聖研に王道なし!?

はじめに★前提


いやはや、聖書とはまことに不可思議な書物であります。

40人以上の著者が、およそ1300年にわたって書いた、66巻もの長編、しかも、その内容は多岐にわたりながら、なお統一されたテーマを持っている、と言われています。

しかも聖書は、世界の歴史に多大な影響を及ぼしつつ、滅びることなく、完成からおよそ1900年を隔てた現代においても、なお隠れたベストセラーであり、世界中の大部分の言語(1982年、世界聖書協会連盟発表によると、1739の言語。内訳は、全訳277,新約のみ518,部分944)に訳されており、また、聖書学は、最も発達した学問のひとつ、とさえ言われているのです。

私は聖書を読みはじめた頃から、なんとかして、このばかでかい書物を、てっとり早く、しかも完璧に理解してしまおう、とやっきになったものですが、どうもそのたびに失敗に終わってきたようです。

学問に、いや、聖書研究に王道なし、と謙虚に悟りをひらけばよいものを、いやいや、もしかしたら、という気持ちで、自らの王道求めて、このような公開紙上聖研という、あまりにおこがましくも恥知らずな試みを始めてしまおうとしているわけです。

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さて、聖研を始める前に、どうしても言っておかなければならないことがあります。

それは、聖研をする私が、聖書をどのような本として見ているか、という立場のことで、それを明らかにしておくことが必要である、と言われているらしいのです。

あまりむずかしいことはわからないのですが(なにせ、はだかの王様ですので)、私が直感的に感じるのは、そういう類のことは、実際に、ある程度聖書を読んでみてから判断することで、どうも本末転倒してるような不快感を免れないのですが、どうもそうではないらしく、また、あえてやれ、と言われれば、できないこともなさそうなので、やってみることにしました。

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最も大切なことは、聖書は神のことばである、ということです。

この「神のことば」という言葉を厳密に説明しはじめると、とてつもないことになりそうなので(実際、このテーマについては、現代の神学者たちの論議や、教会の諸宣言などが、さまざまな言葉や定義を尽くしていますが、今なお、もの足りない様子です)、『はだかの王様』では、簡単に(!?)、次のことを前提として考えていくつもりです。

  1. 神は、ご自身が人間に知ってほしいと願っている情報を伝えるため、選ばれた記者たちを通じて、旧新約聖書66巻を著わした。

  2. 聖書は、それが書き著されたときから、神の特別な守護の下にあり、その内容は、神が伝えようとした情報を、誤りなく現代にも伝えている。

  3. 人間は、聖書を読むことで、神が聖書によって人間に与えようとしている情報を得ることができ、また、行動選択することができる。

だいたい、こんなところでしょうか。

さて次に、では、私が聖研に用いるところの日本語の聖書、つまり1973年7月1日発行、5刷の新改訳聖書が、はたして聖研に堪えうるものかどうか、という疑問がわいてきますが、原語であるヘブライ語やギリシャ語の知識のない私といたしましては、この手元にある聖書を信頼した上で、他の日本語訳や英訳などを参考にしつつ進んでいくほかない、というわけであります。

次回は「序論★情報の目ざすところ」