願い事は叶うの・・・?

これは、1999年の9〜10月にかけて行われた、キリスト教をテーマにしたある会議室のような集まりでのやりとりです。
キリスト教に関する質問に、メンバーが答えるようなコーナーがあったので、『願い事は叶うの・・・?』というタイトルで質問を投げかけてみました。

私も、最初はおとなしくしてますが、後半は嫌味たらたらで、あかぎまんらしい、いやらしい文章になってますので、お楽しみに。

ハンドルネームの修正、全く関係ない内容(例えば、会議室への投稿のシステムの説明など)の削除、書式の変更、明らかな誤字・脱字の修正などはしていますが、基本的に内容は変えておりません。

なお、最後のメッセージ018以降、クリスチャンの方々からの応答は一切ありませんでした。

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メッセージ001■あかぎまん

はじめまして
ときどき××(会議室の名前)を覗かせてもらっている者です。

みなさんにお尋ねしたいことがあるのです。
それは、神様への願い事は叶うのか、ということです。

変な例かもしれないけど・・・
ある人が「明日の天気は晴れにして下さい」と神様に願ったとします。
で、同時に、同じ地域に住む人が「明日は雨にして下さい」と願ったとします。

こういうときは、どうなるんですか?
なんか、すごい初歩的で、変な訊き方をしているのかも知れないんですが、
よろしかったら、その辺も教えて下さい。

どうぞよろしく

メッセージ002■TJ

> 変な例かもしれないけど・・・
> ある人が「明日の天気は晴れにして下さい」と神様に願ったとします。
> で、同時に、同じ地域に住む人が「明日は雨にして下さい」と願ったとします。

神様から、願いは、何回も叶えていただいている体験があります。
多分多くのクリスチャンは、そうだと、思います。
けれど、叶えられない祈りもあります。
たとえばね。神様に、「コーヒーが欲しい」って、祈ったとしますよね。
でも、神様は、「オレンジジュースのほうが、体によかろう」って、オレンジジュースを、下さる場合も、あるわけです。
だから、晴れを祈ったとしても、雨になった場合は、きっとその人にとって、雨のほうが、神様から、見てよいだろうと判断された結果かもしれません。
と、以上のように考えます。

メッセージ003■あかぎまん

TJさん、お返事ありがとうございます。
まだ少しわからないことがあるので、よろしければおつきあいください。

晴れを願う人と、雨を願う人がいるわけですから、すべての願い事が無条件にすべてかなうとは私も思っていません。
TJさんも「叶えられない祈りもある」とおっしゃってますよね。

そこで、わからないのは、願い事が却下されたときのことです。
神様は、どうして却下されたのかということを、教えてくれるのですか?

なぜオレンジジュースなのか、なぜ雨になったのかということを、説明してくれるんでしょうか?

メッセージ004■YY

あかぎまんさん、こんにちは。

この××(会議室の名前)を多くの人がみてくださっていることは感謝なことです。

> なんか、すごい初歩的で、変な訊き方をしているのかも知れないんですが、
> よろしかったら、その辺も教えて下さい。

そう、わからないことがあったらなんでも聞くほうがいいですよ。

それで、ご質問の件ですが、

> それは、神様への願い事は叶うのか、ということです。
> 変な例かもしれないけど・・・
> ある人が「明日の天気は晴れにして下さい」と神様に願ったとします。
> で、同時に、同じ地域に住む人が「明日は雨にして下さい」と願ったとします。
> こういうときは、どうなるんですか?

第一に、祈りですが、すべてがかなうわけではありません。
なぜ、祈るのかという動機が問われます。

聖書(ヤコブ4:3)では
「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」
またヨハネの手紙 第一(5:14)では
「何事も神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」

第二に、たとえ動機が(人間的な基準で)よくてもすべての祈りが自分の願い通りになるわけでもありません。
たとえば、私たちがどんなに祈ってもいまなお世界中の多くのクリスチャンが迫害にあっていることからもわかります。

かなうかどうかわからないというのであれば、祈らなくてもいいということになるのでしょうか。
そうではありません。祈ったとおりにならなくても、神様の目からは、最善であると私は信じます。
たとえば、願い通りにならなくても待つということが、その人にとって一番良いこともあるのです。
また後になってキリスト者はそのことがわかることもあります。(わからないことも多いです。)

キリスト者にとって祈りとは神様との会話であり、息をするのと同じようなものです。
もし私が祈りをやめてしまったら、信仰も衰えてしまいます。

あまりうまく書けませんでしたが、おわかりいただけたでしょうか。

メッセージ005■あかぎまん

YYさん、お返事ありがとうございます。
ただ、少し難しかったです。
聖書の引用はちょっとわかりにくいので、よろしければYYさんご自身の言葉で、ご自分の確信しておられることをお話していただけないでしょうか。

「祈りがすべてかなうわけではない」と書いておられますね。
そして、かなわない理由として
1.動機が悪い
2.動機が良くても、待つことが必要なことがある(つまり、時期が悪い)
を挙げておられると思いますが、それでいいでしょうか?

では、人間はそのことをどうやって知ることができるのでしょうか?
最初から、動機や時期が悪いことがわかっていて願い事をする人は基本的にいないだろうと思います。

TJさんへのお返事と同じことを書いてしまいますが、神様は、却下の理由を説明して下さいますか?

「後になってキリスト者はそのことがわかることもあります。(わからないことも多いです。)」
と書いておられますが、わからないことも多いということは、はっきりした説明はないということなのでしょうか?
「祈りとは神様との会話」ということですが、「会話」なら返事があるものだと思いますが・・・

メッセージ006■TJ

> なぜオレンジジュースなのか、なぜ雨になったのかということを、
> 説明してくれるんでしょうか?

YYさんがとても上手に答えていらっしゃいましたが、わたしも、同じような考えです。

神様は、夢に現れて、直接、話したり、教えたりということはありません。(少なくとも、わたしには)
神様は、出来事を通して、私たちに語りかけてくださっていると、聞きました。
雨になったことを、通して、神様は、どんなことを、わたしに、言いたかったんだろうと思い巡らしていると、なんとなく神様からの返事が返ってくることもあります。
それでも、すぐには、わからなくて、何年も、かかる場合も、多いのですが。

メッセージ007■YY

あかぎまんさん、こんにちは。

> 聖書の引用はちょっとわかりにくいので、よろしければ
> YYさんご自身の言葉で、ご自分の確信しておられることを
> お話していただけないでしょうか。

そうですね。聖書の一文だけでは難しいのかもしれません。
聖書は前後関係が大切ですので、もし聖書をお持ちなら、その前後をお読みになることをお勧めします。
私は聖書の言葉を信じる者として、引用せずにはいられなかったのです。

> 「祈りがすべてかなうわけではない」と書いておられますね。
> そして、かなわない理由として
> 1.動機が悪い
> 2.動機が良くても、待つことが必要なことがある(つまり、時期が悪い)
> を挙げておられると思いますが、それでいいでしょうか?

時期が悪いだけではありません。願いに対してNOということが、答えのこともあります。

> では、人間はそのことをどうやって知ることができるのでしょうか?
> 最初から、動機や時期が悪いことがわかっていて願い事をする人は
> 基本的にいないだろうと思います。

まずどうやってということですが、
願いに対して具体的な結果が与えられるときや、聖書を読んだときとか、牧師のメッセージ(説教)を聞いたときとか、いろいろな方法を通して神様は答えを教えてくださいます。
私は神様は全能(万能)の方であると、信じていますから、どのような方法でも可能であると思います。

キリスト者でさえ、いつも動機が純粋であるとは、かぎらないのです。ただの人間ですから。
自分のことしか考えていないときとか、他の人のことを考えていないことが多いのではないでしょうか。
だいたい神様に祈りとは神様への賛美、感謝、願いなどです。(不正確のようです。ごめんなさい)
けれども一般的に私たちの祈りは、願いの比重が大きいのです。
そしてその願いは「明日雨を降らせてください」といった単純なものよりも、もっと複雑なものが多いので、答えも複雑なものになると思います。
そしてその答えは、必ずしも祈った本人が、望んでいた形、想像していた方法でないこともあります。(私は、そのほうが多いと思います。)

> 「後になってキリスト者はそのことが
> わかることもあります。(わからないことも多いです。)」
> と書いておられますが、わからないことも多いということは、
> はっきりした説明はないということなのでしょうか?
> 「祈りとは神様との会話」ということですが
> 「会話」なら返事があるものだと思いますが・・・

すくなくとも私には、はっきりとした答えがない場合もありました。
けれどもそれは自分の願いが強いあまり、神様からのサインも見過ごしていることもあるでしょう。
ですから、確信を持って神様からの答えが与えられないこともあるとは私は言えません。

神様との会話は、人間の会話とは違います。
また人間の会話さえ返事がなかったり、本心を言ってなかったり、ひどい場合にはだまそうとさえしていることもあります。

長くなりごめんなさい。

メッセージ008■RB

こんにちは!横からレスですいません。
RBと申します。
私は洗礼を受けていないけれど(お寺育ちで勉強不足だから、もうちょっと勉強してからって、牧師さんに言われてます。^^)、

神様って、凄いんですよ。
私の経験からいうと・・・

私は上手に歩けないんですね。でも、入院するのはいやで
(職場も入院されたら困ると言っていたし・・・)お医者さんと喧嘩していました。
すると、教会の友達から、コンサートをするからおいで、って手紙がきたんです。
え〜、私、教会なんていけないよ、って思ったけど、せっかくのお誘い、行ってみたら、その、歌手の人が、「医者に病気だ、と言われたら、治療しますよね。」って何気なくおっしゃった。
目からウロコ!でした。そして、入院しました。(当たり前じゃん、と思われるかもしれないけれど、その時の私は、ガッツーン、だったんです。)

次に、病気がひどくなって、親にあたりちらしていました。
すると、母の日に牧師さんが「母を通して、あなたが神から受けている愛に感謝しましょう。」って言われたんですね。
これも、目からウロコ!でした。精神的に自立できなくて、いつまでも親にあたりちらしていた自分に、ガッツーンでした。

クリスチャンでもないのに・・・聖書のこと、良く知らないのに・・・
神様は、友人を通して、私を導いてくださったのでは?と思います。
たぶん、神様はこのような感じで、「願いごと」のお返事をくださるのではないかな、と思います。

メッセージ009■WJ

ずっと以前、△△さん(この会議室の管理者)が紹介してくれた詩に答えがあるような気がします。
転載します。

私は神に力を願った 成功をおさめる為に
 しかし弱くなってしまった 謙遜を学ぶ為に
私は神に健康を願った 偉大な事を成し遂げる為に
 しかし病気になった もっと神の心にかなった事ができるために
私は神にを富を願った 幸福になる為に
 ところが貧乏になった 賢くなる為に
私は神に権威を願った 人の為に利用しようとして
 ところが弱くなった 神に頼る事を学ぶように
私は神に成功する事を願った 尊敬される為に
 ところが私は失敗の憂き目にあった 得意がらない為に
私は神に完徳を願った 神の聖なる事を他の人に示す為に
 しかし自分の心の腐敗を見せつけられた うぬぼれないように
私は願った事は何も得なかったけれども、希望した全ての事を受けた
 神は私が必要とする事を一番良く知っておられる
願わくは神は賛美され、祝福されますように

メッセージ010■あかぎまん

TJさん、YYさん、RBさん、WJさん、お返事ありがとうございます。

まず、みなさんの謙遜な姿勢に感心いたしました。

私はキリスト教の神様は人格神だと聞いていましたので、神様と人間との(少なくとも信者との)間には、親密な人格関係(変な言葉ですが、他に適当なのが思い付かない)があるものだと思っていました。

石や木でできた神様なら、呼びかけたって返事が返ってくるはずもありませんが、キリスト教の神様はそうではなくて、まるで親しい友達のような、または親子のような関係を持てるものかと思ってました。

でも、考えてみると、神様と人間とはあまりにもちがうのだから、対等につき合えると思うのは思い上がりなのでしょう。

変なたとえかも知れないけど、王様と家来って感じですか?
神様は支配者で、人間は神様に仕える者という主従関係?
だとしたら、神様のやり方にケチをつけるのは傲慢というものでしょうね。

みなさんが甘んじて神様のやり方を受け入れておられる姿には感心しました。

それで、みなさんがおっしゃりたいことは、
神様は、人間の願う最善ではなく、あくまで神様の最善を行うということ、
そして、それが実は、人間にとっても最善なのだということですよね?

ですから、人間の願い事が言葉通りに実現しなかったとしても、神様は、もっと高いレベルで願いを叶えているのだということですよね?
それはわかりますが、そうだとすると、たとえ願い事が言葉通り実現したとしても、神様が叶えて下さったと単純に喜ぶことは早計ですよね?
神様には、何か別の大きな理由があるかも知れないわけですから・・・

それと、人間は自立していなければならないということがわかりました。

私は宗教というのは神様に身をまかせて生きることだと思っていました。
でも、考えてみると、親亀こけたら皆こけるみたいな関係は危険ですよね。

たとえ願いが叶えられなくても、その説明がなくても、ずう〜っと待っていられる、信じて生きていけるなんてすごいです。
そこまで自立しているなら、願い事なんてする必要があるんですか?

最後に、神様はいろいろな人を通じて語りかけるということはわかりましたが、それでは、なぜその特定の言葉が神様のメッセージだとわかるんですか?

聖書にはたくさんの言葉があるし、牧師や歌手もいろんなことをしゃべっているはずです。
そのたくさんの中から、ある言葉が、神様からのメッセージだと判断できる基準は何なのですか?
ほかのものとどうやって区別するんですか?

メッセージ011■YY

あかぎまんさん、こんにちは。

まじめな質問をありがとうございます。
しかし、わたしは、文章を書くのが(特にこのような分野では)、苦手なのでかえってお答えすると混乱させているのではないかと心配になってきました。
しかし後のことは、神様に任せるとして、できるだけ、私の思うところによって書きます。

> 石や木でできた神様なら、呼びかけたって返事が返ってくるはずもありませんが、
> キリスト教の神様はそうではなくて、まるで親しい友達のような、
> または親子のような関係を持てるものかと思ってました。

神様は父です。私たちは祈るときよく、「天の父なる神様」とよびかけます。また友でもあります。(出エジプト33:11)

> 変なたとえかも知れないけど、王様と家来って感じですか?
> 神様は支配者で、人間は神様に仕える者という主従関係?だとしたら、
> 神様のやり方にケチをつけるのは傲慢というものでしょうね。

神様は王です。「王の王、主の主」
しかし、ヨブ記やヨナ記のように神様に言い争ったり、神様のやり方に不満を表す者もいます

> それと、人間は自立していなければならないということがわかりました。

すみません。ここはよく意味がわかりません。
しかし、自立とは、「他の力をかりることなく、また他に従属することなしに存続すること」ですから、厳密にはそのような人はいないでしょう。本人がそのことを自覚しているかどうかはわかりませんが。

> 私は宗教というのは神様に身をまかせて生きることだと思っていました。
> でも、考えてみると、親亀こけたら皆こけるみたいな関係は危険ですよね。

キリスト者になるということはまさしく神様に身をまかせて生きることです。
そしてその神様は、完全であるからすべてをまかせることができるはずなのです。
しかし人間は、キリスト者でさえ完全に神様に任すことのできない存在なので苦しいのです。

> そこまで自立しているなら、願い事なんてする必要があるんですか?

願い事する必要があるかどうかわかりませんが、祈る必要はあります。

> そのたくさんの中から、ある言葉が、神様からのメッセージだと判断できる
> 基準は何なのですか?ほかのものとどうやって区別するんですか?

基準があるとすれば、聖書です。聖書に書いてあることと矛盾することはないはずです。
「あなたの神である主を愛せよ」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」この二つが基本です。

けれどもなにが神様のみこころであるのかは、キリスト者でも迷いますし、わからないで苦しみます。

おそらく、私がここで書いていることも理解するのが難しいと思います。
おそらく違う次元で話をしているようなもどかしさを感じているのではないでしょうか。
けれども、理解できなくてもこのように探求されるだけの意味はあると思います。

メッセージ012■あかぎまん

YYさん、いつも丁寧なお返事を下さって、ありがとうございます。

ちょっと思い上がってるかも知れませんが私は、YYさんや、他のみなさんのおっしゃっていることは理解していると思っています(信じるか信じないかは別として)

むしろ、かえって、私の言っていることの方がみなさんにはわかりにくいのではないかと感じています。

そこで、もうひとつ、意見を聞かせていただきたいのです。
次のお話は、私が以前行ったことのある教会の牧師さんが礼拝の説教の中でお話されたことです。

ある地方で、ひどい日照りが続いていた。
そこで、その地方にある教会では、雨乞いのための特別祈祷会をすることになった。
祈祷会当日、教会に集まった信者たちの中に、ひとりだけ傘を持ってきたおばあさんがいた。
他の信者たちは不思議に思っておばあさんに聞いた。
「なぜ、こんなカンカン照りなのに傘など持ってきたのですか?」
すると、そのおばあさんは答えた。
「私たちは雨を降らせて下さいと祈るために集まったのでしょう?あなたがたこそ、傘の準備がなくて、雨の中をどうやって家に帰るおつもりですか?」

その牧師さんのお話によると、この話は実話なのだそうです。

この話の中の、傘を持ってきたおばあさんの信仰と、傘を持ってこなかった信者さんたちの信仰とについてみなさんのご意見をお伺いしたいのです。

ちなみに、その牧師さんは、傘を持ってこなかった信者さんたちを「不信仰」だとおっしゃいました。

どうぞみなさんのご意見をお聞かせ下さい。

メッセージ013■LM

基本的に私が思うのですが、神様を試してはいけないと思うんです。
例えば晴れて欲しい、雨になってほしい。さて神様はどちらを選ぶでしょうか。ということです。
ただ、神様を心から信じることです。
私が思うに神様は仏様と違って、利益のために動くものではないと思います。
あなたの心の平安、あなたを助ける為に神様は存在すると思います。
本当に神様を信じるのであれば、そのようなことは考えないはず。

メッセージ014■あかぎまん

LMさん、お返事ありがとうございます。

ただ、あなたのおっしゃってることは、よくわかりません。
「神様を試す」とは、どういうことでしょうか?
たとえば、
「雨でも晴れでも、別にどちらでもかまわないんだけど、ためしに雨が降るようにお願いしてみよう。神様はどう反応するかなあ?」
ということでしょうか?
もしそうなら、私の話していることはそういうこととはちがいますし、たとえそうだとしても、それがそんなに悪いことだとは思いません。

たとえば、孤児院(これって、差別用語?)にいる子どもに、ある時、
「あなたには、お父さんがいます」と告げる人がいます。
そして、親であるという証拠を見せられ、その人の手紙を見せられたりします。
「その人はこれこれこういう人で、あなたと親子として一緒に暮らしたいといっていますが、どうしますか」と言われます。
子どもはとまどい、不安になりますが、思い切ってそうしようと決心し、一緒に親子として暮らし始めます。
なにせ、いままで親のことなど知らなかったのですから、最初は見知らぬ他人です。
この人が本当に自分の親なのか、どうやってつきあえばいいのか、信頼できるのか、愛してくれるのか、と心は揺れ動きます。
本当に自分を愛してくれるかどうか、その人を試してみることもあるでしょう。
子どもの気持ちを考えれば、それも無理からぬことと思います。
でも、親子としてつきあううち、その人が自分を愛し、親として真実をもって対応し続けてくれれば、心はとかされ、親として信頼し、愛するようになるでしょう。

クリスチャンホームに生まれた方はどうかわかりませんが、普通人間は、生まれたときから神様を知っているわけではありません。
私もそうです。
ですから、いきなり神様はすばらしいとか、信頼できるとかいわれても、すぐに、はいそうですか、と信じられるはずがありません。
個人的に神様とつきあううち、それは徐々にわかってくるものだと思います。
でも、つきあっていくうちに、疑いが起こるような出来事があると、どうやって、信頼する心が生まれてくるでしょうか。

神様は人格神で全能だとしたら、そして、祈りが神との会話だとしたら、どうして神様は人間の祈りにはっきりとした返事をくれないのですか?
神様の方こそ、人間の反応を試しているのではないですか?
そういうやり方は、親しい人格関係を持とうとしている態度とは思えないと考えるのは、行き過ぎでしょうか?

クリスチャンのみなさんは「それでも神の最善を受け入れる」とおっしゃいます。
あなたがたは、「不安な孤児」ではなく、「自立した大人」だから、そういうことが言えるのです。
ですから、LMさんも「本当に神を信じるのであれば、そのようなことは考えないはず」と言えるのです。

すいません、ちょっと興奮してるみたいです。
不愉快なことを言っているとしたら、どうかお許し下さい。

LMさんのおっしゃっている「ただ、神様を心から信じる」とはどういうことか、詳しくお話いただければ、うれしいのですが・・・

メッセージ015■AC

> この話の中の、傘を持ってきたおばあさんの信仰と、
> 傘を持ってこなかった信者さんたちの信仰とについて
> みなさんのご意見をお伺いしたいのです。
> ちなみに、その牧師さんは、
> 傘を持ってこなかった信者さんたちを
> 「不信仰」だとおっしゃいました。

あかぎまんさん、こんにちは。

この実話を読んで、なぜかほのぼのとしたものを感じました。可愛いおばあちゃんですね。
傘を持ってこなかったから不信仰と言い切るのはどうもね。外側だけを見ればそういう見方もあるのでしょうが・・・
おばあさんは、祈る前から雨が降ると信じていた。他の人は、祈ったら雨が降ると信じていた。その違いでしょうね。

ただ、この実話を例に挙げた牧師さんは、別の角度から強調したい部分があって持ち出したのではないかとも考えられるので、私のコメント自体も的はずれかも知れません。(~_~)

祈りは、呼吸に似ていて、意識しなくても声に出さなくても時間を決めなくても、自然に出てくるものです。
また、祈りは神様との対話のようなものですから、祈り方や祈る人によって聞かれたり聞かれなかったりということも、またないでしょうね。
親が、かたことの子供の言っていることも聞き分けられるのと同じようにね。

さて、ここのテーマである「願い事はかなうの」ですが、神様と私たちの関係は、親子の関係(人格関係)に似ていますから、それに照らし合わせてみると少し見えてくるかな。
一般的には、ほとんど子供の願い事は通らないことの方が多いようです。
親はなぜ子供の願い事を簡単には通してくれないのかを考えれば分かるでしょ?
もちろん、私たちが子供に接するのと全く同じレベルで、神様が私たちに接していると、私は考えていませんが・・・・
つまり、完全な親はいませんから、例としての雛形がないという意味です。

> LMさん、お返事ありがとうございます。
> ただ、あなたのおっしゃってることは、よくわかりません。
> 「神様を試す」とは、どういうことでしょうか?

この言葉は、聖書からの引用でしょう。
イエスさまが悪魔の試み(誘惑)をうけられたとき、神殿の屋根の端に立たせて、ここから飛び降りても天使たちが支えてくれると悪魔がそそのかしたのですが、そのとき、イエスさまは旧約聖書「申命記」6章16節を引用されて、「あなたの神である主を試(ため)してはならない」と言われた。というところです。

どうやら、願いも祈りも結局は「私たちの動機が何であるのか」によって、かなえられたり、そうでなかったりするようです。

> 親子としてつきあううち、その人が自分を愛し、親として真実をもって
> 対応し続けてくれれば、心はとかされ、親として信頼し、愛するようになるでしょう。

まったく、その通りですね。神様を「父」としてつきあってみて下さい。
真実を持って対応し続けて下さるかどうかは自ずと分かるはずです。
ただね、この人があなたの親ですよと聞かされた子供の方が、たとえどんなに愛されようとも心を開かなければ成り立たないことですが・・・

> 疑いが起こるような出来事があると、どうやって、信頼する心が生まれてくるでしょうか。
> 神様は人格神で全能だとしたら、そして、祈りが神との会話だとしたら、
> どうして神様は人間の祈りにはっきりとした返事をくれないのですか?
> 神様の方こそ、人間の反応を試しているのではないですか?

きょーーーれつですね。
会話をすれば、返事はしてくれますよ。会話をすれば・・・ですよ。

私の友人が具合が悪くて(腹痛)体をまるめているところに、一番下の5才の女の子が来て「おとうさん、どうしたの」と心配してくれたそうです。
友人は、「お腹が痛いんだ!」
女の子は、「お腹痛いのが治るように私が神様に祈ってあげる」と言って祈ってくれたそうです。
友人はあてにもしなかったのですが、痛がっている傍らで祈ったその祈りは、食事の時の感謝の祈りだったそうです。
でもその時、痛みはスーと消えてしまったのです。
これが、神様との会話です。「私たちの動機が何で、どこにあるのか」ということかな。

もちろん、私とイエスさまとの会話は、いつも私の動機が不純なので・・・なんですが、私を愛してくれていることは感じるんですよ。なぜかな。

メッセージ016■あかぎまん

ACさん、ご意見ありがとうございます。

ただ、このテーマについては、あまり盛り上がらないみたいなので、そろそろ終わりにしようと思っています。
そこで、今回は、ちょっと長いですが、私の今思うところを述べてみたいと思います。
クリスチャンの方々には、気に障ることもあると思いますが、愚か者の戯言と思って、ご容赦ください。

> 一般的には、ほとんど子供の願い事は通らないことの方が多いようです。
> 親はなぜ子供の願い事を簡単には通してくれないのかを考えれば分かるでしょ?

それは、わからないでもないですが、普通の親なら、なぜ願い事がかなえられなかったかを、子どもにちゃんと説明すると思います。
神様の場合は、はっきりとした説明がありませんから、何が悪かったのかを人間が自分で見つけなければなりません。
自分にわからない自分の落ち度を、あれかこれかと探して、これだろうと思うところを改善して、もう一度願い事をしてみて、また叶えられないので、また自分にわからない自分の落ち度を探して・・・
まあ、普通、こんなことが長続きするはずがありません。
私が見てきたクリスチャンのみなさんも、こんなことはしておられませんでした。

私が以前通ったことのある教会で、伝道集会がもたれることになりました。
信者さんたちはそれぞれ、家族や友人など、集会に来てほしい人10名の名前を挙げてお祈りしていました。
「ひとりでも多くの方が集会に来ますように」と、切なる祈りが連日捧げられていました。
で、私にはひとつ気になることがありました。
それは、もしもその願いが叶えられたら、とうていその人たちを会堂には収容しきれないということです。
いったいどうするのだろうと私ははらはらしていましたが、そんな心配など全く必要なかったのです。
つまり、願い事は叶えられず、集会は空席があるほどだったのです。
そして、信者さんたちもそのことに何の関心もないようでした。
もちろん、願い事が叶えられなかったことについて、原因追及とか、反省会とかも全然ありませんでした。

クリスチャンのみなさんは、願い事は願い事、そして結果は結果と、区別してとらえているようですね。
両者の間には、直接的なつながりはないようです。
ですから、雨乞いのための祈祷会は祈祷会で、その後に天気がどうなるか、ということとはまた別のことなのであり、
また、10人が集会に来るように願ってはいますが、それがどうなるか、ということには関心がないのです。
ですから、願い事とその結果を直結させて考えていたおばあさんや私は、
よく言えば素朴で純粋でほのぼのとして可愛い、
わるく言えば幼くて単純で考えが浅く世間知らずということになります。
雨乞い祈祷会の話を語った牧師さんも、祈祷会の後天気がどうなったか、ということは少しも話してくれませんでした。
まあ、考えてみれば、それは当然のことかも知れません。
願い事をするということが、現状を変えるためではなく、現状を受け入れるためにしているわけですから。
とにかく祈ること、そして後は神の最善を信じる・・・これが極意ですよね。
要するに、これは一種の精神修養であるようです。
現実を最善として受け入れる・・・大した修行です。
自分の願望を押しつけず、答えを期待しないことは、一見、物わかりがいいように見えますが、それは、生きて働く神様を、石や木でできたものと同じものと考えていることにならないでしょうか。
ま、いわゆる「宗教」とは、そういうものだとは思いますが・・・

また、『思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。』(ペトロの手紙 一 5章7節)
ということば通り、クリスチャンは、自分の思い煩いを委ね、自分の迷いを断ち切ろうとして祈っているようです。
ですから、「この件につきましては、すべて神様にお任せいたしました。人間は有限で愚かですからどんなに頑張ってもたかが知れているし、かえって事態を悪くしかねません。その点、神様は全知全能にして最善をなさる方ですので、神様にお任せすればもう安心です。」
というわけですよね?
そこで、願い事の最後には、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈ります。
または、そういう気持ちで祈ります。
これは、イエス様のゲツセマネの祈りをまねたものでしょうが、私には、ゲツセマネの祈りとは全然違うものと思えて仕方ありません。
というのは、イエス様は御父の御心が何であるかということをはっきり知っていたからです。
この件については、イエス様は幼い頃から聖書の預言を学び、弟子たちに何度も語り、変貌の山ではモーセやエリヤとともに語り合っています。
御心は、自分が十字架で死ぬことだとはっきり知っていました。
そして、血の汗を流すほど苦しみ抜いた末、「御心のままに行ってください」・・・つまり、「私は死にます」・・・と祈っているのです。
ところが、クリスチャンの方々は、祈りの課題について、神様の御心が何であるかを知りません。知らないでお任せしているのです。
「ただ、神様を心から信じることです。」というのは、おそらくこういうことでしょう。

最後にもう一言だけ。
祈りが神様との「会話」だとか「対話」だとかいうのは、私にはどうしても納得いきません。
「会話」「対話」という言葉は、目の前にいる誰かと、お互いに言葉を交わし合っているという印象が強いからです。そうではないですか?
クリスチャンのみなさんによると、祈りの返事はすぐにはわからなくて、何年も、かなりかかる場合も多い、または、ない場合もあるということですから、これでは「会話」「対話」とはいえません。
ある牧師さんは、「祈りとは、神様との直通電話です。」とおっしゃいました。
相手が見えないという点では、電話のたとえは当を得ていると思いますが、電話でも、会話や対話は成り立つわけですから、これもちょっとおかしい。
そこで、私が今考えつくたとえは、「留守番電話」です。
クリスチャンのみなさんは、神様の留守電にメッセージを入れておられますが、返事があるのかないのか、いや、メッセージを聞いてもらえているかどうかさえわかりません(これはちょっと言い過ぎかなあ?失礼)。
まあ、返事は期待しておられないのですから、どっちでもいいことですかね・・・

昔、こんなことを言った人がいますよね・・・『もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。』

メッセージ017■RB

こんにちは!あかぎまんさん!

> LMさんのおっしゃっている
> 「ただ、神様を心から信じる」とはどういうことか、
> 詳しくお話いただければ、うれしいのですが・・・

私は、お寺育ちで、聖書よりも、仏教の方が詳しいです^^;(勉強中です。)
いつも、お寺で「善男善女」と言われていたのに、急に教会では「私たちは罪人です!」になってしまうのだから、びっくりです。

初めて教会に行ったとき、歌手の方が言われた言葉が耳に残っています。
「私がイエス・キリストに出会ったのは、25才のときでした。」

キリストに出会う。意味は全然分からなかったです。
変なこと言う人だな、と思っていました。

あかぎまんさん。私も「神様を信じる」なんて分かりませんでした。
仏教には、神様がいないからです。
でも、今は信じています。逆に考えたんです。

「自分は、なぜ、教会にいったのか?」

あかぎまんさんも、「なぜ、教会に行ったのか?」
どうして、いっぱいキリスト教に疑問をもっているのか、
どうして、「願い事はかなうの・・・?」とタイトルをつけたのか、
そして、その願い事はなんなのか、ぼんやり、思いをはせてみてはいかがでしょうか?

線が見えてくるかも、かも、しれませんよ。(^^)

メッセージ018■あかぎまん

RBさん、ご意見ありがとうございます。

ただ、ちょっとお尋ねしたいのですが、この『Re:願い事は叶うの・・・?』の016番目のメッセージは読んで頂いてますか?
015番目のACさんへのメッセージの返事として書いたので、間に入ってしまいましたが、私のメッセージとしては最新のものです。
もし読んでおられないなら・・・まあ、読んでもあんまり面白くはないと思いますが、よろしければ、読んでみてください。