教会用語の基礎知識


なんといっても、教会用語の最も重要なことばのひとつでしょう。なにしろ信者の生涯は、愛が出発点であり、基準であり、源動力であり、また目的である、といわれているほどで、ここでも少しくわしく説明してみたいと思います。

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さて、このように重要な「愛」ですが、これは、まず神が人間に示した愛であり、その神の「愛」は、人間的な恋愛や友愛や親愛などとは異なるもの、といわれています。それは、大ざっぱに言って、次のふたつの特徴があるようです。

A. 愛される価値のないものをも愛する愛である。
  人間的「愛」は、例えば、美しいとか、強いとか、また金持ちだとかいうふうに、愛されるに足る価値のあるものを愛するのですが、神の「愛」は、見栄えもせず、弱く、愚かで、欠点だらけで・・・・・・というふうな、無価値なものをも愛する「愛」なのです。
   
B. 一方的な自己犠牲の愛である。
  人間的な「愛」は、愛した分だけ、いや、それ以上に愛されることを、つまり<見返り>を期待するのですが、神の「愛」は、見返りや報酬を期待しない、愛しっぱなし、捧げっぱなしの一方的な自己犠牲の愛なのです。

新約聖書ローマ人への手紙5章8節に『私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』とあるように、すなわち、人間をつくり、生命を与え、自然の恩恵をもって人間を生かしてくださっている神に対して、その神に感謝したり、神を信じたり、愛したりするどころか、神を知らず、いや、それ以上に神に反逆して、自分勝手な罪深い生き方をしている、というような絶望的に無価値な人間、その人間を救うために、大切な大切なひとり子キリストを殺すことをも厭わなかった、という絶対的な「愛」としてとらえられています。

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このことで、信者たちは「はじめて愛というものを知った」と告白し、これを模範として他人を愛そうとします。この信者たちの「愛」も先ほどのA.B.に沿って、その特徴を説明してみましょう。まず、

A. 無価値なもの、愛し難いものほど、余計に愛そうとする愛である。
  おそらく、新約聖書マタイの福音書5章44節の『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』また、同46節の『自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。』からきている愛し方でしょう。
  無価値なものとは、信者たちにとって、やはり自分たちの信奉するキリスト教を知らない人たちではないでしょうか。なぜなら、信者たちはキリスト教がすべての人にとっての最高の真理だと信じているからです。
  また、同じ信者同志でも、やはり相性の悪い人や、どうしても肌の合わない人がおり、また、感性や考え方、習慣の違いなどで、互いに反発しあったり、憎みあったりすることもあります。まあ、神の子たちも人の子、というところでしょうか。
  しかし、信者たちのすごいところは、そういうふうに、キリスト教を知らない無価値な者、また自分にとって愛し難い者をこそ、愛さなければならない、と考えているところです。
  「キリスト教をまだ知らない人は、本当の神も、救いも、人生の意義も、喜びもまだ知らない人なのだから、そういう人に腹を立ててはいけない。私たちは、先に真理を知った者として、そういう人にキリスト教を伝え、真理に導くために、彼らを赦し、受け入れ、いたわらなければならない。
また、どんなに相性が悪くても憎くても、そういう人も神には大いに愛されているはずなのだから、神が愛する人を、私が憎んだりしてはいけない。かえって、そういう人をこそ、赦し、受け入れ、愛し合わなければならない。」というふうに考えてしまうのです。
   
B. 一方的な自己犠牲の愛である。
  新約聖書マタイの福音書7章12節に『何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』というキリストの命令があります。これはGolden rule(黄金律)と呼ばれ、キリスト教の道徳の金科玉条として有名なことばです。
  注意していただければわかると思うのですが、この命令は、「他人がいやがることはするな」とか、「他人がしてほしいことをしてあげろ」とか、また「自分がしてほしくないことは、他人にもするな」とかではなくて、『自分がしてほしいことを他人にもしてあげろ』である、ということで、”一方的な自己犠牲”という原則を見事に表現している、といえるのではないでしょうか。
  ですから、たとえば、教会の集会などに初めて出席した方は、「よくいらっしゃいました」と返事するのに疲れるくらいあいさつぜめにあったり、たのみもしないのに信者がとなりの席に来て聖書や賛美歌を開くのを指図してくれたり、集会のおわりに皆の前で自己紹介させられて万雷の拍手をあびたり、集会の後でも「どちらから?」「どなたのご紹介で?」「集会のご感想は?」等々、アイドルスターなみの質問ぜめにあったり、ちょっとあつかましいほどにキリスト教の信仰を勧めたれたり、また帰ろうとしたら「またぜひお気軽にいらして下さい」となれなれしい握手ぜめにあったり、というふうに、なんともとまどってしまう経験をいくつかするものです。
  これは、信者たちが黄金律を実践しようとしているからで、すなわち、信者たちも初心者の頃、こういう”歓迎”を受けて、うれしかったりしたし、また、今でもうれしいにちがいないし、というわけで、それを他人にもしてあげているわけです。しかも、この例の場合は、「無価値なものほどよけいに愛する愛」が相乗効果をもたらしていますから、もうたいへんです。
  ですから、信者たちのこの種の”大歓迎”にとまどう人は、まあ、慣れていただくしかないようです。

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さて、このように書いてきますと、教会にはあふれかえってむせかえるばかりに「愛」が充満してるように思われますが、不思議なことに、信者たちの告白はむしろその逆で、「私たちには愛がない。神さま、どうか愛を与えて下さい。」と祈ったりするのです。

いったいなぜ、このような祈りが出てくるのでしょうか。その理由は三つあるようです。

  1. 『神は愛なり』という、よく知られた聖書のことばがありますが、このことばは、神の性質やあり方それ自体が「愛」である、という意味です。
    そのような完全な愛である神を信じる信者たちは、自分たちの愛が、T.P.O.によって変化したり、我が身大事であったりすることを恥とし、自分たちも、自分たちの性質やあり方自体が愛であるような、完全な者になりたい、と望むようになります、まあ、それが可能かどうかは別問題として、です。
    これが、ひとつ目の理由です。

  2. 信者たちには、神に愛されていることをいつも確認しておきたい、という欲求があります。ところで、これまで説明してきましたように、神の愛は、無価値な者をも愛する愛である、という特徴があります。
    それで信者は、自分のことを、神も人も愛せないような、みじめで情けなくて無価値な者であると自覚することで、「自分はこのように無価値な者なのだから、神は大いに自分を愛してくれるはずだ」という論理の展開を通じて、神の愛を再確認しようといたします。
    これが、ふたつ目の理由です。

  3. 信者たちには、多くの場合、このふたつの心理(完全をめざす心理と、無価値にとどまろうとする心理)が、多かれ少なかれ、同居しているようです。
    しかし、信者たちは、この相反するふたつの心理を統一し、調和させる愛のあり方を知っており、また、それは、信者としての最高の愛の姿である、といえます。
    それは、「神の愛によって愛する」ということです。

    教会用語の中に、『通りよき管(くだ)となる』という慣用句があります。これは、信者が、神やキリスト教のことを知らない人に対して、神自身や神の使信を伝えようとするときに、神からうけとったそれらのものに、人間的なものや現世的なものを混入させない『スムースなパイプになる』ということです。
    そして、この境地に至ると、人間的な悩み、現世的な考え、強烈な自我、特殊な個性などは、スムースなパイプ役になるための障害と考えて、それらを捨て、自分を0%、神を100%現す者になろうとします。

    このことは、愛についても言えることで、すなわち、信者たちは、自らの相対的で不完全で欠点だらけの愛を捨て、スムースなパイプ役に徹することにより、神からいただいた愛で、神を、人を、自分を愛そうとするのです。
    これが、三つ目の理由です。

こういうふうにして、信者たちは、無価値でありながら、完全な愛をもつに至るのです。いや、無価値であるからこそ、というべきでありましょうか。

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ときどき、このような愛について知らない人が、教会の信者たちを非難して、「クリスチャンは偽善的でおしつけがましくて、その愛は単なる自己満足で、人をバカにして見下している。」とか、「皆、同じような顔をして、皆、口を開けば同じようなことしか言わない」とかおっしゃいますが、信者の愛は良い意味でも悪い意味でも「一方的」ですし、自分が0%、神が100%のスムースなパイプ役であるのが信者なのですから、そのような非難は、残念ながら、非難としては成立していない、ということになります。

それに、このようなことは、ひとつの価値観を信奉する集団では、どこにでもある、ありふれた現象ですから、別段、おどろくようなことでもないのです。

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ところで、このような「愛」が教会文化に与えている影響は、ほとんど決定的、と言っていいものです。ですから、これから、この『教会用語の基礎知識』を読む際、この「愛」の意味と、「通りよき管となる」という構造を念頭においていて下されば、おおいにみなさんの理解の助けとなるものと確信いたします。

また、この「愛」の項では、信者の神に対する愛と、信者の信者に対する愛について、ほとんど説明いたしませんでした。これらは、それぞれ「明け渡し」「一致」の項までお待ち下さい。

次回は「あかし」