教会用語の基礎知識・・・番外編

誰も書かなかった キリスト教 隠れ正統派


『ある地方で、ひどい日照りが続いていた。
そこで、その地方にある教会では、雨乞いのための特別祈祷会をもつこととなった。
祈祷会当日、教会に集まった信者たちの中に、ひとり、傘をもってきたおばあさんがいた。
他の信者たちは変に思っておばあさんに尋ねた。
「なぜ、こんなカンカン照りなのに傘など持ってきたのですか?」
すると、そのおばあさんは答えた。
「私たちは雨をふらせて下さいと祈るために集まったのでしょう? あなたがたこそ傘の準備がなくて、雨の中をどうやって家に帰るおつもりですか?」』

これはメッセージなどで聞いた例話ですが、実は実際にあった話なのだそうです。
メッセージの中では、雨乞い祈祷会に傘を持ってこなかった人たちは”不信仰”の一言で片付けられてしまいましたが、私にはそのような単純な問題とは思えないのです。

というのは、もし本当に神を信じていなかったり、祈りはきかれないなどと思っていたのであれば、はじめから雨乞い祈祷会には来ないはずだからです。では、傘を持ってこなかった人たちは一体何をどう思って祈祷会にやってきたのでしょうか? 読者の皆様はどう思われますか?

ここに、私の言おうとしている”隠れ正統派”の信仰があります。
この信仰は、これまで本来の正統派の陰にいて注目もされず、それどころか、上述の例話のように「不信仰」とか、あるいは「誤解」「認識不足」などとして簡単に切り捨てられ、表面に出てこなかった隠れた信仰なのです。

さて、ではこの問題について、隠れ正統派のふたつの特徴を通して説明してまいりましょう。

(A) 隠れ正統派は自らを、小さな弱い薪であると心得ている

教会生活の重要さを説明する際、しばしばこういう例がひかれます。
『薪は何本も一緒にしておけばよく燃えるが、一本だけを冷たい所におけばすぐ消えてしまう。』

これはクリスチャンの生活をたとえています。
薪とはクリスチャンのことで、彼には信仰という火が燃えています。そういう人たちが一緒に集まっていれば、ますます信仰の火は燃え上がり消えることはないけれども、もし一人だけでキリスト教信仰と関係のない世の中にいて、他のクリスチャンたちと交わらずにいたら、たちまち信仰の火は消えてしまう、だから積極的に教会に集まるようにしましょう、という意味なのです。

隠れ正統派にとって、これは非常に重要な真理です。彼らは自分が、このたとえ通りの一本の薪であって、しかも薪の中でも小さな、火の弱い薪であると心得ています。ですから彼らは、自分の小さな弱い火を消さないようにと教会に集まるのです。
「私みたいに信仰の薄い者は、一週間もキリスト教と関係のない世の中にいると、ますます信仰は弱くなり、まさに消えかからんばかりになってしまいます。このような私が、なんとかクリスチャンを続けていけるのは、教会に行って神さまを礼拝し、兄弟姉妹の皆様とお交わりさせていただいて、もう一度信仰の火を強められているからです。」というのが、彼ら隠れ正統派の心情です。

つまり彼らは、日曜日に他の薪たちの強い火勢にあずかって自分の火勢を強めておき、その勢いで一週間を乗り切るのです。月曜火曜などはまだ大丈夫でしょうが、木曜金曜になると火は弱くなり、土曜になるともう消えかかり、待ちこがれた日曜日に、再び他の薪たちの強い火勢にあずかるために教会に行く、というわけです。

そういうわけですから、彼らは週の半ばの集会にもできるだけ参加しようとしますし、また、教会で特別の集会をするとなると、喜んで出席するように努力するのです。
彼らにとっては教会の集会とは、その主旨内容や目的などはともかくとして、オリンピックではありませんが、とにかく”参加することに意義がある”のです。

ですから、「雨乞い祈祷会をする」と聞いて、たとえば家を出る前にふと空を見上げ、「雨乞いをするといってたけど、こんなにカンカン照りで天気予報も雨などふらないと言っていたのに、私たちが祈ったからといって本当に雨がふるのだろうか? いや、こんな疑いは禁物だ。神さまにはできないことはないのだから・・・」などというふうに、集会の主旨や、自分たちが何をしようとしているのかなどを考えていれば、傘をもっていこうかという考えもおこる可能性があるというものですが、実際には、ただ単に教会の集会に参加するとだけ考えていたのですから、傘にまで思いが及ばないのは当然のことです。

彼らはおそらく、おばあさんに言われてはじめて、この集会が雨乞いをするための祈祷会だと気づいたのではないでしょうか。

(B) 隠れ正統派の信仰は、内面的、霊的である

さて、では彼らは”祈り”についてはどのように考えているのでしょうか。やはり”祈りはきかれない”と思っているのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。隠れ正統派はもちろん”祈りはきかれる”と信じています。しかしながら、”自分の祈ったそのことば通りに実現する”とは夢にも思っていません。
彼らのいう”祈りはきかれる”とは、”一生懸命ひたむきに祈れば、神はそれを喜んで最善をなして下さる”ということです。

大切なのは内面性であり、心のひたむきさ、熱心さがポイントなのです。ですから、彼らにしてみれば、”祈りのことば(つまり、祈った具体的内容)”と、”祈りの結果”との間には、直接的関係はないのです。
ですから、彼らにとっては「雨をふらせて下さい」と祈った祈祷会の帰り道がたとえカンカン照りでも、少しも不思議はないのです。

そういうわけですので、彼ら隠れ正統派がカンカン照りの中、傘をもつなどという常識はずれなことを、土台思いつくわけがありません。

さて、この(A)(B)の特徴は、隠れ正統派の信仰生活のあらゆる面に貫かれています。


── 隠れ正統派と聖書 ──

次の話をきいて下さい。これは、ある牧師のメッセージを記録した本からの抜粋です。彼は献金について語っているのですが、ルカ21:1〜4の貧しいやもめの2レプタの話のあとに、こう書いています。

『時々、謙遜そうな兄弟姉妹から、「やもめのレプタふたつでございます」と、千円ぐらいの献金を頂くことがあります。しかしこれは、やもめのレプタふたつじゃありません。何故ならば、千円は彼にとって”生活費の全部”ではないのですから。”生活費の全部”がレプタふたつであります。自分の生活費の全部を献げてしまったら、あとどうなるだろうか。神様が養って下さるんだ、という信仰に立つからはじめて、生活費の全部を献げられる訳です。』

この話の中にも隠れ正統派が顔を出しています。もちろん、千円の献金をした人のことです。ここでは、単なる「誤解」として処理されています。
彼はなぜ”千円”を”レプタふたつ”などと言ってしまったのでしょうか?読者の皆様はどうお考えになりますか? やはり彼らは”レプタふたつ”を”生活費の全部”と知らなかったのでしょうか?

私はこう考えます。いや、彼は知っていたのです。献金しようとする時に、しかも牧師にむかって「やもめのレプタふたつでございます」などとしゃれたことが言えるのは、やはり、このレプタふたつの話について読んだり、聞いたり、教えられたりしたことがあるからだと思います。
ただ、隠れ正統派にとって重要なのは、”レプタふたつ”は”生活費の全部”ということよりは”お金持ちの献金のように多額ではないけれども、少なくて貧しくとも、心のこもったせいいっぱいの献金”ということなのです。

つまり、千円の献金をした人の「やもめのレプタふたつでございます」には、このような思いが隠されていたのです。── 『私は信仰が小さく弱い者ですので、やもめのように生活費の全部を献げるような大それたことはできませんし、この千円の献金も私の経済的なできる限りのせいいっぱいというわけではなくて、はずかしくてしかたないのですが、私の弱い信仰なりのできる限りを心をこめて献金して、あのやもめに少しでもあやかりたいと思います。そういう意味でこの献金は”やもめのレプタふたつでございます”』

隠れ正統派は、聖書のことばそのものよりは、そのことばに隠されている人間の内面性、霊性により注目します。
ですから、隠れ正統派は”聖書研究”といえば、教理や歴史の学びよりは、人物研究の方を好みます。


── 隠れ正統派と説教 ──

前述のように彼らは、自分の信仰の火を再び燃えたたせるために教会にやってきています。彼らは一週間の”この世の旅路”で、信仰の火は弱まり、神を見る心の眼はくもり、魂はこの世の汚れに侵されています。
ですから彼らは説教というものを、自らの信仰の火が強められ、眼が洗われ、魂がきよめられるためのものとして聞いていますから、その説教の内容いかんにかかわらず「いいお話でした。ありがとうございました。」ということになります。

とはいえ、やはり例えばこつこつと細かいことばの説明などをする講解説教などは苦手としています。
彼らが最も好むのは、牧師の内面の熱心さ、ひたむきさ、霊的な情熱がほとばしり伝わってくる説教であり、その勢いで、自分の弱い火を燃えたたせてしまうような説教です。

彼ら隠れ正統派にとって”牧師”とは、教会の中で最も大きく強い火を燃えたたせている中心的な薪であって、彼らの小さく弱い火を強める役目をする者でなければならないのです。ですから、そういう役目のできない者を牧師とは思えないのです。


── 隠れ正統派と交わり ──

同じ理由で彼らは、熱心で一生懸命なクリスチャンを見るのが大好きで、そういう人に声援をおくり、まるで自分のことのように(火勢にあずかるという意味では、まさに”自分のこと”です)喜ぶのです。
逆に、不熱心で醒めたようなクリスチャンや、へ理屈をこねたり、神や教会を疑ったような発言をして、信仰の火を燃やそうという雰囲気をぶちこわすようなクリスチャンがきらいです。そういう人とはできるだけ交わりを避けます。それは、彼らにすれば当たり前のことです。熱心な人と一緒に燃やされるのは大歓迎ですが、醒めている人と一緒に火が弱くなったりしたら大変なことなのですから。

ですから、信仰のスランプの人や教会を離れてしまった人のところには、自分が近づいたりして万一自分の火が消えてしまったりしたら大変ですから、自分ではなく、もっともっと火の強い人が行くべきで、そういう人たちの消えかかった火または消えてしまった火(隠れ正統派にとっては教会に集わないことは信仰を失っていることとほとんど同義です)を、もう一度燃えたたせるようにすればいいと思っています。

そして自分たちは、遠くからときどき「教会に来ませんか」と声をかけます。
隠れ正統派にしてみれば、教会に、つまり信仰の火の燃えているところに来れば、消えかかっている火も消えた火も、再び燃え立つチャンスがあるわけですから、スランプの状況や教会を離れた原因などは二の次で、とにかくなんでもいいから教会に来なさい、とおすすめするわけです。


── 隠れ正統派と賛美 ──

隠れ正統派の賛美は、心がこもっていることがポイントです。多少音程がズレていたりしても、”良き音ズレ”などと言って笑っていられますし、ぶっつけ本番ででも人前で賛美できます。
ですから、歌詞やメロディーの正確さなどの外面的な厳密さを要求されるのが苦手です。彼らの技術的な向上を目指す賛美指導者は、大きな困難にぶつかることでしょう。


── 隠れ正統派と奉仕 ──

彼らの奉仕に対する姿勢を表すことばは、「私には何もできませんが、私にできる限りのことはやらせていただきます。」というものです。自らが小さな弱い薪であると心得ているため、自分を過大評価したり、実力以上のことをしようとしたりはいたしません。
常に、他の大きくて強いクリスチャンたちの陰でひかえめな姿勢をとりつづけるものです。

さて、隠れ正統派の信仰を、教会生活のさまざまな面を通して見てきましたが、これは冒頭に述べましたように、もともと陰に隠れていたものですが、現在は教会内で中心的存在であり、多数派となっております。考えてみれば、それは当然の結果といえるでしょう。

彼らは日曜日に喜んで教会にやってきます。出席率も当然高くなります。奉仕や献金も決して無茶をせず、自分のできる範囲のことをしますから、非常に安定しており、教会の信頼できる奉仕者、献金者になります。
そして何よりも信仰の火を燃やす雰囲気を大切にしますから、教会のムードメーカーになります。常識的で礼儀正しく、にこやかで謙遜で寛容ですから、教会の初心者も安心することができます。
また、常識的で分をわきまえていますから、おこりそうもないことを祈ったり、無理な伝道をしたり、変な聖書解釈をしたりしないので、その信仰状態や生活状態は非常に穏やかであり、信者が陥りがちなスランプも少なくてすみます。

たとえば、常軌を逸した熱心さをもつ人や、自分の力を超えてさかんに奉仕する人や、やたらと伝道する人などは、一時的には非常に有望ですばらしく見えたりしますが、すぐに醒めてしまったり、教会を離れたりして、いつのまにか消えていくものです。
やはり、足が地についた信仰生活を送る隠れ正統派こそ、最も安定したしあわせな地上の生涯を送り、死後も確実に天国が約束されているクリスチャンだと言えるのではないでしょうか。

さて、最後にもう一度、冒頭の雨乞い祈祷会の教会に登場していただいて、この番外編をしめていただきましょう。

私は、この話の後日談を聞いたことがありませんが、読者の皆様は、このあと、この雨乞い祈祷会はどうなったと思われますか?
私の勝手な想像にすぎませんが、この雨乞い祈祷会は予定通りにもたれ、皆で「雨をふらせて下さい」と祈り、そしておそらく、カンカン照りの中を、皆何事もなかったかのように帰って行ったと思いますが、いかがでしょうか?

そして私はものずきにも、また想像してしまいます。もし次の年にも日照りがあって、同じように雨乞い祈祷会がもたれることになったらどうなるでしょうか?
傘を持ってくる人ははたしているでしょうか?

ふつう、隠れ正統派の人々は忘れっぽいものですが、それでも何人かは前の年のおばあさんのことを思い出して、傘を持ってくる人がいることでしょう。
彼らに、なぜ傘を持ってきたのかと尋ねたら、きっとこう答えるでしょう。── 「以前の祈祷会の時、あのおばあさんには本当に教えられました。単に”雨をふらせて下さい”と祈るだけじゃなくて、”ほんとうに雨がふると信じて祈ること”が大切なんですね。」

つまり彼らは、ほんとうに雨がふると信じて祈る、そういう熱心な祈り心のあらわれとして、あるいは、そういう熱心な祈り心にあやかろうとして傘を持ってくるのであって、決して「現実に雨がふる」と信じたからではないのです。

ですから今度も、祈祷会のあとたとえカンカン照りであっても決してショックを受けたりすることなく、いやむしろ自分にできる限りのことをしたというある満足感と、また兄弟姉妹と一緒に祈りの時をすごせたという、ある充実感さえ心に抱きつつ、互いに「暑いですねえ、お気をつけて。」などとあいさつしながら、それぞれの家路につくのであります。

これが、隠れ正統派の信仰というものでございます。