「自己満足スパイラル」(2002年2月)


悲しみの中にある人に、何ができますか? むずかしいですよね。
これは、ある友人にあてたメールの抜粋です。

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どう言えばいいのかわからないけど、悲しみや苦しみの中にある人に、どのような言葉もかけられないと感じてしまうのです。

ただ、それでは気持ちは伝わらないし、それは自己欺瞞だし、そしてただ自分の都合だけなんだと責められる気がして、そしてそう考えていること自体がまたもや自己欺瞞で、それはとりもなおさず、僕の愛のなさなのだとまた責められるわけで、そういうぐるぐるまわる自己満足スパイラルを何とか脱出したいと思いつつ、敗北を続ける人生です。意味不明?

さて、高校の頃きいたのですが、宮沢賢治の話で、こんなのがありました。
彼が農学校で教師をやっていたある日、生徒たちに質問しました。
「人は何のために生きていると思いますか?」
生徒たちは「働くため」とか「楽しむため」とか、いろいろ言いますが、満足いく答えを見つけられなくて、そのうち黙ってしまいます。
すると賢治はこう言ったそうです。
「それを見つけるために生きている。」

高校生だった僕は、それでは答えになってない、と思いました。
さすがの賢治もごまかしてるやん、と思いました。

でも、歳をとるにつれ、だんだんと賢治の言い分が分かるようになってきました。
何のために生きてる?ってきかれて、「はい、私は○○のために生きてます」とか、あるいは、「人間は○○のために生きてます」なんて、そうそう簡単に言えるようなことじゃないんだって。

「それを見つけるために生きてる。」と言った賢治は、ぼくのようにそれを自分に問いかけることをやめて漫然と生きているんじゃなくて、いつも自分に問い続け、自分の根本的な問題として考え続けていたんだって。

ある意味、「宗教」はその問いに対する答えを持っているように思われています。
ぼく自身もそれを期待してキリスト教に傾倒しました。でも、追究すればするほど、そんなお手軽なもんじゃないってことがわかってきます。
もちろん、教会のマニュアル的な答えは僕も知っていますし、それを全ての人に当てはめようとする信者たちもたくさんいます。

でも、よ〜く聖書を読んでみると、人間は何のために生きてるかなんて、どこにも書いてないし、イエスさまもそんなことは言いませんでした。
ただ、神さまが味方になってくれるということは書いてあります。ぼくは、それが救いということの本質だと信じているのです。

聖書にこういうお話があります。

『イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。
イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
主はその母親を見て、かわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。』

僕はこの話を読むと、どう表現すればいいのかわからないけど、すごく周期が長くて重みのある波動が心の奥に起こります。
この話の「母親」は、夫を亡くして「やもめ」となり、また今度はそのひとり息子を亡くしてしまったのです。そんな、悲しみのどん底にある人にどんな言葉がかけられます? もうもう、何にも言えないってところですよね。でも、その人にむかってイエスさまは「泣かなくてもよい。」と言ったのです。

ふつう、こんなこと言いますか? とても言えませんよね。
でもイエスさまはそれを言いました。言えました。
それは、イエスさまは死んだ息子を実際に生き返らせることができるからだし、涙を笑いに変え、悲しみを喜びに変えることを現実にできる方だからだと思います。

でも、イエスさまがやもめの息子を生き返らせたのは、奇蹟を見せびらかすためでも、自分がほめられたいからでもなく、『その母親を見て、かわいそうに思い』、生き返らせたのです。
この『かわいそう』ということばは、原語では、はらわたをかき回されるような深い同情を表すことばだそうです。
イエスさまは、ただもう、いてもたってもいられなくなって、そうしたのです。自分にできることをしてやりたいって思ったんでしょう。
神さまが味方になってくれるとはそういうことなのです。

じゃあ、人間には何ができるんでしょう?
イエスさまは奇跡を行う力があるし、実際に絶望を希望に変えることができる。では、ただの人間は?
ぼくは、こう思うことがあるのです。イエスさまがただの人間だったら、いったいどうしただろうって。

「慰め主」っていうタイトルの絵があるんだそうです。その絵には、戦争で夫を亡くした母親とふたりの子どもが、遺品を前に泣いているところが描かれています。
そしてよく見るとその母親と子どもの肩に手が置かれていて、三人の背後にイエスさまと思われる人物の影があって、彼も深い悲しみに沈んだ顔をしているそうです。