特有の言い回し。
父さんの小説の売り物はこのダークな部分なのだ、一冊読めば絶対に気が滅入る。
「やっぱり母さんは逃げられなかったんだね」
最後までしっかりと書かれていた母さんの手紙の文字は直ぐに死を選ぶようなひ弱なイメージは何度読み返しても湧いてはこなかった。
父さんが奈落の底だというのなら、僕が想像している以上に相当酷い状態に母さんは追い込まれていたんだ。本当は何が有っても生きていて欲しかったけど、母さんが死を選んでしまったことは仕方が無かったのかもしれない。
と、
「…みどりを死なせたのは、あいつを信じ続けることができなかった私の弱さだ」
深い溜め息をつき父さんは瞼を閉じる。
自分を責める気持ちは分るけど父さんにはどうすることもできなかっただろう。全ては僕達が知らないところで起こったことなんだ。
「母さん、何も言わずに家を出たんだから…」
僕の言葉に父さんは首を横に振った。
「この手紙通りにみどりがこれを書いた翌日死んでいたとすれば、私達の離婚した日とみどりが死んだ日が同じということになるんだ」
?
「言ってる意味がよく…」
「みどりは家を出る時に記入済みの離婚届を置いて行ってた。私はそれでも踏ん切りがつかず、ずっとそれを持ってたよ。10年前の翠の誕生日の日もだ」
「良く…憶えてるね」
「翠の誕生日には帰って来るだろうと…そんな期待に私は賭けていたから。その翌日、家に離婚届を取りに来たのはお袋だった」
僕は驚いて父さんを見る。
まさか…
「警察が佐伯に連絡したって言ってたけど」
父さんは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「警察が連絡を取ったのは私じゃなく実家の方だ」
その言葉だけで言わんとしていることの大半が理解できた。
それは三好さんには分らなかった事実だ。
佐伯の家系はいまだに政財界にも通じる程の古い名家で、父さんはその中の分家の次男。それでも格式を重んじる父さんの両親は(僕にとっては祖父母なんだけど)母さんとの結婚には大反対だったそうだ。親の反対を押しきって強引に母さんと籍を入れた父さんは長い間勘当されていて、ようやくそれが解けたのが離婚してからだったと言う。
「あの日のことはよく憶えてる。いつまでも離婚届を出し渋る私に…家を出て行くずっと以前から男が居たのだと、息子の誕生日にも連絡をよこさないような薄情な女なんだと、あのお袋に泣きながら懇願されて私は決心したというのに」
父さんは何かを振り切るように首を振り、
「まんまと一杯食わされたってことだ」
母さんは佐伯宗一が遺体を引き取りに来たらという前提で、三好さんに遺書を託していた。結局警察には佐伯からは誰も来なかった。
当然だ、あの人達が来るわけなんて無い。
慌てて籍を抜かせたのは佐伯の籍に傷を付けないため。ましてや同じお墓になんて骨は埋めさせないと…佐伯の名前を使えば多少の時間のずれくらいどうにでもなったんだろう。母さんの死亡届は旧姓で出されたんだ。
縦横無尽の蜘蛛の糸…
掛かってしまったのは、母さんだけじゃなかった。
「愚の骨張とはこのことだ」
言って俯いた父さんの肩が小さく震えている。泣いているのだろうかと思っていると、微かに漏れ出したのは笑い声。
「父さん…」
次第に大きくなる声に驚いて、僕は立ち上がると傍まで寄った。
それでも父さんは嗤い続ける。
まるで狂ったように嗤って、喘ぐように声を枯らしてしまっても嗤う。
呼吸困難に陥ったように不規則に息を乱し大きく吸ったその声が…
鳴咽に変わった。
「父さん」
机に両肘を付き、手で顔を覆い隠したまま、
「限界だ…」
一人にさせてくれ。
顔を上げることなく呟いた嗄れ声に、僕は静かにそこから離れた。
この10年間信じ続けていたことを根底から覆されたのだ。それが事実であったとしても、受け入れるまでには僕よりももっと長い時間がかかるだろう。さっき父さんが僕の名前を呼んだ時に、父さんの心の変化は見て取れた。いくら時間がかかったとしても、僕達親子の仲は必ず修復できるはず。
だから僕は待つことができる。
ホール一杯に射し込んでくる西日は、それに背を向けていても充分に感じ取ることができるくらい明るい。
それでも刺すような夏の日差しに比べればずっとその光は優しく注ぎ込んでいた。
ここは学校の図書館にあるコミュニケーションルーム。
学園の図書館は高校の施設にしては過ぎるほど立派な建物だ。1階は車の展示場のように施された高い窓ガラスのお陰で、雨の日でも暗さは感じない。2〜4階も囲う壁の半分以上がガラス張りになっていて、程好く光を取り入れた広い書棚と閲覧席が設けられている。その上は屋上かな、行ったこと無いけど。
「お前、呼び出したんならもう少し分かりやすい所に居ろよ」
美都の呆れ気味な声。
昼休みに話が有るからと放課後の予約を橘がとったくせに、授業が終わると当の本人は行方不明になっていた。
美都と二人橘を捜していると、どういうわけか図書館に居たのだ。
「部活の用でちょっとね」
橘は一応短く謝った後そう続けた。僕の記憶に間違いがなければ、なんだか地味な部活に在籍してたような…
「ワンダーフォーゲルの集まりか?」
そうそう、それ
ところが橘は違うと首を振る。
「じゃあ理化学部?」
そんなところにも入っていたのかと思っていると橘はまた首を振った。
「天文学?」
驚いて橘を凝視してしまう。
一体どれだけ掛け持ちしているんだ?
その後も美都は地味な部活名ばかりを数個挙げ、その全てに橘は首を振った。
結局観念した美都に橘が含み笑いで、
「読書部」
………
呆れるしかない。
「松前も掴み所が無いが、お前のすることも奇々怪々だぞ。どうして行きもしない部活にそうこぞって入部するんだ、デートの言い訳にはもう充分足りてるんだろう?」
デートの言い訳?
「今度のはちょっと別の訳有りでね」
どういうことだろうと橘を眺めながら話の続きを待っていると、ばったりと目が合った。
橘はそのまま黙って僕を見ている。
話を続けてくれる気がないのかな…
美都も話題が変わることを予感したのか、それとも無駄な会話を避けようとしたのか、そのまま何も言い返さなかった。
「…雰囲気変わったな」
少しの沈黙の後、橘は言った。
橘は僕の素顔を知っているのだから、外見がどうこうと言っている訳じゃない。
「そう…かな」
少し照れながら橘を見ると、その美貌でゆったりと微笑えんでいる。
なんだか嬉しかった。母さんのことをちゃんと消化できたってことだ。
あれからもう1ヵ月以上が過ぎている。
コンプレックスの元凶がなくなってしまった今、硝子の仮面は僕にはもう必要のないものになっていた。
実際僕自身精神的にも、目から鱗…というよりは硝子が落ちてしまってすっきりした気分だった。
いい意味で外面も内面も変わっていけるなのら、辛さや哀しみもまた幸せにつながる重要な要素なんだ。
「マスターから預かってきた」
橘はブレザーのポケットから何かを取り出して僕の手のひらに乗せて見せた。
翠く光る石。本物の翡翠だ。
「佐伯に礼を言っておいてくれって」
「困るよ」
確か翡翠って高いって聞いたことが有る。
三好さんにはしてもらいっぱなしなうえ、こんな高価なもの貰うわけにはいかないよ。
「貰ってやる方がいいんじゃないか?」
美都が言った。
「金額的なことじゃなくて、それなりの意味が含まれてるんだよ」
橘も頷いている。
僕は手のひらの石を眺めた。
三好さんもやっと母さんの呪縛から解き放たれたって解釈していいのかな。
「僕の方こそ、お礼言っておいてよ」
橘は笑顔で受けて、
「宗旨替えした佐伯宗一にも、だそうだ」
言葉を足した。
…あの後父さんが某雑誌に掲載した詩は今までとはまったく違う文体で世間を驚かせることになる。
父さんとはあの後まだ話せてはいないけれど答えはそれだけで充分だった。連載に穴を空けてまで書いたあの詩の本当の意味を理解できるのは極僅かな人だけだろう。
その中には三好さんや美都も含まれるんだけど、多分橘と松前もある程度解っているんだと思う。橘は松前ルートで父さんのことを知っていたのだ。三好さんに僕のことを話さなかったのはそういう経緯も有ったのだろう。
「有り難う」
僕の言葉に橘が何がと不思議そうにした。
「橘にも迷惑掛けたから」
すると言った途端美都が吹き出し橘はさも不愉快そうにそれを睨む。
僕は全般的な意味で言ったんだけど、美都が笑ったのはあの公衆の面前でのキス未遂から起こった思わぬ後遺症のことだ。
「気を付けないと、そのうち襲われるぞ」
橘はその言葉を一笑の内に伏した。
「そういう輩はただの世間知らずか、よっぽどの馬鹿だな」
公には騒がれなかった事件だけれど裏の裏では噂になっているんだそうで…、元来の女の子のファンに付け加えて男子生徒からも声がかかっているらしい。
とそこへいきなり、
「森丘! 先輩が早く来いって!」
大きな呼び声。
声に振り返ると少し離れた場所に美都と同じ部活の同級生が立っていた。
笑いながら直ぐ行くとだけ答えた美都へと、
「変わったのは二人揃ってか」
橘は言うと足を組み直した。
「俺のどこが?」
手にした紙コップのコーヒーを飲み干した美都は別段怒ったふうでもない。
「愛想が良くなった」
僕は軽快に笑う。
美都に対する形容詞には含まれていなかった言葉だ。
「ならポスト橘でも目指すとするか」
言って立ち上がった美都に向けた橘の視線に僕は驚いた。
ほんの一瞬のことだったんだけど、それはどこと無く羨望を含んだような眼差しだったから。
美都がじゃあと立ち去った後、橘もゆっくりと腰を上げると、
「送って行ってやるよ」
「部活は?」
首を傾げて橘を見た僕に、橘は軽く笑いながら、
「今日の活動はもう終わったんだ」
よく解らないことを言う。
6時間目終了からまだ1時間も経ってないのに…って、まぁいいか。
学年トップの橘が考えてることは僕には計り知れない。立ち上がって橘の後に付くと西日に少し目を細めた。
僕は掌の中の翡翠をギュッと握り締める。
母さんがきっかけで親しくなれた人が沢山居る。それはきっと母さんからの贈り物だ。
順風満帆だと表現した父さんの気持ちは、そのまま僕の意欲にもつながる。
本当は直接伝えたい言葉だけれどそれはもう叶わないから、もし魂だけでもどこかに存在しているのなら…
とどけ、僕の想い 。
母さん、僕を産んでくれて有り難う…。
真秀には翠
湫 蒼月
世を諦(ヤ)めた君が情けの盃に
天漿(テンショウ)を酌み酔えずとも
水面の空に蒼い月
過ぎた幾瀬を冱(ゴ)に想う
混沌・混濁・混迷・混紡
虚偽(ウソ)と真実(ホント)の見分けも付けず
浮かぶ小舟の帆も知らず
三千世界で空虚(ウツロ)を好み
心の玻璃(ハリ)を濁らせる
人を諦め遣る瀬を無くし
鴆酒(チンシュ)と嗤い酩酊(メイテイ)し
広さ深さも分らぬ闇で
身を横たうは幾年月
やがて虚に舞う一葉のみどり
現(ウツツ)を眼(マナコ)で仰ぎみて
注ぐみどりが身に滲(シ)みわたる
我が玻璃鏡中には真(マコト)のみどり
君が説くものみどりなら
我いざ其処に舵を持ち
君がみどりを指すならば
我いざ其処に向かわざるべし
我いざ其処に進まざるべし
君が下腹で熟す機に
大きくその帆をいざ掲げん
順風満帆 霞晴れ
真帆(マホ)にもみどりが永久(トワ)の彩(イロ)
順風満帆 射す初日
真秀(マホ)には翠(ミドリ)の光なるかな
作:杜水月
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