バイブルミステリー

??? マタイの福音書 11章28節 の謎 ???


まず、ある教会が近隣の家々に配ったトラクトの中のメッセージを見て下さい。「・・・・・・」は省略した部分です。

『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

               イエス・キリスト

@ 今、何が人間を襲っているか
  文明は極度に高度化し、人が大地を耕し、種を蒔き、四季に合せてその成長を待つ。と言ったゆったりした時代はもう失せ去りました。
他よりも、より早く、より安く、より多く、より良い物を生産し、販売し、より高い利潤が追求される時代です。
そのために、技術者たちはマッハの世界を駆け巡り、ミクロの世界でしのぎを削る。
当然ながら神経はすりへらされ、緊張は極に達し、人間性は情け容赦もなくむしばまれ、人は考える葦であるより、考えないロボットであることが要求されます。
A 人間はロボットになりきれるか
  ・・・・・・人類は必死になって物質文明を追ってきました。・・・・・・高級家具に満ちた立派な邸宅、ピカピカの食器、飽食と残飯の山、そして、そこにある非信と非愛、断絶と対立と反目の家族、疲労、困ぱい、衰弱、喪失の自己、豊かさとはいったいなんだったのでしょう。・・・・・・
B いやしの場としての教会
  ・・・・・・イエスは、町々、村々を巡って、「教え」「宣べ伝え」「直された。」これこそ・・・・・・教会のヴィジョンです。私たちは、今の社会のあらゆるひずみと、あつれきに傷つき疲れて、肉体的にも、精神的にも、心理的にもいやしと、解放と、休息と、救いを必要とする人にご奉仕できる教会となりたいと願っています。
これこそ傷ついた現代社会の最も大きな必要であり、急務であると信ずるからです。・・・・・・』

よく見られる種類のメッセージだと思います。現代物質文明社会における人間性の喪失、人間関係の崩壊、肉体的、精神的疲労、そしてそんな現代人へのキリストの呼びかけのことばとしてのマタイ11:28。

しかし、ちょっと待っていただきたい。この聖句は本当に現代社会の疲れた文明人に対する呼びかけなのでしょうか?

というのは、キリストがこのことばを語ったのは2000年前のおそらくイスラエルの片田舎であって ── もしかしたら、トラクトの語る”人が大地を耕し、種を蒔き、四季に合せてその成長を待つ。と言ったゆったりした時代”だったのかもしれませんね ── キリストの周りにいたのはユダヤ人、このマタイの福音書もユダヤ人のための福音書・・・と考えると私には、はたと思いあたる聖句があります。同じマタイ23:4。ルカ11:46の方を書きます。

「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない重荷を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。」

おそらく”重荷”とは、ユダヤ教の律法主義的戒律のことで、ユダヤ人たちの宗教生活はその重荷のために息も絶え絶えだったのではないか、そしてキリストはそういう人たちに呼びかけ、律法主義的な重いくびきではなく、キリストの負いやすいくびき、軽い荷を負わせ、やすらぎを与えようとしておられるのではないか、と思います。

といっても、「主を待ち望む者は新しく力を得・・・」(イザヤ40:31)ですし、「主は人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」(箴16:7)ですから、マタイ11:28を用いて、信者でない現代の疲れた文明人がキリストのもとに行けば、肉体も精神も強められ、人間関係も回復され、心安らかにされるといっても、たいしたウソではないとも思います。ただし、続く29,30節の”キリストのくびき”をいったいどのように解説するのかは、あまりよく知りませんが・・・

ところで、現代の教会用語にも『重荷』ということばがあります。
といっても、「私は教会学校の重荷を負っています。」とか「海外宣教に重荷をもっています。」という使われ方であって、深い意味のない単なる慣用句なのだろうと思われます。

しかし、クリスチャンがユダヤ教ならぬキリスト教の律法主義に疲れ果てたり、教会生活や奉仕が本当に”重荷”となってしまうことがままあるもので、マタイ11:28は、そういう現代の疲れた教会人に対する呼びかけと、とる方がうまくあてはめられるのではないかと思ったりします。

まあ、とにかくこの聖句も、前回の黙3:20と同様に、伝道専用聖句になっているのは、ひとつのミステリーといえるのではないでしょうか。