王様の一章

マタイの福音書 三章

その日、ヨハネはいつもと同じようにヨルダン川で洗礼を授けたり説教したりしていたのでしょう。
各地からおおぜいの人が押しよせたらしいですから、彼は火事場のような忙しさだったにちがいありません。
受洗する人々の顔だって、いちいちじっくり見てるわけではなかったでしょう。

そういう時、やっとその人に順番が回ってきて、ヨハネはふと目を上げて、ちらりとその人を見ます。
「あっ、この人だ!!」と彼は気づくのです。
しかし、少し言葉を交わし、洗礼を授けると、その人は去っていき、ヨハネはまた火事場の忙しさです。

あまりに短かい逢瀬であります。でも、報われることの少なかった彼の生涯の中で、唯一とも言える輝かしい瞬間だったことでしょう。

いやおうなく与えられたものでも、それをもう一度、自ら選び取りながら、人はその生涯を生きます。
そういう真摯な日常の中で、ふと目を上げると、そこにイエスがいる!
体中にビビッと電流が走るような、輝かしい瞬間です。そんな時、人はイエスを信じるのです。
『あなたが神を選んだのではなく、神があなたを選んだ』などと、不粋なことは言ってほしくないものです。

マタイの福音書は、「14」の数字あわせの系図に始まり、処女懐胎、ベツレヘムでの誕生、エジプト逃避、幼児虐殺、ナザレ帰還、ヨハネ出現と、すべて”預言とその成就”というお決まりの図式の中で話がすすんでまいりました。
ところが、このイエスの受洗の記事には、『預言の成就』というマタイお得意の必殺技がありません。
このことに思わずホッとするのは、私だけでしょうか。

次回は「マタイの福音書 4章」