クリスチャンってどういう人?(2002年10月)

ある友人からもらったメールに対するあかぎまんの返答メールの一部を紹介します。ただし、この返答メールは実際には送信しませんでした。ちょっと肩に力が入りすぎてて、かっこわるかったからです。

ここでは「理想論を書く」と言ってますが、ほんとうはこれがクリスチャンの普通の姿であるはずだと思ってますけどね・・・

あかぎまんのメール

△△さんって、クリスチャンですよね? クリスチャンってどういう人なんでしょうか?

今から理想論を書きます。

教会っていうのは、内にこもるものではなくて、常に外にむかって出ていくべきものだと思います。福音を聞いていない人、貧しさのために死のうとしている人、迫害や暴力で傷つけられている人、病気に苦しむ人など、助けを必要としている人はいつの時代もたくさんいます。良きサマリヤ人をお手本にして、どんどん手をさしのべていくべきなのです。信者同士で仲良しグループやサークル活動をやってる暇などないはずです。

今の信者は生活が安定している人です。自分の財産も自分の時間もあり、余った部分で教会に来ているのです。それは「趣味」であり、「おたのしみクラブ」です。金持ちの献金です。貧しいやもめの2レプタを「誰よりもたくさん投げ入れた」と言われた方が、教会のかしらなのです。

これは一例ですが、教会は、教会堂など建てるべきではないのです。何のために借金までして会堂をたてるのですか? そんなお金があるのなら、どんどん貧しい人たちに与えればいいのです。教会は、借金してでも教会堂を建てる気はあるけど、今にも死のうとしている人たちのために、借金してでも救おうという気はないのです。

隣人愛とは何ですか? 使徒の時代の教会堂は信者が開放した自宅でした。信者は、自分の財産を全てささげました。神さまのみわざのために使ってもらおうとしたのです。パウロは、私の手は他人のために働いたと言っています。自分のために働いても文句ばっかりいってしまうのが普通です。

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ・・・このことを本当に実行しようとしたら、その一事だけで、他のことを考える暇などないでしょう。
イエスさまは、今のクリスチャンや教会の姿を見て、大いに心痛めておられると思います。でも、それは教会に限ったことではなく、僕自身の問題なのです。

僕は、自分の幸せや快楽ために新しいパソコンや車を欲しがり、お金を使います。死のうとしている隣人のことを見て見ぬふりをして通り過ぎています。
神さまはとんでもなくあわれみ深いお方なので、こんな僕でも赦して下さって、きっと天国に入れてくださると僕は期待しています。でも、天国で受ける報いはないでしょう。僕は天国に宝を積んでいません。この世で楽しく快適に暮らそうとしているだけですから。

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ・・・僕は、これがまず第一に行うべきことだと思っています。「第一」と書きましたが、実は「第二」はありません。最初から最後までこのことを行うのです。他にすることなど何もありませんし、そんな暇もありません。
僕にとっての隣人は、まず妻、そして家族です。妻と家族を愛する・・・これだけで、最初から最後まで僕の一生は手一杯になるでしょう。

△△さんは何のために教会に行ってますか? 自分の心の平安を得るため? 気持ちいい時間を過ごすため?
受けることではなく、与えることを考え、実行してください。あなたの日曜日の過ごし方も、あなたの人生も変わるでしょう!