「みなさま今晩は。日本聖書福音クリスチャン総連盟がお送りするラジオインタビュー番組『この人に聞く』の時間がやってまいりました。この番組では、毎週キリスト教界から多彩なゲストをお迎えしてインタビューさせていただいていますが、今週は、みなさまがアッと驚かれるような超スペシャルゲストをお迎えしております。
私はこの方が来られるとプロデューサーから聞かされてから、もうこの時がくるのを待ちわびておりました。今その方が私の目の前に座っておられますが、この信じがたい出来事に、私ももうワクワクし通しです。
さあ、今週のゲストは・・・いえいえ、あっさりご紹介するのはあまりにももったいないので、少しその方についてのヒントをさしあげましょう。みなさんこの方がどなたか考えてみてください。
ではヒントその1・・・この方は背が低い。ヒントその2・・・この方は大金持ちでした。ヒントその3・・・この方はイスラエルのエリコに住んでいました。さあ、どうです? カンのいい方はもうすでに一人の名前が思い浮かんでおられるでしょう、と同時に、でもそんなことがあるのかと信じがたい思いをされているでしょう。
さあ、ヒントその4・・・この方は取税人のかしらでした。ヒントその5・・・この方はいちじく桑の木に登りました。もうみなさまおわかりでしょう。今週の超スペシャルゲストとは、なんと、あのザアカイさんその人なのです! そう、信じられないようなことですが、本物のザアカイさんなんです!ザアカイさん、ようこそいらっしゃいました、今晩は」

「今晩は」

「本日は当番組にわざわざおこし下さいましてありがとうございます。まず、ラジオをお聞きのみなさまに、今回どのような経緯でここにいらっしゃったのか、ご自身の口で説明していただけないでしょうか。聴取者のみなさんはとても不思議がっておられると思うんです」

「わかりました。みなさんは本物のザアカイがどうして20世紀のラジオに出演できるかと疑っておられると思いますが、これは神さまの特別のお計らいによるもので、私自身とても驚いております。まあ、経緯とおっしゃいましたが、話は簡単です。
あるとき、天国での私の住まいにイエスさまが訪ねてこられて、こうおっしゃるのです。20世紀末の日本にこれこれこういうラジオ番組があるので、ザアカイに出演してもらうことになっています、とこうです。
イエスさまが決めておられるのなら、私は喜んでそれに従うだけです。ただ、それからは大変でした。20世紀の日本のことを勉強し始めたんです。特にキリスト教界を中心にさまざまなことを。ついにはこの番組の司会者であるあなたのことや、あなたの牧会しておられる教会のことに至るまでです」

「え、私のことまで?」

「はい。でも一番大変だったのは、この20世紀末の日本語をマスターすることでした」

「そうですか。お話ししていて何の違和感もありません。日本人とお話ししているように思えますよ」

「ありがとうございます。イエスさまにOKをいただいたときは本当にうれしかったです」

「そうでしょうねえ。ところで、そのように大変な努力をなさったわけですが、いったいどのような目的でここにいらしたんですか?」

「さあ、それなんですが、イエスさまはそのことについては何もおっしゃらなかったんです。ただ行ってきなさいと言われただけなので・・・」

「すると何のために行くのかは知らないままで、そんな大変な勉強をなさったわけですか」

「そうです。みなさんには少し不合理で不思議に思われるかもしれませんが、天国というところは神さまの思いが満ちあふれているところなので、神さまのおっしゃることに特に不合理や矛盾を感じないのです。私もただ自分にできる努力をしたにすぎません」

「なるほど、すばらしいことですね。もうすこし天国のことについてお話していただけませんか。どうのような住まいで、どのような生活があり・・・」

「すいません。申し訳ないのですが、天国のくわしい様子については話さないようにと申しつけられていますので、お話しするわけにはいかないのです」

「おや、そうですか。そうですね、そうかもしれません。では、ザアカイさんご自身のことをお尋ねしてもよろしいですか? 私たちはあなたについては、聖書のほんの10節分しか知りませんし、あとはエリコの教会の牧師をしておられたとかいう伝説しかきいていないのです。そして特に、イエスさまと出会われたときのことをくわしくお聞かせ願いたいと存じます」

「はい。それは問題ないと思います」

「では初めに、子どもの頃のお話を聞かせてくださいますか。お宅はお金持ちであったときいていますが」

「そうです。私が生まれたときから、すでにエリコの中では裕福な家でした。両親は私を愛してくれて、私は何の不自由もなく育ちました。自分でいうのも何ですが、頭もけっこういいほうでしたので、同年代の者たちにも、その点一目置かれていたと思いますよ。友だちも多い方だったと思います」

「え、そうなんですか? こう申し上げては失礼かと思いますが、私はあなたが友だちの少ない方だったのではないかと想像していたんです」

「背が低いから、皆にバカにされていた、ですか?」

「え?」

「そのくやしさから、大金持ちになって皆をみかえしてやろうと努力した、でしたよね」

「え? あの、それは・・・」

「突然失礼しました。実を言いますと、私は天国での勉強中に、あなたの礼拝説教もいくつか聞いているのです。特に私に関することは非常に気になりまして、じっくり聞かせていただきました」

「そうですか、これはまいりました」

「その説教の中で、私ザアカイは生まれつき背が低く、そのため小さいころから皆の者に『チビ、短足』とかバカにされて、そのくやしさからなにくそとがんばって、働いて働いて取税人のかしらになり大金持ちになって、バカにした連中を見かえすことに成功したが、心開ける友だちもなく、お金だけが頼りという人になり、物質的には裕福でも心の中は孤独で淋しかった、ということになっていました」

「いや、これは、ご本人からそうおっしゃられると私は何と申してよいか・・・ でも、背が低いことにコンプレックスはもたれなかったのですか?」

「そう、気にならなかったと言えばウソになりますが、幸い私は性格が明るい方でしたし、まわりの者も・・・まあ一部に例外はいましたが・・・概して人の心がわかるやさしい者たちばかりでしたので、あなたが想像されたようなことはなかったですね」

「そうでしたか。これは本当に失礼いたしました。私も少し想像をたくましくしすぎたようです。どうかおゆるし下さい。ところでお聞きしたいのですが、それではなぜ、わざわざ取税人のかしらになられたのですか?」

「『わざわざ』とおっしゃいましたね。あなたには、取税人イコール血も涙もない守銭奴大悪人、というイメージが強すぎると思います。あなたの牧会しておられる教会で催された『悔い改めたザアカイ』という劇を見せていただきましたが、ザアカイ役の人は税金を払えない家に次々とふみこんで病人のふとんをむしり取っていったり、夜な夜な鹿のなめし革でだましとった金貨をみがいてはほくそえんでいたりしましたが、あの劇の脚本はあなたがお書きになったんでしたよね?」

「いや、これは、なんと申し上げてよいやら・・・ そういうことはなかったわけですね」

「はい。私が取税人のかしらになろうとしたのは、それが当時の私にとって最も適した仕事だと考えたからです。というのは、私はご存知のように身体的な理由で肉体労働には向いていません。それで何かデスクワークをと考えたのですが、当時最も安定して将来性があるのは、ローマ帝国に雇われることで、幸いわが家にはけっこう財産がありましたから、それを利用して、なおかつそれをふやして家族を養おうと考えたわけです。
当時取税人のかしらの地位は入札形式で、つまりお金で買うものだったんです。高いお金を払ったわけですから、それ相応にもうけさせてもらうのは当然だと考えていましたし、実際そうしましたから財産はふえました」

「なるほど。取税人のかしらになったのは、当時のあなたとしては正当なしかも安定した仕事を選んだ結果なのだということですね。ではお聞きしたいのですが、宗教的・民族的にはどうだったのでしょうか。ユダヤ教やユダヤ民族を裏切って、ローマの手先になったというお気持ちはなかったのですか?」

「また失礼なことを申し上げるようですが、あなたにはユダヤ民族は皆ひとりのこらずユダヤ教に熱心でローマを敵視していたという思いこみがあるように思えます」

「ということは、あなたはそうではなかったということですか?」

「そうです。さきほど背が低いことへのコンプレックスのお話をしたとき、皆概してやさしかったのに、一部例外の者がいたことにふれましたが、その例外の者たちこそ、ユダヤ教に熱心な人たちのことです。私の背が低いのは何か罪を犯したからだと悔い改めを強要したり、逆に必要以上にあわれんでなぐさめてくれたりしてくれて、私には迷惑以外のなにものでもなかったのです」

「なるほど。それで、宗教やその宗教に基づく民族主義的なものには嫌気がさしていたということでしょうか」

「まあそうです。宗教に熱心な人というのは、いつの時代でもそのようなものでしょう。失礼だがあなたも、私が背が低い取税人というだけで、私を人でなしの極悪人と想像されたわけですから」

「いや、これは、そうまでおっしゃいますか。それでは少し私に反論させていただいてよろしいでしょうか。私だってただ背が低く、取税人のかしらであったというだけで勝手に想像をふくらませたというわけではありませんからね。聖書の記述の中には、あなたが罪人であったという証拠がふたつほどあると思われるのですが」

「どうぞ、おっしゃってください」

「ではまずひとつめです。ルカの福音書19章7節を見ると、あなたが町の人たちから”罪人”と呼ばれていたことがわかります。これはいかがですか?」

「そのことは二つの側面からお話しましょう。一つは政治的な側面です。というのは、当時取税人はユダヤの公共事業や宗教職に従事することができませんでした。法廷での証言さえできなかったのですから、つまり社会的にも宗教的にもまともな一人前とは認められなかったのです。
もう一つの側面は”住民感情”というもので、平たく言えば”貧乏人のやっかみ”です。国粋主義者たちにとっては私はローマの手先になって同胞からまきあげた金でのうのうと暮らす裏切り者であったわけで、おまけに金持ちで有名人となれば非難の矢面に立たされるのは当然といえるでしょう。そうすることで、人は自分の精神のバランスを保とうとします。
つまりこれは、単に政治的・感情的なものであって、私が罪人と呼ばれていたからといって、すなわち、人でなしの極悪人で冷血漢であったということにはなりません。実際、私を罪人よばわりしていたのは当時の国粋主義者やユダヤ教指導者層たち、また彼らに扇動された者たちで、私の友人たちは私のことをわかってくれていましたから、子どものころからの変わらぬつきあいをしてくれていました」

「たしかにそうかもしれません。では、もうひとつの強力な証拠を挙げましょう。あなたは19章8節で”だまし取った物を四倍にして返す”と言っています。つまりあなたは、人からだまし取っていたことをご自分で証言しています。これについてはどうですか?」

「たしかに私は、当時税金をだまし取っていました」

「そうですか! やはりあなたは極悪人・・・」

「ちょっとお待ち下さい。あなたは私をどうしても極悪人にしておきたいからそう思うのです。今の時代にも極悪人はいて、何億円も何十億円もだまし取る者たちがいるでしょう? あなたは私がいったいどれほどのお金をだまし取ったと考えておられるのですか?」

「そんなことが私にわかるのですか?」

「聖書をきちんと読めばわかります。8節で私は財産の半分を貧しい人たちに施し、だまし取った物は四倍にして返すとイエスさまに約束しました」

「それは知っています」

「では計算してみてください。その約束を実行して全財産の半分を施せば、残りも全財産の半分です。その分を四倍の返金にあてるわけですから、仮に私が無一物になるにしても、だまし取った物はその四分の一、つまり全財産の八分の一です。どうですか?」

「たしかにそうですね」

「実際は、家族を養い、仕事をきりもりするお金も十分残していましたから、八分の一よりもっと少なかったのです」

「う〜む」

「当時の取税人の中には、それこそ極悪人と呼べるような者も少なくありませんでした。私だってその気になって地位と富と頭脳を悪用すれば、それこそいくらだって稼げるチャンスはありましたが、そうしなかったのです」

「それはなぜですか? ユダヤ教に熱心でもなく、取税人のかしらであることに後ろめたさがなかったのなら、良心の呵責もなくいくら稼いだっていいと思うのではありませんか?」

「それは私が常識的な人間だったからです。失礼だがあなたは、人間というものは宗教や神によってコントロールされないと際限なく悪に悪を重ねるものと考えておられるようですが、そういう者ばかりではありません。自分の頭で考え、自分を律し、自分で責任をとることのできる、そういう常識的な人間もいるのです。私の両親がそうでしたし、私もそのように育てられました。といっても、私はいくらか誘惑に負けて税金をだまし取っていましたが・・・」

「ちょっとお待ち下さい、ザアカイさん。私は多少混乱してきました。今までのあなたに対するイメージは一体どうなるのでしょうか? コンプレックスもなく極悪人でもなく、孤独で淋しい人でもなく、宗教や神を特に必要とするような人でもなかったとしたら、いや、むしろ取税人としては善人の部類だったかもしれないとしたら、一体私のメッセージはなんだったのでしょうか?」

「それは、私が極悪人である方が、人間的な意味でわかりやすいからです」

「どういうことでしょう?」

「普通の一般的な人が回心するよりも、極悪な人でなしの守銭奴がキリストに出会って回心し善人になった、キリストはすばらしい、この方がわかりやすいし、もっと不謹慎な言い方をすれば、その方がドラマチックでおもしろいからです。ですからあなたは、想像力を働かせてザアカイの回心に至るストーリーをドラマチックに作っていくのです。
たとえば『ザアカイという名前は、きよく正しい、という意味で、彼の両親はわが子がそういう人になるようにと願って名付けただろうに、ザアカイはお金がすべてだ、という人になってしまって両親を悲しませただろう』とか『見も知らぬはずのイエスからいきなり、「ザアカイ」と、その悪と孤独にすさんだ心に染み渡るやさしい声で呼ばれて、驚きとともに、全てを知りたもう神の存在とその愛にふれ、まさにそのザアカイの名の通り、きよく正しい生涯へと変えられた』とか。
まあ、あなたほど感動的に語ることはできないのですが、私もこれをあなたの口から聞いたときは、自分のことであるのを忘れて思わず涙ぐんでしまいました」

「つまりそういうことは、ドラマチックに仕立てあげようとする私の想像の産物であり、私のメッセージの聞かせどころ・泣かせどころにすぎないとおっしゃりたいわけですね。それはそうかもしれません。でも、わかりやすくすること、ドラマチックにすることがそんなにいけないことなのですか?」

「それは、そうすることでザアカイはコンプレックスをもち、悲しく孤独で悩みも深かったから救われたのだ、という印象を与える危険が大きいからです。あなたの教会の中学生や高校生たちがよく『救いの確信がない』と教師たちに言ってますが、ご存知ですか?」

「え? それとこれが関係あるのですか? もちろん知っています。とくに幼いころから教会学校に通ったりしてキリスト教にふれてきたクリスチャンの生徒たちに多いようです。たとえば彼らがある教師にこう言ったそうです。
『先生は高校の頃にいろいろ悩んで、そして何年何月何日に救われたと
言えるわけで、それまではキリスト教に全く関係もない生活だったのに、それからはキリスト教一辺倒の生活になったことで、クリスチャンになったことがはっきりししている。
でも自分たちは、別に大きな悩みとか、人生の壁とかにぶつかって、そこから救われた、みたいなこともないし、いつ決心したのかもはっきりしないし、決心はしたけれど生活の変化がない、あいかわらず以前のままだし、教会も聖書も祈りも習慣になってるから、”本当にクリスチャンか”と問いつめられたら、何かあいまいな気持ちになってしまう』と」

「そうでしょう。なぜ彼らが『救いの確信』についてこのように感じるのでしょうか。それは、あなたの教会ではすばらしいドラマチックな救いのあかしが喜ばれていて、そういう回心の体験者こそが本当のクリスチャンであるかのような印象でとらえられているからです」

「え? そうでしょうか?」

「例えばこうです。『万引きしたことから、優等生と信じていた自分が罪人であることを知り、悩み抜いて自殺までしようと思ったが、ふとしたきっかけで行った教会で、そのようなどうしようもない自分をそのまま愛し赦して下さるキリストに出会い、涙ながらに信じ、喜びと平安に満たされた。伝道者になろうとして両親に勘当され、無一文で神さまにのみ頼る生活の中、神に養われそのあわれみのうちを歩んできた・・・』」

「それは、私のことですね」

「そうです。そして、この類の劇的でわかりやすい確信に満ちたあかしを聞くたびに、生徒たちは不安に陥っていたのです」

「う〜む」

「そして、クリスチャンでない人たちにも悪影響が及んでいます」

「え、どういうことでしょう?」

「クリスチャンでない人たちはこう思うのです。『やっぱり人生について真面目に悩んで自分をつきつめて考えて人生の壁にぶち当たったような人がクリスチャンになるんですね。私は今までそんなふうにマジメに悩んだことはないし、今の人生に適当に満足しているから、クリスチャンにはなれそうもないですし、わざわざそんなことをしてクリスチャンになりたくもないです』と」

「そうですね。そうかもしれません」

「教会でよく言われることですが、人間は何か善行や難行苦行や律法的行為をしたから救われるのではありません。しかし同時に、人間は何か悪行をし、悩みに陥り、挫折し、自殺しかけたから、また、孤独で淋しかったから救われるのでもありません」

「あなたのおっしゃることは一理あると思います。しかし言わせてもらえば、『救いの確信』は、神のみことばに対する信仰からくるのであって、ドラマチックな体験のあるなしは関係ないと思いますが、いかがですか?」

「確かにあなたはそのようにアドバイスしていましたね」

「え?」

「中学生高校生のクラスの教師にです。『生徒たちといっしょに聖書をよく読むように。そして、信じる者は神の救いの内にあり、神の子どもであること、天国が約束されていることを聖書からはっきり告げなさい。そして、このことについてよく祈って、確信が与えられるよう求めるように生徒たちにすすめなさい』と」

「そう、そのとおりです。何かおかしいですか?」

「これでは片手落ちです」

「片手落ち? はっきりおっしゃいますね。いったいどこが片手落ちなのかおっしゃってください」

「いいですか、あなたの言う『救いの確信』は、分析すると二つの確信から構成されているのです。ひとつはあなたの言う『信じる者は救われるという確信』、もうひとつは『自分は信じているという確信』です」

「それはどういうことでしょうか?」

「たとえば、ある人が神さまの救いを信じたとします。でも、神さまが目の前に現れて「あなたは救われた」と宣言してくれるわけではないし、また、次の朝聖書を開くとその人の名前が記されていて「この人は救われた」と書かれているわけでもありません」

「それはそうです。それで?」

「ですから、その人は聖書に書かれている『信じる者は救われる。神の子である』ということばを自分自身にあてはめて、自分が救われていると知るわけです。つまり、『私は信じている』→『信じる者は救われる』→『すなわち、私は救われている。神の子だ』という論理の展開によって救いを確信する、というわけで、これを私は『救いの確信の三段論法』と名付けました。
あなたは、聖書を読んだり祈ったりして『信じる者は救われるという確信』を強化するようにとアドバイスしているだけで、『自分は信じているという確信』については一向にふれていません。実は生徒たちの問題はこちらのほうで、『信じる者は救われる』ということについては、彼らは幼いころから何度も聞かされて耳にたこができているのです。
ですから私はあなたのアドバイスは片手落ちだと言ったのです。いえ、的はずれといった方がいい」

「的はずれですか、これは手厳しいですが、どうも真実のようです。たしかに『自分は信じている』ということには自分の認識次第という性質が強くて、どうしてもわかりやすさや見た目の変化を保証として求めてしまうのかもしれません。
そういえば、その点ザアカイさんは、イエスさまご自身の保証があったわけですから、これはすばらしいことですね。イエスさまが目の前で、この家に救いがきたと宣言されたわけですから」

「たしかにその時はそうです。ただし、救いはその時限りのものではありませんからね。時がたてば信仰をなくすことだってありますし、イエスさまもいつも目の前にいて下さるわけではないので、今の皆さんと条件は同じです」

「なるほど、そうですね。では、少しアドバイスをいただけないでしょうか。生徒たちに今さら劇的な回心を体験などさせられないし、これから信仰をもつ人にしても、そんな体験はしようと思ってできるものではありません。あなたが極悪人でも孤独な淋しい人でもなく、またあなたの救いの体験が、私の想像したようなドラマチックなものでもなかったのなら、あなたはいったいどうのように救われ、どのように救いの確信をもったのか、お聞かせ願いたいのです」

「いいでしょう。ではまず私の救いの体験を、そして次に救いの確信についてお話ししましょう。
では私の救いの体験についてですが、あなたは私がなぜ救われたとお考えですか?」

「私はあなたが、物質的には恵まれていても心の中にはぽっかりと穴があいていて、すべてがむなしく、魂の奥底では神を求めていて、イエスさまを受け入れることで充実したすばらしい人生に変えられたのだと思っていました。でも、それは外れているんでしょう?」

「いいえ、だいたい半分は当たっています」

「えっ? そうなんですか? どういうことか説明してください」

「では、救いというものを二つの側面からお話してみましょう。ひとつは神さまの側から、もうひとつは人間の側からです。
まず、ルカ19章9,10節のイエスさまのことばに注意して下さい。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』つまり、私ザアカイは『アブラハムの子』、言い換えれば、神さまが救おうと選び定めた、選びの民のひとりだったというわけです。ところが私は『失われた人』つまり迷い出た羊になっていたのです。
そこでイエスさまは、九十九匹の羊を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く羊飼いのように私を捜して救うために、わざわざエリコの私のところまでやって来たというわけです」

「なるほど。それでイエスさまは、『あなたの家に泊まることにしてある』とおっしゃったわけですね。イエスさまにとっては、あなたに会うのは予定の行動だったわけですから」

「そうです。ですから、イエスさまが木の上の見知らぬはずの男に『ザアカイ』と呼びかけたのは、イエスさまが全知全能の神さまだったからと言うよりはむしろ、自分の羊をその名で呼んで連れ出す良い羊飼いであるからなのです」

「ヨハネの福音書十章三節ですね。なるほど、たしかに」

「イエスさまは、私のことをあらかじめ知っておられ、あらかじめ救いに定めておられて、そして私を招くために私のところまでやって来てくださいました。これが、神の側からのお話です」

「では、人間の側のお話とは?」

「簡単なことです。それは、私がこの招きに応えてイエスさまを受け入れ、この救いを受け入れたということです」

「それだけですか?」

「あなたには少し物足りないのでしょう。たしかに私にはあなたがおっしゃるような心の空洞やむなしさ、神を求める思いはありました。それは、イエスさまを見るためにわざわざいちじく桑の木に登ったことでもわかると思います。しかし、たとえばあの時、私がイエスさまを見ようと思わずに、木にも登らず、家に閉じこもっていたとしても、イエスさまはきっと、私の家の門口まで来て私を訪ね、『きょうは、あなたの家に泊まることにしてある』とおっしゃったでしょう。
あなたは、救いというものは、人間が神を捜し求めて獲得するものだというイメージが強すぎます。本来救いは、神が人間を捜し求めて見出すものなのです。ですから、ルカ19章1〜10節の主役は、私ザアカイではなく主イエスさまなのです」

「う〜ん、それはそうかもしれませんが、では『救いの確信』はどうなるのですか? 自分がクリスチャンであることをどのように確信するのですか?」

「そう、では次にそのことをお話しましょう。ただその前に、『救いの確信』というものがどういうものであるか、別のことばで説明していただけませんか」

「お安いご用です。それは自分が神に属するものになっているということで、たとえば今突然死んだとしても必ず天国に行けるという確信です」

「なるほど。それなら私は、そのような『救いの確信』は持っていませんでした」

「えっ、それは本当ですか?」

「はい、本当です。むしろそういう確信は、持つ必要もないと思います」

「これは驚きました。でもそれでは、どのようにしてクリスチャンとしての生活が続けられるのですか? いつまでも迷いを持ち、不安定で、しっかりとした歩みができないのではないですか?」

「あなたの教会の生徒たちのようにですか?」

「え? ええ、まあそうです」

「そう、あなたは、彼らよりも自分の方がしっかりしたクリスチャンである、自分の方がクリスチャンとしてのあるべき姿なのである、と思っています」

「え?」

「そして、クリスチャンでない人たちは、まだ救いも真理も知らないでこの世の力に翻弄され、さまよい、ついには地獄に行くあわれな人たちで、自分は造り主を知り、真理のことばである聖書を持ち、救われているから、この人たちを救いに導かなければならない、と思っています。
このようにあなたは、”信仰”によって人間を区別したりランク分けしたりしています。今あなたの教会でよく使われる言葉の中で私の最も嫌いなものは”未信者”という言葉です。私の日本語の知識は完全ではないですが、この言葉は”未だ信じざる者”という意味でしょう? 言い換えれば、信じる者こそが正しくまともで、”未信者”はその域に達していない、ランク下の存在としてとらえている言葉です。”クリスチャンにあらずんば人にあらず”といったところですね」

「『ランク下』という言い方は気に入りませんが、でも実際そうではないですか? では何のための伝道なんですか? 伝道しなければ未信者は救われないではないですか」

「そう、あなたは、自分が伝道しなければ人は救われないと思い込んでいます」

「え? それも違うというのですか?」

「はい、違います。あなたが伝道しなければ救われなかったとしたら、その人が救われたのはあなたの伝道のおかげ、ということになります。これは『私がこの人を救った』という考えと、さほど遠くありません。実際、『私がこの人たちを救い、私がこの教会をたてあげた』と思っている伝道者もいますからね」

「私はそれほど高ぶってはいません」

「そう願いたいものです。だから、人が救われるのはただ、神のみわざなのです。あなたがどんなに頑張っても救いに導けない人がいることからも、それはわかるでしょう。極端な話をすれば、たとえあなたが少しも伝道しなかったとしても、救いに定められている人たちのためには、神さまは別の方法を用意なさいます」

「なんですって! あなたは私のことをお調べになったようですから、わたしがひとりでも多くの人を救いに導こうと、どんなに一生懸命伝道しているかをご存知でしょう? それなのにそんな言い方をなさいますか。それでは、どうして私は苦労して伝道しなければならないのですか?」

「それがあなたの使命だからです。あなたは伝道者として召されたのでしょう? ということは、伝道することはあなたの好き嫌いやあなたの都合に関係なく『どうしてもしなければならないこと』なのです。伝道した相手が救われようが救われまいが、直接あなたには関係ありません。
ですから、あなたの伝道の動機は『人が救われるため』ではなく、『神さまから与えられた自分の仕事だから』であるはずなのです。ですからあなたは、この使命を全うするために全力を尽くすべきなのです」

「う〜ん、なるほど。そう言われてみると私はいつのまにか勘違いをしていたようです。人を救うのは神さまなのですから」

「そうです。人は他人はおろか、自分自身さえ救うことができないということを、はっきり知っておかなければなりません。天国に入れるかどうかは神さまがお決めになることなのですから。
死んでみると、あなたは地獄にいて苦しみもだえ、ふと目をあげると、あなたが”未信者”と呼んで見下していた人や、救いの確信がないと悩んでいた生徒たちが天国でイエスさまといっしょにいる、ということになるかもしれないのです」

「え? あの金持ちとラザロの譬えのようにですか。なるほど。それで救いの確信はむしろ持つ必要がないとおっしゃったのですね。人をランク分けするようなものですから」

「そうです。先のものがあとになり、あとのものが先になるというのが神さまのやりかたです」

「そうでしたね。では、ひとつお聞かせ下さい。それでは私は、救いについて聞く人にどのように説明したらいいのでしょうか? クリスチャンであるということはどういうことなのでしょうか?」

「そうですね。私が2000年前エリコにいたときに、もしだれかが『あなたは天国にいけますか?』と尋ねたら、私はたぶんこう答えたでしょう。『私には、わかりません。でも、私の信じ慕っている神さまは、とてつもなくあわれみ深いお方なので、よもや私のことをお忘れになるとは思いません。でも万一、天国に入れなかったとしても、私はもともと天国にふさわしい者ではないのですから、とてもつらいことですが、致し方ないことと思います。ですから私は、天国に行けるかもしれないというその希望を、ただ神さまの一方的なあわれみに頼っている者です。このお方が、いわば、私の唯一の希望の星なのです。』と」

「う〜ん、そうかもしれませんが、それでは信者と未信者・・・ではなく信者でない人、とくに求道者とのちがいは一体どこにあるのですか? あいまいではないですか?」

「あなたが『信者』というものをはっきり型にはめようとするのは、たぶん教会形成や組織運営のことを考えてのことだと思います。信者は献金や奉仕の責任があり、また教会総会では一票の権利を持っているわけですから。
でも、私のころにはそのような教会はありませんでした。人々は信じる者たちの集まりに入りたいと思えばいつでも入れたし、やめようと思えばいつでもすぐ出ていけました。生活を共にし、互いに支え合っていましたから”月定献金”という約束事もありませんし、自然に奉仕しあっていました。その点、集会のリーダー格でも、昨日今日入った人でも差はありませんでした」

「う〜ん、そうかもしれませんが、それでは十字架はどうなるのですか?イエスさまの成し遂げられた贖いのみわざを信じる者が救われるのではないのですか?」

「それはそうですが、あなたはそういう思い込みが強すぎるようです。それでは尋ねますが、さきほどのお話に出てきた金持ちとラザロの譬えで、なぜラザロはアブラハムのふところに行ったと思いますか?」

「そうですね、ラザロはおそらく、イエスさまとそのみわざについて聞いていて、イエスさまを信じていたのでしょう。ちがいますか?」

「あなたがよく使う言葉を私も使いたくなります、『聖書のどこにそんなことが書いてありますか?』」

「ちがうとおっしゃるんですか? たしかに何も書いてませんが、ラザロは天国に行ったんですからクリスチャンだったんでしょう」

「あなたは、天国の門の扉を開く鍵は十字架しかないという考えに凝り固まっているから、ラザロを無理矢理にでもクリスチャンにしてしまうのです。ルカの16章19〜31節をよく見て下さい。他にヒントはないですか?」

「う〜ん、あ、ここですか? 25節の、金持ちに対するアブラハムの言葉です。『おまえは生きている間良い物を受け、ラザロは生きている間悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。』」

「いいところに気が付きました。それをどう考えますか?」

「そうですねえ、ここだけ読むと、金持ちは生前良い思いをしたのでハデスに行き、ラザロは苦しみばかりだったのでパラダイスに行った、ということでしょうか? でも、ハデスかパラダイスかの分かれ目はそんなことだけではないでしょう・・・」

「わかりませんか。では、こう考えてみてください。この際、聖書やキリスト教や十字架の教理などは脇において、一般的な普通の話として考えてみましょう。
ある金持ちがいます。ありあまる財産をただ自分の快楽のためだけに湯水のように使っています。彼のすぐ近くには助けを必要としている者がいますが、彼は一切知らん顔で、毎日毎日遊び呆けています。こういう人をどう思いますか?」

「とんでもないやつです。たしかに自分の財産をどう使おうと勝手だといえばそうですが、その人は多少財産を分けてあげても自分はちっとも痛くもかゆくもないというのに、ほんの少しの憐れみの心さえ起こさず、小指一本動かそうとしないのですから、全くひどいやつだと言わざるを得ません」

「では、もしもあなたが、この人を裁く立場にいたら、この人をどのように裁きますか?」

「この人は憐れみの心を起こさなかったので、私も憐れみのないさばきをします。おそらく厳罰に処すでしょう」

「神さまもあなたと同じことをなさったのですよ」

「あっ、そうか・・・」

「では次にラザロの場合を考えてみま・・・」

「いや、もう皆までおっしゃいますな。わかりました。私だって助けられるものならラザロのような人を助けてあげたいと思います。それと同じように、神さまはラザロのあわれな様子に憐れみの心を動かされ、彼を慰め助けようとパラダイスに入れられ、金持ちは厳罰に処してハデスに落とされた、ということをおっしゃりたいわけですね」

「そうです。あなたは聖書を読むとき、神さまのお心というものを忘れているので、ますます聖書がわからなくなるのです。十字架の教理とその信仰はもちろん欠くことのできないものです。しかし、天国に入る者の決定的な要素は、十字架信仰のあるなしではなく、神さまのあわれみを受けているかどうかということなのです」

「それは少し大胆な発言ではないですか?」

「そんなことはありません。ではあなたは十二弟子が、『天国では、だれが一番偉いんですか?』と尋ねた時、イエスさまがなんと答えたか覚えていますか?」

「はい。マタイの福音書十八章一節ですね。イエスさまは小さい子どもを呼び寄せて、彼らの真中に立たせて、こう言われました。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』と・・・あ、そうか」

「なにか気が付きましたか?」

「はい。そうか、『決して天の御国には、はいれません』と書いてありますね、『決して』と。『悔い改めて、身を低くしない限り』つまり、悔い改めて子どものように身を低くしない限り、ということですね」

「そうですね」

「私はこれまで、人はイエスさまを信じてクリスチャンになれば神の子どもで天国に入れると聞いてきたし、そう思ってきました。しかし、どうもそればかりではないようですね」

「たしかに、主を信じ、主の名を呼び、他人に伝道し、主の名で奇蹟まで行なったような人たちでも、天国に入れないということが少なからずあります」

「そうです。聖書にもそう書いてありますね。どうしてそういうことになるのでしょう?」

「あなたには、もうわかってきているはずです。神さまは高ぶった者を退け、高慢な者に敵対なさいます。人の間であがめられる者は神さまに嫌われます。人につまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだ方がましだとまで言われているのです。ですからよくよく注意しなければなりません」

「そうでした! 私は今まで聖書の何を教えてきたのでしょう! 私は自分こそ天国に行く者だと思って、人をランク分けし、信者でない人を見下し、高慢になって人につまずきを与え続けてきたのだと今やっとわかりました! 私こそ、湖の深みでおぼれ死んだ方がましな人間です! ああ、いったい私はどうしたらいいのでしょうか!」

「救いの確信がなくなってきましたか?」

「はい。今私はとてもみじめで情けない気持ちです」

「いい傾向です」

「いい傾向って・・・けっこう意地悪ですね。私はとても落ち込んでいるのです」

「意地悪で言っているのではありません。あなたは今、自分の信仰に自信が持てなくなって天国が遠くなったと感じているのでしょう?」

「そうです。そうではないのですか?」

「むしろ、その逆です。あなたはパリサイ人と取税人の祈りのたとえ話を知っていますか?」

「知っています。ルカの福音書の十八章九節から十四節ですね」

「では、”救いの確信”のあったときのあなたと、おちこんでいる今のあなたとを、このふたりにあてはめてみて下さい。どうですか?」

「おっしゃりたいことがわかりました。自分がクリスチャンであることに自信を持ち、他の人を見下していた私は、まさにこのパリサイ人のようです。あなたは、この取税人のように落ち込んでいる今の私の方が、パリサイ人のようだった私よりも神さまの前に義と認められている、つまり天国に近くなったとおっしゃりたいのですね」

「そうです。もしそうでなかったら、イエスさまは、貧しい人や悲しむ人、飢えた人や泣いている人、迫害されたり憎まれたりしてる人を、『幸いだ!』などと決して言わなかったでしょう」

「パウロ先生が、弱い時こそ神の力が現われるとか、私の弱さを誇ろうとかおっしゃってるのも、そのことなのですね」

「そうですね。神さまは身を低くしている者の味方なのです。これはとても心強いお味方ですよ!」

「ああ、私もこの取税人のように神に祈りたいのです。どうかいっしょに祈っていただけませんか」

「もちろん喜んで! さあ、ラジオをお聞きの皆さんもごいっしょに!」

  (おわり)