王様の一章

マタイの福音書 六章


「あなたのおことばどおり、この身になりますように」とマリヤはガブリエルに答えました。(ルカ1:38)

婚約期間中の姦通は石打ちの刑ですから(申命22:23,24)、もしも本当に「おことばどおりこの身に」なったら、マリヤは死ななければならなかったのです。そのことを知っていたはずなのに、それでもマリヤは「おことばどおり、この身になりますように」と答えました。

「あなたのみこころのように、なさってください」とイエスさまはゲツセマネで祈りました。(マタイ26:39)

父のみこころとは、十字架のことでしたから、もしも本当に「みこころのように」なってしまったら、イエスさまは父との交わりを絶たれ、十字架で死ななければならなかったのです。そのことを、だれよりもはっきり知っていたはずなのに、それでもイエスさまは「みこころのようになさってください」と祈りました。

「みこころが・・・地でも行なわれますように」と主の祈りは唱えられます。(10節)

地でも・・・つまり、主の祈りを唱える人の地上の今の生活にも・・・です。神のみこころは、天や聖書の中や教会や日曜日だけのものでなく、その人の現実の中に切り込んでくる剣なのです。
しかも神のみこころは、その人にとって最悪の状態を招くものかもしれないのです。”神のみこころは人間にとって最善である”などと、のんきに構えられないものであるのです。

もしも本当に「みこころが行なわれ」たら、その人はどうなるのでしょうか。マリヤは死を覚悟し、イエスさまは実際に死なれました。主の祈りを唱える人は、一体何を覚悟し、何を捨て、そして何を得ていくのか、そのことをはっきり知っているでしょうか。
そして、はっきり知った上で、なおも「みこころが・・・地でも行なわれますように」と唱えることができるでしょうか。

次回は「マタイの福音書 7章」