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遠山の金さん

テレビの時代劇で有名な『遠山の金さん』は架空の人物だと思われている方も多いかと思いますが、彼は実在の人物なのです。
遠山金四郎こと遠山左衛門尉景元についての四方山話しを少し…。

 <家系> 

遠山家は源頼朝の家臣・加藤景廉が美濃国恵那郡遠山荘の地を与えられ、その長男・景朝が遠山荘にちなんで遠山左衛門尉と称したのを祖とします。
その後多くの分家に分かれた中の明智遠山氏が徳川家康に仕え、旗本となりました。
この明智遠山氏の傍流の末裔が遠山景元なのです。

が、もっともっとさかのぼって行くと、実は藤原氏北家に繋がります。
藤原氏の始まりは藤原朝臣…分かり易く書くと中臣鎌足の事です。大化改新で有名な人ですね。

 <複雑な遠山家のお家事情> 

さて、金さんのお家事情は非常に複雑だったのです。
良く似た名前が沢山出て来ますから頭を整理しながら読んで下さい。


ではまず、金さんこと景元から時代をさかのぼること四代前に、遠山景信なる人物がおりました。
この景信の子には女子が2人いたのですが男子に恵まれなかったため、親戚の子景好を婿養子に迎えました。
この景好も男子に恵まれなかったので、旗本一千石の永井筑前守直令の四男金四郎景晋(「かげみち」あるいは「かげくに」)を婿養子にします。
ところが景晋が養子に来てから景好に実子房五郎(のちに九十郎と改める)景善が産まれるのです。
景善が産まれたので、当然と言えば当然でしょうが景好は景善に家を継がせたいと思うようになりました。そのために景晋の初御目見えを願い出しませんでした。

景晋はせっかく養子に来たというのに景善が産まれたために初御目見えが出来ません。初御目見えが出来ないと出仕も出来ないので、部屋住みのままになってしまいます。
この状態が景好が69歳で亡くなるまで続いたのでした。

景晋は養父景好の死後、遺跡を継ぎ同年にようやく将軍家斉に初御目見え。小普請入りし、その後持ち前の手腕を発揮し、左衛門尉まで出世しました。
この左衛門尉叙任に伴い金四郎から左衛門尉に改名したのです。

と、ここまでは景元の実父・景晋の事情。

 <金さんの事情> 

遠山左衛門尉景元は、1793年9月27日に生まれました。
生家は現在の東京都港区虎ノ門1丁目26番第17森ビル辺りになるそうです。

景元の幼名は通之進。17歳の時に金四郎と改めました。(金さんという呼び名はもちろんここから来てます)
その後叙任して大隅守を名乗り、次いで左衛門尉と改めたのです。

さて、景元が生まれたのは景晋が42歳の時。
普通なら待望の跡取り誕生で大喜びする所なのですが、遠山家には景晋の義弟景善が居るのです。景元が生まれたことにより、再びお家騒動の芽が出来てしまったのです。
しかしこれを景晋は次のように解決しました。

景晋は景元の出生を直ぐに幕府には届けず、景元誕生の翌年の7月にそれまで義弟であった景善を養子にします。江戸時代の旗本の養子縁組は今と違って細かい規制があり、しかも幕府の許可が必要でした。そこで景晋は自分に子供が出来ないので、景善を養子にしたいという願書を幕府に提出し、幕府はこれを許可したのでした。
その上で同年9月に景元が生まれたと届け出たのです。

一方、景善にも子供が生まれたのですが早世したようで、そのためか1802年に景元を景善の養子とします。
ところが、その後再び景善に景寿と言う男の子が生まれてしまいました。
つまり遠山家は三代続いて同じケースが起きた事になるのです。
けれどこれを景晋は予期していたようで、景寿を後に旗本の堀田家へ養子にやってしまい、跡目騒動が起こる事を避けたようです。
(基本的には景元を後継ぎにしたかったというのが、景晋の念頭にはあったようですが…)

確かに景晋の取った行動は理に適っていますが、逆に複雑な人間関係をも作り出した事になります。

景元がある年齢に達すると、奥向きから表に出て景晋・景善と一緒に暮らすようになりました。
景元と景善とは親子ほどの年齢差があったので、それだけなら特に大きな問題にはならないのですが、景晋と景善との間に心理的葛藤がある上に、景元は10歳の時に景善の養子になったのですから、今までの「義兄上」から「義父上」と立場がかわってしまったのです。

また一緒に暮らしていれば自然と実父・景晋と養父・景善とのいきさつも耳に入って来るわけですから、子供心に複雑な心境だったと思われます。

更に1802年に目付けになった景晋は1804年ごろから外交で東奔西走していて、家に殆ど居ず、方や景善は出仕していないので(この理由は下で述べてます)家に居る時間が多い…となると、景元は幼少の頃から気詰まりの多い生活を送っていたと推測されるのです。

 <金さん放蕩説> 

遠山景元は1819年4月12日、旗本百人組頭の堀田伊勢守一知の妹けいと結婚しました。
景元が22歳の時です。

景元が結婚してから1825年に出仕するまで、景元の記録が途絶えます。
どうやらこの間に景元が家出・放蕩していたと言われているようなのです。
ではなぜ景元は家出・放蕩しなければならなかったのか。

記録が残っていないようで、様々な状況からの推測からして考えられる原因が3つ。

原因その1

景元の実父景晋は、景元が結婚した時すでに63歳になっていました。普通なら養子の景善に家督を譲って隠居してもおかしくない年齢であるにもかかわらず、景晋は隠居もせず景善の出仕も願い出なかった。
この理由として実子景元に家を継がせたいという気持ちが強かったのではないかと思われます。
しかし、これが逆に景元の精神的負担となってしまい、景善に家を継がせないと義理がたたない。
…自分が家に居ない方が良いと景元が考えたのではないかと言うのがまずひとつ。



原因その2

出仕するまでに町人の暮らしを体験しておきたいと言う、景元の気持ちが考えられるのですが、それならばわざわざ家出しなくても、景晋と話し合って、市井(平民の事…シセイと読みます)の生活を知る方法を考えて実行すれば済む話しです。



原因その3

複雑な家庭環境に嫌気がさした景元が、実は早くからぐれていて、それを直すために身を固めさせようと結婚させたが、不行跡はあらたまらず家出をしたと言う説。
けれど長期にわたり家出をしていれば世間にも知られ、景晋の地位にも影響が出て来る事になり兼ねません。そうなると勘当問題が出て来たり、また妻の実家堀田家の方が遠山家より格が上なので、その関係もおかしくなり離縁の問題も出てきます。
けれどその事実も無かったのだとすると、この理由も成り立たないのです。


と考えると少し景元を贔屓目に見たとして、原因その1の理由が主だったと思われます。


しかし、そうすると今度はこの家出・放蕩説事体にも幾つかの疑問が残る事になるのです。

景元の目的が景善に早く家を継がせたかったのだとすると、遠山の家名を傷付けたり、当時長崎奉行だった景晋の名を汚す気持ちは無かったでしょう。
景元の放蕩はともかくとしても、家出をしても行く先はなく、手に職の無い景元では生活する事も出来ません。また居候できる知人が景元に居たかどうかも疑問…。

一般的には長唄の吉村伊三郎(三代目)が景元を部屋子のように預かっていたと伝えられているようです。

のちに景元が小納戸に出仕する前に御庭番の内密の身上調査があったとき問題が無かった事から(小納戸は将軍に近侍するので素行が悪ければ採用されない)、結論としては、もし景元の家出・放蕩が事実であったとしても、目に余るほどの物ではなかったと言えるようです。

まぁ、そんなこんなの景元の行動によって景晋は気持ちを変えたようで、ついに景善の出仕を願い出る事になったのでした。

 <金さんの彫り物> 

現在は「ほりもの」と「いれずみ」は同じ意味で使われているのですが、元来「いれずみ」は「入墨」と書き刑罰でした。
つまり前科者のしるしとしての刑罰「入墨」と区別して、風俗で彫る物を「彫り物」と呼んでいた様です。

景元が彫り物をしていたと言う噂は市井にはあったらしく、それは家出放蕩時代に彫ったと言われているようで、その図柄は文献によって異なり”女の生首”だと言う噂。またそれを否定して”花紋”とする説もあります。

しかしまた別の文献からは他の人物との混同・脚色で、本当は彫り物はなかったと言う説もあるのです。
そして景元彫り物説は彫り師の人達も否定的なのだとか。

景元が放蕩した原因が養父景善に家を継がせるためだとすると、基本的に景元は武士を捨てる気持ちは無かった事になります。
武士にとって自分の身体は主君のためのものであり、勝手に自分の身体を傷付ける事は許されない。また彫り物禁止令が出ている事を景元は承知していたようです。

とすると、実際の所景元は本当に彫り物をしてたのでしょうかね…?

 <金さんのそれから> 

遠山景元の養父九十郎景善は1825年に病死しました。
運命の悪戯で長い部屋住み生活の後、景善は出仕してから僅か5年余でこの世を去ってしまったのです。

景善の死後、家出をしていた景元は家に戻ったと言われているそうですが、もし上述したように景元の家出の原因が景善を出仕させるためだとすれば、景善が出仕した時点で景元の目的は果たされたことになります。
ですから、早ければ景善の出仕後…遅くても景善の死ぬ前には既に景元は家に戻っていたのではないかと考える事が出来ます。

いずれにせよ景善の死後、実父の景晋は景善の跡取りとして景元を幕府に届け、景元は無事初御目見えを済まし、町奉行へと昇格して行くのです。




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景元は1855年4月15日この世を去りました。
享年63歳。
法名「帰雲院殿従五位下前金吾校尉松遷日享大居士」
お墓は現在、本妙寺(豊島区巣鴨5丁目35番6号)に葬られています。





参考文献:実説・遠山の金さん
(名町奉行遠山左衛門尉景元の生涯)
大川内洋士著・近代文芸社出版


思い付きで調べた金さん事情ですが、
彼にはこんな複雑な事情があったんですね。
『愛しのフレディ』の文章中では桜吹雪きの流れから彫り物に掛けてますが、実際に彫り物をしていたかどうかは今となっては分かりません。

私が参考にさせて頂いた本にも書いてありましたが、同じ名奉行でも大岡越前守忠相と違い遠山景元の資料は殆ど残っていないのだそうです。
ですからここに書いてある事が全て正しい金さん情報だとは決してお考えにならないで下さい。

それから、この文章は必要箇所だけを抜粋して書いたので、例えば
『何故、現在あのようにお白洲のシーンが有名になったのか?』
など、部分的に分かり辛い部分も有るかと思います。
全てを書き出すとキリが無いので説明を省略した箇所も多々有りますので、もっと詳しく知りたい方は上記の参考文献を購入して下さい。
遠山景元の生涯が記載されています。

ちなみに私は図書館で借りました。
タダが好きなものですから…(^^ゞ


御目見え

大名を除く幕臣の中で、将軍に拝謁できる資格のある者を御目見えと言います。
御目見えとは例外は有りますが大体家禄二百万石以上です。
俗に御目見え以上を旗本と言い、それ以下を御家人と言っているようです。

表と奥向き

旗本の屋敷は大名の屋敷と同じように、当主の居る表と妻の居る奥向きに区別されています。
旗本の妻は奥向きに居るので奥方あるいは奥様と呼ばれました。なお、御家人の妻は御新造と言います。

下級旗本の場合は屋敷が狭いので、簾などで仕切って居た所も有りましたが、中級以上の旗本ともなると表と奥向きはきちんと区別されていました。
奥向きは当主は別として原則的に男子禁制で、逆に女性は表には立ち入らなかったそうです。

入墨

入墨の方法は「牢屋舗において、腕回し幅約三分づつ二筋」とあり、肘の直ぐ下に幅約三分(1センチ)ずつ二本を約七分(2センチ)の間隔で入墨をするのです。
これが江戸時代の一般的な例で、入墨をする位置や形は地方によって違いが有った様です。

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