銀のナイフ 

 長い休みが終わっても日差しはまだまだ夏のまま。
 開け放たれた窓から聞こえてくるうざったい蝉の鳴き声が、暑苦しく教室中に響き渡っている。
 頃は9月、2学期初日のHR


「では、これでホール係のメンバーは決定と言うことで…」
 学級委員長の言葉を忌々しげに聞きながら思わず黒板を睨み付けてしまっても、誰も文句は言えやしないはず。
 議題は調理係や掃除係や別の人員選出に移っていたんだけれど、そんなことどうだってよかった。
 いつまでも一番前の席で黒板の一点を睨み付けたままの僕を、時々委員長が申し訳なさそうに視線を向けていることは分かっている。
 分ってはいるけれど…
 可哀相だと思うのなら、そこの白い文字を何とかして欲しい。
 ホール係・ウェイトレスの横に並ぶ、
“佐伯”
 の文字を。
 この際、圭吾さんでも伸弘さんにでも…美都は無理だけど、何でもいいから養子にしてもらって名字を変えてしまいたい気分だった。そんなことしたって何の解決にもならないことも充分承知で、それでも思わずにはいられない。
 ことの発端は夏休みのとある登校日、その日は9月下旬に行われる文化祭の出し物が決められるlことになっていた。
 その夜、美都との電話での会話。











『文化祭の出し物決まったぞ』
 僕は伸弘さんとの旅行で欠席していた。
「何になったの?」
『喫茶店』
 何故か美都のトーンが重い。
「ふぅん…まぁ、普通の線だよね」
『それが、そうでもない』
「ん? どういうこと?」
『サテンの名前なんだと思う?』
「…さあ」
 皆目見当もつかない。
『悩める子羊っていうんだが』
 ぶっ
 思わず吹き出してしまった。
「なに、そのセンス…」
『名前のセンスはどうでもいいんだよ、悩める子羊が何を指しているかが問題なんだ』
「教会形式にして、シスターがお茶出しながら相談事でも聞くんだ?」
 込み上げる笑いをこらえながらの言葉に美都はいかにも深刻そうに続ける。
『子羊は客じゃなく店員…いや、客も含めての意味かな』
 いったい何をそんなに警戒しているのだろう。
『俺から言わせると、倒錯の羊達だ』
「…倒錯、って」
『ホール係全員、逆転の世界』
 …え?
 頭のいい美都に婉曲に言われて意味を呑み込むのに時間がかかる。
『分らないか? はっきり言うと、男装女装で接客するってわけだ』
「それって…」
『具体的なメンバーは2学期に入ってから決めるらしいが、翠。覚悟しといたほうがいいぞ』
 すっかり笑いが消えてしまった。
『言い出したのが耽美主義・吉野だからな、目的の半分は白河の男装の麗人。後、半分は…』
 聞くまでもなかった。
 吉野の僕を抱いてみたい発言は美都から聞いている話だ。
「…でも、吉野一人じゃそういう訳にも」
 僅かな期待にしがみつく僕。
『クラス中がどれだけ乗り気だったか教えてやろうか?』
「…教えなくていい」
 決して自分の容姿を誇大評価するつもりはないけれど、眼鏡をしていない時の周囲の反応には自覚が有る。
 それでも限りなくゼロに近い期待を持って新学期を迎えてみると、やはり予想に反して…予想通りと言ったほうが正しいか。
 僕はクラス中の期待を背負うことになってしまった。












「よしとぉ…」
 HR終了後部活動に向かおうとする美都を教室で呼び止めた僕は、よっぽど情けない顔をしていたに違いない。
 美都は人目もはばからず僕の手を引いた。
 そして西階段1階の踊り場の裏。
 ほとんど人気の無い場所に入るなり、ふわっと抱き込んでくれた。
「可哀相だが、こればっかりはどうにもしてやれない…」
 当然のことだ、ほとんど満場一致で決まったホール係。
 さすがの美都が睨みを効かそうがどうしようが結果は変わるはずが無い。僕達のことを正確に知っているのは、今のところ白河だけなのだから。
「どうしても嫌ならドタキャンするか?」
 美都の腕の中で首を振った。
 そういうことはしたくない。
 ただ…
「…不安なんだ」
 女装なんてせずに済むならそれに越したことはないんだけど、本当はそのことだけにここまでごねてる訳じゃない。理由は別に有った。
「お母さんのことか?」
「誰か知ってる人、来るかもしれない。もしかしたら本人が…」
 10年程前に失踪した僕の母親。
 原因は駆け落ちだったとしか聞かされていない。その後、父さんは母似の僕を拒絶し続ける。小学校卒業を待たずに父さんに別居宣言を告げられ独りで途方に暮れていた僕を救ってくれたのが伸弘さんだった。 そしてその恋人・圭吾さんと二人して母さんの手がかりを探してくれたんだ。
 母さんが残した最後の痕跡がこの街だと知って、僕達はわざわざこの街へと移り住んだ。
 僅かに残る記憶の中の優しい母さんに逢いたくて…。
 何かその後の消息が分ればと引っ越して来たものの、いざ住んでみると決心が鈍った。
 僕達を捨てて出て行った人に無理やり会ってどうしようというのか…。 母さんは僕に逢いたがっていないかもしれない。
 また父さんの時のように背中を向けられることが恐い。
 そう思うと母さんに似ているというこの顔で、部屋から一歩も出られなくなった。もともとは父さんの何人目かの恋人に、母似の顔を隠すよう強引にかけさせられたダサい眼鏡だったけど、この街に来てから別の意味で役に立つようになった。
 伸弘さん達に眼鏡のことは随分と反対されたけど、それでも外せず今までいてしまったのに…。
 それなのに今更文化祭という誰とも知らない人が大量に集まって来る状況で、わざわざ仮面を外して…しかも女装で人前に出ろなんて、
「事情、担任に話してみるか?」
 美都の胸で瞼を閉じて少し考えてみたけど、担任が出てきたりしたら皆に事情を勘ぐられるに決まってる。
 大体女装できない理由なんて有るわけない。
「いい、無理だよ」
「翠」
 顔を上げると心配そうに見つめる切れ長な美都の瞳。
 美都さえいれば…
「大丈夫」
 乗り越えられるかもしれない。必ずしも母さんが来ると決まったわけじゃなし、もし何かあってもその時は、
「美都が付いててくれれば、頑張れる」
 かもしれない。
 だから僕のためにそんな顔しないで。
「そんなにあっさり決心していいのか?」
「いいんだ」
 本当は良くないかもしれないけれど…
「今まで何も無かったんだから、きっと何も無い確立の方が高いよ。変に警戒し過ぎる方が周りの誤解招きかねないし」
 自分に言い聞かせるように言って、美都にも笑ってみせた。
「ごめん、教室で呼び止めたりして」
 あの時は動揺していて周りを気にする余裕なんか無かったけれど、美都に手を引かれて教室を出る時のクラスメートの好奇の視線を思い出した。
 僕と美都の関係は夏休み前からちょっとした噂になっているから。
「気にすることはないさ、俺としては別にばれても構わないんだから。そうすればいつも一緒にいてやれるし、おまけに翠に付く悪い虫も追い払いやすい。一石二鳥を狙ってるんだぜ」
 美都の言葉に思わず苦笑い。
「あんなに同性に拘ってたくせに」
 僕達の関係がハッキリしてから…特に身体の関係を結んでからの美都は、掌を返したように大胆に行動するようになった。
 夏休みの間中ほぼ毎日僕のマンションの部屋に寄り道して行くのだから、聡い高橋の疑念なんかはかなり確信に近いものが有るだろう。
「昔は昔、今は今。翠のこと誰にも渡したくないからね」
 言って唇を軽く塞がれて、

 ――!

 ビックリだった
 校内でキスなんて…
「今日また寄ってくから、続きはその時に」
 瞬時に真っ赤になっただろう僕を後目にクールなウィンクを投げかけて美都は涼しい顔で去って行った。
 若さのせいなのかどうか分らないけど、僕はすっかり美都との行為に溺れてしまっている。身体を重ねるたびにそれ以上の欲求が積もっていく自分が時々嫌になって、たまにはそういうこと抜きで健全な一日をと思っているのだけれど…未だ成功した試しが無い。
 まったく困ったもんだ
 溜め息と共に鞄を取りに教室へと戻れば、すっかり人影もまばらになっていた。どうやら行先も告げづ消えた友人を待つほど皆暇ではないようで、一緒に帰ってくれそうな友達の影は見当たらない。
 誰に言うとも無く、
「帰ろっかな」
 呟いて鞄を持った次の瞬間、不意に後ろから腕を掴まれる。
 驚いて振り返った先に崎田を見止めて、
「…何?」
 ほんの僅かに眉間に寄ってしまったシワを1秒で解くと笑顔に変えてみせた。だって崎田は一応のところ同じ仲良しグループに属しているから。
「どこ、行ってた?」
 なのに僕の笑顔の努力を知ってか知らずか崎田はニコリともせずに問い返す。夏休みの少し前から向けられるようになったこの執拗な視線は僕でなくても嫌悪を抱くだろう。
「どこって別に…」
 言いながら掴まれた腕を軽く振り払うと、
「森丘君と何してた?」
 あからさまに不快感を抱かせる口振りだ。
 1学期の終わり頃、眼鏡を掛け忘れたまま美都と揃って登校した日から崎田の態度が一変した。それまでは影が薄く自己主張もしない当たり障りの無いような奴だったのに、あの日から視線と態度と言葉ではっきりと美都とのことを追求してくるようになった。
 崎田が僕に対して特別な想いを持っていることはとっくに気付いているけれど…だからって一から十まで詮索されてそれに答えてやる義理なんてどこにも無い。
「…別に何もしてないよ」
 それでも崎田の目はまだ僕を見据えたままだ。
 どうしてこんなこと訊かれなきゃいけないんだ。
 この際はっきり言っておこう。こんなことが続くようでは、この先友達なんてやって行けない。
「そうやっていちいち僕のこと監視するようなこと、止めてくれないかな。何が気に入らないか知らないけど別に崎田に心配してもらわなきゃならないことなんてないよ」
 崎田のヤバそうな視線にできるだけ声を荒立たせないように言ってみた。キレるのは美都もそうなんだけど、崎田の場合は何か別の意味でヤバそうなキレ方をしそうでかなり恐いから。
 すると、
「僕にはそうする義務が有るんだ」
 ん?
 義務?
 って何の?
「森丘君なんかと親しくしてる君が許せないんだ」
 ……?
 何だ今のセリフは。
 まるで僕が崎田の所有物だとでも言いたげな…
「佐伯君は」
「さっ、えっきくんっ♪」
 なんとも唐突な
 会話に全くそぐわない声が崎田の言葉をかき消した。
 誰がどこから…と慌てて視線を泳がせると、教室後ろの戸口で白河が極上の笑顔を浮かべて立っている。
「一緒に帰らない?」
 今まで一度として一緒に帰ったことは無かったけど、この際深くは考えるまい。
 僕は直ぐに頷いて、
「じゃあそう言うことだから…」
 鞄を手にすると崎田の顔も見ないまま戸口へと走る。
 何がそう言うことなんだって思いつつ、あれ以上会話を続けていては心臓に悪過ぎる。
 人に好意を持ってもらえることは本当に有り難いことなんだけど、場合によりけりってことも有るんじゃないだろうか。だってあれは迷惑以外の何物でもないから…。
「ありがとう、助かったよ」
 白河と二人、廊下を並んで歩きながら礼を言う。
 何の話だか分らないだろうと思っていたのに、
「どういたしまして」
 軽く笑顔で返された。
 分ってたんだ…
「忘れ物取りに戻ったら何か真っ黒のオーラ漂ってたから。崎田君ってもともとヤバそうだったけど、夏休みで磨きがかかった感じよね」
「そうなんだ…さっきの勢い見てたら何かその内、刺されそうで。初めはそんなでも無かったんだけどなぁ」
 それが分ってたらお弁当一緒に食べようなんて誘わなかったのに。
「森丘君に守ってもらえば?」
「中々そういうわけにもね」
「だけど文化祭終わったら、きっと佐伯君の噂。学校中に知れ渡ると思うわよ」
 うっ
 一瞬忘れてたのに
「だから絶対ガードが必要になるって。そう思うと森丘君は充分適任、あのサド目の威力は効果抜群なのよ」
 この物怖じしない言いよう。
 美都と仲がいいの分かる気がする。
「…そういえば白河もホール係だったよね」
「好きでするわけじゃないけどね、どうせやるなら学校中の女の子を虜にして見せるわ」
 言いながら左手で前髪をパサっと掻き上げ艶っぽい流し目を送ってきた。
 僕がまっとうな男ならきっとメロメロだっただろう。
「期待してます」
 と僕の言葉に、今度は少女めいた可愛い笑顔を見せた白河のその視線が昇降口の人影を見止めて、
「じゃあまた明日」
 小さく手を挙げると何人かの男子生徒の輪へと向かって行った。
 詳しくは知らないけど多分美都が言っていた白河の親衛隊だろう。
 結構いい男揃いじゃないか

“私、佐伯君のことが好きなんだ”

 眼鏡の奥にある僕の瞳を真っ直ぐに見据えてそう告げた白河。
 今でも僕に向けられる彼女の視線はあの頃のまま色を変えない。
 それが分かっていても僕にはどうにもできないから、


 いつまでも僕なんかに執着せずに早くいい男が見つかりますように…


 と、綺麗な後姿にただ小さく祈ってみた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、それから半月と少し
 不安材料は何一つ解決しなくても、日々は過ぎて行くもので…
「はい、じゃあ今度こっち着てみて」
 白河の声に溜め息をつく。
「もぉどれだっていいじゃん、何着ても一緒だって」
「駄目駄目っ、佐伯君には特にきちんとコーディネイトしてもらわないと」
 僕のウェイトレスの衣装は背格好が似ている白河が調達することになった。昼食をとるとサイズが変わると言われて、昼休み返上で被服室に連れ込まれている。
 当日適当に着ればいいと思っていた僕は、
「服に合わせて化粧やら靴やら髪型決めるんだから、前もって試着してもらわないと」
 の言葉にすっかり着せ替え人形になっていた。
 嫌々ながらもされるがままで、そんな僕のことを白河に特別許可を貰ってニタニタと見学していた美都が、最後のワンピースを見るなり初めて冴えた瞳を輝かせた。
「白河ぁ、これは絶対入らないよ」
「うん、ちょっと厳しいかなと思うんだけど…。この色森丘君のリクエストなのよね」
 秋物の重ね着タイプの服で、少し光沢の入った青緑のワンピース。今までのはどれも大き目に着こなす服でそれなりに入ってはいたものの、今度のはそうも行きそうに無い。
 ウェストの辺りが特に絞ってあるのだ。
「まぁ取り敢えず着てみて、私には大き目だからもしかしたら入るかもしれないし」
 そうはいっても、
「大き目ってウェストいくつ?」
「57」
 ひゃー、少なく見積もっても10センチは細いじゃないか。
「絶対絶対無理だよ」
「って言ってるけど…」
 白河は美都を振り返る。
 美都は無言の視線を僕に返した。
 こうなると絶対引かないだろうな…
 仕方ない
「努力します」
 言って衝立の後ろに入ったものの、
 むむむ…
 これは入らない以前に後ろのファスナーが閉めれない。
 女の子の服ってどうしてこう面倒くさいのだろう。
「ちょっと、ごめん誰か手伝ってくれないかな」
 僕の呼びかけにやってきたのは美都。
「どれどれ…」
 腰までしか上がっていないファスナーを見て直ぐに状況を把握したようだ。背後に立った美都は腰に手を回してきた…?
 ん?
 何で腰に?
 と思う間もなく背筋に唇を押し当てられる。
「このまま脱がしてしまいたいな」
 言葉より先に既に肩を抜かれかけていて背中丸出し状態。
「こらこらこら…」
 衝立の向こうには白河がいるにもかかわらずなんて奴なんだ。
 そう思いながらも、背骨に沿って唇を這わされなんかしたらもうたまったものじゃない。
「だめだって」
 言葉と態度で抵抗してはみたものの…くすぐるように弱いところを刺激されて美都の腕に爪を立ててちゃ効果なんて無いに等しい。
 それでも制止を試みる、ここで最後まで行くわけにはいかないのだから。
「よしと…、お願い」
 その声に背中で唇が笑ったのを感じた。
 ふっと唇の感覚が消えると美都は脱がしかけた服を元に戻し始める。
「たまには抵抗されるのもいいもんだな」
 言葉に振り返ろうとした僕はガシっと肩を掴まれて、
「ほら、早くしないと昼飯食いっぱぐれるぞ」
 平然とした言いよう。
 まったくまったくまったく…!
「ちょっと腹引っ込めとけよ」
 人の思いなんか無視してさっさと立ち直った美都は一気にファスナーを上げた。
 っと
「入ったじゃないか」
 言うなり美都はそのまま白河の前まで僕の腕を引いた。
「どうだ、俺の目に狂いはないだろ?」
「ほぉんと。下着とか何とかしたら文句無いわよ」
 勝手に話を進めるんじゃない
「…かなり、きついんだけど」
 特にウエストが
「そんな風には見えないぞ」
「だって、大方一日中着るんだろ。これじゃ何も食べられないよ」
「それくらい我慢しろよ」
 美都の言葉に思わず睨み返してしまう。
「他人事だと思って!」
「一番似合ってるんだから仕方が無い」
 僕が睨もうが拗ねようが美都には堪えるはずも無く…助けを求めるように白河に視線を移してみても、同情の笑みを浮かべるだけだった。
「後1週間で少しダイエットするか」
「嫌だ、これ以上痩せたくない」
「嫌と言っても付き合わせてやるさ、夜の運動に」
 真っ赤になって俯いてしまった。
 人目をはばかれよっ! 馬鹿っっ!

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「はぁ…」
 僕は肩を落として今日何度目かの溜め息をついた。
 別に秋だからという訳じゃなく、ただただ身体がだるくて…。しかも、もうお昼だというのにまだ頭もボンヤリしている。
「大丈夫か?」
 昼食のコンビニ弁当をもそもそ食べている僕の溜め息に気付いてか、人のいい学級委員長・船越が声を掛けてきた。
「朝から調子悪そうだけど、保健室行く?」
 少し高めのキーで話すのは保健委員の相原
「熱は…無さそうだな」
 額ににゅっと手を伸ばしてきたのが占い師の姉を持つ将棋部の富樫
 で、その会話に視線だけを向けてくるのが例の崎田。
 この5人が今のクラスの仲良しグループ、というには最近頓に抵抗を感じてしまうのは僕だけだろうか。
「平気、ちょっと夜更かしが続いてるから」
「何か面白い深夜番組でもやってる?」
「そういうんじゃないんだけど…」
「分った…ゲームのやり過ぎだ」
 違うけどはっきり答えられないから、うやむやに笑ってごまかそう。
「最近目新しいの出てたっけ?」
「だったらこの間出た、あの…」
 勝手に話題が逸れてくれた。
 助かったと心の中で呟いた僕はまた一つ溜め息をついて視線を教室の隅に移した。
 丁度今僕が座っている位置から対角線上、正反対の場所。
 窓際の一番後ろを陣取っている目立つ一群。
 その中で夜更かしの原因が、何食わぬ顔で談笑しているのを見ると腹が立ってしまう。
 被服室でのダイエット宣言をその当日から実行させられている僕は、もうたまったものじゃない。毎晩快楽の淵に突き落とされて意識が朦朧としても途切れかけてもまだ引き上げてもらえず、泣いて泣いてやっと離してもらえるのが朝方。それが4日間継続しているのだからもう既に体力の限界を超えている。
 授業に差し支えると言うと、俺が教えてやるなんて言い包められてしまって…
 …直ぐにはまってしまう僕も悪いんだけど。
 などと思っていると美都と視線が合う。意味深に微笑まれてこれ見よがしに顔を逸らしてやった。すると、
「…セックスぼけ」
 不意打ちで小さく囁かれた声に、飲み込みかけの固形物を吹き出しそうになった。
 かろうじてそれを押え込んで横を見る……と、崎田の目が据わってる。
「森丘君最近ずっと泊りだろ?」
 驚きの連続だ。
 どうしてそれを…
「佐伯君のことなら何でも知ってるんだよ」
 あまりにもはっきり僕が崎田を凝視してしまったせいで、自然と周りの三人も会話を止めてしまった。
「この間も言っただろ、僕には義務が有るって」
「…何の話、かな?」
 船越が逸早く不穏な雰囲気を察して会話に入ると、
「僕の義務についてだよ」
 当然のように崎田は言い返した。
「なんだそりゃ、飯食いながらそんな話してんのかよ」
 少しふざけた富樫の言葉にも、崎田は僅かに目を細めただけで、
「真面目な話だよ、僕には佐伯君を守るという義務が有るんだ。もちろんそれは佐伯君も望んでいることなんだ」
「…佐伯がそんなこと言ったのか?」
 愕然と崎田を見るしかできない僕の気持ちを代弁したかのような船越の言葉。
「そんなこと聞くまでもないだろ? だって、佐伯君は一人でいた僕に声を掛けてきてくれたんだよ。僕はその意味を考えてみた、どうして僕に声を掛けてくれたんだろうって。でも答えなんかは直ぐに分ったよ、それは佐伯君が僕のことを好きだからだって」
「崎田君、それはちょっと考えが飛躍しすぎなんじゃ…」
 呆然とした相原の呟きに、崎田の口の端が上がる。
「そんなことは無いさ。その証拠に佐伯君は、毎朝一番に挨拶してくれる、休んだ日は一番にノート見せてくれる、プリント回す時は必ず笑いかけてくれる…。遠足に行った時お弁当分けてくれたのは本当に嬉しかったよ」
「それはただ単に席が前後ろだったからで、お弁当だって食べきれなかっただけで…。ほら、富樫とかも食べたじゃないか」
 人に任せてばかりではいられず何とか説得しようとした僕の言葉は僅かに震えていた。
 だって口元に笑みを湛えているけれど、崎田の表情はまるで…そう。
 感情を持たない人形のよう。
「佐伯君、もう隠すのは止めようよ。僕達はプラトニックな関係で佐伯君もそう望んでいると思ってたけど、本当はそれが不満だったんだね。だから森丘君とのことは責めるつもりはないんだ、佐伯君の気持ちを汲んであげられなかった僕に責任が有るんだから」
 自分勝手な妄想を雄弁に語る崎田の目は、僕を捕らえているようでそうでない。蝋人形に話し掛けられているようで……無意識に身体が引いた。
「そんなに怖がることはないんだよ、本当に怒っていないんだから。森丘君には僕から言っておいてあげるよ、僕の佐伯君に手を出さないで欲しいって…」
 にじり寄る崎田から更に逃げようとして背中が逆隣の富樫に当って止まる。いつの間にか震えている僕の肩を富樫がかばうように抱いた。
 と、その瞬間、
「君まで僕を裏切るのかっ!」
 まるで人形浄瑠璃の鬼夜叉のようにカッと崎田の目が見開き、甲高い怒鳴り声と共に目に狂気の色を湛えて崎田が立ちあがった。




 シ――ンっ…




 クラス中が水を打ったように静まり返る。
「ちょ…っと、崎田落ち着いて」
 それでもさすがに冷静な船越が真っ先に気を取り直すと、辺りを気にしながら崎田の腕を引いた。が時既に遅し。
 これ見よがしに腕を払いのけたその手で僕は左手首を痛いくらいに掴まれ、
「僕の味方は佐伯君だけだ、君だけは分ってくれるよね?」
 狂気の眼差しを向けられて答えられるわけが無い。
 強く引かれた腕を引き返した、と同時に耳元で何か裂けるような乾いた音を聞いた。
 目の前がチカチカして、熱を持ったように頭の中がボンヤリとする。
 その後に本当に熱いのは頬だと自覚して、目に映った状況と思考とが一致した。
「てめぇ、いい加減にしやがれっ!」
 富樫の怒号が間近で響いた途端、急に支えを失って床にしゃがみ込んでしまった僕の背後で椅子の倒れる音と女の子達の悲鳴。
 勝手に涙が零れてきて…身体が震えてどうしようもない。
 自分の感情を確認することもできず、混乱したまましゃがみ込んでいると、後ろから震えを押え込むように誰かに抱き込まれた。
「大丈夫か?」
 振り返る必要なんて無い、そのまま僕は美都の胸に飛び込んだ。
「美都、美都…」
 泣きすがる僕の背に美都は優しく腕を回す。
「立てるか?」
 腕の中で頷いた。
「相原っ! 保健室連れて行くぞっ」
 その声に駆け寄る人の気配がして、ゆっくり立ちあがるとまだ教室内の空気は騒然としたまま。
 美都は僕を隠すように教室を後にした。
「何が有った?」
 廊下に出るなり少しきつめの口調で美都が相原に話し掛る。
「僕にもちょっと…」
 声で相原の動揺が分った。
 僕自身にも何が起こったのか分らないのに、相原に説明できるわけが無い。それなのに、
「一緒に居てそれはないだろう、訳も無く翠が殴られたっていうのか?」
 美都は容赦無く相原を責め立てる。
「でも、本当に何が原因か…」
「分らない訳、無いだろうっ!」
 美都の怒鳴り声に僕は足を止めた。廊下で注目を浴びていることは分っているから顔を上げないまま首を振る。
 相原のせいじゃない…
 すると美都は溜め息をついて、僕の肩を軽く叩いてみせると、
「ごめん、悪かった」
 相原への謝罪。
「……」
「経緯だけでも聴かせてくれないか?」
 美都の柔らかい口調に、やや間を置いて相原はゆっくりと話し出した。
「本当に…ごく普通にお弁当食べてたら、いつの間にか佐伯君と崎田君変な雰囲気になってて。きっかけは良く分らないんだけど、崎田君が義務がどうとか言い出して…。このところずっと崎田君様子おかしかったんだ、時々意味不明なこと言うし」
「それは翠に関して?」
「大体そうだったと思う。さっきもおかしなこと言い出したから船越君とかが、話を逸らそうとしたんだ…。 でも何かすっかり自分の世界に入っちゃってて。多分富樫君が佐伯君かばったのが気に入らなかったんだろうね」
「それでどうして翠が殴られるんだ?」
「佐伯君が逃げたから。崎田君完全に佐伯君が自分のこと好きだって誤解してる」
「…つまり誤解されるようなことが有ったってことなのか?」
「全然。 あれでそんなふうに思われるんだったら、誤解されないの森丘君ぐらいのものだよ」
 あはは…
 なんて意外に逞しい発言をした相原に感心してしまった。美都は次の言葉が出ない。
 少しの沈黙の後、
「…森丘君、ちょっと訊いていい?」
 相原の躊躇いがちな声に、
「何だ?」
 短く返した美都。だけど、
「さっきから佐伯君のこと、翠って呼んでるけど…それって深い意味有るの?」
 再び沈黙。
「別に答え難いならいいんだけど…。でもね、よく考えてみると崎田君おかしくなるの森丘君がらみが多いような気がするんだ」
 正解だよ、相原
 美都の返事を待たずして保健室に到着。
 で、
「どうしたのっ、一体!」
 保健室で僕が顔を上げるなり養護教諭の金切り声。即座に喧嘩と判断したようだ。
「相原君、担任の先生呼んできて」
 あまり大袈裟にして欲しくないなと思って美都を見ると、
「その内、また怪我人が来るから」
 言われてあの時の状況を思い出す。
 バランスを崩してしゃがみ込んだのは富樫が崎田に殴り掛かったからだ。その後の派手な音を思い出すと、後何人か加勢したのだろうか…
「誰に殴られたの?」
 養護教諭の質問に言い澱む。赤の他人ならともかく犯人は良く知ってる人物でもあるし…。
「まさかそこのハンサムくんじゃないでしょうね」
「とんでもない」
 即座に首と手を振ってみせた僕だけど、口を開いた途端口内に走った激痛に語尾は流れてしまう。
 血の味が気持ち悪い。
 その表情で顎を持ち上げられ、
「はい、口開けて」
 顎を捕まれたまま口内をペンライトで調べられた。
「んー…それなりに切ってるけど、まぁ大丈夫でしょう。頬の腫れは冷やせば引くと思うから…」
 言い終わらないうちに勢いよく保健室の扉が開き、
「誰が怪我だって?」
 息を切らして慌ただしく飛び込んで来たのはクラス担任。保健室と職員室は同じ階に在るのだから、あの距離走っただけで息が切れてるようじゃもう年だね。
 なんて、考えてる場合じゃないんだけど。
「へ? 佐伯が?!」
 驚きの表情を浮かべながらも直ぐに僕の傍まで駆け寄った担任は、
「どんな具合ですか?」
 心配顔で口の端に絆創膏を貼ってくれている養護教諭に話し掛けた。 大した怪我では無い。と告げた養護教諭がゴミの処理をし出したのを確認した担任は僕の肩に手を置き、ほんの少しだけ椅子を回し斜め前で腰を落とした。
「それ誰かに殴られたんだろう、一体誰と喧嘩なんかしたんだ?」
 養護教諭と同じ質問。
 けれど二人とも喧嘩とは言いながらも明らかに被害者は僕だと思っているようで、その眼差しにはかなり同情の色が含まれていた。
 さっきと同じ理由で僕は答え兼ね、首を捻りながら笑おうと思ったんだけど、やっぱり頬に痛みが走る。担任は僕の仕草に険しい表情のまま後ろを振り返った。
「相原、事情は知ってるのか?」
 尋ねられた相原も曖昧な表情で担任から逸らした視線を僕に移す。
 どうしたものかな…
 そもそもあれが喧嘩と呼べるのかも疑問だったりする。そうするつもりは無かったんだけど、自然に美都へと視線を向けた僕を見て、
「まさか森丘のとばっちりなんてこと…」
 …とんでもない見当違いだ。
 さっきはさっきで実行犯の疑いを掛けられたんだから、きっと美都が何か説明してくれるだろうと思っていたんだけれど…。
 不思議なことに美都は腕を組んだまま何も言わない、というより聞こえていなかったかのようにじっと床を見つめたままなのだ。
「誰か緘口令でも引いたのか?」
 首を振って溜め息をついた担任は美都からの事情聴取を直ぐに諦めると、また僕に視線を戻した。
「あのな、校外でのことならともかく校内でのことなら黙ってたって直ぐに分るんだ、誰を庇ってるのか知らないが言ってもらわないと俺だって対処のしようが無い」
 諭し口調の担任がもう少し言葉を続けようと口を開いたその時だった、
「せんせーせんせーっ! いますかーっ! 保健のせんせー―いっ!!!」
 大騒ぎの一団がなだれ込んで来たのは。
「あっ、佐伯が居る」
「ひぇ〜ひぇ〜、血ぃでてるから早く何とかしてくれ〜!」
「森丘! お前加勢してなかったのかよ」
「おわっ、シャツに血が付いた」
「ありゃ? 担任だー。珍しく素早いじゃん」
 担任はしばし言葉を失った後、
「何なんだ、お前らぁ!」
 声が裏返ったって無理はないと思う。だってなだれ込んできた生徒は全員自分のクラスの生徒なのだから。
 まるで殴り込みにでもあったかのような姿で騒いでいる生徒達に驚愕しながらも、やっとの思いで手当てが済んで落ち着きを取り戻した担任は全員をようよう保健室に並ばせた。
「どういうことか説明してもらおうか?」
 と言ったところで実際に事の真相を知っているのは、ほんの僅かなのだ。
 ふるいに掛けられるように一人減り二人減り……残ったのは僕と富樫と崎田、それにひたすら寡黙になっている美都の四人。
 更にそこから大元の原因が誰であるかを予測した担任は、元凶だけを残して後の三人を退室させた。
 もちろん残されたのは崎田一人。
 担任は最初の被害者の僕を気遣ってくれていたけれど、崎田の様子で僕も退室させるべきだと判断したのだろう。


 ポツリ、ポツリ、ポツリ…
 なんて足音がするはずは無いんだけど、すっかり5時間目が始っているせいで静まり返っている廊下を何故か三人とも重い空気を背負って無言で歩いていた。
 美都は保健室に居る時からずっと何か考え込んでいる。
 第3校舎から第1校舎に繋がる渡り廊下へと差し掛かった時、不意に美都が立ち止まった。
 それに気付かず数歩、歩み出た僕と富樫が振り返ると何か思いつめたような美都のその視線は、僕ではなく富樫に向けられていた。
「どうかしたか?」
 訝かるような富樫の言葉に、
「…頼みが有るんだ」
 重い美都の声。
 少し首を傾げた富樫に真っ直ぐに視線を置いてみせた美都は、
「翠のこと、俺に任せてもらえないか?」
 ってどういう…
 僕が驚いて美都を見ても富樫に向けられたままの視線は動く気配が無い。
 仕方なく今度は富樫を見上げてみると、
「あきらって…佐伯のこと?」
 僕は黙って頷いた。
 富樫は戸惑いを隠せないようで、動揺した瞳でしばらく僕を見つめた後もう一度美都に視線を戻した。すると…
「頼む」
 深く頭を下げた美都。
 僕は思わず駆け寄っていた。
「美都…」
 どういう意図が有るのか分らないけれど、美都にこんなことさせたくない。
 止めてくれと言わんばかりに肩に手をやってみても、美都は一向に頭を上げそうにない。
「それはどう解釈すればいいのかなぁ」
 そんな僕達の様子を黙って見ていた富樫が口を開いた。言葉で美都は頭を上げると、一瞬僕を見つめて正面に向き直り、
「俺は翠に惚れてる。だから大事にしたい、守っていてやりたい」
 富樫が目を真ん丸にしてしまった。
 無理も無いだろうけど…
 びっくりしているのは僕も同じだから。
「翠は何も言わなかったが崎田のことは別ルートから聞いて知ってた、だから用心はしてたんだ。だけど今の状況じゃ、俺は同じクラスにいても傍に付いてやることはできない。富樫達が防御線張っていてくれたことは分ってたし、有り難いとも思ってはいるけど…目の前で翠が殴られたの見て、もう堪らないんだ」
 心痛な美都の面持ち。
「誰に何と言われても傍で守ってやりたい、誰にも傷付けさせたくない」
 美都の言葉は涙が出るくらい嬉しかった、きっと誰もいなかったら抱き着いていたに違いない。
 すると富樫がゆっくりと溜め息をつく。
「…どうしてそんなこと俺に」
「礼儀だから」
 美都の言葉に肩をすくませる富樫。
「意外に律義じゃん。わざわざ俺の承諾得なくても、佐伯さえ納得させれば良かったんじゃないか?」
「翠は富樫達のこと気に入ってるんだぜ。後でしこりが残るようなことはしたくない」
 富樫が小さく笑った。
「全部佐伯のため、か」
 呟くように言って腕を腰に当てると俯いてしまった。美都はただ黙って返事を待っている様子。
 僕は口を挟むに挟めずいつの間にか、さっき張られた絆創膏を抑えていた。
 と、その仕草に気付いた美都が覗き込むように視線を向けてくる。
 いたわるような視線に微笑んでみせて、
 大好きだよ
 心の中で何度も呟いた。
「しかし」
 すっかり自分達の世界に入っていた僕達は呼びかけで我に返って見上げると、富樫が呆れたような顔をしている。
「一体いつからなんだよ、俺は噂は噂だと思ってたからね。今の告白は心底驚いた」
「休みの間だったから分らなかったのは仕方がない、それに翠が嫌がるから教室では意識してたんだ」
「…教室では?」
「高橋なんかは勘付いてるな、絶対」
 そりゃそうだろう、夏休みの間中あれだけ毎日部屋に寄ってれば。
 一々あっさりと言ってのける美都の言葉に富樫は苦笑い。
「なんか、森丘のイメージ変わってしまった。もっとこう無口でクールだと思ってたんだけど…」
「惚れた奴が絡むと誰だってクールでいられないって、富樫も好きな人ができれば分るよ」
 その言葉に富樫の表情が一瞬固まった。
 …富樫には好きな人がいる
 それに僕が気付いていることを富樫は知らない、彼はその想いを必死で隠しているのだから…。
「そこまで言われたら仕方がないな。もともと俺がどうこう言う問題でもないんだ、船越と相原には適当に言っとくから…。その代りそのことでお前らが何噂されようが俺は一切関知しないからな」
 言葉に美都は満面の笑みを浮かべ、富樫は今日何度目かの驚きの表情を見せた。
「森丘…お前その仏頂面、絶対直した方がいいって」

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「…ごめんな」
 呟く美都の胸に大丈夫な方の頬を寄せると、Tシャツを通してゆっくりと体温が伝わってくる。
「何が?」
 口の傷が疼いて上手く喋れない僕は、少しくぐもった声で聞き返した。
「崎田が立ち上がった時、直ぐに気付けば良かったんだ。最初の一歩が出遅れなかったら殴られずに済んでたのに…」
 なんだ、そんなこと…
「もう、いい」
 僕は広げた掌を美都に見せて、
「だったしね」
「当然だ。拳で殴ってたら今ごろ崎田、顔の原型留めてないぞ」
 なんて過激な。
「しかしあれほどの騒ぎになるんだったら、富樫止める方が先決だったな」
 それはそうかもしれない
 あの後…
 僕が殴られて教室出た後のことだけど、何でもすごかったらしい。
 崎田に殴り掛かった富樫を抑えようと傍の何人かが止めに入ったのが逆効果。何せ狭い場所に一気に人が集中して団子状態になってしまって…その内振り払われて机にぶつかる奴等が怒り出し、それを抑えようとまた輪の中に人が増えた。結局クラス中の男子が野球の乱闘騒ぎみたいに暴れ出したのだから、もう船越一人の力では手の施し用がなかったのも納得できる話だ。女子達の悲鳴で教室の周りに見物人が集まり出したこころで、隣のクラスの有名人が助っ人に入った。
 収拾がつかなくなってしまっている2組の様子を見るなり、ほうきを黒板に叩き付けたのが"橘 郁"。で、そこに間髪入れずに一喝したのが"松前和臣"だったらしい。
 まさしく鶴の一声で静かにさせてしまうと野次馬を蹴散らせてクラスの3分の1の怪我人を速やかに保健室へと移動させ、さらに残ったメンバーに教室を片付けさせるよう指示すると何事も無かったかのように二人は去って行ってしまったという。
「崎田のことは松前に頼んでおいたから」
 腕の中で美都を見上げた。
「こういう揉めことは松前に頼むのが一番なんだ。俺達のことはもともとばれてたことだったし、それをとやかくいうような奴でもないから…それに松前の人脈には凄いものが有るんだぜ」
 有名人には有名になるだけの理由が有るものだ。
「声掛けられたよ」
「なんて?」
「大変だったな、って」
 美都は小さく笑う。
「あいつは誰にでも平気で声掛けるからな。それこそ老若男女・善人悪人問わずだから、裏の方でもかなり顔が利くんだ」
「うそぉ」
 かなり温厚そうな性格に見えるのに。
「本気で怒らせると橘だって手がつけられないらしい」
「ふぅ…ん」
 橘って…喧嘩強かったのかな?
「まぁ、俺達には関係ないだろうけど」
 そうだね
 と返してそのまま瞳を閉じた僕に美都がそっとキスをくれる。
「…なに?」
 キスの後ふと思い出し笑いをした僕へと美都の軽い流し目。
 僕は静かに首を振り、もう一度瞳を閉じた。


 思い出していたのは松前の言葉
 学校で声を掛けてきた松前は袖口に隠すようにだけど、何故か左手に派手な金のナイフを持っていた。何だろうと眺めた僕に、

“護身用”

 笑って言ったけど冗談だってことは直ぐに分かった。刃の部分全体には奇麗な彫刻がしてあったから…。
 せいぜい良くてもペーパーナイフ程度の物だ。

“佐伯のよりは随分派手だろう?”

 ナイフなんて持っていない僕は訳が分からず視線で問い返すと、

“あいつの場合プラチナ…って言うよりは、白銀だな。装飾無しの冴えた銀のナイフってところでどうだ”

 紛れも無く美都のことだ
 ぴったり的を得た表現に僕は笑って頷いた。



 美都は僕の…銀のナイフ

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ――翌日
 今までは泊りでも時間をずらして登校していたんだけど、
「俺はちゃんと翠を譲り受けたんだから」
 と昨日の宣言通り揃っての登校となってしまった。
 平静を装いつつ教室の席に付くと待ち構えていたように船越がやって来た。富樫から話を聞いているのかいないのかはともかく、それを振り切って美都の傍に行くというのも不自然極まりない。
 いつものようにそのまま船越を迎えた。
「眼鏡、駄目だったのか?」
 同情の眼差しを向ける船越に僕は黙って頷いた。
 昨日殴られた衝撃で飛んで落ちた僕の眼鏡は、その後の乱闘騒ぎで修復不可能になっていた。もともとメガネマニアではないから使えそうな代用品も無く、新しいのを買うまでは裸眼で過ごすしかない。
 美都にはこれを機に眼鏡を止めろと言われたけれど…。
「崎田、実家に帰ったって」
 え?
「さっき職員室で聞いてきた。夕べ崎田の両親が実家から迎えに来たらしくて、しばらく休ませるってさ」
「病院に連れて行ったとは担任言ってたけど…」
「状態がかなり悪かったんじゃないかな、はっきり言って昨日の崎田狂人めいてたよ。あんなのに殴られたんじゃ佐伯もたまったものじゃなかったよな」
 そうだね、とは答えにくい。
「言いたくないけど、このまま暫く休んでてくれればってさ」
「…それはちょっと崎田に悪いよ」
 俺の言葉に苦笑いの船越が、
「佐伯は知らないだろうけど一応俺、喧嘩を初期段階で止めようと富樫との間に割って入ったんだぜ。そしたら崎田に思いっきり首絞められた」
 言って顎を上げた船越の首には、くっきり指の跡がついている。
 びっくりしながらも不意に保健室に入って来た後、富樫が始終崎田を睨んでいたことを思い出した。
「情けないけどマジで恐かったんだ。俺これから崎田と上手くやっていく自信が無い」
 気持ちは大いに分る。
 僕だって……あの調子じゃいくら美都の睨み利かせたって通用しないだろう。と、
「おぅ、何話してるんだ?」
 背後から美都の声。待ちくたびれて自分から出向いて来たのだ。
 意外な人物の登場に船越は一瞬驚いて目を丸くして、だけど直ぐに気を取り直すと美都に笑顔を向けた。
「船越、昨日の放課後結構大変だったって?」
「うん、学年主任と生活指導の先生の前で色々説明させられた。崎田は病院に行ってるし佐伯は早目に担任が帰したからね。でも担任はもっと大変だったみたいだよ。何せあれだけの騒ぎだったから、すっかり校長先生の耳にまで入ってしまって職員会議だとか何とかって…」
「そのわりには今朝は落ち着いてるような」
「それがさ、不思議なことに途中から生活指導の態度が急に変わってね。その後俺達は直ぐに帰されたから詳しいことは分らないけど、結局崎田の病気のせいってことで穏便に済ませるつもりみたいだよ」
 確かに不思議な話ではあるけれど、ことを荒立てずに済むならそれに越したことはない。
「そうそう、佐伯に朗報が一つ有るんだ」
 突然船越が何か思い出したようにポンと手を打った。
「何?」
「女装、無くなりそうだよ」
「えーっ!!! マジぃ?!」
 何の前触れも無く大声を出したのは忽然とそこに立っていた吉野だ。
「お前いきなり…」
 僕の席の前、教壇に腰掛けていた美都が見上げる形で軽く吉野を睨んで見せたけど、吉野はそんなことお構い無しで、
「どういうことだよ、船越」
「どういうことって…」
 またまたいつもと違う人員に船越が戸惑っていると、
「おはよー」
 そこにこれまた戸惑い気味に相原が話し掛けてきた。
「佐伯君、怪我大丈夫?」
「あ! もしかして顔に怪我したからか?」
「そうじゃなくて」
「だったら何?」
「おい吉野、少し黙ってろよ」
 呆れながらの美都の言葉。
「これが黙ってられるかよ! 俺はこの日をどれだけ心待ちにしていたことか…」
「何々? 何の話?」
 軽やかな声で白河登場。なんだかやけに人数が増えてきたぞ。
「あぁぁ、なんてこった。白河の男装の麗人も楽しみにしてたのにぃ」
「それがどうかした?」
「無くなるって…」
 吉野は話も聞かないまま、よよよと美都の横にしゃがみ込んでしまう。
 ちょっと変わった奴かもしれない。
 なんてことはずっと前から心得ている様子の白河は吉野を無視して、
「そうなの?」
 誰とも無しに質問を投げかけた。
 困惑気味にいつもより増員されている輪の面々に視線を巡らせていた船越が、
「多分そうなると思う」
 会話を思い出したように答えて、
「昨日の事件はどうにか穏便に済ませられそうなんだけど内容が内容だったから…。担任が自粛の意味も含めて普通の喫茶店にしようって」
 僕と美都は目を見合わせた。
「崎田の奴ぅ…」
 いまいましげな吉野の唸り声。
「そういう問題じゃないでしょ?」
「そうだよ、あれだけの騒ぎ起こしたんだからそれで済んだだけでも感謝しないと」
 船越の言葉に大きく頷きながら、誰かの視線に気が付いて振り向くと富樫が眉間にしわを寄せて戸口に立っている。
 どうなってるんだ
 と目が語った。
「おっ、富樫。おはよう」
 僕が反応するより早く言い放った美都の清々しい朝の挨拶で、結局富樫も眉を顰めたまま輪の中に加わることになる。
 そしてその数分後には高橋が加わり、これがきっかけで残りの2学期、3学期はこの大所帯で過ごすことになった。
 こっちの方も穏便に済みそうな気配に内心ホッと僕が胸をなで下ろしたことを、多分美都は知らないだろう。



























作:杜水月
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