ロイヤルウェディング便乗企画 〜しあわせな人ってどんな人?〜

皇太子さまと小和田雅子さんの結婚式も無事にとり行なわれたようですが、以前、皇太子さまのお后えらびが話題になっていた頃、まぁぼくは、、国民的アイドルとなった紀子さまに劣らない女性となると、これはけっこう難しいことだろうなぁと、思わず皇太子さまに同情してしまったりしていたわけですが、で、そんなことを職場の先輩などと話していますと、彼は、「まぁ俺なんか、普通の一般人でよかった。あんな皇太子みたいな窮屈な生活、ぜったいでけへんな」 と言います。

彼が言うには、皇太子なんか、生まれたときからお付きの人がいて、自由勝手なことがひとつもできない。スケジュールは分刻みだし、しゃべることまで決まってる。そして結婚も好き勝手にはできないし、ゆくゆくは天皇さんになることが決まってしまってて、のがれようがない。こんなふうに、はじめから将来が決定していて選びようがない人生なんて、窮屈で不幸で、俺なんか絶対に耐えられない、というわけです。

そういえば、「ローマの休日」 のオードリー・ヘプバーンも宮殿から逃げ出したっけなぁと、ぼくは他事を考えていました。その先輩は、「俺は頼まれても皇太子なんかにはならん」 と言い切りました。

まぁ、今さら彼に、皇太子さまになってくれと頼む人はいないと思うけど、考えてみると、別に今の皇太子さまだって、自分でなりたくて皇太子さまになったわけでもないし、誰かに頼まれてお受けしますと言ったわけでもないし、要するに、天皇家の長男に生まれてしまって、気がついたら皇太子だった、というだけであって、決して自分から好きこのんでなったわけではないはずなのです。

だからテレビなどを見ていて、皇太子さまがいかにも皇族らしく上品にふるまい、いつでもどこでもあたりさわりのないご感想などを語っているのを見るにつけ、皇太子さまはえらいなぁと、思ってしまいます。

なぜって、皇太子さまだって、オードリー・ヘプバーンみたいに逃げ出したいこともあったかもしれないし、皇位なんてもうくそくらえだ、オレはグレてやる! と思ったこともあったかもしれない、とぼくは勝手に想像してしまっているのです。

すると、その先輩は、「あれはもう、小さいときからああいうふうに教育されて仕込まれてるからできるんや。他にやりようがないやないか。不幸なやつやで」 と、まるで皇太子さまのことは全部知っているような顔で、皇太子さまを不幸な人と決定してしまいました。

ぼくには、皇太子さまの気持ちはわからないし、皇太子さまが不幸かどうかもわからないけど、ただもしも皇太子さまが、いやいやながら皇太子をつづけているとしたら、それはとてもつらくて不幸なことだろうなぁと思うのです。皇太子さまがこう思っていたとしたらどうでしょう・・・

「やれやれ、なんだってオレはこんなことやってんだろうなぁ・・・ まったく窮屈でしょうがないや。いつもニコニコ皇族スマイルだ。紀子さんはよくもあんなにニコニコしてられんなぁ・・・ ま、あの人はいいよ、自分から覚悟の上で望んで皇族になったんだから。その点、オレは気がついたら天皇家の、しかも長男だもんなぁ・・・ まったく弟は気楽でいいよ。しかも背は高いし、顔もいいときてる。不公平だよな、まったく。あぁ、やだやだ・・・ え? どっかの国の大使がきてる? はいはい、行けばいいんでしょ、行けば」

もしこうなら、皇太子さまはとてもしんどい人生を送っていると言えます。

しかし、本当に皇太子さまが不幸かどうかぼくは知りませんし、かえって、テレビなどで紹介される皇太子さまを見ていると、とてもいやいやながらやっているとは思えません。あの淡々と務めを果たす姿には、誇りさえ感じられる気がしてしまいます。

それではもしも皇太子さまがいやいやながらではなくて、本当に自分が皇太子であることを喜んでいるとしたらどうでしょう? そう、だれもが皇太子になれるというわけではありません。また、なろうと思ってなれるものでもありません。皇太子さまが自分の幸運を、自分の与えられた境遇を、そして自分の与えられた務めをすばらしいものだと感じているとしたらです。

どうでしょう? これは皇太子さまにとって、人生最大の幸せといえるのではないでしょうか。すばらしい女性と結婚することも大きな幸せですが、自分自身を喜び、誇りに思えることはそれにまさる幸せだと思います。

でも、このことは、ただの一般人であるぼくたちにも無関係であるとはいえません。というのは、考えてみると皇太子さまだけじゃなくて他の人もみんな、好きこのんで今のような自分に生まれたかったわけではないはずだからです。

ぼくは1958年9月23日に、香川県の片田舎に、今の両親の子どもとして、男として生まれたかったわけではなくて、ただそういうふうに生まれてしまって、気がついたらそうだったというだけのことで、それはみんなも同様です。

ある人は、どうして私は江戸時代の末期に生まれて坂本龍馬と恋に落ちなかったんだろう、と文句を言いたいかもしれないし、ぼくは学生時代、英語の授業やテストのたびに、なんでぼくはアメリカ人に生まれなかったんだろう、と何度も思っていました。

みんな一度や二度は必ず悩んだことがあるはずです。どうして私はこんな時代に、こんな場所に、こんな家族で、こんな顔で、こんな体格で、こんな頭で・・・ ただ、この悩みがただ一時的なものなら、あまり問題はないのです。

しかし、これがいつも頭を悩ませ、いつもブツブツ文句を言いたい状態であるならば、そういう人はいやいやながらやってる不幸な皇太子さまと同様にしんどい人生であるといえます。

しかし逆に、自分に与えられた境遇をすばらしいものだと感じ、自分自身を喜び、誇りに思えるならば、それは幸せな皇太子さまと同様に大きな幸せだといえます。

ぼくはこう言いたいのです。しあわせな人ってどんな人?・・・ それは、いやおうなく与えられたものでも、それをもう一度自分で選びとるように生きる人だと。

人間にはいやおうなく与えられたものがたくさんある、ということはわかると思います。では “それをもう一度自分で選びとる” とは、どういうことでしょうか?

皇太子さまと雅子さまの記者会見では、この質問は出なかったようですが、よく芸能人たちの記者会見などで、婚約や結婚をしたふたりにレポーターが、「もう一度生まれ変わったとしても、この人を選びますか?」 という質問をすることがあります。

まあ、そう聞かれて、「いいえ」 という人はまずいないわけですが、それでも破局をむかえるカップルもいるものです。まぁ、それはともかくとして、皇太子さまにこの質問をしたら、なんと答えるでしょうか? 

やはり、もう一度皇太子に生まれて、雅子さんに一生全力で守るとプロポーズしたいと答えるのでしょうか。もしそうなら皇太子さまは、とてもしあわせな人だと思います。

では私たちはこの質問になんと答えるでしょうか? もう一度チャンスが与えられたら、そして自分で自由に選べるものだとしたら、どうでしょう? もう一度、今の自分に生まれたい、と答えるでしょうか? 今の自分を選ぶでしょうか?

この質問にYESと答えられる人は、とてもしあわせな人だと思うのです。そういう人はいやおうなく与えられたはずの人生を、あたかも自分で選びとったかのようにいきいきと喜んで生きていく人です。

もちろんそういう人も、いつでもどこでも明るく楽しい、というわけでは決してなくて、生きていく上でのいろいろな悲しみや苦しみはもちろんあり、落ち込むことも、しんどいこともあり、自分の運命や境遇にやつあたりするようなこともあるでしょう。

しかしやはり、こういう人はそこから立ち上がって人生を真摯に生きていく人なのです。今の自分を喜び、誇りに思える人、もっと簡単に言えば自分のことが大好きな人、そういう人がしあわせな人だと、ぼくは思うのです。

 

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