王様の一章

マタイの福音書 五章

私は山上の説教をあまり真剣には読みません。それはなぜかをお話しましょう。

山上の説教の構造は非常にカンタンです。
まず、マタイ5:3〜16で「あなたがたは地の塩、世の光だから、その良い行ないで人々が父をあがめるようにせよ。」といいます。そして、その良い行ないの具体例を5:17〜7:12で説明し、それを行なうか行なわないかでさばかれることが結論の7:13〜27で語られます。
さて、5:17〜7:12は律法と預言者の成就であり、それが7:12でまとめられていますが、今回の第五章では20節にあるように「律法学者やパリサイ人の義」(21,27,31,33,38,43節)と、「それにまさる義」の対比という図式で語られています。

さて、キリストの語る「それにまさる義」の具体例は、私にとって非常にレベルの高いものです。
ある人は、あまりのレベルの高さに「これは理想像だ」とか「これは十戒みたいなもので、神のレベルを示して人間に罪を悟らせ、十字架の贖いに目を向けさせるためのものだ」と言います。たしかに”情欲をいだいて女を見る者は・・・”などは、そういう用いられ方をしています。
しかし、私にはどうしてもそうとは思えないのです。

というのは、20節に「もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国にはいれません。」とあるからです。
つまり「まさる義」の具体例は、”理想像”ではなく、天国に入る者の”ノーマル像”として語られていると思われるのです。

これは山上の説教全体に通じる原則です。実際に行なう者こそ地の塩、世の光であり、洪水にも風にも倒れない家をたてる人であり、それが天国に入る者のノーマルな姿なのです。
ですから私は山上の説教を真剣に読まず、軽くさっと流すように読みます。皆様はどのように山上の説教を読みますか?

次回は「マタイの福音書 6章」