バイブルミステリー

??? ヨハネの黙示録 3章20節 の謎 ???

『照明をおとしているせいか、少しうす暗くさえ感じられる会場で、ただ一点ステージに立つ一人の男だけがスポットの中で鮮明に浮かびあがっていた。彼はおし黙ったまま頭をたれている。会場をうめた聴衆も同じように口をつぐんだまま目を閉じている。
そのとき、その大きな沈黙の海を泳ぐようにして、ひとすじのメロディーが聴衆の耳から耳へと流れていった・・・

♪♪救い主はまっておられる〜〜〜おむかえしなさ〜〜い・・・♪♪

そう、伝道集会のクライマックス、”まねきの時”がやってきたのだ。
独唱者が2番を唱いはじめたとき、ステージの男は静かに、しかししっかりとした口調で聴衆に語りかけた。

「みなさん、今晩あなたはイエス・キリストの救いについて聞きましたこの救いはみなさんがたおひとりおひとりのために用意されているのです。今晩、この救いをご自分のものとしてください。
キリストはあなたを愛し、あなたをまねいておられるのです。黙示録3章20節に、あなたを呼んでおられるキリストのことばがあります。

── 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。──

あなたの心のドアを、今キリストはたたいているのです。この呼び声にこたえて、どうぞあなたの心のドアを開いてキリストを受け入れてください・・・』

さて、まぁよくある伝道集会の風景ですが、ここで、ちょっと待っていただきたい。黙3:20は本当に信者でない人をまねくキリストの呼び声なのでしょうか?
というのは、この聖句は黙3:14〜22のラオデキヤの教会へのメッセージの一部であるからです。ですから、もしもこの聖句が、信者でない人に対するキリストの呼び声といえるなら、それよりも、教会に対する呼び声という方がずっとふさわしいはずです。

これは、私だけの特殊な経験なのかもしれませんが、私は少なく見積もっても1200回を下らない説教や聖書の説き明かしを聞いてきましたし、自分でも数多くの聖書の話をしてきましたが、この黙3:20は教会への呼び声だというメッセージを聞いたことも話したこともありません。

また、黙3:15〜16の”なまぬるい”や、20節の直前の19節の”悔い改めなさい”を、信者の信仰生活にあてはめるメッセージやあかしなら聞いたことがありますが、なぜか20節だけは申し合わせたように伝道専用聖句になっているのです。

まぁたしかに、この聖句は感覚的なわかりやすさがあって(そのために、よく絵などにも描かれているのでしょうが)、まだ聖書やキリスト教のことをよく知らない人への”まねき”の必殺聖句として用いやすい、という事情はよくわかりますが・・・

しかし、このドアはあくまでも信者でない人の心のドアであって、信者である自分の心のドアであるとか、自分の教会のドアであるとかいうふうにあてはめてみる信者がいないのは、ちょっとしたミステリーといえるのではないでしょうか。