あのザアカイさんはホントウ

極悪非道の人非人だったか!?

− 前 編 −


背が低くて、いちじく桑に登った人といえば、おそらくクリスチャンの大半の人が、ああ、あの人だと思いあたるであろうほどにポピュラーなのが、あのザアカイさんです。なぜこんなにもポピュラーなのかと考えてみますと、やはり伝道メッセージや寸劇などでたびたびとりあげられているからだと思います。

ですから、クリスチャンをしばらくやっていれば、ルカ19:1〜10なんて聖書箇所はもうおなじみ、何度も読んだ、何度も聞かされた、ということになります。これは、このルカ19:1〜10、そしてザアカイさんという人物が、聖書の中でメッセージしやすい箇所のひとつ、メッセージしやすい人物のひとりであるからでしょう。

かく言う私自身も、この箇所やザアカイさんについては相当な”おなじみ”のひとりだったのですが、以前から私には、ひとつの疑問点というか、ひっかかるところがありました。それがタイトルにも書いた通り、ザアカイさんは本当に極悪非道の人非人だったのだろうか? ということです。

聖書を見てみますと、ザアカイさんはこの10節ほどの短い箇所に登場するのみで、ここから彼についてわかることは、エリコの住民で、取税人のかしらで、金持ちで、背が低かったこと、イエスに興味をもったこと、また、エリコの住人たちから罪人の汚名をきせられていたこと、などです。
これらのヒントからメッセンジャーはザアカイという人についてあれこれ想像をめぐらします。皆様も一度はお聞きになっているでしょう。

たとえば ── ザアカイは背が低かったから、おそらくチビとか短足などとバカにされたことだろう。おそらく彼はそのくやしさのあまり、そういう人たちを見かえしてやろうとして、あえて取税人になって金をもうけ、かしらの地位を手に入れたのだろう。そしてますます他の人たちに憎まれるようになった彼は、孤独であり、物質的には充足していても心はむなしい、淋しい人生だったのだろう。そこにイエスがやって来た。体格も小さい、つまり腕力もないであろうザアカイが、おそらくは彼を心底憎んでいて八つ裂きにしても足りないと思っている輩もいるであろう群衆の中に入っていったということは、ザアカイのイエスに対する関心のもち方が、単なる興味本位では片付けられないものであったことを示している。おそらく彼はイエスについての噂、とくにイエスが罪人、取税人や遊女といわれるような、他人からさげすまれ憎まれているような人々に対して示した愛について聞き及んでおり、ザアカイは心の奥底でそれを求めていたからであろう。etc.etc. ──

以前、私自身が主役ザアカイを演じた寸劇でも、彼は町一番の大金持ちでありながら、血も涙もない税金とりたてをし、夜ごとに薄暗いランプの下でその勘定をして、増えていく財産にほくそえむ・・・という、ディケンズのクリスマス・カロルのスクルージなど足元にも及ばない、まさに極悪非道の人非人として性格づけられていました。

しかし、ちょっと待っていただきたい。はたして本当にそうなのでしょうか?
メッセージや劇のたびに人でなしにされてしまって、もしかしたら今ごろ天国で頭にきてるかもしれないザアカイさんにかわって、私は少し彼の弁護をしてみようと思います。
そこで、彼が極悪人であると判断される証拠となる聖書の記述について、ここで再検討してみましょう。

まず第一に、”取税人のかしら”であった(2節)ということです。

クリスチャンたちには、取税人=守銭奴という固定観念があるようですが、これはどうかと思います。
取税人の採用は入札形式がふつうだった ── つまり実体をいえば、取税人の資格は金で買うものだった ── ようですから、取税人になるためにはある程度の財力が必要だったわけです。
取税人として採用された人は、下請けに仕事をまわしたり、集金人を雇ったりして実務にあたらせていましたが、その諸経費はローマが出してくれるわけではなかったので、いきおい、取り立てる税金もローマの税額以上のものとなったようです。

つまり、もともと裕福であって、実務をきりもりするだけの頭脳と才覚をもった人物が、その財産をふやすために最も確実なゆるぎないローマに雇ってもらって、そのチャンスを手にしたわけです。金もうけをするのは当然のことではないでしょうか。しかも正当な仕事です。
もちろん、職権を濫用して私腹を肥やす輩も多かったようですが、それだからといって、ザアカイさんが鬼のような顔をして病人のふとんをむしり取っていった、ということにはならないのではないでしょうか。

第二に、ザアカイさんが人々に”罪人”と呼ばれていた(7節)ことです。

これにはおそらく、ふたつの意味があると思います。

ひとつは政治的な意味です。
というのは、取税人はユダヤの公共事業や宗教職に従事することができませんでした。法廷での証言さえできなかったのですから、つまり社会的にも宗教的にもまともな一人前としては認められなかったのです。

ふたつめは住民感情というやつで、平たく言えば”貧乏人のやっかみ”です。
エリコの町の人々にとってザアカイさんは、ローマの手先になり、同胞からまきあげた金でのうのうと暮らす裏切り者であったわけで、おまけに金持ちで有名人となれば、非難の矢面に立たされるのは当然でありましょう。人々はそうすることで自分の精神のバランスを保とうとします。

つまりこれは、単に政治的、感情的なものであって、ザアカイさん自身が人でなしかどうかということとは関係ない、と言えるのです。

もちろん、たとえばユダヤ人には財産を持っている者は貧しい同胞に救済の手をのべる義務がありました。しかし、社会的にも宗教的にも除け者にし、感情的にも村八分にしておきながら、施しだけを求めるとしたら、エリコの人々こそ人でなしといえるのではないでしょうか。

第三に ── これが最も確実な証拠といわれているのですが ── ザアカイさん自身がイエスさまに対して”だまし取った物”があると証言していること(8節)です。やっぱりザアカイさんも豊田商事や地上げ屋さんみたいな(?)人でなしだったのでしょうか。

しかし考えてみますと、人間をやっていて「私は盗みをしたことがない!」と神の前で胸をはれる人がはたしているのでしょうか? 自らはどうしようもない罪人で、心に計ることはつねに悪であると証言してやまないクリスチャンの方々なら、この答は明白でありましょう。つまり問題は、どれほど盗んだかという、相対、比較の問題なのです。

ザアカイさんは金持ちで、取税人のかしらで、頭もよかったわけですから、多額な金をだまし取るチャンスはたくさんあったと考えられます。しかし私は、ザアカイさんの場合どんなに多く見積もっても彼の財産の8分の1を超えないだろうと考えます。
というのは、8節を見ると、彼がその財産の半分を施しに用い、まただまし取った物を四倍で返す、と言っているからです。彼が頭のいい計算のできる人とすれば、もともと無理な約束をしないでしょうから、このことで彼が無一文になると考えても財産の8分の1。私の気持ちとしては、もっと少なかったのではないかという気もします。そして、その当時の取税人としては、もしかしたら比較的善人の部類なのではなかったろうかと思うのです。

さて、このように私はザアカイさんの弁護をしてきたわけですが、だからと言って私は、なんとしてもザアカイさんは人でなしではなかったと主張したいわけではないのです。そんなことは今となってはわからないことです。極悪人であったかもしれないし、普通の人であったかもしれません。
ではなぜ、長々とこんなことを書いたのかと申しますと、それは、メッセンジャーがザアカイさんを人でなしとして語ることが問題なのだ、と言いたいのです。

なぜザアカイさんは極悪非道の人非人として語られるのか? それは、その方が人間的な意味でわかりやすいからで、つまりもっと不謹慎な言い方をすれば、その方がおもしろいじゃないかというわけなのです。
普通一般の人がクリスチャンになるより、豊田商事の会長がクリスチャンになって破産覚悟でお金を返し、被害者に謝罪してまわる方が、劇的でおもしろくまたわかりやすいというわけなのです。

そのためザアカイさんは、もしかしたら普通の人であるかもしれないのにあえて極悪な人でなしに仕立てあげられ、こんな守銭奴がキリストに出会って回心し善人になった、キリストはすばらしい、という、いわばメッセージの「だし」にされるわけです。

ですから、『ザアカイという名前は、きよく正しいという意味であり、彼の両親はそういう人になるようにと願って名付けただろうに、ザアカイはお金がすべてだ、という人になってしまって両親を悲しませただろう』とか、『彼は背が低くて周りの人からバカにされそのコンプレックスをはねかえすためにお金をため、地位を得て、バカにしていた人たちを見かえし、仕返しすることができたけれど、心の中はいつもむなしく、悲しく、孤独であったろう』とか、『見も知らぬはずのイエスからいきなり、「ザアカイ」と、淋しい心にしみわたるやさしい声で呼ばれて、驚きとともに、全てを知りたもう神の存在とその愛にふれ、まさにそのザアカイという名の通り、きよく正しい生涯へと変えられた』とか、そういう種類のことは、すべて想像の産物であり、劇的でわかりやすい、いわばメッセージのきかせどころ泣かせどころにしかすぎない、というわけです。

ではなぜ劇的でわかりやすくすることに私はこんなにこだわっているのでしょうか?
それは、そうすることであたかもザアカイさんは、コンプレックスをもち悲しく孤独で、悩みも深かったから救われたのだという印象を与える危険が大きいと思われるからです。

私が中学・高校生のカウンセラーをしていた頃、その中でもうすでにクリスチャンであった人たちからよくもちかけられた相談は、「救いの確信がない」ということでした。
たまたま、幼い頃から日曜学校に通ったりしてキリスト教にふれてきた人たちが多かったのですが、彼らが言うには『例えば赤木さんならば、高校のころいろいろ悩んで、そして1977年3月13日に救われたと言えるわけで、それまではキリスト教に全く関係ない生活だったのに、それからはキリスト教一辺倒の生活になったことで、クリスチャンになったことがはっきりしている。でも自分たちは、別に大きな悩みとか、人生の壁とかにぶつかって、そこから救われた、みたいなこともないし、いつ決心したかもはっきりしないし、決心はしたけれど生活の変化はない、あいかわらず以前のままだし、教会も聖書もお祈りも習慣になってるから、”ほんとうにクリスチャンか”と問いつめられたら、何かあいまいな気持ちになってしまう』というのです。

なぜ彼らが「救いの確信」についてこんなことを感じてしまうのかというと、それは、キリスト教界ではすばらしい救いのあかし、劇的な回心が喜ばれ、ちやほやされるという現象があり、あたかもこれこそが本当の救い、本物のクリスチャンであるかのような印象でとらえられている、という事情があるからです。

・・・万引きしたことから、優等生と信じていた自分が罪人であると知り、深く悩み、自殺まで考えたが、そのようなどうしようもない自分をそのまま愛し、救って下さるキリストを涙ながらに信じ、喜びと平安にみたされ、両親に勘当され、無一文から伝道を始めたが、神に養われ、その愛の中を歩んできた・・・そういう類の劇的でわかりやすい確信に満ちたあかしを聞くたびに「救いの確信」に悩む中高生たちは不安に陥ってきたのでした。

また、クリスチャンでない人たちにしても、「やっぱり、ああいうふうに人生についてマジメに悩んで自分をつきつめて考え、人生の壁にぶちあたったような人がクリスチャンになるんですね。私はそんなにマジメに悩んだことないし、今の人生に適当に満足しているから、クリスチャンにはなれそうもないです(し、なりたくもないです。)」などという感想をもったりするのです。

クリスチャンたちのよく言うことですが、人間は何か善行や難行苦行や律法的行為をしたから救われるのではありません。
しかし同時に、人間は何か悪行をし、悩みに陥り、挫折し、自殺しかけたから、また、孤独で淋しかったから救われるのでもありません。

では、「救い」とは何なのでしょうか? 「救いの確信」とはどのようにもつことができるのでしょうか?

次回の”後編”では、このことを考えてみたいと思います。私はまずザアカイさんのことから始めるつもりです。
読者の皆様も考えてみて下さい。ザアカイさんはなぜ救われたのでしょうか? ザアカイさんは救いの確信をもてるのでしょうか? もてるとしたら、どのようにしてもつのでしょうか?

そしてこのことは、現在の私たちに、いったい何を語りかけるのでしょうか。