聖書研究発表 ヨハネT4:7〜21(1987.3.16.)


このころ、私は京都にある教会に通っていました。
そこで毎週月曜日の夕刻に、聖書研究会がもたれました。ヨハネの第一の手紙を、順番に参加者が発表していくのですが、私はこの箇所を担当しました。

私はこの発表の準備のはじめに、聖書以外は決して読まない、と決めました。
それまでの私は、聖研といえば、注解書や参考書を読みあさり、それをうまくまとめることに一生懸命で、聖書自体をじっくりと読むことをなおざりにしていたのです。

ですから、私にとっては、聖書だけを読み、その文脈から読みとれるものだけで聖書研究の発表をしたのは初めてのことでした。貴重な体験でした。
なお、聖書は新改訳聖書を使用しています。

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互いに愛し合いましょう(ヨハネのいう愛とはどういうものか)

アウトライン(黒板に書く)

T. 7節〜11節 なぜ互いに愛し合うのか?
a.  7〜8  愛は神から出ているから
b.  9〜11 神が私たちを愛してくれたから
U.12節〜18節 互いに愛し合えばどうなるのか?
a. 12     まとめ
b. 13〜16 神は私たちのうちにおられる
c. 17〜18 神の愛が私たちのうちに全うされる
V.19節〜21節 神を愛する者とは?
a. 19〜21 兄弟を愛する者

今日はヨハネの第一の手紙4章7節から21節です。私はこの箇所を、三つの質問とそれに対する答、という形で学んでいきたいと思います。
三つの質問とは、黒板に書いているように、

T.なぜ互いに愛し合うのか?
U.互いに愛し合えばどうなるのか?
V.神を愛する者とは?

というものです。この質問を通して、ヨハネのいう愛とはどういうものか、ということを学んでいきたいと思います。

ではさっそく、ひとつ目の質問「なぜ互いに愛し合うのか?」について見ていきましょう。

7節の初めに「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。」とあります。ヨハネはなぜそう言うのでしょうか?
その理由はふたつあります。

ひとつめの理由は、7節に書いているように「愛は神から出ているから」です。愛の起源は神なのです。この愛は、世の愛とは異なるもので、私たち人間がもともと持っていたものではありません。

ですから、7節にある「愛のある者」とは、神起源の愛があり、その愛で愛する者のことであり、8節にある「愛のない者」とは、神起源の愛がなく、その愛で愛さない者、ということです。

言い換えれば、神起源の愛で愛することは、神から生まれ、神を知っていることです。なぜなら、神は愛だからです。
それで、神から生まれ、神を知っている私たちは、神起源の愛で愛し合うのです。

次に、なぜ互いに愛し合うのか、というふたつ目の理由は、「神が私たちを愛してくれたから」です。9〜10節をじっくり読みましょう。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

また、同じヨハネの第一の手紙3章16節も参照してください。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」

このように、ヨハネは、まず神が私たちを愛してくれたのだと語ります。
そして、11節で、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」と言います。

これを図解すれば、図A図Bのようになるといえるでしょう。(図中の「ク」とはクリスチャンのことです)

では、ふたつ目の質問「互いに愛し合えばどうなるのか?」について見ていきましょう。

12節にはこの質問に対するふたつの答を書いています。そのふたつの答とは、
@神は私たちのうちにおられ、
A神の愛が私たちのうちに全うされる、
ということです。
@については13〜16節で、Aについては17〜18節で説明しています。

では、13〜16節を見てみましょう。

このたった4節の中に<私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにいる>という類の表現が、3箇所も出てきます。
ひとつ目の箇所(13節)では、神が私たちに御霊を与えてくださった、それによって、<私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにいる>ということがわかる、と書いています。
ふたつ目の箇所(15節)では、イエスを神の御子と告白するなら、<神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます>、と書いています。前回の聖書研究で学んだ4章2節の「人となってきたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。」から考えて、この御霊イエスを神の御子と告白するについては、切り離すことができない関係であることがわかります。
三つ目の箇所(16節)では、<愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。>と書いています。7節で見たように、神起源の愛で愛する者は、神から生まれ神を知っています。そのような私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。なぜなら、神は愛だからです。その愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにいる、とヨハネは言うのです。
このことを図解すると、先ほどの図A図Bのように神とクリスチャンを上下に分けて書くよりは、図Cのように書く方がふさわしいと言えます。

次に、17〜18節(A神の愛が私たちのうちに全うされる)について見てみましょう。

13〜16節で説明したように、<神が私たちを愛し、私たちが互いに愛し合い、神が私たちのうちにいて、私たちが神のうちにいる>、
このことによって、17節にあるように、

私たちにおいて
私たちのうちに
神起源の愛が 完全なもの
全きもの
となった、

とヨハネは言いたいのだと思います。(参照ヨハネT2:5)

さて、次にヨハネは、では私たちが互いに愛し合うことによって完全なものとなった図Cのような「全き愛」とは、どのようなものなのかを語ります。

それは、@全き愛のうちにいる者はこの世にあってキリストと同じような者である、ということと、A全き愛には恐れがない、ということです。

ひとつ目の<私たちはこの世にあってキリストと同じような者である>(17節後半)とは、どういうことでしょう。
キリストと同じって、何だかおこがましいでしょうか。これは、「神との愛の関係において」キリストと同じような者である、という意味です。
ヨハネの福音書の15章9〜10節でキリストは弟子たちに「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしが父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」、また12節で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とおっしゃいました。
神がキリストを愛し、キリストは神の戒めを守って神の愛にとどまった、ちょうどそのように、神は私たちを愛し、私たちは神の命令を守って互いに愛し合い、神の愛にとどまり、神も私たちのうちにいる、ということ、つまり、私たちはこの世にあってキリストと同じような者である、ということです。
同じヨハネの第一の手紙2章5節に、「しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。」と書いてあるとおりです。

こういうわけで、ふたつ目の<全き愛には恐れがない>ということは当然のことだと思われます。
このような「全き愛」のうちにいて、なお闇の中にいたり、罪のうちを歩んだりするような、へんてこなことはないだろうと思うからです。
ですから私たちは、さばきの日にも大胆さを持つことができます。「たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」(ヨハネの第一の手紙3章20節)
ですから、逆に言うと、「恐れる者の愛は、全きものとなっていない」(18節)というわけです。

さて、最後に、三つ目の質問「神を愛する者とは?」について見ていきましょう。

20節の「神を愛すると言いながら」とは、言い換えれば、「神を愛すると言うと同時に」または「神を愛すると言うくせに」ということです。
「神を愛する」と「兄弟を憎む」は両立しないのです。

私はこれまで、20節後半の「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」というところを、難しさや易しさのレベルの問題かと勘違いしていました。目に見えない者を愛するより目に見える者を愛する方が簡単なので、目に見える者を愛することさえできない者には、目に見えない者を愛することなどできない、ということかと思っていたのです。
この解釈はたぶん間違っています。というのは、もし正しいとすると、兄弟を愛していて神を愛していないという状態があり得ることになりますが、それは文脈から言って適当ではないからです。
ですから、恐らくこういうことでしょう。
12節に「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とありますが、そのように神は目に見えないので、「神を愛する」といっても、実際に何をすることが「神を愛する」ことなのかよくわからないわけです。「目に見えない神を愛する」とは、具体的には「目に見える兄弟を愛する」ことなのです。
神さまは私たちを愛して、御子キリストを犠牲にされました(10,11節)。3章16〜18節には、「キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とあるように、目に見える兄弟のために、目に見える犠牲を実際にささげることが、「目に見えない神を愛する」ことなのです。

神を愛する者とは、兄弟を愛する者のことだと、ヨハネは言っているのです。

まず神が私たちを愛し、私たちは愛ということがわかりました。その愛は、実際に犠牲をささげるという愛です。この神起源の愛で私たちは互いに愛し合い、神の愛の中にとどまることにより、神は私たちのうちにおり、私たちも神のうちにおることがわかります。こうして全うされた完全な愛には恐れがありません。・・・これがヨハネの語る「愛」なのです。

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以上がこの日の発表の内容です。

この聖研を指導しておられた宣教師は、この発表の中で、キリストに関する要素が強調されていないことを指摘されました。

この全き愛は、キリストを遣わし、犠牲とされることで具体的に示されたこと(9,10節)、
私たちはキリストをあかしし、告白する霊が与えられていること(13〜15節)、
全き愛のうちにいて互いに愛し合うことはキリストの命令であること(21節)、

など、この全き愛はキリスト抜きには語れないことを指摘され、図Dのようにも書けることを示されました。

私は、この聖研を通して、注解書や参考書に頼らず、ただ、聖書がどう語っているかということに集中することができました。

考えてみると、私はクリスチャンになってから聖書自身をじっくりしっかり読むことよりも、人が聖書を解説したものを一生懸命読んでいたようで、そのことを反省いたしました。

このことが、後に「きまぐれつうしん」の「ルカの福音書を読もう!」で、聖書だけを読んでそのメッセージを聞こうとしたことにつながっています。