教会用語の基礎知識

くま

皆様におわびと訂正を申し上げねばなりません。と申しますのは、編集局では第3号でこのコーナーの次回予告をする際、『教会での使用頻度が高いものを五十音順に』という、このコーナーのルールを、つい忘れてしまいまして、<次回は「悪魔」>などと予告してしまいました。「悪魔」という教会用語は、現在使用頻度は低くなっていると編集局では考えますので、今回は皆様のお許しをいただいて、他のもっと頻度の高い用語のあとにとりあげさせていただきたいと思います。編集局の不手際、まことに失礼。

ということで、あらためまして『教会用語の基礎知識』をお楽しみ下さい。

けわたし

なんと言っても、信者たちにとってその生涯の重要な鍵となる言葉でしょう。
『明け渡し』とは、神にすべてを明け渡すことであって、言い換えれば、神にすべての主権者、主人になっていただくことです。

『明け渡し』は、さまざまな事柄について用いられますが、この項では、信者たちの個人生活について取り扱おうと思います。
すなわち、信者たちは神に自分のすべて ── 自分自身も、自分の持ち物も、自分の生活も ── について神に主権者、主人になってもらうのです。類似語としては、『ささげる』、『ゆだねる』、『自分を捨てる』などがあります。

では、『明け渡し』をふたつの側面から説明してみたいと思います。

A.神を愛する

第2号の『愛』の項でふれましたように、神は神にとってすべてともいえる大切なキリストを十字架につけたのであり、そのような神の人間に対するすばらしい愛を信じる信者たちは、その愛に応えて神を愛そうといたします。
つまり、人間のために神がすべてをささげたように、信者たちも彼らのすべて ── お金や持ち物や能力や地位のみならず、時間も身体も、いのちまでも ── つまり、すべてをささげ、「私のすべてはあなたのものです」と告白し、すべてを明け渡し、自分を捨てて、神を愛し、神を喜ばせようとするのです。

さて、このように、互いに明け渡し、ささげ尽くしたうるわしい相思相愛の関係が文字通り実現しているならば、一般世間はともかく、少なくとも教会は、実にエデンの園のようなところであって、この『明け渡し』の項もここで終われるはずなのですが、どうも現実はそうとばかりは言えないようであります。

そして、その原因は信者たちの方にあるようです。というのは、信者たちには、神を愛する心と同時に神に逆らう心があって、神を愛することをためらったり、神を疑ったり、ねたんだり、ひどいときには自分を神よりも大切なものとして、自分の欲や利益を求めて神に反抗したりするのです。
このようなものを、教会用語では『罪』と呼びますが、人類は皆ひとり残らず、この『罪』を生まれながらに宿している『罪人』なのです。

信者たちも宿しているこの罪は、信者たち自身の手に負えないものであると言われておりまして、それを自覚した信者たちは『明け渡し』のもうひとつの側面にすすんでいくのです。

B.罪を犯さないために

神に逆らい、私利私欲を求めることから、信者たちも党派心をもったり、不道徳になったり、キリスト教を歪曲させたりします。それらの結果は火を見るよりも明らかで、さまざまな困難な問題や解決できない悩みが出てまいります。

このままではいけない、しかし自分たちの手には負えないし・・・と自覚した信者たちは、神に解決してもらおうとします。信者たちは、問題や悩みを神に明け渡し、ゆだねるのです。それは、小さな子どもが、もつれた糸をほどいてもらうために母親の手にそれをゆだねるのに似ています。
神はそれを解決することができ、また、信者たちを愛し、信者たちのことを心配しているので、喜んで解決しようとしてくれているのだと、信者たちは信じてやまないのです。

ところで、信者たちは根本原因である罪が解決されない限り、問題や悩みはなくならないと知っていますが、同時に罪は死ぬまで自分に宿っていることも知っています。
また、信者たちは、神を愛し喜ばせたいと願っていますが、やることなすこと不完全で欠点だらけで、むしろ逆に神を悲しませていることを自覚しており、心を痛めています。

そこで信者たちは、このジレンマから脱出しようと、罪ある浅はかな自分を頼みとせず、自分を捨て、まさに罪のない全知全能で頼むに足って余りある神に自分を明け渡し、ゆだね、まかせてしまうのです。
それは、文楽人形が黒子の意思通りに動くのに似ています。信者たちは、神が語らせようとする通りに語り、神が動かそうとする通りに動こうとします。

なぜなら、そうすることで ── 罪が消えてなくなるわけではありませんが ── 少なくとも罪を犯さなくてすみますし、罪を犯さなくなれば少なくとも神を悲しませたり、人を傷つけたり、自分を惨めにしたりすることはなくなるはずだからです。
神は信者たちの一言一句、一挙手一投足にまで関心をもち、支配すると信者たちは信じてやまないのです。

ところでこの作戦も、落ち度なく行えればこれも一種のエデンの園なのかもしれませんが、これまた現実はそうとなってはいないようです。つい罪が顔を出し、神にまかせきれずゆだねきれずに、自分が出しゃばって勝手な口出し手出しをし、いらぬ問題や悩みをまたしてもつくってしまうのです。

それで、はずかしながらもその問題や悩みももう一度神にゆだねるしかなくて、「ゆだねきっておけばこんなことにならなかったのになあ・・・」と反省するものですが、実は、ゆだねきったとしても(あるいは、ゆだねたつもりでも)結果がすべて良いとは限らないのです。
このことを不思議に思われるかもしれませんが無理もありません。実は信者たちさえ当惑してしまう問題なのです。

そしてその結果、”神にゆだねたのに、なぜ悪い結果が出たのか?”という問題に対して、いくつかの対応が出てきます。

@ 神のせいにする
  『神さま、私はあなたにゆだねたのに、どうしてこんなことをするんですか!? いいかげんにして下さい』などと文句を言うのです。
しかし、これは天に向かってつばをはくようなもので、結局は自分を惨めにしてしまうだけのようです。
   
A 自分のせいにする
  『神さまは悪を謀るような方じゃない。ゆだねきったつもりでも、ゆだねきれていなかったにちがいない』と反省し、自分にはわからない自分の落ち度を見つけ出そうとします。
また、自分の内にも外にも悪いものが少しも出てこないように、神や神に関する善いことに自分を集中させようとします。ある信者たちは、そのようにして悪いものがはいりこむスキをなくすほどに心頭滅却して無我無心の境地に至ると、罪を意識しなくなり、罪を犯さなくなると考えているようです。(これを『きよめ』と呼びます)
しかし、自分のせいにすることは、結局は自分を追い詰めてしまうことになるようです。
   
B 他のもののせいにする
  『神にも私にも落ち度はないはずなのだ』と考え、悪魔のせいにしたり、罪に汚れたこの世や、自分以外のだれかや、社会や教会の制度などのせいにしたりします。
また、『罪』は刀についたサビのようなもので、手入れをすれば刀がきれいになるように、『罪』も根本的には自分とは切り離されたものだと考え、そのサビのような『罪』のせいにしたりするようです。(これは『きよめ』に通じるようです)
   
C 無視する
  『結局私にはわからない問題だから、私としてはこのことは考えずに、自分ができることをするようにしましょう』と考え、関知しないでおくようにします。
これは、最も忍耐を必要とするか、あるいは最も手軽か、のどちらかでしょう。
   
D やめる
  『もう”ゆだねる”なんてよくわからないことはやめよう』と考え、すべてのことを自分で考え、自分で判断し、どのような結果になろうと他の何かのせいにはしないのです。
こういう人をクリスチャンと呼ぶかどうかはわかりませんが、自分で責任をもとうとする態度は潔いともいえそうです。
   
E 神にゆだねる
  ふつう信者たちは、全面的に自分のせいだと言うほどお人好しでもなく、かといって、神やほかのもののせいにしたり自分に落ち度はないと主張したりするほどあつかましくもなく、また、無視したりやめたりするほど思い切りよくもないものです
そこで、ふつうはこう考えます。『結果の良し悪しは限られた人間の判断力では計れないものだ。ゆだねた結果が良くないと思うのも、私の身勝手な判断なのだ。神は愛の方なのだから、私に悪を謀ることはしないはずだ。』
要するに、自分中心の早計な判断をせず、それさえも神にゆだねてしまうのです。
そして、『つまりこれは、神が良かれと思って私に与えられた訓練にちがいない。(これは教会用語で『試練』とか『試み』とか呼ばれます)あとになれば、すべてが神のおはからいであり、私にとって益となったことがわかるのだ。だから甘んじて訓練をうけよう。』というふうに考えるのです。

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ときどき、信者でない人が、信者たちの生活や言動について、”受動的である”とか、”その場限りの無責任”だとか非難することがあるようですが、信者たちの生活や言動は、すべて神に明け渡されゆだねられたものであり、信者たちは主権者である神からの動機づけで神の意思を行ない、神の与える結果を甘んじて受ける、という高度の宗教性をもった生活をしているわけで、これはクリスチャンの極意ともいえるもので、そういうわけで、信者でない人が理解に苦しんでしまうのも無理はありません。

このようにして、信者たちにとっては、すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至るのであり、『心を尽くして主に拠り頼め、自分の悟りにたよるな』(旧約聖書 箴言3章5節)ということになり、ただ神に感謝し、神に栄光を帰する、ということになるのであります。

次回は「ありのまま」