Advance 

 梅雨のジメジメと暑苦しい季節だというのに締め切られたままの窓。
 室内に響くのは不規則なリズムで滴る雨粒の音だけ…

 生徒会室の扉を背にする位置で、応接セットのソファーに深く沈みこんでいる生徒会副会長・瀬田睦はひとり、小さなメモ書きをじっと睨みつけていた。
 それは…

メモ


 次期生徒会長・松前和臣がつい先日探り出した、セラフィムと名乗る集団暴行犯のハンドルネームのリスト。
 瀬田なりに短いイニシャルの持つ意味を解釈していたのだ。
 天使最上級の位・セラフィム(熾天使)を名乗るからにはハンドルネームもそれに準えられているのではないか、と。
 先入観を持っての推論は危険だとは思ったものの、実際ハンドルネームにしっくりと当てはまる天使が見つかってしまったのだから、推理の枠を広げてみたくもなるだろう。
 名前の末尾に印が入っている4人は熾天使になりうる天使名だ。
 そして、それ以外の2人は先日名前が判明した2人と合致する。
 数ある天使の中から選出されたこの6人。だが調べた限りではこの選出に何の意味合いも出てはこない。
 まだ何か…誰か不足しているのか、単純に好みの名前をつけているだけなのか。
 ハンドルネームGは実際女性らしき言葉遣いではあった。天使ガブリエルは女性の天使ではあるがしかし…。
 …けれどそれ以上は何の憶測も、想像すらも浮かばない。


 あっさりと面が割れた2人は熾天使では無いから実行犯として使ってはもらえなかったのか…?
 いや、もともとそうするつもりが無かったと言うことだろうか。
 最初から使い捨てる予定だった?


 瀬田はそこで腕を組み直すと背もたれに全体重を掛けながら、大きく溜め息をついてしまう。
 …捨て駒から取れる情報なんて高が知れてる。
 と、頭の切れる犯人像を思い描く瀬田が最終結論に達してしまった為に漏れた大きな溜め息だったのだが…

「何だか難しそうなクイズですね」

 推理に集中しすぎて全く人の気配に気が付かなかった瀬田。
 背後からの突然の声に心底驚いて腰を浮かしかけたものの、狼狽は逆効果…と即座に平静を装いながら、ゆっくりとソファーから立ち上がった。
「ど、うした。直接教室に戻るんじゃなかったのか?」
 ニコニコしながらそこに立っていたのはつい先ごろ生徒会役員となった成澤桂樹だ。
 瀬田の問い掛けに、
「はい、瀬田さんっ!」
 と大きく笑顔で頷くと、
「途中で部外秘の資料が混じってたことに気が付いて引き返して来たんです。教室目前まで戻ってたから、ついてないなぁなんて思ってたんですけど、瀬田さん1人が残ってたんだから今日は本当はすっごくついてる日かもしれないですっ」
 瀬田は否定も肯定もしないまま腰に軽く手を当て、
「もうそろそろ予鈴が鳴るぞ、早く用件を済ませて戻れ」
 穏やかな口調で言ってはみたが、瀬田の意に反してそこに留まったままの成澤は、どう言う訳かゆっくりと両手を広げて見せた。
 不審げに目を細めた瀬田へと、
「ギュッと抱き締められる距離ですね」
 言葉でじっと成澤を見据える瀬田。
 確かに普段では長時間有り得ない距離関係だ。
 たまたま自分の不注意でトップシークレットのメモを覗かれてしまった瀬田はさりげなくメモを自分の身体で隠し、その存在を忘れさせようと試みているのだ。
 つまり瀬田にしてみれば好きこのんでこの状況を作り出した訳ではなく成澤の挑発に乗るつもりも毛頭無い。
「午後の授業に遅れるぞ」
 静かに視線を落とし退室を促してみたのだが…
「やっぱり今日はついてます」
 言うなり一歩踏み込んだ成澤。
 ふわっ
 っと周りの空気が覆いかぶさる気配に瞬間、身体を強張らせた瀬田の耳の極近く、
「僕は、瀬田さんのことが好きなんです」
 小さく囁かれた言葉。
 瀬田は成澤の肩口に目線を置き、
「…知ってる」
 返答と共に細く息を吐いた。
 どうしたものか
 と瀬田は考える。
 無理に抱きついて来れば、突き離した勢いでその場をしのごうと思っていたのだが、意外なことにこの状況で成澤は身体のどこにも触れてはいないのだ。
 まるで庇護するかのように瀬田自身を腕で囲い込んでる。
 と言った状況。
 置き去りのメモのことは気にはなるのだが…
「僕が嫌いですか?」
 お互いの息遣いまで聞こえる距離での会話に戸惑っているわけではないが、思い掛けない展開に逃げるタイミングを失ってしまっているのは事実だ。
 瀬田は現状維持のまま、
「恋愛感情は持てないな」
 答えてはみた。が、
「僕が、嫌いですか?」
 同じ質問を成澤は繰り返した。
 聞きわけが無いことはすっかり承知済みの瀬田。
 もう一度ため息をつき、口を開こうとしたその時、

 キーンコーン、カーンコーン〜

 その場の空気など全く無視して、5時間目開始5分前の予鈴が鳴り響いた。
 二度目の鐘が鳴る寸前に、すっと身をかがめた瀬田はその位置で軽く反転しテーブルに腕を突き体重を支えつつ、さりげなくメモを掴み取る。 身体を起こしながら何気に視線を上げて…
「…!」
 今度こそ動揺も隠せないまま瞳を大きく見開いてしまった。

 会長机に浅く腰掛けているのは、その席の主である生徒会長・東條敦也だ。
 黙って瀬田を見つめる東條へ、
「…いつから」
 と、不意に口の端を上げた東條が、
「そいつと一緒に入って来た」
 言いながら顎で差したのは瀬田の後方だ。
 瞬時に状況を把握した瀬田は振り返ることなく無表情で歩き出し、
「用を済ませて早く戻れっ」
 ややキツめの口調で成澤へと言い放つ。と、
「気が付かなかったのは自分のミスだろう?」
 薄い笑みを浮かべたまま更に東條は、
「八つ当たりは惚れた相手でも迷惑だよなぁ、成澤」
 瀬田の叱責でようやく持ち出していた資料を戸棚のファイルに挟み終えた成澤は勢い良く振り返ると、そんなことは全く無いと即答し、
「聞いて下さい、東條さん。瀬田さんは僕が嫌いじゃないんですっ」
 わざわざ教えてもらわなくても、さっきのやり取りを一部始終見ていたわけだから、
「質問に対する答えは無かったように記憶してるが」
「そぉんなモノは必要ないです。瀬田さんは僕がこんなに傍まで近づいたって…って、あぁ東條さん一緒に入って来てたんでしたよね。あれっ、見てたんですか?」
 呆れ顔を浮かべた東條。
「会話の流れが変だぞ」
 けれど動じる様子も無く、成澤は胸を張って見せながら、
「もう、とにかく僕、今舞い上がっちゃって…愛の八つ当たりなら、いくらでもドンと来いって感じですっ!」
 …一体どう言う思考回路をしてるんだ
 思ったのは瀬田も東條も同じだっただろう。
 しかし、副会長席で荷物を手際良くまとめながら無視を決め込む瀬田とは反対に、
「なぁ成澤、ちょっと訊きたいんだが…」
 会話を続けるつもりの東條。
 戸棚を閉め終えた成澤は笑顔で東條に向き直る。
「さっき、どうして睦との距離を置いたんだ?」
 不本意な話題をぶり返されて、鋭い視線を向けた瀬田の無言の抗議は気付かぬふりでやり過ごせるのだが当の本人、成澤が意味不明といった顔で首を傾げてしまった。
 表現に気を配ったつもりの東條は苦笑いを浮かべ、
「睦を押し倒すには絶好のチャンスだったと思うんだが…」
 東條の存在などすっかり忘れ切っていたのだから、成澤にとっては好きな相手とふたりきりの、しかも急接近だったはず。
 質問の意味を把握した成澤は、更に笑顔を大きくして三度頷いてみせながら、
「そう言うのはお互いの“好き”が有ってこそじゃないですか。ねっ、瀬田さん」
 などと同意を求められたって返す言葉など無い。
 とばかりに、無表情のまま机の傍で突っ立っている瀬田。
 もちろん成澤もそんな態度に屈する筈も無く、
「いつもは避けられるか追い払われるかのどっちかなんですけど、今日はどちらでもなかったし、もしかしたら…ってちょっとチャレンジャーになってみました」
 うきうき顔がうつった訳でも無いのだろうが、何やら楽しげに机から腰を上げた東條は、
「だったら敗者復活戦にもチャレンジしてみる気はないか?」
 シャツの胸ポケットから生徒手帳を取り出すと、ある1ページを“ピッ”と破いてヒラヒラさせた。
 成り行きと言うか、つられてと言うべきか…深く考えないまま東條の傍へと歩み寄った成澤は、手からメモを受け取って首を捻ってしまった。
「…さっきの、クイズ。…ですか?」
 言葉で瀬田が動揺するのは予測済みだったのか、驚きの表情で一歩踏み出ようとした瀬田を、東條は振り返ること無く左手で制し、
「そこにあるアルファベット同士のつながりを逸早く見つけた者が勝ち、ってゲームなんだが」
 ジッとメモを見つめている成澤に、
「絶対守ってもらいたいルールが幾つかあって」
「…敦っ」
「校内での推理はするな、それとゲームに参加していることは他言厳禁」
 瀬田の呼び掛けには見事に無視を決め込む東條へと視線を向けた成澤は、
「このセラ…、フ、フィム? でいいのかな。…セラフィム? って何ですか?」
 呟き声の質問に、
「クイズを解くヒントになると思う。それから、そのイニシャルめいたアルファベットは減ることは無いが増える可能性があるってことは念頭に置いていてくれ」
 成澤は分かったような分からないような表情で、ゆっくりと頷きながらも、
「…あの、敗者復活戦って言うのは」
 彼にとっては一番重要な問題だっただろう。
 極上の餌に食らい付いた感覚に満足してか、ニコッと笑みを浮かべた東條は机から腰を上げると、
「勝てば睦を1日貸し出してやるよ」
 成澤の答えは言うまでも無いだろう。

 当事者の意向などそっちのけで、ゲーム開始のフラッグは振られてしまった。















「どう言うつもりなんだ」
 生徒会室を3人揃って出た後、別棟へと向かう成澤が名残惜しそうに去って行った直後の瀬田の言葉だった。
 静かだが低い声のトーンに、瀬田の怒りが冷めやらないのは分かっているが、
「…何が?」
 そ知らぬ顔で返す東條。
 教室へと向かう階段をゆっくりと上りながら、
「秘密を知っている人間が増えるほど、情報が漏れやすくなる。どうして成澤に喋ったんだ」
「先に漏らしたのは、お前だろう?」
「ミスは認める。だが、どうにか誤魔化そうと努力はした」
 すると、ふっと口の端に笑みを浮かべた東條が、
「お陰で成澤の意外な一面を見られたじゃないか。勢い任せに突っ走るばかりだと思っていたが、人並み以上の自制心は持ち合わせている。それにお前が絡むと、実力以上の能力を発揮してくれそうじゃないか」
「だからって…」
「行き詰ってるからスキが出来たんじゃなかったのか?」
 言葉で足を止めた瀬田は、先に踊り場へと足を掛けた東條の背中を見上げた。
「2年、だぞ。…2年経っても犯人の目星はつかないままで、與も戻っては来ない。あれだけの手掛かりがあるのに無駄にはしたくない」
 より焦っているのは東條の方だ。
「いつまでも全校生徒を疑っているわけにもいかない…」
 彼がいかに三上與を強く想っていたかは百も承知している。幼い頃から3人ずっと一緒に居たのだ。それぞれの気持ちが手に取るように分かっていた時期もあった…。
 …なのに
 視線を落としてしまった瀬田へ、
「手段を選んでる暇も、落ち込んでる時間も無い…と考え直すしかないだろう?」
 振り返ること無くそう言い置くと、踊り場からまた足を進める東條。
 数段遅れで重く歩き出した瀬田は、
「…確かに」
 小さく呟き、
 目を背けている場合じゃない
 続く言葉は胸の内に呑み込んだ。




















 梅雨が明けた

 と言うだけで、心が晴れ晴れする気分だ。
 しかもそれが期末試験最終日ともなると、もう生徒達は天にも昇る気分では無かろうか。
 けれども梅雨明けなんてそっちのけで、ここ市立図書館の中。成澤は沢山の資料にまみれて唸っていた。
 例のクイズで頭を悩ませているのだ。
 セラフィムの意味だけは普段使っている英和辞典で難無く解けたのだが、そこから先が全く分からない。

 …大体この資料の多さが問題なんだよなぁ
 天使関連の文献だけでこんなにもあるのに、どこから手を付ければいいんだかさっぱりだ
 最初はデート1回だったご褒美が、1日貸し出しにグレードアップした分、課題も難しくなったってことなのかな…

 と、机に頬杖を付き近くの資料を何気なく開いた時だった…
「どうした、こんな所で」
 聞き覚えのある声に顔を上げ、大きな閲覧用テーブルの向かい側に立っている人物と視線を合わせた成澤。ぴったり3秒そこに立つ青年をじっと眺め入り、
「津島さん…、ですか?」
「他の誰に見えるというんだ」
 そう返されると答えに詰まるが、
「眼鏡、が。…津島さん視力、悪かったんですか?」
 生徒会室のお目付け役…いや、書記である津島紀之は校内で居る時と同様。殆ど動かない表情で、
「コンタクトの買い置きが切れてな」
 涼しげなブルーのフレームに指を添えると軽く持ち上げ、
「裸眼だと人の識別は殆ど不可能なんだ」
 眼鏡が無ければ見慣れているはずの津島の顔なのだが、やはり少し違った人物に見えてしまうのは私服を着ているせいかもしれないと、成澤はひとり納得。
「で、どうしてこんな所に居るんだ? 調べ物なら学校の図書館の方が近いだろう」
 眼鏡を掛け直した津島は言いながら規則正しい足取りで成澤の傍まで歩み寄り、
「量も質も向こうの方が上…」
 と、プツっとそこで言葉を切り、
「あの話、聞いたのか?」
 僅かだが声色の変わったことに気が付いた成澤は、直ぐ横に立っている津島を見上げ、その視線の行方を辿ってハっとした。
 資料の下にほんの一部ではあるが東條から貰ったメモが見えている。
 慌ててそれを隠そうとする仕草に、
「その件は俺も知ってるから、気にしなくていいぞ」
「…ってことは津島さんも何か賭けてるんですか? 珍しいですね」
 生徒会室の風紀を任されるだけのことはあって、生真面目な印象のある津島。
 成澤の返答はそれ程、的外れでは無かったはずなのだが途端、津島は何かを訝るよう成澤を見据え、
「賭け?」
「はいっ、僕が1番だと瀬田さんを1日貸し出してもらえるんです。他の人も何かを賭けてゲームに参加してるんですよね? 校内で調べると他の人にヒントを与えちゃうから、外で調べろってことかなって」
「東條…の、字。だよな、さっきの?」
「瀬田さんも似たようなの持ってましたよ、皆参加してたんですね〜」
 名前が出るだけでも嬉しいのか、なぜか照れて喋る成澤の言動などすっかりそっちのけで、
「あいつら何を考えてるんだ…」
 独り言のような津島の呟き。
 左手を口元に当て考え込むように俯むいている様子を少しの間見上げていた成澤だったが、どうやら動き出す気配がないと見て取って、
「あの〜」
 恐る恐る声を掛けてみた。
 生徒会室で騒がしくすると容赦無い叱責を浴びせる津島だ。まさか図書館内で怒鳴りはしないだろうが若干及び腰の呼び掛けに、ゆっくりと津島は視線を戻し、
「曲がりなりにも生徒会役員ではある」
 やはり独り言のように呟いて、
「知っておく権利はあるだろうな、多分」
 何かを決断したかのよう小さな光を湛えた瞳をレンズ越しに成澤へと向けた。
「東條曰く、そのゲームとやらの、本当の意味を知りたくないか?」
 ハテナ
 と顔中に大きく貼り付け首を傾げた成澤のことなどすっかり無視して、
「ったく、…まどろっこしいのは面倒だ」
 そう言うなり成澤の前にある筆記用具や文献をチャキチャキっと片付けたかと思うと、
「俺は入り口で待ってるから、さっさとそれ戻して来い」
 チラッと本の束を一瞥すると静かに踵を返し、やはり規則正しい足取りでさっさとその場を後にしてしまった。
 取り残された成澤はさっぱり訳が分からないまでも、何か問題を解く重要なヒントが出て来るのではないかと密かに期待に胸を膨らませ、沢山の資料の束を戻すべく軽快に席を立った。




















 駅からバスで30分。
 バス停から畑に囲まれた平坦な舗装道路を歩くこと10分。
 太い門柱のそばから見上げた時計の時刻は、午後2時を少し回っていた。
 自宅を出たのが正午丁度だったから、決して近い道のりだったとは言えないだろう。
 試験最終日、最後の教科の答案を伏せた辺りから、時間の感覚が少し麻痺していた。
 …ここまでの道のりが長かったのか、短かったのか
 ただ、来なければならないという想いがせっついて、機械的にここまで来てしまった。
 玄関正面にある自動ドアを重く抜けると2階まで開放された広く大きな吹き抜けの意外すぎる明るさに圧倒されて思わず身体を竦めてしまう。
 モダンなレンガ調の外装もそうだったが病院らしからぬ病院、と言った雰囲気だ。
 辺りを少し見渡してみると病棟案内の標識、そして白衣の職員が足早に行き来している様子に、確かにここは病院なのだと改めて認識。
 その場に突っ立ったまま、吹き抜け上部に描かれる壁画をボンヤリと見上げていたのだが、不意に何かを感じて視線を戻した。
 何だろうかと泳がせた視線が3メートル程離れた場所に立つ女性と合うなり、彼女は大きく破願して見せ、
「睦ちゃんよね?」
 そう言うと返事も待たずに足早に歩み寄り、躊躇うこと無く瀬田を抱き締めた。
「ずっと心配してたのよ」
 瀬田は歪みかけた視界を正常に戻すべく視線をあらぬ方へ飛ばし、大きくひとつ深呼吸。
「…お久し振りです」
 言って彼女へと気持ちを返すよう、背中に軽く回した腕にほんの僅かに力を込めた後、当たり障りの無い力で静かに彼女の身体を離した。
「ご無沙汰、してました。お元気そうで」
 と、そこで彼女はクスっと小さく笑うと、
「どうしたの、他人行儀に。私に気兼ねする必要なんてないのに」
 そう言って瀬田の腕を引くと、
「それより早く会ってやって頂戴。…きっとあの子も喜ぶわ」
 思いがけず強い力で導かれ、その勢いに任せて歩き出した瀬田。
「睦ちゃんすっかり大人びちゃって、びっくりしちゃった。あぁでももう2年になるものね、当たり前かしらね。反って自分の年を実感しちゃうわぁ、ここに居ると時間の流れがすごくゆっくりで…そうそう、この病院って変わったデザインでしょ」
 エントランスホールから廊下を抜け待ち構えていたようなタイミングで開いたエレベーターに乗り込む。目的の階まで辿り着き、広いフロアに降り立ってもまだ彼女は言葉を止めない。
 瀬田の知る限り、こんなに饒舌な女性ではなかったはずだ。
 何人かの人とすれ違い、辿り着いた一番奥の扉の前で彼女は足を止めた。
 腕を放した彼女が瀬田の背中を押す。
 部屋番号を確認した瀬田が物言いたげにゆっくりと振り返ると、彼女は静かに首を横へと振った。
「とにかく、会ってやって…」




















「どうだった?」
 座り慣れた会長席から腰を上げた東條。
 時間より15分遅れとなった和臣の来室に、やや待ちくたびれていたのか生徒会室の扉が閉じられるなり立ち上がった東條の言葉だった。
 和臣は苦笑いで頭を下げると手早く鍵を閉め、東條の後を追うように応接セットへと足を進める。
 学期末テスト初日から生徒会活動はほぼ休止状態。
 生徒会室の場所的な理由もあって、生徒会活動が止まってしまえばこの部屋周辺には人の往来が殆どなくなってしまうのだ。
 つまりミーティングルームへと移動するまでもなく、生徒会室でも極秘のやり取りは可能となる。
「取り敢えずはこれ、早めにお返ししておきます」
 応接セットのソファーへと東條と向かい合う位置で腰を下ろした和臣は鞄の中から取り出した白い紙包みを東條の前へと差し出した。
 包みに視線だけを向け中身を察知した東條、
「やっぱり松前でもどうにもならなかったか…」
 溜め息と共に落胆気味に手を伸ばしてしまう。
 白い包みの中身は三上與のレイプ動画だ。
 この2年間、事件の進展が全くなかった原因のひとつには、あまりにも事件を秘密裏にしすぎた自分達に問題があったのではないかと考えた東條。
 偶然ではあったが成澤に情報が漏れたことを後悔するつもりは無く、この動画も別に和臣にせっつかれて提供したものではない。
 それが得策だと判断したからだ。
 東條が和臣に動画を預けたのが期末試験初日。で、試験最終日の放課後にすんなり返されては成果が無かった、と推測するのが妥当だろう。
 せっかく蒔いた種が芽を出さないとなると落胆せざるを得ない。
「悪かった、試験中に無理言って」
 包みを手に立ち上がりかけた東條だったが、
「俺、まだ何も報告してませんが」
 笑顔を向けながらの和臣の言葉に浮かしかけた腰を落ち着けた。
「…何も分からなかったんじゃ」
「コピーをひとつ取らせて貰ったので、取り合えずオリジナルはお返ししておこうかと思って」
「それは、何か分かりそうだということなのか? あの画像で?」
 期待していたにもかかわらず俄かには信じがたいのか、探るよう答えを待つ東條へと深く頷いて見せた和臣は、
「確かにかなり手が加えてありましたが、どうにか場所と人数だけは」
 言いながら鞄から今度は数枚の写真を取り出し、目を見開いている東條の前へと並べて見せた。
 通常の倍程はあるカラー写真はかなり引き伸ばしたようだが、画像の解像度はともかく肉眼で認識可能な物ばかり。そしてまず目を引くのは紅い布だ。
 動画内で繰り広げられる三上與への行為は終始この布の上で行われていた。
「極力床が映らないよう気をつけてはいたんでしょうけど、アングルを変えた瞬間なんかに所々粗が残ってたんで、どうにか引き伸ばしに成功したのがその写真です。布の下に見える床の材質、分かりますよね?」
 写真の1枚を手に取り東條がゆっくりと頷く。
「三上さんの身体的データは直ぐに調べられたので、そこから床までの距離だとか他の人間の位置関係から布の大きさも、おおよその数値が出ました。それから最低限必要な部屋の面積も」
「それで…?」
「はい、この床の材質でこの面積の条件を満たすのは校内で1ヵ所だけでしたから」
「…校内とは限らないだろう」
 と、和臣が笑顔で再び鞄から取り出したのは小型のデジタルカメラだ。
「今、東條さんが持ってる写真の床。少し特徴的な傷が入ってるの、気が付きました?」
 破線が緩やかに蛇行する傷は何かを引き摺った痕のようだが、その溝を踏み切りの遮断機のように黄色と黒で塗ったのは誰かの悪戯なのだろう。
 ピ、っと小さな電子音の後、東條へと向けたデジタルカメラの画面には色彩こそ褪せてはいるが写真と全く同じ傷が映っていた。

“学校フェチ”

 犯人像をそう推理した和臣の言葉だ。
 あの時点では半信半疑でいた東條だったが、
「木造校舎…、だな?」
 笑顔で言葉を肯定するかのよう口の端を上げた和臣。
「2階奥の音楽室で撮って来ました」



















「集団暴行事件…が、校内で?」
 成澤が唖然と呟いたのは広い喫茶店の片隅。
 少し寒気を感じたのは空調が効き過ぎているのか、それとも別の理由なのか…。
「小西の動画の一件、噂を流したのが1年6組の野々宮って生徒で」
「って寮生のですか?!」
 驚き顔で言った成澤へと、
「動画の話が流れていたことは、寮生のお前達が瀬田に話すまで誰も知らない噂だったんだ。 だからあの時、瀬田が過剰な反応したんだろう?」
 確かにその噂話を言いかけたと同時に、慌てて瀬田に口を塞がれたことは鮮明に覚えている成澤。
 普段なら、すっかり表情を緩めてしまっているところだが、話の内容を考えると自分ひとり浮き足立っているわけにもいかないと思い直した結果、かなり微妙な表情で津島を見つめてしまうこととなった。
「どうした、具合でも悪いのか?」
 津島の真剣な眼差しでの問いに、
「いっ…いえ、色々と驚く話ばかりで」
 両手を頬に当て顔面の筋肉を解しながら、奇妙な表情を苦笑いへと移行した成澤は、
「そういえば瀬田さんがあんなに慌てることなんて無いですよね、ってあれ? だとしたらもしかして小西さんのことを…」
 と無意識に両手は頭の上に乗っていた。
 その場を取り繕うつもりで何気なく言った言葉で自分自身がハッとさせられたのだ。
 瀬田が小西優也へと向ける視線はどこか他の人へのものとは違う気がするし、校門で待ち合わせて登校していたこともあった。
 もしもそうだとすれば…
「かなり、強敵だよなぁ」
 呟いて頭を抱え込む成澤だったが、
「瀬田が小西を好きなんじゃないかと思ったのなら、それは余計な誤解だぞ」
 アイスティを軽くかき混ぜる津島へ即座に視線を向けると、
「三上與という名前、聞いたことはないか?」
 唐突な話題転換だ。
 両手を取り合えず膝の上へと下ろし、ありませんときっぱり言い切った成澤に納得したふうに小さく頷いて見せた津島、
「瀬田と、それから東條の幼馴染みの名前だ。物心ついた時からずっと連れ立って遊んだ仲らしい」
 グラスを持ち少し咽喉を潤した後、
「小西を襲ったレイプ犯の最初の被害者がその三上なんだ」
 コースターへと戻したグラスに視線を残したままで、
「三上が麻薬の禁断症状でパニックを起こしたのが2年前。どれくらいの期間で中毒にまで陥ったかは分からないが、そうなるまで誰も三上の抱えている問題には気が付かなかった。 身近にいた人間ほど受けたショックは大きかっただろうし、必死になるのも無理はない。…特に瀬田は」
 そこで不意に言葉が切れた。
 じっと津島を見つめたまま続きを待っていた成澤は少し間を置いた後、
「瀬田さん。が、何か…」
 そうゆっくり問いかけてみると、グラスに手を添えたままの津島は重たげに視線だけを上げた。
 常に明瞭に言葉を紡ぐ津島の突然の沈黙。
 それはつまり三上が瀬田の想い人であったという肯定なのでは、と不安が胸を過ぎると居ても立っても居られず、
「瀬田さん、ショックで寝込んだとか…、その。あの、いやもっとかな。えと、自殺未遂してこの、この辺りに傷が残ってて、そっそれは三上さんと深い関係になってたから、で。だから…とか、えっと僕、はっきり言ってもらってもだっ、だだ、大丈夫ですっ」
 とても大丈夫そうには見えないな
 思いながら津島は小さくため息をつき、たしなめるよう少し目を細めて見せると、
「そうやって妄想が暴走するから瀬田に疎まれるんだ、大体瀬田の手首に傷跡なんて無いだろうが」
「そっ、それはそうですけど」
 ほんの一瞬しょげかけた成澤だったが、
「でも、だったらどうして言いかけた言葉を途中で止めるんですかっ。中途半端だと余計に気になってしまったから僕は」
 普通に会話をすれば平均よりはずっと頭の回転が早いのだ。
 ただ勢いだけで生徒会役員になれたわけではない。
「確かに、それに関しては俺も悪かった。事件の本質と関係の無いプライベートな話をすべきじゃ無いと思ったから、話を止めたんだ」
 素直に否を認めた津島は、
「瀬田と三上が特殊な関係じゃなかったってことははっきり言っておく。俺が瀬田達と知り合ったのは高校に入ってからだが、3人がそれ程仲のいい幼馴染みだったって話が意外なくらい連れ立って行動はして無かったんだ」
「…それはそれぞれが新しい友達とかができたからってことなんじゃ」
「的確な意見だとは思うが、当時の状況を成澤は知らないからな」
 かなり当たり前の言葉に成澤はやや気が抜けたふうに首をかしげた。
「何か今とすごく違ってたとか…ですか?」
 少しの間、成澤を見つめていた津島が、
「まぁ…、そうだな」
 曖昧な返事を言い置くと、そのまま道路向こうの公園へと視線を移し、何かを考えるよう腕を組んでしまった。




















「松前には俺たち3人の関係がどう映った?」
 目の前に並べられた写真を丁寧に重ねながら東條がポツリと呟いた。
「…どう、とは?」
 デジタルカメラをケースへ仕舞う直前で手を止めた和臣の問い返しに、
「俺が與に惚れてたってことは当然分かってるとして、與が誰に惚れてたかも分かったんだろう?」
 東條は写真をトントンと整え、ひとつ溜め息をつく。
 音声が全く省かれた無音の映像。
 大部分ボカシがかった、多分三上與にその存在意義を知らしめるためだけに作成されたであろう映像が時折不自然な程、鮮明になる。
 弛緩しきった表情
 何も映さない潤んだ瞳
 恍惚と薄く開かれた唇が、何度も同じ形を繰り返す。
「この動画を最初に見つけたのが偶然でも俺で良かったと、あの当時は思ってた。これだけ修正された画像が解析可能だとも思ってなかったし、できれば早く消却すべき物だとも思ってた…、誰にとっても利益を生まないと」
 一番上に重ねられた写真をじっと眺めている東條、
「だが本当は、自分の歪んだ感情を覆い隠すために作った都合のいい口実だったんじゃないかって最近思う」
 瞳を閉じると、深く大きく息を吸い、
「睦にだけは見せたくなかった…」
 パタン
 っと無造作に写真の束から手を放すと苦しげな表情で、組んだ指の上に顔を伏せてしまった。


 …懺悔
 なのだ、きっと。
 2年前からずっと閉じられたままの、縺れてしまった3人の想い。
 誰も傷つけないようにと
 誰も傷つかないように…、と
 縺れた糸を解かずに全てが解決するのなら、大切な人を傷つけずに済むのかも知れないと…


 …と、唐突に流れる風の気配に東條はゆっくりと顔を上げた。
 向かいに居るはずの和臣の姿が無いことに少し驚いて辺りを見回すと、東條の数メートル後方。生徒会室の窓際に立っている和臣は何かの書類に目を通していた。
 もちろん窓を開け放ったのも和臣だろう。
「すまない、つまらない愚痴を聞かせて」
 バツが悪そうに立ち上がった東條へと顔を向けた和臣は、柔らかい笑顔を浮かべながら、
「あまり考え過ぎるのは、どうかと思います。たまにはこんなふうに気持ちの方も入れ替えてやらないと」
 全開に開け放たれた窓を指した。
 和臣の気軽な態度に気がまぎれたのか、いつもの自分を取り戻した東條も、
「そうなだな」
 と笑顔を返し、
「せっかく梅雨と試験が明けたんだ、こんな所に篭ってないで今日くらいは息抜きするか」
 大きくそこで伸びをする。
 東條はテーブルの上の写真を掴むと、傍まで歩み寄っていた和臣へと手渡しながら、
「公私混同しすぎて俺達の手には余るようだ」
 後は頼んだぞ
 とでも言いたげにポンポンっと肩を叩いて見せた。




















「単純に3人が関係する恋愛問題をそう呼ぶなら、東條と瀬田と三上は三角関係だったんだろうな」
「…だろうなって、そういうのは明らかに三角関係ですっ」
 ドンっ!
 っと握り拳でテーブルを叩く成澤。
 しかし、
「ふぅん」
 などと気の無い返事でアイスティのグラスを手に取った津島は、
「色恋沙汰には詳しくないんだ」
 ストローを銜えた。
「僕に勝ち目があるでしょうかっ!」
 ますますヒートアップ気味の成澤へと津島は視線だけを向け、
「勝つって何に?」
「三上さんに決まってるじゃないですかっ。そこまで愛した人がゴウカっいえ、酷い目にあって麻薬中毒になってまだ入院中なのに、後からしゃしゃり出た僕の方が好きだなんて言えませんよねっ。絶対」
 そうか、だからあんなに冷たいのか…
 などと一人納得している成澤を見つめたまま、知らず首を捻ってしまっていた津島。
「…成澤」
 呼び掛けで向けられた視線を正面から受けたまま、
「今の文章の主語は誰なんだ?」
「は?」
 少し身を乗り出した津島は肘をテーブルに掛け、
「は? じゃない。後からしゃしゃり出た成澤の方が好きだ、って言えないのは誰なんだ?」
「あ゛ー、瀬田さん。ですが」
 首を傾げる成澤へ向け、一度開きかけた口を噤んだ津島は再度咽喉を潤した後、
「話をちょっと整理してみようか」
 グラスをコースターへと戻し、テーブルの上で指を組むと真っ直ぐに成澤を見据えた。
「東條が惚れてたのは誰だった?」
「…三上さん」
「じゃあ、その三上が好きだったのは?」
「瀬田さんです」
 ふん
 っと軽く津島は頷いて、
「瀬田は、どうだった?」
「どう、って。だから三上さんを…」
「三上を?」
 止まった言葉に津島をじっと見つめる成澤。
「好きだった、とは一言も言ってないぞ」
「でも」
「でも?」
 今度は津島が答えを促す。
「でもさっき…」
 少し目を細めて成澤は会話をさかのぼり、
「三上さんが倒れてから瀬田さんは別人みたいに変わったって」
 津島が頷いたのを確認すると、
「好きだったから、あまりのショックで学校にも来れなくて、家にも居れなくて」
 目の前の津島はけれどゆっくりと首を横へと振った。
「確かに事件の後、瀬田が少しの間…正確には1ヵ月ほどだったんだが所在不明になったのは事実だ。でも、理由はそういうことじゃない」
「だったらどうしてっ!」
 食いつかんばかりの勢いでテーブルへと被りついた成澤だったが、
「知らない」
 あまりの素っ気無い答えに更に身を乗り出してしまう。
 けれど、
「あの当時、瀬田が男にしろ女にしろ三上を含めて、恋愛という意味では誰にも興味を持っていなかったのは周知の事実だ。それは東條だって同意見なんだぞ」
「じゃあ、失踪した説明はどう」
「だから分からないんだよ、誰にも。…瀬田はその話題には触れたがらないし、三上の意識は異次元に飛んでしまって戻ってこない」
 深く息を吐きながら津島は背もたれに体重を掛け、
「つまり当事者以外の人間には知る術がない、ってことだ」
 言ったっきりこの話は終わりとばかりに、グラスに残るアイスティを一気に飲み干してしまった。

********************

 ねぇ ほら 見て
 私の下には こんなに過去が広がってるのに
 こうやって 掬っても掬っても 手から零れ落ちて行くの
 本当に この手の中には 何も残ってはくれないのね
 何か 間違っていたのかしら
 何が 悪かったのかしら


 ねぇ ほら 見て
 … もう一度 私を 見て







「ってね、砂浜で別れた男性に砂を掬い上げながら言うの」
 何も乗っていない掌をゆっくりと握り締め、
「あの子もああやって…、ずっと楽しかった過去を拾い集めてるのかしらね」
 頬杖を付く姿を黙って瀬田は見つめていた。
 三上の大まかな容体は東條から聞いてはいたが、自分が会いに行くことで何か変化が起きないだろうかと仄かな期待を抱いていた。が、結局は視線すら瀬田へと向くことは無く、ただボンヤリとした眼差しでベッドの上に座り込んだまま、キラキラと光るビーズの粒を掬っては落とし、掬っては落とし…。
 細く名前を呟いて、震える指で手入れされた真っ直ぐな髪へと僅かに触れるのが精一杯だった。
 まるで逃げるよう病室を後にした瀬田を、ここ喫茶室へと誘ったのは三上の母・鞠子
「睦ちゃん、“時の砂”って小説…」
 その言葉でふと思い出す。
 東條がある時期良く持ち歩いていた文庫本のタイトルがそうだったのだ。作家の名前を思い出そうと瀬田が少し目を細めた時、
「あの子の部屋を整理していて見つけたの、机の上に置いてあった本なんだけど…。まぁ小説は時々読んでたみたいだから最初は気に掛けてなかったんだけどね、湫蒼月なんて珍しいなって開いてみたら、ちょうどさっき私が言った言葉が書いてある頁に栞が挟んであったのよ」
 …あぁ、そうか
 と瀬田は鞠子に気取られぬよう僅かに息をつく。
 高校生があまり好んで手にしない、湫蒼月の小説を東條が愛読していたことに違和感があったのだ。
 おそらくは何か手掛かりを探していたのか、三上の精神状態に近付きたかったためかもしれない。
「こんな話をするのも何なんだけど」
 声に視線を鞠子へと戻すと、
「與が中学の頃から私と主人、上手くいってなくてね…」
 薄く自嘲めいた笑みを浮かべ彼女は軽く髪を耳に掛けた。
「さすがに受験の間はお互い自粛してたんだけど、進路が決まった辺りからまた主人との喧嘩が絶えなくて、與が高校に入学する頃にはすっかり家の中が冷めきってしまってたの」
 少し表情を変えた瀬田へと視線を向け、
「睦ちゃんが驚くのも当然よね、敦君も知らなかったんだから。…小さい頃は直ぐにメソメソ泣き付いて来る子供だったのに、いつからあんなに一人で抱え込んじゃう性格になったんだか」
 そこでゆっくりとミルクティの入った紙コップを手にした毬子は、
「どうやって夫婦の関係を清算するかで必死だったから、あの子の変化なんて気付く余裕も無くてね…。だからさっきの文章見つけた時は結構応えたの、どうしてもっとあの子のこと、見ててやらなかったんだろうって」
 口を付けないまま、コトリと紙コップをテーブルへと戻し、
「睦ちゃんも同じことを考えてたんじゃない? もっと與のことを気に掛けてやってれば…って」
 重苦しい面持ちで言葉を失っている瀬田の姿に、
「だから今日まで與に会いに来なかった。 と言うより来れなかったのよね」
 静かな笑顔を向けた。
 返事を待っている鞠子へとほんの僅かに口を開いた瀬田だったが、数秒後には思い止まったよう唇を閉ざし小さく俯くと、
「すいません」
 ポツリとそれだけ呟いた。
 鞠子はそんな頼りなげな瀬田の姿に苦笑いを浮かべ、
「そんなふうにされると、なんだか苛めてるみたいでおばさん困っちゃうんだけどなぁ」
 軽い口調で言った後、
「私も主人も敦君も…それに担任だった一之宮先生や、千郷先生は学年主任だったってだけでも、あの当時與の傍に居た人は少なからず責任感じてるの」
 テーブルの上で鞠子は両手を重ねると、
「睦ちゃんが会いに来てくれないことがずっと気になってて…。もし仮に睦ちゃんと與との間に何かあったんだとしても、與がこうなったのはあの事件のせいで、恨む相手や憎む相手がいるならばそれは紛れも無くその犯人達なの。分かるわね?」
 諭すかのようそう告げると、椅子から軽く腰を上げた鞠子は伸ばした右手で、俯いたままの瀬田の頬へと触れる。
「あなたが背負い込むようなことじゃない」
 何も答えず瞳を伏せた瀬田に、
「あの子のことは親である私がちゃんとするから、だから睦ちゃん」
 触れていた頬から離した手で、鞠子はポンッと軽く頭を撫ぜ、
「しっかり自分の人生を歩かなきゃ駄目よ」




















 既に西へと傾いてしまっている太陽だが、まるで夏本番を待っていたかのようジリジリと熱く地面を照り付ける。
 強い日差しを正面からまともに浴びているというのに、心の中まではちっとも熱が届かない。
 何か冷たく乾いた物が身体の芯に染み付いて、俄かに息苦しさを感じたまま成澤はトボトボと慣れない住宅地を歩いていた。
 喫茶店の前で津島と別れた後、再び図書館へと戻りはしたものの、すっかり頭の中は混乱していたのだ。
 その上、成澤にとって一番気掛かりな情報は欠落している。
 瀬田と三上とはどこまでの関係だったかということ。そして、瀬田の人格をすっかり変えてしまった空白の1ヵ月間の謎。
 自分が一体何のためにセラフィムと名乗る悪党一派のハンドルネームの解読をしなければならないのかという初歩的な理由すら見失ってしまっていた。
 どこで何をすべきかも思いつかないまま、図書館内に視線を漂わせている途中、
 …瀬田さんに、会いたい
 衝動的に思い付いた次の瞬間にはそこから駆け出していた。
 会ってどうなるものでは無いけれど…
 以前、地図でのみ確認した位置に間違いがなければ、もうそろそろ目的地に着いてもいいはずだ。
 と無作為にさ迷っていた視線が不意に止まる。
 少し目を凝らし、間違いないと判断するや否や、成澤は一目散にその表札前まで駆け寄った。
 黒い御影石に白の隷書体で記されている、

“瀬田”

 の2文字を無心で眺めていた。
 しばらくそうした後、何気なく視線を上げると、右手奥にあるカーポートに納まっているだろう車は不在だ。
 静まり返った空気が家主は留守の気配を漂わせていた。
 ただ会いたいがためにここまでやって来たものの、会える確率なんて無いも同然だ。
 呼び鈴を押す勇気すら出ず、もう一度表札を眺めているうち、知らず指がその文字に触れていた。
 ゆっくりと文字をなぞりながら、こんなことでさえ動揺を抑えきれない自分に気が付いて、
 …やっぱり重症だなぁ
 なんて心の中で呟くと、その掌全体をピタリと表札へ付け、

 会いたい、会いたい、会いたい…

 馬鹿げているとは思いつつも、そう念じずにはいられない。
 一晩中でも待ち続けたい気持ちはあったが、さっきお隣に宅配を届けに来たアルバイトの、さも不審気に成澤を窺い見ていた様子に、ようやく諦める決心がついた。
 表札から手を離し、何となく向けた視線の先。傾いた太陽の日差しを背中で受けながら数メートル向こうに誰かが立っている。
 とだけ成澤が認識した瞬間、こちらに向かって歩き出したその人影に因縁でも付けられるのかと構えるや否や、その人物は徐に傍の門に手を掛けた。
 カチャン
 っと軽快な金属音の後、緩やかなカーブの石畳を慣れた歩調で渡り切り、手にしていた鍵を鍵穴へと差して開錠。
 程なく大きく開け放たれた玄関扉の前で、静かに向きを変えて見せた人物の、
「どうぞ」
 …成澤にとっては思いも掛けない言葉だった。
 そこに立っているのは紛れも無く成澤の待ち人、瀬田本人なのだ。
 本来なら一も二も無くその好意に甘えるのだろうが、
「あ…っと、僕。その」
 その場に立ち尽くしたまま口ごもる成澤。
 真っ直ぐに向けられた視線の意外さに、足も口も全てが固まってしまっている。
 成澤を見つめたままピクリとも動かないその表情は、

“デパートのマネキン人形の方がまだ愛嬌があったな”

 津島のそんな言葉を思い出させた。
 三上與の事件以前の瀬田を描写した言葉だ。
 大きく開け放たれた玄関扉とは逆に、瀬田の心はピシャリと閉じられていることは一目瞭然だろう。
 にも拘らずなぜ、家へと招きいれようとしているのか…
 別人のような瀬田の表情と不可解な行動に、今日は帰るべきなのではないのかと頭の中ではそう判断したのだが、
「…どうするんだ?」
 ほんの僅かに緊張感が解けたかのような問い掛けで、
「じゃ、あ。少しだけ…」
 3ヵ月間とはいえ必死で追い掛けている相手が、突然の来訪にも係わらず家へと招き入れてくれるのだ。
 心のこどかで鳴り響く警鐘を無視したくなったとしても、誰も彼を責めることはできないだろう。




















 玄関で靴を脱ぐと2階の自室へ真っ直ぐに通された。
 戸口で突っ立ったまま、その10畳ほどの部屋を成澤は感動の面持ちで眺め入ってしまう。
 白い壁と天井。淡いブラウンのクローゼットとフローリングは馴染み易くて飽きのこない色合いだろう。
 窓際のベッドに敷かれた生成りのシーツに残るシワが、妙な想像力を掻き立てるには格好の材料で、慌てて視線を逸らせてしまった。

“そういうのはお互いの好き、が有ってこそじゃないですか”

 以前東條に言った言葉は嘘ではないが、こんなシュチィエーションなど全くの想像外。
 心と身体が離ればなれにならないよう上を向いて大きく深呼吸していると、
「いつまで突っ立ってるつもりだ」
 至近距離からの言葉に驚いた成澤が振り返る間も無く、その脇を通り抜けた瀬田。
 戸口右手にあるテーブルの上に、茶色い液体の入ったタンブラーをひとつ置くと、
「悪いな、大したものが無くて」
 言いながら勉強机に納められていた椅子を引く。
 そのままそこに座りそうな素振りだったにも係わらず、少しの間その場で動きを止めた瀬田。ゆっくりと踵を返すと二、三歩引き返し結局はテーブルの傍へと腰を落ち着けた。
 その行動をずっと目で追っていた成澤は軽くそこで首を傾げてしまう。
 …なにか変だ
 感じた違和感に思考を集中させようとした時、
「いい加減、座ったらどうなんだ」
 声にハッとして、
「は、い。じゃあ遠慮なく」
 慌てて笑みを浮かべると置かれたタンブラーの傍へとようやく成澤は腰を下ろした。
 正座した膝に手を置き、顔を上げて…
 俯き加減の瀬田の横顔をつい、マジマジと眺め入る。
 やっぱり、絶対綺麗な顔…
 っとそう思った途端、成澤は頭を振り、
「じゃなくて」
 思わず付いて出た言葉に瀬田が視線を向ける。
 成澤は僅かに息を呑んだ。
 …なん、て目をしてるんだろう
 さっき玄関で見せた視線にもショックを受けたが、それともまた違う…生気が全く無くなってしまったかのような目付きで、
「何か…、あったんですか?」
 瀬田の虚ろな視線を受けたままどうにかそう搾り出す。
 まるで言葉の意味が理解できなかったかのように、ジッと表情を返さない瀬田へと、
「きょ、今日の瀬田さん、変ですよ」
 焦りながら言葉を捜し、
「いつもの瀬田さんなら多分僕、門前払いされてたと思うんです。って、あっいえ、決して冷血漢だとかそんな意味じゃないんですけど…っと、家に入れてもらって、瀬田さんの部屋にまで通してもらってすごくすごく、すっごく嬉しいんですけど、でも家の中、僕達以外誰も居ないのに」
 言い募るうち話が妙な方向へと進んでいることに気付き、少し落ち着こうと置かれたタンブラーを手に取ったところで成澤は動きを止めた。
 直ぐ傍に瀬田の左手が置かれていたからだ。
 思わずタンブラーから手を離した成澤は、引っ込めた手を再び膝の上へと戻した。
 そうなのだ
 さっき感じた違和感の原因は、瀬田とのこの距離。
 瀬田が本来自分の意思で入って来る範囲では無いはずなのだ。
「前に生徒会室で言った言葉、信じてくれてるんだったら有り難いんですけど…」
 そんな言葉を鵜呑みにするほど無用心な人間でないことを百も承知してはいる。
「こんな傍で居られると、僕の自制心。どこかでプチッと」
「してみるか?」
 唐突な言葉に若干首を傾げて見せた成澤の、
「…何を、ですか?」
 短い問い掛けに、瀬田はピクリとも表情を変えないまま、
「セックス」
「ー――」
 その一言で成澤も表情を固めてしまった。
 開いた口が塞がらないとはまさしくこういうことだろう。
 先程までは気にも止まらなかった秒を刻む時計の音だけが、硬直した部屋に無責任に鳴り響く。
 虚ろに、けれど真っ直ぐに瀬田は成澤を捕らえ、
「そのつもりで来たんじゃなかったのか?」
 問われて緩慢に首を横に振った成澤は、
「ど、…うして、そんなこと」
「どうしてそんなこと?」
 瀬田は機械的にそう反復した後、一度瞬きをして、
「……男に抱かれるのは、どんな気分だろうと思って」
 瞬間、大きく目を見開いた成澤は…けれど直ぐに俯いてグッと瞼を閉じた。
 膝の上で強く握り締められた拳。が、小さく震えてる。
 多分怒りでは無く…
 …痛み
 それは、あまりにも大きな痛みで、
 どうしてこんな感情が…
 と困惑した矢先、津島と交わした一連の会話が頭を過った。
 三上與の事件以降すっかり変貌してしまったという瀬田。2人の間で何かが有っただろうことは明白で、瀬田は未だ誰にも言えない何かを背負ったままだ。
 だとしたら、この痛みは…


 瀬田が受けたであろう傷の深さに、ただ愕然とさせられて…、けれどそれと重なるよう胸の内から込み上げてきた熱い感情。をどうにか押し止めながら、成澤がゆっくりと瞼を開くとやはりそこには何色も呈さない瀬田の瞳。
 そんな目をして…
「そんなことを、言わないでください」
 テーブルから身を乗り出し、
「そんなこと…思わないでください」
 祈りに近い想いで、ただそう告げるしか…
 手を伸ばすと殆ど無意識で抱き締めてしまったが、されるがまま微動だにしない腕の中の愛しい人の癒しには、ほんの僅かですらなりはしない。
 ただ、それが悲しくて…
「すみません、僕」
 静かに腕を解いた成澤は、
「…帰ります」
 瀬田の顔もまともに見れないまま、その場を後にした。




















 家路を急ぐサラリーマン
 買い物帰りの主婦
 こんな忙しい時間帯に犬を散歩させているのは学生だろうか…
 お世辞にも閑静とは懸け離れている雑多な日常風景を、少し小高い場所から見下ろせるこの公園にも既に夕暮れは迫っていた。
 ベンチにポツンと座ったまま何度目かの溜め息をつこうとした時、背後の草むらの空気が動いたことに気が付いて成澤が軽く振り返ると、
「やっぱり、ここだったんだ」
 柔らかい笑顔でそこに立っていたのは本屋敷内裏だ。
「夕飯の時間になっても帰って来ないから、多分ここかなと思って」
 まだ知り合って3ヵ月程度でも、寮もクラスも同じくしていれば、そこそこ友人の嗜好や行動形式も読めてくる。
 本屋敷の言葉には何も返さないまま、体勢を元に戻した成澤は、
「はぁ…」
 とさっきやりかけた溜め息の続き。
 だが、別段気にした様子も無く本屋敷は静かにベンチの傍まで歩み寄り、
「何か有った?」
 その言葉で成澤は瞼を更に重くした。
 …好きでも無いのに身体を繋ごうとした瀬田。

“そのつもりで来たんじゃなかったのか?”

 つまり“そのつもり”で瀬田は部屋へと招き入れたのだ。
 しかも成澤の瀬田へと向ける想いが、いかに純粋で真摯であるかを知りながら、だ。
 本来なら傷つくべきは成澤であるはずなのだが、やはり今落ち着いて考えてみても、傷ついていたのは瀬田の方だと思えてならない。
 三上與と同じ所へ堕ちるつもりなのだと感じたから、あんな言葉しか思い浮かばなかった。
 自分の無力さを痛感したから、あの場を去るしかなかった。
 けれど…
 あんな形であったにしろ、瀬田は救いを求めていたのではないのだろうか。
 もしかすると藁をも掴む思いで伸ばされた手だったのかもしれない。
 にも拘らず、その伸ばされた手を無視して逃げてしまっていては…
「…何かあった方が良かったのかなぁ」
 やはり溜め息混じりにそんな言葉を呟いた。
 いつの間にか隣に腰掛けていた本屋敷が視線を向ける。
「瀬田さん…のこと?」
 問い掛けに頷いた成澤は、
「どこかで会ってきたんだ?」
 やはり柔らかい声での質問に、うん。と短い返事を返した。
 本屋敷はいつに無く言葉少ない友人の横顔から外した視線を、
「普段なら手放しで大喜びしてるトコだよね」
 ずっと前方。
 暮れがかった川向こうの街へと向けた。
 左手の指を顎に掛け、考えるよう軽く腕を組んだ本屋敷の、
「落ち込んでるのは、何も無かったから…かな」
 まるで呟きのような言葉に、俯いたままの成澤は少し首を捻った後、
「何もできなかったな。って思って」
 重たげな瞬きをひとつ…。
 瀬田の心の傷が余りにも深すぎて、
「僕じゃ、何もできないんじゃないかと思って」
 足元の雑草を虚ろに眺めていた。
「…諦めた方がいいんじゃないかと思って」
 ふう
 っと溜め息を漏らしたのは本屋敷。
 組んだ腕を解くと、少し緩慢な動作でベンチに深く座り直すと、
「なんだか良く分からないけど…」
 やはり相変わらずな柔らかい口調のまま、
「桂樹が一番幸せでいられる方向に進むべきなんじゃないかな」
 そんな言葉が成澤の胸元へと落ちた。
 成澤は言葉の意味を胸の中でゆっくりと噛み締めてみる。
 …幸せでいられる方向が、どっちかなんて分かり切っていた
 けれど何の役にも立てないのなら…
「僕が瀬田さんの傍に居る理由、分からなくなっちゃった」
 本屋敷は思いつめた面持ちでいる成澤の横顔をじっと見詰め、
「好きだから…って理由じゃ駄目になったってこと?」
「っていうか」
 少し考えるよう言葉を一度止めた後、
「大好きなのに何もできないってことが哀しくて、…悔しくて」
 伝えながら、胸の奥から込み上げてきた熱い感情。
 泣いてしまいたい気もしたが、そう思った一瞬後には、クッと勢い良く顔を振り上げて、
「心の傷に効く特効薬みたいなのが有ればさ、どんなに遠くにある薬屋さんだって買いに行くんだけど」
 茶化すような口調で誤魔化した。
 泣くことすらはばかられる気がして…
 と、
「存在しないなら、一から作ってみたらどうかな」
 弾かれたよう、成澤は本屋敷へと視線を移した。
「今日は駄目でも明日、見つかるかもしれないし…もしそれが駄目でも来週とか、1ヵ月先とかね。瀬田さんのことを諦めるのも手だとは思うけど、それができないで悩んでるんだろう?」
 成澤の目が、そうだと訴えている。
「緊急事態ならどうにもならないと思うけど、全部放棄してしまう前にできることを捜してみたら? 何かいい特効薬が見つかるかもしれないよ」
 終始穏やかな笑顔を浮かべている本屋敷を、成澤はしばらく眺め続けていた。




















「実家に帰った?」
 俄かに驚きの色を隠せない口調で問い返したのは東條だ。
 あの試験最終日から数えて3日振りの生徒会活動日。
 連休前ではあったが夏休みも直ぐそこなのだ。
 寮生である成澤の参加は強制では無いにしろ、瀬田への執着振りを考えれば誰もが確実に参加すると信じて疑わなかった。
 現に成澤本人もそう断言していたのだ。
 しかし職員室からここ生徒会室へと戻った和臣が、
「何か急用ができたらしいですよ」
 そう補足しながら視線を向けた先には瀬田。
 東條や津島を含め、生徒会室に居る役員全員の視線が示し合わせたように瀬田に向けられて、
「俺は成澤の保護者じゃ無いぞ」
 淡々とそう返しはしたが…
“三上のこと、あいつに話したから”
 今朝、会うなり津島からの事後報告に、瀬田はなぜあの日成澤が自宅前に居たのかを理解した。
 終業式までは生徒会活動に参加すると言っていたにも拘らずの急な予定変更は、瀬田に対して幻滅したか嫌気が差したか…あるいはその両方かもしれないと瀬田は小さな溜め息をつく。
 2年もの時を経て、ようやく三上との面会を果たしたというのに解決の糸口すら見つけられないどころか鞠子に慰められてしまう始末で…。
 自己嫌悪と自暴自棄がほぼマックス状態の時に成澤がそこに立っていたのだ。
 思い返せばあの日、成澤の行動自体が彼らしくは無かった。
 多分瀬田の不可思議な言動理由も察していたに違いない。
 なのに、あんな形で傷つけられたにも係わらず今にも泣きそうな顔で、それでも何かを守ろうとしてくれた成澤。
 たとえ自分の精神状態が最悪だったにしても、他人を傷つけていいなどという道理が通るはずはないのだ。
 …あれは謝罪すべき行為だったと認識せざるを得ないだろう。




















 とても静かで穏やかな昼下がり。
 真夏の強い日差しがステンドグラスを通して、様々な色の光を部屋中に撒き散らしていた。
 色取り取りの光を受けながら、正面に掛けられている十字架をボンヤリと成澤は眺めてみる。
 特別何かを信仰しているわけではないが、時にはこんな神聖な安らぎも必要なんだと瞼を閉じた…にも拘らず不届きながら心に、頭に、瞼の裏に思い描くのは瀬田の姿ばかり。
 本屋敷の助言を受けて思いつくまま即、実家へと帰って来てしまったけれど…
 …突然の帰省を少しは気に掛けてくれているのだろうか
 思った次の瞬間には、長椅子の背もたれにドンと凭れて真っ白の天井を仰ぎ見ていた。
 どうも先日の瀬田との一件以降、思考が上手く持ち上がってくれないのだ。
 積極的に攻め続ければいずれは振り向いてもらえると信じて驀進している途中、大きな石に思いっきり蹴躓いてゴロンゴロンと転がって立ち上がれない…といった状態だろうか。
 けれど、ジッと蹲っている性格でも無いため取り敢えず近くにある、ここ教会へと足を運んだのだ。
 小さいながらも書庫が有ったように記憶していた。
 と、
「お待たせ致しました」
 いきなり背後から声を掛けられ、慌てて立ち上がってしまった。
 そこに立っているのは教会の主である牧師だったのだが、成澤のあまりの驚きように目をパチクリと見開き、
「…申し訳ありません、そんなに驚かせるつもりは」
 その言葉を手と顔で遮った成澤は、
「いっ、いえ。こちらこそ。考えごとをしてたんで」
 ようやくそこで笑顔を見せた牧師。
「なら、お邪魔してしまいましたね」
 軽くだが丁寧に頭を下げて見せ、
「書庫へは後ほどご案内致しましょうか?」
 前もって連絡を入れておいたのだから、牧師が成澤の目的を知っているのは当然のこと。どこからどう見ても生っ粋の西洋人なのだが、流暢な日本語で告げた申し出を成澤は直ぐに断った。
「全然、大丈夫ですっ。考えことはいつでもどこでもできますから」
 やや訝るような視線の色に、
「また改めて、悩みに来ます」
 言いながら少し真面目に日本語の勉強をしなければ、と思ったりする成澤。
「さっ、行きましょう。行きましょう」
 訳も無く焦りながら、率先してバージンロードに躍り出た背後から、
「桂樹坊ちゃま」
 呼び掛けられて振り返ると牧師の手には1枚のメモ用紙。
 折り畳まれていたわけでもないだから、無意識で牧師はそこに羅列されている文字へと視線を向けたのであろう。
 おや?
 といったふう眉を上げる仕草に、成澤はメモを受け取るべく伸ばした手をそこで止めた。
 牧師が持っているのは、もちろん成澤が持ってきたメモ。
 東條から出題された、あの意味不明なアルファベットから推測した、
「天使の名前…ばかりですね」
 牧師に視線を置いたまま頷く成澤。
 今自分がここに居ることの発端は、あの生徒会室の出来事から始まったような気がする。
 瀬田の背後から覗き込んだ時、ほんの一瞬だが応接セットのテーブルの上で垣間見たメモの内容。
 何ひとつ記憶してはいないが、多分瀬田も同じところで躓いていたに違いないと確信していた。
 いや、瀬田のみならず東條や津島。その他にもこの事件に係わる全ての人間が見出せない突破口を、場所を変え環境を変え視点を変えれば新しい局面が見えそうな気がして実家へと帰って来たのだ。
「彼らについてお調べに?」
「というか」
 そこで一瞬躊躇した成澤だが、
「共通点が無いかなと思って」
 答えに牧師は読み取り難い表情で成澤を少し見つめた後、
「学校での宿題か何か?」
 苦笑いで首を横に振った成澤へと若干安堵の笑みを浮かべた牧師。
「難しい答えが必要でないことを前提にお話し致しますが、ここに書かれている天使達。最近私が読み終えた本の中に出てきた天使ばかりで、最初目にした時は少々驚いてしまいました」
 現在かなり驚いた表情を浮かべているのは成澤だ。
「10年ほど前だったかと思いますが発行当初は結構話題になった本なんですよ。ずっと読み損ねていたのですが、つい先日やっと読み終えました。よろしければお貸ししましょうか?」
 柔らかい光の下、ニコッと浮かべた綺麗な笑顔に、生き神様は存在するのだと初めて思ってしまった成澤だった。




















「しゅうまつの、ラッパ吹き…」
 呟くような東條の言葉に成澤はウンウンと二度大きく頷いてみせると、鞄の中から取り出した筆記用具を長テーブルの上へと置き、
“終末のラッパ吹き”
 開いた大学ノートの真ん中にそう書き記した。
「僕、キリスト教のことは全く詳しくないですし、一朝一夕で理解できるような薄っぺらいものでもありませんから、かなり掻い摘んだ説明しかできないんですけど」
 生徒会室横のミーティングルームで成澤を囲む面々は、まんじりともせず話の続きを待っていた。
 成澤はひとつ深い呼吸をした後、
「破局のラッパとか他にも言い方は有るようなんですが、とにかく。この世界の最後の時に吹き鳴らすラッパのことで、このラッパを吹く天使の名前が」
 言いながら指し示したのは、先程の頁から何枚か遡った大学ノートのとある頁。

Rasiel Remiel Sariel Uriel Gabriel Raphael

「スペルの前部分が全て、あのハンドルネームと一致するんです」
 成澤以外誰ひとりとして口を開く気配が無いまま、黙ってその頁を凝視している姿に、
「…聖書の解釈が色々と有るように終末のラッパ吹きも何通りかの組み合わせが有るようなんですが、これは比較的一般的な組み合わせで」
「全員なのか?」
 不意に質問したのは東條。
 言葉を止め顔を上げた成澤へと、
「その“終末のラッパ吹き”とやらはこの6人で全ての人数なのか?」
 明確に質問を投げかけると、成澤はゆっくりと首を横に振り、
「あと、ひとり」
 そう告げた後、シャープペンシルを持ち直し、六つ連ねられた天使の名前の末尾に、

 と一文字書き記す。
 牧師から借りた本中でこの頭文字を見た瞬間、思い浮かべたのはやはり瀬田の顔。
 他でもない、大好きで大切な人の頭文字なのだ。
 どんな状況にあっても真っ先に想うのは彼のことばかりだというのに、終業式の今日。久々の再会であるにも係わらず、視線を合わせたのは多分今が初めてだ。
 その真っ直ぐな視線を受けながら、瀬田の唇がゆっくりと動く。
「大天使…ミカエル」
 成澤は大きく頷いて見せた。




















 講堂へと向かうべく生徒会室を後にした役員の一群。
 その最後尾をややゆっくりとしたペースで歩く東條と瀬田。
「正解だという確証はどこにも無いが…」
 肩を並べて歩く東條の言葉に瀬田が頷きながら、
「チャットの会話を何度読み返しても、リーダーが誰なのか掴めなかったんだ。グループのリーダーは別に存在すると考えるのが妥当だったのかもしれない」
「ああ。リーダーだからこそ安易に下っ端とは連絡を取らないってのも納得がいく」
 そこまで東條が言った直後に短い沈黙。
 そして、どちらからとも無く大きな溜め息。
 この推理が事実であったとしても、事件が一気に解決するという類の情報でも無いのだ。
 けれど、成澤が新たなる解決の糸口を見つけたことは評価に値する。
「…惚れた一念って奴かな」
 東條の言葉に苦笑いを浮かべた瀬田を見て、
「どうやら一線越えたわけでも無さそうだな」
 おどけたような言葉と仕草に今度は険しい視線を向けた瀬田。
 成澤があの日のやり取りを喋ったとは思い難いが…
「そう睨むな。今日はやけに成澤が大人しいから、安定した関係でも出来上がったのかと思っただけだ」
「…なわけ無いだろう」
 瀬田の口調は半ば呆れ気味。だが、
「それにしたって視線すらも殆んど合わせないってのは不自然過ぎるじゃないか。結果は分からないにしてもクイズのご褒美を自分から保留するって言い出したことも妙なんだ、なのにお前がそれを疑問に思わないのは理由を知ってるってことにならないか?」
 読みは中々鋭いが、
「知らないよ。いい加減、俺に飽きたんだろう?」
 アキレタ
 が正しいのかもしれない。と内心思いつつ、正確な理由を瀬田が知らないのも事実だ。
「…俺なんか、何の価値も無いのに」
 独り言のつもりだったのか、小さく吐いたセリフだったのだが、
「與にもそんなふうに?」
 弾かれたよう、瀬田は顔を上げた。
 三上の事件以降、お互い不自然なほど避けてきた話題なのだから驚くのも無理はない。
 珍しく困惑しきっている瀬田へと、
「いや」
 自嘲の笑みを浮かべた東條は、
「與とのことは話す気分になった時でいい」
 こんな場所で雑談交じりでするような話題では無いことは承知しているが、ふたりの間にある三上絡みの蟠りはいい加減取っ払ってしまいたかったのだ。
「お前を恨むのは筋違いだってこと、ずっと前から分かってたから」
 せめて自分達だけでも前に進まなければと…
 穏やかにそう言った東條へ、ゆっくりと小さく頷いて見せた瀬田。
 何も訊かずに全てを許容しようという東條の気持ちが痛いほど伝わるから、
「…ありがとう」
 静かに東條の肩に手を置くと、細く一言そう告げた。




















 稲妻が脳天から心臓、そしてつま先までを一直線に貫いた。
 今まさにそんな衝撃を受けたかのよう両目を見開いたまま、愕然とそこに立ち止まってしまった成澤。
 瀬田の自宅での一件の後、柄にも無く悶々と思い悩んでいたせいか瀬田の存在をあまりにも意識し過ぎて、ついつい距離を取ってしまっていたのだ。
 終業式の時間だからと率先して生徒会室を出たものの、一番後ろを歩く瀬田と東條が当然気になって、チラチラと様子を窺っていた。
 途中まではいつもと変わり無い調子で話していた二人だったのだが、ある瞬間瀬田の表情が大きく変わったのだ。
 …常に穏やかに人と接する瀬田。
 けれど喜怒哀楽はそこそこ露にしてはいる。
 と、思っていたのは大きな勘違いだったと思い知らされた。
 先日、瀬田の家で垣間見た無表情とは全く違う。多分、極親しい人間にしか見せない瀬田の無防備な表情だったに違いない。
「どうして…」
 そう呟いたことすら気付かないままふたりを睨みつけていた成澤。
 その隣に居るのが自分ではない事実。
 その隣に自分が居ることのできない現実をまざまざと見せ付けられた気がした。
 胸に込み上げてくるのは怒りに近い感情だ。
 やり場の無い想いがパンパンになって身体中に膨れ上がる。
 もう理屈なんてどうでもいい
 ただ、単純に
 …あの人が欲しい
 と。
 初めて瀬田へと向ける自分の心の行方が明確になったことを自覚した。




















 講堂内で点在して起こる生徒の小さな笑い声が、徐々に広がりつつある。
 壁に沿うよう立ち並ぶ教師陣にも俄かに動きが感じられて、
「何を喋ってるんだ、あいつは」
 呆れたように呟いた東條だ。
 終業式はつい先程終了し、教職員からの連絡事項が済んだ後、生徒会からの用件を壇上で喋っているのは成澤。なのだが、
「え…っと、夏っ。夏休み中の奉仕…、いや。部活ど、違うな。やっぱ奉仕活動だったです。が…あれっ?」
 メモを持っているにも拘らず、文章は前後左右斜め方向にまで飛びまくるのだから、何を言っているのかチンプンカンプンなのだ。
 もちろんメモの書き方に問題があるわけでは無く、成澤の視線がちっともそこに落ち着いていないことが原因。
 視線をメモ用紙へと移した一瞬後に一々向けらる視線の先には、いうまでも無いだろうが瀬田が居た。
 かなり不機嫌な面持ちで瀬田が睨み返してしまうのも無理はない。
 朝から視線を合わそうとしない成澤に良心の呵責を充分感じていたというのに今度は掌を返したような、この態度なのだから。
 もちろん成澤が先程受けた大きな心のダメージなど知るはずも無い瀬田が、
“ちゃんと喋れっ”
 とアイコンタクトを必死で送ったところで気付くはずは無く、
「上まで行って代わってきてやれよ。あいつ、喜ぶぞ」
 他人事のよう東條にからかわれて余計頭にきたのだろう。
 どうにでもなれ
 っといった気分で成澤から視線を外した瞬間、
「待ってくださいぃぃっ!!!」
 マイクを通した大音響が講堂内に響き渡った。

 シー――ンっ

 突然訪れた静寂と共に、そこに居た全員が壇上の成澤に注目したであろう。
 例に違わず反射的に声の主を見上げてしまった瀬田は、やはり自分が成澤の真っ直ぐな視線を受けていることに一抹の…いや、かなり確信に近い不安を覚えた。
 もう手遅れだ…
 諦めつつも、視線をそのままに置いている瀬田を直視しながら、
「やっぱり僕は…」
 時も場所も、
「瀬田さんのことがっ」
 立場なんてものまでそっちのけで、
「大好きだああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
 大絶叫に講堂丸ごと息を呑む。
 そして、

 ウオオオオオオォォォォ
 キャアアアアアァァァァ
 ドエエエエエエェェェェ

 等々、とにかく場内大騒ぎ。
 東條の姿は既にそこには無く、好奇の視線と無責任な当て言に晒されている瀬田をどうすべきかと隣を振り返った和臣。周りの反応にはまるで動じていないかのよう、事の成り行きを見届けている瀬田の姿に、心配は無用なのだと静かに前へと向き直った。
 落ち着き払った生徒会役員面々とは対照的に、興奮し切って怒鳴る教師の声すら誰にも届いていないというのに、皮肉にも壇上から引き摺り下ろされた成澤の声だけは未だマイクが拾い続けていた。




















 まさか退学とまではいわないだろうが、停学か自宅謹慎は免れない。
 との大方の予想を裏切って、生徒会顧問・生徒会長及び騒ぎの張本人である成澤の始末書又は反省文の提出で処分は決まったのだ。
 喧々囂々と意義を唱える教師も居たが、ニコニコと笑顔を湛えながら言った学園長の、
“元気があっていいじゃないですか”
 この一言でそこにいた全員が口を閉じた。
 成澤の告白した相手が同性だと知った上での発言だろうかと訝しがる職員も居たが、
“久々に楽しかったですよ”
 などと、あまりにも寛大で温厚な発言に、結局は事実を告げるものは誰も居なかった。
 更に付け加えるなら、生徒会顧問が次期学園長候補の筆頭であることも少なからず処分に影響したのだろう。










「すみませんでした」
 学園内で詰めた話をするならここ。
 とばかりに、やはり生徒会室横のミーティングルームで成澤は深々と頭を下げていた。
 終業式が始まる前に2人きりになる機会があったなら、謝罪の言葉を発していたのは自分の方だっただろうと、戸口に立つ成澤から数歩離れた場所で座る瀬田はため息をひとつ。
 あの瀬田の部屋でのやり取りが多かれ少なかれ騒動のきっかけのひとつになっただろうことを思えば、一概に成澤ばかりを責めるわけにもいかないのだ。
「…座って話そうか」
 謝罪に対しての返事は無いながらも、取り敢えず斜め前の席へと座るよう成澤を促すと、すっかり意気消沈の体で言われるまま傍のパイプ椅子へと腰を下ろした成澤を、瀬田は静かな眼差しで追っていた。
 どの道、明日から夏休み。
 次に全校生徒が集まる頃まで、一々今日の騒動を引き摺ってくる生徒の割合を考慮すると、今更とやかく言わずとも自然と騒ぎは収まってしまうだろうことは容易に推測できる。
「…思うところは山ほど有るが」
 長机へと視線を落とした後、意を決したよう瀬田はそう切り出し、
「この間の件と相殺ってことで済ませたいんだが」
 けれど成澤は俯いたままで、その表情すら窺うことができない。
 余りにも言葉少なだっただろうかと瀬田が補足のため、もう一度口を開こうとしたその時、
「それは、お咎め無しって意味ですか?」
 ボソボソとした質問。
「俺からは、まぁ…そういうことになるが」
 っと、唐突に満面の笑顔をガバッと上げた成澤。
 全身歓喜を貼り付けたようなその態度に、瀬田は一瞬その場で固まって、
「反省…、してたんじゃ無かったのか?」
「してます、すっごく反省してますっ」
 笑顔で即答されても、信憑性には大いに欠ける。
「あっ、信用してませんね。僕、こっぴどく叱られたんですよ、さっき千郷先生に。瀬田さんの立場も考えろって」
「言われなきゃ分からないことじゃないだろう、普通」
 諦めに似た瀬田の言葉に、もちろんと成澤は大きく頭を振り、
「分かってましたけど、忘れてました。すっかり、あの時は」
 堂々とそう言ってのけると、
「三上さんの話を聞いたり瀬田さんの家でのこととかが有って、思いっきり動揺して混乱して…僕が好きでいていいのかな。ってことまで今日学校に来てからも悩んだままだったんですけど、結局は理屈じゃなかったんですよ」
 終業式前に受けたあの衝撃。
「好きな気持ちはやっぱり止められませんっ。僕は」
 視線を外し会話を切ろうとした瀬田へと、
「逃げないでくださいっ!」
 小さく叫んだ成澤。
 驚いて瀬田が視線を戻した隙に、
「逃げないでください」
 静かにそう繰り返したあと、
「僕からも」
 別の何かからも…
 そう最後まで告げてしまうと、何かが終わってしまう気がして中途半端で言葉を切ってしまった。が、瀬田はただ黙って成澤へと視線を置いたまま。
 重い沈黙が訪れることが怖くて、
「僕から元気を抜くと何も取り得がなくなってしまうので」
 慌てていつも通りを取り戻し、
「瀬田さんのこと、好きでいさせてくださいっ」
 しっかりと成澤はそう言い切ると、もう一度深々と頭を下げて見せた。
 顔は見えなくても瀬田がどんな表情をしているのかは察しが付く。
 そして、
「…勝手にすればいい」
 結局は拒絶しきれないことも…。
「有り難うございますっ」
 元気な笑顔で頭を上げた成澤へと、重く溜め息をついて見せ、
「じゃあ」
 と短く言い置くと瀬田は席を立った。
 振り向くこと無く部屋を後にする頃には、成澤からその笑顔が消えてしまっていることなど気付くはずも無い。
 成澤は一人そこに座ったまま、
 一体、今まで彼の何を見ていたのだろう
 思いながら、瀬田の居た場所に視線を戻した。
 いつもこんなふうに最後は瀬田が押し切られてしまうのは、瀬田の優しさだと思っていたのは大きな誤りだったと気付いてしまったのだ。
 あれは押し切られているのではなく会話の放棄ではないか。
 自分勝手な言い分だが、嫌いだと一言で切って捨てられたなら、まだ諦めが付きやすい。
 なのに以前生徒会室で詰め寄った時ですら、その言葉は口にはしなかった。
 そして不可解なのはもうひとつ。
 成澤の言葉を切ろうと視線を外す瞬間に見せた辛楚な表情の持つ意味だ。
 背もたれにぐったりと凭れると大きく天を仰いだ成澤。

 分からないことばっかりだ…
 でも

 …それでも、やはり
 進むしか無いのだと思う
 この人しか居ないのだと思う
 欲しいと望んだ初めての人だから

 新しい恋の形を知った成澤桂樹、16歳。初夏の出来事だった…











作り始めはいつも長編にするつもりはないのですが、
お話が長くなってしまうのは実力のなさですかね(~_~;)

本当に久々の新作で、密かに緊張しておりました。
お楽しみいただけたでしょうか???

次はとりあえずサラリーマン物を出しますが、
シリーズのメインキャストたちのお話しも
順を追ってアップしますのでお楽しみに〜。

それでは、最後になりましたが
完読していただき大変有難うございましたm(__)m



2006.4.24 杜水月







作:杜水月
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