教会用語の基礎知識

かし


なんといっても、信者たちにとって最も大切なことばのひとつでしょう。なにしろ信者たちが生きているのは、この”あかし”のためである、と言っても過言ではないほどだからです。

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”あかし”という言葉には、おもにふたつの用い方があります。
ひとつは「信者としてのふさわしい言動」、もうひとつは「宗教的体験の告白」

(A) 信者としてのふさわしい言動

例えば、砂漠の中で水がなくて死にかけている人がいて、その荒涼たる視界の中に、青々と茂った樹木を見出したとしたら、どうでしょうか。そこに水があることは明らかであり、彼はそこに行こうとするでしょう。
すなわち、樹木が青々と茂っている様子は、水のあることを”あかし”しているわけです。

この譬えの意味はこうです。
「死にかけている人」とは、信者たちから見た信者以外の人々のことです。
「水」とは、人間の生命や生活の全体に関わる決定的な要素であり、人間を真に生かし豊かにするもので、信者たちの間では「いのち」とか「キリスト」とか呼ばれています。信者以外の人々は、これをわがものとしていないので、その生命や生活は荒涼とした砂漠のようなものであり、しかもいずれは死に至る運命にあります。
そして、その「水」によって養われている「樹木」は信者たちのことであり、「青々と茂っている様子」こそ、”信者としてのふさわしい言動”(すなわち、「水」によって真に生かされ、豊かにされた生命や生活の現われ)であります。

この”信者としてのふさわしい言動”こそが、神の与える「水」の”あかし”(立証、証明、証言、証拠)であり、同時に、荒涼とした砂漠のような生命や生活しか持たない信者以外の人々を、その「水」に引き寄せるものである、と考えられています。

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それでは、この”信者としてのふさわしい言動”とはどんなものか、ここでは便宜上、四つの段階に分けて説明したいと思います。

<第一段階>

まず信者たちは、信者以外の人々に対して、自らがキリスト教の信者であることを表明いたします。と言ってももちろん、道行くひとりひとりに、というわけではなく、常識的な意味で自分のことばや行動が見聞きされる生活範囲において、であります。

なぜそうするのか、といいますと、

@ ここに信者がいるのだ、と知らしめるため
  信者たちから見れば、信者以外の人々は、その生命や生活が荒涼とした砂漠のようなものでありながら、多くの場合それに気づいていない人々なのです。
しかし、何かのきっかけで、彼らがそういう人生に疑問をもったとき、ここに、その疑問の解決方法を知っている者が、もしくは、その疑問を解決してくれる方を知っている者が、すぐ近くにおるのだよ、ということを暗示しておくのです。

A 自らを信者として意識してもらうため
  積極的な説明をすると、信者たちはこう考えるのです。──
『もし、自分が何かりっぱな言動をしたとしても、信者であることを表明していなければ、信者以外の人々は、ただ単に「りっぱな人」として意識してしまう。それではいけない。「さすがはクリスチャンだ」というふうに、神やキリスト教に原因づけられて意識される必要がある。そうでないとせっかくのりっぱな言動も”あかし”のための”あかし”になってしまうのだ。』

消極的な説明をすると、信者たちはこう考えるのです。──
『もし自分が自堕落な生活をしていたら、それを見た信者以外の人々は「あれでもクリスチャンなのか」と思い、キリスト教を知ろうとか、信じようとかいう気にはとてもならないのだ。そんなことでは”あかし”にならないし、神にも顔向けできなくなってしまう。』というわけで、自堕落への歯止めの役を果たし、悪い”あかし”をできないようにします。
しかし、これを裏返せば、こういう信者はややもすると自堕落な生活に陥り、悪い”あかし”をしてしまいがちであるという自分の弱さを知っているわけです。

<第二段階>

信者以外の人々よりもりっぱな言動をすることです。

例えば、仕事においてより高い業績をあげるとか、勉強がよくできるとか、料理がすごくうまいとか、足が速いとか、親孝行だとか、いつも笑顔を絶やさないとか、他人にとても信頼されているとか、また、ネガティブな言い方をすれば、自堕落な生活をしないとか、悪口を言わないとか、グチをこぼさないとか、まあ、そんなふうにですね、信者として、信者以外の人々と同じことをしても、彼らよりレベルが高い、ということです。

信者の中には、極端な考え方をする人もいて、「クリスチャンは、どんなことでも、トップをとらなければいけない」と、のたまわったりいたします。まぁ、ここまではいかなくとも、ある程度高いレベルにいる、ということは大切な要素なのです。
なぜなら、たとえば『クリスチャンだとかいって教会に通ったりしているらしいけど、まったく何をやらせてもダメなやつだ。あいつのキリスト教は、要するに現実逃避だな。』などと言われるようでは”あかし”どころではないからです。

ところで、少し角度を変えて、このことを信者の個人的生涯にあてはめると ── 信者になったら、信じる以前よりもりっぱな言動をする ── ということになります。

ですからたとえば、学生で信者になった人には、先輩の信者からしばしばこういう注意が与えられます。
『まず、自分がクリスチャンになったことを家族や友達に表明しなさい。そして、クリスチャンとして生活を向上させなさい。神がいっしょにいて下さるから、向上できるはずです。マジメに勉強するようになって成績が上がったり、人の嫌がるような雑用もすすんでするようになったり、友だちに親切にしたり、家でも手伝いをしたり、朝ひとりで起きられるようになったりしたら、家族や友達は「クリスチャンってりっぱなんだなあ、見ちがえたよ。キリストさんはすごいな。」ということになるでしょう。
しかし、もし以前と同じ生活なら、家族や友だちは「あいつはクリスチャンになったとか言ってえらそうにしてたのに、なんだ、ちっとも変わらないじゃないか。キリストさんもたいしたことないな。」ということになるでしょう。』

・・・いやはや、信者の皆様、ご苦労様です・・・などと言ってはおれない。まだ、第三、第四段階があるんだった。

<第三段階>

信者らしい言動をする、ということです。
第二段階はレベルの問題でしたが、第三段階は種類の問題です。つまり、クリスチャンらしい生き方、死に方をするということです。

例えば、殉教は最高の”あかし”だと言われますが、現在のように平和な日本では、なかなかそういう場面には出くわさないものです。しかし、どういう死に方をするか、ということは、とても大きなことです。

もし、信者が死に際して、神をほめたたえ、死さえも永遠の喜びへの門出であると晴れ晴れとした顔で告白し、枕元に信者でない人がいたら、キリストを信じるようにすすめ、天国であなたのために祈ると言い、家族や友人に感謝をし、安らかな大往生を遂げたならば、生き残った者は彼を評価して「実にクリスチャンらしい死に方をし、良いあかしをした。本当に彼はクリスチャンだった。」と語るでしょう。

ところが、もし、信者がその死に際して、恐怖に取り乱し、まだ死にたくないと泣き、家族や友人に私のために祈ってくれとすがりつき、苦々しい死に様を見せたならば、生き残った者は彼を評価して「実にクリスチャンらしからぬ死に方をし、悪いあかしをした。本当に彼はクリスチャンだったのだろうか。」とさえ語られるでしょう。・・・なんともはや、お気の毒なことでございます。

  この、「クリスチャンらしい」、というなんとも響きの良い言葉は、実に曲者で、なだいなだ氏の『人間、この非人間的なもの』という著書の中に「人間的という言葉は、人間的人間という虚構のイメージを人間におしつけ、あるがままの人間を、それに従属させようとする。」という下りがありますが、この”人間的”を”クリスチャンらしい”に、そして”人間”を”クリスチャン”におきかえれば、そのまま通用するように思われます。
実際、他人に「それでもクリスチャンなの?」と言われて、やけっぱちにもならず、悪びれもせずに「それでもクリスチャンなんです」と晴れ晴れと告白できる人は少ないのではないでしょうか。
実はここには、教会用語の『罪』を考える糸口があるのですが、後の機会にゆずりたいと思います。

話が横道にそれてしまったようです。要するに、とにかく、厳密な意味や、本来的な位置づけにはとらわれず、とにかく「クリスチャンらしい」言動をすることです。

死などという極限的状況でなくとも、ふつうの毎日の生活の中でも、信者たちはクリスチャンらしい生き方に努めます。
彼らはクリスチャンらしい、聖潔と節制と克己の生活をし、服装、趣味、娯楽においてもクリスチャンらしくと心がけます。みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談など言語道断です。

そして、何かをするときも、クリスチャンとしてやろうとします。
たとえばクリスチャンの画家がいて、絵を描こうとするとき、彼は「自分は画家である前にひとりのクリスチャンである」と考え、クリスチャンとして、クリスチャンらしい絵を描くのです。その人はおそらく、退廃的で、無秩序で、見る人を不安にさせるような絵ではなく、キリスト像や、聖書の中の物語を題材にしたものや、また、そう直接的でなくとも、建設的で、秩序があり、見る人に希望を与え、最終的には神やキリスト教をたたえる絵を描くことでしょう。そういう人は”クリスチャン画家”と呼ばれます。
同様に、クリスチャン作家やクリスチャン政治家、クリスチャン医師、クリスチャン学者、クリスチャン学生と、尽きることがありません。そういえば、クリスチャン主婦という言葉をきいたことがあります。

しかし、なんといっても信者たちが神経を遣うのは、信者以外の人々が注目する、金、酒、タバコ、女、バクチなどに対するクリスチャンらしい対処のしかたです。おもしろ半分に信者たちをいじめたりする人たちもいて、信者たちは、”無価値な者ほどよけいに愛そうとする愛”とのハザマで、頭を悩ますものです。

<第四段階>

信者以外の人々とは異なった、信者特有の言動をする、ということです。

信者たちは、自らの信じるキリスト教が絶対の真理であると信じておりますので、他の宗教や思想に関連する行事に参加したり、またそれらを公式に是認する言動をしたりはいたしません。かえって、ますますキリスト教に熱心になるように努力いたします。
そして、このことが”あかし”になるものだと考えております。

信者たちは仏像や神棚を拝みません。それどころか、信者の家庭では、仏像や神棚を設けません。信者たちは毎週教会に通い、教会の諸行事に参加します。また、毎日聖書を読んだり祈ったりいたします。宮参りや七五三をせず、教会で『祝福式』をします。結婚式はキリスト教式(といっても、現在では信者以外の人々もキリスト教式を行ないますが、信者たちは『本当のキリスト教式結婚式ができるのは自分たちだけだ』と考えています。なぜなら、信者以外の人々は、真のキリスト教精神というものを知らないわけで、ただ単にキリスト教式の方法だけをまねているわけですから、そのような結婚式はマガイモノにすぎない、と考えているわけです。)、葬式もキリスト教式、墓には十字架や聖書のことばを刻みます。占い、迷信はもってのほか、仏教用語さえ避けようといたします。また、ある信者のグループは「昭和」という年号を使用せず、常に西暦を用います。(なぜなら、年号は天皇制に起因するものだからです)
こうして、信者たちは、信者以外の人々とは異なった言動によって”あかし”をいたします。

さて、注目すべきは、そのような信者特有の言動が、他の宗教などと対立してしまう場合のことです。
内村鑑三の不敬事件は有名ですが、現在の天下泰平の日本で最もポピュラーな例は、信者がのっぴきならぬ事情で仏式の葬儀に参列する場合などでしょう。
そういうとき、信者はこう考えています。「心ならずも仏式の葬儀に参列することになったが、私はクリスチャンとして”あかし”をしなければならない。遺体や遺影を拝んだり、焼香したりはできない。そんなことをすれば周囲の人々に、あいつはクリスチャンのくせに神以外のものを拝んだ、と思われるだろう。しかし、あまりにつっけんどんでは、クリスチャンってのは冷たいやつだと、これまた反感をかってしまう。どのようにして誠意のあることを示したらいいのだろう。まず、遺族にねんごろに語り・・・ええい、あとは出たとこ勝負だ!!」というわけで、信者たちは、神や自分の信念を裏切らないギリギリの線上で、信者以外の人々に好感を持たれようと悪戦苦闘いたします。
このような臨機応変な対処は、私もいまだに把握しえていない『信仰の良心』と呼ばれる基準によってなされるようです。

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要するに”信者としてのふさわしい言動”は、クリスチャンとして、信者以外の人々に好感をもたれること、または、信者によって、信者以外の人々がキリスト教に好感や興味をもつことを目ざしているわけで、そのために信者たちはますます精進し、いかにも青々と茂っている様子を信者以外の人々に印象づけようと努力いたすのです。
このことに成功している信者のことを『キリストのかおりを放つ』人、とも言います。

しかし、たとえ悪評をかったとしても、信者たちは”いつか、そういう人たちもわかってくれる時がくる”と考えているものです。

なお、四つの段階に分けたのは、たとえば、第一段階はつまらないあかしで、第四段階の方がりっぱなあかしだとかいうふうなことではもちろんなくて、ただ整理の都合上のことで、他意はございませんのであしからず。

 

(B) 宗教的体験の告白

  1. しばしば、キリスト教の伝道を目的とした集会などでは、”あかし”と称して、信者が自らの体験談を語るプログラムがあります。
    その体験談は、その集会の目的に沿って、多くの場合、その信者がどうのようにしてキリスト教を信じるようになったか、そして、信じる前に比べて好転したことは何か、という話題が中心になります。
    なにせ、集会の目的が、キリスト教を信じるようにおすすめするようなものですので、いきおい、あかしする人も、信じる以前がいかにみじめで情けなく、むなしい生活であり、信じた後がいかにすばらしく充実した、楽しい生活であるかということを強調してしまう傾向がありますが、無理もないことです。

  2. キリスト教の神は人格神であり、信者たちは「神はいつも私を愛し、私といっしょにいて下さる」と信じておりますので、当然、神と信者の間には、不断の人格的交流があるわけです。
    ですから、一般の、神と没交渉の人々にはとてもできない体験を、信者たちはすることになります。
    たとえば、”神の声を聞いた”とか、”神に祈ったら病気が治った”とか、”祈ったらなくしたサイフがみつかった”などです。

    また、逆に言うと、信者たちの生活は、すべてのことについて神との関係の中で理解される、とも言えます。
    ですからたとえば、病気になったのは、神が私に何かを示すためだ”とか、”ウチの猫は私の言うことをきかない。私もこの猫のように神の言うことをきいてないかもしれないと反省した”などです。
    これは、宗教的体験の告白というよりは、体験の宗教的告白、というのが良いかもしれません。

とにかく、このような告白をする信者たちの集会は『あかし会』と呼ばれ、また、文章にして集めたものは『あかし集』と呼ばれています。

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このような告白の類は、その内容が実際的にはどんなに不幸でも、最終的には神をほめることばや、神に期待することばで閉じるのが常です。
それは、枯木の下に水があると判断する人はいないわけですから、どんなときにも”青々と茂って”いなければならないという”あかし”の悲しい性を考慮すれば、容易に理解できることです。

次回は「悪魔」