働ケドモ働ケドモ我ガ暮ラシ楽ニナラズ


 私の周りに起こる色々なことを、つれづれなるままに記録しています。
 そこはかとなくものぐるおしけれ。

3月30日(日)晴れ
 夕方、天狗高原にHale-Bopp 彗星を見に出かけた。梼原町と東津野村、愛媛県柳谷村にまたがる天狗高原は標高1000mあまりのカルスト地形の高原である。四国山地を見渡すことができる。私の住む梼原町中心部からは車で約30分で着く。午後6時半頃に到着した。めちゃくちゃ寒かった。彗星は綺麗に見えたが、寒いので早めに帰ってきた。この寒さの中、望遠鏡をセッティングして見ている星好きの人々には頭が下がる。

3月29日(土)雨
 長女が保育園に行かないので、一日中家の中が騒がしい。入園式までまだ一週間あると思うとぞっとする。最近、文字を理解し始めた彼女は、テレビ画面に映るテロップに知っている字があると指摘する。今日は、NHKの歌番組で「浪速節だよ〜 女の女の人生は〜」のの部分を指さして、「あ、のぶくん(保育園の友達)のだ!」と騒いでいる。この他にも「なほちゃんの」も認識できるらしい。

3月27日(木)雨
 やっと引越の片づけが進み、家の中がなんとか住めるようになった。長女はまだ、家が変わったことが理解できないらしい。
 一年ぶりに外来をした。しゃべり疲れた。

3月24日(月)晴れ
 今朝は、実家から自宅へ行った後、長女を保育園に預けた。午前9時前に運送屋が4トントラックを連れて登場。本職4人といかにもアルバイト風にーちゃん3人が一斉になだれ込むと1時間半で家の中が何も無くなった。次女が泣くのでミルクをやろうとお湯を沸かそうとするが、手際のいいガス屋に既に止められていた。
 引越先の梼原病院の住宅前は冬はトラックが滑り落ちて行くほど急な坂になっている。4トントラックはバックで入ろうとするが後部のバンパーが地球を少し削ってひん曲がってしまった。僕知らない。
 梼原町は寒い。さすがに高知のチベットといわれる所である。高知市内では桜が咲いているのに、梼原町ではなぜか花粉症がひどくなった。3週間は遅れている。しかも、この4月開局のフジテレビ系列の高知さんさんテレビが映らない。既に後悔し始めてる。

3月23日(日)晴れ
 昨日の時点でどうなるかと思っていた家の片づけも夕方にはすっかりメドがたち、夜は実家に泊まりにいった。コンピュータ様たちも荷造りされてしまったのでインターネットもできない。心配なのは、医局から引き払うMacintosh LC575を運んでいて、箱ごと落としてしまったことである。

3月22日(土)晴れ
 引越が目の前にぶら下がっている。就職してから7年間で実に5回目の引越である。今日の時点でまだ家の中は片づいていない。しかし、そこは引越経験の豊富な我が家であるから、終盤の追い込みが強い・・と思う。

3月21日(金)雨
 今日で県立中央病院での仕事を終えることになった。あちこちで挨拶をしまくった。一年間お世話になった人々と患者さんの顔を見ていると後ろ髪を引かれる思いであるが、これも医者の常である。
 朝、手術室に行った。N田医師は特大の手術着が少し小さいようでちょっと引っ張ったら袖が破れてしまった。脱ぐときには体の横の部分の縫い目が破れてしまった。すごいパワーである。
 夕方からは消化器科・自治医大合同送別会が堺町葉牡丹で執り行われた。隣の部屋では外科送別会「K家先生行っちゃいやーん」が行われていた。途中から二つの部屋を仕切っていた襖が取り外され入り乱れての大騒ぎとなった。二次会ではY本医師が沢田研二の<ストリッパー>にのせて見苦しい体を披露した。コップで隠すなよー。透けて見えるんだってば。

3月19日(水)雨
 自分の犯した大きなミスに気がついてしまった。職員食堂の食券を新しく買ってしまったのである。一綴りで3,300円分有り、一回買うと昼食約6回分となる。自分が今週一杯で退職するのをすっかり忘れていたのである。

3月17日(月)晴れ
 今日は、医局会で2年の任期満了に伴う医局長選挙が行われた。以前もそうであったが、どこからともなく、「○○先生に投票するように」という裏工作が前もってなされ、つつがなく医局長が決定してきた。「今回は誰にするの?」と消化器科のT松先生に聞くと「外科のN岡先生らしいですよ。」と教えてくれた。放射線科M田Y多佳医師とN田医師にその旨を伝えたが、そのまま伝えるのも芸が無いなと気が付き、CT室近辺で「医局長にはM田Y多佳医師を!」と騒いでいた。するとどうであろう、一票「M田先生」と投票されていた。誰でしょう?僕じゃないよ。投票結果は、裏工作が十分でなかったらしく、N岡先生とN田先生の外科医師2人の大激戦となり、最終的にN岡先生に軍配が上がった。
 妻は、市役所に行ったついでに近くに印章屋さんにいった。僕が認印を無くしてしまったために、新しいのを作りにいったのである。ありふれた名前の人には分からないであろうが、<阿波谷>という名前は非常に珍しく、既製の印鑑は見たことがなく、注文になってしまうのである。ところがである。その印章屋さんには<阿波谷>の既製の認印があったのである!! 自慢げに電話帳に載っている高知県内の名前は全て彫ってあるんだと店主が語ったそうである。しかし、阿波谷家は高知県内には母と兄と僕の3世帯しかないのである。妻が行かなければ、この印鑑は一生、売れ残っていたに違いない。おそるべし、印章屋の親父!

3月16日(日)曇り後晴れ
 県立中央病院放射線科の全てが分かる CD-ROM Vol.1が完成した。学会・講演会発表のスライドや原稿、写真が詰まっており、すばらしい完成度である。消化器科研修医T先生には最初5,000円で売ってやるという話だったが、現在は19,800円(税別)で交渉中である。近日中に県立中央病院放射線科の全てが分かる CD-ROM Vol.2がリリースされる予定である。

3月14日(金)曇り後雨
 朝から、一ヶ月前のお返しを配り歩いた。M田Y多佳医師は明石に帰っている妻が調達した高級菓子が送られてきて、それを配っていた。M田S二郎先生は奥様の手作り菓子である。
 正午過ぎ、突然、奈良医大放射線科U田教授がふらっと遊びに来られた。名著「肝胆膵」にサインを頂いた。ちょっとミーハーになってしまった。
 夕方、放射線科のデータをCD-Rに焼いていたが、途中で力尽きた。

3月13日(木)雨
 今日は<肝胆膵カンファレンス>(秘蔵写真集はここ)の送別会だった。また、タダ酒を飲ましてもらった。カンファレンス終了後、いつもの通り午後9時から菜園場吾平にて行われた。K児島大学放射線科のK撞先生も合流し一緒に呑んだが、K撞先生は10年前からカンファレンスに参加していると言っても誰も疑わないほど、すっかり溶け込んでいた。

3月12日(水)晴れ
 今日は、卒業二次試験の動注リザーバーである。午前中からアドレナリンがたくさん出ていた。昼頃、K児島大学放射線科のK撞先生が、明日からの腹部救急学会のためやって来られた。一緒に昼食をとった後、血管造影、動注リザーバーを見学されることになった。動注リザーバーは、<阿波ちゃんする>ことなく、穿刺に成功し、私は「MontBlancは俺の物だ!」と唱えながら、気合いを入れていた。終了後、K撞先生は「MontBlancってどういう意味なんです?あれだけが分からなかったんですが・・」と言われ、M田S二郎先生に大うけした。でも、K撞先生、僕の下手な手技を見て何か役にたったのでしょうか?

祝!二次試験合格!MontBlancは俺の物だ!

3月11日(火)曇り
 今日は、医局主催の歓送迎会であった。タダ酒を飲ましてもらった。

3月10日(月)雨
 M田S二郎先生MontBlancのボールペンを頂いた。これは、M田門下卒業の証である。しかもイニシャル入りである。しかし、卒業試験はまだ終わっていない。M田S二郎先生曰く、「今日のPTCDと明後日の動注リザーバーが卒業試験や。失敗したら、MontBlancのボールペン返してもらうぞ!」。

祝!一次試験合格!

3月8日(土)晴れ
 今日は私の母校自治医大のN尾前学長(明治44年生まれ)が来高したので、卒業生が集まって宴会である。宴会の司会をおおせつかったが、花粉症でじゅるじゅるの私には地獄であった。宴会が終わり、有志で二次会に出かけ、家に帰ったのは午前1時であったが、午前2時からHale-Bopp彗星を見に出かけた。あ、もちろん、酒は飲んでない。彗星は、史上最大級の名に反しない、立派な彗星であった。午前6時に家に帰ると、3歳の娘が目を覚ましていた。「あ、お父さん、帰ってきた!」何か悪い事しているような・・・

3月7日(金)晴れ
 午後、2件目の血管造影が終わりかけていたときのことである。妙に焦げ臭いことに技師のM崎さんが気がついた。血管造影は終わり、N田医師が止血を始めた。穿刺した血管を15分位押さえ込むのである。そのとき、窓の外を見た、M田Y多佳医師が「病院のすぐ前で火事みたいだ。」と教えてくれた。なるほど、血管造影室からは内科外来の建物に隠れてよく見えないが、その向こうからもうもうと煙が立ちこめ灰が舞い上がっている。既に人垣ができている。N田医師はかわいそうなことに手が放せず「僕も見たいよ〜」と言っていたが相手にされなかった。M田Y多佳医師の姿が見えないので(これ自体日常茶飯事なのだが)、血管造影の写真の作成を私がしていた。すると、しばらくして、M田Y多佳医師は「いや〜、すごいすごい」といいながら帰ってきた。野次馬に行っていたようだが、本人によると病院に延焼しないかどうか心配で心配で見に行ったとのことである。さすがに淡路島で阪神大震災を経験した医者は違う、と思った。M田Y多佳医師によると、いかにも火事を見に来そうな医師、誰とは言えないが、脳外科のY村部長、消化器科T崎医師、皮膚科N本部長などが集まっていたそうである。自分も人のことを言えた義理ではないと思う。ともあれ、消防車がやってきてまもなく鎮火した。
 夕方は、県立奈良医大放射線科U田教授のありがたい講演会があった。PHoTは、がっと刺して、ばっと入れて、だっとすればいいと教えていただいた。

3月6日(木)晴れのち曇り
 今日は<肝胆膵カンファレンス>(秘蔵写真集はここ)がメチャメチャ早く終わった。早く、家に帰った。焼き芋屋が家の前を通った。妻に買いに行かされた。何で僕が、と思いながら、自転車で追いかけた。

3月5日(水)晴れ
 梼原町を後にして、昼には高知市に帰ってきた。一日、仕事をしてないと何となく、体がなまっているようだ。忙しい方が精神衛生上よろしいようだ。

3月4日(火)晴れ
 今日は、仕事を昼までで止めて、昨年まで働いていた梼原町に出かけた。またまたまたまた引越しすることになったので下準備であった。出かける前に食堂で眼科のK先生と話をしていて大腸ファイバーの話になり、僕が大腸ファイバーをすることに驚かれた様子。「先生、そんなこともできるんですか?!」違うんです、K先生。血管造影ややPTCDもやる内科医なのです。日本医学放射線学会の会員ではないですが、日本消化器内視鏡学会の会員ではあるんです。
 夜は「雲の上ホテル」に宿泊した。

3月3日(月)雨のち晴れ
 M田S二郎先生は今月末の医師会カンファレンスに向けて朝からスライド作成をしていた。30枚ものスライドをマックでつくり、ファイル→閉じるを選択し、「名称未設定を保存しますか?」のメッセージに勢い余って「いいえ」を選択しまって、一瞬でメモリの藻屑と消えてしまいました。M田S二郎先生はあしたのジョーの様に燃え尽きてしまって灰になっていた。御愁傷様です。
 我々、放射線科の医師は集団で動くことが多い。食事はいつも一緒だし、夕方の病棟回診も一緒である。IVHも3人がかりで詰めていることがあり、何もそこまでしなくても、と当事者である私自身が思うのである。高知医大に帰ったH先生がいた頃はそうでもなかったのだが、代わりにN田医師が来てからは、N田医師→M田Y多佳医師→私と横に並ぶと身長の順番に綺麗に揃ってしまう。先日は病棟のN島看護婦、今日は小児科のK保西医長に指摘されてしまった。うう、いいんだ、背が低くても。明日から並ばすに離れて歩こう。

3月2日(日)晴れ
 今日は次女の初節句である。親戚を集めてお祝いをすることになっている。私も妻も3人兄妹だが、他の兄妹には子供が無い。そうすると、祖父母の興味は私の娘に集中することになり、雛祭りともなるとこうなる。引越が多いので段飾りはやめてくれ、と頼んでいるからまだこのくらいで済んでいるのだろう。

3月1日(土)曇りのち晴れ
 最近、消化器科T崎医師をはじめ、放射線技師を含め、我々の間でApeironというゲームが流行している。(ホームページはここ)消化器科T崎医師は150面までクリアするという大記録を樹立した。ゲームはMRI室、へき地医療センターにも遠隔転移し、とうとうゲームの鬼、内科N村医長も始めてしまった。


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