映画「最後の誘惑」(1989年2月)


映画「最後の誘惑(原題:The Last Temptation of Christ)」は、1988年制作のアメリカ映画です。
監督はマーティン・スコセッシ、イエスを演じたのはウィレム・デフォー。
神の預言者としての使命と、ひとりの人間としての欲求の間で悩むイエス像を描き、公開当初からおもにカトリック教会の抗議が相次ぎました。
日本でも公開され、さっそく私もどんな映画かと興味本位で観に行きました。

映画館を出たとき、数名の壮年の女性がビラを配っていました。
ここに紹介するのが、そのビラの内容です。

これを読んで、私は、『「最後の誘惑」を憂慮する会』に手紙を書きました。
この手紙は、私の書いた文章の中でも、最もあかぎまんらしいもののひとつに入る、いやらしい文章になっていますので、ぜひお楽しみ下さい。
ちなみに、憂慮する会からの反応はありませんでした。

ビラの内容:

映画「最後の誘惑」に対する私たちの応答

STATEMENT DENOUNCING THE MOVIE 「THE LAST TEMPTATION ON CHRIST」

 映画「最後の誘惑」は、聖書に基づかないフィクションであり、歪められた人間キリストを描いています。キリスト教の背景のない日本では、この映画の上映によって及ぼされる影響は決して小さいものではないと、私たちキリスト者は恐れています。また、映画によるキリストご自身への冒涜に対して心を深く痛めています。
 みなさまももし自分の愛する人が蔑まれ侮辱されるなら、ただ傍観者でいられるでしょうか。私たちキリスト者は、自分の救い主とし信じ愛するイエス・キリストが「最後の誘惑」によって侮辱されることに耐えられません。

 アメリカでは「最後の誘惑」は聖書に基づかないフィクションであると、映画製作者がはっきりと認めました。けれども日本においては、真実と虚構とを巧みに織り交ぜキリストの姿を堕落させて描いたこの映画を、まるで新しいキリストの伝記であるかのように宣伝しています。チラシ等に、「愛と性に苦悩するキリスト、真実の姿」との文句が使われています。これこそ日本全国のキリスト者、世界のキリスト教信者の痛みであり、抗議を呼び起こすことは当然です。

 この映画でのキリストは、罪に身をゆだねる無力な者として描かれています。しかし

真のイエス・キリストは聖であられ、偉大で尊厳のあるお方です。

「キリストは罪を除くために現われました。キリストには罪がありません。」Tヨハネ3:5
「キリストは、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」Tペテロ2:22
「キリストは、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われたが、罪を犯さなかった。」ヘブライ4:15

 映画監督は「自分のアイデアのキリスト」を描いています。しかし、聖書が伝えるキリストと監督の思想が根本的な点で違っても、真実と虚構の相違が観客にはわかりません。その結果この作品は陰険な惑わしとなっています。尊いものである「表現の自由」がただの「乱用」で終っていると言っても過言ではありません。
 この映画全体が、キリストの精神、聖書の出来事、登場する人物像を似て非なるものとすることによって、人類の救いなるキリストの福音を歪めています。

 私たちキリスト者は、「最後の誘惑」によって聖書の真理が曲解されることに心を深く痛めています。このビラを作ったのはそのためです。
 みなさまが、聖書をお読みになり、教会に来て下さるならば、真のイエス・キリストがどのような方であられるか、お分かり頂けると思います。そのことを心から願っております。

 このビラについてもっと詳しくお知りになりたい方、また、最寄りのキリスト教会の紹介を希望される方は下記までご連絡下さい。

【連絡先】 814−×× 福岡市××××郵便局私書箱20号「最後の誘惑」を憂慮する会


あかぎまんの手紙:

なお実際には、文中の△△△△の部分には私のフルネームを××××の部分には当時の住所を書いています。

ビラ”映画「最後の誘惑」に対する私たちの応答”に対する△△△△の応答

 ビラ”映画「最後の誘惑」に対する私たちの応答”は、全キリスト者または全教会の総意には基づかないフィクションであり、歪められた全キリスト者像または全キリスト教会像を描いています。キリスト教の背景のない日本では、このビラの配布によって及ぼされる影響は決して小さいものではないと、私△△△△は恐れています。また、このビラによる自由への冒涜に対して心を深く痛めています。

 このビラは「最後の誘惑」を憂慮する会が独自に制作したものを、まるで全キリスト者または全教会の総意であるかのように宣伝しています。ビラに「私たちキリスト者は・・・」との文句が三度、「日本全国のキリスト者、世界のキリスト教信者の・・・」との文句が一度使われています。また、「教会に来て下さるならば」との文句があり、最寄りのキリスト教会の紹介をするという文句があり、ただ「連絡先」として、この会の名が小さく記されているだけです。これこそ△△△△の痛みであり、抗議を呼び起こすことは当然です。

 このビラでの全キリスト者または全キリスト教会は、一本の映画にも耐えられない無力な者として描かれています。もちろん、この会のようにそういうキリスト者もいることはいます。しかし

真のキリスト者または真のキリスト教会は鷹揚で、その信仰は揺るがないものです。

 憂慮する会は「自分のアイデアの全キリスト者または全キリスト教会」を描いています。しかし、他のキリスト者または他のキリスト教会と、この会の思想が根本的な点で違っても、全キリスト者または全キリスト教会を代弁するような表現が用いられ、単に「連絡先」としてだけしかこの会の名が記されていないならば、真実と虚構の相違がこのビラを読む人にはわかりません。その結果このビラは陰険な惑わしとなっています。尊いものである「自由」が否定され、ただ「キリスト者ならばこのように感じるものだ」という「おしつけ」で終わっていると言っても過言ではありません。
 このビラ全体が、真のキリスト者の感性を似て非なるものとすることによって、真のキリスト教の自由を歪めています。

 私△△△△は、このビラによって真のキリスト者または真のキリスト教会の自由が曲解されることに心を深く痛めています。この手紙を書いたのはそのためです。

 文責:〒567 大阪府×××××××× △△△△  1989.2.6.