とてもマジメなキリスト教の話

当時のあかぎまんの基本姿勢を表しています。4号にわたって書かれました。

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新しい年をむかえて、ぼくはここに、とてもマジメなことを書こうと考えました。それは、何をかくそうキリスト教のことなのです。

中高生のみんながどうしてキリスト教に関わりをもったのか、それは人それぞれ違っています。ある人は家族が教会に行っていて、いっしょに連れて来られたとか、ある人はたまたま入学した学校が、キリスト教系の学校であった、とかです。

そして、キリスト教についてどう思っているのかということも、人それぞれに違っているでしょう。ある人は好感を持っていて少しは興味があるとか、ある人は礼拝出席も苦痛であるとか、です。そういうみんなに、ぼくはとてもマジメなキリスト教の話をしたいと思っています。

それはみんなに “隠された宝物” を見つけてほしいからです。ぼくは初代「きまぐれつうしん」と同じことを書きますが、キリスト教は “隠された宝物” なのです。新約聖書のマタイによる福音書 13章44節に

天国は畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると、隠しておき、

喜びのあまり行って持ち物をみな売りはらい、その畑を買うのである。

ということばがあります。昔は自分の財産を、人目につかないように自分の畑の土の中に隠しておくことがあったので、その本人が死んでしまったりして、土の中の財産がそのままになって、知らずに土地が他人の手に渡ってしまうようなことがあったようです。

それである日、たまたま畑を掘っていると、ここ掘れワンワンじゃないけれど大判小判がザックザクってなことになるわけです。一見なにもない、つまんないただの畑。でもそこには、すばらしい宝が隠されていた・・・ 天国はこういうものだ、というのです。

ちょっと考えてみてください。例えばもし、オリンピックで金メダルを取る人がみんなクリスチャンだったり、ノーベル賞やアカデミー賞やミス・ユニバース・コンテストの入賞者が、みんなクリスチャンだったりしたらどうでしょう。

世界中の人たちが、いったいどんな秘密があるのかと、キリスト教に注目しないでしょうか。また例えば、この教会がヨーロッパのでっかいカトリック教会のような建物だったり、または超現代的で話題になるような建物だったりしたら、教会にもっと人が集まるかもしれません。

でも実際の教会は、ちっとも目立った建物でもないし、教会の人たちも別に普通のおっちゃんおばちゃんにいちゃんねえちゃんにすぎません。また、キリスト教を信じると、すごい金持ちになるとかいうわけでもありません。

一見平凡で、なにもなさそうなキリスト教の世界、ところがそこに、全財産とひきかえにしても手に入れたくなるような、とんでもない宝物が隠されている・・・ なんて、信じられるでしょうか。

と言いながら、実をいうと、こんなことを書いているぼく自身が、はっきり宝物を見つけ出しているというわけではないし、よくわからないでいるのです。でもいったいどんな宝物があるのか、ぼくは少しずつでいいから、この隠された宝物を見つけだしてみたいと思うのです。

なぜなら、そうやって自分自身で見つけ出した宝物は、他のだれのものでもない、ぼくだけの宝物になるのだし、また、わけのわからないまま強制的にだれかから与えられたものでもない、自分自身の宝物になると思うからです。

そしてそういう自分の宝物を、中高生のみんなにも見つけ出してほしいと思っています。そこでぼくは、とてもマジメなキリスト教の話をしようと思うのです。

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さて、キリスト教のマジメな話をしようとしているわけですが、ぼくはまずキリスト教の基礎的なことを最初に話そうと思いたちました。というのは、みんながキリスト教のことをどのくらい知っているかわからないからです。

そして、神さまやイエスさまや聖書や教会について、また救いや愛や祈りについて、どう思っているのかわからないからです。そしてまた、このことは前回に書いた隠された宝物を見つけ出すための基礎ともなるものだからです。

なるべくまとまった形でわかりやすく話すつもりですが、ぼくだってキリスト教のことを全部わかっているわけではもちろんないし、もしかしたら、ぼくだけにわかる突拍子もない考え方もはいっているかもしれません。

だから読んでみて、もし変なところや抜けているところ、わからないところがあったら、すかさずチェックを入れてください。そうしてくれれば、ぼく自身も自分のキリスト教を再認識できるし、もっと幅広いものになっていくことができて、一石二鳥というわけなのです。

神さまは人間に、とても関心がある

人間は、大宇宙や大自然、また人間の生死や運命を見るにつけて、やっぱり人間を越えた大きなもの、得体の知れない何かがあるんじゃないかと感じつづけてきました。

そして、それがいったい何なのか、そしてどこにあるのか、また自分たちにとってどのように関わってくるのかを知りたいと思って探しつづけてきました。それで、世の中には古今東西いろんな宗教があって、これまたいろんな神さまがいます。

それは、いろいろな人がいろいろなイメージで、そのような “人間を越えた何か” を求めつづけてきた証拠です。でも、人間にはどうしても限界があって、その “何か” を知り尽くすことができないでいるのです。

ところでどうでしょうか。人間には自分の能力でその “何か” を知り尽くすことはできないにしても、もしも、その “何か” の方から人間に対して 「自分はこれこれこういう者で、ここにいて、人間に対してこういうことをして、また、こういう考え方をもっている。」 と、人間にもわかるやり方で自己紹介してくれたとしたらどうでしょうか。

そうしたら、人間にもその “何か” のことがわかるのではないでしょうか。実は、キリスト教の神さまは、そういうことをしてくれた神さまなのです。

神さまは人間にとても関心があって、人間たちに、神さま自身のことや人間のこと、そして神さまが人間に対してどのようなことをして、どのように考えているのか、そして人間にどうしてほしいか、ということを知ってほしいのです。

それで、そういうメッセージを人間がわかるやり方で伝えてくれました。それが、今ぼくたちの手元にある “聖書” なのです。

新約聖書のヘブル人への手紙 1章1,2節に “神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。” とありますが、つまり聖書は、そういう神さまからのメッセージなのです。

教会でよく 「聖書は神のことばです」 と言われるのは、そのことなのです。だから人間は聖書から、神さまのことや人間自身のこと、そして神さまが人間に対してしていること、考えていることなど、くわしく知ることができるのです。

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前回は、神さまが人間にとても関心があり、また、その神さまの人間に対するメッセージが聖書なのだという話をしましたが、今回は、では、その神さまのメッセージはどういう内容だろう、という話をしたいと思います。

大河ドラマ “神と人間”(前編)

聖書は66冊のさまざまな本で構成されています。章の数は全部合わせて1189章、ページ数はこの教会で使っている口語訳聖書で1735ページあります。神さまは、人間たちに伝えたいことが、こんなにたくさんあったわけですね。

それで、その内容はといいますと、これはまるで、神さまと人間たちの壮大な歴史大河ドラマのようなものです。そのドラマはこのように始まります。

---- 神さまは自然界と人間を、とてもよい状態に創造しましたが、人間は悪魔に誘惑されて、神さまのいいつけに背き、神さまとの愛と信頼の関係を裏切るという罪を犯してしまいました。---- これが、このドラマの発端です。

そしてこのドラマは、この罪のために神さまから引き離されてしまい、生きている間は労苦し、死んでからは地獄に行くという運命になってしまった人間たちと、そういう人間たちをそのような滅びの運命から救い出し、ご自分のところに呼び戻そうとする神さまとの、この両者の間に起こったできごとがつづられていきます。

・・・・・・ 罪を見逃すことのできない神さまは、罪を犯しつづけている人間たちを、大洪水で罰して滅ぼそうとしますが、ノアとその家族を選んで救いだし、人間にもう一度チャンスを与えようとします。

ところが人間たちは、その後もやっぱりどんどん罪を犯しつづけてしまったために、バベルでは、神さまは人間たちが寄り集まって大変なことをしでかさないように、言葉を混乱させて、人間たちをバラバラにします。

その後、神さまはアブラハムという人を選んで、アブラハムと彼の子孫たちを通して、神さまのすばらしさと神さまが与えようとしている救いと祝福を、人間たちに知らせようとします。それで、アブラハムの子孫であるユダヤ人(イスラエル民族)は、他の民族と違って、神さまの特別教育を受けました。

神さまはモーセを通してユダヤ人に “律法” を与えました。これは、神さまのきよさと同時に、人間たちの弱さ、罪深さを教えて、人間たちが神さまの救いを求めるようにと教育するものでした。

また、神さまはユダヤ人に、神さまを礼拝するところ “幕屋” をつくらせて、礼拝のしかた、動物の犠牲のささげ方など、事細かに教えました。これもやはり、神さまのきよさやすばらしさを、そして、人間たちの罪を帳消しにするという救いのためには、必ずその罪の身代わりのための犠牲が必要である、ということを教育するためでした。

神さまはユダヤ人たちに、士師たちや王たちや預言者たちを通して、いろいろなことを教えました。また、ユダヤ人の国を栄えさせたり衰えさせたり、また他国に滅ぼさせたりしました。

これらの特別教育は、このあと神さまが、“救い主(キリスト)” をおつかわしになる準備であって、そしてついに、キリストであるイエスさまが人間のところにやってきたのです。

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さて前回、“神と人間” のドラマは、人間たちが罪を犯して神さまとの愛と信頼の関係をだめにしてしまったことに始まり、罪を犯しつづける人間たちを救い、愛と信頼の関係を回復させようとする神さまが、ユダヤ人を特別教育して、そこに救い主のイエスさまを遣わされた、ということまで話しました。今回はそのつづきを話します。

大河ドラマ “神と人間”(後編)

さて、人間たちはアダムの失敗から始まって、ずっと失敗しつづけて神さまを裏切りつづけていますが、特別教育を受けたユダヤ人たちも、やはり失敗しつづけました。それで、イエスさまがやってきて、神さまのこと、天国のこと、そして自分が救い主だということを話しても、全然それを信じることができませんでした。

いや、信じることができないばかりか、そのイエスさまをとらえて、十字架にかけて殺してしまったのです。ところが、これは神さまの計画のうちに入っていたことで、イエスさまは実は人間たちの罪を帳消しにするための犠牲となって死んだのでした。

イエスさまは三日目に復活して、そのあと天国に帰って行かれましたが、神さまはこうして、人間たちに約束していた救いの道、つまり、罪を帳消しにして神さまとの愛と信頼の関係を回復することのできる道を用意してくださったわけです。

さて、特別教育を受けたユダヤ人たちも失敗してしまったので、神さまは次に、イエスさまに従った弟子たちを特別教育しました。そして彼らを通して、このイエスさまを救い主と信じる人たち(教会)を選び出し、その人たちによって、神さまが人間に与えた救いの道と祝福を全世界の人たちに知らせようとしました。

今現在、私たちの生きている時代は、このことが全世界に知らされつつある時代なのです。さて聖書には、このあとのドラマ、神さまと人間たちの間に起こるできごとについても書かれています。つまりそれは、今の私たちにとっては未来に起こるできごとです。

それは、この救いの道が全世界に知らされたら、再びイエスさまがこの世界に来られて(キリストの再臨)、すべての人たちをさばかれて、天国に入る人と、地獄に行く人とを分けてしまいます。

そして、この世界は滅びて、こうしてアダムから始まったすべての人間たちが犯した罪は清算されて、新しい天地が造られ、神さまと人間たちとの愛と信頼の関係は完全に回復されるのです。

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