聖研に王道なし!?

序論★情報の目ざすところ


前号までで、神が人間に知ってほしいと願っている情報を伝えるために聖書を著した、と書きましたが、では、その情報とは一体何で、また何を目ざしているものでありましょうか。情報の内容と目的、これが序論のテーマです。
さて、ではさっそく聖書に向かってみることにしましょう。

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普通、本のタイトルは、その本の内容や目的そのものであったり、またそれらを暗示していたりするものですが、こと聖書に関しては、どうもそうではないようです。あきれかえることに著者名さえありません。
── しかし、著者は神であるという前提に立っていることは、すでにご存知の通りです ──
おまけに開いてみると、いきなり目次、続いて本文で、親切なまえがきもありません。
読者に媚びないこの立派な本は、その点どうもぶっきらぼうなので、本文を読んでいくしかないようであります。

聖書を開くとまず、天地創造、そしてアダムとエバの堕落、ノアの箱舟、バベルの塔、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセ、出エジプト、荒野の旅、幕屋と祭儀、カナン侵略、ヨシュア、士師たち、ルツ、サムエル、サウル、ダビデ、ソロモン、神殿建設、王国分裂、王たち・預言者たちの行状、北王国滅亡、バビロン捕囚、帰還、神殿再建、そしてバプテスマのヨハネ、イエスの誕生、生涯、教え、十字架、復活、エルサレム教会、ペテロ・パウロの伝道、そして世の終わり、新しい天と地、これらの他に多数の詩、箴言、預言、黙示、そして手紙と、まあ、ざっと書いただけでこんなになってしまいました。
「聖書は、一生かけて一回読めればいい」と言った友人がいますが、その気持ちがわかるような気がします。

しかし、”てっとり早く、完璧に”という王道聖研をする者といたしましては、こんな悠長なことは言っておれません。そこで、こう考えました。
「もしかして、聖書自身の中に、その内容や目的を親切に要約してくれている文章があるのではないか。」・・・・・・ありました。

<T> 旧約聖書の内容と目的

聖書は、イエスが旧約聖書に書かれているのは自分のことであると言った、と書いています。
── ヨハネ5:39,46
その内容は、『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』ということです。
── ルカ24:25〜27,44〜47
それは、弟子たちにおいても同様です。
── 使3:18,17:2〜3,26:22〜23,28:23,ローマ1:2〜3,コリントT15:3〜5,ペテロT1:10〜11

また、旧約聖書の道徳律についても、聖書はイエスが、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』というふたつの戒めに律法全体と預言者とがかかっていると言った、と書いています。
── マタイ7:12,22:35〜40,マルコ12:28〜34
弟子たちも同様のようです。
── ローマ13:8〜10,ガラテヤ5:14,ヤコブ2:8(この三箇所で、第二の戒めしか書いていないのは、おそらく対人関係の問題について書いてある箇所だからでありましょう)

しかし、ここまできて釈然としない点も出てまいります。まあ、道徳律についてはいいのですが、ひっかかるのは、旧約聖書に書かれているのはイエスのことだ、という主張です。
王道聖研子も旧約聖書を読みましたが、その内容は、イエスのことではなく、イスラエル民族のことだと思われます。一体どこにルカ24:46〜47のような内容が書かれているのでしょうか。
いくら、イエスは旧約聖書の成就である(マタイ5:17〜18,ルカ24:44)と言い、預言とその成就の実例を列記してくれても納得しかねます。

しかし、この王道聖研では、第一段階として、まず神の情報とは何か、つまり聖書がどう主張しているか、ということを解明していこうという目標がありますので、この疑問は疑問として留めておくことにいたしまして、なお、前に進んで行きたいと思います。

その進む方向とは、新約聖書であります。というのは、
@イエスについては、旧約聖書の預言者たちも見たり聞いたりしたいと願っていたそうです。
── マタイ13:17,ルカ10:24,ヨハネ8:56,12:41(アブラハムやイザヤは見たのです),ペテロT1:10〜12(御使いも見たいと願っていた!?)
Aしかも、旧約聖書は影のようなもので、かくされていて、欠けがあるのですが、新約聖書は、その影の実体として、さらにすばらしい、すぐれた、新しい、完全な、永遠の、約束を書いているのだそうです。
── ローマ16:25〜26,コリントU3:6〜18,ヘブル2:2〜4,7:19,8:7〜8,10:1〜18,11:40など
B旧約聖書の目的にしましても、旧約聖書自体は、”影本(!?)”にふさわしく、箴1:1〜6,エレミヤ36:2〜3,エゼキエル2:2〜5などにそれらしいのがあるだけで、はっきりとは書かれておりません。
その点、”実体本(!?)”の新約聖書を見てみますと、旧約聖書は、
罪を知るためのもので、それによってキリスト信仰に導くためのものです。
── ローマ5:20〜21,7:7〜13,ガラテヤ3:19〜26,テモテT1:8〜11
そして、キリスト信者を教育し、成長させるためのものです。
── 使20:32,ローマ15:4,コリントT10:11,テモテU3:15〜17
しかも、預言者の預言は、キリスト信者のための奉仕だったとさえ書かれています。
── ペテロT1:11〜12

というわけで、”てっとり早く完璧に”の王道聖研子は”実体本(!?)”である新約聖書を中心に王道を進んでいくことになります。

次回は「<U>新約聖書の内容と目的」